ジエィン・エア

解説

十一谷義三郎




 最初に、「ジエィン・エア」の意圖と特長を簡敍しよう。
「ジエィン・エア」は、十九世紀の半ば(一八四七)に出版せられて、英吉利の讀書界に、清新な亢奮と、溌剌とした興味を植ゑつけた名篇である。
 傳記に依れば、或る時、作者は、妹のエミリー(詩人作家)とアン(作家)に向つて、かく云つたといふ――
 ――一體小説の女主人公を、既定の事實として一列一體に美人に描くのは間違つたことだ、人道上から見ても、間違つたことだ。
 ――でも、女主人公は、美人でなければ、讀者の興味を牽かない。
 と妹達が答へた。
 ――そんな筈はない。わたしが、實地に、證明して見せてあげよう。
 さう云つて書いたのが、この「ジエィン・エア」だといふ。
 既に、出發點から、常套を脱してゐる。
 次に作者は、當時の英文壇に於ける第一流の批評家リュイスに與へた書簡の中で、この作品に對して作者のとつた態度を、かく説明してゐる――
 ――わたしは、自然と眞實とを、わたしの唯一の道しるべとして、その跡を辿つた。わたしは、空想を抑制し、浪漫ローマンスを制限し、毒々しい粉飾を避け、たゞ、穩やかに、眞面目に、眞實であることをのみ念とした……
 この作者の態度が、作品に將來した結果は如何?
 作中の一節に、こんな意味の文句がある――
 ――女性は、淑やかにあるべきものと、一般に考へられてゐる。しかし、女性も、男性と同樣に「感じる」のである。女性も、男性と等しいだけの、才能と努力の活動世界を持たねばならぬ。女性を、たゞ、プディングを作つたり、靴下を編んだり、ピアノを彈いたりする世界にのみ閉ぢ込めて置かうとするのは、男性の偏見である。
 また、こんな言葉もある。
 ――わたしは、獨立の意志を持つた、自由な個人です。
 それから、また――
 ――もし、わたしがゼントルマンなら、わたしは、地位や利益の爲にする結婚はしない。わたしは、たゞ、自分の愛する相手をのみ、妻として迎へるであらう。
 以上の數例のほか、作中、ロウトンの慈善學校の僞善を、深い洞察眼を以て、活寫してゆくあたり、所謂暴露小説の到底企及し得ぬ鋭さが見られる。
 ――あなたは、獨創的だ。あなたは、大膽だ。あなたの精神は活溌で、あなたの眸は、洞察する。
 さう、ロチスターが、ジエィンに云ふ。
 この言葉は、そのまゝ、作者に振り向けらるべきだ。
 果然、「ジエィン・エア」は、赤裸々な、舊套を脱した、奔放な、熱烈な、眞新しい言葉で綴られた物語として、讀書界に、センセイションの旋風を捲き起した。
 ――女性の尊嚴を、かくまでに高く揚示した物語は、未だ英吉利の文壇には存在しない。
 とある評家は云つた。
 ――この作者は、淑女らしくない言葉で、淑女らしくない物語を綴つた。これは良家の子女に讀ませてはならない本である。
 と或る人は批難した。
 また、ある評家は
 ――現實、深酷な、有意義な、現實――それが、この物語の特長だ。この物語は、讀者の鼓動を高め、心臟をとゞろかせる。
 さう評した。
 兎に角、甲是乙非、囂々たる輿論の渦の中に、「ジエィン・エア」は、記録的な賣行を示した。
 今日の小説手法テクニックから見れば、メロドラマ風の點が、多少鼻につくし、また當時にあつても、作者の處女作(――嚴密に云へば第二作)的な多少の生硬さが、眼についた。
 しかし、それは、殆ど問題外として、この「ジエィン・エア」にられたイプセン的な精神と熱意、及び、それを表現する嵐のやうな筆觸は、たしかに、尚、現代の讀者の胸に、何物かを與へると信じる。
 ブロンティの作品は、この作のほかに三つ――中に就いて、「シヤァリ」は、手工業時代が機械工業時代に入らうとするその革命的雰圍氣を背景にしたスケールの大きな、野心的な長大篇で、部分部分に、素晴らしい描寫があるが、未完成の謗りは免れない。「プロフェッサー」は處女作――平板である。「ヴィレット」は、一番圓熟してゐるが、「ジエィン・エア」ほどの清新味と熱意が失せてゐる。
 つまり、あらゆる點から見て、この「ジエィン・エア」は、作者の代表作、古典クラシックの列に入る傑作である。
 作者が、いかに常人と異つた生ひ立ちを持つたか――作者が、いかに、家政婦的日常煩雜事のあひ間に、「ジエィン・エア」を完成して、これを匿名で發表して、世を騷がせたか――作者が、いかに淋しい、烈しいラヴ・レターを書いたか――さうして、いかに晩い、短い、結婚生活を持つて、死んだか――人、女、藝術家としての作者の一生は、かの「クランフォード」の作者ギャスケル夫人の有名な「ブロンティ傳」に、いつさいを盡してゐる。
 こゝには、たゞ年譜式に、彼女の一生の重要事項を列記して、讀者の參考に供するにとゞめることゝする――
 父はパトリック・ブロンティ、愛蘭土アイルランドの貧家の出、立志傳的苦學を續けて劔橋ケンブリッヂ大學を卒業して牧師となる。母は、マリヤ・ブランヱル、コオンウオルの商家の女、一八一一年、父が牧師補時代、ヨオクシヤーのハーツヘッドで結婚。
 一八一三年、長姉マリヤ生る。
 一八一四年、次姉エリザベス生る。
 一八一六年、著者シヤーロット誕生、當時一家は、ソオントンに住す。
 一八一七年、長男パトリック・ブランヱル生る。
 一八一八年、妹エミリー生る。
 一八一九年、末の妹アン生る。
 一八二〇年、一家、ヨオクシヤー北方の寒村ハワースの牧師舘に移る。風吹き荒む高原の沼地、滿目荒寥たる風物、母は、年々の出産の結果、心身衰へて、多く病床に在り、父は、峻嚴孤獨の讀書人、長姉マリヤが、年齡漸く八歳にして、父に怯え、母を案じながら、弟妹五人の世話をしてゐたと云ふ。
 一八二一年、母、癌を病んで歿す、時に三十九歳。母の姉、老孃ブランヱル來つて、爾後二十年間、家政を看る。
 可憐な子等は、長姉マリヤを中心にして、稚い眼で新聞を見、まはらぬ舌で、毎日の話題トピックを論じ、家庭新聞を作つて、「宰相を評したり」童話を寄稿したりして、興じあつてゐたと云ふ。皆、驚くべく夙慧。
 譯者は、先年、古い倫敦の月刊「ストランドマガヂン」のクリスマス號で、本篇の著者が、當時(六、七歳頃)ものせしと云ふ童話の遺稿を讀んだ。それは、著者の良人が、愛蘭土に隱棲してゐたその農家の天井に、煤にまみれて吊つてあつたのを、雜誌の記者が乞ひうけて公けにしたものであつた。稚拙ながら、著者の天分を窺ふに足る作品であつた。
 一八二四年、長姉マリヤ、次姉エリザベス、著者及び妹エミリー、相繼いで、カウアン・ブリッヂの慈善女學校(――牧師の娘のみに入學を許す學費の低廉な學校)へ入學。
 學校は、本篇中のローウッド學院のモデルで、濕地不健康地に在つて、設備食事ともに粗惡、生徒に病者續出、社會問題をひき起す。
 一八二五年正月、長姉マリヤと次姉エリザベス、この學校の犧牲となり、肺患を病み、姉妹四人皆、ハワースへ戻る。
 同年五月、マリヤ長逝、おなじく七月、エリザベス長逝。
 爾後、著者は、長姉として、弟妹達の面倒を看る。
 一八三一年、著者、ロウ・ヘッド女學校に學び、卒業後、そこに教鞭をとる。いくばくもなくして、病を得て歸る。
 その後七年間、次妹エミリーは、家に留り、著者と末の妹アンは、諸方に家庭教師を勤めて、彼女等の唯一人の男兄弟パトリック・ブランヱルの爲に學資を稼いだ。パトリックは、美術家志望で、倫敦に出て、遊惰無頼の道を辿つてゐた。
 一八四二年、著者は、私塾經營の計畫を立て、その準備として、更に學力を養ふ爲に、妹エミリーを連れて、ブラッセルのヘガー氏の學校に入學、佛蘭西語と獨逸語を勉強した。學費その他は、前記の伯母、亡母の姉、老孃ブランヱルに借りた。
 居ること半歳、伯母の訃報に接して歸り、エミリーは、そのまゝ家に留まり、著者のみ再び、ブラッセルへ赴き、英語の教鞭をとりながら、勉強をつゞく。
 校長ヘガー氏へ、祕めたる片戀――その切々たる情は、著者が、爾後數年間、春風秋雨、をり/\に、ハワースの牧師館から送つた手紙の紙面に溢れてゐる。その手紙は、皆、ヘガー夫人の手に握り潰されたと云ふ。むろん、一通の返書も、著者の手へは達しなかつたと云ふ。フロイド流に云へば、この片戀の悶々の情が、發して、この「ジエィン・エア」の熱烈な戀愛描寫となつたものであらう。
 弟パトリック、惡化墮落、著者傷心憂苦。
 一八四四年、ヘガー氏の學校を辭して歸り、妹達と、私塾の計畫を實現したが、入學志望者皆無。
 一八四六年、志を轉じ、妹等と共に詩作に熱中。その收穫を收めて、著者はカーラ・ベル、エミリーは、エリス・ベル、アンは、アクトン・ベルの各匿名に隱れて、一册の詩集を自費出版す。三部だけ賣れた。
 詩の天分は、エミリーが最も優れてゐた。彼女は、死後認められて、英詩壇に、一地歩を占めるに至つた。
 詩集出版の失敗のあと、著者は、妹達と、更に志を轉じて、創作に專念した。
 ブラッセル時代をモデルにした著者の處女作「プロフェッサー」はこの時に脱稿。然し、徒に、出版書肆の冷遇に逢ひ、活字には、ならなかつた。
 一八四七年、やはり匿名で、「ジエィン・エア」脱稿出版。一躍、洛陽の紙價を高む。
 このころ、弟パトリック・ブランヱル、家にあつて酒亂。著者はそれを憂へて、往々食事をとらぬことあり、父は、その爲に狂氣に瀕し、ピストルを亂射したり、椅子の背を鋸で挽いたりなどす。
 一八四八年、八月、パトリック・ブランヱル肺患に倒る。妹エミリーも、おなじ十二月に、おなじ病ひで長逝。末の妹アン、亦肺を病んで病床に横はる。
 一八四九年、アンを連れてスキャーボロに轉地。五月、アン病歿。
 この悲慘を極めし中にあつて、大作「シヤァリ」執筆出版。
 同年より、一八五一年まで、年一囘づゝ倫敦に出て、文人に逢ひ、多少鬱憂を散ず。
 但し、生來の獨居癖――人に逢ふ日は、朝から頭痛がしたと云ふ彼女であつた。一躍文壇の女王にはなつたが、身邊に華々しさは無かつた。
 一八五三年、第四作「ヴィレット」出版。
 彼女のあの片戀の淋しさは、篇中、女主人公が、戀人の手紙を待ち佗びる焦心の描寫に、深酷に表現されてゐる。
 一八五四年、十餘年來、ハワースの牧師補を勤めて來たアーサー・ニコルズと結婚。
 ニコルズは、その十餘年來、彼女に戀をして來たと云ふ。
 一八五五年、産後を病んで寒村ハワースの土となる。
 一八五六年、良人の手に依り、遺稿として、處女作「プロフェッサー」出版。
 一八六一年、老父パトリック歿。
 以上。





底本:「第二期 世界文學全集(5) ジエィン・エア」新潮社
   1931(昭和6)年8月30日発行
※ルビの外来語の拗音、促音は本文に準じて小振りにしましたが、本文中にない場合は大振りのままとしました。
入力:osawa
校正:みきた
2018年3月10日作成
青空文庫作成ファイル:
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