琉球に学ぶべきもの

志賀重昂





※(蛇の目、1-3-27)――絶海孤島の教育

 渡名喜島は沖縄島を離る、三十かいり、周廻二里八町の弾丸黒子のみ。島人往々食糧に欠乏し蘇鉄の澱粉を製す。其製作法たる蘇鉄の幹の皮を剥ぎ輪切りにし乾燥し水に浸し、捏ね、晒し、辛苦容易に非ず。小学校の教師湯を注ぎ予に供して曰く「本島と一個月一回の汽船航通あれども風濤に依り時に汽船の寄泊せざることあり。今回も二個月間汽船到来せざりしが故に全島茶に欠けり。湯を供する失礼を恕せよ」と此の如きの島にして学齢児童毎百に付男女平均九一・一六あり。即ち東京大阪両府よりも上位にあり。福島県青森県の八五・〇〇、山梨県の八一・〇〇と比較して何の感かある。

※(蛇の目、1-3-27)――教育の普及

 沖縄県全体より見れば小学教育の普及は山梨県以上にありと雖も未だ内地各府県の上位にありと云ふべからず。然れども就学歩合の累年統計を視察すれば進歩の急激なる、正に内地各府県の第一等にあり。即ち明治二十五年は男二十、女五なりしもの三十年には男五十一、女二十一となり三十八年には男九十、女七十七となれり。即ち二十年間に六十割以上の進歩を致したるもの人をして隔世の感あらしむるなり。

※(蛇の目、1-3-27)――跣足の生徒

 那覇首里の如き都会の学童すら大概跣足なり。況んや離島の学童の如き靴草履などを穿つ者一人だにある無し。小学校中児童をして実芭蕉、蜜柑の栽培、鶏の飼養を奨励し其の収入を以て書籍、筆墨紙の費用に充つるものあり。内地各府県の生徒見て以て自ら戒むるを要す。



 日露戦争中の琉球人、日露戦役の間多からぬ給料を貯金し戦地より金四円を其の父母に贈り「戦地にては煙草の価貴く喫煙家は非常に困却の状態なり。然るに私は幼少より煙草を喫むべからずとの御両親の訓戒を守り候故其の困却を免れ申候。之を思ふにも御両親の恩の益々高きを感じ候。依て其の煙草代を貯蓄して得たる金を聊か膝下に呈し安否御伺ひの料にまで奉供候」との書面を添へ至誠の籠る所人をして感激措く能はざらしめたる者は、彼の馬琴の椿説弓張月にて知られたる忠臣毛国鼎の在所中城出身の兵卒新垣仁忠なり。又「予て陛下に捧げし身なれば何時何処にて戦場の露と消えぬとも定め難く候。然れば妹の縁談を止め養子を迎へて家系を継がしむる様相願度候」と郷里に書送し、次で候家屯付近に身を挺んで奮闘し傷を負ふも屈せず進み戦ひて死し金鵄勲章を授与せられ年金をも下賜せられたる兵卒大城亀は沖縄中頭郡の産なり。沙河の大会戦の日、露軍の大弾少弾[#「少弾」はママ]霰よりも劇しく我が大隊長日下部少佐の場に斃るゝやアハヤと誰しも思ひける折柄単身霰なす弾丸を冒して少佐の屍を担ぎ来り、天晴れの動作なりとて直ちに感状を賜り三軍に艶称せられたるは屋宜蒲多と云へる其の姓名さへ奇異なる琉球人。其の産所はと云へば沖縄列島の極西久米島なり。

※(蛇の目、1-3-27)――軽便なる懇親会

 久米島は絶海なり。幸に汽船の那覇より出帆するものありたれば之に搭じ同島に上陸したるに島の人々は予が為めに急に懇親会を開かんと云ふ。予は思へらく此の如き離島にて而かも突然来島したることなれば申訳的に島役場の者が五人か七人にても来会すべきかと。何ぞ図らん前晩到着し翌日午後三時よりの会合なるに拘らず来会者八十三名ありしには予も覚えず一驚を喫したり。来会者は銘々自宅より蒲鉾とか豆腐とか豚の甘煮とか魚の刺身とかを調理し別に泡盛一瓶づゝを携へて来会し極めて簡単に極めて軽便なる方法なり。成程咄嗟の間に八十余名の来集し得らるゝも理ありと云ふべし。さて賓客たる予には各来会者の携へ来りたる調理物を一片づゝ盛り朝日ビールを供し真に歓意を尽したるなり。聞く、独逸にて外来の珍客を学会などに招くときは銘々好む儘に一二品の皿を注文し飲食を要せざる者は之を注文せず。又酒を欲する者は之を注文しさて来会者より別段に其席の会費を徴せず唯だ賓客に供したる飲食物の費用だけを出席会員に分担せしむと云ふ。此の如く簡易にして軽便なれば幾回にても懇親会は催さるべし。然れば独逸か将た又久米島の風を習ひ懇親会の方法を軽便簡易にせんことを望む。



 帝国唯一の農学校、日本の学術社会にて黒岩恒氏と云へば高知県の離島及び黄尾島(台湾近海)の地質植物を日本の学術社会に紹介せし人として、又久米島の火山島たる事を紹介し小藤理科大学教授の学説を確めたる人として其名を知らざる者殆んど無かるべし。図らざりき此黒岩氏を多年間校長と戴ける農学校の琉球の北陬なる名護と云へる地にあらんとは。然れども此農学校は一の黒岩氏あるがために驚嘆すべきものにあらず。其組織こそ正に驚嘆すべきものなれ。元来琉球の各村は何れも多額の共有財産を所有し居れるが名護の共有財産は二十万円あり。其の一個年利子一万二千円内五千円を農学校に支出し別に国頭郡より一個年一千円国庫より一千五百円を補助しかくして以て此の学校を最も完全に維持し居るなり。扨又生徒と云へば自宅より米醤油味噌油炭などを携帯して学校の寄宿舎に居ることなれば一個月寄宿料三十五銭校費二十銭を学校に納め別に自分の小遣料五十銭あれば其他に何等の費用だに要せず最も簡易に最も軽便なる方法を採れり。此の如きの農学校、帝国の各府県にありや否や。

※(蛇の目、1-3-27)――日露戦役間に於ける教育

 日露戦役の間内地の各府県に於ては或は教育費を削り或は教員を減じ全体に消極的の方針を取れり。琉球に於ては全く相反し大なる積極的方針を取り思へらく最も手近なる富国強兵の本は実業教育の発展にあり。教育の機関を縮小するが如きは却て国家富強の基礎を殺ぐものなりと。然れば日露戦役の真際中に那覇に商業学校小禄に徒弟学校糸満に水産学校を組織したり。其他私立女子技芸学校の如き琉球唯一の私立女学校と甲辰小学校なる大建築物とは共に日露戦争中に建立されたる者而かも這般の各学校に入学志望者の多数なる。何れも其半数を収容せしに過ぎざりしと。夫の教育費を削り教員を減じ百方消極的方針を取りたる内地の各府県抑も何の顔色がある。

※(蛇の目、1-3-27)――帝国唯一の水産学校

 糸満水産学校は農商務省水産講習所の卒業者を二人まで教師に聘し居り。而かも学校の経費は糸満といへる沖縄南陬の一村にて負担し各地方より修学に来る生徒は糸満村にて愛遇し一個月一円位にて下宿し得べしと云ふ。予は此の学校を参観し生徒が水産製造物を研究するを見誠に驚嘆に堪へざるものありき。一村にて此の如き学校を維持するもの内地の各府県何処にかある。

※(蛇の目、1-3-27)――模範的自治村

 琉球海陬の一小村を以て水産学校を維持する糸満に到り見よ。先づ村の入り口に怪大なる両巌石の相抱きて空洞を作くる下、白銀堂なる小祠あり。是れ古代に於て勤勉にして信用を重んじたる模範的夫婦の霊を祀るものとす。かくして此村の婦人は勤勉にして信用を重んじ毎日暁天早く起き妻は其夫の漁獲せし鮮魚を娘は其父の漁獲せし鮮魚を或は丸木船に乗せ或は頭上に載せて三里隔つる那覇の市場に持ち来り。時には一度帰村して漁獲物を再び那覇に持ち来り。かくて勤勉の結果娘は結婚前迄に相当の貯蓄を致し嫁時の費用を其の父母に仰がず。全村の婦人少き者は四五百円多きは二千余円を貯蓄するに至れるなり。糸満の男子に至りては北は鹿児島県の大島薩南の列島西は粟国島久米島等の離島南は宮古群島八重山群島台湾等までに出漁し致る所の島々に小屋掛けして猛風と闘ひ狂瀾と闘ひ為めに其の頭髪は全くの赭色となるに至り。予は糸満人が赭色の頭髪を見る毎に深く其の胆略と勤勉とを驚嘆しき。男女共に此の如くなれば其村は能く自治の体を保ち最も隣保団結の念に富み前年虎列拉病の村内に生ずるや毎戸毎日一斗五六升の石灰を撒き自ら村を鎖して他村との交通を謝絶し之が為め衣食の実に窮する者あれば村人総掛りにて之を養ふなど公共心に富めること其比を見ず。内地の各府県にて公共心の発達とか模範村とか口に唱へて而かも事実に於ては琉球海陬の糸満に及ばざること遠きものあり。内地人にして一度糸満に遊覧すれば恐らくは余師あらん。
…………大阪毎日 明治三十九年二月十一日〜十五日





底本:「沖縄文学全集 第14巻 記録・証言※(ローマ数字1、1-13-21)」国書刊行会
   2010(平成22)年5月10日第1刷
底本の親本:「沖縄県史 第十四巻資料編9新聞集成(社会文化)」琉球政府
   1969(昭和44)年
初出:「大阪毎日」
   1906(明治39)年2月11日〜2月15日
入力:きゅうり
校正:持田和踏
2023年2月28日作成
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