▲英國現代の文學者に、ホワイトといふ人がある。わが國ではまだ知られてゐない、英國の讀書界、殊に家庭の間には、非常に持て囃されてゐる。その人の作に、『セルボーンの博物學』と云ふ書物がある。全編書翰體で、セルボーンから寄せたやうになつてゐる。今日は森に入つて、こんな珍らしい草花を發見したとか、今日はかういふ樹木を見たとか、今日はかういふ鳥を見たとか、日ごと/\の出來事を書いたものだが、その筆法がいかにも寫生的か、讀者はさながらその境にあつて、親しくその物に接してゐるやうな感じがある。
▲けれども、この書物は、わが國の寫生文とは違ふ。わが國の寫生文は文學であるが、この書物は文學ではない。博物學の説明を、趣味あらしめる爲めに、姑らく文學の形を借りて書いたのに過ぎぬ。趣意が全然違ふから、列べて比較する譯には行かぬ。
▲西洋で、寫生文として最も古いものは、ボカチオの作デカメロンの
▲然し、これは古い寫生文だといふだけで、それが今の我が國の寫生文と、どういふ關係があるといふのでもない。
▲今の所謂寫生文は
▲尤も、未完成のものが、すべて必ず興味がないとは限らぬ。レンブラントのスケツチは、雪舟の墨繪にも比較すべきものであるが、その下書きである所にまた一種の興味がある。先頃物故した獨逸のメニツエルのスケツチなども、矢張り同樣である。寫生文もこれと同樣の意味に於いて、一種の興味は無論あるが、然し、スケツチでいゝものは、それが完成せらるればなほいゝ如く、
▲少なくとも、寫生文は、これから小説を書かうとか劇を書かうとかいふ若い人々が、先づ手習ひとしてやるには、最もよいものであらう。
▲寫生文の興味は、下繪の興味と同じであるといつたが、或は現に今の寫生文の中にも、渾然とした興味を與ふるものがあるといふかも知れぬ。自分が前にいつたのは、所謂寫生文なるもの全體についてのことで説者の言の如きものも實際あるに違ひない。けれども、これについては、自ら異つた解釋をしなければならぬ。即ち、文學の上には、初中終の形式がなく、表面はなしにではないけれども、作者の内生命、即ち感じの上に一種の形式がある。換言すれば、作者心内の感じをもつて、散漫なる文字以外に、その文章を統一してゐる點があるのだ。されば、この意味より云へば、この種の寫生文は、形式もあり、完成されてもゐると、いつてよいのである。
▲兎に角、凡て渾然たる一藝術品たらんとは、必ず一の
▲この意味から、現今の寫生文に、自ら二種の別あるといふことがいへる。一は全然無形式で、未完成のもの、他は内生命即ち感じの上に一種の形式のあるものである。(明治四十年三月)