人形芝居に関するノオト

竹内勝太郎




「詩は僕の鏡である。」 ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)レリー
 巴里シャン・ゼリゼェの林のなかに二つの小屋があって、今でも日曜祭日毎に昔ながらのギニョール、手套式の人形芝居が学校や家庭から解放された子供達を喜ばせて居る。その小さい粗末な舞台で演じられる人形の所作を見て少年等は笑い興じ、手を拍って、現実の世界を忘れて居る。それ等の活きいきした声を聞けば何人も遠く、幼い日の生活を思い出さずにはいられないだろう。私は室内に籠居する仕事の疲れを休める為に、秋の晴れた午後はよく街や郊外の森を散歩して廻ったが、その途すがら運よくこの人形の小屋が開いているのに出会うと、度々その前に立止ったものだった。元よりそれは全く単純で貧しい技術を持った人形芝居に過ぎない。然し誰がそれを軽蔑し得よう。少年ゲーテが故郷フランクフルトで旅廻りの人形芝居を見た印象から、後年あの大作「ファウスト」を書いたように、此の巴里のギニョールも沢山の仏蘭西少年の心のなかに、人類の至宝ともなるべき大きな夢を今現に育てつつあるのかも知れない。

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 欧羅巴では現在の処一般に人形芝居は子供の為めのものとされているが必らずしもそうではない。大人も之れを見て楽しんだことは東洋諸国と共に歴史が古い。伊太利では遠く羅馬時代から相当立派な人形芝居が存在していた。下って十六七世紀にはベニス、ボロニヤ、ミラノ、ナポリ等の土地にそれぞれの人形芝居が発達していた。之れは糸操りの人形である。それが近代に入って殆ど衰滅に瀕していたのが復興され、再生されてピッコリ座となり、一九二八年の冬のシーズンに華々しく巴里に御目見得デヴイユした。
 之れはよく統制された組織と熟達した技術とを持って居り、然も優勢な近代劇術(照明と舞台装置)と音楽とを伴っていたので、忽ち巴里劇壇の一部を席捲して、確固とした地歩を占めた。加之、直ちにこれの追従者と模倣者とが現れたのを見ても影響の大きさを想像することが出来る。勿論その座席の大部分を満たしたのは大人であって、私達も子供達と同じように喜んで之れを亨楽したのである。
 そこに大人も子供も差別はなかった。畢竟大人も絶対の世界では子供に過ぎないのであり、子供も真理の世界では大人と全く同一だからである。

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 唯茲に注意しなくてはならぬ相違点がある。それは欧羅巴の人形芝居は常に使い手が陰にかくれて見えないのに、日本ではあからさまにそれが舞台に現れる点である。文楽は元より結城の糸操りでも使い手が天井の上にいて観客に姿を見せる。之れは人形の芝居と云う点から見れば舞台に人間の見えぬ方が合理的であり、見えるのは非合理的である。
 然しながら芸術は必らずしも合理的なものが進歩したものでなく、反対に非合理的なものの方が遥により高い位置にいることがある。何故なら元来芸術の世界が非合理的な世界であり、否既に創作それ自身が実は非合理的なものだからである。
 我が日本に於ける人形芝居の歴史を辿って見ると、最初は無論使い手が路傍で衆人を前にして、背景も道具立てもなく操って見せたものに違いない。それが稍々発達して小屋掛興行になった時、使い手の見えることを不合理として彼は幕張りの陰にかくれ、人形だけを見せるようにして使ったらしい。然るに一層之れが進歩して義太夫節と結合する時代には左様な合理性を超越してしまって、使い手が堂々と姿を舞台に現わして来た。この原因はどこにあるか。それは人形が明かに独立した世界を確然と持っていて、そこに人間の存在があると否とに毫も関らない程力強い存在性を、彼自身示すようになったからであろうと信ぜられるのである。

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 人形は人間以上である。人形は人間の存在に依って少しも自らの存在を危くされない。即ち人形の世界は完成し切った世界であって、永久に未完成な人間の這入ることを許さない。
 人形の美はそれ自身完全な美である。それは何にも侵かされず、また害われない。不完全で醜い人間はそこから絶対に閉め出されて居る。
 我々は人形芝居を見る時、人形使いが人形を使っていると考えるでもあろう。然し実際は人形は自分自身の世界に於て自由に動き、自由に生活している。反って人間が使われているとも云うことが出来る。
 人形は唯人形自身の美に依ってのみ動く。人間は人形の命ずる処に従って人形を動かしているのに過ぎない。指一本動かすのも人形自身が動かさせているのであって、人間自らがその意志でこれを動かしているのではない。何故ならそこの世界では完全な美が一切を支配する絶対の法則であり、その美は人形自身に属して居る。人間は少しもそれにあずかる処がないからである。

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 人形芝居の美は人形の持つ美がその主体をなしている。それは静的の美である。人形は動いている時にも尚そこに常に或る静寂の要素を持つ。
 人形は永久に沈黙の衣を纒う。
 人形は語らない。然し人形は歌う。それは「沈黙の唄」である。だから人形芝居にお喋べりを持ちこむ程失敗に導かれる時はないだろう。
 人形の言葉は音楽である。人形の世界はあらゆる概念的なものを排斥する。そこでは唯純枠感情と完全な叡智即ち最も具体的な意志のみが呼吸することが出来る。それ程そこの空気は軽く澄み切って、清浄である。そして音楽のみが言葉を純粋感情に変形することが出来る(或は音楽に於てのみ純粋感情が自分を直接に表示する事が出来る)。そこに言葉の燿変がある。
 人形の動作アクションは静寂を生む。動きのなかの静、静のなかの動きであり、静と動との同時存在である。それは独り最も高い、完成された舞踊のみが之れに近似する。そこでは静止ポーズは静止そのものが内部的に情熱の燃ゆる焔となり、運動ムウヴマンは動きそれ自身が輝く金剛石デイヤマンとなるであろう。

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 人間俳優の創造する世界は大きくても浅い。人間俳優の創造する世界は小さくても深い。然もこの人形の小さい世界はその深さに於て、その深さの奥に於て無限に広く大きい永遠の世界に直接つながっている。人形の持つ小さな世界は、絶対的な真理の世界に向って開かれた一つの窓であると云うことが出来る。
 その意味からこの小さな世界人の生活するのに最も適わしいのは童話の世界である。なぜなら童話の世界は神話の世界の小さな兄弟であって、それは神話としっかり手をつないでいるからである。
 神話は人間の最も根原的な創作力の活動であり、顕現である。それは原始文化時代から人類の生活を支配した処の、人間世界それ自身が内部的に持っている統制力である。それが創造力となって具体化し、生活を支持し、且つ導いたのである。
 そこに神話と伝説との明かな相違点が見られる。伝説は生活を説明せんが為に作り出された一つの図式の如きものであり、知識的に考えられた生活の整理である。
 之れに反して童話は神話と同じ力から神話の後に生み出されたもので、伝説の如く間接的なものではない。矢張り生活の直接的な創作力の現れである。そして神話が人間の生活を統制し秩序づけたようにそれは幼童の生活を支配し、導く。
 童話と人形とは必然にピッタリと融合する。童話の世界を正しく最も具体的に表現して見せることの出来るものは人形を措いて他にはない。

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 人間芝居は人間の喜怒哀楽の五官の感性を超越している。従ってそこには人間的な意味に於ける悲劇も喜劇も起らない。あるのは唯人類に対する運命的な啓示のみである。
 それは「神聖な喜劇デイヴイナ・コメデイア」でもなく「人間喜劇コメデイ・ユメエヌ」でもなく、実に「神々の喜劇コメデイ・デイヴイニテ」である。即ち神それ自身、それは人間の永遠なるすがたに於けるその神々の悲劇喜劇である。
 人間は幸福を求める。幸福は神のものである。然もその神は永遠の像に於ける人間であるとすれば、幸福は本来人間固有のものである。只そこに永遠の像に到達すべき間の距離がある。が然し必らずそれは最後には何人も到達し得るであろう。
 かくて人形芝居の主人公は童話の世界へ旅立つであろう。この旅は現在の刹那から永遠の現在への距離を時間的に見て、之れを空間的な距離に置変えたのであり、主人公が旅中に出会う様々の不幸や障害はこの非時間的距離を外的事件の障害に変形したものである。
 それは象形文字イエログリイフで書かれた処の人間生活史と見るとことが出来るであろう。

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 人形は知識を得た人間に貶しめられ、権威と勢力を奪われ、沈黙のなかにとじこめられて、哀れにも小さく退化した巨人チタン族の後裔である。





底本:「日本の名随筆 別巻81 人形」作品社
   1997(平成9)年11月25日第1刷発行
底本の親本:「竹内勝太郎全集 第二巻 芸術論・宗教論」思潮社
   1968(昭和43)年1月
入力:浦山敦子
校正:noriko saito
2008年5月24日作成
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