女流俳句を味読す

杉田久女




 本も沢山よまず何の学問もない私が、句評をするという事の僭越さは自分でもよく知っているが、之はただ私の勉強の為め、小倉の女流達の為め、何の理屈もなく味い感じ、学ぶ心持ちに他ならぬ。其点大方の寛恕を乞い私の味読のしかたに誤あらばドシドシ御教示仰ぎたい。

独楽もつて子等上がりくる落葉寺  立子
独楽二つぶつかり離れ落葉中  同
あばれ独楽やがて静まる落葉かな  同
赤き独楽まはり澄みたる落葉かな  同
落葉中二つの独楽のよくまはる  同

 落葉に独楽を配せる連作である。第一句では、落葉が散りしき、詣でる人も少ないという様な木深い寂びた寺の境内を背景とし、そこへ独楽をもって上ってくる童たちを賑わしく登場させている。此第一句は此連作のコンポジションとも言うべきもの。
 第二句では落葉の大地を切りとって、二つの独楽がはっしと投げ出され、地上に輪をえがいては互に近づきぶつかりあい飛び離れしてつくる処もなく廻っている緊張した光景を写生している。句の表には二つの独楽丈がよまれているが、其周囲に嬉々と手をうち、けしかけている童べらの姿も何となく聯想させられる。
 第三句では、あばれ独楽という大胆直明な言葉で、落葉を蹴らしつつ奔放に廻り狂い、やがて速度をゆるめて落葉の中に静止して仕舞う迄の動作が写されている。
 第四句に至ると、赤い美しい独楽がただ一つ。くすんだ落葉の大地に、きりきりと鮮かな旋律をもてまわり澄みつつあるというので、五句中一番此句が熱もあり、赤き独楽という言葉もまわりすみたるという表現も印象的で、作者の高潮した感興も窺われる。
 第五句目は此連作としては、平坦である丈にやや弱い感じが有りはしないだろうか。
 此連作落葉という消極的なものに、活動性の独楽を配してほうふつとさせる近代写生の的確さ、中七字にえがきわけられた各々の独楽の活動的な見方、あらわし方に学ぶべき点があると思う。

鶴一羽高歩みして春の水  あふひ

 鶴の沢山すむという南国阿久根の里でもよし、ひろやかな、木深い幽苑を想像してもよい。一羽の鶴が春水をしずかにうごかしつつ一歩毎に足を高くぬいては佇み、又おもむろに歩む。水輪のかげがなごやかにあたりのものに揺れうつるという様な景であろう。
 立子さんの独楽の句にみる如き溌溂としたものはないが、気品の高い鷹揚な鶴の姿も、春水の感じとよく調和して、おおらかな老巧な句風である。

青簾くらきをこのみ住ひけり  多佳女

 大阪も住吉あたりの、青簾をかけわたしたほのぐらい家の内を、ものなつかしくも思いつつ趣味びたりで住んでいる佳人をえがいてごらんなさい。光源氏の君ならずとも、つい垣ま見たくもなるであろう。
 小倉でそだった多佳女さん。白牡丹か桜のような此婦人に、青簾のくらきをこのむ心境のふかさと落付きを見出しえた事は嬉しい。

陽炎のまつはる足を運びけり  妙子

 明るい真昼の草の上。そこら一面ゆらゆらともえている陽炎が一歩一歩歩みを運ぶ度に足にもすそにからみつく。もしそれ此脚に重心をおいて、描いて見るならば、女鹿のようにすんなりした脚の、裸体の女性を、柔らかい曲線と美しい透った色調で明るいグリーンの草と、光り、陽炎の中に彫刻的に歩み佇たせて一幅の油画ともなろう。
 陽炎のまつわる足という表現が陽炎の特性をよく把握している。

春暁やあとさきもなき夢の橋  妙子

 ぼうっとしてそれこそ、ばら色の靄でもかかっている様な、春暁のねむりの中に、ほっかりと七彩の夢の浮橋があとさきもなくかかっている。そこに曙の精とよばるる女神が裳をひいて佇みつつある。
 春の曙のとりとめもない夢というものを、メーテルリンクの象徴劇のよう、取扱っているのは面白い。大体、夢をフロイド式に分析すればこむつかしい意味もあろうが、詩中の夢の世界には、何の理屈も聯絡もない、写生万能時代には空想的でめずらしく象徴の匂いがある。

木彫雛さくらの花をまゐりたれ  てい子

 この句はかつてホトトギスで評された句で、今更ここに多言する必要もあるまい。好みの高い木彫雛に桜の花をまいりたれという、清純な取材なり感情の息吹が高いしらべとなって、内容の美しさを深めている。感情のリズムをあらわすのに、いかに調べが大切であるかという事がわかる。此人の素質のよさがうかがわれる句である。

春愁や櫛もせんなきおくれ髪  より江

 より江夫人らしい句である。
 春愁の句は、櫛でかきあげてもかきあげてもほつれおちる髪を借りて、春愁の女主人公を描き出した女らしい情緒の句である。万葉の「たけばぬれたかねば長き妹が髪」というような可憐な感じである。より江夫人の句は一体に、柔かい繊細な感情をきぬ糸のように縷々と織りこんだ句が特色である。此春愁の句など夫人の若い日の面影をほうふつとさせるものがある。

茸狩やゆんづる張って月既に  しづの女

 前句の調べの優雅さに比して、この句はまた張り切って強弓の如き表現である。私は茸狩というものを余りよく知らないが、あちこちと茸狩してもう帰り路でもあろうか。向いの山影から弓絃をはりきった如き月が鮮かにさしのぼった。
 月既にと、弓絃を、ふつりと切り離したように力強くいい放したところ、昂奮した作者の感興も、丁度大絃の如くはりきっている。しづのさん独得の主観のつよい句である。
 しかし初学者がもし自らの技量も個性もわすれてやたらにかかる主観を真似て作るのは甚だ危険であるから、やはり万人の辿る写生道を歩む方が無難であろう。よい主観は、絶えず自然を凝視する事によって、つちかわれる。

さげ髪にして床にあり風邪の妻  波津女

 淡く化粧けわいさえしている若い風邪の妻は、ゴミゴミした世帯やつれの古妻の病気とは違い、清艶な感じがする。
 葵の上や、病める紫の女王が、美しく面やせて、長い黒髪をはらはらと机の上に匂わせつつ打ふしている、ろうたけた様は物語りにかかれた几張のかげの美女。これは近代の若妻で写し出される場面も全然異なっているが、若い女性の美と、黒髪というもののかもし出す匂いが、クラシック好きの私に一寸王朝の面影を感じさせる。女らしい句である。
(「花衣」創刊号 昭和七年三月)





底本:「杉田久女随筆集」講談社文芸文庫、講談社
   2003(平成15)年6月10日第1刷発行
底本の親本:「杉田久女全集 第二巻」立風書房
   1989(平成元)年8月発行
初出:「花衣 創刊号」
   1932(昭和7)年3月
入力:杉田弘晃
校正:noriko saito
2006年3月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について