徳富猪一郎君は
肥後熊本の人なり。さきに政党の諸道に勃興するや、君、東都にありて、名士の間を往来す。一日余の
廬を過ぎ、大いに時事を論じ、痛歎して去る。当時余ひそかに君の気象を喜ぶ。しかるにいまだその文筆あるを
覚らざるなり。
すでに西に帰り、信書しばしば至る。書中雅意
掬すべし。往時弁論
桿闔の人に似ざるなり。去歳の春、始めて一書を著わし、題して『十九世紀の青年及び教育』という。これを朋友子弟に
頒つ。主意は
泰西の理学とシナの道徳と並び行なうべからざるの理を述ぶるにあり。文辞活動。
比喩艶絶。これを一読するに、
温乎として春風のごとく、これを再読するに、
凜乎として秋霜のごとし。ここにおいて、余初めて君また文壇の人たるを知る。
今この夏、またこの書を稿し、来たりて余に
詢るに刊行のことをもってす。よってこれに答えて
曰く。この文をもってこの挙あり。なんぞ詢るの用あらん。しかるに詢る。余いずくんぞ一言なきを得んや。古人初めて
陳ぶるに臨まば奇功多からざらんを欲す。その小成に安んずるをおそるるなり。今君は弱冠にして奇功多し。願わくは他日
忸れて初心を忘るるなかれ。余初めて書を刊して、またいささか戒むるところあり。今や
迂拙の文を録し、
恬然として
愧ずることなし。警戒近きにあり。請う君これを
識れと。君笑って諾す。すなわちその
顛末を書し、もって巻端に弁ず。
明治十九年十二月
田口卯吉 識