季節の馬車

佐藤惣之助




  飛雄する東部亞細亞人の爲めに

 われわれは今やらなければ駄目だ。東半球の太平洋の藝術家として、青青とした若い日本人として、あたらしい神神と民族との史詩や大きい祝祭の、精神的な戰ひを。そして殊に日本人が「飛雄する東部亞細亞人」のために、南部東洋の島島の娘等のために、又は北部亞細亞大陸の若者のために、まだヨーロツパ人の捉へる事の出來ない大太平洋の波濤のページに、あたらしい豪華な景觀と高遠なる史詩や劇詩を書き、日の出づる美の海洋線を清め、王政復古のやうに、昔の榮華を盛りかへし獨自の艤裝を凝らして世界の港へ出帆しなくてはならない。
 西部東洋の土耳古・阿剌比亞・波斯・印度等はヨーロツパにやられた。精神も神神も娘子供まで征服された。新月と黄昏の國は亡びた。しかし古いわれわれの荒磯や島や黒潮帶は犯されぬ。われわれは目が醒めた。早くヨーロツパの電線や瓦斯や機械をめいめいの感覺や精神からはづすがよい。そしてもう一度野生にかへつて[#「かへつて」は底本では「かへって」]太平洋を祭り、日と曙と波濤の中から、未來の善美や眞實なる藝術を生め! 日本はその冒險航海家の第一人者となる必要がある。それでなければ支那やフイリツピン人の下に立たなければならぬ。それでは駄目だ。この東洋の最端にゐるわれわれは海と嵐の荒磯の子だ。決して巷の漂流人や草原の牧羊者ではない。われわれは漁夫の子だ。百姓の船員の、そして太平洋の無名の靈の子だ。われわれはヨーロツパの教化を受けたくない。徒に外國語の説明者になりたくない。佛蘭西人の流派に從ひたくない。
 ほんとうにわれわれはやらなければ駄目だ。一代も二代も通して東洋文藝復古期をつくり、ヨーロツパと戰はなければ、東半球の南北にかけて、どんなに未知な靈と力とが、波濤と岩との間にかくれてゐるか、眞の黄金期が埋もれてゐるか。毎日の曙と花と天とを見てもすぐ感じられる筈だ。それでなくては大太平洋もこの蒼古な美しい國土もわれわれに與へられてはゐない筈だ。
 千九百二十二年夏
佐藤惣之助

  青艶

四月の朝燒けにすき透り眼を染めて
竹の林をあるくわかわかしい靜かなはなやかさ
うす紫の影を吹きわけいづる八重葎と春百合の
やはらかに風のわたる清らかな心地を
雨あがりの黄金のかがやきに照りみだされ
ぬれたる羽をふるひ眼の光りを洗ひ
いのちの滿々たる曙のほのほをかんじつつ
又は遠くあでやかなる人の眼ざめを思ひつつ
ほのかなる霧に浸されながら谿道を下る。

  色と影

僕はこの四月の村村の谿と濕地をつくる
いきいきしたものの色と影との反射を
洗ひたての肉體いつぱいの楯をもつて彩らう
うつくしい力とほのほとの自然のかまどから
ふきぬけいづる情感と愛戀との
きよき爽かさにみちわたるこの名づけやうのない深いもの陰を
霧のやうなあたらしい水の智慧をもつて
あるひは夜の青みがもてる匂ひと隈をもつて
僕の中に滴るいのちの思ひの深い濕りとしよう。

  祕書役

僕には名目も何にもない自然の祕書役の椅子を與へてくれ
僕はその椅子を殊に名もなき山の木と
いきてはねかへる青い蔓をもつてしばりからげ
誰もとがめもしなければ見ることもない村村の
その又荒れ狂つてゐるままにすててある
あたらしい地球のこのするどい境地へ置かう。

  清けき饗宴に

春が來てふたたび村へ來るといつもながらの
清けき饗宴に時間たがはず參列して
おのが健康とあたりの新大氣がしづかにめぐりあひ
ふたたびかわかぬ喜びの海に生の焔をたのしみ
あざやかなる勢ひとふくよかなる滿足に染まり
あます處なき地球人としての歡喜の手を
生墻いけがきのやうにあをあをと身につなぐべく。

  仄かなる午前の風

村村へつづく庭の木の盛り上れる方より
わかき午前の日のかがやきと匂やかなる風は
いきながら空氣の娘のごとくにも近より來る
わが影をきよらかにめぐり半身に日を彩りつつ
そこらなる花花と蕾とをあたたかく一致せしめ
うすき喜びの電氣を燦めかして
椅子のほとりを黄金の日時計ともうたがはしめ
又はうつくしき地の光明臺の如くにも
はるかなる南風のほのほをひびかせ
うちあけたる朝の情熱をひたひたと滴らし
わが身の上を青空のさなかにすき透らせ。

  清朗

古き寺の庭のまはりにひびく雜木の濤を
ほんのりと吹きとほらせる風のいろは
午前の黄金とあたらしい影をはつきりとはなち
花もつ梢の片面をうすもも色に照らして
青みゆく影の動き多き西邊の丘の方へと
そのいきながらの羽とほのほをなびかせ
ひそかにちる花片と青い昆蟲の空中へ
あざやかなる寂莫の色をあふりいで
やさしきものの熱情をより明らかに
發散する露と雫の日を映し
杉の匂ひのしみる、よりよき鐘の音のする陰へ
あかい鳥の巣や雲を焚く青空をあたへ
熱い豐滿な正午の明暗をふりしきらせつ。

  この非情なる寂寥こそ

村の高みへ思ひもえつつ歩み出ながら
あたりの大氣と景觀にみつしりとうちしめり
曇り來れる四月の色と影をいつぱいにして
はるかな村村の山から來る風と寂寥とに
思ふさまただひとり吹かれぬく事は
目に見える感じをとらへる以上に強い
このあたりから吹き起る名もない寂寥こそ
西風がもてる地球のかすかな薫りであり
又われわれの思ひと官能を洗ひきよめる
生の極彩色の空中からの
神神しい情熱のもつとも深い幽麗な影と
かるい愛情にぬれて村村へくる
水よりも直接でうつくしい生の瀧である
われわれはこの力と清きつめたさのために
われわれの惱みと切ない腐りをりさり
雨で洗つた枝枝のやうに勢ひをもりかへし
又われわれの生む事の出來ない自然の健康慾を
しばらくでも身に飾り波うたせ
時間が畫く未來の美しい一角へすすみ入り
一歩一歩生の色どりを深め得るにちがひない。

  薄暮

いろやかに、にほやかに、ものの濕りと匂ひを
ひろがりゆく影のインク色にひたして
人はしづかに深みにかへる情熱を
大きい眼をもつてあたりいちめんに發射する
庭のむらさきなす紫荊の枝枝に
ひときは村のはてなる黒い檜の影へ
あきらかなりし空中のほむらを塗り
うすうすとにじみ來る透明なる「時」をかかげ
竹のあたりへおちる小さい響きを感じながら
もつとも色のない小さいオキザリスの花を
そのまつ毛のまつ先に捉へようとして
彼は音もなく煙のやうにひとり椅子から立ちあがる。

  魔法使

僕はみる
この大きいつやつやした朝紅あさやけのなかの
色どりふかいものの重たさかるやかさの上に
又はいきいきしたる美しい熱のむらがりと
匂やかな明るい日のあらはれのうちに
闇からでてすつかり洗ひ清められたばかりの花のほのほから
青青として枝枝等のかげを
すき透らんばかりにあちこちと隱れてゆく
大きい春といふ神話の魔法使の影を。

  過ぎし日

うつくしかつた情熱の煙ともわかれ
もつともわびしい田舍へやつて來たものにとつて
四月のうすい春蘭やまつ白な木の花の
ざわざわとして吹きすさぶ色にふれるとき
さらにさらにあざやかな淋しさが
夕暮の匂ひとともにしんめりと身にながれる
いかなれば今さらに自然界の春の
こんなにもすがすがしくはれやかなるぞ
その眼その身にも似る事なく
日日に遠のく美しいいろいろの思ひを
いきいきととびちらしてしまつて。

  二重の惑はし

ひそやかに色の濃い四月の夕ぐれの
どこともなくうすけむりにつつまれた地球のうつくしさ
もうろうと立ちどまつて獨り眺めてゐると
眼に見ゆるものすべてが情熱に映り映え
憂はしくもものによりそひて
しめやかなる粧ひをつくした女のやうに
あやしげに燃ゆるふしぎな姿もかんじられ
その奧の方にかくれてゆくほんのりした夕映を
うつとりしながら戀ひしたふ。

  匂ひと響き

藪とすももの花のあらしのなかから
いひ知れぬうすい感じと影がとびちり
曇つてゐる村村と僕をあをあをと塗りつけ
ごくひそやかな響きをつたへては見えなくなる
僕はそのうしろと前と色のよい空間へ
自分の持つてゐる曇りも闇をもとばしてしまひ
眞晝のうすい月の色香をかんじ
雜木のむれを吹き透す生氣にふれ
何のあてもなくほんのりと自分を失くしてしまふ
僕はその色とも水ともつかない薫りを愛し
このうつくしい響きのなかから
生の幽麗なる姿に似たものをかんじはじめる
おぼろげなるそこら中の色と形とに
ふしぎな情愛の日のふくらみをふらせ
無名の生氣の大きい蒸氣に
いつともなく沈みながら。
(武州折本村にて)

  四月の影

四月のれたる午前のそよかぜは
村村のひそやかなる青紫の影を吹き
滴るばかりに細かな花の盛りを
ひかりと熱とのあきらかな炎に染めなし
もの皆うつとりとしめりのある影をたのしみ
かろき枝枝は大氣の匂ひを拂ひては地に塗る
かかるもの影を歩めるものこそ
いともやさしき靜かさにみたされ
はれやかなる雫のごとく玲瓏として
おのが心のうちに祕められたる
もつとも小さき、もつとも無心なる
新らしき情怨を花火のごとく身に焚いて
そのひそやかなる朝を尊ぶであらう。

  めぐりあひ

ふかい年月のあひだ僕のこころに
るゐるゐとしてかくれてゐた美しいものが
今こんなにも明るい地球の春の朝紅あさやけとなつて
寶玉をふくんだともし火のやうに
かくかくと僕の眼にうかんで來たのか
それは逢ふべくして逢へなかつた
心の城の姉妹のやうに
このきよらかな朝の境界線にたつて
ふたたびめぐりあひし喜び!
あらあらしかつた僕は今さらに
その尊い姉妹を尊敬しようとおもふ。

  大きさ

田舍にゐるとただ明るく大きくなりたい
大きい感じでいつぱいの靜かさとだんまりの
この上ないあたらしい透明な場所で
林から藪へ、川から畑へ
丘のまはりときれいな雲のまはり
はてしもない清新な眺めからくる風
その大きいあざやかな色と重みをもちたい
田舍の大きさこそ自然の中央で
誰もこの大きさに不服をとなへるものはない
萬象の目のさめるやうな大きさ
あらゆる小さい世界の最もはづれの
ああその無形な
孔雀いろにかがやいた四月のぐるり

  寂寞

僕はそこここの植物の魔法のやうな色どりに
氣の弱いうすい情熱をひそめて行かう
身體中についてゐた音と影を
すき透るやうにふるひ落してしまつて
雜木林や畑のしめつた大氣にしたしみ
青青とした五時頃の靄を感じ
この地球がより深みへ廻り來り
よりやはらかな氣流に塗りかへられて
大きいエネルギーをたつぷりあびてゐる時に
空氣の笛をそつとふいて
どこまでも村村をつきぬけよう。

  去年と今年

去年の四月には
きよらかな血をもつた船乘りのやうに
僕はこの麥と木と夜の村を愛しながら
いちにち飽きる事もなく喜んでゐたのに
今年はまるで日のりのやうに氣も重く
怨めしげな花と大氣の思ひにのりうつつて
ほのかな天の明暗のみ眺めながら
青ざめた一本の樅の木のやうに
自分のつらい孤獨な影を藪の上におとして
よびかへす事も出來ない昨日の艶情を
幽かな幻の色に描き
どうしてかうも夕暮の水の花を慕つてゐるのだらう。

  青胡瓜

昧爽よあけの胡瓜をもいでくれ、從妹よ
風に洗はれる三日月のやうな眼つきをして
僕はその青い小さな錨を畑でたべよう
何よりもうれしく霧をかんじ、露にしみ
僕の目ざめを感じてゐて
朝燒けの光線に吹きつらぬかれ
僕の眺めの中に
鮮紅色の季節の娘のやうに扮裝して
朝の胡瓜をもいで來てくれ。

  大根の花

おしやれ娘よ、おしやれな友よ
ではもうここらでお別れしよう
これから先は寂しい何もない處で
雜木林か畑のなかに
うす紫のほんのりした花が
何の氣もなく咲いてゐるばかりで
味もそつけもない、あたらしいいつもの風が
氣も弱さうに、はらはら吹いて
季節すぎの日の色が滴るばかり。

  幽閑

女達があちこちで
水のほとりの木の間や葉莖の影にひたつて
青い豆の莢をもいだりこぼしたりする時
品のよいまつ白な鷺の群れが
わびしげなる松の山邊をとぶとき
しめりふかい村村の大きい眺めにひたり
私はうすい煙草の煙りを
ほう/\とそこらの木陰にこめながら
用もない午後の照る日をさけて
一つの思ひを風にちらし、水にうつし
はるかなる星座をわたつてくる
明星色の新鮮なかがやきを
口笛にうつして靜かにあゆむ。

  明星

清雅な樅の立木の
すんなりした枝の上にあらはるる明星を
ひとり眺め、眺めては身に感じ
幽寂な色の夕ぐれをしたしまう、いそしまう
あかるいあのほんのりした光をあび
影を愛し、音色ねいろを思ひ
月影色の誰かが、藍色の扇をひらき
遠い私をひそかに眺めてゐてくれるやうにと
その光の扇のさやかなる風に
身をふれよう、氣を清めよう。

  青金

一つの地球儀をしづかに庭へ置いて
ひらひらする多くの航海圖をひらき、よみふけり
影と光をもてる感覺をちらし、ちらし
シヤツにのぼつてくる花冠のやうな日ざしを
いつぱいに肩にうけて
さて僕は精神の港を自家の地面へ畫かう
青青とした金色の葉むらと日の光りに
さらさらと色づけられた六月の正午の
華やかな點景の中心として。

  水のほとりにての感想

幸福はとんでゐる
自然の快樂もとんでゐる
明るいあちこちの誰もゐない處に
一日の虹のうつりかはりと
めぐるあたらしい季節の馬車が
われわれの頭上いちめんに通行する
すき透り、吹きまはり
精神の尖端の波止場を優しく、美しく
爽かに、二重の耀きを水の面に見せて
朝紅から夕映えの尺度をもち
季節は麥の穗のやうに映り、映る。

  夏霞

つづられ懸る木の間の拱門アーチから
水星いろに照りうかぶ野面ながめつつ
ちらちらと幹の影をぬひ
一歩一歩と水をしたひ、幽かなる空氣をうねり
髮をふかれ、感觸する枝に近より
片田舍の疎林を喜び、淋しみ
ほのかな蝶蝶が畫く風の點景を
わたしは青い西洋紙の手帳にうつして
はるばる村の果てよりくる日※(「日/咎」、第3水準1-85-32)りに
うすい午後の情愁を吹き醒まさう。

  木の間深きを怨みて

私はここに坐り、ねむり又ひとり醒める
あまりに蒼艶なる爽かなけむりにつつまれて
光線のある愁ひの情を
青い響きのする石と水の闇にひそめ
まつ白な寺の壁にうつる六月の朝を
青銅色の姿にぬりこめつつ
うつうつたるこの頃の情念にむかつて
より夕暮のある、より感情ぶかい
きよらかな色洋燈を身に點さうか。

  情炎

朝風よ、霧のある庭よ
あたらしい葉をむらがらせた樅の下に
今日もわたしは生木の椅子を置いて
あの木の間から孔雀色の衣裳を引いて
しづかにあらはれた昨日の夕暮の
あでやかなりし人影を待つてゐる
鮮かなヂキタリスの花の塔の影や
あたりにちつてゐるムスカリの白い午前の色に
ほのかにのりくる遠い朝景色を
もう一つの空しい椅子の上いつぱいに眺めて
木の間からあらはれる虹色の頬の人を
朝風が艶やかに照り出してくれるまで。

  青梨

水よりしづかな、しづかな
葉がくれの、曇れる野の色に
つやつやした風のふるるところを愛せよ
その颯とした新らしい匂ひと
そのささやかな梨の實の
午前中の青い孤獨が
靜かな汝の眉の上に
畫のやうに懸かるところに立つて。

  智慧の輪

見わたすかぎりの雜草世界!
なんとすずやかな線や旗ではないか
匂ひと色とをはつらつと展べて
水の世界から陸と氣の世界をつづり
こまかな網翅類をよびあつめ
その清らかな智慧の輪を
空中につらね引まはし
どうしてそれをほどいたらよいのか
優しい祕密の花文字を
るゐるゐと私のまへに盛上げてくれるではないか。

  柚の花

幽蒼な庭の時計のほとりから
風致にしたたり、吹きかかり
精緻な、それでゐて品のよい思想がふる
白い鷺がうす曇りの水をとぶやうな

家の中のしづかな精神へ
正午の匂ひをあびせ、あびせ
蔭多い微妙なところから
すつきりとして青い、さらに白い
こまかな、つよい思想がちる。

  千鳥の帆走

空氣の笛を吹けよ、若者ら
爽涼たる寶石いろの砂原を
あちこちと帆走する千鳥を喜びながら
あの色のよい形と聲の
朝の半影を身にうつし、影を射つて
海青いろの波濤と岩との
このわびしい清らかな場所を
遊星の羽のやうに耀やかしめよ。

  水星

いまは地球がひつそりとして
あだかも水星の霧と曇りの眞下にあるのではないか
この蘆と水とのまんまんたる
片田舍の眺めを思へば
うつうつたる情怨のこもれる
又はしんめりと照り漂ふ夕の色の
青い遊星として寂寥ばかりの
星の時代が地球にもあつたであらう
その清らかな空中の旅よ

  風力計

單檣も、双檣も、四本檣も
噴水のやうに氣中に立てよ
若やかな夏の禾本科植物よ
われわれの野に照る感覺は
青くて圓い天の弧のなかに
ぐるりの地平線の圓盤上に
あちこちとすくすく立てる
みどりの風力計を發見して
われわれの散歩に恰度よい
場所と風位を空中に自記し
ありあり時を讀得る有難さ。

  莢

もめんづるや草合歡の
すきとほつた船を見よ
豆の橈手が十二人も乘りこんで
がくの船首を空中にたて
大氣の濤に小さい造船所をのこして
六月のあかるい世界へ進水しよう、しようと。

  行進曲

蒿雀あをじが鳴いて
水がしたたり
風が艶をぬり、雲が翳りを掃くのは
われわれのさびしい精神を
空中へ、より高みへおくる
あたらしい行進曲でなくて何か
その笛やシンバルを愛さずして
どうして野原を歩き廻れようか。

  紋章星座

それなら若い野あざみの發生状態を
空中の双眼鏡で垂直に見下ろさなければならない
葉が互生し、羽形に分裂し
刺状の鋸齒が四面にきれて
いきいきした眞青な紋章の星座が
はつきりと地上に浮彫されてゐるのを見る爲めには。
――畫家Sの話――

  蝶の出帆

蝶は出帆するよ
四月のすつきり高い枯草の突端から
毛蟲となつてよぢのぼり、よぢのぼり
その毛製の裝飾をぬぎすてて
陸界の波止場をけり
あたらしい氣體の世界へと
きれいな、綺麗な蝶と生れかはり
風に祝はれて出帆するよ。

  忍冬花を啖ふ

みんなして、たつぷり黄金いろした蔓を
ぼさぼさと引きまはして脣をすりつけ
六月のあかるい眞晝の蜜を吸はうよ
たまらなくはれやかな匂ひが
藪から出てくるわれわれを夢みがちに色づけ
女なぞは子持の白鳥のやうに
まきついた忍冬の花飾りを
むしやむしや啖べる季節になつたね。

  南かぜ

この曇り日に、いちめんの晝顏が
色のうすい風の盃をゆすり、ゆすり
あちこちと咲きまはつてゐるところ!
はるかに川邊のかたより、ゆるりかんと
帆は雲にふれて消えもせず、ふくらみもせず
陽氣な、それでゐてどことなくむなしい熱氣が
ぽつぽと空中にもえるとも感じらるる
田舍娘よ、ここへ來て寢ころぶといい
うすい孔雀いろに曇つた午まへは
うつくしい怠惰な色もわるくはない
眉をさつぱり落したやうな
この晝顏の淡々たる砂原では。

  幽棲

風致に乏しい畑のほとりの
さらさらなびける眞夏の柳は
晴れ曇り、色もあかるくこつくりと垂れてゐる
その中に午後の雀はかくれ、鳴きしきり
又はたはたととびさりて、風の音さやかに聞え
ひようひようと海近き空氣の鳴るばかり
雀よ、色も乏しく、もの寂びて
この七月の滿月近き晝すぎの白い月に
ちしやちしやと何を騷いでゐる
ゆるる柳の枝と葉の中には
われわれの目につかぬ無爲の幽居が
ちらちらと日光を通して空中にながれてゐるぞ。

  信仰への感覺

さらりとしたる新樹の枝枝に
うすももいろの五時の日が色づく
くたびれて、さてあらゆる興味も去り
昆蟲も滿足し、われわれも妙に淋しい時ではないか
少年よ、麥酒を買ひに走つておいで
こんなにも華やかにして寂寞たる
無人の林のつらなり、舂く日の照りかへし
私は空氣の色にやけ、日に乾いて
もう村を歩き廻る氣も起らぬ
かういふ時に、ああ古い鐘の音よ
私にかすかな、かすかな
大昔のやうな信仰への感覺が
うすうすと目ざめて來たならば
どんなに今の私は美しからうに。

  美しき冷感

障子をからからと開け放ち
さて水無月の灯を膝のほとりに引きよせて
宵の色こめたる野の面にふれよ
走る灯のはてはもうろうたる水となり
しつとりと藍いろの闇は獨座の裾をめぐる
あたらしき家の香を喜べ、私よ
傾けるオリオン星は肩のほとりに火花を與へ
ほのぼのもゆる庭のヂキタリスの影をはしる
おおこのひろびろとして、身にしみわたる
うつくしき我が宵の冷感!

  農婦について

眞夏の帆のまへに
頬には朝紅あさやけ、額には夕映をまきつけてゐる女達!
そしてゆつたりと歩み、麥をあふり
黒い眼には輪が廻つてゐる夜の焔たち!

  車前草の傲り

荒れはてたる砂原をあるく者は
寂寥たる言葉を、或は夕映色の眼鏡を
何等の魅力をももたぬ車前草にさへふりそそぐ
活然として傲れる車前草!
青い小さな鰐か紐のやうな若い花の髯
または花を彗星のやうにつけた老いたる花
くるくると空中に遊ぶ葉のむらがりに
快樂をそそぎ、風吹く午後の鬱血をそそぎ
一個の味氣なき驚異を發見したと叫ぶ。

  儀式

村へくると僕は肩の圭角をといて
足を歩くにまかして何の制限も加へず
眼のかがやくままに、血のあたたまるままに
正直に自分を風のなか日のなかに
ときほごし、ときほごし
大きい呼吸とのろい運動とにつれて
この地球への尊敬と愛情をそこら中へ
ゆつたりとしてふりまいて歩く

  棕櫚の花

空中から
青い扇をかさね、かさねて
棕櫚は黄金いろの花をひろげるよ
ねぼけてしまつた古い黄金の綱に
かすかな昔の回想を編んで
素朴な、素朴な、今時はやらない
もうろうとしたその回想を
まひるの人人の上に影としてひろげてゐるよ

  所有權

村村の靜かな地主達!
僕はこの立派な雜木林と草つ原の
あたらしい二重三重の權利を感情で爭ふ
僕は君達の風と大氣と精神を
木木がしつとりととりかこみ
どんなに地球の生の神神と
あでやかな季節の娘たちによつて
大きく味方され力を得てゐるかが
うらやましくてたまらないから。

  松の山

かさなり、うち重なり
松の山、更に松の山ばかり
いくら眺めても松ばかりの
あざやかな酸と、影つた緑青の
すが/\として味氣なき田舍景色よ
颯と朝の明星をかかげて
七月の白鷺の群れを放ち、はなち
ルビー色の火を焚けよ
はるかに障子のみ眞白な小家。

  旅行

旅をしよう、爽涼たる青年時代に
水星からでも降つて來た人のやうに
ちらちらする宵の情炎をおびて
怒濤のすぐ傍に坐つたり
古寺の幽繪のほとりを歩いたり
青ざめた博物館を通りぬけて
ただ二人のほかは星と町と村との
清らかな自然色の廣場があるばかりで
千鳥と千鳥がとぶやうに
春と秋との愛情をむすび、羽をそろへ
新らしい快樂の壺が破れるまで
影繪の人物のやうに旅をしよう。

  青根への道

馬上に、一人ゆれる椅子をかけ
空中にゆられ、風にゆられ
霧は眞青な落葉松の
矢ばねから矢ばねへはねかへり
幽かな空をわたり、つめたい木陰をつたひ
私は馬の廻るままに山をめぐる
得もいはれぬ靜かな朝のはれゆく愁ひよ
ゆたりゆたりと谿の上をそひ
もも色の花處女袴に眼をはなち
深みゆく山の影多き心を
霧いろに青む外套に蔽ひつつ。

  雪と瀧

空氣に色をつけよ
僕は谿の空中をへだてて
雪の山嶽の裂け目から
ぼうぼうと落下する瀧の花火を見つめる
こんなにも雪白な、生きた寫眞を
鮮かな感覺をもつて切斷し
きよらかなる、きよらかなる情感を盡して
僕は尖れる帆立貝のやうに
眞晝の扇をうちひらく
大氣よ、色を點ぜよ
あまりにかがやき、あまりに雪白すぎる。
(峨峨温泉にて)

  虹の懸れる幽愁

限りなく、かぎりなく
この眺望を透す爽かな情感に身をふるはせる
うしろから吹き下す西風も眉にしみ
青燦としてうすむ青朝山の角より
夕霽ゆふばれの虹くつきりと吹きあげ
うねうねと白みゆく激流も遠くほのかに
全體は流麗な青い金色の靄とかはり
僕も馬もキラキラと雨の雫を滴らして
今放電的な虹にすき透つて山を下る
限りなく、かぎりなく
この幽幻なる清きわびしさに
耐へられず、たへられず。

  午前中の精神

雪のある、うすあかい原林を
踏みしだき、かきわけ、つき進む僕への
皚皚たる高山の片照りの光線
喜び、喜び、發散する清らかな瀧の花火

雲はめぐり、風は熱い思想を洗ふ
はつらつたる空間の川、幽雅な七千呎の電氣風
僕は朝紅のある、水のひびきのする鳥への感覺をもつて
正午を組みあはす嶽へのぼらうとする
こんなにも僕を涼しく、氣も輕く
高氣壓とともに高みへ導く
おお青青たる午前中の精神よ。

  懷古

カーキいろの山脈の皺に夕映が滴り
空氣いろのつよい反映が加はつて
爽涼たる景觀の線を發してゐるのを見ては
どうして旅行者自身の精神を
鎭靜な香爐のやうに思念せずにはゐられよう
あの寛濶で古雅なひろがり!
未來への探照燈めいたうすら明り
そこに重重しくも老いたる地球の
時間の幕と波濤を重ね、かさね
青黒き深林帶へまで、又は谿の陰影へまで
ほがらかなる夕映から夜の色を塗りかへようとしてゐるのを
こんなにも寂默として見送り、見送り
自身が自然への雲翳として存在しては。
(藏王山にて)

  爽怨

僕のさがす紅石楠の花は見つからない
雪にあをあをとかがやいてゐる嶽の突角にも
ほのかな原林の枝や神經質に白い幹の間にも
又青と闇とが光線の瀧をあびてゐる谿間の崖にも
自然に生えてゐるといふ鮮紅色の花は見つからない
僕はなんとも知れない爽かな怨みにもえる
まるで青青として情のふかい神話の妃が
その頬を染める顏料が見つからずに
うつうつと靜かな狂氣に氣がもつれてゆくやうに
僕はひとり岩の宮殿のならぶ
藏王山の影と陰との深みへ下りる。
(刈田岳にて)

  新麗なる眞晝

すさまじきまでに、清らかなる
岩角や深山木のほとりに
みつしりと濕つて咲盡くせる
雪割草や處女袴の新らしき花蕚を
僕は靜かな恐怖の智慧のやうに身にかんじる
これほど雪と西風に洗はれてゐる嶽の
するどい自然色のうちから
あんなにもひそひそと、うすい煙のやうに
僕の官能に色をつけてうつり映える
あのあまりに愛らしい花冠や花序のつらなりが
ものすごいほど清純で、ひびきもなく
喜びに似てさらにふかい
あたらしい無情の溌溂さを光らしてゐるから。

  感

ふかい大きい夜は水と霧にしめり
燦燦たる私の感覺圖を
星くさい石のつめたい匂ひでいつぱいにする
宿屋中の人人はさながら幽靈のやうに
あちこちと燈火の紅のなかをながれ
もうろうとした白い鳥のやうにも見える
ただ私には水音がしみ入り、しみ入り
霧がもてるうすい自然感は人にすりより
白い皿をはひ、浴衣にふれ
金屬のやうなひびきでものいふ女らを
ちらちらする水と燈の中にうかべて
涙ぐましき宵の冷情を發散せしめる。
(遠刈田温泉にて)

  七日原

日のりの陰と雪の嶽から
三十度の傾斜をもつてひろがり
うすら青い、ほの黄色い
虹の出易い、雨を感じやすい
空氣の青藍色をもてる昆蟲が
ぱつとしてはちる雪と雲の日に舞ひ上り
陰りかげりてつひにはほのぼのと
青朝山の影となり帶となり
古雅な六月の月影を展べようとする。

  深き山嶽よりの情

友よ
こんなにも明るい、すき透つた場所
きよらかな未完成な
岩道のうねり曲り、灌木の芽と花のひかり
ここでこそ私は自分の青い情感を
光華印刷のやうに整理しよう
あの巷の本の間にのみ散歩せる神經軌道を
この雪白なる、この幽邃なる、冷情なる
寒氣へまで、餓ゑまで
或は高氣壓に吹き颪される戰ひにまで。

  峨峨温泉展望

青灰色の岩壁の外輪を
あんなにもうねうねと帆走する白雲の塊り
峽中は西風をめぐらした城のやうに
今にも霧をはなち、雨を吹き入れよう
下には阿羅漢の如く浴する赤肌の農人が
物見臺の上にゆつたりと歩みいで
衣をかかへて、遠く陰りゆく日を惜しげに
その青青とした髯を風にすりつけては仰ぐ。

  鹽釜港

今に、いまに燈がともらう
あまりにほのかな櫻と海との
うすうすとした眞晝の風のなかに
漁船の祭りの旗から魚賣の天幕から
太平洋の色やかなる月影がともり、燈がともり
岩と古い家家のある木の間に
老い朽ちる松島の影をはなち、濤をゆるめる
古雅な港がひつそりとして
北部日本の夜の繪を旅人の眉に懸げようと。

  月

はじめてこの藪と水との細路で
あの月影を發見した人は
どんなに深い情怨をおびて
はじめて月の光にうたれた娘たちを恐れたであらう
月はその半顏――片面しか見せもせず
何年も怒りつづけてゐる戀人のやうに
その光りは油も熱も煙もなく
かの女を見るものはおのづから發光して
死の色をした透明な愁ひをあび
それにふれたものはいつの間にか
うす紫の青い世界の者となり
つめたい光線の花束で
空間にしばりからげられてゐる
靜かな自然の女王の屍と
つれ立つて歩くやうになるではないか。

  月

ほんのりした空中の窓よ
あざやかな時間の運轉者が
せつせと月を洗ひ清めてゐるよ
旅行者よ、農夫よ、航海者よ
その頭の中に燈火をつけよ
日光をもたない囚人もぬす人も
いそいで美しい影の松火をともすがよい
月は自然の幽靈であるから
一つの眼のうちにこもつた幽情を
地上へ映しながら光と陰の文字をかくよ
きよらかな、清らかな
寂寥と光明の今宵の晴れた
ほんのりした空中の窓は開いてゐるよ。

  月

半圓形の天のほとりを
ともり、ともり
月が私たちの頭上に
きれいな光線の航路を描くまへに
船長は月の齡を眺めようし
漁夫は月光と汐の時計を感じ
街道の漂流人は自然のランプを點すであらう
さあ、人人よ、月の前に出よう
われわれの日の光は萬人の火であるが
月は精靈を伴とするものの
ひつそりした燈明臺ではないか
月が大きく照りわたる晩ほど涙ぐましく
われわれの町や荒磯は
華やかな影の繪模樣となる時に
船長よ、漁夫よ、漂流人よ
われわれは自らの生涯を空中に高めて
幽かで、清涼なる光線の盃をあげ
われわれの靜かな影を愛さうではないか。

  月

村村の子供ら
みんなして靜かに月の前にたつたとき
小さい田舍の洗ひ場は
月の幻燈會の入口だと思ふがよい
色を帶びてゐる若い月が
太平洋をはなれると
白鷺や千鳥が青い隱れ家を與へられ
漁夫は水と空との
二重の燈明世界へはひつてゆくし
あんなにも清らかに帆裝した
光線の船が此方へやつてくるよ。

  月

月が娘らのやうに
あかるい海邊で化粧してゐるときは
わたしも喜んで感覺の扇をひらかう
しかし思はぬ木の間に月が出たときは
この村村の天然の釣ランプを
しづかに眺めるにとどめよう
田舍の月はひつそりとして
淋しい人は月の祭を好ましく思ひ
古い昔の世界に遊び
幽情をつくして端坐してゐよう
わたしはそこここと歩きながら
頭に幻をもてる人人にのみ
この清らかな光線の帽子をあづけよう。

  鮮かなる月の夕

わたしは外へ出る
昔の人たちがしたやうに
秋の夕の匂やかな靜まりにたへかねて
水に沈める花洋燈のやうな
ほのあかるい戸外から
木木のほとりにつづく田舍路へ、きよらかな竹原へ
幽かな月の色をゆるゆると愛して
透明な精神のシグナルのやうに
水の娘たちをほのかに思ひ
寂びつくした地球上の家家をはなれて
ほんのりした空中へ
氣病みに影つた私自身を靜かに吹かせようと。

  斷想

僕は感じまい、別れてしまつたといふ事を
いつ逢はれるかしれもしないし
だんだん變つてゆくあらゆる美と精神を
もう斷じて感じまい、思ふまい
匂やかな風のまま何の木とも知れないなかに
ひとり身をひそめて非情な水つぽいものとなり
いつもかはらぬ色やかな村村の春を感じて
決して街のありさまも
あのうす青い思ひのついてゐる神祕な生のいろを
感じまい、思ふまい。

  二つの繪

青藍色の朝となつたではないか
もう私はこの清洒な庭の菖蒲の中から
昆蟲のやうにぬけ出て行かうよ
艶やかだつた夜の繪は
ほんのりおまへの額に消えかかり
うすい涙のいろをもつた陰影が
ものうい晝の月影を映してゐるではないか
別れよう、別れよう
私はこれから又片田舍へ行つて
もう一つの冷たい戀人のやうな
あの寂寞や幽情を訪れようから。

  さやかなる日影

遠くはなれて起き伏しする日は
ちかく在る日にましてさやかなる情趣をかんじ
ほんのりもゆる柚の花の木陰など歩みては
美しかりし夜を思ひ、香氣ある風に濕り
晝の月影の空氣に吹かれちるを眺めつ
ほの青き金色とうす闇にもゆる葉かげの
午後のさびしき椅子を引きよせて
うつとりとした情愛をかすかに清め
六月の庭の影をひとりたのしみながら
何にもまして夏の風をいつぱいにつけて
海からでも來たやうな色どりを引き
夕暮いろの感情にぬれて來る人を
ただあてもなく待つてゐる。

  情怨

たとへば青紫いろの朝霧が
水にうつり、思想に照り
このぐるりの景觀をうつすりと
おまへの感じに生かしたやうな
清艶なわびしさを
どんなに私は身に沁ませて
ささやかな一人ぼつちの影をたわめ
枝深い濕つた紫陽花の花に
つめたい精神をあたへては心をこきまぜ
遠いあの朝の目覺めを感じてゐるであらう。

  華麗な哀愁

ちつとも、清らかでも、純粹でもない
田舍の藪のなかを喜んで歩く戀人よ
狐の葉ぼたんや道端の晝がほが
青艶で、水水してゐて、たまらなく簡素なのに
色の絹と金屬をまきつけて、白粉の光らない
華麗で、ほの青い、そして黄色がかつた戀人よ
あまりに自然色のまま、日影もあらはに
どうしても暗く、悲しく、見れば氣も醒めて
美しいと思つた時を怨むやうな
ただ今日の散歩の後の追憶のみをたのしみに
奇異なほこりと刺激をこきまぜて
私はゆたり、ゆたりとお伴をしよう。

  清婉

影をふかめ、ふかめ、
颯としたうす青い闇で
こんなにも幽かな色艶をした空氣が
ひつそりとつめたく流れてゐるだらう
杉から出て、竹の中へくると
又こまやかで、いつそうさやかな晝ではないか
どこかに雪いろさへあるだらう
その顏が淡紅色をよび戻したではないか
しかしかうして見ると、又
その藍と銀と黒づくめのほつそりした姿が
妙に竹の匂ひがするやうな
むしろ竹よりも朽ちる百合の匂ひがして
一瞬間だけは
清凄といつたやうな風が吹くやうに思へるよ。

  女の幼き息子に

幼き息子よ
その清らかな眼つきの水平線に
私はいつも眞白な帆のやうに現はれよう
おまへのための南風のやうな若い母を
どんなに私が愛すればとて
その小さい視神經を明るくして
六月の山脈を見るやうに
はればれとこの私を感じておくれ
私はおまへの生の燈臺である母とならんで
おまへのまつ毛にもつとも樂しい灯をつけてあげられるやうに
私の心靈を海へ放つて清めて來ようから。

  燦爛たる若者

海の扇よ、吹けよ、鳴れよ
こんなにもあかるく、氣高く
ロマンチックな、ロマンチックな
あざやかな燈臺の新夜の色をもつて
つよい檣のやうに僕を煽いでくれたおまへに
今沛然たる大氣と清らかな風との
放電的な濤の聲をもつてふれよう、ふれよう
こんなにも高い防波壁の上で
川から來た若い白鷺のやうに
七月の北風をあびせ、あびせ
星が光環をつくるやうに發情するおまへを
僕は航海家の貪慾をかがやかして
船乘りがもつ愛情を理解して貰ひ
或は僕の生涯をあきらかにしてくれたおまへを歌ひ
海の扇をひらき、ひらき
清らかな胸のシンバルを叩きながら
さあ、お互ひが一つの新航路へ
いきいきとして漕ぎ出よう、漕ぎ出よう。

  幽艶

女よ、女よ
林中の
陰ふかいすずやかな部屋に灯がともり
おそき月木の間にさしいでて
影をまとひ、色をまとひ
愁ひつつ或は喜び、灯にうつり、影に入り
秋の匂やかな二つの眼をぢつとそそいで
夜に塗られた銀と藍との衣裳を引きゆたね
小さい扇のやうな盃をあげしほの明るかつた時は
曉色なすいつの夏の夜であつたらうか。

ひそかに、ひそかに、女よ、思ひ出て見よ
枝はさつさと風をはらひ、水は月影をふくみ、ふくみ
もうろうと煙の如く醉へば
涼やかなる幽情は灯を消し、月をさへぎり
ほの青き霧の風景を部屋にしづめて
雨の匂ひを感じ、美しき夜氣を點じ
うす紅色の頬に朝のくるまで
その黒髮のふかいものの氣を竹林のやうに
あの木の間の月に洗ひ清めた時は
いかに微かな幽玄なる時代であつたらうか。

  四月の人人

あつい四月の朝の山のなかを
まつ赤になつてせつせとあるきながら
僕は一生懸命に花をつけてゐる名も知らぬ木の花を
おまへの手がもちきれぬほどへし折つては
ふしぎに重たい黄金の旗を引きあげるやうに
ほのかな灌木のなかへおまへをさそひこみ
藤色と黒の衣裳がうすら赤い天城特有の
よい匂ひのする石楠花の花に引つかかつて
さわさわとかがやき日の色にあやめもわかず
朝の紅がおまへの美しい肉にしみ出るまで
どんなに元氣よく歩いたらう

あのおびただしい爽かな空色とうす黄の花が
まつ毛をいつぱいに照る天氣に魅入られ
おまへと僕をほんのりとすき透してしまつて
うす紫の影のある涼しい歡喜が
天然の色のまま名もない木木の花の房を
まるで生きた祭りの
鮮かな情慾のやうに染めたつけ

おまへはあをあをとした孔雀のやうに
僕をいつぱいに愛してゐてくれて
惜しげもなくそのふくよかな羽や瞳を
この山中の枝枝と日の影の方へちらばしてくれるし
僕はこの重たい春の日のつやつやした情熱を
濕りのあるふかい思想のやうにあたため
そのまま滿ちあふれるおまへの呼吸を
つよい肉情の楯のみで
どうして防いでゐられよう
僕はどうして山がこのやうに花と大氣を背負うて
うつとりとしてゐるかをうすうす感じながら
おまへがよりかかつた石楠花の木の花のやうに
全身にすつかり風と熱とをつけて
新らしいおまへを祭り得る力を得たこの腕を
どんなにか匂ひのよい谿の空中へとうちふつて
自分の狂氣をうたひ、無智や本能をうたひ
おまへに僕の精神のいつさいの機能を
何の苦もなく捧げてしまはうと努力したらう。

  春日遊行

おおわれわれのはれやかな
喜びにもえてゐる車がそこに到着したとき
古い千年も昔の都であつた山の村村は
どんなにか春の日に色づいて
うすうすとした水蒸氣にぬれ
いろいろな木の花や蒼ざめた廢道や寺寺を
大きな日時計のやうに
影と形をもつて地の上に畫いてゐてくれたらう

われわれは杉の匂ひにしめつてゐる大きい寺へ
わかい櫻がほんのりとふかれてゐる四ツ辻へ
時ならぬ色や音をこぼしながら
あたらしい影と日を塗つたり亂してゆくけれど
しづかに埋もれてゐる都の記念物や
土壁や石や青青とした建物や寺寺も
あざやかに濕つてゐる風にうつり
ほのかな空氣の中にあらはれてくる

われわれは見る事より思ふ事によつて
さまざまな美しいかがやきを認めたり
古い時間の青い花を見つけ
重たい明暗にしづむ寺院の深さや
樓船のやうな古い木の山門を
われわれの感覺の觸冠でこすつたり
その奧底に沁みてゐる立派な思想や裝飾を
晝の感情の黄金時計で見つめたり
一千年の幽かな大氣の幕をあげたり下したりして
しんしんとしたものの靈と靜かな形を
あをあをと身に印刷するやうに見てあるく

われわれは槇や檜のうすら青い華やかさに
しんめりと濡れたり日に染まるだけそまつて
中世紀の都の人人のふかい考へや信仰にふれ
青艶な黄金と黒との佛像ををがみ
建物の幽麗な古いかをりに悲しくされて
いかにこの古い都が美しかつたか
光華印刷のやうにあたらしかつたか
そのかすかな情熱の夕映を
今木の間や苔のある岩の上にちらちらと
おひつめながらはてしなき大樹のほとりをさまよふ

一千年のあきらかな日と夜の色どり
あかるい鮮麗な大氣の中のうつりかはり
ただ感ずる事によつてしづしづと
われわれをとりまきかがやかしめる思想のやうに
名も知れぬ昔からの木の花と
草やら影でいつぱいの崖も十字路もあばらやも
ひつそりと寂寞の谿にかくしてゐる村
われわれは戀人をつれ生の寶玉をつれ
その古い無形の都に影とともにすすみ入り
春の日の砂金と常盤木の群青をもつて一本の歩行線を畫く

われわれの歡喜はうすい水や花でいつぱいである
地中に埋もれ死滅した都の幽かな燈花にうつり
春の日のふかい大きい奧底の
きらびやかなる闇の力や時間の奇蹟にとざされて
青銅の室内へはひつてゆくやうに
美しい肖像や器具や
あるひは武器と衣裳と大きい寺院の
さらに重たい星色の墓や英雄の名でいつぱいの
このふしぎな村のもうろうたる鬼氣にふれて

そしてわれわれは又そこの夕暮をはなれる
からからといふ生の時計の馬車をかつて
村から村へ村から港へとかへりながら
もう一度日沒の下にある村村をかへり見て
われわれのふかい心の印象畫を
いつそうしつとりとした幽愁の名に染めながら。
(鎌倉圓覺寺所感)

  ここに輯めた詩に就いて

ここに輯めた詩は、こと/″\く最近の作で「華やかな散歩」と「荒野の娘」をかいてから後の、私の變化を語る一つの素描風な短章といつたやうな意味の小曲集である。私は過去の作を再び單行本にすることを好まないと同時に、未來に於て美しく出發せんとする若き人人につれて、たえず私の現在の眞只中から飛躍しよう出帆しようとする者である。私は私の固定を恐れ、定評を嫌ふ。さういふ意味でこの習作的短章も、「荒野の娘」から、この秋に出版する「海洋詩集」への過渡に於ける、春と夏との淡彩な鉛筆畫といふ風に見て頂けば幸ひである。
(琉球へ漂流的旅行に出發する前日。)





底本:「日本現代文學全集 54 千家元麿・山村暮鳥・佐藤惣之助・福士幸次郎・堀口大學集」講談社
   1966(昭和41)年8月19日初版第1刷
   1980(昭和55)年5月26日増補改訂版第1刷
初出:「季節の馬車」新潮社
   1922(大正11)年7月発行
入力:川山隆
校正:土屋隆
2008年10月21日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について