一
淋しい風が吹いて來て、一本
みのるは今朝早く
晴れた日ならば上野の森には今頃は紫いろの靄が棚引くのであつた。一日森の梢に親しんでゐたその日の空が別れる際にいたづらをして、紫いろの息を其所等一面に吹つかけるのであらうと、みのるは然う思つて眺めてゐた。今日の夕方は木も屋根も乾いた色に一とつ/\凝結して、そうして靜に絡み付いてくる薄暗の影にかくれて行つた。みのるはそれを淋しい景色に思ひしみながら、目を下に向けると、丁度裏の琴の師匠の家の格子戸から外へ出て來た娘が、みのるの顏を見上げながら微笑をして頭を下げた。みのるはこの娘の顏を見る度に、去年の夏、夕立のした日の暮れ方に自分が良人の肩に手をかけて二人して森の方を眺めてゐたところを、この娘に見られた時の羞恥を思ひ出した。今もその追憶が娘の微笑の影と一所に自分の胸に閃いたので、みのるは何所となく小娘らしい所作で辭儀を返した。さうして直ぐばた/″\と雨戸を繰つて下へおりて來た。
豆腐屋の呼笛が何所か往來の方で聞こえてはゐたけれども、もう此邊までは來なくなつた。みのるは下の座敷の雨戸もすつかりと閉めて、茶の間の電氣をひねつてから門のところへ出て見た。
眼の前の共同墓地に新らしい墓標が二三本
「メエイ。」
みのるは袖の下になつてゐる犬の頭を見下しながら低い聲で呼んだ。呼ばれた犬は
義男が歸つて來た時はばら/\した小雨が降り初めてゐた。普通よりも小さい義男の頭と、釣合ひのとれない西洋で仕立てた肩幅の大きな洋服の肩をみのるの方に向けて、義男は濡れた靴を脱いだ。垂れた毛を撫で上げながら明るい茶の間へはいつて來た義男は、その儘奧の座敷まで通つてしまつて、其所で抱へてゐた風呂敷包みと一緒に自分の身體も抛り出すやうに横になつた。
「駄目。駄目。何所へ行つても原稿も賣れなかつた。」
「いゝわ。仕方がないわ。」
みのるは義男が風呂敷包みを持つて歸つて來たので、きつと駄目だつたのだと思つてゐた。何時までも歩きまわつてゐた事が、みのるには雨に迷つた小雀のやうに可哀想に思はれた。
「お
「何も食べないんだ。何軒本屋を歩いたらう。」
義男は腹這になつて疊に顏を押付けてゐるので、その聲が物に包まれてゐる樣にみのるに聞こえた。
義男が居ない間に、みのるは一人して箸を取る氣になれないので、今日も外に出てゐた義男と同じやうに何も食べずにゐた。それで義男の言葉を聞くと急にみのるは食事といふ事にいつぱいの樂しみをつながれて、臺所へ出て行つて働き初めた。膳の支度が出來るまで義男は今の樣子の儘で動かなかつた。
二
「僕は到底駄目な人間だね。僕にやとても君を養つてゆく力はないよ。」
默つて食事を濟ましてしまつた義男は、箸をおくと然う云つてまた横になつた。それに返事をしなかつたみのるは、膳を片付けてしまふと箪笥の前に行つて
「おい。行つてくるの?」
「えゝ。だつて何うする事も出來ないもの。」
みのるは包みを拵へてから、
「ぢや行つてきます。一人だつていゝでせう。淋しかないでせう。」
みのるは膝を突いて義男の額を撫でた。義男の狹い額は冷めたかつた。
「僕も一緒に行く。」
「ぢや着物を着代へなくちや。洋服ぢやおかしいから。」
義男が洋服を脱いでゐる間、みのるは鏡の前へ行つて、
みのるは重い包みを片手に抱へたまゝ戸締りをしたり、棚から傘を下したりした。包が邪魔になるとそれを座敷の眞中に置き放しにして來て、
二人は一本づゝ傘を手にして庭の木戸から表に廻つた。
「留守番をしてゐるんだよ。お土産を買つて來て上げるからね。」
雨のびしよ/\と雫を切らしてゐる暗い庭の隅に、犬の白い姿を見付けるとみのるは聲をかけた。犬は二人して外に出る時はいつも家の中に閉ぢ籠められておくことに馴らされてゐた。
門をしめて外に出てからも、みのるはひつそりとしてゐる犬の樣子がいつまでも氣に掛つて忘られられなかつた[#「忘られられなかつた」はママ]。少し歩いてくると義男は氣が付いたやうにみのるの手から包みを取らうとした。
「持つてつてやるよ。」
雨の停車塲は遲れた電車を待合せる人が多かつた。つい今しがた降り出した雨だけれども、土も木も人の着物も一樣に
自分を憫れんでゐるやうな睫毛の瞬きが、ふるえて落ちる傘の雫の蔭にちら/\しながら、みのるは仲町のある横丁から出て來た。角の商店の明りの前に洋傘を眞つ直ぐにして立つて待つてゐた義男の傍に來た時、みのるの顏は何所となく囁き笑ひをしてゐた。
「うまくいつた?」
「大丈夫よ。」
嵩張つた包みが二人の間から取れて、輕い紙幣が女のコートの
「なんでもいゝや。」
義男も
「寒くつて。何か飮まなくちや堪らないわ。」
みのるは義男の先きになつて歩いた。向側を見ると何の店先も雨に曇つて灯が濡れしほたれてゐた。番傘が通りの灯影を遮つてゆく――
二人は區役所の前の小さい洋食屋へ入つて行つた。
室には一人も客はなかつた。鏡の前に行つて顏を映して見たみのるは、義男に呼ばれて暖爐の前に肩を突き合せながら手をあぶつた。みのるはこんな時義男がいぢけきつて、自分の貧しさをどん底の零落において情なく眺める癖のある事を知つてゐた。義男がからつぽの樣な瞼を皺つかして、頬の肉にだらりとした曲線を描きながらぼんやりと暖爐の火を見詰めてゐる義男の身體を、みのるは自分の肩でわざと押し轉がす樣に突いた。さうして義男の顏を横に見ながら、
「見つともない風をするもんぢやないわ。」
と云つて笑つた。義男は自分の
「何うにかなるわ。」
と云ふ樣な捨て鉢な事は云つた事がなかつた。
「どうしたの。默つて。」
みのるは自分の身體をゆら/\と搖らつかせながら、其の動搖のあほりを義男の肩に打つ衝けては笑つた。
「僕は今日不快な事があるんだ。」
義男は暖爐の前に脊を屈めながら斯う云つた。
「なんなの。」
義男の言葉は欝した調子を交ぜてゐたのに反して、みのるの返事は何處までも紅の付いた色氣を持つて浮いてゐた。
「××にね。僕の作の評が出てゐたんだ。」
「なんだつて。」
「陳腐で今頃こんなものを持ち出す氣が知れないつて云ふのだ。」
みのるは聲を出して笑つた。
「仕方がないわね。」
「仕方がない?」
義男は塲所も思はずに大きい聲を出してみのるの顏を睨んだ。みのるは默つて後を振返つたが、人のゐない室には
「君も然う思つてるんだね。」
「然うだわ。」
義男の腫れぼつたい瞼を一層縮まらした眼と、みのるの薄い瞼をぴんと張つた眼とが長い間見合つてゐた。
みのるはその作を原稿で讀んだ時、
「おもしろいわ。結構だわ。」
と云つて義男の手に返したのであつた。義男が自分の仕事に自分だけの價値を感じてるだけ、みのるも相應に自分の仕事に心を寄せてゐるものと思つてゐた。それが急に冷淡な調子で、世間の侮蔑とその心の中を鳴り合せてゐる樣な
「君は隨分同情のない事を云ふ人だね。」
しばらくして斯う云つた義男の眼は眞つ赤になつてゐた。給仕が持つて來た皿のものをみのるは身體を返して受取りながら何にも云はなかつた。
三
「君はそんなに僕を下らない人間だと思つてゐるんだね。」
二人は停車塲から出ると、眞つ闇な坂を何か云ひ合ひながら歩いてゐた。硝子に雨の雫を傳はらしてゐる街燈の灯はまるで暗い人間の隅つこに泣きそべつてゐる二人の影のやうに見えてゐた。
二人が生活の爲の職業も見付からず、文學者としての自分の小さい權威も、何年か
「君はよくそんな下らない人間と一所にゐられるね。價値のない男をよく自分の良人だなんて云つてゐられるね。馬鹿にしてる男のまへでよく笑つた顏をして濟ましてゐられる。君は賣女より輕薄な女だ。」
義男は斯う云ひ續けてずん/″\歩いて行つた。みのるは默つて後から隨いて行つた。みのるの着物の裾はすつかり濡れて、足袋と下駄の臺のうしろにぴつたり
漸くみのるが
「おい。」
義男は鋭い聲でみのるを呼んだ。
「なに。」
然う云つてからみのるは小犬を撫でたり、
「一人ぼつちで淋しかつたかい。」
と話をしたりして其所から入つてこなかつた。義男はいきなり立つてくると足を上げてみのるの膝の上に頭を
「外へ出してしまへ。」
義男はさも命令の力を顏の筋肉にでも集めてるやうに、「出せ」と云ふ意味を示すやうな
「あつちへお出で。」
みのるは小犬の
「別れてしまはうぢやないか。」
義男は然う云つて
放縱な血を盛つた重いこの女の身體が、この先き何十年と云ふ長い間を自分の脆弱な腕の先きに
「僕見たいなものにくつついてゐたつて、君は何うする事も出來やしないよ。僕には女房を養つてゆくだけの力はない。自分だけを養ふ力もないんだから。」
「知つてるわ。」
みのるは、はつきりと斯う云つた。唇を開くとその眼から涙があふれた。
「ぢや別れやうぢやないか。今の内に別れてしまつた方がお互ひの爲だ。」
「私は私で働きます。その内に。」
二人は
この家の前の共同墓地の中から、夜るになると人の生を呪ひ初める怨念のさゝやきが、雨を通して傳はつてくる樣な神經的のおびえがふと默つた二人の間に通つた。
「働くつて何をするんだい。君はもう駄目ぢやないか。君こそ僕よりも
義男は斯う云つてから、みのると同じ時代に同じやうな文藝の仕事を初めた他の女たちを擧げて、そうして現在の藝術の世界を今も花やかに飾つてるその女たちを賞めた。
「君は出來ないのさ。僕が
みのるは默つて泣いてゐた。不仕合せに藝術の世界に生れ合はせてきた天分のない一人の男と女が、それにも見捨てられて、そうして窮迫した生活の底に疲れた心と心を脊中合せに凭れあつてゐる樣な自分たちを思ふと泣かずにはゐられなかつた。
「君は何を泣いてるんだ。」
「だつて悲しくなるぢやありませんか。復讐をするわ。あなたの爲に私は世間に復讐するわ。きつとだから。」
みのるは泣きながら斯う云つた。
「そんな事が當てになんぞなるもんか。働くなら今から働きたまへ。こんな意氣地のない良人の手で遊んでるのは第一君の估券が下る。君が出來るといふ自信があるなら、君の爲に働いた方がいゝ。」
「今は働けないわ、時機がこなけりや。そりや無理ぢやありませんか。」
みのるは涙に光つてる眼を上げて義男の顏を見た。義男の見定められない深い奧にいつかしら一人で突き入つて行く時があるのだと云ふ樣な
「生意氣を云つたつて駄目だよ。何を云つたつて實際になつて現はれてこないぢやないか。それよりや別れてしまつた方がいゝ。」
義男は
みのるは男の動く樣子を
義男の力が、みのるの今まで考へてゐた男と云ふものゝ力の、
みのるは溜息をしながら立上ると義男の寢床の方へづか/″\と歩いて行つた。そうして其の夜着を右の手を出して
「私も寢るんですから。夜具を下さい。」
二人の仲には一と組の夜のものしきや無かつた。義男はその聲を聞くと直ぐに起きて枕許の眼鏡を探してゐたが、寢床を離れる時に、
「寢たまへ。」
と云つて又茶の間の方へ出て行つた。その男の後を
みのるは床に入つてから、粘りのない生一本の男の心と、細工に富んだねつちりした女の心とがいつも食ひ違つて、さうして毎日お互を突つ突き合ふ樣な爭ひの絶へた事のない日を振返つて見た。そこには、自分の
四
義男がやつとある職業に就いたのは櫻の咲く頃であつた。自分たちの生活の資料を得る爲に痩せた力のない身體を都會の眞中まで運んでゆく義男の姿を、みのるは小犬を連れて毎朝停車塲まで送つて行つた。時にはその電車の窓へ向けて、戀人のやうに女の唇からキスを送る白い手先きが、温い日光の影を遮る事もあつた。みのるは小犬に話をしかけながら墓地を拔けて歸つてくるのが常だつた。そうして二階の窓を開け放つて、小供の爪の先きが人の肉體をこそこそと掻きおろしてくる樣なきつい温さを含んだ日光に額をさらしながら、みのるは一日本を讀んで暮らした。讀書からみのるの思想の上に流れ込んでくる新らしい文字も、みのるは自分一人して味はふ時が多かつた。そうして頁から頁への藝術の匂ひの滴つた種々な塲景が、とりとめのない憧憬の爲に揉み絹のやうに萎えしぼんだみのるの心を靜に遠く幻影の世界に導いてゆく時、みのるは興奮して、その頬を一寸傷づけても血の流れさうな逆上した頬をして、さうして墓地の中を歩き廻つた。袖にさわつた
ある晩二人は上野の山をぶら/\と歩いてゐた。櫻の白い夜の空は淺黄色に晴れてゐた。森の中の灯は醉ひにかすんだ美しい女の眼のやうに、おぼろな花の間に華やかな光りと光りを
「いゝ晩だわね。」
みのるは然う云つて、思ふさま身振りをして見せると云ふ樣な身體付きをしてはしやいで歩いてゐた。この山の森の中にそつくり秘められてゐた幾千人の戀のさゝやきが春になつて櫻が咲くと、靜な山の
義男は義男で、堅い腕組みをして素つ氣のない顏をしながらみのると離れてぽつ/\と
「もう歸らうぢやないか。」
義男は斯う云つては足をとめた。
二人は環のやうに取りめぐつてゐる池の向ふの灯を、山の上から眺めながら少しの間立つてゐた。その灯がさゞめいてるのかと思はれる樣な遠い
「吉原で懇親會をやるんだそうだ。」
義男は斯う云つて歩きだした。明りの色が空を薄赤く染めてゐる廣小路の方を
「どうかして一日人間らしくなつて遊びまわつて見たいもんだわね。」
みのるは斯う云はうとして義男の方を見た時に、丁度二人の傍を三保の松原を走らせた天の羽車のやうな靜さで、一臺の車が通つて行つた。薄暗い壁に貼りつけた錦繪を覗いて見るやうに、幌の横から紅の濃い友禪模樣の美しい色が二人の眼を遮つていつた。そうして春の驕りを包んだ車の幌は、唯ゆら/\と何時までも二人の眼の前から消えなかつた。
みのるは其れ
五
義男にもみのるにも恩の深い師匠の夫人が遂に亡くなつたと云ふ知らせが二人の許にとゞいたのは、四月の末のある朝であつた。
義男が一張羅の洋服で出てしまふと、仲町から自分たちの衣服を取り出してくるだけの豫算を立てゝゐたみのるは、何うにもその融通の出來ない見極めをつけると、小石川の友達のところへでも行つてくるより仕方がないと思つたみのるは好い口實を作る事を考へながら出て行つた。
友達の家の塀際には咲き揃つた櫻が何本か並んで家の富裕を誇るやうに往來の方に枝を垂れてゐた。みのるは
利口な友達は人の惡るい臆測は女の
「お葬式は黒でなくちやいけないけれども、生憎私には黒がないから。」
友達の出した紋付は薄い小豆色だつた。裾には小蝶の
その日は雨が降つてゐた。みのるは白木蓮の花を持つて、吾妻橋の
中に入ると人々の混雜が、雨の
「この子はあなたの眞似が上手。」
みのるに然う云つて師匠が笑つた時は、まだ四才ぐらゐの子であつた。みのるの
「これはみのるたんだよ。」
と云つてみんなを笑はせた。幼ない時から高い鼻の上の方の兩端へ幾つも筋が出る樣な笑ひかたをする子であつた。みのるはこの娘のこゝまで成長して來たその
「おい。」
みのるは斯う呼ばれて振返ると、椽側に立つた義男は
「これから社へ行つて
と小さい聲で云つた。
「いくらなの。」
「五圓。」
二人は笑ひながら斯う云ひ交はすと直ぐ別れた。みのるは
「あなたの身體はこの頃丈夫ですか。」
師匠はみのるが別れて立たうとする時に斯う云つて尋ねた。みのるは昔の脆い師匠のおもかげを見た樣に思つてその返事が涙でふさがつてゐた。
六
その晩みのるは眠れなかつた。いつまでもその胸に思ひ出の綾が色を亂してこんがらかつてゐた。そうしてある春の日に師匠から送られた西洋すみれの花の匂ひが、みのるのその思ひ出に甘くまつはつて懷かしい思ひの血の鳴りを響かしてゐた。
あのなつかしい師匠に離れてからもう何年になるだらうかと思つてみのるは數へて見た。師匠の手をはなれてからもう五年になつた。そうして師匠の慈愛に甘へて一途にその人を慕ひ騷いだ時からはもう八年の月日が經つてゐた。その頃のみのるの生命は、あの師匠の世態に研ぎ澄まされたやうな鋭い光りを含んだ小さい眼のうちにすつかりと包まれてゐたのであつた。その師匠の手をはなれてはみのるの心は何方へも向けどころのないものと思ひ込んでゐた。そうして船で毎日の樣に向島まで通つたみのるは行くにも歸るにも渡しの棧橋に立つて、滑かな川水の上に一と滴の思ひの血潮を落し/\した。
それほどに慕ひ仰いだ師匠の心に背向いて了はねばならない時がみのるの上にも來たのであつた。其れはみのるが實際に生きなければならないと云ふほんとうの生活の上に、その眼が知らず/\開けて來た時であつた。毎日師匠の書齋にはいつて書物の古い樟腦の匂ひを嗅ぎながら、いゝ氣になつて遊んでばかりゐられない時が來たからであつた。そうして師匠の慈愛が、自分のほんとうに生きやうとする心の
今夜は殊にその思ひが深かつた。みのるは今日の、夫人の棺前の讀經を聞きながら泣き崩れる樣にして右の手でその顏を掩ふてゐた師匠の姿を、いつまでも思つてゐた。義男はその晩通夜に行つて歸つてこなかつた。
「その紋付は何うしたの。」
一と足先きに葬式から歸つてゐた義男は、みのるが歸つてくるのを待つてゐて直ぐ斯う聞いた。みのるは今日の式塲で義男の縞の洋服がたつた一人目立つてゐた事を考へながら默つて笑つた。
「借りたの。」
うなづいたみのるも、うなづかれた義男も、同じ樣に極りの惡るそうな顏をした。こんな時にお互に禮服の一とつも手許にないと云ふ事がれい/\とした多くの人の集まつた後では
「あなたの
「まあいゝさ、君さへちやんとしてゐれば。」
義男は然う云つてから、もう一度みのるの借着の姿を見守つた。義男はそれを何所から借りたのかと聞いたけれども、みのるは小石川から借りたとは云はなかつた。
「私たちみたいに困つてゐる人はお友達の中にもないと見えるわ。」
「然うだらう。」
義男は然う云つて着てゐた洋服を脱いだ。そうして
「これもこんなに成つてしまつた。」
と云ひながらその
「可哀想に。」
みのるは
「何うかして君のものだけでも手許へ置かなけりや。」
義男は然う云ひながら入湯に出て行つた。一人になるとみのるは今日の葬列の模樣などが其の眼の前に浮んで來た。花の土堤をその列が長く續いて行く途中で、目かづらを被つて
「皆さんお賑やかな事で。」
と小聲で云つてゐた事などが思ひ出された。みのるは義男が歸つて來たならばそれを話して聞かそうと思つた。柩の前に集つた母親を失つた小さい人々を見て、みのるもさん/″\泣かされた一人であつたけれ共、その悲しみはもう何所かへ消えてゐた。
七
みのるの好きな白百合の花が、座敷の床の間や本箱の上などに絶へず挿されてゐる樣な日になつた。義男の休み日には小犬を連れて二人は王子まで青い畑を眺めながら遠足する事もあつた。紅葉寺の裏手の流れへ犬を抛り入れて二人は石鹸の泡に汚れながらその身體を洗つてやつたりした。流れには山の若楓の蒼さと日光とが交ぢつて寒天のやうな色をしてゐた。その
こんな日の間にも粘りのない生一本な男の心の調子と、細工に富んだねつちりした女の心の調子とはいつも食ひ違つて、お互同士を突つ突き合ふやうな爭ひの絶えた事はなかつた。女の前にだけ負けまいとする男の見得と、男の前にだけ負けまいとする女の意地とは、僅の袖の擦り合ひにも
「生意氣云ふない。君なんぞに何が出來るもんか。」
斯う云つて土方人足が相手を惡口する時の樣な、人に唾でも吐きかけそうな表情をした。斯うした言葉が時によるとみのるの感情を亢ぶらせずにはおかない事があつた。智識の上でこの男が自分の前に負けてゐると云ふ事を誰の手によつて證明をして貰ふ事が出來やうかと思ふと、みのるは味方のない自分が唯情けなかつた。そうして、
「もう一度云つてごらんなさい。」
と云つてみのるは直ぐに手を出して義男の肩を突いた。
「幾度でも云ふさ。君なんぞは駄目だつて云ふんだ。君なんぞに何が分る。」
「何故。どうして。」
ここまで來ると、みのるは自分の身體の動けなくなるまで男に打擲されなければ默らなかつた。
「あなたが惡るいのに何故あやまらない。何故あやまらない。」
みのるは義男の頭に手を上げて、強ひてもその頭を下げさせやうとしては、男の手で
「君はしまひに
それは晝の間に輕い雨の落ちた日であつた。朝早く澤山の洗濯をしたみのるはその身體が疲れて、肉の上に板でも張つてある樣な心持でゐた。軒の近くを煙りの樣な優しい白い雲がみのるの心を
それが午後になつて雨になつた。みのるは干し物を椽に取り入れてから、又椽に立つて雨の降る小さな庭を眺めた。この三坪ばかりの庭には、去年の夏義男が植えた
義男がいつもの時間に歸つて來た時はもうその雨は止んでゐた。みのるは義男の歸つてからの樣子を見て、その心の奧に何か底を持つてゐる事に氣が付いてゐた。
「おい、君は
みのるが夜るの膳を平氣で片付けやうとした時に義男は斯う聲をかけた。
「何故君は例の仕事をいつまでも初めないんだね。止すつもりなのか。」
其れを聞くとみのるは直ぐに思ひ當つた。
一週間ばかり前に義男は勤め先きから歸つてくると「君の働く事が出來た。」と云つて新聞の切り拔きをみのるに見せた事があつた。それは地方のある新聞でそれに懸賞の募集の廣告があつた。みのるがそれ迄に少しづゝ書き溜めておいた
「もし當れば一と
義男は斯う云つた。けれどもみのるは生返事をして今日まで手を付けなかつた。それに義男がその仕事を見出した時はもう締めきりの期日に迫つてしまつた時であつた。その僅の間にみのるには兎ても思ふ樣なものは書けないと思つたからであつた。
「何故書かないんだ。」
義男はその口を神經的に
「そんな賭け見たいな事を爲るのはいやだから、だから書かないんです。」
みのるの例の高慢な
みのるはその萬一の僥倖によつて、義男が自分の經濟の苦しみを
「そんな事に使ふやうな荒れた筆は持つてゐませんから。」
みのるは又斯う云つた。
「生意氣云ふな。」
斯う義男は怒鳴りつけた。女の高慢に對する時の義男の侮蔑は、いつもこの「生意氣云ふな。」であつた。みのるはこの言葉が嫌ひであつた。義男を見詰めてゐたみのるの顏は眞つ蒼になつた。
「君は何と云つた。働くと云つたぢやないか。僕の爲に働くと云つたぢやないか。それは何うしたんだ。」
「働かないとは云ひませんよ。けれども私が今まで含蓄しておいた筆はこんなところに使はうと思つたんぢやないんですからね。あなたが何でも働けつて云なら電話の交換局へでも出ませうよ。けれどもそんな賭け見たいな事に私の筆を使ふのはいやですから。」
義男は
「少しも君は我々の生活を愛すつて事を知らないんだ。いやなら止せ。その云ひ草はなんだ。亭主に向つてその云ひ草はなんだ。」
義男は然う云ひながら立上つた。
「そんな生活なら何も
義男は自分の足に觸つた膳をその儘蹴返すと、みのるの傍へ寄つて來た。みのるはその時ほど男の亂暴を恐しく豫覺した事はなかつた。「何をするんです。」と云つた金を張つたやうな細い透明なみのるの聲が、義男の慟悸の高い胸の中に食ひ込む樣に近くなつた時に、みのるは有りだけの力をその兩腕に入れて義男の胸を向ふへ突き返した。そうしてから、初めてこの男の恐しさから逃れるといふ樣な心持で、みのるは勝手口の方から表へ駈けて出た。
外はまだ薄暮の光りが全く消えきらずに洋銀の色を流してゐた。殊更な闇がこれから墓塲全體を取り
然うして絹針のやうに細く鋭い女の
「自分どもの生活を愛する事を知らない。」
と云つた義男の言葉がさま/″\な意味を含んでいつまでも響いてゐた。
みのるは全く男の生活を愛さない女だつた。
その代り義男はちつとも女の藝術を愛する事を知らなかつた。
みのるはまだ/\、男と一所の
「私があなたの生活を愛さないと云ふなら、あなたは私の藝術を愛さないと云はなけりやならない。」
男の生活を愛する事を知らない女と、女の藝術を愛する事を知らない男と、それは到底一所のものではなかつた。義男の身にしたら、自分の生活を愛してくれない女では張合のない事かも知れない。毎日出てゆく義男の
「二人は矢つ張り別れなければいけないのだ。」
みのるは然う思ひながら歩き出した。初めて、凝結してゐた
みのるの歩いてゆく前後には、もう動きのとれない樣な暗闇がいつぱひに押寄せてゐた。その顏のまわりには蚊の群れが弱い聲を集めて取り卷いてゐた。振返ると、その闇の中に
其邊をうろついてゐたメエイが其所へ現はれたみのるの姿を見附けると飛んで來てみのるの前にその顏を仰向かしながら、身體ぐるみに尾を振つて立つた。突然この小犬の姿を見たみのるは、この世界に自分を思つてくれるたつた一とつの物の影を捉へたやうに思つて、その犬の體を抱いてやらずにはゐられなかつた。
「有難うよ。」
小犬に向つてから云つて了ふとみのるの眼から又涙がみなぎつて落てきた。みのるは生れて初めて泣き/\外を歩くと云ふ樣な思ひを味ひながら、右の袂で顏を拭きながら家の方へ歩いて行つた。
八
みのるは外に立つて
さうして、みのるの心はその義男の前にもう脆く負けてゐた。自分が筆を付けると云ふ事が、義男の望む「働き」と云ふ意味になつて、さうして義男を喜ばせる一とつになるならそれは何の造作もない仕事だと云ふ樣な、女らしい氣安さにその心持が返つてゐた。
長い間世間の上に喘ぎながら今日まで何も掴み得なかつたみのるの心は、いつともなく臆病になつてゐて、
みのるは其の
今日まで書きかけて机の中に仕舞つておいた作といふのは、みのるの氣に入つたものではなかつた。自分の藝が一度踏み入つた境から何うしても脱れる事の出來ない一とつの
「君はいつまで何をしてゐるんだ。」
それを見付けた義男は直ぐに斯う云つてみのるの傍に寄つて來た。
「到底駄目だから止すわ。」
「駄目でもいゝからやりたまへ。」
「私は矢つ張り駄目なんだ。」
みのるは然う云つて自分の前の原稿を滅茶苦茶にした。
「こんな事はね。作の好い惡るいには由らないんだよ。それは唯君の運一つなんだ。作が駄目でも運さへ好ければうまく行くんだからやつて終ひ給へ。ぐづ/\してゐると間に會やしないよ。」
義男はみのるの手から弄り直してる前半を取り上げてしまつた。それを見たみのるは、
「書きさへすればいゝ?」
斯ういふ意味をその眼にあり/\と含まして、義男の顏を眺めた。その心の底には何となく
「私が若し何うしても書かなければあなたは何うするの。」
「書けない事はないから書きたまへ。」
「書けないんです。氣に入らないんです。」
「そんな事はないからさら/\と書き流してしまひたまへ。」
「氣に入らないからいやなの。」
「惡るい癖だ。そんな事を云つてる暇に二枚でも三枚でも書けるぢやないか。」
義男は日數を數へて見た。規程の紙數までにはまだ二百餘枚もありながら日は僅に二十日にも足りなかつた。義男は何事も一氣に遣付ける事の出來ない口ばかり巧者なこの女が、

「成程君は駄目な女だ。よし給へ。よし給へ。」
義男は然う云ふと一旦取り上げた原稿を本箱から出してきて、みのるの前にぱら/\と抛り出した。その俯向いた眼にいつにもない冷めたい蔭が射してゐた。
「止せば何うするの。」
みのるは机に寄つかゝつて頭を右の手で押へながら男の顏を
「別れてしまうばかりさ。」
義男はぽんと女を突き放す樣に斯う云つた。みのるが何も
「書くわ。仕方がないもの。」
みのるの眼にはもう涙が浮いてゐた。さうして其邊に取り散らかつた原稿を
九
みのるは唯
さうして出來上つたのが締切りの最後の日の午後であつた。義男はそれにみのるの名を書き入れてやつて、小包にしてから自分で郵便局へ持つて行つた。みのるはその汗になつた薄藍地の浴衣の袂で顏を拭ひながら、この十餘日の間の自分を振返つて見た。男の姿に追ひ使はれた
それは八月の半ばを過ぎてからであつた。ある朝その日の新聞の上に、ふとみのるの、心にとまつた記事があつた。
みのるは義男が勤めに出て行つてから、[#「から、」は底本では「から。」]家の入り口の方へ釘を差しておいて自分も外に出た。[#「出た。」は底本では「出た、」]さうして廣小路へ來ると其所から江戸川行の電車に乘つた。
色の褪めた明石の單衣を着て、これも色の褪めた紫紺の
みのるは橋の角の交番で「清月」と云ふ貸席をたづねると、其所から江戸川
みのるは直ぐに奧に通された。がらんとした廣い座敷に、みのるは庭の方を後にしてこれから逢はうといふ人の出てくるのを待つてゐた。何所も開け放してありながら風が少しも通つてこなかつた。さうして日中の
煙草盆を提げながら小作りな男が奧の方から出て來てみのるの前に座つた。
小山はみのるの名前は知らなかつたけれども義男の名前は知つてゐた。手に持つてるみのるの名刺を
小山は自分たちの
小山は話しをしてる間に、少しは分つた事を云ふ女だと云ふ樣な顏をして、時々みのるの言葉に調子を乘せて自分の話を進めて行つたりした。
「然う云ふ御熱心なら、一度よく酒井先生とも行田先生とも御相談をいたしまして、其の上で御返事を差上げると云ふことに。多分よろしからうとは思ひますが私一人の考へ通りにも參りませんによつて、あとから端書を差上げると云ふ事にいたしませう。」
みのるはそれで小山に別れを告げて外に出た。
誰もゐない家の軒に祭りの提燈がたつた一とつ暑い日蔭の外れに搖れてゐるのを見守りながら、みのるが
夜るになつてみのるは義男と祭禮のある神社へ參詣に出かけた。墓塲を片側にした裏町には赤い提燈の灯がところ/″\に、表の賑やかさを少しちぎつて持つて來た樣な色を浮べてぼんやりと
二人は人に押返されながら神社の中へ入つて行つた。赤い椀を山に盛つた汁粉の出店の前から横に入ると、四十位の色の黒い女が腕
「まあ
みのるは義男の袖を引つ張つた。
「あれが
義男も笑ひながら覗いて見た。上の看板に、肩衣をつけた女の身體からによろ/\と拔け出した島田の女の首が人の群集を見下してゐる樣な繪がかいてあつた。義男はかうした下等な女藝人の
二人は三河島の方を見晴らした崖の掛茶屋の前に廻つて來た。
「あなたに相談があるわ。」
みのるは云ひながら、境内の混雜を見捨てゝ崖から下へおりやうとした。
「何だい。」
「もう一度芝居をやらうと思ふの。」
「君が? へえゝ。」
二人は崖をおりて踏切りを越すと日暮里の方へ歩いて出た。みのるは歩きながら酒井や行田のやらうとしてゐる新劇團へ入るつもりの事を話した。行田は義男の知つてゐる人だつた。まだ外國から歸つて來たばかりの新らしい脚本家であつた。その人の手に作られた一と幕物の脚本を上塲する事に
義男はまだ結婚しない前にみのるが女優になると云つて騷いだ事のあるのは知つてゐた。けれどもどんな技倆がこの女にあるのかは知らなかつた。その頃みのるがある劇團に入つて何か
「今になつて何故そんな事を考へたんだね。」
義男は燒栗を噛みながら斯う聞いた。
「
義男は舞臺の上のみのるを疑つて中々それに承知を與へなかつた。
「何故いけないの?」
みのるはもう突つかゝり調子になつてゐた。
裸になつた義男は椽側に寐そべつて煙草をのんでゐた。みのるはその前にぶつつりと坐つて

「そんな悠長な生活ぢやないからな。」
義男は然う云つて考へてゐた。みのるが演劇に手腕を持つてゐて、それで澤山な報酬が得られる仕事とでも云ふのなら
生活の事も思はずに、斯うして藝術に遊ばう遊ばうとする女の心持が、又
「君はだまつて書いてゐればいゝぢやないか。」
「何を書くの。」
「書く樣な仕事を見付けるさ。」
「文藝の方ぢやいくら私が考へても世間で認めてくれないぢやありませんか。今度はいゝ時機だからもう一度演藝の方から出て行くわ。私には自信があるんですもの。それに酒井さんや行田さんが、ステージマネジヤならきつとやれるわ。」
みのるは眼を輝かして斯う云つた。みのるは實は筆の方に自分ながら愛想を盡かしてゐたのであつた。それはこの間の仕事によつて自分で分つたのであつた。ひそかに筆の上に新らしい生命を養ひつゝあるとばかり自負してゐたみのるは、この間の仕事にそれがちつとも現はれてこなかつた事を省みると、自分ながら厭になつてゐた。けれ共義男には然うは云はなかつた。何故ならあの時にみのるは義男に向つて自分の大切な筆をそんな賭け見たいな事に使はないと云つて罵り返したのであつた。その自分の言葉に對してもみのるには
自分ながら筆の上に思ひを斷つ以上、もう一度舞臺の方で苦勞がして見たかつた。新聞で見た新劇團の女優募集の記事はこの塲合のみのるには渡りに船であつた。
「僕は君は書ける人だと思つてゐる。だからその方で生活を助けたらいゝぢやないか。第一そんな事をするとしても君の年齡はもうおそいぢやないか。」
「藝術に年齡がありますか。」
「そりや藝術の人の云ふ事だ。君はこれからやるんぢやないか。」
「それならよござんす。私は私でやりますから。あなたの爲の藝術でもなければあなたの爲の仕事でもないんですから。私の藝術なんですから。私のする仕事なんですから。然う云ふ事であなたが私を支へる權利がどこにあります。あなたがいけないと云つたつて私はやるばかりですから。」
斯う云ひきるとみのるの胸には久し振な慾望の炎がむやみと燃え立つた。そうして自分を
「そんな準備の金は何所から算段するんだ。」
「自分で借金をします。」
十
みのるを
みのるの前に斯うして一日々々と新たな仕事の手順が
「舞臺の上が
それを聞くとみのるは義男の小さな世間への虚榮をはつきりと見せられた樣になつて
「ぢや別れたらいゝぢやありませんか。然うすりやあなたが私の爲に耻ぢを掻かなくつても濟むでせう。」
こんな言葉が今度は女の方から出たけれども今の義男はそれ程の
「君にそれだけの自信があればいゝさ。」
義男は然う云つて默つた。
清月でみのるは酒井にも行田にも逢つた。何方もみのるの見知り越しの人であつた。酒井といふのは、一方では、これから理想の演劇を起そうとして多くの生徒をごく内容的に養成してゐる或る博士のもとに働いてゐる人であつた。みのるはこの酒井のハムレツトを見て、その新らしい技藝に醉つたことがあつた。
眼と鼻のあたりに西洋人らしい俤はあつたが
鋭くしやんとした酒井と、重く
その中を例の小山は
みのるの外に女優が二三人ゐた。どれも若くて美しかつた。
その女主人公は音樂家の老孃であつた。それが不圖戀を感じてから、今まで冷めたく自分を取卷いてゐた藝術境から脱けて出てその戀人と温い家庭を持たうとした。その時にその戀人の夫人であつた女から嫉妬半分の家庭觀を聞いて、又淋しくもとの藝術の世界に一人して住み終らうと決心する。と云ふのであつた。
他の俳優たちは誰もその脚本を笑つてゐた。他の俳優といふのは壯士俳優の三流ぐらゐなところから、
みのるが詰めて稽古に通ふ樣になつた時はもう冷めたい雨の降りつゞく
行田も酒井もいつも朝早く定めた時刻までには出て來てゐた。そうして怠けた俳優たちがうそ/\集つてくるまで、二人は無駄な時間を空に費してゐる事が毎日の樣であつた。藝術的の氣分に緊張してゐるこの二人と、旅藝人のやうに荒んだ、統一のない
けれども演劇で飯を食べてるこの連中は、酒井などから一々臺詞にまで口を入れられる事に就いて、明らかな
「初めからのお約束ですから、少々氣に入らない事があつても一致してやつて頂かなけりや困ります。どうでせう皆さん。もう日もない事ですから一とつ一生懸命になつて臺詞を覺えて頂く譯には行きませんか。」
酒井の傍に坐つた小山が、こんな事を云つて口に皺を寄せながら向ふに集まつた俳優たちを眺めてゐる事もあつた。
その中で女優ばかりは誰も
「こんなに女優が重い役をやると云ふのは今度が初めだから、一とつ思ひ切つた立派な藝を見せていたゞき度い。女優の技藝によつてこの新劇團の運命が定まるやうなものだと思つて充分に
その中にゐて、みのるには例の惡るい癖がもう初まつてゐた。自分の氣分がこの俳優の群れに染まないと云ふ事がすつかりみのるを演劇の執着からはなしてしまつた事であつた。みのるは芝居をする事がもう厭になつてゐた。そうして、何時もこの俳優たちの低級な趣味の中に自分を輕く落して突き交ぜやうとする努めの爲にだん/\疲れてきた。清月にゐる間の自分を省みると、そこには
もう一とつ厭な事があつた。
みのるの役のワキ役になる女優に
みのるは小供の頃小學校へ通ふ樣になつてから、何年生になつてもその同じ級のうちにきつと自分を苛める生徒が一人二人ゐた。みのるは毎朝何かしら持つて行つてその生徒に與へてはお世辭をつかつた事があつた。そうして學校へ行くのがいやで堪らない時代があつた。丁度今度の録子に對するのがそれによく似た感じであつた。
録子は女主人公の戀人の夫人をする事になつてゐた。行田も酒井も「あれでは困る。」と云つて、その古い芝居に馴らされてしまつたそうして頭腦のない録子に
「然うセンチメンタルになつては困る。今あなたに
「今あなたがそんな事を云つては芝居がやれなくなりますから
酒井は如才なくみのるをなだめた。
けれどもみのるは何うしても厭になつてゐた。
この劇團の權威をみとめる事が出來なくなつたのと同時に、みのるは自分の最高の藝術の氣分をかうした境で揉み苦茶にされる事は、何うしても厭だといふ高慢さがあくまで募つてきて、誰の云ふ事にも從ふ氣などはなかつた。明日から稽古に出ないと云ふ決心でみのるは歸つて來てしまつた。
けれどみのるの眼の前には直ぐ義男と云ふ
「よした方がいゝだらう。」
義男は簡單にかう云つた。さうしてみのるが想像した通りを義男はみのるに對して考へてゐた。
「私はもう何所へもゆきどころがなくなつて
みのるは然う云つて仰向きながら淋しさうな顏をした。
十一
みのるの
初め義男はみのるに斯う云つた。
「自分から加入を申込んでおいて、又勝手によすなんてそれは義理がわるい。何うしても君がいやだといふなら、僕が君の出勤を拒んだ事にしておいてやらう。」
義男は然うして劇團の事務所へ斷りを出した。劇團の理事も行田もその爲めに義男を取り卷いてみのるの出勤をせがんで來た。
劇團の方ではみのるに代へる女優を見附ける事は造作のないことであつたかも知れないが、これだけのむづかしい役の稽古を積み直させるだけの日數の餘裕がなかつた。開演の日はもう迫つてゐた。經營の上の損失を思ふと、小山は何うしてもみのるに出勤して貰はねばならなかつた。行田も義男にあてゝ長い手紙をよこした。
「みつともないから好い加減にして出た方がいゝね。僕も面倒臭いから。」
義男は斯う云つて、いつも生きものを半分
演劇の上でみのるの評判は惡るくはなかつた。誰もこの新らしい技藝を賞めた。けれども又、同時に誰が見てもみのるの
藝術本位の劇評はみのるの技藝を、初めて女優の生命を開拓したものとまで賞めたものもあつた。けれども單に芝居といふ方から標準を取つて行つた劇評は、みのるを惡るく云つた。その態度が下品で矢塲女のやうだと誹つたものもあつた。みのるの容貌はほんとうに醜いものであつた。無理に拾へば眼だけであつた。外の點では唯
みのるは自分の容貌の醜いのをよく知つてゐた。それにも由らず舞臺へ上り度いといふのは唯藝術に對する熱のほかにはなかつた。そこから火のやうに燃えてくる力がみのるを大膽に導いて行くばかりであつた。けれども女優は――舞臺に立つ女はある程度まで美しくなければならなかつた。
女は、そこに金剛のやうな藝術の力はあつても、花のやうな容貌がなければ魅力の
みのるはそこにも失望の淵が横つてゐるのを、はつきりと見出した。みのるはある日演劇が濟んでから、雨の降り止んだ池の端を雨傘を提げて歩るいて來た。今夜も
みのるは此時程義男に對して氣の毒な感じを持つた事はなかつた。義男は此演劇が初まつてから毎晩芝居へ通つて來た。然うしてその小さな眼のうちは、
義男も疲れてゐた。二人の神經はある悲しみの際に臨みながら、その悲しみを嘲笑の
「今夜はどんなだつたかしら、少しはうまく行つて。」
「今夜は非常によかつた。」
二人はかう一と言づゝを言ひ合つたきりで歩いて行つた。毎夜舞臺の上で一滴の生命の血を絞り/\してる樣な技藝に對する執着の疲れが、かうして歩いて行くみのるを渦卷くやうに遠い悲しい境へ引き寄せていつた。その美しい
「全く君は演劇の方では技量を持てゐるね。僕も今度はほんとうに感心した。けれども顏の惡るいと云ふのは何割もの損だね。君は容貌の爲めに大變な損をするよ。」
義男はしみ/″\と斯う云つた。義男は自分の女房を前において、その顏を批判するやうな機會に出逢つた事がいやであつた。同時に、みのるがそのすべてを公衆に曝すやうな機會を作り出した事に不滿があつた。
「よせばいゝのに。」
義男は斯う云ふ言葉を繰り返さずにはゐられなかつた。
十二
僅な日數で芝居は濟んでしまつた。みのるが鏡臺を車に乘せて家へ歸つた最後の晩は雨が降つてゐた。一座した俳優たちが又長く別れやうとする終りの夜には、誰も彼も淡い悲しみをその心の上に浮べてゐた。男の俳優は樂屋で使つたいろ/\の道具を風呂敷に包んだり、鞄に入れたりして、それを片手に下げながら帽の庇に片手をかけて挨拶し合つてゐた。この劇團が解散すれば、又何所へ稼ぎに行くか分らないと云ふ放浪の悲しみがそのてん/″\の蒼白い頬に漂つてゐた。しつかりした
芝居の間みのるが一番親しんだ女優は早子であつた。新派の下つ端の女形をしてゐると云ふ可愛らしい早子の亭主が、みのると合部屋の早子のところへ能く來てゐた。早子には病氣があつた。昨晩血を吐いたと云ふ樣な
また、小さな長火鉢の前に向ひ合つて、お互の腹の底から二人の姿を眺め合ふやうな日に戻つてきた。
何時の間にか秋が深くなつて、椽の日射しの色が水つぽく褪めかけてきた。さうして秋の淋しさは人の前髮を吹く風にばかり籠めてゞもおく樣に
二人の
まるで情人と遊びながら暮らしてゞもゐる樣な生活は、どうしても思ひ切つて了はねばならないと義男は思ひつゞけた。七十を過ぎながら小遣ひ取りにまだ町長を勤めてゐる故郷の父親の事を思ふと義男はほんとに涙が出た。只の一度でも義男は父親の許へ菓子料一とつ送つた事はなかつた。義男だといつても自分の力相應なものだけは働いてゐるに違ひなかつた。それが何時も斯うして
義男は又、昔の商賣人上りの女と同棲した頃の事が繰り返された。その頃は今程の收入がなくつてさへ、何うやら人並な生活をしてゐた。――義男はつく/″\みのるの放縱を呪つた。
この女と離れさへすれば、一度失つた文界の仕事ももう一度得られるやうな氣もした。みのるが自分の腕に
「何か仕事を見付けて僕を助けてくれる譯にはいかないかね。」
義男は毎日の樣にこれをくり返した。
遂に男の手から捨てられる時が來たとみのるは意識してゐた。
十何年の間、みのるは唯ある一とつを求める爲めに殆んど憧れ盡した。何か知らず自分の眼の前から遠い空との間に一とつの光るものがあつて、その光りがいつもみのるの心を手操り寄せやうとしては希望の色を棚引かして見せた。けれどもその光りは、なか/\みのるの上に火の輝きとなつて落ちてこなかつた。みのるは義男の心の影を通して、自分にばかり意地の惡るい人生をしみじみと眺めた。
「何も彼も思ひ切つてしまひたまへ。君には運がないんだから。そうして君はあんまり意氣地がなさ過ぎる。君は平凡な生活に甘んじて行かなけりやならない樣に生れ付いてるんだ。」
斯ういふ義男の言葉をみのるは思ひ出した。けれども、みのるは矢つ張りその一
二人はある晩酉の市から歸つて來てから、別れるといふことを眞面目に話し合つた。
「第一君にも氣の毒だ。僕の働きなんてものは、
これが別れると
「義男と離れたなら自分は何うしやう。何うして行かう。」
みのるは直ぐに斯う思つた。さうして自分の傍から急に道連れの影を失ふのが、心細くて堪らなかつた。今まで長く凭れてゐた自分の肌の温みを持つた柱から、
「メエイとも別れるんだわね。」
みのるは庭で遊んでゐた小犬を見ながら斯う云つた。この小犬は二人の長い月日を叙景的に繋ぎ合せる深い因縁をもつてゐた。二人をよく慰めたものはこの小犬であつた。みのるは思はず涙がこぼれた。
「あなたに別れるよりもメエイに別れる方が悲しい。妙だわね。」
みのるは
十三
みのるは一旦母親の手許へ歸る事になつた。義男はあるだけの物を賣り拂つて一時下宿屋生活をする事に定めてしまつた。
こゝまで引つ張つて來てから、ふとこの二人を
それは、十一月の半ばであつた。外は晴れてゐた。みのるが朝の臺所の用事を爲てゐる時に、この幸福の知らせをもたらした人が來た。
その人は二階でみのるに話をした。その人が歸つてしまつてから二人は奧の座敷で
「本當にあたつたのかしら。」
義男は力のない調子で斯う云つた。
みのるの手に百圓の
「誰の
義男自身がみのるに幸福を與へたかのやうに義男は云ひ聞かせた。
「誰のお蔭でもない。」
みのるも全く然うだと思つた。みのるはある時義男が生活を愛する事を知らないと云つて怒つた時、みのる自身は自分の藝術の愛護の爲めにこれを泣き悲んだりした。そんな事に自分の
けれども義男に鞭打たれながらあゝして書き上げた仕事が、こんな好い結果を作つた事を思ふと、みのるは義男に感謝せずにはゐられなかつた。
「全くあなたのお蔭だわ。」
みのるは然う云つた。この結果が自分に一とつの新規の途を開いてくれる發端になるかも知れないと思ふと、みのるは生れ變つた樣な喜びを感じた。
「これで別れなくつても濟むんだわね。」
「それどころぢやない。これから君も僕も一生懸命に働くんだ。」
選をした内の一人に向島の師匠もゐた。その人の點の少なかつた爲に、みのるの仕事は危ふく崩れさうな形になつてゐた。義男は口を極めて向島の師匠を呪つたりした。さうして却つてこの人に捨てられた事を義男はみのるの爲めに祝福した。他に二人の選者がゐた。その人たちはみのるの作を高點にしておいた。義男はこの人たちを尋ねることをみのるに勸めた。一人は現代の小説のある大家であつた。この人は病氣で自宅にはゐなかつた。一人は早稻田大學の講師をしてゐる人で、現代の文壇に權威をもつた評論家であつた。みのるはその人を訪ねた。義男はみのるが出て行く時に、みのるが甞て作して大事に仕舞つておいた短篇をその人の手許へ持つて行く樣に云ひ付けた。その人の手から發行されてる今の文壇の勢力を持つた雜誌に、掲載して貰ふ樣に頼んで來た方がいゝと云ふのであつた。
みのるは義男の云ひ付けを守つてその短篇を持つて出て行つた。今までのみのるなら、こんな塲合には小さくとも自分の權識といふ事を感じて、初對面の人の許へ突然に自作を突き付けるといふやうな事は爲ないに違ひなかつた。けれどもみのるの心はふと痲痺してゐた。
みのるが訪ねた時、丁度其人は家にゐた。
その人は痩せた顏を俯向かしながら腕組みをして然う云つた。みのるの出した短篇の原稿もこの人は「拜見しておく。」と云つて受取つた。
その人は女の書くものは枝葉が多くていけないと云つた。根を掘る事を知らないと云つた。それが女の作の缺點だと云つた。みのるは然うした言葉を繰り返しながら歸つて來た。さうして逢つてる間にその人の口から出た多くの學術的な言葉を一とつ/\何時までも噛んでゐた。
十四
「あの仕事にはちつとも權威がない。」
みのるは直きに斯う云ふことを感じ初めた。片手に握つてしまへば
義男に強ひられて出來た仕事の結果は、思ひがけない幸福をこの家庭に
みのるの心は又だん/\に
みのるははつきりと「何うかしなければならない。」と云ふ事を考へた。もう一度出直さなければならないと考へた。空間を衝く自分の力をもつと強くしなければならないと考へた。みのるの權威のない仕事は何所にも響きを打たなかつたけれども、その一端が風の吹きまわしで世間に形を表しかけたと云ふ事が、みのるの心を初めて激しく世間的に搖ぶつた
その後みのるは神經的に勉強を初めた。今まで兎もすると眠りかけさうになつたその目がはつきりと開いてきた。それと同時に義男といふものは自分の心からまるで遠くなつていつた。義男を相手にしない時が多くなつた。義男が何を云つても自分は自分で
「僕のお蔭と云つてもいゝんだ。僕が無理にも勸めなければ。」
かういふ義男の言葉を、みのるはこの頃になつて意地の惡るい微笑で受けるやうになつた。義男の鞭打つた女の仕事は義男の望む金といふものになつて報ゐられた。そこから受ける男の恩義はない筈だつた。又新しく自分は自分で途を開かねばならないといふみのるの新しい努力に就いては、男はもう何も與へるものを持つてゐなかつた。
少しづゝ義男の心に女の態度が染み込んでいつた。男を心から切り放して自分だけせつせとある段階を上つて行かうとする女の後姿を、義男は時々眺めた。あの弱い女がかうしてだん/\強くなつてゆく――その捩ぢ切つた樣に強くなつた一とつの動機は矢つ張り發表された例の仕事の結果だとしきや思はれなかつた。然うして自覺の強みを與へたものは矢つ張り自分だと思つた。
けれども義男は何も云はなかつた。みのるの爲た仕事は何うしてもみのるの仕事であつた。みのるの藝術は何うしてもみのるの藝術であつた。みのるは自分の力を自分で見付けて動きだしたのだ。義男はそれに口を挿むことは出來なかつた。義男は然う思つた時、この女から一と足一と足に取り殘されてゆくやうな不安な感じを味はつた。
ある時この二人の許へ訪ねて來た男があつた。これは義男と同郷の男で帝國大學の文科生であつた。この男の口からみのるは
みのるはそれから間もなくこの大學生に連れられて簑村文學士をたづねた。その人の家は神樂坂の上にあつた。
其の家へ入つた時、みのるは上り口の薄暗い座敷の中で箪笥の前に向ふむきに立つてゐる男を見た。初めて來た客を奧へ通すまで其所に隱れて待つてゐる樣な容態があつた。その障子が開いてゐたのでみのるの方からすつかり見えた。
昔はどんなに美しかつたかと思はれるいゝ年輩の女に奧へ通されて待つてゐると、今向ふむきに立つてゐた人が入つて來た。それが簑村文學士だつた。言葉の調子も、身體も重さうな人であつた。
この文學士は作を選する時の苦心を話した。その原稿が文學士の手許にあつた時、夏の暴風雨と大水に出逢つてすつかり濡らして了ふところだつたのを、文學士の夫人が氣にかけて持ち出したといふ事だつた。その時崖くづれで家が破壞された爲この家へ移つたのださうであつた。
「あれを讀んだ初めはそんなに好いとも思ひませんでしたが中頃から面白いと思ひだした。けれどもね、百點をつけるといふ譯にはいかないと思つてゐると、家へ
文學士は、この女の機運は全く自分の手にあつたのだといふ樣な今更な顏をしてみのるを眺めた。さうしてその作の中からいゝと思つた所を拾ひ出して賞めた。
みのるにはこの文學士のどこか藝術趣味の多い言葉に醉はされながら聞いてゐた。さうしてこゝにも自分に運を與へたといふ樣な顏をする人が一人居ると思つた。
今噂した有野といふ文學士が丁度來合せた。その人は痩せた膝を
「けれどもね。けれどもね。」といふ口癖があつた。その「ね」といふ響きと、だん/″\に顏の底から笑ひを
みのるはこの中にゐて、久し振りに自分の感情が華やかに踊つてゐる樣な氣がした。簑村と有野は、
その内に簑村の夫人が歸つて來た。昔の
みのるは
家へ歸つた時義男は二階にゐた。其所に坐つたみのるを見た義男は、その
「私が入つて行つた時にね、簑村といふ人は
みのるはこればかりをくり返して一人で笑つてゐた。
その晩みのるは不思議な夢を見た。それは
男の木乃伊と女の木乃伊が、お
朝起きるとみのるはおもしろい夢だと思つた。自分が畫を描く人ならあの色をすつかり描き現して見るのだがと思つた。さうしてあれは木乃伊だといふ意識がはつきりと殘つてゐたのが不思議であつた。
「私はこんな夢を見た。」
みのるは義男の傍に行つて話をした。さうして「これは何かの暗示にちがひない。」と云ひながら、その形だけを描かうとして机の前へ行つた。
「夢の話は大嫌ひだ。」
然う云つた義男は寒い日向で痩せた犬の身體を櫛で掻いてゐた。