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芭蕉ハ無クシテレ耳聞イテレ雷ヲ開キ
葵花ハ無クシテレ眼随イテレ日ニ転ズ
そめ色の山もなき世におのづから
柳はみどり花はくれなゐ
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とかく道徳とか仁義とかいえば、
高尚遠大にして、通常人の及ばざるところ、たまたま及ぶことあれば、
生涯に一度か二度あって、専門的に修むる者にあらざれば、単に
茶話の
料か、講義の題として聞くもののごとく思い流すの
懼がある。もちろん道徳の思想は
高尚、その道理は
遠大であろう。しかしその効用と目的は日々の言行に現すほど、
吾人の意識の中に
浸み
込ませるところにあると思う。
古の賢人も道はここにありと教えた。なお賢人の
曰うに、「
言近くして
旨遠きものは
善言なり。守ること約にして
施すこと
博きものは善道なり。
君子の
言は
帯より
下らずして
道存す」と。
これを思えば道すなわち道徳はその
性高くしてその
用低く、その来たるところ遠くして、その及ぼすところ広く、
田夫野人も守り
得るものであるらしい。
わが
邦においては道徳に関する文字は漢語より成るもの多きがゆえに、学問なければ、道も
修め
得ぬ心地す。
仁義礼智などとは
斯道の人にあらざれば
解し
能わぬ
倫理として、
素人のあえて関せざる道理のごとくみなす
風がある。これもそのはずであって、むかしは
堅苦しき文字を
借りて、
聖人にも
凡人にも共通なる考えを言い現す
癖があった。これはただに
儒学のみでなく、仏教においても同然で、
今日もなお
解き
難き句あれば「
珍聞漢」とか、あるいは「お
経の
様」なりという。また、かくのごときは
独り
本邦ばかりでない、西洋においても一時は
解りきったことさえも、わざわざ自国の通用語を
排してラテン語をもって、論説した時代もあった。薬も長きむずかしき名を付ければ
効能多く聞こゆるの例によりて、ややもすると、今もこの
弊に
陥りやすい。
なるほど、なにごとにしても、理を
究めんとすれば心理学の原理に入らざるを得ないから、
容易ならざる専門的研究となるが、
吾人の平常
踏むべき道は
藪の中にあるでなし、
絶壁断巌を
沿うでもない。数千年来、数億の人々が
踏み
固めてくれた、
坦々たる
平かな道である。
吾人が母の
胎内においてすでに幾分か聞いて来た道である。
孟子の、「
慮らざる所にして知るものは人の良知なり」と言った通り、
慮らずして、ほとんど無意識に
会得してある
教訓に従うを道徳と称するものでなかろうか。
わが
輩は決して道徳問題は、みなみな
無造作に解するものと言うのではない。一生の間には一回二回もしくは数回
腸を
断ち、胸を
焦すような
争が心の中に起こることもある。しかしそんな難題は生涯に何回と一本か二本の
指で
数えつくせるくらいなものである。これに反し、われわれの最も
意を
注ぐべき
心掛は平常毎日の言行――言行と言わんよりは心の持ち方、精神の態度である。平常の
鍛錬が成ればたまたま大々的の
煩悶の
襲い来る時にあたっても解決が
案外容易に出来る。ここにおいてわが
輩は日々の
心得、
尋常平生の
自戒をつづりて、自己の
記憶を新たにするとともに同志の人々の考えに
供したい。
大正五年五月九日
南洋旅行の途上、信濃丸船中にて
新渡戸稲造
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外国語では人という
名詞をただちに
男に代用するが、わが
国において人というのは西洋のいわゆるペルソン(
人格)を指し、ただちに性の区別をいいあらわさない。しかしてこの人なる
語はあるいは
高尚な意味に用いることもあれば、またすこぶる
野卑なる意味を
含ませることもある。たとえば、
「人と生まれてかかる事をするのは
恥である」
という場合に用いられた人は、万物の
霊長であり、したがって
廉恥心も自然に
備わっているものなれば、よろしく
自ら
重んずべきものなりとの意味をいいあらわし、動物に対して人の
尊重すべきを示したものである。しかるにこれに反し、
「どうせ
人間だもの、このくらいのことをするのは当然だ」
という
口調を放つときは、
神ならぬわれわれは肉も血もあり、多くの弱点を備うるものなれば、時にこれしきの
罪業をするのは
免れぬと、
半獣性の欠点に富めることをいいあらわすに
用いられる。かくのごとく人間といえば上は神、下は
獣類のあいだに
介在するものであるから、両者の性質を
兼備し、自分の
勝手で
都合よきほうに
較べ、ある時はみずから
尊者の敬称を
甘んじて受け、またある時はみずから
野卑と称するほど
謙遜る。
信玄の歌に、
人多き人の中にぞ人ぞなき、人となれ人、人となせ人
とあるは、ある人の歌に、
人はたゞ人とならねば人ならず、人となれ人、人となせ人
とあると同じく「
人」なる
観念を二つにしていることが明らかである。すなわち「人」なる字が善悪の二
様に用いられている。
この人間のうちには男もあれば女もある。しかして「
女」なる言葉はその用うる場合により、「人」の場合と同じく、善悪両様の意味を別々に含ませている。むろん男のことを「女らしい」というときは、十に八、九まで
誹謗する
意旨であるが、しかし女自身に使用するときでも、おもしろからぬ意味を
諷することはしばしば見るところである。
たとえば、
「
女子と
小人は
養い
難し」
という場合、単に
女子という文字だけにてはさらに善悪の意を含んでおらぬが、
小人という
語と
結びあわせると、
女子を
卑下する心持が現れている。ちょっと普通行わるる
諺を見ても、
「どうせ女の事だもの」
「家の乱は女から」
「七人の子は
生すとも女に心を許すな」
「
大蛇を見るとも
女人を見るべからず」
などと女に関する
悪口がたくさんある。
畢竟いかに男子が自己の
愚より婦人に迷ったかを
自白するに過ぎぬ。ことに漢字では女の字を
偏または
旁に含めるものは、むろん善意を含めることなきにあらざるも、多くの場合むしろ悪意を含ましている。
たとえば女を三字集めた
姦、
両男の間に女を
んだ
嬲(もっともこれは女のほうより
左右にある男のほうが罪あるに相違ない)、奴(やっこ)、妄(みだる)、奸(みだす)、妨(さまたげる)、妖(わざわい)、妬(そねむ)、婪(むさぼる)、嫉(ねたむ)のごときは悪い意味である。その他普通の用語にしても女といえばなんとなく
卑めるがごとき印象を受ける。わが輩は常に女といえばただちに母ということを頭脳に思い出すから、いちがいに女という文字を
嘲笑的に用うる人多きを見て、
不愉快に感ずる。しかし女を
卑下する思想は必ずしも日本のみでなく、またシナのみに限らぬ。西洋においても多少この傾向の存在を否定することはできぬ。
かのシェークスピアの句に Woman, Frailty is thy name.(女よ心弱きとは
爾の名なり)といい、またテニソンの Woman is a lesser man.(女は小さき男なり)といえるなど、よほど女を見下げた言葉である。もしそれかかる
例証を文学中より拾い集めんとすればほとんど無数である。されば女という言葉だけで、いわゆる
外面如菩薩、
内心如夜叉という思想を含ませることは、世界を通じて広く行われることである。
しかし同時にまたこれと反対の意味を含ませて用うることもある。たとえば、
「
某はさすがに女だけありて」
といえば、もちろん弱いという意味にも用いらるるが、またしばしば
柔和で従順で
廉潔なるの意を含ませて
使わるることもある。漢字を見ても好(このむ)、妥(しずか)などは善い意味である。西洋の文学にも女といえばただちに
天使と同一視する例も少なしとせぬ。かくのごとく女という字だけを用いる時は、単に男と性を
異にする人なりという簡単な意味にとどまらないで、善とか悪とかいう
道徳的評価で判断さるるものである。しかしてこの評価はその使用の場合によりあるいは高きことあれば、あるいは安きことありて、
相場が一定しない。
しからば男という言葉もまた人もしくは女というように善意にも悪意にも用いらるるかというに、これは
奇態に悪意に用うることがほとんどない。単に男というときは、ただちに男らしいとかあるいは
剛毅とか、あるいは
大胆不敵、あるいは
果断勇猛、あるいは
任侠というような一種の
印象を
惹起す。
「
天川屋儀兵衛は男でござる」
と一
喝すれば
捕手の者も
閉息する。
男一
匹なる句は一種
爽快なる感想を人に与える。わが輩はその出所を知らぬが、おそらくは徳川時代の産物であろう。普通動物に用いる一匹なる言葉をそのままに、万物の霊長たるしかも女に
優れたる男子に応用するは、一見男子を
侮辱せるかの
疑惑を
促すが、おそらく動物としても優勝なるものの資格を嘆美するために用いた言葉ではあるまいか。すなわち前に述べた
勇猛とか
任侠とかという勇ましいところに重きをおいてこの句を用いたのではあるまいか。いわば動物として最も
微妙なる知能を有する者、または才能によりて力の足らぬところを、武器をもって
補い、
豺狼虎豹も遠く及ばぬ力を
逞しゅうするさまをいいあらわしたものであろう。
右のごとく考え来たれば一
匹なる言葉には、やはり幾分か
侮辱の意が含まれているごとく思われる。けだし
聖人君子高僧等より見れば、普通にわれわれの賞賛する武勇は
猛獣の勇気に類したもので、
孟子のいうところの
匹夫の勇に過ぎぬ。わが武士道においてもかくのごとき勇気をもって
猪勇と称し、
深く尊敬しなかったものである。しかしこれは高き見地より見てのことであって、社会がいまだ
法治の階段に進まない時代には、武勇は社会の安全に対する
保障で、武勇なければ生命も財産も危険に
瀕するばかりである。今でも一
朝事ある際には、たちまち一国が猛烈なる
所為に出る。
沙翁の
言に、
「ラッパの
音のわが耳に
響く時は
吾人のまさに
騎虎の行動を
倣うの時なり」
と。
暴虎馮河の
徒には
孔子は
与せずといったが、世俗はいまだ彼らに
敬服する。
昔時、ローマ時代には徳という字と勇気という字とは二つ別々に存在しなかった。
勇すなわち
徳、
徳すなわち
勇と考えられていた。かかる時代には
よしや動物性が混じ、
匹夫の
勇以上に
昇らずとも、それが
尊かった。しかして男子として
褒むべきはこの種の
勇を有したからで、国がやや進歩し、法律をもって善悪
曲直を
判別する時代にいたっても、依然としてなお
匹夫の
勇が
尊ばれ、男を
褒むるに一匹の言葉をもってしたものであろう。
ヨーロッパでは
耶蘇教が普及して以来、人生観が一変した。したがって人間の
評価もまた変わってきた。
柔和なる者は幸いなりとは、
基督の
教訓であるが、
汝に敵する者を愛せよとか、あるいは
汝を迫害する者に
復仇するなかれとか、
汝に一里の道を
強うる者あらば二里を
歩めとか、右の
頬を打つ者あらば左をも
叩かせよというがごとき、
柔順温和の道を説き、道徳上の理想としてこれが一般社会に説かれたのである。しかしこれを実行する者はほとんど皆無であった。わずかに有志者があるいは世を去りあるいは山深く
庵を結び、あるいは市街にありても
僧となりて俗縁を断ったものが、文字どおりにこれを実行したるに過ぎなかった。
普通一般の人はみずから
耶蘇教徒なりと
称しながら、この
柔和の道を守らなかった。すなわちニーチェが
耶蘇教を
奴隷の道徳と
悪口したのも無理ならぬことで、
現時の戦争にも現れているとおり、
基督の言葉が決してそのままに行われておらぬ、むしろその反対の
勇猛なる
教旨が、
耶蘇教以前より一貫して
欧州に
盛行している。これこそ実にニーチェのいわゆる
治者の道徳である。これは前に述べた女らしく柔順なれという
基督教に対し、男らしかれという教訓である。こんにちの世界はこの両者
相俟って始めて円満なるを得るものであるが、
外に対して常にわれわれの眼を喜ばせるものは、
男々しき男性的道徳である。
しかしこの柔和なれと
訓うるは
独り
耶蘇教に限ったことでない。道徳とさえいえば、マホメットの
回々教を除き、たいてい
柔和の徳を主として教えざるものはない。
孔子の教えのごときは、
よほど俗界に
縁の近いものであるが、なお恭謙譲の三者をもって最高の徳として考えている。もちろんこれらはいずれも個人を主とし、その実行すべき徳を説いたもので、これをもってただちに国と国との関係にまで応用すべしとは、おそらくはいかなる宗教家でも説いてはおらぬであろう。またこの宗教の旨をそのままに
遵奉すれば、とかく
柔弱に流れ、かえって開祖の主旨に反する
虞もある。現に
基督のごときは前にも述べたごとく
柔和主義の教えを垂れたるにかかわらず、ときには大いに
憤り、綱をもって神殿を
汚した商人を
放逐したことがある。
この事実に
徴すれば温和を主とするとはいえ、必ずしも不正なる要求に対しても
唯々諾々、これに
盲従せよとの意ではなかったことがわかる。ゆえに人にはあくまでも男らしい気骨がなければ宗教の
主旨にも
適わなくなる。人は軟骨動物ではない。愛とは単に老牛が
犢を
舐むるの類に
止まらぬ。しかしてこれは
啻に男子にかぎらず、女子においてもまた然りである。
今より六、七十年前、英国の思想家のあいだに
基督教の
柔弱に流るるを
憤慨して、いわゆる
腕力的基督教を主張したものがあった。この事業に従った主なる人には文豪キングスレー、大説教家モリース、『トムブラオン』の著者として有名な裁判官ヒュース等があった。もちろんこれら一派の
紳士は腕力を
縦にしたのでなく、
基督の仁と称するは決して悪き意味における婦女子の愛のごとき
猫可愛がりでないと説いた。そして彼らの腕力は一時ロンドンに響いたものである。ヒュースのごときは身は裁判官でありながら、ロンドンのちまたに
喧嘩があると、職務
柄の礼状を発することなく、みずからその
渦中に飛びこみ、「サアここにヒュースが来た、ヒュースの
拳骨を知らぬか」と
名乗り、もってしばしば
喧嘩を仲裁したという。彼らはまさしく男一匹の心持で活動したのである。わが国にていえば、まず男
伊達の
趣を備えた人である。
わが
輩はつねに男
伊達の制度を
景慕する者である。なかでも
幡随院長兵衛のごときは、これを談話に聞いても、書籍に読んでも、じつに我が意を得たものとして
尊崇せざるを得ぬ。
任侠の
標榜するところには、
些細なる点においてまことに
児戯に似たることも少なくない。たとえば
手拭はどう持つものとか、尺八はどう
すとか、帯はいかに結ぶとか、語尾はいかに発音するかというがごとき、
愚なことではあるが、その子分として用いた者が多くは無学の
熊公八公の
類であったから、かくのごとき
紋切形を
設け、これによりて
統御の
便を
計ったのも、あるいは止むを得なかったことであろう。これらの
些細の事柄は笑うべきではあったが、まただいたいにおいて彼らのなすところ、
物騒の傾向なきにあらざりしも、その動機においてはいかにも男性的で、子分の顔を立てるためには自分に不利益なる
喧嘩を
買ったこともあろう。
自分の命を投げ出したこともあり、強きを
挫き弱きを
扶くるを主義とし、
義を見ればいかなることにも
躊躇しなかった。この
任侠な勇猛な性質は、
勘定高き
現今の社会においておおいに
珍重すべきものと思う。されとてわが輩は、法律もろくろく備わらなかった社会に発達した風俗を、法治国たる憲法政治のもとにそのままに実行することは、
断じて非なりと信ずるゆえに、たとえ
当年の男
伊達の意気を
思慕するとはいえ、こんにちの男一匹は長兵衛そのままを写して
可なりとは思わぬ。争議起これば、
今日はこれを
治むるために
相応の法定機関がある。これによりて
是非曲直を判断すべく、みだりに腕力を用うることを許さぬ。ゆえにわが
輩は外部に表れた男
伊達の行為よりも、むしろこの行為を生み出した
任侠の心持が
欲しいのである。すなわち、
「男は気で食え」「
男前よりは
気前」
などいうところの男性的気象が
欲しいのである。
人にまけ己れにかちて我を立てず義理を立つるが男伊達なり
の一首まことに
深重の味がある。ことに
上の句の「
人にまけ」のごときは前に述べたもろもろの宗教の教うるところで、右の
頬を打たるれば左の
頬を出すがごとき意を含んでいる。またそのつぎの「
己れにかちて」などは勇の最も洗練されたるものである。勇気もこの階段に達すればもはや猛勇でなく、
匹夫の勇でもない。
孟子のいわゆる大勇なるもので、西洋の学者のいうモーラル・カレッジ(
道徳的勇気)である。
男一匹たるの資格は第一に勇を
揮うて
己れに
克つにありと思う。
己れに
克つものはほかに勝つこともさほど難事でない。
己れに
克つものは
世界に
勝つことを
得と古人の
言えるのはこのことである。なお古い漢書に
曰く、
「善く身を
処する者は、必らず世に処す。善く世に処せざるは、身を
賊する者なり。善く世に処する者は、必らず
厳に身を修む。
厳に身を修めざるは世に
媚ぶる者なり」
と。決して女子は勇気なくともよいというのではないが、女子の強きところは
耐忍にありとせば、男子の特長は
猛進的なる
奮闘の力にある。このことを論ずるには
多言を要せぬ。動物を見てもすみやかに天意のどこにあるやは
察しられる。
孔子の
弟子なる
子路は
勇ましい男性的の者であって、つねに勇を好んだ。ある日
孔子にたずねた、
「
君子は勇を
尚ぶか」
と、孔子は答えて、
「君子は義をもって
上とす。
君子勇ありて義なければ
乱を
為す。
小人勇ありて義なければ
盗をなす」と。
じつにそのとおりで、古人の語に、
「
深沈厚重は
是れ第一等の
資質、
磊落雄豪は是れ第二等の資質、
聡明才弁は是れ第三等の資質なり」と。
しからば男一匹たるの資格は、勇気の
有無のみをもって定むるかというにそうは行かぬ。勇気なるものは目的に達する方法であって目的でも動機でもない。なんのために勇を
揮うかといえば、義のためにするのである。義を見てなせばこそ勇と
称すれ、不義と知りながら行えば、いかに奮闘してもそれは
怯たるを免れぬ。ここにおいて男性として
欠くべからざる要素は事の
本末物の
軽重を分別する力である。テニソンが「女は小さき男なり」といったのは、むろん形の大小を意味したのでなく、知能の多少を指したのである。
わが輩は
脳髄において女性が必ずしも男性に劣るとはいわぬ。女性にして学者や芸術家や宗教家を出しているに見れば、両性のあいだにおいて
脳髄の作用が種類を
異にするとは思わぬ。今までは西洋においても女性は男性ほどに教育の恩典に
与るの便がなかったゆえ、その頭脳もまた思う存分に啓発されなかった。しかし女子教育の便も進みたれば、今後女性の智力の発展は男子のそれに比べてますます大なるものであろう。もっとも普通に女子は男子に劣るという言葉のうちには、
腕力の差違を含めることはいうまでもないが、
思慮において男子の女子に
優越なることを述べたのである。
「女
賢うして牛売り
損なう」「女の
鼻の
先思案」
などいうは、こんにちの女子に対してははなはだ
侮辱の
言に聞こゆるも、女学校の設置なかりし時代においてはさもありしなるべしと思われる。
否、女学校に通う学生のあいだにおいてさえも、なお往々にしてこの
謗りを
免れないものもある。わが
輩のいう
思慮とはいわゆる「ロジカル・マインド」で、推理の力の
謂である。かくすればかくなると直接に起こる因果の関係は何ぴとでも
測りやすきことであるが、その先は? なおその先は?と先の先までも推論を下して遠き
慮を
凝らす力は、今日では(将来はいざ知らず)なお男子の特長(もちろん男子にも
無思慮の者多きはいうまでもなけれど、女子に比すれば少なかるべく)とも称すべきものであって、男一
匹と
誇るものはものごとの利害、曲直について
篤と
思慮する要素を備えねばならぬ。
思慮のただ
胸中にあるのみにては、まだ男性の資格を充分に
発揮したとは言い
難い。なんとなれば男性の特性は活動にある。働きかけすなわち能動は男性的にして、女子は受け身である。また男子の働きは外部に現るるを
誉とするも、女子の働きは
内助にある。しかしてこの
内助はただに一家のうちの意味にとどまらずして、心のうちの助けの意味とも解すべきであると思う。
ゆえに一家に事あり、これに
処するは男子の任であるが、その動機はあるいは女性に起こることが少なくない。
キングスレーの
詩に、
Men must work and women must weep.
(かせがにゃならぬ男の身、泣かにゃならぬ女の身)
という一
句がある。
詮じつめれば男子の力は
思慮に
止まらでこれを判断し、しかしてこれを実行するにある。女子の力は判断するについてははなはだ弱い。しかし思慮するに参考とすべき種々の観察を下し、あるいはこれが材料を集むることは決して男子に
劣るものでない。
かつてある学者の
言に男子の
脳髄は
帰納的なるも、女子は
演繹的なりとあったが、女子は感情が
勝っているから冷静に事物に接することが
難い。しかし感情の力をもって事物を観察すれば、理性によりて発見しえざることがらを、往々にして発見することがある。昔の男一匹は動物的に猛勇を
揮うを特性としたとはいいながら、なおかつ当時においても女子よりは
思慮と判断の力が
優れていたであろう。
こんにちの男一匹は、文化の進歩とともに
昔時のごとき
蛮勇の必要はいちじるしく
減少したけれども、
思慮と判断力とにおいて
多々ますます進むにあらざれば、男一匹として女子に
優るの理由を失うにいたる。
近来、人類の進歩を考うるに、女子の進歩は男子にくらべて速度が早いと思われる。知識上のことはいうまでもなく、その身体のうえにおいてさえも、近時、男子の体格上に起こる変動よりも、女子の体格に起こる変動が多い。
ある学者はかくのごとき有様が続いたならば、世は遠からず
蒲柳の美人がなくなるだろうというている。思慮、学問、決断において女子が男子のごとくなれば、身体までも
相類似してくる。かくなればもはや男一匹などいうことは決して男子の誇りの言葉でなくなる。
昔時の得意を夢み、油断していると、男子はその長所を失うて粗雑な荒くれ男のごときものとなり、さらに一歩を進めて道徳上に退化を来たしたならば、いよいよ一匹の匹が動物的男性なることを示すにいたりはせぬか。
ある人は今後の戦争は女性との対戦ならんといった。もちろんこれは
腕力の戦いでなく、経済的の戦いである。この戦いはすでに開始せられ、工場において、学校において、商店において、事務所において、女性は一部男性に代って仕事しつつある。この競争は今後急に終るまいと思うが、今やまた知識上の競争も始まらんとしている。これを思えば男一匹の将来ははなはだ危ぶまるる。この戦争が将来いかに成りゆき、いずれが勝つか、いずれが負けるか、はたまたいずれも勝負なしに円満なる
平和をもって解決さるるか、それは未来の事とし、
吾人の目下の務めは、男子は男子だけの性質を
忌憚なく発揮することにある。
競争とか勝負とかいえば、両性のあいだに利害を
異にするように聞こゆるし、また
現に経済上の競争においては利害を異にしているが、この利害を異にする関係は永遠に続くものであるか、あるいはまた男女は単に性の相違するのみで、その他の利害はことごとく共通するものではないかという問題も起こってくる。
従来、男は女に比し優等なりしために、男は女を保護するをもってその義務となし、またこれを
愉快とした。がこの点についても今後両性が
相類似するときは同等となり、一方が一方を保護する必要がなくなりそうであるが、おそらくはそれは空想にとどまり、動物の例により
推測するに、男性はあくまでも女性を保護するものらしい。すなわちある意味において女性はあくまでも弱き地位に立つもので、男は松、女は
藤である。
今後、女性の身体の構造にいかなる変化が来たるとするも、男子に
乳房が加わる時の来ないあいだは、母たるの役目はいつまでも女子に属する。この一時に
鑑みても男子は女子を保護するの義務が
天然に備わっていると思われる。ゆえに男一匹に欠くべからざる要素は女性に対して保護者となるにある。女性の弱きに乗じて彼らを
弄び、あるいは彼らを苦しめるがごときは、これ男性の権能を
濫用するのはなはだしきもの。力ある者が力なきものを養いかつ
護るこそ、生物界における永遠
不易の法則である。
むかしの
任侠と称する者を見ても、彼らは外見上
放蕩三
昧に身を持ち
崩すようでありながら、なお女子に対する関係は思いのほかに潔白で、足を
遊里に踏み込んでも、女子を
弄ぶがごときことは少なかったようである。この程度に達せざれば二十世紀における男一匹として世に誇ることはできぬ。
女子の保護者たる役目を
全うするには
猛勇では
叶わぬ。やはり優しきところ、一見女性的のところがなくてはならぬ。血も涙もあってこそ真の男と称すべし。今後の男
伊達は決して
威張り一方では用をなさぬ。内心
剛くして外部に
柔らかくなくてはならぬ。むかしの賢者も教えて
曰く、
「
人剛を好めば
我柔をもってこれに勝つ」
と、また
曰く、
「
柔能く
剛を制す、
赤子に
遇うて
賁育その
勇を
失う」と。
男子は
須らく強かるべし、しかし強がるべからず。
外弱きがごとくして
内強かるべし。
負けて退く人を弱しと思ふなよ智恵の力の強き故なり
とは、
真の男子の態度であろう。男もこの点まで
思慮が進むと、先きに述べたる宗教の
訓うる趣旨に
叶うてきて、
深沈重厚の
資と
磊落雄豪の
質との
撞着が消えてくる。かくなると
羊のようにおとなしい性と
虎のごときたけき質とを兼備する人格が出るであろう。漢学者の使用する一句に、「
羊質虎皮」というのがあって、外面
虎皮をかぶりて
虚勢を張り、
内心卑怯きわまる
偽物を
指す成語としてあり、
楊雄(前五八―後一八)の文に、
「
羊質にして
虎皮、
草を見て
悦び、
豺を見て
戦く、其の皮の
虎なるを忘るるなり」
とあるが、草を見て
悦ぶになんの悪きことがない。悪きことは
豺を見て
戦く
臆病心にあるのだから、その温順
寡慾なる羊質をもちながら、なお
虎の
驍悍勁なる質を修めたら、すなわち
廉毅忠果の性格となりてこれに
超ゆる人格はなかろう。政治家かつ文学者として高名なるバヤード=デーロル氏の詩に
曰く、
The bravest are the tenderest, ――
The loving are the daring.
(勇深なる者は温柔なる者、愛情深き者は大胆なる者なり)
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永き過去を持たぬ人にも、自己の身の上を反省し、もって将来のことを計るのは、折々あることであろう。まして一生の旅路の坂を下りかけた人にはしばしばある。ゆえにこれは
老若を問わず誰しも経験あることと信ずる。凡人の習いと言わんか、僕もこの例に
違わず四十歳前後のころよりしばしば、
「
己れは一
人前の仕事を
為したであろうか」
を自問した。しかしてこの問題の起こると同時に起こる疑問は、そもそも一人前というはいかなる
量を指すかということである。
一
人前、一
人分、一と
通り、
人並、十
人並、男一
匹の任務などいう言葉はわれわれのつねに聞くところである。なかんずく一人前という言葉は種々の場合に応用されている。
反物一反あれば一人前の衣服が出来る。五
合の米があれば人間一人の一日の生命をつなげる。
独立の生活を営み得るだけの芸術を習得すれば、一人前の芸人となる。
料理屋で
飯を注文すれば一
合二、三
勺を一人前という。
牛肉屋に肉を注文すれば二十五
匁より三十五
匁までをもって一人前とする。
一人前に
対してかくのごとき標準を
設けたのは何より起こったのであるか。
四
尺に足らぬ
小男にも、六
尺ちかい
大兵にも、一
反の反物をもって不足もしなければあまりもせぬ。もっとも仕立の方法によりてはいかようにもなし得られる。特別の理由あるにあらざれば、
丈の長短を
斟酌せず一人前は一
反と定めてある。
また小食の人も
健啖家も、
肉を注文すれば同じ分量を
授けられる。ほとんど個性を無視して
男一
匹の
食物は
何合、衣類は
何尺と、一人前なる分量が定まっている。して、この分量は数学的に割り出したのではない。
日本には何尺の反物が出来る。これを人口に割り当てて一人前は何尺としたのでなく、また消費の額を精算して、日本人は春夏秋冬を通じて衣服は何枚
要るかから割り出したものでもない。
それと同じく人の
容貌を評するにも、よく十人
並という言葉を使う。これはすなわち
美醜の一人前という意味であるが、美醜の割り出しなどは、
眼鼻や
顔形の寸法を
計って出来得るものでない。まして芸などについては
算盤にかけることは絶対的に不可能のことである。
これによりてこれを見れば一人前あるいは一人
分と称するは、統計学者が平均人と称するものとはだいぶ
趣を異にしているように思う。
大槻先生はその著『
言海』において、人並みという言葉を説明して、世の常の人の
列なること、
尋常と説いている。これをもって見ても人並みまたは一人前ということが平均とは違うことがわかる。統計学者がよく用うる言葉にノルム(norm)というがある。通常これを標準、規範、
型などと訳しているけれども、この訳語にては他の文字と混同する
虞があるから、僕は
原語のままにノルムという字を
用いたいと思う。ノルムはその
語原を調べると
大工の使用する
物指すなわち
定規である。この定規に
適ったものがノルム
的すなわち英語にいうノーマル(normal)である。一人前の
人というのはノルムで測って不足なき人をいうので、すなわち常識的に言わば肉眼鑑定で見て、まずまず一ととおり
具備わっているものを指していうのであろう。未開国なら未開国相応に風俗・習慣・智能・信仰があって、これに応ずる態度がある。
これすなわちその国のノルムに
適うというべきものである。もしこのノルムに達し得なければ、その人は社会の一員として取扱われぬ不幸に
陥る。ゆえに同じ
国人のうちでも精神薄弱児とか精神異常者を測ればノルムに
適わぬ。
ノルムと平均とを同じように用いても差し支えないこともあろうが、平均は
実在的現象を測るもので、ノルムは実際経験の後、
誰れいうとなく、十
目が見、十
指が
指して、一種の理想的標準を設け、物を測定するに用うるものであると
思う。
老子の有名なる語に、
「
道の
道とすべきは
常の
道にあらず」と。
これは種々に解釈されるが、平均とノルムとをもってしても解釈の一
法となし得はせぬか。人が普通に
道というのは実測上のすなわち平均の道というので、常の道というのはノーマルの道をいうのであろう。さすれば同じく平均だけの仕事をするものをもって一人前の任務を終えたものとみなすことが
出来ようか。僕はかくのごとき問題で長く
頭脳を痛めたが、恥ずかしいことにはこれを自己に応用して問題を解決し得なかった。しかしてこれは今もなお出来たとは断言しがたい。
この問題を提出したならば、
何人もそれは国柄や年齢にもよろうし、社会の位地職業等にもよろう。五十歳の男と二十歳の青年と同一にこの問題に
当つることは出来ぬというであろう。一人前の
業を客観的に一定することが出来ればまことに気が楽であるが、とても
諺にあるごとく、
「
田舎の一
升は
江戸でも一
升」
というわけにはゆくまい。僕もまた幾ぶんかそう思うけれども、二十歳の者なら二十歳の一人前並みであるか、
丁稚奉公の職にあるものならば
丁稚の一人前のことをなしたか、一国の
宰相なら宰相として一人前の仕事をしたか。こういうように一人前なる意義をせまく取りてこの問題を解決せんとすれば、恐らく各自に解決が出来ると思う。しかしいかなる問題もこれを根本的に解決することは容易ならぬことである。ゆえに根本的でなくとも、一時的の解決にてもよかろうが、とにかく幾らか安心の出来るだけの解決はしたいものである。
自分は果たして一人前の仕事をなしたかというのと、自分は果たして一人前の人間であるやということとは、二つの問題であって、もちろんそのあいだに少なからざる差違がある。今しばらく仕事について
愚説を述べてみよう。
一人前の仕事という分量は
何人が定めるのか、これをきわめて具体的にわかりやすく
譬えれば、学生の身なれば一日の一人前の仕事は
授けられた学科を習得し、点数は百点に達しなくとも、七十点も取れれば一人前とみなされるであろう。商売人であればその日の取引を残らず
結了することであり、一家の主婦なれば一日のあいだに
為すべき
掃除なり料理なりその他
夫に対する義務、子供に対する世話をも
首尾よく
為しとげることであろう。右は一日の仕事をいったのであるが、これを一年を通じてその日その日の務めを
完うし、ひいては終身これを継続せば、この人はたしかに一人前の仕事をした人で、天にも地にも人にも恥じぬ人であろう。古人の言のごとく、
「
世に
在ること一日ならば、一日の
好人と
做るを要す」
との心掛けを連日実行して、一生を
貫けば、その人は
実に好人である。
しかるにこの例について起こる疑問は、
定規として用いた標準はみな自己以外にあることである。学生ならば学校の規則と教師の要求する業務を行うのである。商売人ならば他より起こる取引を
完うするのであり、婦人ならば家政上のことを、いわば余儀なくさせらるるのである。ノルムは
定規なりといったが、この定規は自己以外に、
世人がわれわれに期待する業務の分量であり、してその分量は、同じ境遇にある普通の人が
為しつつある分量であって、甲も乙も
丙も
丁も
やり得るのだから誰れでも
やるべきものと定められている分量である。俗にいう
世間の勤めとはこのことをいうらしい。
ここで僕の心を苦しむることは右のごとく一定の職務とか地位とかが要求するのなら、ずいぶん明白に寸法に従って測り得るが、しかし
俺は一人前の人間なりやというにいたっては、仕事をもって測るのでなく、思想をもって測るのではあるまいか。果たしてそうとすれば自分の心を測るノルムは果たしていかなるものなりや。またどこにありや。
もしノルムにして自己以外にあるものならんには、自分の
勝手にならぬことは確実である。たとえば牛肉屋に行き、
俺は人並みよりも大食であるといったからとて、一人前として五十
匁なり六十匁なりを持っては来ない、私は小食ですと遠慮したとしても、一人前の注文すれば牛肉はやはり三十
匁である。
己れは
碌な教育を受けなかったといったからとて、自分が一人前に足らぬ
業をすれば世間は
斟酌せぬ。私は最高教育を受けた者だといったからとて、一時の尊敬を受くるかは知らぬが、その人格にいかがわしきことがあれば、彼に対する尊敬は永続せぬ。学問は人並み以上でも人として果たして一人前なりや
否やはおのずから別問題である。
故に人を
測るについて、
目方をもって
某は
何貫ときめることは出来る。
丈をもってして某は何
尺何
寸と定むることも出来る。そしてこの人の
貫目、あの人の身長は人並みとか人並み以上とかまたは以下と判断することも出来る。それと同じく無形なることについても学問は人並み以上とか、談話は人並み以下とか、思想は人並み
優れて高いとか低いとか、かく別々に
測ることは出来る。こういう体格、知力、才能は根底において相互に関係があるかも知れぬ。たとえば英国の王立学士院では英国一流の学者を網羅してあるが、彼らの
寸尺貫目を測ると平均人よりはるかに以上に当たっている。この点より推測すると学問の出来るものは
脳髄もよい。脳髄のよい者は体格も偉大にして
肉附もよく大きいという関係があるかも知れぬ。
しかし必ずしもそうとは断言されぬ。ナポレオンのごとく一代の豪傑にして身長の低い者もある。ことに学者中には
頭脳の透明
鋭利な者にして肉体のこれに伴わぬものがたくさんある。ゆえに人の力を種々に区別し、そしていずれの力では人並み以上とか以下とか、個々別々に離すことは案外たやすいことで、また普通に行わるる方法である。専門家が
世人よりたっとばるるのもこれがためである。
専門家というもあながち学問に限るのでない。いかなる芸、いかなる職業においてもある一方面に練習を
加え
優れた者は世に
貢献することが多い。その専門の道については、たしかに普通人の標準に比し一人前以上の仕事する人である。前に述べた芸人などの例はもっとも
能く当たることであるが、これはいわば人を
幾多の
片に切り、そのもっとも長じた所を一般的ノルムで測るのである。
しかるに専門家中には、その専門に
熱中し、他の
天稟の力を発達せしめない者がたくさんある。その
怠りたる力をもって測れば遠くノルムに及ばぬ者も
間々ある。すなわちかかる人は
全人として見れば一人前に足らぬ人である。
己れの職業については一人前の仕事をしたと称するも、人としては一人前の人ならぬ人が多い。学者などのうちにはほとんど人間失格者のごとき人がある。自分の専門の範囲については大家であるが、人間としてはまったく成っておらぬ場合も往々ある。むかし
孔子は、
「
君子は
器ならず」
といったが、学者はとかく器械化しやすい。ゆえに、世俗の人がややもすれば学者をぼんやりした人間失格者のごとくいう。しかし
実地家の中にも同じ
過ちに
陥るものが多い。すなわち実業家と称する人の中には自分の商売を進むるに
鋭く、その成功のためにはほとんど人倫を
紊すも
恬として恥じざるのみか、かえってこれを誇りとするがごとき人をしばしば見受ける。かかる
風あるものは人間失格者としか思われぬ。
おそらく人間として平均の調和を
失えるものは、学者よりも実業家にかえって多いかと思われる。
譬えていえば、人の
腕は
身幹に比して
何分とか、たいてい一定した割合がある。この割合を
越えても
不具であり、不足しても不具である。いわゆる世の実務家あるいは実業家などには
手の長過ぎる人があるとすれば、学者
間に短か過ぎる人のあると同然、両者ともに不具なりとの
譏はまぬがれまい。
かくいったからとて僕は専門に集中することをやめて、人間一
人並みになるには、あれも少し、これも少しと音楽も商売も政治も踊も大弓もやれというにはあらぬ。仕事するにはよろしく専門的であるべしと僕は確信している。堂に
昇らばよろしく
室にも入るを要する。しかして
甲がその専門についてある点まで上達すれば、乙がまた他の専門についてある点に達するに比べて専門がいかに違っても、各自の
造詣は深さ高さによりて測り、たしかに
某は何の道においては人並み以上なりということが出来る。もしかくのごとき人にしてたとい非倫のことを
為したとしても、その人はやはり専門については一人前の
分をなしたものといわねばならぬ。しかるにこの人は果たして人として一
人並みであるや
否やにいたっては疑問であるといわねばならぬ。
しからば一人前の人となるのと、一人前の仕事をするのとはまったく別であろうか。人としては不具者であるも、仕事をして
衆に
優れたならば、それで甘んじて死すべきか。この問題になるとおそらく人々の考えに
大分の相違があるであろう。
今日のごとく功利的思想のさかんなる時代においては、人となりは一人前ならなくとも、仕事の
効果さえ
挙ぐるを得ば人として生まれ来た
甲斐ありと信じ、仕事に重きを置いて人となりを
顧みぬであろうが、しかし真に偉大なる効果を挙ぐる
仕事師は、その人格においても人並み以上たらねばならぬことがだんだんに分かって来はせぬか。
「文は人なり」
というが、人格を示すもの
豈に独り文のみならんやで、政治も人なり、実業も人なり、学問も人なり、人を
措いては事もなく
業もない。一人前の仕事を
為し
遂げんと欲する者はあらかじめ一人前の人となることを心がくべきものと思う。一人前の仕事さえ出来れば、一人前の人なりとは断定し
難きものでなかろうかとは、僕の常に疑うところである。
これを
譬えていえば、ここに
数多の
器があるとする。これらの
器――仮りに
徳利とすればその仕事は水を入れるにある。そしていずれもその容積は異なっている。大きいものは一
石も
容るれば小さきものは一
勺も容れ得ぬ。しかしいかに
小なるも
玩具にあらざる限りは、皆ひとかどの徳利と称する。ただ何の実用にもならぬほど小さければ徳利一本といわずに玩具一つと呼び
做す。してみれば徳利の徳利たる
所以はある最小限以上の容積すなわち分量すなわち仕事にあると思わるれども、分量の
多寡には大差がある。人も同じく多数の者が同種類の仕事に従事していても、仕事の能率の上に非常なる差があっても、
白痴でなければ、みな一人前と
算えらるるであろう。
しかるにここに大いに考うべき一条は各自が果たして各自の容積いっぱいに水を含めるや
否やの問題である。四
斗樽大を
備えても
空なれば四
升樽にも劣る。二
合徳利でもいっぱいに
満つれば一
斗入りの
空徳利に
優さる。人もどれほど「
王佐棟梁」の才であっても、これを利用もせず
懶惰に日を送れば、
小技小能なるいわゆる「
斗の
人」で正直に
努める者に比して、一人前と称しがたく、ただ
大なる「
行尸走肉」たるに過ぎぬ。してみれば一人前の仕事とは各自がめいめい
天賦の才能と力量のあらん限りを尽すことであろう。果たしてそうとすれば一人前の仕事を計る基準は当事者めいめいに存在するもので、
己れ以外に求むべきものでなかろう。すなわち己れの仕事を計るものは己れ自身である。英国の大詩人テニソンの句に、
Self-reverence, self-knowledge, self-control, ――
These three alone lead life to sovereign power.
(自尊、自知、自治の三路は、一生を導いて王者の位に達せしむるなり)
と。太古ギリシアの
神託に、
「
己れを
知れ」
とありしは自己の性質能力を
覚り、もって自己の使命の何たるを認識することで、世には人を
知らざるを
患うる者がある。人の
己れを知らざるを
患うる者はさらに多いが、
己れを知らざるを
患うる者ははなはだ少ない。
冒頭にいうがごとく僕は永く自分の身に
顧みて、我は果たして一人前の仕事を
為し終えたるか、我は果たして一人前の人となりしかという問題について、いささか所感を述べたが、これが解決は
遺憾ながらいまだ述ぶることは出来ぬ。恐らくは
何人といえども、
己が身に
顧みてこの問題を提出したならば、
確固たる答えを
為し得るものはあるまいと思う。もし為し得る人があるとすればもって
世人に示して欲しい。僕がここに自分の
迷いの
径路を述べたのは、同じ問題に苦しめる人の参考に
供したいからである。
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克つといえば
誰しもただちに強い、すなわち力の有るという思想と連関して考える。しかして強いあるいは有力というについてただちに起こる考えは少なくとも二種ある。一つは人に負けぬこと、一つは人に勝つことである。ゆえに
克つことについても、この二
種の考えが含まれている。
字引を見ると、
克の字はもと家を
支うる材木の意味であり、したがって人の場合には重荷を
荷って
堪える意を含ませてあると
聞くが、これはいわゆる勝つ
所以を最もよく表したものと思う。
克つ人といえばとかく外部の敵に勝つように思わるるが、その外に障害物を一
掃する人、もしくは
破壊する人と思われる。また
野蛮人の社会においては、破壊する人が一番の強者として尊敬される。ひとり野蛮人のみならず、進歩したる今日の社会においても、ややもすれば乱暴に破壊する力を
逞しゅうする者が最も強いように信ぜられ、何かぶちこわすことが偉いことにされている。わが
輩が往年
塾にあったとき、食堂で茶碗類をこわすものがあると、人に強い
奴と思われ、自分もまたそう思うらしく、あるいは
洋燈でも
叩きこわすと、強い
奴と
賞め
讃えられた時代もあった。これはあたかも茶碗やランプを相手にする者は力あるものと信じ、取りも直さず器具に
克つことをもって偉いこととみなすのである。
つまらぬことではあるが、今もなおわが
輩の記憶に残れることがある。十余年以前であった。あるところに
宴会が開かれ、当時議会で
羽ぶりのよい有名な
某政治家が招待せられ、わが輩もその
末席についたことがある。酒
数行、
主客ともに興
酣となり、談論に花が咲き、元気とか
勝気とかいさましい議論の風発せるあいだに、わが輩は退席せんとして玄関に出た。某政治家も
爛酔して前後もわきまえず女中の助けをかりて
蹣跚として玄関に来たが、自分の強さ加減を証拠だてるため、女中が
冠らせた帽子を、
戦く手より奪いとり、玄関の柱に
叩きつけ、意気揚々として車で帰ったことがある。この時までわが輩はおおいにこの政治家の人物を尊敬したが、このいわゆる強さを見て、
「ハハア、かねて聞き及べる
某の
硬骨とはこのへんが程度かな。この人は古シャッポを相手に
克つ人だナア」
と思い、
爾来大いに尊敬の念を失ったことがある。この前にもその後にも、他人についてこれに類した
事実をしばしば目撃したが、こういうことが果たして強い証拠であろうかと思うと、何となく人を動物視したくなって来る。
またこれに類する話であるが、われわれがしばしば出会わすことは自分の勝った
手柄自慢話である。
俺はこういったら先方は一言もなかったとか、向うを大いに
へこましたとか、最もしばしば耳にする語はこうこういって
やったなどと、語る人の言によれば、いかにも先方は恐れ入ったように聞こゆるけれども、さて先方に
質してみると、一
向やられたともなんとも
歯牙にかけないでおることがある。これらは独り
相撲で
力んでおる人である。
世には、かくのごとき児戯に類した
示威運動により
怖れたり、またはこれを偉いもののように思う者も多くある。論より証拠、おりおり
日比谷の近辺をはじめ諸所に行わるるモッブ騒ぎを見ても分かる。自分から進んで他を
威赫したり、あるいは苦しめたりするのは、未開の社会における強さである。もちろん文明の進んだ今日とても、なさけないことには、かくのごとき示威運動の必要なる場合もある。しかしこれは他の手段方法がすでにまったく尽きた最後になすべきことで、未開国ならいざ知らず、法治国においてはかくのごとき方法によりて自己の意志の
鞏固なることを示すを必要とする場合ははなはだ少ない。
かつまた人を
威して
克つのは、みずから
恥ずべき
下劣なる勝利である。また個人々々の一身上にとりても攻撃的態度をもって他人にせまる必要は、はなはだ少ないと思う。しからば文明国にては文明の進歩とともに強力が減退してますます人が柔弱になるかというに、決してそうではない。減退するのでなく、強さの形、力の現れ方が変化するのである。
いわゆる強さの形が変化するというは、
克の字について前の「
説文」にいえるがごとく、重荷を
荷うて堪えること、すなわち
辛苦艱難に堪える、
耐忍の力あることをもってその強さが計られる。他人より
侮辱をうけ、カッとなりてこれに手向かいするは、一見極めて勇ましく思われ、第三者より
見てにぎやかにおもしろく、見物としては
誂え向きである。これに反し打たれても
蹴られてもジッとこれに堪えるのは、はなはだ陰気で
卑屈のごとく、普通の人にはちょっとその強さを見ることが出来ぬ。
韓信が
市井の
間に
股をくぐったことは、非凡の人でなければ、
張飛が
長板橋上に一人で百万の敵を退けたに比し、その勇気あるを喜ぶものはなかろう。進歩したる人にあらねば真の強さは
忍耐にあることを
会得し得ぬ。
僕は好んでプルタークの『英雄列伝』を読む、読んでいるあいだに古代の英雄豪傑の勇気
凛然たること、いわゆる強いことに何もかも忘れて
震い上がるごとく感ずることがある。しかるに『新約聖書』を見ると、その説くところはなはだ
柔和にして強みがさらになきにかかわらず、読んで行くあいだに犯すべからざる力を感ずる。百万人が襲来しても、
毫も動かざる心の強みを与うること、『英雄列伝』の遠く及ぶところでない。もっともこれは誰れしもかく感ずるとは断言することを
憚るし、あるいはわが輩一人の所感であるかも知れぬけれども、同感の人も必ずあろうと思う。わが輩の信ずるところによれば、いわゆる世人の強いと称する
匹夫的の勇と、霊的に強い沈勇とのあいだには
大なる差違がある。
絵草紙や講談師の筆記にある
木村長門守が茶坊主のために
辱を受けたとき、
起ってこれを斬り
捨つることは、なんらのめんどう手数もなかったであろうし、また女子供らの
喝采を博するためには、たちどころにこれを切り捨てたほうが勇ましくも思われたであろう。しかるに彼の精神を
酌み得るものは、彼が
眉間に傷をうけ、しかもそれを茶坊主輩の手よりうけながら、なお
泰然自若としていたのを見て、心ある者は泣かずにおられぬ。かつこの若貴公子は真に強い人であると賞嘆するを禁じ得ない。
ドイツの先帝フリードリヒ陛下が不治の病気に
罹りて数日間病床に
呻吟し、しかもその病気は苦痛の最もはげしいものであったので、かたわらに
侍するもののみならず、国民全体がふかき同情をよせ、一日も早くご
平癒あらんことを祈った。あまりに苦痛のはげしいときは、
呻りでもすれば、幾ぶんか苦痛の気休めにもなり、また世人はよく覚えず
呻りやすきものであるが、帝は決して
呻られたことなく、またかつて苦しい顔色を示されたこともなく、つねに
莞爾として左右に接せられた。ほとんど病苦のその身にあることを知られなかったようであった。
崩御の数日前、今のカイゼルを
枕頭に召され、
「
小言を言わずに、堪うることを学べ」(Lernen zu leiden ohne Klagen)
と
訓えられたが、フリードリヒ帝の強さは相応に
解った人でなければ
図り得ぬことである。ドイツの植民地よりまっ
裸の黒人を連れて来て先帝の病床に
侍せしめ、あるいは子供を左右に侍せしめたならば、
彼らはおそらく先帝はなんらの苦痛もなく、やわらかい
布団に
横臥しニコニコと喜べるものと思い、しかしてかくまでにうれしそうな顔しておらるるなら、何ゆえに外出して馬にも乗り、観兵式にでも出られぬと疑ったであろう。
桂公爵の人格もしくは政見等については人々の考えは種々に分かれているようであるが、公の
ただ人ならざりしことは、
何人も同意であろう。して
辛抱づよい点は公の長所であった。
長日月病床に
臥しながら、公の身辺に
侍べる者にさえ苦しき顔を見せなかったという。公に
知られぬようにこっそり
覗いて見るとさも痛そうな顔色をして痛みある局部をみずから
摩っていても、誰か病室に入れば、ただちに
面相を変え、痛みなき
風をよそおったという。
戦場に死するはことの外たやすい、何故なれば死ぬように万事仕向けてある。すなわち周囲が死を
促がす、ゆえに見事に
死ぬ。しかし長らく
病疾にかかりてなお帰るがごとく
斃るるは容易の業ではない。強き人はよく耐える。よく耐える人を強者という。
我々の交われる人々の中にも、つくづくその人物を
窺うと
心底強いものがたくさんある。
残念なことには我々はそういう人物をつくづく見ることを勤めない。
知らざりき仏と共におきふしてあけくらしける我が身なりとは
とは
光俊朝臣の述懐であるが、歌の「
仏」という代りに武士なり
丈夫なりの
強い人格の文字を用いても同じことになる。しかつめらしく具足をつけ
威張るものは、古来
猪武士と呼ばれている。
これに反し外見はおだやかにして円満に、人と争うことなきも、しかも一
旦事あるときは犯すべからざる力を備えた人を真の武士といっている。しかして世にはかくのごとき人がたくさんある。見たところ、吹けば倒れるかと思われる柔しい男にして、いよいよというときには思いがけない力を示すものはたくさんある。この前英国の巨船タイタニック号が大西洋に沈没したときの話を聞くに、最後にいたりながら
泰然自若として落着きはらい、死を見ること帰するがごとく、
従容として船と共に沈めるもの数十名の多きに達したという。かくのごときは大なる勇気、強き力あるものでなければ出来ぬ
業である。平生は
威張ったこともなく、おだやかに
算盤を
弾ける実業家でありながら、かくのごとくなるは
実に見上げた人々である。人の強みもここまで来なければならぬ。
かつてある軍人に満州の戦場において日露両国兵の優劣
如何を問いしに、その人の言に、
「ロシア人は死するも
活くるも神の力により、働くも働かぬも神のためなりと、こう考えていたらしい。ゆえに
卑怯者もたくさんあったが、何ごとなりとも命令を受くると、人が
居ろうと居るまいとを問わず、神のためと思ってその任務を果たすことにつとめた。しかるに日本兵は
煽てなければ働かない。決死隊と称するものも、
何人か彼らの花のごとく散るありさまを目撃する者がなければ、ことに将校が現場に居る場合でなければ、士気はなはだ振わなかった」
と物語ったが、あるいはそうであったかも知れぬ。いまだ一般民衆の中には強いという観念ははなはだ幼稚である。むしろ猛獣的の一見して人が
己れを怖れるとか、あるいはいつでも人に
噛みつかんとする気が
顕われねば強いと思わぬものもあるが、これがそもそも人を弱からしめる手段ではあるまいかと思う。議論をしても、理屈を述ぶるよりは声の高いほうが勝つと思い、あるいは悪口でも
吐くを元気と思うごとき世の中では、真の強さはちょっと
解りかねるであろう。
昔のスパルタ人の教育法は無やみに
武張って、勇ましくいさましくとのみ教えた。わが輩も年のわかかった頃、スパルタ式の教育法にはなはだ感服したこともあるが、しかし同国がこの教育法によりて何をなしたかと考うると、はなはだ心ぼそい結果となる。かくいったからとてわが輩は決してスパルタ式教育がことごとく悪いといわぬ。ただあれだけではいかぬというのである。すなわち精神的勇気を養わずして猛獣的に強からんことを養うはスパルタ式教育の大なる欠点である。これは今日もなお同じことである。ある青年の道徳品行を観察する人はかつてわが輩に向い、
「某県より来る学生は、上京当時はすこぶる
硬い、なんとなれば某県にある時はいわゆるスパルタ式教育法を受け、猛獣的に強くなっているからである。しかして最も早くかつ
烈しく
堕落するのは彼らの仲間である。なんとなれば彼らは強さをそとに求むればなり」
といったが、精神的勇気を養わなければ、真の強い人となることは出来ぬ。真に
克つ者は
己れに
克つを始めとなすべく、しかして後に人に克つべし。しかるに往々この順序を逆にするから結果がおもしろくなくなる。
外よりは手もつけられぬ要害を内より破る栗のいがかな
栗のいがも強さを助くるものではあろうが、これが力であると思うは大間違いである。力は内にある確信と、この確信を実行するためにあらゆる障害に
堪える意志である、しかしてかくして得たる力が真に強き力である。
真の力は内に発し、内に練られ、内に磨かれ、内に養われ、内に
貯えられ、内より
溢れて外に流れるから、十分余裕がある。ゆえに内、
己れに
克つものは外、世界にも勝つことが出来る。己れに克つこと
能わずして世界に勝つことは、一時的に出来ぬこともなかろうが、恒久の勝利を得ることは望み難い。古人の書に
曰く、
「自責の外に、人に勝つの
術なく、自強の外に人に上たるの術なし」
と。太古、
禹王が、「一に
能く
予に
勝つ」といったが、後の学者はこの言を評して、「君子この小心なかるべからず」といっている。
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西郷南洲が始めて橋本
左内に会うたとき、こんな柔しい男が何で国事を談ずるに足るだろうかと、心ひそかに
軽蔑したことを、後にいたって自白している。さもあったろうと思う。
聞くところによれば橋本という人は、外見はまことに温和に柔順な好男子であったから、この人の心情を知らぬものは、この柔順らしい皮の下に、いかに燃ゆるがごとき熱血が流れつつあったかを
悟ることが出来なかった。また同じ西郷が藤田
東湖に会った後、人に向い、
「
追剥ぎみたいな人物だ」
と評したという。これもさもあったであろう。氏は
躯幹長大にしてたくましく、色が黒かったそうであるから、外観を見ては、その血管にいかに柔和な心があり、しかして母の危急を救うためには自分の生命までも投げ出すことを常人は察し得ぬであろう。また
南洲自身についていえば、
見ようによりては
外貌が
怖ろしい人のようにも思われ、あるいは子供も
馴染むような
柔和な点もあった。ちょっと見ても、その
烱々として大きくかがやく眼は怖ろしいが、その奥底にはいうべからざる愛情がこもり、近づくものをみな
惹きつけねばやまぬ
趣があったという。
こういうことは決して世に
稀でない。ちょっと会っては虫も殺さぬような柔和な、ほとんど女のごとき人でも、だんだん
交際ってみるにしたがい、なかなか
硬骨で、一たび言い出すと決してあとへ
退かぬ人もあるし、また外部から見るといかにも
凛々しく、
衣は
骭に至り
袖腕に至り、鬼とも組打ちしそうな
風采をなしていても、内心柔和な女のような人を往々見受ける。
外貌と内実との相反することは
稀でない。この柔と剛とは善い意味にも悪い意味にも解される。いま述べた女のごとくというのも、また同じく善悪両様に解される。
女々しいとか、
意気地なしにも
解れるが、僕のここに用いた女らしいというは善意に
解いたので、
温和柔順の意味である。
日本従来の教訓によれば、他人に
怖ろしく思わせるのを偉いとする
風があった。
威風あたりを払うというを
豪傑の理想とし、人の近づき得ざるところを偉いと
做したから、偉がるものは、なるべく人を近づけぬ工夫をなし、あるいは
傍若無人にして人を馬鹿にして独りで偉がった。世人もまたかかる人物を
褒める傾向があったゆえ、もし肩でも
怒らして往来を
濶歩するか、あるいは人の気にさわることでも大声にしゃべり、相手の人が、病犬が
吠えるかと疑い
避ければ、これは
怖くて近づかぬのだと解してますますこれを行う。
文化の進むにつれて近頃はだんだんこの豪傑気取り
連が減って来たようであり、また今後もますます減るであろう。ことに洋服でも着るようになれば、減らざるを得ない。はなはだつまらぬことながら、洋服では
衣は
骭に至り
袖腕に至る筆法は行われない。シャツを着たり、靴を
穿いたりすると、行儀も改っておとなしくなる。しかし洋服を
脱いで日本の
浴衣にでも換えると、従来の筆法が最もあざやかに現れて来る。汽車や電車に乗ると、
胸毛を
曝らし
太股を現すをもって英雄の肌を現すものと心得て、かえってそれを得意とするものがある。
なおこれと関連して世に誤解された教訓は、「
巧言令色鮮かな
仁」ということである。言語を
鄭重にしたり温和にすれば、すぐに
巧言と解し、威儀をもって語れば
令色と曲解し、すぐに
鮮かな
仁と結論をくだす。この
苛酷なる判決を
避けるために、
言を
巧にし
色を
令くせんとする者も、つとめて
荒あらしくする
風がある。心の内と外の
風采と一致せぬことは、西洋よりも日本において最も
烈しい。
僕は今このことについて善悪を議論せんとするものでない。事実がかくあると単純に
剛柔の区別につき一言したいのである。往事の書生が、なるべく
外貌を粗暴にし、衣はなるべく短くし、
髪はなるべく
梳らず、足はなるべく
足袋を
穿かなかったような、粗暴の
風采はなさぬ人が多かろう。ゆえに外貌のことにつきここにかれこれいう必要はなかろうと思う。僕がここに剛柔を説くにも、外貌に現れた剛柔と説かんとしない。ことに実業に従事する者のうちにも、
「
商人の、道に賢き笑い
様」
商業のごとく客を相手にする職業にある人は損得の関係上からも外貌をなるたけ柔和にし、もって人を
惹きつけるにつとめるから、なおさら外貌のことを述ぶる必要はあるまいと思う。これらの点に関してはむしろ学生に述ぶべきことゆえ、今はここにこれを見合わす。
さて心の
剛柔とは、すでに前に女という字についていえるごとく、善意にも悪意にも解せられる。剛が過ぎれば剛情となり、
頑固となり、
意気地となる。柔に過ぐれば
木偶となり、
薄志弱行となる。極端に失すればいずれも
悪しくなるが、
度に過ぎぬ以上は、すべからく
剛毅でなければならぬ。
自分の所信を貫徹するためには、一たび
固めた決心を
抂げぬ、あくまでも、左右の言にも耳を
借さずに猛進するくらいの強いところが必要である。さればといって、剛ばかりで、慈悲もなく、人情も捨て、全然柔和のところを失えば、これ他人に不幸を与うるのみならず、自分も心の全部を尽すわけに行かぬから、つねに不幸を感ずる。剛柔が
能くその分を守りその調和を保ちて、はじめて円満なる人格を作り上げる。
僕は近ごろある人が僕の知人を批評するのを聞いた。その言に
曰く、
「あの
男はまことによい男だが、惜しいことには、宗教家であるため、弱くて
不可ぬ。あれにいっそう
骨っぽいところがあれば、実に見上げた人間だのに」と。
この知人は
耶蘇教信者たることを思うて、僕は、この批評が一部あたれることを考えた。一部あたれるというは、この知人は言葉
遣いと言い、行動と言い、まことに柔和なところがあるゆえである。
氏がかつて心を宗教に寄せる前には、剛情で始末におえぬ
硬骨漢であったが、ひとたび信者となってからは手を
覆したごとく温和な柔順な、涙もろい人に変った。この点より見れば彼に対する某氏の批評は一部あたれるものであるが、さるにても宗教なるものが人を柔化するの力あるも、剛化させる力はないものであろうかという問題が浮び出る。
かつこの問題は一歩を進めると、彼のいう
骨っぽいとは何を意味するかという疑問も起こり、
延いては近ごろ称せらるる硬教育もいかなるものであるか、疑問として胸に浮ぶ。しかしこれらは余談に流れるからしばらくこれを
措き、お互いにその心の持ち方を果たして剛に向けるか柔に向けるか、いずれに重きを置くべきかは、重大なる問題で、各自が慎重なる判断を下すべきことと
思う。
先天的に剛に出来ている人と、同じく先天的に柔に出来ている人とあるは、あたかも動物にも
亀もあれば
海月もあり、植物にも
栗もあれば
苺もあるがごとくである。すでに先天的に出来ているものを、
強いて
俺はこれから剛にする、俺はこれから柔にすると、
天賦の性質を
矯め、
束縛することはすこぶる難事であるが、しかし俺はあくまでも剛である、俺は何事にも柔であると一貫して
遂行することも出来ぬ。これは矛盾するようであるが、人がこの世に処するあいだには、あるいは剛に出ねばならぬことあり、あるいは柔ならねばならぬことがある。
人間の
体躯も骨ばかりでは用をなさぬ、筋肉もあれば
脂肪もある、腹や
股が柔であるから、人体は柔であるといえぬ。
爪や
歯牙があるから剛だともいわれぬ。ゆえに剛だとか柔だとかいって、いずれか一方を主義とすべきものでなく、事に触れ機に接して、身を処するにこれは剛にすべく、是は柔にすべく、その場合に応じて二者の調和よろしきを得て、人間は始めて円満となるのである。事によってあるいは剛となりあるいは柔となるというも、それは決して矛盾でない。前にいった橋本にしても藤田・西郷にしても、両方の性質があったから、外見と性質とがちがうように見えたのであろう。
たびたびいう通り人世は多数の人とともに乗り合う
渡船のごときものである。人とともにこの
世を渡るには、おだやかに
意気地ばらずに、譲り得るだけは譲るべきものと思う。僕のしばしば引用する『
菜根譚』には、
「
径路窄きところは、一歩を留めて、人に行かしめ、
滋味濃かなるものは、三分を減じて人に
譲りて
嗜ましむ、これは
是れ、世を
渉る一の
極安楽法なり」と。
また、
「世に処するには一歩を
譲るを高しとなす、
歩を
退くるは即ち歩を進むるの
張本」
といい、世渡りの秘訣は人に譲るにあることを
繰り
返してあるが、実にその通り。自分の権利を最大限度に要求することははなはだ卑劣に
陥る
所以と思う。不思議なもので、人生には理屈をもって説き得られぬことがたくさんある。
沙翁の言にも、
「世の中には君の小さき哲学の夢にだも思わぬことが多い」
と、
昔時の物語にもある通り、出来るだけの力をもってなるべく多く握らんとすれば、かえってわずかの分量しか手に入らぬ。やわらかく握るほうがかえって多く握れる。これはむろん
攫む工合いにもよりけりであるが、ここに述べたのは
粟とか米とかの例に用いたものである。鉄棒とか金棒とかならば、また例を変えねばなるまいけれども、恐らくこの
世における幸福なるものは
粟、米のごときもので、やわらかく握ったほうが余計に
攫み得るものではあるまいか。権利とか名誉とか利益とかいうものであれば、他に握りようもあるか知らぬが、僕は人生の
妙味とか真の幸福とかを重く思うから、むしろやわらかく握って、すなわち自分は引っ込む態度でなるべく人に譲るをもって人生の真味を味わい得るものと思う。
前にいった宗教家なる知人が、おとなし過ぎて惜しいと批評を受けたのも、もっともなことである。
基督教のごとく、
柔和を
旨とする宗教にては、
はでなことがはなはだ少ない、
喧嘩も少なければ、議論も少ない。ドラマチックのことがはなはだ
稀なるゆえ、世の見物人より
喝采を受けることなくして世を過ごすが、しかしなお華麗に世を渡るよりはこの方がかえって人生の真味を味わわれると思う。
かく人情の大体より考うるも、そうありそうに思われる。なんとなれば
諺にも、「
世は
情け」という通り、人情が
敦厚なれば、――もっと
砕いていえば親切とか思いやりとか誠とかがあると、人世は
美わしきもの、生ける
甲斐あるもののように思われる。しかしてこれらの親切、思いやり、誠がどういうふうに現れるかというに、こちらの親切、思いやり、誠を現すと、その反響として相手方にも現れ出ることが多い。いわゆる売りことばに買いことば、こちらが
柔和におだやかなる心をもって人に接すれば、相手の柔和な心を抽き出す。鐘もうちよう、人の心も
触りようである。お互いに電車に乗っても、こちらが立って席を譲れば相手も、
「ありがとうございます。まあどうぞおかけ下さいまし」
と遠慮の心も起こる。しかし無理に押し込んで入れば、なに
此奴がという気が起こりやすい。世を渡るには、
「
御免なさい
御免なさい」
と遠慮がちなることは、必ずしも
卑怯とはいわれぬ。あるいは人によりては、これはずるい方法で、猫を
被るとか、猫なで声で人を
瞞着するとか、西洋でいう
羊の毛を
被る
狼のごとく、偽善の最も
甚だしきもののように思うものもある。むろん偽善の一方法ともなり得るが、しかし恐らくは世の中のことで偽善になり得ないものはあるまい。柔和を偽善と
誣うるならば、それと同じく
剛毅もまた偽善に供することが出来る。決して
偽ものがあるからとてその者を非難するわけに行かぬ、むしろ偽者を出すものは本物が善いからである。悪い者なれば
偽が出来るはずはない。善ければ善いほど種々の
偽も出来る。
猫被りが多いというは、取も直さず柔和は
何人でも重んずる証拠である。
「
憎まれ
子世にはびこる」という
俗諺があるが、これは原因と結果とを
顛倒したことである。世に
はびこるものは憎まれる、
はびこらずに
謙遜に柔順なるこそ真に世に処する妙法である。かつこれが持久の
基と思う。聖書に、
「柔和なる者はこの世を
嗣ぐべし」
とある。この世を
承けて引き継ぐ者は柔和なる者なりとは、柔順なる人は永久にこの世の継続者である。
換言すれば柔順は永久の徳なり、
剛いもの、力をもって世を圧倒するものは、たとえ一時の効はあるとも、永久には継続せぬ。
獣を見ても分かる、
虎、
獅子、
熊などのごとき猛獣は年々その数が減じつつある。もし統計を取ることが出来れば、彼らの減少率のはなはだ
迅速なることを示すであろう。こんにちの状態にて進行すれば、数年ならずしてこれらの猛獣はこの世に跡を絶つであろうと、動物学者はかえって心配し、彼らの保存法を講じている。
しかるにこれらの猛獣より見れば、
卑屈らしく女々しく思わるる牛馬羊のごときはかえって年々増殖する。すなわち柔和なる動物がこの世を継いで、烈しい猛獣は年々歳々にその跡を絶ちつつある。人間においてもまたそうと思う。野蛮時代には
武ばる一方で、永久に続くことは出来ぬ。
喧嘩して世を渡るものは喧嘩両
成敗で共倒れして後がつづかぬ。
武士のけんくゎに後家が二人出来
相互に殺し合うゆえに永続せぬのである。猛烈をもって勇気なりと思う時代はまだまだ野蛮時代たるを
免れぬ。武骨で強そうなるをもって武士道の教訓のごとく思うははなはだ幼稚なる武士道である。理想に富める武士はものの哀れを知り、仁の徳に
長け、温和に柔順なものである。
かつて英国のある子供が、その父に gentlemanly とはなんの意味かと
問うたとき、父は通例の書籍に書いてある文句の切り方は
違う、ふつにはジェントルマンとリーとに切る、と思うであろうが、これは文法上正しいだけで、その内容はジェントルで切り、マンリーを加え、柔和で男らしいという意味であると答えたという。
柔和というと、いかにも自分に意志なく、人の意志に
脆く服従するごとく思うものあるが、しかし決してそうでない。柔和は意志の弱き
謂でない。もっとも一方より考えれば、かく思うも無理はない。僕の考えでは世には
抂げてもよい意思がたくさんにあり、また意思を表示するに及ばぬものもたくさんあり、あるいは意思を明らかにする必要なきものもたくさんあると思う。
意志というと言葉がはなはだよく聞こゆるも、何ごとについても明白なる意思を発表するものは神経質かあるいは小心なる
厄介者である。たとえば
衣を着るにも、
縞柄から
縫い方から
着ようにいたるまで一々
明白した意思を表示し、かつこれを
貫かんとすれば、たいていの
仕立屋または
細君は必ず手に余すであろう。三度食う
飯さえも
強い柔かいがある。この浮世を渡るに
飯の
炊きようについて、あまり明白な意思を有するものは、恐らくは生涯の三分の二は飯のために不満足を唱えて暮らさねばならぬだろう。
僕の信ずるところでは、世の中のことは判然たる意志をもつ必要のないことが多い。換言すればどちらでもよいことが多い。物を食うにも
鮭でも
鰌でもよい、
沢庵でも
菜葉でもよく、また
味噌汁の実にしても
芋でも大根でもよい。ただ特別なる場合、たとえば
来客とか病気とかの時のごときには、明らかなる意思を立てて
遂行するも必要だが、たいていの場合にはどちらでも差支えないことが多い。しかして朝起きて夜寝るまで、自分のなすこと、接することを一々数えたてれば、自分が
頓着しなくとも善いことが多くありはせぬか。相手には非常に重大の問題でありながら、自分には何の関係ないことがありはせぬか。かく思うと
無頓着というは
語弊もあるが、自分から関係せず、関係深い人に譲りて差支えないことが
数多ある。ここがすなわち僕の、「世を譲って渡れ」という
所以である。
譲って世を渡れとは説くものの、事によりては一歩も
抂げられぬこともある。しかしてまたかく大切な事柄については一歩だも決して
抂ぐべきことでないと思う。僕はどこまでも
抂げよとはいわぬ。出来るだけは譲り譲りして、どうしても譲られぬところに行けば
飽くまでもこれを固守すべきである。
とかく人は表面に現れたことのみで
測るから、人のために譲ると相手の人は図に乗ってますますつけこみ、ますますその人の権利までも犯すことが折々ある。右へ十歩譲ればもう二十歩、もう三十歩とだんだんに押し出す。ハイハイといって押されたままに譲って行くと、ついには
溝の中に
叩き込まれんとする。溝の
縁までは譲ろう。しかし
溝に叩き込まれんとする時は、ドッコイ、いかぬぞ、これより先は一歩も半歩も譲ることが出来ぬ。この場合に臨みなお譲らせようとするものもあれば、断然
御免を
蒙って、あべこべに
溝に叩き込むのが至当である。しかしてこの場合にいたり真の
強みが発揮される。
これは婦人などによく見ることである。柔和にして他のいうことを
聴き
容れ、いくら無理をいうてもハイハイと忍ぶ。どこまでもそれに付け込んで彼女の名誉や生命にまで
関渉せんとするときには、どっこい、それは
不可と毅然としてこれを
斥ける。
むかし
袈裟が遠藤
盛遠に
挑まれたときには、無理を忍んでハイハイと返事し、もって母の危急を防いだが、いよいよ最後の守らねばならぬ点にいたっては、身を殺してまでも毅然として自己を
操持した。この点にいたると婦人は
侮るべからざる強いところがある。日ごろは一つの
柔しき飾りに過ぎぬ「
簪も
逆手に
持てば恐ろしい」。こういう強味は世に処する上において、どうしてももたなくてはならぬ。
僕は種々なる人のなすところを見るに、とかく表面には剛毅を装うているものが、何か事に当たると、たちまち
脆く倒れる、松の木が風に折れると同じである。これに反し風のまにまに動く
柳は動きながらも
本性を失わず、かつ折れることなくして、その一生を
完うする。
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前章に僕は
外柔内剛につき少しく述べたが、内剛については所説のいまだ
竭さぬところがあったから、いま章をあらためて所感を述べたい。僕はいろいろなる人々と対談し、あるいは種々なる人々より受取る手紙により、世には階級の上下を問わず、年の老若を論ぜず、自分は気が弱くて困る、どうかもっと気を強くする
工夫はあるまいかと
尋ねられることがしばしばある。
この質問は僕自身が他人に接するごとに痛切に感ずることで、自分が常に気の弱きことを
矯めたいと思っているくらいなれば、
世人に対してこれが方法を授くるがごときは思いも及ばぬことである。しかし同病
相憐むという、僕自身もはなはだ気弱いことを感知し、これにつき
年来少しく工夫を
凝らしている。もしその工夫を話したなら、たとえ未熟ながらも、また直接に益する人はなくても、世にもまたかくのごときものもあるか、かくのごとき考えをもってその欠点を
矯正せんと
努めるものがあるかと思って、新たに工夫を
運らすに至る人もあろうと思い、僕は本問題を
提げたのである。
僕の友人に僕と同じように気の弱い、いわば
臆病の人がある。子供のときに、その親が当時有名なりし
某将軍につれて行き、
「どうかこの子の胆力を練らせていただきたい。今のように気が弱くては、その将来が案ぜられます」
といったとき、将軍より、
「いや
臆病なるはさほど心配が
要らぬ。
怜悧なる証拠である」
といわれ、当人はかえって得意になり帰ったことがある。臆病者は
怜悧なのか、
怜悧なものが臆病なのか、いずれが原因で、いずれが結果であるにしても、ともかくこの二者の間には何らかの関係があるように思われる。といって僕もあながち自分が臆病なるゆえ怜悧なりという考えはないが、世にいわゆる盲者蛇で、周囲のことも、前後のことも、いっさい分からぬものはその行動がちょっと豪胆らしく見える。しかしこれは豪胆にあらずして前後左右が見えぬのである。危険あるを知って豪胆に振舞うのでなく、危険あるを知らぬゆえに
豪胆らしく振舞うのである。
そもそも人生には明らかに
顕るる危険もあれば、両側あるいは地下に
潜伏せる危険もまた多い。この危険を幾分なりとも見得るものは、
怖れざらんとしても怖れざるを得ない。すなわちある意味において臆病にならざるを
得ないゆえに想像力の強きものはいよいよ
臆する。したがって臆病すなわち気の弱きを
矯正するには、盲者になったら、あるいはその目的を達するかも知れぬが、むろん我々が
気弱を矯正せんとするのは、各自の本体を捨て消極的に改めんとするのでない、見えることならますます
能く見、その危険をも見透してなお
臆しないところにまで到達するが主意である。盲者になって豪胆らしく振舞うはもとよりその主意に反する。
気の弱いことを
矯むるには、その弱い理由を考え、その理由からこれに処する方法を案出せねばならぬ。しかしてその第一の理由は身体にありと思う。しかし身体が大きく強健であるとも、必ずしもその人が強いとは限らぬ。大男にしてすこぶる健全なもので、人の前に出ると、声が
顫え、
碌々物を言えぬものもある。吹けば飛ぶような
華奢な姿したものでも、さらに物に動ぜぬものもある。ゆえにひろく身体といわないで、狭く神経質の人はとかく
気弱勝ちであるといわれると
思う。これが前にもいった
怜悧なことと気弱なこととが
結びつく理由であろう。
神経過敏にして周囲の事物に感じやすい人は、人の顔色など最も早く見分け、人のいうことの表裏をも察知する。かく神経作用の鋭いものは、すなわち
怜悧なるものは、目先きがよく利くため、とかく
人負けするように思われる。この事も一見
矛盾の感なきにしもあらぬ。すなわちそれほど物の分かるものなれば、何物も怖るるに足らぬではないかというものもあろう。しかし、ここがすなわち智能ばかりでは事足らぬ証拠である。いわゆる
鋭敏にして頭脳の
明晰なるものは、この事はこうなっているから、こんどはこういうことになろう、さてそうなれば
俺はここに処するにいかにせばよきかと案じ出す。
この解決が出来れば物が分かるだけ、それだけ多く
臆病気がつく、この解決が出来なければ出来ぬで、またそれだけ多く心配の
種子がふえるわけである。しかるにいかに
怜悧に物ごとに解決を下しても、未来に属することは、自分の見込み通りに行かぬゆえ、必ず危険の分子が
潜んである。すなわち心配の
種子が存在する。かくいえば
怜悧なるものは必ず気弱でなければならぬという結論に達するらしく
思われるが、決してそう一定せるものとは思われない。意志さえ
堅固なれば、
賢愚を問わず、百難前に
迫っても、これを
冒して断行する。
かくすればかくなるものと知りながら止むに止まれぬ大和魂
己れの行為の結果が容易ならぬものとは知りながら、なお、「やっつけろ」という強いところが欲しい。この強いところがあれば、いかに
怜悧なるものでも、決して臆病とならぬ。ところが一方の意志が薄弱なるときは、頭脳が
明晰なれば、先の先までも見えて心配の苦を増し、はなはだしく人を臆病ならしめる。しかるに人はその身体、ことに神経の構造により、一方の智力がことさらに発達し、その他の力たとえば意志がこの智力と
権衡がとれぬときは
気弱になる。なお身体の発育上、何歳より何歳ごろまでが智力のことさら伸張する時代であろう。そのころは
臆病風の最も強く吹く
期節となろう。
気弱は生理的原因に由来することがあるゆえ、これを
矯正するには、生理的方法によらねばならぬ。すなわち冷水浴を実行するとか、
睡眠が不足するものであれば、充分にこれを取るとか、あるいは営養が不足するの
虞があれば、
食物を改良するとかせねばならぬ。一般の健康状態はさて
措き、ある局部が不良なるために
卑屈となり
引込勝ちとなり、
憂欝にに沈む傾向がありはせぬか。これは僕の推測で、あるいは誤っているかも知らぬが、多くの事実よりかく
帰納したく思う。
たとえば目の不良なる人はつねに
欝陶しく感じ、したがってますます
不愉快を覚え、人の前に出るのを
厭うにいたる。それが一歩を進めると、
衆人の前に出るのを恐れるようになり、いわゆる
気弱となる。また
胃弱者のごときもまた同じく、気が始終
苛々し、つねに人と交際するのを
煩わしく思う。
煩わしいのが進むと、
怖れを生じて気弱となる。要するに生理的状態より来る不快の観念を除くを得ば、気がさわやかになり、人に逢うても快楽を
感じ、したがってますます衆人のあいだに出入し、気弱とか
怖気とかが取去られてしまう。
例により僕は自分の
恥曝しの経験を述べて参考に供したい。僕は少年のころ、物に
怖気ない、大胆不敵、あまりに無遠慮であった。両親の友人などが来ても、
臆面もなくその前に出て、しゃべりたいことをしゃべり、
家の人々の手にもてあまされた。それが二十歳前後になると、処女も及ばぬように
引込勝ちになり、人の前に出るを
嫌い、人に顔見られるのを
怖れた。いまになってその理由を顧みると、身体の
工合、ことに目に関係したのではないかと思う。かくいわばあるいは一つの笑話のごとくに聞き
捨つるものもあろうが、若い人々の参考のために一言したい。しかるにその後七、八年のあいだに、また幾分か
逆戻りして、
怖気がなくなったのは、その間に日常心懸けたこともあるが、一つには身体の
工合がよくなったためと思う。
自分の弱点を自覚するために
怖気ることがある。これは世間に多く見ることで、笑われはせぬか、
憎まれはせぬか、
嘲られはせぬかと、つねに心に
憂うるゆえに、かかる
虞ある場所には成るべく欠席せんとする考えが起こる。そうでなくてさえ、人にはいかなる人にても、秘密はあるものである。もっとも秘密だからといって、決して悪いものとは限らぬ。
何らの秘密なしと称する人こそ怪しむべきである。
何人も隠すべきものをもっている。秘密といえば何か悪事するごとく思い疑わんが、決してそうでない。
処女の
羞かしがるは何が一番
甚だしきかというに、自分の
体にありて、親にも示すべからざるものあるがためである。これは秘密にすべきものではあるが、善悪の標準をもって論ずる限りではない。いな
解剖上よりいえば、婦人が婦人としての身体を有せぬが恥ずべきことである。ゆえに各人が秘密を有すればとて決して怪しむに足らぬ当然なことである。この秘密を発見せられはせぬかという観念が人をして
怖気させるのである。
京都の
人は、「
晴がましい」という
言葉を使う、すなわち東京のいわゆる、「きまりが悪い」の意で、目立つ所に立ち、多数の
環視のもとに出ることを
晴がましいといって
引込むが、これは何か秘密とすることを発見されはせぬかというに起こる。しかしてこの秘すべきことに、何らかの弱点があれば、この念がいっそう深くなる。
前にも僕は子供時代の感情を
自白して恥を
曝したが、子供のときから顔の
醜いことをつねに笑われ、顔がお
盆のようだとか、鼻が低いとか、色が黒いとか、眼ばかり大きいとか、お
出額がどうとか何とか、つねに人にいわれたために、人の前に出ても、またなんか言われはせぬかという気になり、
怖気たのである。公然開放的の顔のことゆえ
何ぴとも見るのであるが、その見られるのが
怖気を
促す。かく何か弱点があって、
自分に
控目になることの自覚があると
怖気る。しかし容貌のごときは
腕白小僧にはさほどの感じもないから、幼少のころは平気に聞き流して意に介せなかった。しかるにそれが
年頃になると、この自覚を感じ、人の前に出ると恥かしくなり、ことに婦人の前に出ると、前に述べたる生理上の関係のみならず、
容貌の
醜なるを恥じて気が弱くなる。
かくのごときは
歯牙にだもかくる
値のなき、まことに
些々たることではあるが、世には僕と同じく気の小さなものがあり、あるいは
容貌とかあるいは身体の一部に何かの欠点あることを自覚して、
羞むものがあるように見受けるから、掲げて参考に供する。
これが
矯正策としては、顔が
醜いとても
美顔術をほどこす必要もなかろう。
蓼食う虫もある世の中にはまったく
棄てる物はない。いかに顔が醜いとても、またそれ相応の天職もあろう。ことに
容貌は
解剖的のものでなく、心の作用によりては、少なくともその表情を変えることが出来る。そして人の顔色を読むには、
骨格肉付きの
如何よりも、むしろその表情によることが多い。米国の大統領リンカーンは有名な
醜男子であった。しかるに親しくこの人に接したものは、
彼の青ざめた顔、大きな口、
凹んだ眼を忘れてその慈愛に富んだ表情にのみチャームされた。
顔の改造は出来なくとも、心の改良は出来る。また心を改良すればただちにそれが顔に現るることなくとも、またその見分けのつかぬぐらいの人から親しみを受ける価値もないように思わるるが、何を苦しんでか外部の顔のために進取の気象を
奪われ、いたずらに
卑屈に
引込勝ちになろう、と思えば心も晴々しくなって来る。
また外部に現れぬ秘密の事にしても、道徳上恥ずるに足らぬ秘密ならば、すなわち人には
明せられぬが、
己れが心に
明し、あるいは天に
明して恥ずべきことでない秘密ならば、
暴露したところでこれまた一場の笑話となるか、
愛嬌談となるにとどまり、これがために心を痛め、胸を苦しめ、人に顔見らるるを
怖るるにあたらない。
田舎から上京した人は東京
風を知らぬゆえに、何かにつき無礼を振舞いはせぬかとどきどきする。自分の心に
尋ねて人に無礼を加うる念が
毛頭なければ、動作の
調わぬことなどは、人も
宥すであろう、また自分の良心も必ずこれを
宥すものである。
事の
真偽は知らぬが、明治の初年ごろに
西郷はじめ維新の
豪傑連がはじめて
御陪食を
仰付けられたことがあったという。いずれも
田舎侍で、西洋料理などは見たことのない連中のみで、中には
作法を知らぬゆえ、いかなるご
無礼をせぬとも限らぬと、
戦々兢々とし、むしろ御陪食の
栄をご辞退申し上げんとしたものもあった。
いよいよ当日になり、
玉座に近き食卓につくと、ろくろく落着いて手を出すものも、口を開くものもなかった。そこで
西郷は
起って口を開き厚くご陪食の御礼を申し上げ、かつこれに加えて、
「小臣らはいずれも
田舎侍で、
九重の
御作法にははなはだ心得が
薄いもののみでござりまする。ただ一身をもって
陛下の
御ために
捧げ
奉ることのみを心得、他には何らの心得なきものであれば、今この席においてもあるいは
御作法に
背くごときことがあるかも存じませぬ。ただ
陛下に
対し
奉る至誠に
免じてお許しを願う」
と
挨拶して席につき、スープを飲むに、両手を
皿にかけて
捧げグイと飲んだという。
もしこれが知っておりながら、少しく奇人を
衒い、英雄を真似たとすれば、無礼の
誹をまぬかれぬが、自分の心得の最善を尽している以上は、
行儀作法に多少の欠点ありとするも、人はこれを
宥すものである。自分は
行儀を知らず、
作法が分からぬと、自分の弱点を知ったとても、人の前に出て、決して
臆することはない。またそんなことを気にして、かれこれいうような人なれば、友として交際する
価値なきものと思う。
後藤男爵が少年のころ、何かの折りに、
岩倉公の前に
召され、菓子を
饗された。地方からポット
出の男は
怯めず
臆せず、その席上でムシャムシャと菓子を食った。しかし決して岩倉公に無礼を
加うる
考えなく、ただ
食えといわれたから食ったまでで、いわば至当のことをなしたに過ぎぬ。しかるに後になって、かかる
饗応の前で
妄りに食うものでないと言い聞かされ、
男は
定めし岩倉公の
御不興を受けたであろうと思いしが、翌日にいたり
公より
昨日来た青年は菓子が
嗜だと見えるというて、かえって一箱の菓子を送られたという。しかし僕は繰り返していう。かくのごときことを聞き、
豪傑才子を気取って、わざと礼儀作法を破るものがあれば、これすなわち自己と他人を
欺くものであるが、この
欺く心がなければ、たとえ自己の弱点を見られたところで、たいした恥にならぬ。したがって一向
怖るべきこともない。
またこれに関連して述べたいことは、弱点の末の末まで
隠し得ないことを心得れば大いに気が澄んで来る。「
人焉ぞ
さんや」で、
さんとする人はただ一人だがこれを見る人は幾千万人ある。また
さんと欲する心を示すものは、目、口、鼻など頭の頂上より足の
爪先に至るまで、一つとして我々の性質を現す機会とならぬものはない。これを
さんとするも、これらの機関はほとんど
裏切りするかのごとく、我々の心情を現すものである。かく考えると
齷齪として、あるものを無しと言い、無いものを有ると見ても、とうてい永続せぬものである。早晩その真相は
暴露されるものである。
ゆえに僕はむしろクローディアス王がその画工に対し、
「我を画かんとするなら、どこからどこまですべてを画け、
疣も何も」
といった主義に従いたいと思う。むろんこれがために
迷惑を受け、他人より多く笑われ、他人より一層多く非難されることもある。しかし常に心に
戸閉まりし、つねに
隠さんとする
重荷がないだけ気軽で、大なる利益がある。要するに心のうちさえさっぱり晴れているなら、何事に
逢っても怖いことも恐ろしいこともなくなると僕は確信する。ゆえに人の前に出るにあたり
怖気が起こったならちょっと
退いて、
「
己れの心に
忌しい点があるか」
と反問するが
肝腎である。
臆病なる僕に一大興奮剤となった教訓は
沙翁の Be just and fear not の一言である。
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怖気は自信力のとぼしい場合に起こることが多い。「自分はとうていこの
任に
堪えられぬ」と思えば、手を出すことも
怖くなる。
僕がはじめて外国で外国語の演説をしたときは、草稿を
携えて行ったが、
慣れぬことばで語ることでもあり、かつ聴衆は千有余人もあり、しかも
燕尾服着用で聴講料を払って入場した
紳士や
淑女――一
目しても一
片の書生たる僕以上の人と見受けられ、
加之この時は僕の独り演説であったから、これらの聴衆を見ると、思わず
慄然と
震えた。
やがて司会者は
起って五、六分間、紹介の
辞を述べた。この
間は僕にとって、
生涯忘れられぬ苦痛の
瞬間である。
場の中央には演壇と
椅子があり、その両側には市の有名なる人々が十人ばかりずつ
控え、その壮厳なる光景を見ては、なおさら
怖気て、手足はブルブルと
戦慄した。幸いにして明るくなかったからよかったものの、もし電燈の下にでも立ったなら、いかに顔が青ざめていたであろう。とにかくも、
戦きを
抑えられぬ。愚かなことをしたものかな、こんな演説を引受けねばよかった、いっそ急病と称して
御免を
蒙ろうか、何か他の理由をつけて退席せんかと思い
煩っている時、ふと浮いた
考えが二つあった。一つは、
「ナニ
此奴ら、
服装こそ
美わしけれ、金持ちでこそあれ、
高の知れたもののみである。ことに自分の今
演べんとすることは、日本に関することではないか、この点については僕は確かに彼らに
優れている。少なくとも日本に関する知識においては、彼らはゼロ同然である、
否なゼロよりもかえってマイナスであろう。僕が今述ぶる問題の範囲内においては、彼らは取りも直さずまったく無知同様である。かかる人を相手として演説するに、何の
怖るることかあらん、この
馬鹿者奴らがッ」
としきりに彼らを
呑んでかからんとつとめたが、なかなか
呑めない。いかに心中では豪傑を
衒わんとするも、
真底よりの豪傑でないから、ますます
怖気てガタガタ
戦える。
すでにしてまた一つの考えが起こった。
「この席に来た人々は日本に関する知識を求めに来たので、決して
雄弁や
能弁を聴くつもりで来たのでない。日本人が英語を
操るのであれば、
定めしブロークンな英語であろう。演説の良否よりも、内容が半分も
解れば、それで
足るくらいに思うであろう。また恐らくは
傍聴の半数以上は聴くよりも日本人を見に来たのであろう。僕の演説を充分に解することはその期待せぬところであろう。もし彼らが僕の演説を
半ばなりとも了解し得たならば彼の人は感心によく英語を話したと思ってくれるだろう。発音の
訛りや、文法の
誤謬などはかえって
愛嬌の
種子になるくらいのものだ。なるほどこの演説は自分にとっては責任が重い。しかし聴衆にして心あらば、任の重きに対して同情してくれるだろう。ゆえに演説中に誤りを笑うものがあるとも、その
笑いは冷笑でない。また出来
損ねたからとて、あながち国名を
汚すことともなるまい。ブロークンながらも
怯めず
臆せず元気よくやるがよい」と。
かく自分勝手の理屈を考えて、覚悟をしたら、今までの
顫いがとまった。わずかに五、六分間であったが、その間に
頭脳の考えは二回変った。しかしていよいよ
起った時には平然として何のこともなく、草稿にない
戯談なども臨時に
入し、幸いに案外の
喝采をうけた。
その後、僕はこの経験を思い出すごとに自分の教訓とすることがある。それは天性
英雄豪傑ならぬものが、英雄豪傑を気取り、
傍若無人を
衒い、なに
彼奴らがという態度を
持することは、あるいはこの方法で成功するものもあるか知らぬが、自分にははなはだ
愚かなる方法であると思った。恐らくは
他人にも、かかる
借り元気は一時の成功を来たすことがあるとも、これをもって常に用うべき策とすべからざるものと思う。これ消極もまたはなはだしきものである。自分に偉い力がないと思いながら、そのない力をあるかのごとく見せ、力ある人を力なきものと仮定し、
己れを
欺き、人を欺く
芸であるから、なかなか骨が折れよう。
これに反し第二の考えは相手の人には力がある、しかも自分より
優れた力がある。しかし彼らはこの力を
濫用せぬ。自分に対して善用するだろう。我もこれに
酬ゆるに相手を
軽蔑しあるいは
馬鹿者視したりせず、最善を尽すべしと決心する。双方が共に相許し合い、尊敬と同情をもって結びつけられる。何の
怖気が起こるべき理由かあらん、何で怖気の起こるべき余地かあらん。
そこで僕が自分の恥を
晒らして物語り、
怖気る人の参考に供したき要点は、相手を
信じてかかれということである。渡る世間に
鬼はない、鬼でさえ頼めば人を食わぬ。
窮鳥懐に入れば
猟夫もこれを殺さぬ。
怖気たり
臆病な人も、他に信じてかかれば
怖るることがなくなる。僕はこの一時の経験により、自分の心理状態に一大改革を
経たように思う。あるいは読者中には、粗雑にしてかつ乱雑なる僕の演説を聞かれた人もあろうが、こんにち日本においても聴衆の前に立ち、何らの腹案もなく述べ出す。
学術上のことはさて
措き、日ごろ思っている考え、日ごろ
懐ける感情を述ぶるに、何の
怖れることもない。ありのままに口を開け、「
腸見せる
柘榴」同然にやる。隠したところが、数百の聴衆は僕よりもいっそう鋭敏なる眼をもって見つつある。隠さんとしても隠しきれぬ。急に君子顔を装ったとて、また言葉だけに
珠をつらねたとても、音調に得た所がなければ、聴衆の
嘲弄を招くばかりである。またその場に急に英雄豪傑を
真似たとて、その腹の底に
胆力がなければ、話しているあいだの姿勢にて暴露する。聴衆は自分よりも
具眼の士であると、
彼らを信じてかかれば、かえって
怖しくなくなる。同じ
獅子の
穴に入るにしても、相手が
己れを食らうなど思えばおそろしくなるが、この
獅子は
妄りに人を
食わぬことが分かれば、恐怖の念が去る。ゆえに僕は
怖気る人に対し特筆して注意したきことは、相手の人を疑うことなかれ、相手の人に好意をもってすれば、
彼らもまた君に対し好意を懐くものであると。
右に述べたのは相手を信用してかかれという意味であるが、これに相伴って必要な一つの覚悟があると思う。それは他人のことに関せぬ自分自身の態度である。いかに他人が自分に対して好意があるだろうと信ぜんとしても、自分の心に暗いところがあれば、みずから信ずる念が
乏しくなり、したがってまたみずから重んずる念が欠ける。しかしてみずから重んぜざる人がいかにして他人より重んぜられようか。
人爵的の
軽重ならばいざ知らず、心より発する尊敬などは自ら重んぜざる人に払うものはあるまい。
ゆえに人を信ずるに先だち、自ら信ずる念がなければならぬ。みずから信ずるというは自分に暗いところがない、よし他人が自分を信ぜなくとも、自分は独立しても世を渡る、またいかに他人が自分を
疎んじても、我はあくまでも自ら
重んじて、所信を
貫くという、みずから
潔しとするところがなければならぬ。僕がしばしば引用する Be just and fear not(
正を守りて
怖るることなかれ)というはすなわちここをいったのである。
自分が正しいと信ずるものは、いかなる事があっても
怖れない。したがって人の前に立っても
怖気ることがない。かの宗教改革を
唱えたルターが始めてその新説を発表し旧教家の反対を受けたときは、その
生命の安全さえもはなはだ
覚束なかった。そのころルターの友人は
彼のある会合に出席せんとしたのを止め、
「今日は家にあれ、一歩戸外に出れば生命は危険である」
と
警めたが、ルターは
昂然として、
「この町の
家屋の
瓦ほどに敵が多くとも、心に
疚しきことなき以上は、何の
怖るることかあらん」
と言い出席したという。おそらくは
怖気の根本的
矯正法は自身の正しきを自覚するにありと思う。
これに
反し自分に
最善を尽しておらぬものは、何かの時に
退けを取りやすい。恥ずかしいが、僕もしばしば自分でこれを経験したことがある。かようなことは相手も知っておるまいと、思って大きな顔している間に、はしなくも
話頭がみずから犯した罪に、すこしでも触れると、すぐにビクつき、あるいは
顔色が変わり、あるいは声が
顫え、あるいはその言うことに
辻褄が合わなくなり、あるいは
極上等に出来たとしても、
話頭を
漸々に
曲げて自分の痛いところより遠く離さんとし、然らざれば正反対に自分の弱点を弁護するごとき議論や物語をしたりする。
これは僕自身にそういう経験があるのみならず、また他人に逢っても、自分みたいなことをやっているわいと感じたことが
間々あった。たとえば前年僕を訪ねて、なかなか元気よく議論したある青年があった。その挙動を見るとすこぶる
傍若無人で、
室に入るや
否やいきなり
趺座をかき、口角に
泡を飛ばして盛んに議論する。僕はこれを見てなるほど彼は勇気精力に富むと感心した。彼が独りで
暫時議論したのち、僕にむかい、
「
今日の日本の青年に対し最も注意すべきものは何か」
と質問を発した。僕はあながち彼に対してあてつけ、皮肉をいうつもりはなかったが、あたかもそのころある地方の中学を巡廻し、生徒の
不行儀なることを、ことに痛切に感じていたから、僕は、
「行儀を正すことが目下の一大急務なり」
というや、今までの豪傑は急に
狼狽しはじめた。露出した
膝頭を気にして、
衣服で
掩わんとしたり、あるいは
趺座をかいた足を幾分かむすび直し、正座の姿に移らんとした。僕はこれを見て、ハハア、この人が今までの
大言壮語も、その
磊落の行儀も、思いつかずになした
業でなく、一
時の
拵え
気焔で人を
脅かすつもりか、あるいは豪傑を
衒っての
業であったのだな。彼の
英邁奇行は道具立ての
小細工たるを見て
可笑しくなった。彼はその知れる限りの最美を尽しておらぬ。むしろ彼の最悪の行儀をなしていたのである。自分が為すべからざることと知れることを、ことさらに為していたのである。
ゆえに一言でも
話頭が彼の弱点に
渉ると、胸中幾分か
狼狽するの
風情が現れ、今まで
頼もしい
剛胆なる青年と思われたものが、見すぼらしい凡人に立ち返り、勇将が一時に敗兵となった観を呈した。
英文学に異彩を
放つと称せらるるかの有名なるミルトンの『
失楽園』の主人公は、神を相手に
謀叛の
旗を
翻した悪魔の雄将サタンである。彼が戦いに敗れ地獄に
堕ち、しばらく夢中に卒倒してあった後、たちまち
息ふき返して、わが身辺を見廻わすと、彼の同僚および彼の
率いたる軍勢は、何万となくいずれもあるいは
疲れあるいは負傷して消ゆることなき地獄の青い火の中に、燃えもせず焼けもせず、苦しみながら横たわれるさまを見て、サタンは再び士気を
鼓舞して、天に逆らい再挙を計ることを、詩仙ミルトンが
椽大の筆を
揮って
描いている。
しかして書中に現れた悪魔の態度の実に
凛々しく、彼の野心の実に偉大なる、彼の度量の
広闊なる、読む者をして知らず知らず神よりも悪魔を尊敬する念を起こさしむる。ゆえに英文学を論ずるものは、『失楽園』を批評するにあたり、ミルトンの神を
けなし、ミルトンの悪魔を
崇めぬものはない。またこの悪魔の姿は実に堂々たる
風采で、
吾人の崇拝に
値するように写してある。ことに彼が天帝に
反かんとする豪胆のこと、また大敗を受けても再び事を挙げんとする勇気のごときは、読者をしていよいよ
彼に尊敬を払わしめる。
しかるに『失楽園』を最終まで読むときは、この悪魔の大将軍がとうてい対等の軍を張ることの不利なるを察し、その後は種々なる計略を用い、神に勝たんとしている。彼がこの考えを起こした後は、固有の偉大なる
身躯があるいは
蛙となり、あるいは鳥となり、あるいは
蛇となり、種々なる形に変化している。しかしてその変化のありさまを見ると、変わるごとに一歩ずつ小さくなり、
堕落する順序が現れている。
僕はミルトンの『失楽園』を見るごとに、人格の
堕落の階段が秩序的に現れているがごとく
感ずる。すなわち世に行われる進化の階段に正反対して退化の順序が行われているのを見る。
しかして進化というはすでに発芽すべき力がもともと
含蓄されているものが、
漸々に働くことを称すると
同じく、退化もまたすでにもともとその性質において堕落すべき
種子が含まれているある一種の病原が存し、この
種子が年とともに
蔓延するものである。ミルトンの悪魔もはじめは高尚な位地にあり、世の尊敬も浅からず受けていたが、一たび野心という病いの
黴菌が胸中に
萠したのちは、いかなる方法をもってするも、目的を遂げんと望んだため、最初堂々たる方法で戦ったに反し、後には目的を達するに急となり、目的のためにはいかに
卑劣な手段も辞せず、だんだんに
堕落し、ついに
虫類同然のものに身を変えて幾分かその目的を遂げた。この詩を見る人はその堕落のさまの顕著なるに驚く。
話頭は
岐路に入ったようであるが、自分の胸中に正しからざる
種子が
潜伏する以上は、いかに最初は勇敢なるも、いかに初対面のときに豪傑風を装うとも、いかに人に接して偉大なる感を与うることあるも、年を
経るにしたがい、その
金箔がだんだんに
剥げると同時に、その人はますます小さく、臆病にかつ
卑怯になる。ゆえに僕は何か人に逢ったり、多数の前に立つ時、
怖気を覚ゆればすぐに自分を呼び出し、
「これ
稲造、
汝は近ごろ、何かバクテリアに
罹りはせぬか、どこかで病いの
種子を宿しはせぬか」
と自問を発し、あるいは、
「
汝は人の前に立ち、少しでもよく自分を思われたいと、自分の真価以上に
看板をかけたい
了簡なるか、相手の人に
褒められたいと思っておりはせぬか、あるいは何か求むる所があって、相手の人にお
世辞を述べるか、あるいは
妄りに自分を
卑下して、なさずともよいお
辞儀をなし、みずから五
尺四
寸の
体躯を四尺三尺に
縮め、それでも不足すれば、ミルトンの悪魔同然に鳥なり
蛇なり
蛙なりの程度まで一身を引下げておりはせぬか」。
かく発問すると、なるほどもっともだ、自分は
予ての心がけよりも、この点において大いに
堕落したと思いあたり、心を
取り直し、
己れに帰る
心地する。して己れの心をそのまま存する者は
怖がりもせぬ。
怖気は自己の心を離るるより起こる。漢字で
立心扁に
去る(
怯)
布く(
怖)
芒ふ(
※[#「りっしんべん+くさかんむり/氓のへん」、U+607E、99-7])をつけて
こわがるの意を現すも
故ありというべし。
[#改ページ]
人間社会で不愉快なる感を与うるものは
数多あるが、これを一々区別して、何が最も有力なるかを
尋ぬるに、貧困よりも
疾病よりも、失望よりも何よりも、他人から悪く批評されることが最も有力なものであろう。
ある人が人間の行為として最下等なる職業を
営む
数多の醜業婦について、
「お前たちはこの商売していて一番イヤなことは何か」
と
訊したら、お茶をひいて
仲間に笑われることだと答えたそうであるが、彼らは日々の飯さえ遠慮して食い、終夜一
睡もせぬことしばしばなるに、
身体の苦しきよりは、やはり四
囲の批評のほうがつらきものと見ゆる。
こういうと、あるいはそんな
些細なことがと、言い流す人もあろうが、実際においては自分の悪口を言われても、これを心にかけず平然たるくらいまで進んだ人ははなはだ少ない。中にはそんなことは
構わぬと称する
人も
数多あるが、なにかかにか言われると、まったく
無頓着に聞き流す人はほとんどない。誰しも必ず心に不愉快を感ずる。ことに少しく神経
過敏なものになると、なおさら不愉快を深く感ずる。
無頓着と称される
豪傑肌の者でさえも、その
実なかなか心を悩まし、自分に対する悪口に無頓着なることは出来ぬ。またズッと高く進んだ聖人さえも、全然これを無視するを得難いもののように思われる。
かつて故
児玉大将が生存中、僕は一
夕大将をその
邸に訪ねたことがある。折から外出より帰った大将は、
「
大層お待たせした」
と
挨拶し、
「イヤハヤ、どうも元老の
爺連がお互いに悪口言い合うを調和するは、
一方ならぬ骨折りだ。今日も一日かかって、そんな骨折りをやって来た」
と歎ぜられた。僕は、
「悪口って、どんなことを言われるのです」
「どんなことって、まるで裏長屋の
婆が井戸
端でグズるのと
異なったことはないさ」
「しかし天下を預かる英雄にはそんなこともありますまい」
「英雄は英雄でも、豪傑は豪傑でも、
俺のことをこんなこと言った、
怪しからぬ
奴だ、あんなことをいったが不都合だと互いに
陰口きいたのを、
怨むようにこそこそと他人の悪口をいうさまは、
毫も裏長屋の
婆と
異うことはない」
と言われたが、
磊落にして世評などに無頓着を
衒う豪傑にしても、なおかつかかる人が多い。いわんや普通の凡人においてはなおさらである。
また僕はかつて次のごときことを読んだことである。ソクラテスは容貌の
醜い人で、
世人が彼を
誹謗するときは、必ずこの点を指摘した。しかし彼自身も容貌などは、どうでもよいと思うため、世人が自分の容貌の醜きを悪口すれば、自分もその仲間に加わり、一緒に笑い、
己れの眼の飛び出しているは、四方八方をよく見るためであり、鼻の天井を向いているは、他人の
嗅げないものを嗅ぐためであると
磊落に笑い流していたが、その死せんとするにあたり、ヘムロックの
杯を取りながら、
「いよいよ
俺が死んだなら、もはや俺の容貌の醜きを笑う人もあるまい」
と一
言した。してみると、他人が彼の醜きを
譏るのを気にしていたと思われると
説いた人の論を聞いた。この論がはたして当を得たるや
否やは別とし、いわゆる聖人なるものも他人より悪口さるれば、少なくとも不愉快の感を起こすものと思われる。まして凡人においてをや。
かれこれ相互の批評は人生の大部分を成しているかと思われる。むろんこれが刺激となって人生は進歩するものである。いかなる人でも、その備うる短所を批評せねばいい気になりますます得意となる。いかなる
怪しからぬ行為あるものも、これを
発いて反省を
促さねば、ますますその暴行を
逞しゅうしやすくなる。
世間の批評が我々の行為を抑制することは、あたかも
羊の群れを監督するために
羊犬を付けるがごとくである。おろかなる
羊は草を食いながら、少しでも柔軟に、少しでも緑の草があるほうに進み、だいたいの方向も忘れて進み路を迷いやすい。このとき羊犬が迷った羊に
吠えつき、各個の羊をその群れより離散せぬようにまとめると同じく、世評なるものは、我々が得意になり、あるいは
岐路に迷わんとするとき、これを
抑えて
軌道に
惹き着ける役目をするものと思えば、修養の一大補助ともみなされる。すなわち
毀謗は社会の要求の声ともいうべきものならん。
それについてはこれを
濫用せぬよう心がけることが最も必要である。してその濫用とは、
一にはその悪口をいった人を怨むこと、
二には自分の悪口されたのを聞き怒ること、
三は悪口を耳にしてヤケとなること、
四には悪口に対する弁解に大いにつとむること、
五には悪口のために落胆し萎縮すること、
等が、その主要なるものである。これらの
弊に
陥らぬようにするには、まず悪口に対してはいかなる態度におらねばならぬか、その度胸を定めたい。
悪口そのものについては他所にも述べたから、ここに再び繰り返す必要はない。僕のここに言わんとすることは、悪口の目的物となり、すなわち悪口を受けるものの態度について一
言したい。
多くの悪口には一時的
流言に過ぎずして、ほとんど一
顧の値いなきものがある。
俗諺にいう、「人の
噂も七十五日」。その語るところを聞くと根底深いらしいが、その実は根も葉もないことが多い。これは我々がしばしば新聞雑誌に見ることによりてもよく分かる。すなわち新聞雑誌に掲げられる
月旦とか人物評論とかあるいはいわゆる三面記事を見ると、
某はかくのごときことをなし、国賊であるとか、その肉を
食っても
たらぬとか、
倶に天を
戴くを恥じとするとか極端の言葉を用い、あるいは某が某女性と関係したる
始末を
細々と記してある。
これを読む者が
真面目に考えれば、とても読み流すことは出来ぬ。国のためにかかる人は一刀の
下に刺し殺すべしとまで思うようなことが載せてあれば、三、四日もすると、そんなことも忘れ、翌月になると、同じ新聞雑誌がこの同じ人を恐ろしく
褒め立てることがある。いわゆる
輿論なるものは実に軽薄なものである。また我々の友人中にも甲が乙の
噂をして、はなはだ
怪しからぬ
奴だと
罵る。その語るところを聞くと、その間の関係が、絶交しても
たらぬように思われるが、翌日甲乙が互いに話し合うところを見ると、前夜用いた
罵詈の
言は、いずれにあったかを解するに苦しむことがある。誰しもまた必ずかかることを経験したであろう。
しかるに少し気の小さな人が、自分のことを
噂され、あるいは新聞雑誌に悪く掲げらるれば、再び
起つ
能わざる窮地に
陥るごとく
歎く。かくのごとき時には、
少しく度胸を大きく持ち、今日あって明日なき
言の
葉の、
一風吹けば散り果てるものだと思うと、悪口もさほど不愉快に感ぜぬのみならず、かえって
為に一種のおかし味を感ずるものである。自分に対して非難するものあるを、直接または間接に聞くことあるも、その
難者はいかなる人かと聞けば、
怒ったり
怨んだりするより、むしろ一種のおかし味を感ずる。
あの男が一ぱい
機嫌で悪口するはアルコールの
蒸発が
喉を
過って来るから、人の言葉として顕われるが、一種のガスの作用にほかならぬ。我々の耳に達したころはちょうど消えてなくなる。彼の男にしてそういう
言を
弄するは、ちょっと奇抜で、面白いが、あまりガラに似合わぬ、真のことでもあるまい。またさらに力あるとも認められぬと思うと、悪口を受けても苦痛でなく、犬の
遠吠えぐらいに聞こえる。ちょっとは耳に
障っても、あとに残らない。
しかるにこれを一々
真面目に解し、言葉通りに直訳して考うれば由々しいことになるが、人はなかなか大いに考えて悪口することは少ない。ただその場合々々に好き勝手な熱を
吐くほうが多いから、
為に人を
怨み、あるいはみずから怒り、あるいは落胆し、あるいはヤケになったりする価値はない。ゆえに世に処するものは悪口の六、七
分は聞流しにすべきもの、意に
介する価値なきものと僕は信ずる。
折々は濁るも水の習ひぞと思ひ流して月は澄むらん
もっとも悪口でも右のごとく軽いものばかりと限らぬ。ときには念の入った、しかも非常に念入りのものもあり、中には道具立てした悪口もあり、数人かかって、それぞれ手を廻わし、こちらに
罠をかけ、あちらに
垣を結び、もって他を
陥れんとする、手配り広き悪口もある。
こういう悪計にかかってはよほどの知者ならねば、とうていこれを
免れられぬものである。しかし五人かかろうが、十人かかろうが、
知恵を絞り出して
吐く悪口は、つまりそれ以上の知恵さえあれば、ことごとくこれを無効ならしむることが出来る。しかし人の批評や悪口を取消すために、自分がそんなに骨折って知恵を
運らす必要があるか、むろん悪口の種類にもよるが、同じく
脳漿を絞るなら、悪口に対し弁護するよりもまだまだ適切な用途が多くあると思う。
僕もしばしば人から種々の批評を受け、家族や友人からこれを弁解するように勧められたこともあるが、僕よりも知恵のすぐれた人に対し、
毀謗の理由は薄弱なりとしても、自分の受けた悪口を弁護すればするほど、ますます自分が言い負かされる。しからば僕よりも知恵の劣った人が悪口するなら、自分より劣ったものを相手とし、
事々しく弁解する労を取るだけの価値がない。
加之時日の進行中において自然に消滅する悪口と思えば、さほど気にかけることはない。ことに自分をよく知らぬものが、
彼是批評することは、当を得ないことが多いから、自分を知れる人にその判断を任すれば事は足る。
四、五年前、ある青年が僕を訪ね来て、自分は非常に
窮境に
陥り衣服にも窮している、どうか助力を
乞いたいと訴えたが、彼がその
窮境に
陥ったことの説明として世間はすべて自分を誤解したといったから、僕は彼の
談を
遮り、世間が君を誤解しても、君の
知己が誤解しなければよいではないか。
世間とは君を知らぬ人の
謂いである。君を知らぬ人がかれこれ批評することは、さほど意に
介するに及ばぬ。失敬ながら君のことはいかなる事があったか知らぬが、よし新聞等に二、三回掲げられたことがあっても、僕ら別に耳にしたこともないし、したがって君に対して
愛憎の念も何もない。すなわち君を知らぬわが輩は君のいわゆる世間であるが、わが輩は君を何とも思わぬといった。
世間だの世評だのということは、はなはだ
漠としたことで、ために一身を処するとか、あるいは思想を変えるとかする価値なきものと思う。しかるに自分をよく知るものが、自分を見捨てることがあるなら、これぞ実に
由々しき大事といわねばならぬ。
たとえば学校を預かれる校長に対して、世間がかれこれ
非難しても、校長にして生徒に対する関係が依然良好であるならば、世評などはあえて意とするに足らぬ。また会社社長あるいは店の主人に対して種々なる動機より悪口を
吐き、その会社の信用を傷つけ、その店を
顛覆させる計画あるも、社長なり主人なりが、その部下、重役、株主、すなわち関係の最も近いものに対し、何の不義もなく、何の不正もないならば、一向に意とするに足らぬ。あるいはために一時迷惑を受けることあるも、その迷惑は永遠に継続するものでない。ゆえに種々なる批評があっても、それらは意とするに足らぬ。
西郷南洲翁が
慶応年間、京都に集まった
薩摩の勇士の挙動はなはだ不穏なりと聞き、これが
鎮撫に取りかかったとき、日ごろ西郷に
快からぬ人々が西郷の挙動をもって正反対の意味あるがごとくに言い放ち、西郷は名を浪士の
鎮撫に
藉るが、実はこれを
煽動するものであると、
島津久光公に
告口した。公はこれを聞かれて非常に怒られ、西郷の帰り次第、
何人でも
差支えなきゆえ、
手討にせよとの命令を下した。これを聞いた
大久保はそもそも西郷を
久光公に
推薦したのは自分である。彼が
不埒を働いたとすれば、自分もまたその
責任を分かたねばならぬと思い、西郷が来るや
否や、ただちに彼を
兵庫に引連れ、明日君が君公の前に
侍すれば、生命はないぞ。到底助からぬものと思えば、むしろここで刺し
互えて死する積りだといった時、西郷は、
「ウン、二人死ぬのはつまらぬ。二人が死ねば島津家は真っ暗になってしまう。一人残るがよい。
俺は罪を得たから死ぬが、
汝は生き残って俺の代りに君公に
仕え、二人前を働いてくれ」
といって出仕した。幸いにして何のこともなく一命は助かり、引き続き国事に
奔走したが、世には随分念の入った
讒言悪口がある。しかしこれがために軽々しく一命を捨て、ヤケとなり、あるいは他を
怨むことを要せぬ。ジッとしてそれを放任すれば、自然にその悪口も消え、真実のみが残って、最後の勝利を得る。
かくいったならば、あるいは正直の人は、
「人より受ける悪口はそう軽く見るべきものでない。
汝は軽い例ばかりを挙げたから、人をしてこれを軽い事のように思わせるが、これが歴史となって百年も二百年、千年も二千年の後までも残り、しかも誤りを伝え世に害毒を流すことが多い。
西洋歴史にていうならクロムエルのごときは、彼を
憎む人の言が世に伝わり、いかにも悪党なるかのごとく、数百年間英国の歴史を
汚した。また我が国にても
石田三成は
徳川家の御用史家により、成るべく
悪しざまに書かれたため、その人格および事業はすべて曲げて世に伝えられた。教訓よりしても、歴史よりしても、はなはだ望ましからぬ影響を世に及ぼしたように思う。ゆえにいたずらに人を悪口するものがあれば、根底よりその事実を明らかにし、
誤謬を改めしむべきが本分である。
汝の言のごとくどうでもよい、放任せよというは
怪しからぬ」
という人もある。歴史上の事実としては明らかなる証拠を世に伝うることは必要である。円形なるものを眼の悪い人が四角と伝えるものがあれば、確かに円形なりとの事実を証明することは望ましい。しかしこれを冷淡に考うれば、これは歴史上の事実を明らかにするに過ぎぬ。はたしてしからばこれ正邪の問題でなく、
真偽の問題である。道徳の問題でなく、歴史上の問題である。
歴史上の事実としては真実を伝うることは無論必要であるが、お互いの
日々の心得としての立場より見て、いかなる心がけにてこの場合に処するかといえば、僕はやはり弁解説明する必要がないと思う。もしこれがために他人に迷惑を及ぼすことがあれば、それは説明する必要もあるが、しからざればこれまた放任して置くべきものと思う。もし
強いて弁解するなら、言語をもってせず実行をもって示すべきであると思う。
白隠和尚はその
檀家の娘が妊娠して
和尚の
種子を宿したと白状したとき、世人から
生ぐさ
坊主と非難されても、平然として、
「ああそうかい」
と言い、生まれた後は、自分でその子を
懐きなどしていたが、後、和尚の
種子でなく、娘は一時のがれに和尚の名を
汚したことが明らかになった時も、また、
「ああそうかい」
といって世間の
毀誉褒貶[#「毀誉褒貶」は底本では「毀誉貶褒」]に
無頓着であったという。僕は悪口に対してはこの心がけをもって世に処したい。
僕の日ごろ愛読する書物にこういう言がある。
「何をもって
謗を
熄むる、
曰く
無弁。何をもって
怨を
止むる、
曰く争わず」
と、また、
「人の我を
謗るやその
能く弁ぜんよりは、
能く
容るるに
如かず。人の我を
侮るや、その
能く防がんよりは、
能く
化するに
如かず」と。
実に尽せる言である。
しかしこれについてはくれぐれも心得たきことがある。すなわち
白隠和尚の態度のごときは
日ごろの修養ある者でなければ、為すべきことでない。かく言えば、前に説いたことと
矛盾するらしく思われるがそうでない。日ごろこれらの修養を
欠く人が、ある一事にかかることを為すと、自分はともかく、他人に大なる迷惑をかけ、しかしてかえって悪事を為すことを
奨励するに傾きがちである。
白隠なりしゆえ、後日に至り疑いも
解け、差し支えなかったが、しかし世間では、ややもすれば
白隠以外の、しかも良からぬ人が、実際自分の私生児を引き
取り、白隠の言葉を借用して聖人の行為を
真似る
虞が多い。
米国の南北戦争にクエーカー宗の人々は非戦論を唱えて、戦時税を払わず、兵役にもつかず、ために当時の政府はその処分について少なからず苦しんだ。法に従って彼らを
罰せんか、
惜むらくは彼らの中には有名の
士君子が多く、かつこれらの人は
日ごろ社会百般の事柄に力を尽し、世間の信用と敬愛とを受けている。法に従い罰するに
忍びぬ。ゆえに止むを得ず一時の
権宜として、彼らには軍法を応用せず、兵役も
免じ、納税の義務も免じた。
これを見たるクエーカー宗以外の人々も、私もクエーカー、私もクエーカーというものが多く、政府はその真偽を弁別するに苦しみ、一々その人の
日ごろの行状を審査し、たとえクエーカー宗に入れるものにしても、
日ごろその主義を完うせざるものは、無遠慮に罰し、
日ごろの行状が正しく、徳望高き人は特に穏便に取扱い、戦時だけ自分に
都合よき主義を唱えたとても、平生の行状がこれに伴わないものは、ただ一場の言い前に過ぎずとして採用されなかった。
白隠和尚は日ごろ修養を積み、
平生の言行が正しく聖人たる資格あることを証明したゆえ、一時疑いを受けたことも、数年ならずして解けたのである。
ゆえにかかる場合に身を処すること同一筆法に出ても、
日ごろの修養
如何によりてその価値が
著しく違う。
白隠の
談は美事であるが、僕はこの筆法をすぐに各自に応用するを
憚かる。しからば何ゆえにこの例を掲げたかというに、
日ごろの行状を
謹み、日常の信用を
厚うするだけの慎みをなさねばならぬことを勧めたいからである。この点に
謹慎し、修養していれば、一時いかなる非難
非譏を受けたとても、何らの弁解を試みずして
能く晴天白日の身となり得ると思う。悪口に対する吾人の理想的態度は
無言実行の弁解をもってすべきであると思う。いかに人はかれこれいうとも
己れさえ道を蹈むことを
怠らずば、何の策を
弄せずとも、いつの間にか
黒白判然するものである。要は「
本来清浄」を守るにある。さすれば人為人工を用うるに及ばぬ。かく思うと左の歌は教訓的に解しても面白い。
人住まぬ山里なれど春くれば柳はみどり花はくれなゐ
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「
憎まれ
児世に
はびこる」という
諺があるが、わが輩はこれを
顛倒して、世に
はびこる者は
憎まれるということも、また
真実であると思う。いったいこの「はびこる」とはいかなる意味か、『
言海』を見ると横行、
強梁などいう漢字を充用し、
這いひろがる意とある。一般には、とかく悪い意味に用うるも、文字より考えれば必ずしも悪い意味のみでなく、
延びひろがり
繁る意味である。
米麦を
蒔いた田畑に米麦がよく繁茂するのも、害草が繁茂するのも、共に同じく
はびこるのである。一は有益なる植物なるゆえにこれを喜び、一は
邪魔になるゆえにこれを嫌う。喜ぶと嫌うとの差あるも、
はびこるうえにおいては二者同一である。また豆を植えかつ豆を
穫んと欲するところに、麦が繁茂したならば、たとえ豆よりも尊いにしても、耕作者の目的に
適わぬ以上は、やはりこれを害草と同じく取扱わねばならぬ。すなわち悪い意味において麦が
はびこるのである。
して見ると、
はびこるという文字の意味を悪く
解るか
解らぬかは、これを用うる人の意によりて
異うので、豆を
穫んとする人には、麦が
悪しき意味に
はびこるのであり、麦を
穫んとするところに豆が茂れば、豆が同じく
悪しき意味に
はびこるのである。我々がある目的を達せんとするため、あるいは何らかの欲望を充足せんとする行動に対し、妨害となるものは、我々はただちにこれを有害とみなす。しかるに
はびこるほうからいえば、これ自己の天職を
完うし、
伸びるのである。ゆえに天より見れば彼らは悪い者でない。現に世にいわゆる
はびこる人を見るに、なるほど憎まれ勝ちではあるが、親しくその人に接し、その動機や行動を察すると、必ずしも悪人でない、
否むしろすこぶる感服することがたくさんある。
これ我が天職なり、これ我々がまさに
履むべき道なりとの確信の
下に働ける人、すなわち意志の強き人は世に
はびこり、ために
何人かの進路を
妨げ、人から
邪魔視される。
聖人君子のごときをもってしても、意志強く、自分の目的をあくまでも貫徹せんとする者は、必ず
何人からか
邪魔視される。
孔子の
言えることまたは為せることは、
盗跖より見れば、はなはだ邪魔になったに相違ない。
キリストが無遠慮に自分の思想の実行を
力めたから、時の官憲
僧侶から
邪魔視され、
耶蘇ほどに
はびこる、
嫌なものはないと思われたればこそ、十
字架の上にその一生を終わったのである。
またソクラテスの言ったことや為したことが、当時の
淫蕩浮華なる風俗の進歩をさえぎったから、彼は青年を毒するものなりと呼ばれて死刑に処せられたのである。
ゆえに、「
憎まれもの
世に
はびこる」というに対照し、世に
はびこる者は憎まれるということは、歴史上においてもまたお互いの日常において目撃するところによりても確実なことと思う。
何人にも
可愛がられるものは世にないと思う。もしかかる
人がありとすれば、そは自己の意志なきものである。
何人にも程よくお茶を濁すものは、憎まれもせぬ代りに
はびこりもせぬ。実際の事にあたり仕事するものにして敵なきものはほとんどない。敵ある以上必ず憎まれる。
我々は目下の政治界においてよくこの事を見ることが出来る。米国の「ポリティシャン」という言葉は政治屋とでも訳すべきだが、いわゆる
陣笠の意に用いられ、政治を商売とし、何の政見もなく所信もなき者の意味で
軽蔑の意を含んでいる。これに
反して一個の定見あり自己の所信を国是として実行する者を「ステーツメン」という。しかるにいかなる政治家にてもその生ける
間は敵より政治屋と
罵詈讒謗せられる。ゆえにある人が「ステーツメン」の解釈を下して「死んだポリティシャン」なりといった。すなわち世にありて活動している間は世にはびこり非難される。
人がこの世を渡るに、人からかれこれと批評され憎まれるのは、
何人も
嫌である。嫌だからとて「
瓢箪の
川流れ」のごとく浮世のまにまに流れて行くことは
志ある者の
快しとせざるところ、むしろ
愧ずるところである。ゆえにすでに自分に所信あれば反対を受くる覚悟をもってこれを実行するに
力めねばならぬ。もちろんかくいったからとて何事につけても
無遠慮に勝手放題に
傍若無人に行えというにあらぬ。独り孤立して世渡りの出来ぬ以上、他人に相当に遠慮することは、社会生存の必要条件である。
山から山に渡るには頂上より頂上まで行くのが最も
近道であるが、実際山より山に
遷るには、一度
麓の
渓間に降りてまたまた
嶮しき峰をよじ登らねばならぬ。一直線に行けば近くとも、自分の前に人があらば
迂廻して行くだけの遠慮がなくてはならぬ。しかし迂廻の必要があるからとて、進むことを中止するのは
卑怯である。かれこれ言われるからとて遠慮するのも
卑怯である。
しからばどの程度まで遠慮せねばならぬか。この程度は概括的に定むることは出来ぬ。周囲の状態やら各自の性質やらあるいは為さんとする目的やらによりて度合いが異るので、我々の
犠牲として払うべき意志は我々が
衣服を買うときの代価のごときものである。いったい
衣服は
なんぼするものかという質問に対しては
何人も
一口に答えかねる。なぜなれば
衣服にも
単衣あり
綿衣あり、
木綿物もあれば絹織物もある。和服もあれば洋服もある。具体的に個々の
衣服について始めて
価がきまるのである。単に
衣服というただけでは何とも決することが出来ぬ。それと同じく遠慮と
遂行の程度は概括的に定めることはほとんど不可能である。
わが輩は折々知人や未知の人より相談を受けるが、その要点は
己れの意志と親の意志と相い投合せぬとか、あるいは自分の望むところを世間が
容れてくれぬとか、かかる場合にいかなる態度にいずべきかということが多い。わが輩はこれらの相談に対しつねに答える、その事情を詳細に知るにあらざれば、到底
門外漢の解決し得るところでないと。
元来、義務と義務との
衝突は根底においてあり得べきものでない。義務そのものは絶対的であるとしても、個人がこれに対すれば
軽重、
本末、
主従、
大小、
遠近等によりて関係的相違あり、決して絶対的に同等なものでない。したがって思想的根底において衝突せぬものであるが、実行にあたっては衝突する場合がたくさんある。
孝ならんと欲すれば忠ならず、忠ならんと欲すれば孝ならずと
歎くものは、独り
平重盛に限らない。
些細なることにおいても、少しく考うると必ず衝突の問題の起こらぬことはない。朝自分の家を出て事務所なり学校なりに通わんとするに、右のほうが道がよいか左がよいか、必ず問題として考え得る。右は近いが左のほうが歩きやすいとか、右は
平坦だが
左道は清潔だとか何とか、たいがいのことには得失問題を起こす理由がある。そしてその判断には少なからず苦しむものである。
むかしの英傑の伝を見るに、果断だとか、「
裁決流るるがごとし」とか
ぞうさもなく出来るように書いてある。彼らが凡人よりも早く事物の要点を見る
明晰の頭脳を有することは疑いなきも、また凡人の
窺知し得ざる苦労を
経るのである。
光圀卿の、
見れば只何の苦もなき水鳥の足にひまなき我思ひかな
である。
シーザーがその留守中にローマに
乱の起これるを聞き、出征先より大軍を
率いて帰国し、自国に入ろうか入るまいかとルビコン
河畔に立ったときは、凡人の考え得られぬ苦心があったであろう。外部より見れば、さほどに苦心もなく一
蹴してルビコン河を越えたらしく見られるも、今もなお歴史上の
分岐点として
謡われているほど彼の苦心の跡が世界の人心に
印してある。
また米国の南北戦争にリー将軍が南軍につかんか、北軍に走らんか、これを決するためには終日終夜
心魂を痛め、あるいは
跪いて神意を伺わんとしたり、あるいは思案に沈んで、ほとんど無意識に一室を
往き
来したという。こうなると細君も相談相手にならず親友も依頼するに足らなかったか、ついに義理に
絆されて南軍についた。その決心を
固くするまでの苦心はいかに
辛かったであろう。
また
信長が
寡兵を
督して
桶狭間に突進するに先だち、いかほど心を労したろう。また
西郷南洲が
廟堂より
薩南に引退した時の決心、また多数に
擁せられ新政
厚徳の
旗を
揚ぐるに至った心中は、おそらくはその周囲におった人にも分からなかったであろう。かくいう僕などにはその十分一だも想像し
能わぬ。
また
某碩学がかつて
那須与一の
琵琶歌を聞き、さめざめと泣き出したとき、
傍の人がこの勇壮なる歌を聞き、何で泣かるるか、ことに与一が弓を満月のごとく引き絞り、矢を放った時、敵も味方も
舷をたたいて賞賛したこの
勲を聞き、泣くとはその意を得ぬと
詰ったとき、某は暗然として答えて言った。数千の軍中よりただ一人選抜された名誉は顧みぬとしても、全
源氏軍の名誉をただ一身に
荷って弓を引いたときの心はいかであったろう。命中したればこそ敵も味方も
賞歎したものの、弓を引き絞った時、矢を放った時の心の苦しみはどうであったろう、思ってここに至ればまことに同情に
堪えぬと。実に見る人が見れば、
何人の行為についても、一大決心をもってするもので、自己の
所信、自己の意志を貫徹することの容易ならぬことが察せらる。
ついでに加えて述べたきことは、
与一の場合にも彼が
扇を
覗うあいだには、必ず彼の失敗を祈ったものがあったであろう。しかもそれは
平家方のみでなかったであろう。また
奥州より出て来たあの
田舎武士が、
御大将の眼前で晴れの武術を示すなど分に過ぎたる
果報者だと
羨んだものもあったろう。また彼の
技倆を疑える者は、彼が
遣り
損えばよい、自分が代って見事に
遣って見ようというものもあったであろう。あまり邪推をまわすようではあるが、ふつうの人情より考えてかくありそうに思われる。彼が成功したと同時に、
大喝采を受けたことは歌にも歴史にも記してある通りであるが、またその後においてただちに彼の名誉を傷つけんとしたり、彼を
怨み
嫉んだ者から見れば、彼が
人目を
惹き世に
はびこったことを喜ばぬものがいかに多かったであろう。
わが輩は話にまぎれてとかく
昔時のことのみを述べたが、我々が今日においてしかも毎日、
些細なことにおいてもそれぞれに所信と決心とをつらぬくにはどこかに喜ばぬ人あり、確かに自分と
衝突しているものがあると覚悟する必要がある。僕は性来
臆病なるゆえ、僕自身の為すことにおいてこれは
万遍なく済んだなと思うごとに、その結果、必ず不愉快なることを
数多聞かねばならぬと思わぬことはない。またたまたま善事を為したと心の底に喜ぶときに、これがためにいかなるところに、いかなる人が如何なることを
企て、この善事を
覆さんとするものがあろうと、恐れを
懐かぬことはない。
こういう考えが善いというのではない。聖人ならこんな考えなく、何の
憚るところなく善事を
行るであろうが、普通人はしばしば善事をするのでなく、たまたま
衷心より世のためだと思うことをすると、一方に
臆病の考えが起こり、これを害する人も必ず起こると覚悟するを要す。僕自身のわずかの経験においてもそういうことが多い。しかしてまた
世上聖人君子が少なき以上、同じ経験を
履めるものが多いであろう。
仮りに読者中
憫な人に
逢いこれを救った人があったとする。自分は何の求むるところもなく、一片
義侠の心をもってしたとするも、一方にはその
事たるや
偽善からやったとかあるいは慈善ぶっていると非難された経験もあろう。あるいは他に求むるところあり、この
挙に出たのであろうと疑われたものもあろう。
読者中、親に孝行してことに目立ったことがあれば、同時に
彼奴め親に孝行ぶってるなど批評を受けた経験もあろう。
読者中病身の
細君を親切に
看護する者あれば、これを
褒める者があると同時に、
彼奴め
嚊に
惚いと批評された経験もあろう。
読者中もし
小児に何か教えることがあれば、
褒める者あると共に、いやに物知りぶると難ぜられたこともあろう。
また読者中
繊弱なる女子に助言するなりまたはその他の親切をいえば、
彼奴はチト怪しいと疑われたこともあろう。
公の事に奔走すれば野心家と
疑われ、老後他人の
厄介になるまいと
貯蓄に
志せば
吝嗇奴と
侮られ、一
挙手、一
投足、何事にしても、
吾人のする事なす事につき非難を
むことのなきものはない。これが世の中である。
多く行えば行うほど非難の声が高くなる。世に
はびこるというは多く行う人で、こういう人が一番に憎まれる。しかして何もせぬ、あるいはまた責任のない事をするのが一番
褒められる。世の中を見渡すに何らの責任ある位地におらず、単に
筆鋒なり口先きで批評のみする人が一番評判がよい。今までこれといって
局に当たり意志を実行せんとする場所におらぬものは、一番悪く言われぬものである。ゆえに気の弱い者は、
笛ふかず太鼓たゝかずしゝまひの後足となる胸のやすさよ
で、何事もせねば非難も
憎悪も
免れるのである。僕の知人にして、今は
故人となったが、生前公職につき藩政に
与って大いに尽した人があった。ついに怨みを買って
蟄居のあいだに死んだが、自分の経験を一冊の
書に
綴りて『
桜花物語』と題して子孫に
遺したが、その人は常に左の古歌を
愛吟した。
咲かざれば桜を人の折らまじを桜の仇はさくらなりけり
実にこの歌の通り大小となく仕事するものは、必ず
何人かに
怨みを受けるものである。いわゆる人から
邪魔に思われるものである。
佐藤一
斎先生の語に、
「
罪なくして
愆ちを得る者は非常の人、
身一
時に
屈して、
名後世に
伸ぶ。罪ありて
愆ちを
免るる者は
奸侫人、
志一時に得て、名後世に
辱ず。
古の
天定まりて人に勝つとは
是れなり」
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この問題は永く僕の心に
蟠っているもので、
今日もまだことごとく解決したとは断言しかねるが、近ごろことに感じたこともあるから、
愚考を述べて世人の教えを
乞いたい。
話の順序として自己の
恥曝しから始めたい。僕が十三、四のころであった。まだ東京英語学校に、
下宿から通学していたとき、友人
某が九州の親
許より来る学資金が
後れたために寄宿料、食料、月謝の支払いに
滞りが起こり大いに
当惑せるを見、僕は彼を自分の下宿につれて来たことがある。かくいうといかにも
義侠心ありげに聞こえるが、実は日ごろ親しく交われる友人間のことゆえ、一時の急を救わんとする自然の友情より起こったことで、あながち誇るべきことではないが、これに反し僕が彼に対する態度は実に恥ずべきものがあった。
それはある夜同室に
枕をならべて眠りにつきながらの話に、ワシントンと
楠正成との比較論が始まり、僕が
楠公を愛国者と称したのを、彼はこれを訂正し、
楠公は愛国者でなく忠臣だといった。彼は僕より二歳年長であり、かつ漢学の
素養も、より多くあったので、文字の
遣い方も正しく、また彼の議論も今より
顧みれば正当であったが、なに思いけん僕は突然
床よりムッと起き上がり、彼の上に馬乗りに乗り、彼の頭を目がけて
鉄拳を
食わし、
「
俺の
飯を食ってるくせに、なぜ反対するか」
と
怒鳴ったことがある。彼は僕より
躯幹長大にして、
活発にかつ短気の男であったが、この時ばかりは何も
手向かいだもせず、
擲られたままにその夜を過ごし、翌日は丁寧に礼を述べ他の
下宿に移ったことがある。
今ここにかくのごとき愚かな
子供談をし、しかも自己の
恥を
曝すのは、この経験が
永く僕の頭に留まり、四十年後の今日もこれを追懐すれば、自分が
生来短慮なりしことを明らかにすると同時に、種々の教訓を受くるのである。
表題の心の独立と体の独立ということもその一つである。僕が友人に対して
俺の
飯を食いながら反対するのはけしからんという一
喝は、たしかに僕の
根性の
曲を
曝露する。しかるにこれが十二、三歳の
腕白小僧の一時の感情にとどまるか、はたまた天下万民の心の内にもこういう考えが
潜めるかと問わば、右のごとく露骨にいわずとも、人を使う人の心中深く
潜伏する考えではあるまいか。また使わるる人の心にも同じくこの思想が存在しておりはせぬか。換言すれば
俸禄をもって他人の身体を
抑える者は、心そのものをも制し得る考えをもってする者が多くありはせぬか。
俸禄を受ける者は知らず知らずのうちに心まで自分の主人のために
奪われることはありはせぬか。
さらに
具体的にいえば知人の恩恵によりて位地を得、
俸給を受くる者は、その知人あるいはその上官・社長・重役らの説に心ならずも服従し、反対説あるもこれを述ぶることを
憚り、また
彼らの行動をいさぎよしとせざることあるもこれを
黙認し、あるいはかえって進んでこれを弁護することありはせぬか。
先般ある会社の重役が検挙せられたときの
談を聞くに、部下の者は始めて日ごろよりいだいていた重役に対する不満を述べたという。日ごろそれほどその人の人格
手腕に対し疑いを有したならば、何ゆえに
予め警戒しなかったかと思えば、非難する人の人格そのものも
疑わしくなる。また役所などで上官が代れば部下の者が後任者を迎うるに前任者の
棚卸しをもってするは常にあることで、それほど
宜くなければ交替前に何ゆえに前任者に注意しなかったかと思えば、
陰口をいう者の人格の
下劣にして、
些の
俸禄のために心の独立を失い、口に言わんと欲することを
得言わず、はなはだしきは心に思わんと欲することさえも、まったく思わず、機械的に
否奴隷的に使われていたと思わざるを得ぬ。体の独立はなくとも、心にさえ独立していればよい、たとえ体は
束縛せられていても、精神が
自主的観念をいだいていればよいなどというが、心の自由と体の自由とは関係がすこぶる密着して離し得ぬ場合が多い。
僕は
子供心に、
維新のころ世に名高き
遊女の
談を敬服して聞いたことがある。それは
品川の遊女
某が外人に
落籍せられんとしたことで、当時は
邦人にして外人の
妾となれるをラシャメンと呼び、すこぶる
卑下したものである。
某は遊女ながらもひと
廉の
気象があったが、
如何せん、商売がら外人に
落籍されたので、
仮令身はふるあめりかに触るゝとも心一つは汚さゞらまし
と
詠んだと聞く。心と体とを別に考うることはすでに身を売る時より
行わるる議論で、良家の
子女が
泥水に入る時も、たとえ
体は
畜生同然になるも、心は親のため、主人のため、
夫のためあるいは家のためなりと称し
犠牲となった。
しかるに、身を売る時の動機はいかに正しくとも、
一度身の独立と自由とを
失った以上は、心もまた
堕落することが多数の事実である。恐らく我が国の
娼妓となりし人の動機と理由とを統計上より数えなば、自己の
淫奔よりする者は少なく、大多数は一家のために
犠牲となったのであろう。身を売る時はじつに
憐むべく、また尊敬すべき動機に基づくも、
爾後三年ないし五年の後、彼らの心理を統計に現すことを得たなら、その性格の一変し、当初とは
雲泥の差あるを発見するであろう。
僕の友人が洋行した時、ハンブルグに行ったことがある。ハンブルグは西洋に例の少ない
公娼制度の行わるる所である。ゆえに友人はその道に
通なる人の案内でその制度を
視に行った。その時この
通人は
数多の婦人を呼び出し、友人のためにその経歴を
紹介したが、かくするあいだについ三、四ヵ月前に来た新しき女があったが、あれはどうしたかと、通人は
頻りに
新参者を求めたりしに、
豈計らんや新参者は
数多の列座中にあったので、それが分った時の通人の驚きは
一方ならなかった。わずかに百日も
経たぬ間にこれほどに
処女と商売人とは変わるものかと、
開いた口がしばらく
閉じなかった。
僕は多く不浄の
談をならべるようではあるが、身を
縛られた例は
奴隷制度の廃止された
今日、
娼妓をもって
例うるのほかなしと思い、ここに引例したのである。がしかしその実
泥水に
居らなくとも泥水よりいっそう深き
穢れに心の染まれるものが世には多くありはせぬか。身は一
見独立のごとくして、心は
娼妓よりもなお独立なく他人に依頼し、しかも他人の
愛憎によりその日を送れるものが
多々ありはせぬか。
かつてある青年が僕の友人を
訪うて、どうぞ書生として
寄寓させてくれと頼んだ。友人はすでに家には書生もおり新たに入れる余地がないと
断り、かつまた上京するときの目的がはなはだ明らかならぬゆえ、この青年に帰国を勧告したが、彼は旅費がないから帰国されぬという。友人も、
「君とこうして
談するのも
他生の縁であろう。君が親もとに帰る考えがあるなら失敬ながら旅費は僕が手伝おう」
というや、青年は
毅然として、
「私は独立を重んじます。旅費などは
貰いたくありません」
と立派にいいきった。これを聞いた友人は
奇異の思いをなし、青年に、
「君は独立をたいそう重んずるようで、まことに結構であるが、果たして独立の意味が分かっているか。一時旅費を
立替えてもらうのが独立を
失うと思うはあながち
咎むべきでない。それくらいの考えはむしろ持ってもらいたい。しかるにそれほど独立を重んずる君が、すでに二、三日前より毎日二、三時間を
費して僕に求むることは、決して独立を重んずる精神とは受取りがたい。君が僕の家に置いてくれと要求する意味は、
雨露を防ぐの方法を与え、三度の食事を今後一年二年ないし五年十年とも
寄食させよというのではないか。仮りに一年としてもこれを金銭に換算したら君に提供した旅費の何倍かに当たる。少額を受取れば独立を害し、多額を受ければ独立
自重の心を害さぬ理由は解しがたい」
と説いたそうである。
僕は決して先輩の家庭に寄食するをもって独立を
失えるものとは言わぬ。僕の
家にも書生はいる。この人をもって独立なきものとは思わぬ。なんとなれば書生が
家にいることは僕の便利であり楽しみであり、
否必要であるゆえ頼んでも家に
居らしむる。書生もまた同じく思うゆえ、互いに申合せて
同居するのである。動物学者の
symbiosis と称する生活を同じゅうする
共棲的現象である。ゆえに置く人も独立を失わず、置かるる人も独立を失う訳はない。そこで役所に使わるる者も会社に働く者も、
俸給を受けるからとて、必ずしもそれだけで身の独立を失うものでない。また実際の手続きとしては
被傭者は志願し会社に入る。しかして志願すといえば一方よりのみ頼み、会社の恩恵のみを受けているように聞こゆるも、実は会社は世の
有為なる青年に向かって入ってくれと頼むようにも思われる、いわゆる
需要と
供給との相互に応じ合ったことである。
かくのごとき場合には
契約の両者が依然として独立の心を失わぬのである。また身は一見
縛られているようであるが、一方の
嫌というのを縛るのでなく、自由の契約である。自分の心に面白くなしとあればその契約を
解くことも出来る。役人も国家の命令により身を
縛られるとは論ずるものの、あくまでも心の
盲従を要求されない。いかに国家の命令とはいえ、役人にして国家の為す所に
腑に落ちぬことがあれば、その命令を
拒むことは出来なくとも、自分より進んで職を
辞することは出来る。
凡人の情なさには、僕の身の自由を制裁し得る人、すなわち僕の生活の道を制する人はついに僕の心までも制裁するにいたる
虞がある。先に述べた友人は少年ながらもこの事を知りしゆえ
擲らるるままに
恥を
忍んで去った。今にしてこれを
顧みれば気の毒だと思う。さりとてまったく余の
奴隷にならなかったのは、翌日相当の礼を述べ
下宿を代えたからである。彼に転宿する
余裕ありしゆえ、心の独立を失わなかったが、この余力なき人はますます
根性が
卑屈となる。折々僕も見ることであるが、役人にしてその位地が
堅固なりと思うあいだは随分
勝手な口をきき、いつ
辞めても天下を
濶歩する意気込みを現すも、一たび辞職を勧告さるればたちまち態度を変え、即日より上官のことを
噂するにも敬語を用い、一夜にしてかくまでも変化するかと驚くことがある。
かくいったからとて人間の心の中に
唯物的
拝金的
卑屈なる
根性があって、体の制裁によって心が左右さるるものだと断言することは出来ぬ。五
斗米のために身を
屈しても身を
枉げても、心はどこまでも直立独歩する者もある。むかし耶蘇教の
弟子パウロは新しき宗教を奉じた
咎をもって
捕縛せられ
笞うたれ、
獄に投ぜられ種々の苦を受けたが、ついに国王の前に呼び出され、御前裁判を受けたとき、
傷だらけの
体を
縛られたまま、
「我は実にみずから幸福なものと思う。願わくは殿下もこの
繩を除いてはまったく我の
如くあられんことを」
といった。この気象は身こそ自由ならざれ心に独立あるものである。
またむかし
武田勝頼が
三河の
長篠城を囲み、城中
食尽きもはや
旬日を支え得なかった時、
鳥居強右衛門が
万苦を
冒して重囲を
潜り、
徳川家康に
見えて救いを乞い、再び城に帰らんとして武田軍に
擒えられ、城に向かい、援軍
来らぬと告げよと命ぜられ、送られて城下に至った時、城を仰いで大声に
主公の大軍すでに出発したれば
来援三日を
出でぬであろう、諸君努力せよと
叫んだ。ために、身は
乱刀雨下に寸断せられたが、心の独立はついに
侵されなかった。一
指だも動かされぬほど
縛られながらも、なお心中に言わんと欲することを敢然として口に出すがごときは、真の心の独立で、百万の敵も彼の口を
塞ぐごとはできぬ。いわんや彼の心を屈するにおいてをや。
ただ注意すべきはこの精神を誤解して
扶持をくれる人に
背き、人に拘わらねば、それが心の独立なりと思うことで、これは疑いもなく間違いである。世には往々にして自分の会社のアラをさらけ出し、はなはだしきは親の罪なり秘密なりを
発き、あるいは上官の悪口を言ったりして、それで我が思想の自由なりと思うは、物によるべきことであるけれども、おおいに熟慮を要する。
孔子も子は父のために隠し、父は子のために隠すと教えたごとく、
隠すことが国家に
危害を
与うるなら
いざ知らず、会社の
内幕を語りいたずらに他に告ぐるがごときは裏切り同然で、これを思想の独立と混同すべきでない。身は一定の国籍の
下にありて、
法律の保護を受け、もって生命財産の
安固を保ちながら、その国の
不為を
謀るごときは、決して国民たる個人の
独立行為といわれぬ。こんなことは
売国奴の
所為として誰も
卑む。それと同じく役所や会社に勤務する者が上官や重役と異なる独特の意見を有するなら、
陰でかれこれ言わずに第一着に社長なり長官なりに意見を
陳述すべきである。
周の
武王が
殷の
紂王を
伐たんと出征したとき、民みな
武王の意を迎えたが、
伯夷叔斉のみは独立行動に
出でて、
武王の馬を
叩いて
諫めた。左右の者ども両人を
兵せんとした。すなわち
輿論は
伯夷叔斉を
罪せんとした。このとき
太公望は独特の意見を述べて、
「
此義人なり」
といって
扶けて去らしめた。
伯夷叔斉も
太公も群衆に逆らった心の独立は
好みすべきであるが、もし二人の兄弟が
武王に反対して、
密かに出版物を
播き散らしたり、あるいは
隠に徒党を組んだり、あるいは公然と演説するにしても事実を
曲げて
武王や
太公の政策やら人身を
攻撃したならば、彼らは決して義人でもなければ、善人でもなく、後世は彼らを
乱臣賊子と呼ぶであろう。なぜなれば、彼らの考えは
輿論とは異なり、いわゆる独立思想であったとしても、同意を求むることあれば、やはり彼らには他人を頼む心のあることが
判かる。しかるに彼らは真に心の独立を重んじ、ついには我が心に
叶わぬ
周の
粟を食わずとて
首陽山に
隠れ、歌を詠じて
餓死したところは、たしかに両人は心の独立を重んじた証拠である。
なお心の独立と思い違いやすきことは風俗習慣に逆らいさえすれば心の独立を現すもののごとく思う一条である。通常の服より違った
衣を着れば、独特の
人才にでもあるかのように思う人も少なくない。
髪を長くしてみたり、赤い着物で外出したり、一本歯の下駄を
履いたりすることは、馬鹿でもやり得ることで、心の独立を
崇める値いはない。人が社会に住んでいるあいだは法律のほかに世俗の制裁を受けねばならぬ。もっとも世の要求することなら何でもこれに従えというではない。みずから
反りみて
縮からば千万人といえども、吾れ
往かんとの独立
自重の心は
誰人にもなくてはならぬけれども、いわばどちらでも好いことに
角立てて世俗に反抗するほどの要なきものが多い。風俗習慣の中には主義として争うに足らぬものがたくさんある。
佐藤一
斎の『
言志四
録』に
曰く、
「
寛懐俗情に
忤らざるは
和なり、
立脚俗情に
墜ちざるは
介なり」
と。この簡単なる一言をもってよく
吾人の世に対する関係を尽している。
心の独立を計るに身を世俗より去る必要はない。むしろ世に入り込んで独立の実を
揚ぐべきこそ吾人も務めであれ。味わうべきは左の歌である。
山深く何かいほりを結ぶべき心の中に身はかくれけり
座禅せば四条五条の橋の上ゆき来の人を深山木と見て
[#改ページ]
かねて米国に遊学していたころから、見物してみたいと思っておったいわゆる
南部地方に、四年前しばらく滞在し、かの南北戦争の舞台とも言うべき場所を視察し、また当時、事に当たった人々の子弟に
交わって旧事を聞き、またなお
今日戦争の
傷の
癒えない情態を見て、種々なる感想を起こした。経済学者や社会学者・政治家・経世家の
眼をもって見たならば、学ぶべき
廉が多々あろうと思う。しかし
凡庸の眼をもって視察し、平凡の耳をもって歴史を聴く僕のことであるから、やかましい議論はしばらく
措いて、いささか個人的の教訓に資すべき事柄を
談したいと思う。
なかんずく僕の心を最も強く打ったものは、南軍の総司令官でありしリー(R. E. Lee)将軍の人格である。僕はこの人の名と性格とを青年時代より聞いて、彼の伝記を読む前に、すでに彼に対する敬愛の念が深かった。
正直にいうと、僕はこの敗軍の
将に対する同情と敬愛の念は、
彼の軍を敗り、彼をして軍門に
降らしめたグラント将軍より、いっそう強く常に懐しく思っている。
彼が三十万の兵をもって、百万の兵に当たった古戦場に足を留め、彼の破れて北軍に
降ったのち、ほとんど名も無き
田舎中学の校長となって身を終ったその地方を巡回して、いよいよ同氏の人格の高朗なるを知って、いよいよ
追慕の念が深くなった。しかし今ここにリー将軍の伝記を述べる考えはない。僕は
彼のいわゆる失敗せるに
鑑みて、そもそも失敗とはいかなるものであるかという事について、少しく感じたことを述べたい。
歴史は彼をして失敗の人と命名する。みずからも敗軍の将たることを承認している。彼が前記の中学校の校長であったとき、不勉強な生徒を
譴責する折があった。その節
彼はこの青年に向かって、
「君はもっと勉強しないと、やりそこなう(fail)から、大いに
奮発せんといかんぞ」
と言ったときに、この青年が、
「将軍、あなたは、やりそこなった(failure)
方ではありませんか」
と答えた。これを聞いた将軍は、
「君の言う通りだからわが輩のごとき経験を君にさせたくない」
と述べたという。この青年ははなはだ無礼な
過言を述べたように見えるが、その実、将軍に対して同情と
敬畏の念を
顕す考えであったという。すなわちやりそこない、失敗なるものは、恥ずるものじゃありましょうが、あなたのごとき人でも、なお失敗は
免れないではありませんかと言う意味であったという。どれほど深い考えをもって、この青年が自分の不勉強なることを言いわけする考えであったか
判らんが、とにかく世のいわゆる失敗なるものは、英雄にも聖人にも君子にも、
免れ難きものであるという
観念は、彼の言葉の裏に
顕れている。リー将軍がこれしきの事が
判らぬではない。
ちかごろ出版になった有名なる
文豪ページ(W. H. Page)氏のリーの伝記を見ると、
幾度となく戦場から、あるいは
南方のときの連邦大統領あるいは夫人に送った手紙の内に、
「今まではとにかくに
敗も取らずに来たが、次の戦いはどうであるか、
数より
推せば、我が軍はとうてい北軍に比し
難い。また
兵站を考えれば、
二日以後の食糧は、どこに求むべきか当てもつかず、冬が近づくが、兵士に
靴のなき者が数千人、この秋風を
凌ぐに毛布なき者が数万人である。しかし
軍の
成敗は天に
在る。かくのごとく我々が苦しむのは、
己れの求めて
成す事にあらざる以上は、何事か天意のある事ならん。
天父の慈愛に
頼って、各自の任務に忠実なるより為すべき事はない」
と言う口調を
洩らすことがしばしばであった。彼の考えには成と敗の区別が明らかでなかったように思われる。彼の心には勝負の考えがはなはだ弱かったごとくに思われる。ただ
己れの義務と思うことを為した以上は、勝とうが負けようが、
己れの関するところでないとの考えが
充ちていたように思われる。
我が
南洲翁もややおなじ境遇にあるの時、同じ意志を
吐露した。翁が
田原坂の戦いのころ、
大山県令に寄せた
書翰に
曰く、
「もはや時勢も
此に至り
候てはさらに言語
口舌をもって
是非曲直を争い
難ければ、腕力のほかこれなかるべし。しかし天下の事は成敗
利鈍をもって
相判じ
候訳にはこれなく、小生は正をもって起こり、正をもって
斃るること始めよりの目的に
候。ワシントン、
那波翁云々は
中々小生
輩の事にあらず、
万一
不幸相破れ
屍を原野に
曝し
藤原広嗣等とその
品評を同じゅうするも
足利尊氏と成るを望まざるなり」
この思想はただ
戦のみに関わることではない。平生も持ちたい思想である。世には成功ほど望ましいものはない、失敗ほど恐ろしいものはないと思う人が多い。して、いわゆる成功に達せんがためには、いかなる方法も用いようし、また失敗を
免れるためには、いかなる事をも
憚らない人が多い。すなわち成功熱に浮かされている人が多い。しかしてその成功とは何ぞやと聞くと、多くは
名利である。この成功あるいは具体的に言えば名利を
貴ぶの結果として、人格を
測るにさえ名利を標準とする者が多い。たとえて言うと、
「あの人は近ごろたいそう成功しました」
という。
「どう成功しましたか」
と押し返すと、
「
大分金が出来ました」
とか、
「近ごろ
大分名が聞こえて来ました」
という。
僕が初めて伊藤公を訪問した時、人物の大小論を試みたが、そのとき公は人物を
測る標準は、事業にあると言われた。この一句を案ずれば、伊藤公は伊藤公だけの事業なる文字についての解釈があろうが、この句が凡人の耳に
這入れば、ただちにいわゆる成功なる文字に翻訳せられて、俗の言葉に訳すと、
「うまくやった
奴が
偉い
奴」
ということになり
了る。僕は決して
名利が悪いとは言わない。名も利も求めずして来たるものならば、
拒むべきものとは思わない。しかるに名利はこちらから追い駆けて、あるいは他人を
毀つけたり、また
己れの本心に
背いて得るものと、天より
降る
露のごとくにおのずから身に至るものとあろう。といって決して果報は寝て待てという意ではないが、
己れの正しいと信ずる事さえやっておれば、名利が来ようが来まいが、あえて
頓着すべきものではなかろう。真の成功なるものは、
己れの本心に
背かず、己れの義務と思うことをまっとうするの一点に存するのであって、失敗なるものは、己れの本心に背き、己れの任務を
怠るにある。ゆえに成功だの失敗だのということは、世の中の人にはなかなか
解るものでない。リー将軍が失敗したというが、自分では失敗を重視しなかったろう。古人の教えたことにも
富貴名誉を必ずしも
避けない、その代りことさら
迎えもしない。
「
富貴名誉、道徳より来たるものは、山林中の花の如く、おのずから是れ
舒徐繁衍、功業より来たるものは
盆中の花の如く、
便ち
遷徙廃興あり。若し権力をもって得たるものは、
瓶鉢中の花の如く、その
根植えず、その
萎むこと立って待つべし」
むかしギリシアの哲学者ソクラテスのもとに、ある
兇漢が来て、さんざん悪口を言って帰った。かたわらに聞いておった門弟が、哲学者に向かって、
「先生あいつ
奴、いかにも
憎い
奴でございます」
といったときに、哲学者は
泰然として、
「なぜにくい」といったら、
「あんなに先生を恥ずかしめたのがにくい」
といった。彼は笑いながら、
「お前は少し考え違いをしている。彼はわが輩を恥ずかしめた考えかも知れないが、
俺はちっとも恥ずかしめられたとは思わない。自分が恥でも受けたような顔をしとったかね」
と答えたという。失敗もその通り、世の中で
何某が大いに失敗したと四
面楚歌の声が聞こえても、
本の当人はどこを風が吹くかという顔をしていることがたまさかある。二千四百年前に、ソクラテスがアテネの裁判所に
召喚せられ、有罪の宣告を受けて、
獄屋に投ぜられたときには、アテネの者が皆々
嘲り笑って、とうとうあのおしゃべり
爺も、あの年になって、
本性露見して
畳の上でくたばりそこなったわい、と評判を立てて、もし当時アテネに新聞があったものなら、いかに当時の記者が論説やら
雑報に忙しく
彼の罪状を書き立て、彼がその日まで口に唱えた教訓はまったく
偽善であったとか、彼の純潔なる素行はたくみに人を
欺くの方法であって、その実、彼がかくのごとき事もしたであろう、ああいう事もしたと、ありとあらゆる
捏造説を書き立てたであろう。
基督がゴルゴタの山上で、かの
非命の最期を
遂げたごときも、
世人は、あの男もとうとう
尻尾を現して、あのざまの死に方をしたとか、表向きには
君子顔をしておっても、
蔭ではだいぶ
不仕末の事があったそうだ、社会主義も唱えたそうだ、某婦人と仲がよかったそうだ、
謀叛の
目論見さえしたそうだ、
始終下等な女や悪党の仲間につき合っておったそうだ、折々は魔法みたいな事をして
愚民を驚かしたそうだ、始終
猫撫声をして
女子供を手なずけたそうだなど、その他あらゆる悪口をもって、彼は見事に失敗したなどといったであろう。いずくんぞ知らん
敗けたと思った人が最後の勝利者たることを。
負けて退く人を弱しと思ふなよ智恵の力の強き故なり
その他歴史に現れて失敗した人で、その実みずからは失敗せぬと思った人もたくさんあろう。
成敗は実に世の眼には見えないものである。
如何となれば当人の標準とする事と、世の標準とする事とたいそう違う。たとえば僕が朝起きて今日は天気もよいし、気分もいいから、一
奮発して十里先へ遠足する、とこう心の内に十里
塚を目的として出発する。夕刻に目的地に達すれば、これすなわち僕が成功したのである。自分の心に期しただけの事を
遂げたのである。
しかるに世間はこれを見て成功と言うか言わぬか。世間ではこれをもって失敗と笑う人もある、また成功と
褒むる人もある。しかして
褒める人のうちにもこれを僕と同じような考えをもって、まあまあ思っただけのことをやったと、
平易にいわばあたり前に考える人は少なかろう。
如何となれば僕のその日の心持ちを知らんから、その日ことさら気分がよかった、天気が清朗であったなどということは
考えの内に入れてくれぬから、同じく成功とみなしても、僕が思う程度に成功と思ってくれる人ははなはだ少ない。
しかるに時には十里歩いたことをもって、非常なる成功と思って、僕は何か世に
偉い
奴であったごとくに賞賛する人もあろう。かくのごとき人は
日ごろ僕が歩き
不精であるから、一里行くのも
珍らしいのに十里歩いたのはエライとほめる。しからざれば自分らが足が弱くてなかなか十里の道を遠しとしている連中ならば、これまたわが輩を
誉めるであろう。そうでなければ、わが輩が歩いた道のことを
詳しく知らぬ人が、よその人から聞いて、この道は非常に悪路である、
嶮岨だとか、危険の多い道だとか信じている人は、わずか十里ながらもえらいところを行ったと思って、わが輩は非常なる成功をしたごとく思う人がある。しかるに実際は
平坦な道を、荷物もなく折々休みながら、
鼻唄うたって通ったに過ぎぬ。
しかるに世人の多くは十里歩いた人の話を聞いて成功とはなかなか言わない。まず第一に十里ぐらいはなんだと
嘲りを心に
催す。この種類の人も僕が
出立するときに、今日は十里の散歩をしようと、心に定めたことを度外視してわが輩の遠足を
測る。して十里の道ならば子供でもゆける、
車引などは一日に三十里もゆく、普通の人間でもせめて二十里も歩かなければ、健脚を誇る権利はないなどという。わが輩は
車引でもなく、また健脚を誇る考えのないことなどは心のうちにおかない。
古人の言に、
「
燕雀安んぞ
鴻鵠の
志を知らんや」
とて、
小人が英雄の心事を解し得ぬに
譬えたが、この句は
独り人物の大小の差を示すのみにあらで、
小人と小人の間にも、
大人と大人との間にも当たる言である。
リー将軍の
治績を顧みても、これに変わったことはない。彼に
私淑する者は、彼の
寡をもって北方の衆に敵し得たとか、南軍の
貧をもって北軍の
富に当たった、
某戦場においては某将軍を破った、
某月某日には某所において
漲る流れを
冒して川越えをなしたとか、その他かくのごとき
逸事がある、かくのごとき軍功があると、言を極めて彼の徳と彼の力を
称揚する。これらの賛辞が将軍の耳に入ったときは、十里歩いてほめられる僕の感とさらに変わった事はなかったろう。
またこれに反しなにゆえに彼が某戦場において、某将軍を某地に向けなかったか、なにゆえに某月某日に、北方軍を某地において
衝かなかったか、なにゆえに彼は某所の
包囲の時に、かくかくの作戦をしなかったかと、
岡目八目や、あとから出る
下司知恵を振りまわして、彼を非難する声がさかんになった時は、
彼の心に起こった考えは、恐らく僕が十里以上の遠足をしなかったと非難されると同じことであったろう。
世を渡るにはまったく
輿論を無視するわけにはいかぬけれども、
世人の考えをのみ標準として成敗を
測ることは、はなはだはかなき
業である。勝つも敗くるも、失敗するも成功するも、その
基は各自の心のうちに置いてこそ、真の成敗の味わいが分かるものである。成敗を
慮るには立脚の地歩によりてどうとも考え得らるる場合が多い。これはしまったと思うことも静かに見つめ、自己の心に顧みて悪意なきを
悟れば、いわゆる失敗は恥ずかしくもなければ、痛くもないことがしばしばある。自己の心の
据えどころこそ成敗を
測る
尺度であって、この尺度が
曲がらぬ以上は、いかなる失敗に
遭遇しても心に
憂うることがない、これ
霊丹一
粒、鉄を
点じて
金と成すものか。
[#改ページ]
昔の、経験ある武士の言葉に、
「勝つ事ばかり知りて
負くる事を知らざれば、害その身にいたる」
とある。戦いに臨む者は勝利を期待することは当然であるが、万一期待に
背く事あるときはかくかくすると
予め覚悟なくてはならぬ。連戦連勝は、いかなる国の歴史、いかなる勇将の伝記においても、永続した
戦役にはあり得ない。そのこれあるは勝敗の早く決する戦争にのみあるのである。
孫子も、
「兵に
常勢なきことは、水に常の
形なきが
如し」
と
繰り
返し教えている。しかして人生の戦争においては、太く短く世を渡るを望む者あるも、望み通りになるやならぬや誰も保証出来ぬ。みずから手を下して自己の生命を
短うするにあらざる以上、人はいつまで生きるものか予想し難い。
何人も生命の長きを望む。しかしてこの望みの存する限り、人生の
奮闘もまた連戦連勝を望むことは出来ぬ。ゆえにはなはだ縁起の悪いことながら、人間は
予め負けた時の
考えを用意して置かねばならぬ。この考えある者は勝った時はなお
慎みて油断なく、負けた時にも
みすぼらしい風情に
陥らぬ。
分かりやすく例を取りてみれば、商戦に従事する者はもくろみ通りに成功し、いわゆるトントン
拍子に
身代をふやし、または営業を拡張することあるも、これは決していつまでもつづくものではない。よいほどに
儲けてやめぬ以上は必ず営業上の困難を来たす時節の来ることは、
何人も知るところである。
艱難なしに成功した例はない。艱難とはある意味においては失敗である。もちろん全然の失敗ならなくとも、勝敗の怪しき
謂である。ゆえにさかんに繁昌するとき、万一の場合を
慮りてあるいは
貯蓄するなり、あるいは新事業に手を出すことを
慎むなり、あるいは繁昌に
乗じて
驕奢を極むることを
矯めたりすれば、不幸にして利あらぬ事ありとするも、右のごとき
謹慎を加えなかった者に比すれば失態を演ずることが少ない。これは我々が社会を見ても、あるいは各自の友人の
履歴に
徴しても、必ずその例に
乏しからざるを感ずる。
勝てるあいだに負けた時の準備をすることは商事会社が準備金を積み立てるか、あるいは個人が火災なり、生命なりを保険するようなもので、勝ちつつある時に、「待てよ」と一歩を
控えることは、わが輩はこれを精神上の保険と名づけたい。
勝負を語るにつけ、一歩をさかのぼりてそもそも勝つとはなんであるかと考えてみたい。勝つとはなにかと
尋ぬると、おそらく
世人は奇怪なる質問と思うであろう。勝負ほど
明瞭なものはないと思う人が世に多い。しかし
相撲を見ても東西のいずれが勝ったのかはなはだ不明なる場合がある。数万の眼で見る勝負さえもかくのごとくである。また多年審判の任に当たれる
行司さえも判定を下すに苦しむことがある。まして個人の行為において勝敗を決するの難きは常に見るところである。また決勝点はすべての人によりて必ずしも一致するものでない。
世人が決勝点なりと認むるものを、自分は決勝点と受け兼ねることが
間々ある。
中には
為にするところあって、
人為的形式的に定めたと思わるる決勝点なきにしもあらぬ。たとえば
相撲のごときも一つの形式で勝敗を定むるものである。すなわち土俵を作り、それを標準とするが、この土俵なるものは
天然に定まれる一定
不易の
圏でなく、人為的に仮りに定めたるに過ぎぬ。「
鳳」と「
朝潮」とが取組み、一方が一歩を土俵のそとに踏み出せば、それで勝敗を決する規則であるが、世界中を土俵だとすれば、勝敗あるいは
地を換えることもあるであろう。
むかし
淮陰の少年が
韓信を
侮り韓信をして
袴下を
匍伏せしめたことがある。
市の人は皆
韓信の
怯懦にして負けたことを笑い、少年は勝ったと思って必ず
得々としたであろう。しかし今日は当時勝ったという少年の名を知れる者がはたしてあるか。しかして
韓信の名を知らぬ者が果たしてあるか。
負けて勝つ智恵の力の強さにはたれも感心するぞ韓信
わが輩はしばしば思う、
頸引きという
遊戯は前に倒れるものが負けと
定まっている。しかし実際には勝った者が勝ちに乗じて強く引くとき、かえって引っくりかえるのをしばしば見る。もし単に倒れる者を負けとすれば、勝敗の標準が異なり、従来勝った者が負けとなり、負けた者が勝ちとなる。ある狂歌師の作に
曰く、
負けて勝つ心を知れや首引きのかちたる人の仆るゝを見よ
ジャンケンで勝負を決するのも同様である。石と紙といずれが勝つかと、何事も知らぬ外人に
質せば、恐らく石が紙よりも重く強く、かつ
固いから、石が紙に勝つというであろう。
して見れば、勝つという語の
定義を下すことは至難であるが、普通の考えでは他人に
優る、相手より
超絶るの意であろう。さらばただただ
人より偉いと
嬉しがるために勝つかと
問わば、決して
偉がるばかりが目的でない、むしろ人を服従させるのが勝つの意味である。ゆえに争わずとも自然に服従さすれば、それで勝利を得たというべきである。さらに一歩を進めて、服従させるとは何のためと問わば、これ自己の意志を行うためと答えてよかろう。しからば勝つとは
吾が意を
遂げるなりと定義したい。
こんなもので世の中でいわゆる
勝負を
測る標準は、人の実力や
努力の標準とはちがう。ゆえに俗界を離れて高い立場よりこの世の競争
奮闘のありさまを見れば、定めて
可笑しきことがたくさんあろう。世間で得意を極める人も、高き標準から
測ったならば、最も
卑むべきものとなりはせぬか。
耶蘇がその
弟子に説いた言葉に、
「
地上にありて最大たりしものも、
天国にありては恐らくは最小なるものならん」
と述べたが、天国に行かずとも、同じ地球の表面においてすらも、時の移るとともに人の
勝敗を定める標準が
追々違って来るかと思われる。
この前にも述べたごとく
野蛮の社会においては
腕力ある者が最強者で、最大勝利者で、人も尊敬し自己もまた得意であった。社会が一定の
秩序の
下に
治められ、腕力のみをもって優劣を定めることを
止めて以来、理屈の最も分かるものが社会で勝利を得ることになった。すなわち
法治国においては法を破らぬ範囲内において、自己の利益を最もよく
図るものが勝利者となるに至った。しかるに社会がさらに進歩し礼をもって治められる時代に
到達したならば、礼の最も厚き人が最高の勝利者となる。
いかなる世においても、種々なる形で競争が行われる。あるいは商業、あるいは学術研究、あるいは芸術、社交、その他いかなる階級にもそれぞれ競争は絶えぬ。して競争あれば必ず勝者と敗者がある。一口に勝者という者の中にも一番強い者を相手にした者は一番
偉い勝者である。また同じく
敵と称する者の中にも種類が
数多ある。強きもあれば弱きもある。
赤鬼もいれば
青鬼もおろう。してあらゆる種類の敵に勝つ者は一番
偉い勝者である。時には敵とは称せずとも
吾人の勝つべき相手もある。それは親兄弟、
妻子、
朋友のごときはもちろん敵ではないが、彼らが我々の心に
服さぬことがあれば、その
不服の範囲において敵のごときものである。ゆえに広い意味においては親兄弟にも勝たねばならぬ。
楠正成の歌に、
我にかちみかたに勝ちて敵にかつこれを武将の三勝といふ
とあるのが、ちょうど僕の今いう勝つべき相手の種類である。
こういう
礼治的社会は、まだまだ前途
遼遠なる今日の社会においては、勝利を得れば足れりと思う人も、単にいわゆる現代的なるをもって足れりとせば、これ一時の勝利者にして、ながき奮闘には負けるものと言わねばならぬ。なんとなれば世の中の思想は、我々一
生涯中にも次第に変わるものである。ことに我が国のごときは十年を一
期とし、おそらくは七、八年中には、思想が一変しつつあるかと思わるるほどに変化が多い。昨日の
非は今日の
是となり、昨年の
是は今年の
非となることは、内閣の
更迭ごとに起こる事実に照らしても分かるくらいである。
またいわゆる思想に用いらるる用語を調べてみても、五年後には
字書に現れなかったことが、こんにち日々の新聞に見ることを考えれば、今後五年にはいかなる
新熟字、新思想が世に行わるるかは
想像出来ぬ。よし新熟語が必ずしも新思想を表さなくとも、旧思想が
復活することであるとするも、一たび死んだ思想が再び
蘇生し来たりて人心を動かすのであることは明らかである。
僕はつねに失望する人を
慰めんとするとき、あるいは
自ら失望し
落胆せんとするとき、みずから励まして、「マア十年待て」といっている。ついこの間もしばらく
会わなかった友人が
来訪し、こういうことをいった。
「僕の友人で一時世にもて
囃され、
名望一時に高まったものがある。僕は友人にそれを喜んだとき、なるほど僕を
褒める声が
あちこちに聞こゆるようであるが、これはすでに極度に達したのであろう。二、三ヵ月
経てばそろそろ悪口が始まり、四、五年の後には
犯罪者のごとき
批評を受けるであろう。しかしてまたその後にいたり相当の位地に帰るであろう。そのサイクル(
循環期)は十年は出ない。七、八年ならんといったが、いかにも今日まで五ヵ年になるが、彼のいったごとき
傾向が現れんとしつつある」
と。これは
尋常の人であるから、その批評もまた七、八年で一循環するのである。もし非常の人物であるならば、彼に対する
誤解も五年七年では
済むまい。あるいは百年二百年もつづくであろうし、また真価の充分に認めらるるには百年二百年を要することであろう。
富士山の
測量はいまだ
綿密に出来ていないごとく、大人物であればあるほど、その高さも大きさも
容易に
凡人の見分け得るものでない。
普通の人についてもその真価は
即座に決することは出来ぬ。まずは七、八年はかかる。むかしの人のいったごとく人生は
棺を
覆うて始めて定まるものである。しかして勝敗も人の真価で計るべきものである。真の力ある人はいやゆる投げられても負けぬ。真の力がより以上の真の力のために
圧迫されて始めて負けたということになる。その時々に行わるる標準をもって勝敗を定むることはほんの一時的で、市中の
屠者が
韓信に勝ったといって
得々たると同じである。
かく思うと負けたことを
遺憾とするははなはだ
愚なりと思う。ことに勝負の標準が一時的、
人為的、時勢的のものであれば、なおさらそうである。いわゆる負けたからとて自分の人格の下がる訳でもなく、また真価を
傷つけるものでもない。これがためにあるいは無知の人の笑いを
招くことはあろう。しかし笑いも無知の人の笑いなる以上は気にするほどのこともない。
しかるに世の中にはともするとただ勝てばよいと、決勝点の何たるを問わず一向に勝つことのみを
快しとする者が多い。たとえば経済競争において勝負を争う時は金が決勝点である。この場合には
善かれ
悪しかれ、金さえ
儲ければ勝利者と思う
風がある。
今日普通に成功者と称する
輩の中にも、いかなる方法によりて今日の位地を得たかというと、はなはだ怪しげな道を進んだことが分かる。少し高い決勝点に照らせば、まさしく
敗北者と称すべき者で世に時めく者が少なくない。僕はあながち勝者を
妬んで
皮肉を
吐く考えもなければ、誰がどうと具体的に指さすことを
能くせぬが、かくのごとき人が世にありそうであり、またありと聞いている。世の中にはかかる人を重んじている。しかしてかかる勝利を
得損なった人が失敗者に数えられる。ゆえに世間の笑いを
避くるため心ならずも、
標準の決勝点を引下げ、
潔からずと思いながらも、俗界の喜ぶ
勝鬨を挙げんとする者が多くなり、しかしていわゆる失敗者となるを
不本意とするにいたる。しかし
誰人が不正の
名利を
抱えて、心のうちに満足を覚ゆるか。
世人に向かっては大きな顔もしようなれ、自己に
顧みてはなはだ不安の念を抱くや疑いない。すなわち不正不義の手段によりて
獲た名利すなわち勝利は、
己れの本当の心に
背いているに違いない。
しかして先にも述べた通り勝つとは我が意を
遂ぐるの
謂であるなら、不正不利の名利は敗北と称すべきもので、勝利というべきものでない。
わが輩の言ったことを一言に約すれば、勝敗を定むる標準を高きに置けよというに帰着する。ことに青年時代いまだまったく心の俗化せぬとき、すなわち理想のいまだ高き時に、みずから決勝点を定めよ。しかしてこれを高きに置け。すなわち金を
儲けるのも儲ける道を純白にし、
卑怯な方法にて儲くれば、これ
奮闘の敗北なりとみなし、また高き位地を得るにしても、他人を
踏台としたり甚だしきは友人までも売って位地を
占めんとしたら、これまた勝利にあらずして
敗北なりと
心得、よし名を挙げるにしても、
卑劣な
賤しき方法によりて得たならば、その名がいかに広まるとも、勝利にあらずして敗北なりと思い、これに反し自分の
同僚友人が
潔からざる
手段を
弄して巨万の富を積み、高位に上るとも、また
名声を海外に
轟かすとも、さらに
恨むにも当たらず、また彼らに対し自分は敗北者だと
卑下して小さくなる必要もない。
物質的利益に
超脱し、名誉、地位、
得喪の上に
優游するを得ば、世間に行わるる勝敗は
児戯に
等しきものとなる。真の勝利者は第一
己れなる者を全然破り、己れに
克ち、古人の言う私心なきことこそ必勝の条件なれ。この点に意を留めたなら世間でかれこれいう
勝敗などのために心を動かすことなく、勝っても笑わず、負けても泣かず、勝利のために誇らず、
敗北のために
歎かず、心つねに平々
坦々として、定めし幸福なることであろう。
孔子のいわゆる、
「
君子は
坦にして
蕩々たり、
小人は
長に
戚々たり」
とはこの心をいうならん。これで
基督は
磔になりながら、
「われ
世に
勝てり」
と叫んだ心をも幾分か理解し得る。
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人生の言葉はとかく相対的になる。たとえ思想は絶対的であっても、これを言葉に発するときには、思想の上も下も、前も後も、
表も
裏も、ことごとく同時に言い現すことは出来ぬ。それゆえに
口外に
放つ言語が、胸中で考えることと正反対の意味にとられることも
間々ある。私は花が好きですといっても、聞く人によりてはこれを悪意に解し、華美を好むという
印象を受けるものもあり、はなはだしきは
物いう花と
早合点する人さえある。言葉
尻を
捉えたり
揚足を取る人ならば、花を好むというは、「
戊申詔書」の
華を去り
実に
就くというご趣旨に
反く、
違勅の
逆臣なりなどいうこともあろう。世の中には実際この
筆法をもって人を
罪せんとするものがたくさんある。
また普通に
甘党といえばいわゆる
下戸を指し、酒を好まぬことを意味するのであるが、実際社会においては両刀
遣いする人もあり、甘党であると同時にまた酒を呑む、
上戸下戸を兼ぬる人は決して少なくない。こういう例を挙ぐれば限りなきも、僕のここに述べたき要点は、人がある言葉を用うれば、ただちにその反対の意味を排除するものでないことを説くのである。
およそいかなる物でも物として
表裏なきものはあるまい。いかに
薄き平面にても
苟くも実物である以上は必ず表と裏とがある。表裏なき表面は、ただ
幾何学上に現れた理想的の形たるにとどまる。幾何学上に称する点や線などは大きさなきものと説いてあるが、しかし針の
尖でさえも一
分一
厘の
何分の一というように必ず
量り得る大きさを有するものである。線にしてもまた長さのみありて
巾なしというは、幾何学上の理想たるにとどまり、実際目に見ゆるものであれば、必ず計り得るものである。ましてある面積を有する平面を
備うるものは必ず両面がある。
雁皮紙のごとき
薄い紙でも表裏はある。
綿衣、
袷はいうまでもなく、
単衣さえも表裏がある。独り衣服のみに限らず一家においても表もあれば裏もある。人体においても表と裏とがあって
脊と胸とになっている。ゆえに表裏はあらゆる物の存立の必要条件なることは、あたかもなにごとにも内外の区別あると同然であって、むかしの人はなにものによらず必ず陰陽の二様に考えたると同じであると思う。
しかるに
表裏という言葉を用うると、とかく従来の習慣に
捉われ、表は善く、裏は悪きものと解し、ただちに
是非、
曲直、
善悪の区別をこれに結びつけ、物の見方人の見方を
誤ることが多い。しかも裏といえばきっとなにか
穢い物なり悪き物なりを
隠蔽してあるものとみなす。また
陽といえばよかれ
陰といえば気味悪く思うもあれども、はたして事物に
陰陽の差があるものならば、両者の間の差は性質の差にして善悪、曲直の差ではあるまい。
実際世間の
慣わしとしてはいかにも
表門をりっぱにし
裏門を
粗末にする。表門は大いに飾り裏門はみすぼらしくしてあるが、さりとてこれがためにその家の主人が
偽君子なりと判断するは
酷に過ぎたる批評である。表門と裏門とに区別を
設くるは世の風俗である。ゆえにたとえ裏門を立派に造り得るだけの余裕ある人でも、かえって習慣に遠慮して粗末に造るのである。かつ習慣のみならず、人を迎うるは表門よりするゆえ、客に対する礼としても表門を立派にすることは当然の事である。
表裏を区別するは必ずしも道徳的意味を付すべきものであるまい。
否区別を設けぬことこそ不道徳といわれるのではあるまいか。
日々得意先を回る
魚屋、
八百屋、
豆腐屋の人々の中に裏門を通用する際、かく
粗末なる
木戸をくぐらすは我々を
侮辱するなりと
憤る民主主義の人もあるまい。またたまたまかかる人がありとするも、主人側は彼らを侮辱する意志はむろん
毫末もない。むしろこういう人々のためにかえって便利なりと思えばこそ門を粗末に造ったのである。
板台を
担い
笊を
携えて出入する者が一々門番に
誰何され、あるいは門を出入するごとに
鄭重に
挨拶されるようになれば、商売は
煩くなりはせぬか。むしろ彼らの便利を標準とすれば
簡便なる裏門を
設け、
面倒な礼を
省くのが相互の便利とするのではあるまいか。
人間の生計あるいは生活あるいは
品行においていわゆる
表裏(ことに
いわゆるなる文字を使うことに注意を
促したい)あるは、一家の門に表裏の両者があると同じ事情の場合がたくさんある。僕は決していかなる場合においても表裏の存在は止むを得ぬといって、これを
奨励せんとする意ではないが、攻撃的に表裏々々と
非難する中には、
往々にして非難に
値せぬものがある。むしろ表裏あるのが当然で、表裏なければはなはだしく自己および他人に迷惑を与うることもあると思う。たとえば日常の生活について見るに、家族のみで食事するならば
塩物と
香の物ぐらいで
済まされるが、突然の来客でもあれば、急に
刺身とか
茶碗蒸しとかを注文する。これは生計上の表裏ではないか。
また家庭にありて一家
団欒している際は、寒ければ
綿袍を着ても用が足り、主人も
気楽なれば
細君も衣服の
節倹なりと喜ぶが、ふと客があれば急に
紋付に取替える。これも生活上における表裏の一つではないか。かく時に応じてその
態度を改むることは、
強いて
偽君子の行為といわんよりは、むしろ世上における普通の礼である。表裏の区別を全然無視せんとて、会社なり役所なりに出勤するに
綿袍を着て行き、夏の日に
真裸で行くものはあるまい。かくのごときは物に表裏あることを
弁えぬので、かえって世の
秩序を
紊すものである。
世にはとかく、
天真爛漫などと称し、世に行わるる
作法に反するをもって
快しとするものがある。かかる人は我は表裏なしと誇り、無礼な挙動を
振舞って得意がるが、これは表は善で、裏は悪なりという前提に
捉われたるより起こる誤解であって、
幽明の区別を論ずる者が、
幽とか
暗とか称すれば、それだけで悪感をいだき、
明といえばそれだけで善良と信ずるに
等しい。しかし暗夜は暗夜の徳あって、
孟子のいわゆる「
夜気」は暗黒の
賜である。
古の学者の言に、「
好悪の
良は
夜気に
萠す」と。
しからば
表は
礼儀、
裏は礼を
省いた意味とし、家にあるときも、裏でなく表でいたとしたらどうであろう。
聖賢と言わるる人は家にありて、言葉遣いも
苟くもせず、「男女七歳にして
席を
同じゅうせず」の主義で、七歳以上は自分の
娘でも同座せず、しかして早朝より
裃をつけて四角四面に端座しているか。かくのごとき人がはたして理想の人であろうか、かかる人を父とした者は真に
不憫なものであり、また父たるその人もゆるりと
寛ぐ場所も時間もなく、さなきだに
重荷を
荷う人生において、かかる態度は
重荷の上にがらくた荷を一層積むようなものである。礼儀正しきは人生の表なりとせば、裏は
無礼不儀なりとは言われぬ。裏は礼を略し儀式を除くに過ぎない。
人の性質においてもまた同じような表裏がある。しかしてこの人となりの表裏は、他の
事柄と異って、一も二もなく
卑しきもののように思われる。あの男は表裏があるという一言にて、他の事を聞くまでもなく、
あてにならぬ
偽君子なりと解せられる。これは文字の使いようがかかる意味になりしまでにて、僕も文字の用法を改めよと主張するわけではないが、人の性質には道徳的意味のほかに表裏あることを記憶せねばならぬと思う。
我々は友人中に時々新しき事実を発見して驚くことがある。たとえば
無骨一偏の人と思った者にして、案外にも美音を発して
追分を
唄う、これも一つの表裏ではあるまいか。また
髯もやもやの
鹿爪らしき
爺が娘の結婚の席上で舞を舞いて
祝うことがある。
無骨一偏の者が
測らぬ時に
優しき歌を
詠うとか、
石部金吉と思われた者に
艶聞があるとか、いずれも人生の表裏であるまいか。しかしこれあるは決して
矛盾でない、あるこそ当然である。またこれあるところに人生の興味が深いのである。すなわちある意味においてこの類の表裏ならば
奨励したいくらいなものである。
我々が各自の友人を一人ずつ挙げて考えたならすぐに両面あることを悟るであろうと思う。表と裏とは思想上においては反対と思われるも、実際においては同一物なりともいえる。反対と思えば表のなすことを裏で取消したり、裏の性質を表で消したり、相互に利益を
異にするように聞こゆれども、そういうように意味を取ると、とかく性質が
悪ざまになりて、表向きでは一
滴の酒を飲まぬと言いながら、裏面ではこっそりとちびちび飲む。外では
勉強に見せて内では
怠ける。表向きではすこぶる
謹厳の
風を装いながら、裏面ではすこぶる
放蕩する。あるいはまた表面
節倹で裏面
濫費する。
こういう意味において表裏の差を生ずるはもちろん望ましからぬことで、いわゆる
狼が
羊の皮を
被るがごときもの、俗にいう
猫を
被るのである。これは前にいった一家に表門と裏門とある例とは事情を
異にしている。つまり身分
不相応に力を表門に
注ぎて
美麗宏壮に築き上げ、人目を驚かし、しかして裏門は柱が曲り、戸が
朽ち、満足に開閉することも出来ず、出入りにも
危険ならしむるがごときものである。これでは裏門においてかえって人に
迷惑を与うるものである。表門にのみかく力を用うることは悪い意味における表裏といわねばならぬ。
近ごろ我が国民全体が
激昂したことは、表向きでは愛国を口にし、一身の名利などは
毫も眼中にない、
否むしろ名利を
犠牲に供して国防の充実を計るという看板をかけた人が、裏面においてはこれによりて
窃に私腹を
肥すことがあったからである。かくのごとき事こそ悪い意味における表裏の最もはなはだしいものである。
またある党派のために一身を
捧げるようなことを外部に
標榜しながら、内部においてはひそかに
を反対の党派に通ずることがあれば、これまた悪い意味における表裏のはなはだしきものである。こういうような実際
矛盾している表裏的の事柄と、個人々々の性格なりあるいは生計なりにおけるいわゆる矛盾とは、よくこれを判別しなければ、人を判断するにおいて
正鵠を失し、混乱を
免れぬ。
しからば表裏という文字を仮りに用うるとして、善き意味の表裏と、悪き意味――というのが過言であるならば、少なくとも自然的表裏とは、何を標準として区別すべきか。僕はこれは表裏を
備うる人の意志によるものであると思う。僕のここにいう意志とは
天性というにあい対して用いたのである。ただ
堅い一方と思えるものが案外弱いところもあるというのは
天性両面を備うるのである。もしこの同じ人が自己のやわらかいことを仮りに他人を
欺かんがために
隠し、すなわち悪意をもって
硬骨を
衒ったならば、これ悪い意味における表裏の初段である。
しかしもしこの人が
己れの弱点を制せんとする意志に基づいて、これを
隠しあるいは包むとすれば、さほどに
咎むべきことではないと思う。むしろ場合によりては
褒むべきで、
消極的修養の
努力であると思う。
元来普通の人はすべて幾分かの
弱点を備うるものである。この弱点に打ち
克たんか、あるいはこれを
包まんとするは、むしろ
褒むべき努力であって、その人が果たして包みきれるか制しきれるかは別問題とし、ともかく
己れの弱点を意識し、ために過失に
陥らざらんと心づくことは
諒とすべきことである。こういう目的であれば、表裏があっても、たいして
咎むべき必要なきも、一歩を進めて、裏面あるのに、なきがごとくして相手を
欺くの意志あれば、悪い意味における表裏の罪の成立する時である。
しかしその当人が果たして
欺く意志であるかどうかは
容易に判断の出来るものでない。とかく我々が思わぬことを聞いたり見たりすると、一時
案外の驚きに打たれて、その人が
故意に我を
欺けりと判断することがある。しかるに冷静にこれを考えると、
欺かんとする意志があったのでなく、かえって我々のまったく知らなかったことが
落度で、彼はことさらに
隠しもせねば包んでもいなかったが、
吾人がそれを発見しなかったのが、我々の不注意であるということが折々ある。人の衣服を見ても、裏を
つぎはぎしているものもある。着ている人は裏に
つぎはぎしていると
吹聴することもなく、また他人にそう思わせようとも
力めず、自分の着物の裏は間に合せものである。おそらく他人も知っているだろうぐらいに思い流しているのである。しかるに彼があまりに平気であるために、見る人は定めしあの人だから表に
優る裏をつけているだろうと
推量し、ことさら
尋ねもせずに独り
合点している
間に、真相を始めて見て、彼は長日月間我々を
欺いた、表裏のはなはだしい
奴だと
詈る者を多く見る。先方が
欺いたのでなく、当方が不注意のために知らなかったに過ぎぬ。ゆえに
一口にいえば悪い意味における裏面の
有無を判断する者は
当事者一人というべく、他人は容易にこれを断定し得るものではない。
近ごろ世間に海軍とやら
本願寺とやら
何々党とやらに関して、
種々面白からざる表裏ばなしを聞くが、
罪は
悪むべきも、その関係者の人については、
慈悲の心をもって当たりたい。いわんや
吾人は
平素交わる人々について、
図らざる事を見、予期せざる事を聞くこと少なくない。そのつど友人の心事や性格を疑うごときは不見識のはなはだしきものなれば、つねづね、なにものにも
表と
裏と、
外と
内と、
皮と
肉との別あるを心得ておきたい。
[#改ページ]
子供が
事柄について判断を下すを見るに、事の
曲直、物の善悪をそのままに見ることはほとんどなく、たいがい頭から好き
嫌いという立場から判断する。また普通の婦人を見ても同じことで、自分の好きなことならばただちにこれを善きものと思い、自分の嫌いなものならばすなわち悪いとみなす。「もちろん悪いとは知っていますが、どういう
因果でありますか、これが私の
嗜みです」ということは、常に聞くことなるも、かくのごとき申し訳は人に対し
遠慮斟酌する言葉に過ぎぬのである。
「
何の
因果で」とか、「
前世の約束」とかいう句のうちには、すでに自分の好むものは悪であり、
己れの
嫌うものこそ
善である、またその順序を
顛倒して善なるものを自分は嫌い、悪なるものを自分は好むということを認めたもので、これは心の
主観的作用と
事物の
客観的
価値と一致しないゆえである。この
傾向は決して
独り婦人子供のみに限らない。
大人にもあり、しかも学者または
識者にもあることである。自然といえばそれだけで
済むようなものの、ややもすればこれがために人を害し、また
己れをも傷つける危険がはなはだ多い。
婦人子供のみならず、大人にも主観と客観とを混同する者が多いといったが、最もよく理性の発達した人、あるいは心の寛大なる人ならば、右のごとき混同を
来す
憂いはない。ゆえに一般の教育が進むにつけ、あるいは個人が年とりて種々な経験を
経たり、あるいは若い者でも少し
思慮を深く用うる者であれば、この
過ちに
陥ることは少ない。必ずしも、世間通りに従う理由はない。もしなにもかも
唯々諾々と、世の
風潮によるならば、進歩することはなくなる。しかし争うほどの事ならざる以上は世と共に
推遷るのが、自分のためかつ世間のためであろう。すなわち社会の
安寧はそれで持って行く。
世の中の人に心を合せけん水と魚とを見るにつけても
しかるに何事についても消極的に世に
処すれば、どれほど広き世間もただただ
狭苦しくなるのみで、
世の中が四尺五寸になりにけり五尺のからだ置き所なし
と
嘆くにいたるであろう。
刺身の
嫌いな者は医師よりいかに
刺身の消化よきこと、
滋養分の多きことを説かれても、何とか
けちをつけて毒でもあるかのごとく
けなす。これに反し酒の好きな者は医師がいかにその害を説くも、百薬の
長なりと
頑張って聴かぬものが多い。心の
好き
嫌いと物の善悪を
混同する者は実際を見る
明を
失う。
「
凝っては思案に及ばず」というが、なにか一つを好むと、その好きなものの長所のみが
映って短所は目に入らぬ。この好き嫌いをもって物を判断する標準にすると、とかく
曲直の
分別ができなくなり、つまらぬことに争い、大きなことにも争いを起こす。はなはだしきは政治の問題についても有力なる
某政治家は嫌いだと思えば、その人の政見がいかに正しくともこれを
誤れるがごとくに批評し、たまたまこれを
攻撃する理論が発見されなければ、
説そのものは善きも、その説を
来す動機がはなはだ
卑しいとか何とかいって、説そのものをも
卑むようになる。ある外人が日本人を評してかくのごとく感情に高い国民は憲法政治を実行し得るだろうかと疑ったことがある。
わが輩はつねにこう信ずる。この世の中を渡るに
嗜好はなるたけ人々により
別なるが
面白けれども、善悪の
標準は一様でなくてはならぬと。この一様なる善悪の標準をもって好き嫌いを測るべきものでない。好き嫌いを測るものは道徳的
物差しでない。しかるに好きなものは善い、
嫌いなものは悪いというように、
愛憎をもって
曲直を決することは、ちょうど物の軽重を計るに
差金を用うるがごとくである。長いから重いというものでなく、また短いから軽いものでもない。測る道具と測る品物が往々にして
異るので、この二者を混同するとつまらぬことに
争いが起こり、
互いに
不愉快の念を
生ずるにいたる。ことに人に対して
愛憎の念が起こる時は、いっそう注意してその人の性質の善悪や人格の高下等を批評することを
慎まねばならぬ。
僕のごときも今日まで幾度となくこの
過ちを繰り返し
来ったもので、今にしてこれを
顧ると
済まぬことをしたと思うことがたびたびある。ちょっと始めて面会した人がなんだか虫が好かぬと思うと、すぐに悪人のごとく思い
做した。しかしてそう思えばその人のすること為すことが、一部
始終不正のように見ゆる。また自分はさほど悪く思わなかった人にして、自分のことを
悪ざまに非難したことを聞くと、その瞬間よりその人が善くなく思われたりするものである。これは人情だと思えばそれきりであるが、人情には違いなきも、
矯むべき人情、
怪しからぬ人情である。人は
宜しくかくのごとき人情に甘んずるより、いっそう
超然たる人情に達せねばなるまい。
甲が乙を評するにいろいろの
悪しき点を述ぶるのを聞くとき、その批評の
過てることを一々指摘し説明しても甲の
偏見はなかなかになおるものでない。なにゆえかといえば、批評が
客観的であるものならば
矯正される望みもあるが、多くは
主観的で批評する人が始めより
曲解する精神でかかるのであるゆえ、どれほど反対の証拠を挙げてもなかなか心機一転しない。
たとえば
某の衣服はよくないという。もしその悪い点が果たして衣服にありとすれば、衣服を代えればその非難はただちに消ゆるはずである。しかるに衣服を代えると、こんどはまた代えた新しき衣服を非難する。赤は派手すぎると悪くいう。白くすれば
幽霊のようだと非難する。黄色にすれば
坊主に似たりとか、
紺色にすれば職工みたいだと言い、何を着ても批評する人の心が
矯められぬ間は非難が尽きないものである。
衣服とか外形上のことならば、単に非難する人の心を不愉快ならしめ、非難される人の心を不愉快にするだけにてすむが、学術あるいは政治上の説が違う場合のごときは、自分の気に入りたる説なれば、大いに怪しい点があってもこれを
是とし、自分が
承引しかねる場合にはまったくこれを異論なるかのごとく
咎むるは、その害の及ぼすところ広くかつ大きい。
願わくは説が違ったときは、はてな、
己れの考えとは違うが、一たびはその意見を聞こう、
正邪の判断を下す前に一応は取調べもし、耳を傾けもするだけの度量が欲しい。少しく自分の説と異なればただちに
曲学阿世だとか、
俗論だとか売国的説だとか
異端だとか議論はそっちのけにして、論者の動機やら人格までをかれこれ言うようなことは、
度量の狭きを示すと同時に、進歩する余地なきことを自白するのである。
前にもいった通り、説は成るたけ違うのが面白い。今日まで学問の進歩は種々の
異なった説から、互いに
討議し批評して得た結果にほかならぬ。昔は異説あると宗教の教えに
背くとかあるいは国家に危険なりとして圧迫を加えた。その時代は人知の最も進まぬときである。ちょっと聞いて自分の心にはなはだ
嫌に思う説でも、一応は聞くだけの度量を
養うことを
力めたい。さらに
力めたきことは自分の
嫌いと思う人の説なり行動なりを、冷静に客観的に考える心を養いたい。
昔より
私なしという言葉は公平なる態度を現すに用いられるが、
無私というは狭い
量見のない、
己ればかりが正しいのでない、また
己れの利益のためでないという意味である。たとえば
孔子が『
春秋』を書くに
私心をはさまなかったとは、『春秋』に出る人物を批評するに好きだから
褒める、
癪にさわるから悪く書くというのでなく、
好悪は論外として、自分と性質は違うとも、正しい者は正しいと公平な判断を下したからである。
僕の友人に甲という人がある、この人のもとに同じ友人の乙が行き、
「甲君、君は丙君と仲がよいか」
と聞く。甲は、
「別に仲の悪いことはない、永い間の友人だから」
といえば、乙はやや驚いた顔して、
「何のためだろう、丙はあちこちで君の
悪口を言い歩くよ」
と告げたので、甲はいかにも意外に思い、しばしば会っているに丙は自分に対し別に悪意を
懐かぬようだが、それでかれこれ自分を非難するのは
合点がゆかぬと思うと同時に、して見ると丙は余程、
二心あるもので、僕に向かってはよい顔しながら、
蔭にまわると悪口する、はなはだ
卑むべき人であると思って以来、丙を見てもロクに
挨拶しなくなった。ところがあるとき丁より、丙はたいへん親切な男である、今これこれの人を世話しているが、まことに感心だと聞き、甲は始めて
翻然として
悟るところあり、ああ、やはり丙は善い人である。しかし
己れを
嫌っている。
己れとは性質が違うから彼は僕を非難するのであろう、僕を嫌うからとて悪人とはいわれぬ。やはり丙は善い人だと考え直して以来、甲はいっそう丙を尊敬して、交わるようになったことがある。
僕は人と交わるにはこの甲のごとき心持ちをもってしたいと思う。よし甲が僕を嫌っても、好き嫌いは各自の性質に存するもので、我が甲に嫌われたとて我は悪い人でなく、またその代わり彼も僕を嫌うために彼を悪人と称することはできぬ。かく思えば世の中は広くなる。嫌いな者でも正しく見えたり、
嫌な者でもかえって善く見えたり、人のなす事することが美しく見えて来る。到るところ青山ありと昔の人のいったのは、かくのごとき心の持ち方をいうのではないか。
せまき
己れの好き嫌いを標準として世を渡る以上は、さなきだにせまき世の中がますますせまくなり、さなきだに
憂き世の中がいっそう
憂くなって、人を
恨み
己れを恨み、天を
怨み、晴天にわざと暗雲を作りて不愉快に一
生を送るようなものである。
[#改ページ]
しばしば
台湾を旅行するに、その進歩の
顕著なるに驚く。昨年は
宿屋もなく、道路も悪く、旅行に
不便であったところが、今年は大いに改良され、車も通ずれば旅館もできるという
風で、台湾の旅といえば、難儀とのみ思うが、実は年々その観を改めつつある。
俗諺にもある、
「
可愛い子には旅をさせよ」
というは、旅は
辛い、
難儀である、
可愛い子にはこの
辛苦を
甞めさせ、
鍛錬させよとの意味である。英語の旅行 travel という字は、もと travail すなわち
辛苦という字より起こったとかねて耳にし、東西人の旅に対する観念の一致せることを面白く思うが、
今日は旅行ほど愉快なものはなくなり、児童は見学に
出かけ、老人は
保養に行き、壮者は新婚旅行する。
台湾の旅行も愉快であるが、その
趣は他の旅行とちがっている。従来、台湾に一種の興味を有し、年々
渡台するものは、行く
度ごとにその進歩が
著しいから、旅行に肉体的安楽はなくとも、精神的にその進歩の速度を見て愉快とする。しかし
強いて何か不愉快はなきやと
尋ねらるれば、やはり
往昔、東海道を旅行した人が、
雲助のために
迷惑を受けた――程度は違うにしても――と同じように、
轎夫が分からぬことをいって
賃銭を
強請ったり、この
旦那は重いとか、
荷が多いとか、
轎の中で動いて困るとか、雨が降るとか、橋がないから
御免とか、その時々に応じて種々の苦情を持ち出すことである。言語が通ぜぬから、
手真似や顔色やにて不快の念を表すが多い。これが一番
不愉快に
感ずることである。
中国式の
轎は
不潔ではあるが、読書することもできれば、眠ることもできて、僕には最も
都合よいが、
轎夫のがやがや
騒ぐために大いに楽しみの程度を
低められる。ことに天気が不良の場合に、
轎夫が絶対に働かないで、途中に
轎を置き去りすることがある。これは独り台湾においてのみならず、朝鮮にもあると聞くが、その不快と
心細さといったらない。
しかるに数年前、僕は台湾旅行の
際同じ場合に
逢って、行くにも帰るにも動きのつかなかったことがある。警官に依頼し
轎夫の
雇入を命令的に
誘導的に
周旋してもらったが、しばしは一人の応ずるものもなく、
雨曝しになって進退
谷まった。この時、村の青年が三、四人、みずから進み出て、
「私どもが
担ぎましょう。もっとも
轎夫としては
御免ですが、
壮丁としてなら参りましょう」
といった。というは、
轎夫として
担げば、相当の
賃銭を受ける一つの商売である。しかし壮丁として行くのは公利公益のために力を尽すのである。職業として
轎を
担うのでなく、また
賃銭を要求するためでもない。したがって仮りに賃銭を払われてもこれを受くるをいさぎよしとせぬ。ただ官職を
帯びて巡廻するものが、
轎夫なきために一歩も進めなくては公務のために
憂うべきことである。ゆえに公務のために自分らの労力を提供したのである。
かかることはどこでも
稀なることである。台湾においてもまた
稀であるから、ことに強く僕の感激を
惹起こさしめた。
ローエルの有名なる詩中に、
「この世の中で受けるもの、得るものはことごとくそれ相応の値段を払わざるを得ない。
生まるるときは
産婆に手数料を払い、死すときは
葬儀屋に
桶代を払い、死後
遺産を
譲れば
租税を払う、何ものか払わで
済まさるべきものかある。ただ自然の美のみは
価なしに得らるる
恩恵である。三
春の
長閑なる、咲く花に
囀る鳥は人工のとても及ばぬものばかりで、
富者も
貧者も共に
享けて共に喜ぶ権利は
異らない」
と説き、さらにまた、
「この世の
悪魔の店にあるものは何ものもみな相応の
価があって
売買されるが、価なしに得らるるものは独り
神のみ」
と
叫んでいる。実にその通りである。しかし
情ないことには、我々はこの世に生まれてから、人と人との関係において金銭は何らかの
報いを払うにあらざれば手にし得られぬものと、
脳髄に深く
染み
込んでいる。ゆえに高く金さえ出せば出すほど良いものが得られ、金を出さずして得るものは安いもの悪いもの、つまらぬものという観念を
懐くようになった。ちょうど我々
骨董品に何らの心得なき者が、物品そのものの
貴賤の程度はさらに分別つかぬが、
道具屋に
欺かされて高価を出せば良品が手に入ると思うのと少しも変わらぬ。僕が前年フランスに
滞留して、教師を
雇いフランス語を練習していたころ、農政に関するスペインの書を入手し、これを読もうとしたが、僕はスペイン語に不案内であったから、
件の教師に、
「
貴方はスペイン語が読めるか」
と
質したとき、
「うんスペイン語? 僕はスペイン語を
稽古するに何百フランを
費した」
と答えた。どのくらいの書籍が読めるとか、何年研究したとかをいわないで、すぐに金額の多少をもって答えた。その後、イタリア語に関して聞いたときにも、同じ意味の返事を受けたことがある。これは一
場の笑話であるが、
活世界においては、あからさまにいわなくとも、胸中ではこういう
算盤を
採るものがたくさんある。折々老人などが
悴の教育のために何千円
費したというを聞くことがある。かく何事も金で計算する。人の働きはいうまでもなく、人格さえも金額で計るようになりはせぬかと思われる。
人を批評するに、彼の月給はいくらであると言い、聞く人に月給の中にその人の
手腕人格を含むような印象を与うる。この事は
何人にもあることであるが、だれもまた
快く思わぬであろう。快く思わぬながらも、これが人を計るに最も簡便なる方法と思われている。
金銭を
標準として人を計るの不当なることは、むろんいうまでもない。ゆえにこの標準にて人を計るべきではないが、
世人はややもすれば教育に従事するものを計るにもこの標準をもってする。もっともかくいったからとて、僕は教育界以外にはこの標準を応用して
差支えないというのでない。他にも応用されるが、ことに教育に従事する人には格別気の毒なりと思う。我が国の小学教師の
俸給は非常に
低廉で、平均十五円
内外である。
お
互いの
子弟を依頼するは、ただ文字や数学を教えらるるが目的でない。いわば
霊魂の教育をお頼みするのである。かかる重大事を十五円の月給取りに頼むことはあまり心もとない。つい
乳母や子守を頼むような気になる。しからば教師たるものは何を標準として自己を
律するか。自分は実に
薄給でありながらよく働く、
俥夫さえも月に三十円、四十円の収入があるのに、自分の給料はその半額にだも足らぬ。低いものである。したがって自分は子守か
乳母の真似をしていればよいと思うか、あるいは自分の
預れるものは日本国を
負うて立つ
後日の国民である。中には貴族の子もあり
富豪の愛嬢もあり、また学者の
後裔もある。これらの人々を教育し、将来の日本の思想を一新するは自分の考えにあるぞという点に着眼し、俸給の多少、月給の高低などは一向
顧みないでやるべきか。
僕は従来地方に行き、よく教師の悪口を
忌憚なく
吐いた。また教師の中には悪口に
値するものも
数多ある。しかしだんだん彼らと
交あってみると、実に
村夫子の中に高い人格を
備えた人が、
到る所にいるのを見て、
心窃に喜んでいる。おそらく教師を一つの職業とみなして、他の職業に比較したら、彼らほど俸給低き、彼らほど思想の高きものはなかろう。僕が彼らをかく賞賛するのは、彼らが
報酬以上の
務めをなすからである。
元来いかなる
職業にありても、これに当たる人に三段の区別がある。
報酬だけの仕事をせぬすなわち
曠職の人。次は報酬に
値するだけの
務めする人、いくら
気づいたことがあっても、それ以上のことを為さず、また気づかずに
馬車馬的に自分の命ぜられたこと以上には出来ぬ人。第三は報酬以上のことを為す人である。しかるに世の中を渡るには、報酬以上の仕事を為す心がけがなければ、報酬だけの仕事は出来ぬと思う。すなわち金を払っても出来ないくらいの仕事を
為すものにあらざれば、払った
金も多過ぎるように思う。
たとえばここにある会社の社長が、新たに五十円の給料で一人の
書記を
雇ったとする。この書記の給料は五十円が相当とは
何人が
定めるか、いかなる標準によりて決せられるか、いかにしてこの人の職務が五十円と
定められるかと
尋ねれば、その標準ははなはだ
漠として当てにならぬ。なんとなれば同級生が
若干で
某所に務めているから
若干というのが普通の標準であって、個人々々の特長の有無のごとき問題は計算に
入れぬ。経済学者に言わすれば、これ
需要供給の然らしむるところと、
大雑把に一言で解決するであろうが、これを個人々々の場合に当て
嵌めると、人の問題は死んだ
物件の需要供給とは大いに
異う。
苟くも人格を有するものには、経済学の
教える
労銀論は決して
当を得たとはいわれぬことが多い。ことに使われる人は、その不当なることを適切に感ずるから、世の中の不満は多くこの点より起こる。
「僕は彼と同じく見られて
困る」
とか、
「彼らの仲間と
同等視されては
迷惑である」
とかいうことはしばしば聞くところである。
また自分の長所はいっそうこれを過大に
吹聴したがるものがある。自分の学力は
某と同じであるが、自分の字は子供のときより
妙に
褒められたといって
筆蹟を誇り、あるいは自分の
交際術においては、彼らに比べられては困る、
硬骨なる点においては彼らに負けぬ、従順なる点においては決して彼らに
劣らぬと、各自がその特長とするところをいっそう多く
吹聴し、したがって高値に他に売らんとする考えがある。
『
詩経』に、
「
我に投ずるに
木瓜を
以てせば、
之に
報ゆるに
瓊を
以てせん」と。
瓊も
も、
玉の名である。人が我に
贈るに、つまらぬ物をもってするなら、我は彼に与うるに貴重なる
品をもってすべしとの意で、かえって出来
難きことながら、この句は世を渡るに常に
心得べきことである。
折々新聞に伝えられる
某学者は何千円の
俸給を取るが、毎日
教場に
臨み授業するとき、たまたま生徒が何か質問をすると、それはむずかしい、
字引を引いてもちょっと分かるまい、
俺が
解いてやってもよいが、しかしそれは
俺の月給では
勿体ない問題である。
俺以上の月給取りでも、きっと分からぬだろう。
俺の月給が三千円となれば答えるという。
これは一
場の
戯談に過ぎぬが、ともかくそういう考えが
何人にもある。もちろん今述べたごとく、
露骨なる形式に現れなくとも、
如何ほど地位ある人にも起こり得る思想である。しかし何事を
為すにも
報酬だけの仕事をする考えでは、つまり仕事する人の全部が仕事に入っていないで、ただその人の一部、しかも
劣等なる一部なる
欲が入っているのだから、出来上ったときには何らかの欠点が感ぜられる。よく世間でいうことに、「
欲と
二人で
ぐ」というが、報酬のみを得る考えのものは、
二人ぐのでなく、いわば
欲のみ
いで自分は何もせぬようなものである。
極く冷淡に事務に従事する人でも、親切に
愛嬌または好意を持つと持たぬので
自らその務めの
捗りも違う。まして近ごろ多くの人が従事する仕事には心尽しの
温味があって、始めて
完美するものである。してこの好意だの温味だのという部分は、いわば人間の
霊魂の一部であって、金銭で
酬いるわけに行かぬ。すなわち僕のいう報酬を受けない務めがあって、始めて自分の得つつある報酬に
値するものと思う。
とかく
献身とか
犠牲とかいうと、いかにも
高尚に聞こえ、とても我々
凡人の及ぶところでないように思われるが、この高尚なる心も我が物となすことができると思う。してその実行はここに述べた俸給以上の働きをするにある。五十円取る人が七十円の仕事を
遂ぐれば、二十円は俸給以上の働きである。これを
換言して説明すれば、七十円の働きある人が二十円だけ
犠牲にし、すなわち二十円ほど献身的に尽したのである。
ただ、「
己れを
捨つるには、その
疑いを処するなかれ。その疑いを処すればすなわち
捨を
用うるの
志多く
愧ず。人に
施すにはその
報を
責むるなかれ。その
報を責むれば、施すところの心を
併せて、ともに
非なり」。
人と人との
交際に趣味のあるのとないのとは、金銭や
物件で
差引勘定の出来ないところにある。いわゆる商売以外のところにある。しばしばいうことだが、世の中は
法治国である、法律で治まるというものもあるが、世の中は法律だけで治まるものでない。法律以外の関係があればこそ、人間らしい生活が出来る。
英国の一
紳士にしてながく日本に滞在し、日本の婦人を妻とせる人がすこぶる日本
贔屓で、種々の
著述もして日本を世界に
紹介した。さて数年前、有力なる
某外人が外国の有力な新聞に一書を寄せて、外国人と日本人との雑婚を
論難し、中にもっぱら夫婦間の法律上の不備ある点を述べて、財産の
監理権あるいは
遺産に関する条文を説いたに対して、この紳士が答えて長文を寄せた。
その最後の句において今まで述べたことは某に対する法律論に過ぎぬが、「他の人はいざ
知らず、
余が日本の婦人を妻とする理由は男女同権論とか財産権が
如何とか、こういう
水臭い関係より
偕老の
契りを結べるにあらず、夫婦間の関係は法律以外に属するものが多い。法律関係をまっとうするために
同棲するものは真の夫婦にあらず」と。
この言を
味わうと夫婦間の親密とか
貞操なるものは、自分ら以外の者のほとんど知るべからざるものである。その間の務めは
報酬なしに、あるいは法律観念なしに行われる、すなわち
温かき愛情より
溢れ出たもので、
朝夕この間の関係をまっとうせんがために、こうすれば法に
触れる、ああすれば「民法」何条に
差支えないかといっていれば、一家存在の
基礎がどうなるであろう。またよしかくのごとく冷淡に法律的
制裁のみによりて動くほどに
堕落しなくとも、夫婦間に
報酬的思想をもって
交あったとしたら、その間にいかなる社会が出来るであろうか。
僕の知れる
某貴夫人はすこぶる高潔なる家庭に人となり、
貞淑をもって
称せられているが、あるとき僕に、
「世間の人は
芸妓をたいそう
卑しみ、悪く言いますが、私は
芸妓よりも
卑しいものが、今の貴夫人に多くあるかと思います。
芸妓はお
世辞を
売品とし、
彼方此方に振りまき、
柔しいことをいうて、その
報酬にポチを
貰おうとするが、彼らは
明さまにこれをその職業に表していることゆえ、さらに驚くに足りません。
欺される人は、
招牌見ないで店に飛び
込むようなもので、商品が違っていたら、それは自分が悪かったのであります。貴夫人などは
貞操を
招牌にかけ、むろんポチだの報酬だのを
夫より受くべきはずはないが、しかし随分それを
強請ろうと思い、衣服を買って
貰いたいがために、心にもないことを
夫に述べて目的を
遂げる人があります。この点にいたっては芸妓よりも多く人を
欺くもので、
神仏の目より見たら、恐らくは芸妓よりはるかに
劣ったものと思われましょう」
といわれたが、なになにの
報酬を得るがために、事を
為すくらい
卑しいことはない。貴夫人と言い、学校の教師と言い、はたまた会社員でも
官吏でも、月給を得んがために、礼を
貰わんがために、ボーナスに
与からんがために、その他なんらかのためにする手段として職務に従事することは、絶対的に悪いとまで行かずとも、決してこれで足るものとは思われぬ。世の中は
聖人君子の集会でない、
否、十人中九人までは
小人である。与うるに
利をもってするは道徳上非難すべきも、実際世の中を渡るには止むを得ざることとして、
互いにその
積りで無言の約束を結んだも同然であれば、あながちそれだけを非難すべきでないが、しかしある職務にあるものは、それ以上の事をなす心得を常に持ちたい。
各自の職務には
分限があって、その
範囲を
脱するをゆるさぬ、すなわち厳格なる境界を越えてはならぬ。ことに軍事または外交に従事する人々は、たとえ大いにその
手腕を
揮わんとしても
職権以外に出られぬ。ゆえに僕は職務以外のことに手を出せ口を出せというにあらぬ。
職務の分量に
止まらずして職務の
品性をよくせよというのである。十
貫目の
荷物を
荷うものに、務めて荷物十一貫目を荷えというのでない。もっとも
荷っても身体に
差支えなく、またために全体に
悪影響の及ぶ
憂いがなければ、それも
差支えあるまいけれども、なんらかの
事由のために各自の
重荷は十貫目を
超えてはならぬ規定のある場合には、十一貫目以上を
荷えとは
勧めぬ。しかし十貫目を荷うに
苦い顔せず、喜んで
荷いたい。
荷うさまを
綺麗にし、あるいは荷うものの品質をよくし、ただ十貫目
担げといえば、なるべく
品よいものを
担げというのである。
かく
比喩をもってしては、あるいは意味が
解らぬか知らぬが、
譬を
変えていえば一日に六時間学生に教授するといえば、授業時間には
苦い顔せず、また
叱ったり
不愉快な
風に教えないで、愉快にこれを教えたいのである。また同じ六時間中にも、つまらぬことを教えないで、真に生徒に有益なることを教えたいのである。
出勤簿には、善いことを教うるも、つまらぬことを説いても同じ六時間、
苦い顔して教えても
嬉しい顔して教えても六時間、職務上には変わりはなきも、僕の職務以外の務めというはここにあるのである。
この事は決して教員に限ることでない。役所や会社においても
執務時間に、
机の前に
腰かけるだけは誰も同様であるが、実際仕事を
捌くについても、ぶつぶつ
囁きながらすると、快活にやるとは仕事の分量において
異いはなくとも、その
品質と、
同僚に及ぼす感情には
雲泥の差を起こす。仕事もこうやるようになれば真に君子的になる。
「
施して必ず
報ある者は、天地の
定理なり。
仁人之を述べて
以て
人に
勧む。
施して
報を
望まざる者は、
聖賢の
盛心なり。
君子之を
存して以て
世を
済う」。
建物を建築するに、
出来方は同じように出来ても、作っている間に、ある所では技師
職工にいたるまで面白く
快く仕事すると、他の一方には
軋轢を
生じ
同僚を
擲れとか、
某がこんなことをいったとか、酒を飲ませなければ不平を起こして仕事ができぬとかいって
従事するのとでは、出来上りにおいて大いにちがう。「
細工は
流々、
仕上を
御覧」というが、
物件ならば、できた仕事で用にたつが、人間はそうはいかぬ。
細工する間の心持ちが
大切である。
左甚五郎は恐らく仕上ばかりに苦心したのでなく、
細工しているあいだも精神を
籠めたればこそ、その
霊魂が
彫刻物にも移ったのであろう。
人世のことは
何事にかかわらず微妙なる精神的
作用があって、始めて自分の目的が達せられる。かかる事にはかくのごとき方法でやれば足れると
見絞り、単に物質的方法のみによって目的が
遂げられるというのでは足らぬ。個々の仕事なら、それでよいかも知らぬが、人世の目的という大きな考えは、決して
意識なく機械的に動くばかりでは、その目的を達し得ぬ。
価値なき仕事に目をつけねばならぬ。英語に
value という字がある。近ごろの経済学者はこれを
価値と訳し、これに
less を
加うれば
価なきもの、二
束三
文の
価もない、つまらぬものという意になる。しかるに物の
価は
price と称し、学者の価格と訳するものである。これは
less を
加えれば前例によれば
価なきもの、つまらぬもののように聞こゆるが、その
実意味は正反対でとても
金銭に換算の出来ぬもの、あまり
貴くして金銭に見積もれぬものとの意である。
最初に掲げたローエルの
神のみ
価なしに得られるというは、
神は金銭で買うことが出来ぬというのである。前にいった
轎夫の
賃銭は金銭で計算されるが、
壮丁の僕に対する好意は金銭をもって
換算できぬものである。しかしてこれが一番
貴重なる務めである。こういう
価なしに務めるものがあればこそ、旅行中にも
雨曝しの
難を
免れる。こういう心がけのものが多ければ多きほど、人生なる
旅路は真の
快楽幸福を増すものである。
[#改ページ]
大正元年の夏のころ、僕は米国に
滞留していたが、そのころ日本の新聞通信にも
顕れたことで、シカゴ市における
共和党の大会は近年にない大騒ぎで、独り米国の一大
出来事たるのみならず、世界の
視聴もことごとくシカゴ市に集中した。僕はシカゴまでは行かなかったが、直接または間接に関係ある人の
話を聞いたり、新聞の報道を読んだりして、いかに
人心が
荒やいでほとんど
狂するごときさまなるかを見て、これが日本であったならば
抜刀騒ぎになるであろう。
米国においてもせめて、
拳骨ぐらいの
喧嘩があるであろうと、大会の閉会になるまで、好奇心をもって種々の新聞に眼をくばっておった。さなきだに
犯罪や自殺多き夏の季節に、一万四千の
腕白者が大都会の一堂に会合したことであり、群集心理の
特徴として
逆上しやすき時、出席者のうちの大多数は、
自称政治家、
自ら天下に我
一人の気前の連中だからなおさらの事、
一芝居の起こることを期待しておった。しかるになんぞ
図らん、開会の始めにあたり上院にその人ありと聞こえたルート氏が
座長に
選ばれた。この人の
手腕でも出席者の
昂奮を
撫め得ないであろう。なにしろ会場における
不満連の総大将
兼黒幕としてはルーズヴェルト氏
自ら
采配を取っているという
始末であるから、我々の考えでは
珍事なしには終らぬと
気遣ったのも、今思えば
杞憂に過ぎなかった。
開会中ルート氏が
座長となって
人波を
撫めた手腕は
凄まじいもので、当時の記事を読んで僕がつくづく
感服したのは、かねがね聞いているアングロサクソン人種の
秩序的なる一点である。同氏の冷静にして、
雷のごとく
騒ぎ
立つ数千の反対者を
眼前に
列べて、平然と
構えて、いかに
罵詈讒謗を
浴せても、どこの
空を風が吹く
底の顔付きで落着き払って議事を進行せしめたその態度と、彼に正反対の
論者が発言権を求めたとき、場内において発言を
妨害せんとした
彼の同志に向かって、
「我が党の歴史を
顧みるに、反対者の発言を
圧服して勝利を
獲たる
例しなし」
との一言を
放ち、
却って反対者の
喝采を
獲たところなどは、その公平無私かつ
度量の寛大なるところは、ほとんどドラマチックであった。しかしルート氏には一度しか面会したことはないけれども、一
目して
判ることはその性格においてドラマチックの
節のなきことで、この点が同じ米国人でありながら、ルーズヴェルトとは大いに性格を
異にしている。氏の演説であれ、氏の会話であれ、役人が平素
執務の際にとる態度で、いわゆるビジネス・ライクである。これがフランス
人の会合であったならば、
雄弁能弁ジェスチュアその他ドラマチックの
動作がさだめしみごとなものであったろうと想像さる。
同じころボストン市に
逗留中、日曜日の夕方、かの有名なる歴史的の公園地「コンモンス」にぶらぶら散歩したところが、
道傍に二、三十人の労働者あるいは店の
手代番頭めかしい者が一群をなしていた。わが輩好奇心に
駆られて近づいて見た。
喧嘩であろうか
怪我人でもあろうか、
手品師であるか物売りであるか、近づいて見ると年齢五十ぐらいの男が中心となって、地球は円形じゃない平面であるという新説を
吐いていた。しかも演説
口調をもってあるいは高々に説明するにあらずして、平生の個人と個人との会話のごとき調子で、
「ネー、そうだろう、今まで僕の言ったことは君らも学理的だと認めるじゃろう
云々」
と言いかけると、
傍聴者の一人で職工と思わしい若い男が、
「そりゃ君の説は
勘定が少し違うぜ、地球の
曲線の
度は一マイルについて
幾らいくらだぜ。君の先の例に取った
何マイル以上にある船の
帆柱は
云々」
と、僕は最後まで聞き取れなかったが、数字をもってこれを
駁撃すると、先の男が
手帖を出して何か計算する。その間にまた一方から、
「君の説はちょっと面白いが、学理より実験に
戻るじゃないか」
とやり
込める
奴があった。僕はしばらく立って見ていたが、もの静かに思想を交換するさまは、
昔ソクラテスがアテネの市場で道を
説いたときは、かくもあったろうかと
想像が浮かんだ。このときも我が
同胞であったならば、すぐに
野次馬が乗り込んで来て、
「
貴様の説はコロンブス以前の
陳腐論だい。ヤイ
黙れ!」
とか、
「小学校の二年級をやりなおせ」
とか、
「ジジイ、おいぼれやがったナ」
くらいの
罵詈は必ず聞こえるであろうと、つくづく物思いに沈みながら、この群集を去って旅館に帰ろうとすると、同じ公園のむこう
側に二、三百人もあろうかと思わるる群集がかたまっておったから、かたわらの青年に、むこうの群集は何をしているかとたずねると、
「あれですか、あれは社会党の人たちです。今日は日曜日なもんですから、大勢集まっているんです」
とはなはだ
尋常茶飯事のごとき
口調で答えた。これが日本ならいろいろな
嫌疑も受けるであろうが、自由の天地は違うと思いながら、僕はそのほうに足を運んだ。すると二、三百人の連中は一かたまりになっていないで、二十人ないし五十人ぐらいずつ別々に
群っている。いずれも先の地理学新説の
鼓吹者と同じように、談話的に
互いの説を交換し合っている。
いずれの群集を見ても少しも
激しているものはない。
大言する者もなく、
哂り
嗤う者もない。すこぶる
真面目でさながら親の大病の診断を医者から聞いているような顔つきであった。僕も三、四十分のあいだ甲群から乙群、丙群から
丁群と
彷徨して、その
様子を
窺ったが、かたわらに
巡査がいるでなし、しかもボストンのコンモンスといえば、市街の中央にしてかつマサチューセッツ州の州庁の鼻の先である。この時も先に述べたる共和党の大会と同じく、
容易に
逆上せぬこの国民にして初めて言論の自由も思想の自由も
享有すべきものと思った。
もちろんただ上記の二つの例をもって、米国には社会党の
騒ぎもなく、政治上の
腐敗もなく、自治の精神が完全
無欠に発達しているというは僕の意ではない。実際かの大会においても、
拳骨の
撲り合いが会場の
戸口で二、三度あったというし、またボストンの公園地における会合も、僕の去ったのちで巡査が来て解散したかも知れない。あるいは議論が次第に高じて来て、
罵詈讒謗に終ったかも知れない。あらゆる
犯罪の多い米国のことであるから、数百の人の集まったときには随分
不体裁はあり得ることである。して不体裁なことのみをならべ立てようと思えば、それもはなはだ容易なわざだと思う。しかるにたびたび言うとおり僕は
他山の
瓦礫を
捕え来たって、自国の
璞玉に比してみずから
快とするの
愚なることを信ずるから、常に他山の石を
藉りて自分の玉を
磨くの用に供したいと思う。
そこで今まで述べたシカゴの大会とボストンの公園の集会を見て、我が
同胞とともに
顧みたいことは、一時の
激昂に
駆られて事をなすを慎むべき一点である。なに事をなすにも感情を
交えることは危険である。むろん感情と一口に言っても
高尚な感情もあるが、言うまでもなく今述べる感情は一時の
客気である。とかくこの客気
血気があれば考えに
誤りを生じやすい。
一口に熱心などと称するからよく聞こえるが、思慮のない熱心ほど
己れを害し人を害するものはない。ややもすると世の中ではほとんど目的もなく騒ぎ散らすをもって、熱心があるとか、
気象がさかんだとか、あるいは
勇敢だとか、
痛快だなどと称する。しかし熱心勇敢の気象などというものは、いわば馬みたいなもので、
御する人があればこそその方向に進んで行くが、
御する者なければその向く処を知らない、狂人と同然である。発狂人の多くは勇気あり熱心あり気象の
旺であるのであるが、惜しいかな心を守り、気を
抑える力がないのである。古人の
曰く、
「この心を
敬守すれば
則ち心
定まる、その気を
斂抑すれば則ち
気平かなり」と。
先を見ずにその場にて一時の
快を
貪る極めて短慮な者には、内容のさらにない雄弁を
揮ってみたり、あるいは
大声一
喝、相手の人には痛くもない
讒謗や冷評を
浴せかけて、ドラマチックに
喝采を受けて
嬉しがるは我が国民性の一弱点である。言葉をかえて言うと、物にノボセ上がる、逆上する性質がはなはだ我が同胞の間には広がっていると思う。ゆえに何か大きな
響のよい言葉を用いれば、
己れを忘れて飛び上がる連中がはなはだ少なくない。たとえば
仁義のために死するとか、国家の責任を
双肩に
担って立つとか、
邦家のためには一身を
顧みず、
知遇のためには
命を
堕すとか、その他数多くの catchword のためにその用語の内容や真の意味を一時忘れる者がはなはだ多いのみならず、一身の上についても、実に
詰まらぬことに逆上する傾向が多いことを
目撃もし、また恥ずかしながら自分が経験したことがたくさんある。
たとえば永く浪人しておった人が、仕官の
途につき久しぶりに
金を手にすると、
金満家になったような気がして、一月分の月給で友人を招いて一晩に飲んでしまう。来月分も来々月分も飲んでしまって、招待したお客の
追従言葉を聞いてますます得意になって、しばらくたつうちにかえって一身およびその位置に対して
不名誉を来たしてしまうことは、わが輩知人のうちにも折々見た。あるいは会社員であると社長さんから大いに信頼のお言葉を
頂戴するか、役人であれば上官から重大な秘密を
洩らされでもすると、
俺より信用
厚き者はないような気がして、すぐにその態度が変わり
昨日まで
同僚交際であった者を急に見下したり、にわかに
傲慢尊大になる場合も僕はしばしば見た。あるいは学問をしている者でも、はじめのうちは
謙遜に、あれも知らぬ、これも知らぬと思いつつ、研究
三昧に
暇ない時は最も尊敬すべきときであるが、あの
学位を得たとか、その学位を
授けられたとかいうと、自分がいかにも偉い者にでもなったように、人の前でも何もかにも物知り顔をしておるさまは、
傍観しても見苦しいものであるし、かつ近づく者にも、学問とはこんな
厭な
臭気のするものかと思わしむる場合もしばしばある。
あるいは道徳を語る人でも同じことである。あの人は
品行方正の人だとか、まことに正しい
曲った事のない人だとか言われると、すぐさま君子
顔になって、他人を見るに
小人をもってして、世ことごとく
濁れり我独り
澄めり
底の考えに逆上する。かく言う僕も他人より賛辞を受けたことはないが、上に挙げた例の一部にあたっているかも知れないと思えば、この辺が筆を
止めるところであろうか。僕にしてかくのごとき弱点はさらにないという自信がさらに
鞏ければ、もっと大胆に論じたいが、自分で
顧みて折々は
逆上そうになったこともあった。終りに述べる僕の実験談は普通に言う
逆上るのとは違うけれども、その性質においては同じであるし、かつ僕に取っては逆上の
訓戒としてしばしば記憶にのぼる経験であるから、
恥を
晒してここに述べよう。
僕が十一、二歳のころ東京に遊学していた際に、郷里から兄が上京して来た。その節の
土産として
大枚金一円
貰ったことがある。そのころ僕の
小遣銭は一週間に二十銭と
定まっていたからして、一円
紙幣を手にしたことはおそらくそのとき初めてであったろう。そこで僕の頭に第一に浮かんだ問題は、この
大金を
入るべき相当な
財布を得ることであった。ただちに
袋物屋に走って種々の財布や紙入れを見た。中にすこぶる気に入ったのが一つあったから、それを取ることに定めて、
値段を
糺すと一円ということであった。すなわち
懐中に持参の一円紙幣を払って
空の紙入れを家に持って帰ったことがある。
笑うにも及ばぬほどの
愚なる一場の話に過ぎぬが、その後四十余年のちの今日に至るまで、この経験が僕に教えた教訓ははなはだ少なくない。一身を
顧てもあるいは他人を見ても、月給が入った、金を
儲けたからとて、
無駄の
浪費をしている人を見ると、
彼奴め一円取って一円の
財布を買っているわいと思う。大いに
勢力のある位置を
獲たと喜んで、その勢力を振りまわす人を見ると、
彼奴一円の勢力を得て一円だけ
威張って、あとは
空になっているわいと思う。学問なりその他の
名誉を得て
傲る者を見ると、
彼奴も
近ごろ一円
貰ったばっかりだな、ああいう
風にやっては明日の日の登る前に
形無しになるであろうと思う。とかく金に限らず、位置でも名誉でも
己れに
帰するときは、油断をすれば
逆上してこれを利用するを忘れてただ
濫用に
陥りやすい。逆上は独りおおぜいの群集の内にあってのみ
慎むべき点でなく、ただ一人おっても、ただ一身を守るにも、なお
慎むべきものであると、かれこれの事について大いに感じたから
件の如し。
[#改ページ]
アメリカの
習慣で
羨ましく思うものは、かの大学
卒業式を
熾にすることである。いったい米国の諸大学は通常卒業式は一年一回で(シカゴ大学のごとく四回ある処もあるけれども)、して
大概七月の初旬に行われる。卒業式の順序は、あるいは音楽とか卒業生
総代の
答辞とか、あるいは卒業生の
演説とかいろいろあるが、大学卒業式にして独り当時学校のみならず国民全般にとって重要と思うことは式場における名士の演説である。その演説は翌日新聞に
掲載され、
某が如何なる問題について如何なる説を
吐いたかが全国に行き渡る。ゆえにいずれの大学においても著名の学者あるいは実務家を一名ないし二名招待して式のうちの最も重きものとする。これらの人の選ぶ問題は必ずしも教育に関係しない。政治、外交、経済にわたることもあれば、軍事にわたることもある。歴史を説く者もあれば、未来を
卜する者もある。
自国の名誉を
誇る者あれば、自国の短所を
剔く者あり、実に勝手な説を
吐いて独り学校卒業生のみならず全体の公衆に訴える。
またこの式場に
臨む人は日本の学校のようにただに卒業生に限らず、また親戚に限らず、あるいは十年二十年、中には五十年以前に卒業したなどという人々も昔を
偲ぶために出席し、地方の
紳士淑女はいうまでもなく、遠方からもわざわざ
集い来たる数ははなはだ少なくない。僕は先年の初夏、
親しく久しぶりで二、三の卒業式に
臨み、かつ他の大学の卒業式の記事を新聞によって知ったが、大学の卒業式の折りは実に米国民の思想の最高点に達した時と言って
過言であるまいと思う。いかにその演説が教育に関係するを要しないとても、青年が
主賓になっている以上は、
招かれる弁士はただ
能弁だとか
悧口だとかいうだけの資格では足りない。
自らその人と
為り、その
品性を
斟酌して招待するからして、演説に
自ら重みがついて、時勢遅れの学説もあったり、あるいはあまりに理想に
奔って実行出来ぬ空論を述べる者もあろうが、とにかく一年中米国の思想界が最も上品な形に
顕れるのはこの時であろう。
例によって
口上が思いのほか長引いたが、先年僕の
滞米中諸方の卒業式の演説の中について、最も僕の面白く思ったものは実業的道徳に関するもののはなはだ多い一条である。
誰も言う通り米国は
拝金国で、美術も文学も理想もないように言うが、ある程度まではその通りで、米国人みずからもとかく新開の国だけあって
唯物主義に
陥りはせぬかとみずから
虞れている。ゆえに思想家はしばしばこの点について国民に
警戒を与える。してその警戒の与え方が大いに我が意を得た。
如何となればとかく何事にしても
弊害あれば弊害そのもののみを攻撃しないで、それに
随伴する事なれば何事によらず
攻撃しやすいものである。「
坊主が
憎けりゃ
袈裟まで
憎い」というのは、また同時に
袈裟を憎む者は
坊主自身を憎むという
弊に
陥りやすい。
君子はその
罪を
憎んでその人を憎まずとあるが、かくのごときは
君子にして初めてなし得ることで、我々
凡夫小人は、罪ならばまだしものこと、いささかの誤りがあっても、誤った人そのものはまだしも
彼の
親戚友人
家屋生国までも憎みやすいものである。折々は学者のうちに高慢
ちきな者があると、学者そのものを
嫌い、進んでは学問そのものをすら
罪する傾向がある。
ことに宗教に関して、この傾向がはなはだしく
顕れる。ゆえに実業を重んずる、
否重んずるどころではない、実業によって成立する米国においては、むろん金銭を
尊び金力を尊重する結果として、不正なる方法によって
富を
為す者も
許多ある。少しく心ある者にして今日社会の状態を見る者は、実業を
一纏めに纏めて攻撃の
的となし、反動的に太古の仙人生活を主張したり、あるいは
私産を
破壊して共同主義を唱えたりしやすくなり、またかくのごとくする者は、いかにも精神的なる人物、
高潔なる
紳士のごとくある社会の一部には持てはやされがちのものである。しかるに常識的に考えるときは、そんな根本的の思想は到底行わるべくもない。また不正なる方法によって
富を
為す者ありとしても、不正と富とは必ずしも
連帯するものではない。不正なる
行為は富の外にも行われる。不正なる行為をもって名誉を得る者もある。その代りには
律義一
色で金を
拵える者もある。
ゆえに
富貴必ずしも不正ならず、子夏が「
富貴天に在り」と言ったのは、意味の取りようによって富貴必ずしも
悪と言えず、むしろ
天の
賜物という意に取れる。
袈裟と
坊主が必ずしも伴うものじゃない。いわゆる
僧にあらざる僧も世には
許多ある。またその代りには
袈裟を着た俗人もまた多い。「
貯めるほど
穢ないものは
塵と
金なり」という
諺があるが、これも貯めようによるべし、おそらく
塵芥とても
貯蔵法よろしきを得たなら、清くする
工夫もあろう。
黄白に至りては
精励克己の
報いとして来たるものは決して少なくなかろう。
古人の言にあるごとく、
「
祖宗の
富貴は
詩書の中より来たる、祖宗の家業は勤倹の中より来たる」と。
人の立身や家の
興るを評するにはよほど注意せねば、とかく
羨む心に
曳かされて判断を誤りやすい。
また本題に
還って卒業式における名士の実業に関する演説をみるに、彼らは
富貴の危険を大いに警戒して、巨万の
富を積んで
己れの霊魂を
埋没するなからしめんことを説き、富貴は人生の目的でない、人生の方法なり、補助物なり、人間がその人格を
発揮するために道具に用うべきものであるという点に重きを置き、実業や
金儲けを今日のごとく
物質的の職業とみなさないで、新しき見解を加え新しき精神を吹き込んで実業を精神化すべし、あくまでも人を主として物質を従とすべしと論じた。
実にその通りで、数万の金を
蓄えても人の人たることを忘れぬ以上は、
金は
邪魔にもならぬし、悪用もされぬ。富む者必ず
不仁ではない。また
不仁のみ富むわけでもない。
従来、英米の人は専門的教育を要する職業すなわち統計学者の自由業と称するものと、専門の知識を要せず常識による実際的の営業とを明らかに区別して、一を profession、一を business と
名付けて、もちろん自由業は
高尚なものとなし、これに従事している者には社会も相応の
尊敬を払って、あるいは
官吏あるいは弁護士、教育家、あるいは軍人らのごときは金銭で買うことのできない尊敬を
博していた。
しかるにいわゆる business man 実業家なるものは、その業務の目的は
金にあるゆえに、ことさら
名誉をもって彼らを迎えなかった。これは
強ちいずれの政府の方針政策というわけではなかったけれども、かのモンテスキューも説いた通り、金力と名誉とは両立せしむるを
不可とするという説が一般に行われておったがためであろう。してこれははなはだ至当なる考えで、俗の世界には
素封家はその人物の如何なるを問わず、単に
金があるために一種の勢力を有するものである。しかるにこの上になお国家なり社会なりが名誉を付することになったならば、彼らの勢力の増大は制し
難きものになるであろう。
話は横道にはいるようであるが、折々、我が国においても実業家に
位階を
授けらるるとか、あるいは
叙勲せらるべしという議論がさかんに行われる。詩人シラーのいうごとく人生の目的として花を選ぶ者とその
実を選ぶ者とは別種の者に数えるが至当であろう。花も
採り
実も取る者はついに
幹も根も取り尽し、その結果は社会の進歩も
安寧も
危くするものであろうと思う。
今日いずれの国においても財産の
安固を
保障しない法律はない。法律にそむかぬ以上は如何なる方法によって、如何なる額に
嵩まるとも
富を
蓄積占有することを許すがために、富む者はますます富むの傾向あることは、今ここで述べるを要しない。この富む者はややもすれば
己れの財産の権利あるを知って義務あるを忘れることも疑うべからざる事実であって、どこの法典を見ても財産の権利は明らかに
載っている。かつ偉大なものである。
しかるに財産の義務なるものは、わずかにその
負担する税額ぐらいに
止まって、その額も重い重いと言いながら権利に
較ぶれば、案外に軽いものと思われる。ことに法文の読みようによっては、義務を
忌避する道も
随分ある。ゆえに世に勢力ある人の中には種々なる
口実をもって財産の義務をことごとく
負担しないものがある。現に我々が仮りに所得税の負担額を
較べて見ればただちに
判るであろうが、わずか二、三千円の俸給を受くる学校教師などが、先の何々
大臣、あるいは何々
爵にして市内市外に
許多の
高甍宏閣を
構えている人よりも以上の
租税を払っている例すらある。そんなら、彼ら
大尽は
地租の
目の
下に多額の負担ありやと
尋ぬれば、彼らの
園邸は宅地にあらずして、山林と
登録してあるから、税率もはなはだ少ない。かくのごときは財産の権利を
享有しながら、その義務を負担しないというものである。
富が
跋扈するというと、いつも米国を例にとるが、
焉んぞ知らん日本にもその例に
乏しからぬを。
僕がかくのごとき言を述べたならば、あるいはいたずらに人を責むるように聞こゆるであろうが、わが輩はそれがし
何某なる個人を
攻撃する考えは
毛頭ない。法文の曲解を難ずる意であって、僕は
君子ではないが、人の罪を
憎んで、その人を憎まないように心がける積りである。ゆえに富める者が不正なことをし、あるいは人を苦しめてなお
蓄財することがあるにしても、その人よりも社会の制度が不完全ならびに
輿論がまだ
未熟にして、富者といわんよりは
富貴の義務を自覚しないことを難じたい。
昔の経済社会とは違って近代は一国内における経済
現象さえなかなか
複雑になって来ているに、いわんや国家的経済現象に至ってはなかなか個人の力で
如何ともできぬことがままある。したがって経済行為に対する道徳的態度は昔のように簡単に行くまい。
たとえば昔なら物を造る者とこれを用うる者が直接に
出会って、相談のうえに
物々交換を行った。こういう場合には
値段を定むるに両者間の
承諾の上に成るから、互いの満足のもとに終わる。こんにちでは値段を定むるに造る者と用うる者は顔など会わすことは少ない。両者の間に
仲買いあり
卸売あり
小売あり数人の
媒介を
経て、我々の最も簡単なる
需用も供給せられる。なかでも株式会社のごとき大組織の製造場において産出せらるる物品のごときに至っては、物価を定むる分子はなおさら複雑を極めて来る。
なお進んでトラスト
組織の下に製作せらるる
物品は買い手の相談などは
毫も
省みらるるものではない。この一例をもってみても
諸色が上がるの下がるの、米価が
騰貴したために
貧民が
困しむの、あるいは暴徒が起こるの、あるいは犯罪が増すというごとき道徳的行為も昔の簡単なる組織時代と
同筆法で解決が出来ぬから、我々は新時代の経済界の
現象に対する道徳的態度も新たにすることは
免れないと思う。
世には労働問題とか経済問題とか社会問題などを、とかく道徳と別に考うべきもののごとく思っている人があるけれども、人たる
観念を除いて、これらの問題は解決出来まい。しかして人たる観念の内からは道義観念を
排除することが出来ない。
たとえば近来(第一次大戦以前)英国でしきりにストライキが
流行る。アメリカにおいても近来あらゆる方面にストライキが行われる。しかるにある英国人の話に、英米のストライキの性質において大いに異なるものがある。米国では給料を増すことを主として要求するし、英国においては労働時間を減らすことを主とすると言った。この差の起こる
所以は、アメリカ人はもっと
金を欲しい、
自ら
貯蓄して
後日安楽に暮らそうというのである。イギリス人はこんにちの制度ではほとんど家族の顔を見ることも出来ない。また人間としての
娯楽を求めることも不可能である、金は
要らんがもっと人間らしい生活をしたいというところにあるという。両者とも根底にさかのぼれば労働者も人なりという
観念から来ているために、いわゆる人の道をはなれて労働その他経済の問題の解決は
覚束ない。
しからばとていわゆる社会党(わが輩は
敢ていわゆるという文字を使う)の主張するように、現今の社会を
目茶々々に
破壊しようというごとき簡単な案では、労働問題も社会問題も解決できない。今後は
富貴の義務、労働の権利をば、法律以上に研究
解釈して、前に言ったようにこれらのことを精神化するにあらざれば、現世界の
安寧もまた真の進歩も望むべからざるものと思う。
いろいろ経済的救済法あるいは社会改良法など
区々に行われているが、なお最後の解決よりははるかに
隔っておることは誰しも感ずることである。その根本的理由は経済的
現象を人なる
立脚点から見ないからである。
かく長たらしく書いたことを
回顧すると、僕の平生の
筆法とは
大分調子が
異っておる。国家あるいは社会とかあるいは経済とか労働界とか個人以外のことに力を
籠めたようであるが、かくのごとき大問題に対して個人ははなはだ力なき者で、なんのなすところもないと断念するならば大いなる誤りで、いかなる社会の改良といえども、個人の思想より以外に起こるものではない。国家も社会もイニシアチブがあるものではない。人あって初めて問題も起こり改良も行われるのである。
我々も、よし
富豪者にあらずとも、また一方、労働者にあらずとも、お互い所有する財産あるいは所得がいかに
僅少であっても、その用法については大いに
思慮を要することで、金を
路傍の
土芥のごとくみなすのはいかにも
欲がなく
潔よく聞こえるが、また
丁寧に考えると金は決して
己れの物ではない。社会共有のもので、自分の
懐に入っている間とても、なお一時社会から
預ったようなものである。いわば
依託金のごときものであるからして、これを無意味に
浪費しすなわち
土芥同然に取り扱うことははなはだ
怪しからんこととも言える。あえて言葉
咎めをするの意ではないが、金を
土芥視するのも
宝珠視するのも、要は人として金に対していかなる態度を保つかにあるから、
物件所有者の精神いかんを明らかにして、初めて決すべきものであると思う。すなわち金銭財産を精神化するにあらざれば、社会の
安寧進歩は
覚束ない。
昭憲皇太后の
御歌に、
持つ人の心によりてかはらとも玉ともなるはこがねなりけり
[#改ページ]
かつて米国フィラデルフィアにいたころ、資本額二百万円ばかりの中ぐらいな合資会社の社長をしておる四十五、六歳の男と親しく話をする機会があって、いわゆる
拝金国の米国の実業家にもかくのごとき考えの者があるか、
否一歩進めてこの国の実業家の中に少しく
品のよい者は、こういう考えで世を渡る者かと、つくづく感じたことがある。その談話の要領は
彼の言葉のままに挙げれば、
「二十年以来の知人のことであるから、君もいくらか察しられているだろうが、僕は大学の教育も受けず、幼少の時から会社に入って、今日までで三十ヵ年にもなる。その間、社務にあくせくしているのと、かつ視力の許さぬがために読書もできず、また美術の趣味を
涵養することもなく、すこぶる
乾燥無味な人間になり果てて、朝から晩まで事業々々とばかり心がけて年を送った。その代りには僕が社長になってからわずか五、六年にしかならんけれども、事業の発展についてはいくらか見るべきところもある。今は四ヵ所に工場も起こし、販売係は諸所に出張さしており、
配当もこの国においてはまず相当と思うだけのこともして、有難いことにはこの市内の銀行ならば僕の手紙でいくらでも金を出してくれるだけになっている。
しかし僕は学問や
技芸に不案内であると同様に、金銭についても
正直お話するとはなはだ
無頓着で、毎日
金勘定をしながら金持になってなんになるだろうと常に思わないことはない。子供の時から
慣れた職業であるから
今さら転職するのも好まぬし、よしまた金が
要らぬというてわが輩が
辞したならば、実際のところ社長にあたる人がない。して君の知らるる通り僕には妻もあり子供の二人もあることゆえ、自分は金がつまらないといって、山に引っ込んで妻子の苦労も
顧みぬというほど、僕はいわゆる神聖な人にはなりかねる。また妻子を苦しめて自分のみ
潔よいということがほんとの神聖とも思わない。天が我に子供を与えた以上は、彼らをして僕以上の者にするだけの義務は僕にある。また自分の妻についても、自分が世を去ったあとで
寡婦として暮らすばかりも気の毒であるに、衣食に不足のことがあるようでは、なんとも天に対し妻に対し妻の家族に対して申し訳がないと思えばこそ、金の
貴いこともいくらか知るが、今日のところでは幸い
後顧の
憂いがないだけになったから、なんだこの金はと思う気が常に僕の頭を去らない。
もっとも君の見らるる通り、僕の家には、装飾品もなければ
骨董品もないし、また僕の着る
着物は、家内のも子供のも同然、流行には
添わない。友だちにもたびたび、せめて時計だけは
金のに代えよなどともいわれるけれども、この銀時計は子供のときから持った
慕しい記念物だから、これを離すわけにはゆかぬ、もっとも二、三ヵ月前に自動車を買ったので、やはり流行にかかわると笑った人もあったが、笑う者に説明する必要はないけれども、僕の
真情を
明かしていうと、僕の
息子にだけは時勢に遅れさせたくない。して自動車はもはや
贅沢品ではない。今後ますます発達するものと思えば、将来世に出て働く者はこれしきのことは心得ておらなければならぬし、かつ子供に器械だの物理だのの観念を養成さすには、何か彼が興味をもって当たる物を与えなければ、
書物の学問だけでは実際に
迂くなると思うから、僕が
要るような顔をして実は子供に運転と使用とを
馴らさせるために買った
云々」
と長時間、真情を打ち
開けて話した。
僕はこの男とかねてより親しくしている。彼が教会において年に似合わぬほどの信用を受けておるのも、知人はことごとく彼を尊敬することも、かねて承知であるが、数時間に渡って彼の人生観、なかでも
貨殖に関する態度を初めて聞き知った。僕が彼の話を聞きながら、言葉がただの一度も社会のためとか、ましていわんや国家のためということに、わたらなかったことがあとで気がついた。
普通日本の実業家であれば、五万足らずの会社を設立するにも、その宣言には、
己れの身を
犠牲にして、社会に
貢献するところあらんとするとか、あるいはこれ実に国家の事業なりとの意をほのめかす者がはなはだ多い。その多いのが必ずしも悪いとわが輩は言わぬ。
己れを捨てて社会の利益を
図るの望ましきことはいうまでもない。
事を
為すに
国家観念より
打算するもはなはだ
嘉すべきことである。
その
宣言を非難するわけではないが、その実際は
如何と
尋ねられれば、ややもすると国家社会は言うまでもなく、
己れの友人
親戚にさえも迷惑をかけて自分のみ
得々として金を作ったり、あるいは自分一個の
快楽のみに金を
費している者もすこぶる多きに驚かざるを得ない。ゆえに僕は実業に
志す人に、社会国家を
忘れろとは決して言わないけれども、口に出すことだけは
遠慮するほうがよかろうと
勧めたいくらいに思っている。いかなる事業でもおそらく社会に必要なる事業であれば、宣言もせずしても社会に
貢献するのである。かつまたこの事業に関係する人も直接
犠牲を払うの必要はない。仮りに何か事業を起こすとする。この
事業にして果たして社会に必要あるものならば、それ相応の
需要が
顕れて、この会社も相応に
繁昌し、その結果相応の利益を得る。もし会社にして利益を得ないとすれば、その仕事を社会が要求しない証拠で、要求しないものを押売りしようと思えばこそ、国家事業であるから世間の人に私の
品物を買えと
叫んで押売りするようなことになりはせぬか。
社会の需要よりはるか進歩した事業でも、あるいは社会の指導者または
模範ともなるような事業であっても、
珠盤となればいかに
勘定しても間に合わぬというごときものならば、かくのごときことは
私人のなすよりは直接あるいは間接に国家そのものがなすのが至当であろう。もっともこの問題については経済学者、財政学者の起点より見れば、解決をするに
許多の考慮をせねばならぬことであるから、ここで論ずる
範囲でないけれども、だいたいにおいて個人なりあるいは私設会社がなすべき経済行動は、国家社会のためといわんよりは、その個人その会社の利益のためだと公言しても恥ずることはないし、また実際に当たっているのである。英米独仏いずれの先進国にしても、経済上発展を
遂げたのは個人の利益を主としたからである。
かく言ったからとて僕は
憎むべき意味における個人主義を唱えるものではない。西洋にいわゆる個人主義なるものには必ずしも悪い意味が入っておらぬ。すこぶる
高尚なる意味をふくましむることの出来るのは、ちょうど社会主義なる言葉の内にも必ずしもおそるべく
憎むべき
破壊的なる思想をふくますべきものでなく、
穏な高尚な建設的なる内容を、
含蓄せしむることが出来ると同じである。実業家がその
業につくに、個人の利益を
旨として
差支えないと断言するについても、読者の
曲解なきことを
切に望む。
国民が
各個人的の最良なる利益を
図ったならば、その結果はおそらく社会と国家との利益になることであろう。僕はことさら最良なる利益なる文字に力をいれて言う。
我利々々亡者連が他の者の事業を
妨害したり、競争者を
中傷したり、
人身攻撃をしたり、
捏造説をはいたり、その他
卑劣な方法によりて得る利益は、僕のいう最良の利益とはあい反するものである。
最良の利益とは正々堂々と人の前でいって恥ずかしくないことをいうのである。この
冒頭に話した米人の
己れの一家のよろしきを
図るごときは、人に対して何の
恥ずるところもない。もしこの男にして一家の
驕奢を
図り、その妻には流行の先駆者たらしめ、あるいは子女をして
だらしのない
娯楽に
耽けらしむることをもって、
己れの利益とみなしたならば、これはまさしく恥ずべきことである。しかるに
己れよりは一歩進んだ人に育てあげようという目的ならば、これまさしく国家のため善良なる市民を
捧げるのであるから、国家のためといわないで、確かに国家の利益を
図っておる。かつまた
己れの事業にして
繁昌すれば、営業税も余計に収め、もって国家に対する
負担も喜んで増し、また海外に輸出額がふえればこれまた国産に
貢献することであるからなおまた国のためになる。
これに反し、しばしば我々が耳にするもので、しかじかの事業は
己れには不利であるが国家的事業であるから、身を
犠牲にしてこれに当たるなどいうことは、言葉を換えていうと、国家が個人に要求することのあまりに多きことを意味することになる。もちろん一
旦事ある時は個人の利益や個人の財産生命も投げ出さねばならぬが、
平生何事についても国民より重い
犠牲を要求するような国家は、国家の一大目的に
背いているもので、はたしてそういう国家が今日世界にあるならば、永続の
覚束ない国家といわねばなるまい。
幸いにして我が国では相当に
税は重いとはいいながら、まだまだ個人の営業について、しばしば
犠牲を要求するほどに弱いものでないのはお互いに
慶すべきことである。僕の友人が地方に巡回して農民に勧めるときに、お前たちの仕事は実に国家的の事業であって、昔から農は国の
本というたくらいであるから、いかに苦しくも、いかに利益が
薄くとも、国家のために
奮励せよと説いて歩いた。かの意味は、多分農民みずからが
奮励して、農業を利益あるようにせよという意味であったろうけれども、普通農民の耳に入ったときは、やはり昔のごとく強制的に労働をして、ただお
上に
運上を収める道具になるだけのことであるという観念を与えた。
晨に
星をいただいて
出で、
夕に月を踏んで帰るその
辛苦も国家のためなりと思って
甘んずればよいが、なかなか普通人情として
甘んじてのみいるものでない。しかして甘んじないときは国家が
己れを苦しめることのはなはだしいものである。こんな国家はないほうがいいという結論にも来たり得るし、また歴史上そういう結論をした国民も折々ある。
僕はくれぐれも言うが、国家のために忠君愛国の
観念は
貴ぶべきものにして、
独り教育のみならず実業においても
涵養すべきものであると思う。この観念の
涵養は
漫りにくりかえすことによりて目的を果たし得るものでない。これを乱用すればかえって正反対の結果を来たすを恐れる。ちょうど
欧米において宗教の力の最もさかんな時には、何事についても
上帝やキリストを
担ぎ出して、その目的を果たそうとしたが、その結果を見るとかえって面白くないことが多かった。たとえば
療法にも
信仰だの
加持祈祷だのを混合する。もちろん病気によってはいわゆる
気の
病いもあるから、心の持ちようで
癒る病気もあろう。してこの類の病気には信仰が
著しく功を
奏したろうけれども、
黴菌から起こる病いのごときに至っては、宗教が入り
込んではかえって
療治の
邪魔になることが多い。
教育においてもそうである。僕自身は宗教なき教育は人の
心髄を動かすものでないと信ずるけれども、しからばとて学校の課目に宗教を入れることは、かえって教育の目的を
阻害するものと思う。と同様に実業にも国家や愛国を入れることは、(僕は非常の時を言うのではない)かえって実業の
邪魔にもなり、また国家愛国の観念にも
疵をつける
憂いがある。
かつて実業に従事する者は感情と実務とを混合してはかえって害あることを述べたが、今日ここに述べることも要するに同じ考えに帰する。さきに米人の言葉を取って話したうちに、感情がさらに入っていないかというと大いに入っている。すなわちその妻子を思うの感情、
一口にいうと自家の感情である。これは社会に対すれば私の感情であるけれども、その個人から見れば愛他的のものである。もし一国に危険でもあるときには、一家を愛する感情ではあるいは物足らぬ事もあろう。我が国の
誉として我々は親も捨て、はなはだしきは妻子を
殺すまでして
出陣した例などを物語ると、今日の西洋人の耳には
野蛮に聞こゆるそうだが、かくのごとき例は幾たび聞いても、僕らの
嘆賞を買うものである。ゆえに我々は一家を捨てることをも重いことに思わない。ゆえに事あれば国のためとはいうけれど、一家のためとは
絶叫しない。しかし西洋の人は戦いに出る時も
炉辺と家庭と for hearth and home を
揚言する。ちょっと聞くといかにも個人的であるが、しからばとて国が
仆れても自分の
炉辺に
差支えなければ平気でいるかというとそうでない。
学者は社会の進歩の
秩序として、団体観念から個人関係に移って行くと説く人もあるが、
欧州の進歩は果たしてそういう形跡を現している。日本の歴史にして果たして西洋史と
轍を同じゅうするものならば、我々も
近ごろ言う国家々々という声が今後いくらか弱りはせぬかと懸念に
堪えないと同時に、健全なる個人的思想に
伸びて行ったならば、国家なる語を公言することは少なくなっても、実際においてその力が強くなるであろうと信ずる。
今まで述べたくだくだしいことを約言すれば、
冒頭に掲げた米人の言うごとく、おのおのが
潔よい愛情から起算して、(親なり妻なり子なり、最も自分に近いゆえに最も自分に親しい
情合いに基づいて)
己れの
日々の事務を
怠らず、百姓は百姓、商人は商人、教師は教師、役人は役人と
己れの
預っている職務に
忠実にして、なおかつ思想は高く俗界を
超越して、商人が金を造っても金を目的とせず、農家が
肥料を
施しても
収穫以上に目的を置き、教師が教場に出ても
志を遠きに
着け、役人が執務するに、俗務のために
没却されない、すなわち一
言に
縮めると、
吾人が人格としてまったく世を
隔れた思想をいだくと同時に、常に世に対してはいかなる俗務といえどもこれを尽し、わが輩のたびたびいう
垂直的関係と平面的関係との調和を
始終図って行けば、つまらぬ務めにも深い意味のあることがわかり、また深い意味のある思想がいわゆるつまらぬことにも
顕れて、もって人生の味がはなはだ甘きをなすものである。
「
軒冕(高貴の人の乗る馬車)の中におれば、山林の気味なかるべからず。
林泉(
田舎の意)の下に
処りては、
須らく
廊廟(
朝廷)の
経綸を
懐くを要すべし」と。
吾人は、いかなる低き、いわゆる
卑しき職に従事しても心一つは高く持ちたい。
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先年
交換教授として渡米するにつき、その準備の一つとして、研究というほどの深い事もないが、少しく調査したいことがあって、
神道に関する書物を読んでみた。そのうちに英国の
碩学、ことに日本の古代宗教および文学に精通せるアストン先生の書中に、
神道は
知恩と愛情の宗教なりという一句があった。これが僕の眼に大いにとまった。また同氏の説明を見てますますこの一句の
味わいが理解せられた。
その
後ある友人が、日本の神道を研究するには、必ず
黒住宗忠の説を
窺わねばならぬと注意してくれて、
懇にもこの偉人に関する出版物を送ってくれた。これを読んでいっそうアストン氏のさきの言の誤らざると、
否、誤らざるどころでない、実によく
穿っていることを感じて、その後ますます
恩誼を知るの感を深めることについて、心のうちに
努めている。
古来、日本人は宗教と言い、学術と言い、中国、朝鮮をはじめ、外国から輸入して、ほとんど自国に起こった大思想、哲学、美術もないことは、誰しも承知しているが、何か日本に
固有な思想が一つでもありはせぬかと、
鵜の目
鷹の目で、
本邦の制度やら歴史やらを調べると、
神道だけは
純粋なる
大和民族の思想であることがわかる。
もっともこれとても、
儒教が入って以来、その説くところやら、その
儀式がたいそう違って来たし、ことに仏教輸入以来はその
教理さえも変化し、おそらくこんにち
神道の名のもとに、世に説かるる説の少なからざる部分は、
神道に
固有なものであるまいと疑う理由も確かにある。僕はさきのアストンの
言および
黒住氏の所説を読んで、これを
現に我が周囲に行わるるいわゆる
神道に比すると、ちょうど『
新約聖書』の
福音書を見た目で、
天主教の
儀式を見たときに起こる
感よりもさらに
不愉快なる思いを起こす。ゆえに僕は
神道の純粋なる教えを重んずると同時に、その名を
冠っていろいろなる迷信を
説いたり、あるいは
頑冥な
排他的主張を
恣にする
神道の宗派をいうのではない。アストンにしても、
黒住にしても、その説くところ間違いなきを
保し難いが、我が
固有の教えは
知恩の念に
満てるものなりとの一条は
過ちなしと信ずる。
しかして
神道が日本民族
固有の
観念を代表するものならば、
恩誼を知るは取りもなおさず日本民族の特長であると断言してよかろうと思う。
しかしここに
奇態に思うことは、古い言葉にはあるいはあって、僕の
無学のために知らぬのかは
測られぬが、
恩という字に
和訓のないことである。こういったなら、
和学者のお
叱りを受けて、こういう
訓がある、ああいう
訓があるという
反証が出るかも知れぬが、それにしても、これほどな
大和民族の特長が、普通一般に
漢音で流通していることは
情ない。
恩の漢音はすこぶる
発音に便利で、耳
障りもよいから、ながたらしい
大和言葉の代りに通用するにいたったかも知れないが、実際我々がこんにち外国の言葉を用うるは
簡単であるからとて用いる。単語は何か新しい思想を含んだものであって、普通にある言葉をわざわざ西洋語を借りて言い表わすことは、よしあっても
稀である。
マッチという
詞は今どんな
田舎でも用いている。しかるに僕の子供のときは
早附木といったものだ。今はそんなことをいうものはほとんどない。
早附木というよりもマッチというほうが簡単だからでもあろう。さらばとて単に簡単だという理由で、従来用い来たった
詞なら
早附木をマッチと
替えることはない。従来は
附木だけはあったが「
早」なる形容詞を
冠せて通用させようとしても通用しなかった。「ランプ」を
行燈とも
手燭とも
翻訳しない。ペンのごときは僕らが始めて
洋学を
修めるころには筆または
金の筆と訳したものだ。しかるに今は日本のすみずみに行ってもペンで通る。
金の筆というよりはペンというほうがむしろ簡便である。さればとてペンなる言葉をかりて、古来あった筆の文字に代用することはない。そこで
恩という言葉も発音の
易きからとて、従来あった思想に代えたものか少しく疑いが起こる。恩なる観念はやはり
儒教、
仏教から入ったものでなかろうかと疑いが起こって来る。
僕は世の言語学者に望みたきは、いま用うる文字こそ
漢音なれ、思想は
大和民族の特長なりということを、言語のほうからも証拠を
明瞭にする一条である。
単に右のごとくいうたなら、僕がアストンの説に反対の考えでも持ち、あるいは
黒住の教えが
黒住という個人より起こったもので、
大和民族の代表的思想にあらざるとでも主張するごとくに聞こゆるだろうが、僕はあくまでも
恩を知ることは
神道の基礎、
大和民族の美風なることを信じたいのである。
西洋人はともすると、東洋人は
恩を知らないという。また我々とても
相互に、
彼奴は恩を知らぬ
奴だといって
悪口する。恩を知るをもって
大和民族の特長などと
誇っても、しばしば自分に
顧みないと、人から受けた親切ほど忘れやすいものはない。
否、人のしたことが、はたして親切であるか不親切であるか、その区別すらもなかなかしない。また人が我がためにしてくれたことの程度は、はなはだ
鑑別しにくいものである。このへんの
弁えを誤ると、とかく他人の眼には、
恩知らずの感を与える。
ことに西洋人が日本人は恩を知らない国民なりというのは、この辺から起こっているらしい。すなわち日本人は恩を知らないのではなく先方の人がどれほどの親切でしたのかが分からぬために、有難うというべきところを言わなかったりする。すなわち事情が判然せぬために、思想までが大変違うように思わしむる
惧がある。そこで外国人の書いた書物のうちに、折々日本人の短所の中についても、恩知らずの
譏りあることは、これは仮りに誤解から起こったとみなしておいて、しばらくこれは預りとしてここには
省こう。ここではもっと手
近い、お互いの間の交際上、
恩誼の
観念について注意すべきことを述べたい。
恩を
説くに当たって、いわば恩の部類について一言したい。四
恩なるものはなにかとか、あるいは中には五
恩六
恩と数える人もある。けれどもこれは我々によきことをしてくれた相手によって分けたことで、たとえば向こうの人が
君だとか親であるとか、
天であるとか
地であるとか、
友だちであるとか、あるいは
従僕であるとか、それぞれ
恩を
施してくれた相手によりて区別したるに過ぎぬ。
受身の立場からいうたら、
目上の人から受けた
恩よりも、
目下の者から受けた
恩のほうが大きいこともある。自分の
君公からお
古の
裃を
頂戴するのは、昔では非常の
恩誼とみなした。しかし自分の
従僕が一命を捨て自分の難を救うほうの
恩誼ははるかに重いと僕は思う。
あるいは
君なるものは自分に対して常に
衣食を
給していて
日ごろ生命の
基である。ゆえにこれに
報ゆるに常に
生命をもってすべきものを、自分の
生命を取らずにかえって
裃の
一組でもくれるというは、その物は
僅であっても、その心は我々の期待するよりはるかに以上であるから、その重きことは日ごろ給料を与えて、自分のために忠勤を
擢ずべき義務をもっている従僕が、たまたま難に
遇って自分を救ったよりは、ものそのものはいかに軽くとも、
君公の
賜物のほうをはるかに重しとすべき議論も一通り立つから、僕とてもあながち絶対的に
君公の
拝領物は
家来の
命より軽いと一般にいう訳ではないけれども、君公だとか従僕だとか、社会的の区別をすればこそ、
些細のことが大きく思えたり、重いことが軽く見えるが、自分のために
宜きを計り、自分に尽す親切の行為を計れば、思わぬところに僕の
恩人が
潜んでいて、その人の
恩誼をさらに感知しないで、見当違いの
方に
無闇に有難がっていることもあり得ると思う。
であるから、僕は如何なる人が、如何なるほどに、僕のために心や身を
労してくれたか、つぶさに考えて、これを常に心に
銘じておきたいと思うのである。
ただこの事について心に記憶したきことは、明らかに我の耳に達したこと、あるいは我が目に
映った行為のほかに、人も知らず、我れ自身も知らないでいる
恩がたくさんあることである。かくのごとき
恵みが人生の中に
数限りなくあることを常に記憶に
存しておきたい。たまには誰が
告げるとはなしに、ふと心に
有難味を覚えて、ほとんど相手知らずに
帽を
脱し、
跪いて、有難さに、涙に
咽ぶこともある。誰しも必ずこの経験があるだろう。もしこの経験のない人あらば、そは不幸な人である。天の恩はいうまでもなく、
朋友や親などのすることに、とかく秘密にわたって、受ける本人は夢にも知らぬことがしばしばある。なにか
面倒な事件があって、これを処理しに出かけると、案外にもすでに半分以上解決されておったなどということがある。
これは不思議と思って、だんだんその理由を
質すと、前日友人が来て
半以上
悶着を解決しておいてくれたなどということが、数日あるいは時によっては数年
経って初めて発見されることを
自らも経験したし、世には必ず同じことを感じた人が
数多あろう。
はなはだ事が私事にわたるようで、ことに小なことで、人に語るに
価もないか知らぬが、かほどな
些細なことも、好意をもってすれば、かほどに人の心を感動せしむるものであるという証拠に、ここにこれを述べる。
僕が
札幌の郊外に一
個の
墓をもっている。
札幌の天地は僕の青年時代に学問したところで、さなきだに第二の故郷として
慕わしいが、この慕わしき念をいっそう深からしむるものは、この小さき
墓地である。ゆえに折々かの
石碑の周囲に雑草がはびこって、見すぼらしくなりはせぬか、石が倒れて見る
甲斐なきようになっておるまいか、
悪戯の子供らが石の上に
落書でもして
不作法になってはおらぬかと、折々心を
痛めることがある。それゆえ友人に頼み、ついでの時に
見巡ってもらったが、彼が墓所へ行ったつど、報告してくれるに、いつでもいつでも草はきれいに
刈られ、周囲がすこぶる整然していると。ここにおいてあまりの不思議さに、同じ友人に依頼して誰が
掃除してくれたるか、もし
判ったならば礼もしたいから、住職なり番人なりに
質してくれと、いって送るけれども、友人の
穿鑿ではなかなかかくも墓地に対して好意を示す人を探し得ない。
今もなお僕にはその人が知れない。しかるにこの事たる、事態は
茶話の話題にもならぬくらいなるが、僕にとっては人情のまことに柔かきところと深きところとを
窺わしめて、感謝と喜びの念を深からしむることが少なくないのである。
それにこの行為をなす人はおそらく
唯一人であろう。しかるに誰ということの
判らぬ間に、僕の心には果たして一人であるか二人であるか三人か、
加之一人であるにしても、あの人であろうか、この人であろうかと
推量を
運らすのが
大勢の人に関するから、つまり大勢の人が僕には恩人のごとき感を与えている。渡る世間に
鬼はない。かれこれ僕は大勢の人に非難を受けるけれども、また世には心からしての友があるという自覚を強からしめて、折々
不愉快なことのあるあいだにも、かくのごとき小な事が、
燈明のごとく輝いて、人生の
味を甘からしめる。
僕が第一高等学校に在職中ことさらに僕の感じたことがある。それはある夏学校の入学試験の際であったが、今は名も知れているけれども、これを明かすの必要もなし、あかしたならかえって
迷惑の
種子ともなろうから、姓名を
省いて話そう。あるいは偶然にも話題の主の人の眼にこの書が
触れたならば、あの時の男は彼であったかと思わるるであろうが、僕はこれを美談と思うから
隠さずに話する。
七月の初め、一週間ばかり続いた
暑さの強い日がちょうど全国の高等学校入学の試験の
定日であった。中学を卒業した四月から、以来は三度の食事も
省略するほどに時を
惜み、夜も眠らず、
眠気がさせば眼に
薄荷までさして、試験の準備に余念ない三千ちかくの青年が、第一高等学校の試験場に
群り来たり、いよいよ教室に入るその
刹那まで、準備を
怠らぬくらいであるからして、試験以前の十日間の勉強は実に兵士の戦闘準備どころか、実戦にとりかかっていると同じ感がする。すなわち試験以前の一
旬間の
惨憺たるさまは父兄友人はいうまでもなく、少しく今日の日本の教育並びに試験の制度を知るものは、察するにあまりありというくらいである。ゆえに中には試験の始まる前に、すでに根気がつきたり、病に
罹ったり神経衰弱あるいは脳貧血あるいは不消化
不眠症等に
罹るものは、おそらく百をもって数えるであろう。
さきにいった、第一高等学校の試験の初日であった。僕が各教場を通って
廊下に出て、
玄関の側を
歩んで来ると、ちらりと眼に
映ったものは、分館の玄関のわきに一台の人力車の傍に立っている
車挽と、これを
隔つること一間ばかり傍に、
袋を手にしている四十ちかくの婦人であった。試験の最中の事であれば、三千になんなんとする青年を収容した学校も、百人ちかくの試験官の
見張り監督していても、ただ水を打ったように
静寂を極めて、
廊下の板をふむ巡視の
靴音さえも聞こえないほど静かで、ほとんど人なきがごとき
様であるところの玄関に、何用あって婦人のいることか、その理由もちょっと解し難かったから、僕は
小使に代って、この婦人に向い、その用を
質して、
「もし学校の事務所に御用ならば、あの玄関へ、もし生徒の
寄宿寮に御用ならば、そちらの玄関でお
尋ねなさい。ここにはちょうど試験の最中で人がおってもいないようなものです」
と
心附けたが、その婦人はさもそのへんのことは承知のごとく、
妙な顔をして、
「ハイ、ここで待っております」
というだけで、さらに動く様子も見えなかったから、
「
貴女のお
尋ねになる方は、ここにいる人ですか」
「ハイ、いま試験しております」
「そんなら、先生ですか、生徒ですか」
「生徒でございます」
「生徒ならばまだ急に出る訳には行きますまい。試験は十一時までですから、もう二時間もあります」
「ハイ、それも承知しております」
「そんなら、もう二時間もここでお待ちになるのは
非道ですから、あちらに休む所があります。それとも急な事なら、私が取次いであげましょう。そうでなければ、十一時に出なおして、お出になったら
宜うございましょう」
と
心附けたが、この婦人はさらに去る様子もなく、少し恥ずかしそうにして、
「ただこちらで待っております」
というだけなので、僕はますます
奇態に思って、かつ
側に
俥のあることゆえ、何か容易ならぬ
仔細もあらんと察して、一しお念入れてその用向きの次第を
質したところが、
「今試験をしておりますが、
昨日自宅で
眩がしましたから、今日ももしやそんなことでもないかと思って、ここに待っております。まさかの時には
連れて帰るつもりで、
俥を頼んで
参りました。それに
今朝飲む薬も、いそいでいて忘れましたから」
といいながらしきりに
懐の中に手を入れて、薬を出しそうにするから、
「私がその薬を飲ましてあげましょう」
というたが、
「これはご飯の後で、すぐ頂くのですから、もう遅くていけますまいし、またもしや私がここに参っていることでも知れると、試験のためにようございません」
「それじゃ、名はなんといいますか」
「…………」
「何番ですか」
「番号もハッキリしません、……英法です……もしや知れると、恥ずかしがりますから……」
「ここの試験では、毎年三、四名ぐらい
眩する者ができたり、その他いろいろの病人が起こるので、監督の先生たちは、そういうことに
始終気をつけていられるし、また係りのお医者もあって、そんなことがあると、おそらくあなたが世話をなさるよりも、かえって学校の世話のほうがゆきとどくだろうと思いますから、心配なさらずに、お帰りになっても
大丈夫でしょう。しかし念のために番号だけわかったら知らせてお置きなさい」
「…………」
「イエ、御当人にわからないようにして、見はりをつけてあげますから、当人にはなにも知らないように、お医者さまと
監督の先生に、ことさら注意をするようにお頼みしておきますから、安心なさい」
といったので、始めて
何部の何番ということを
告げたから、さっそくその教室に行って、入ってみると、なるほどその顔形がいかにも
件の婦人によく似た青年で、まさしく両者の関係が親子であることが
判然した。彼はそんなことは夢にも知らず、答案に余念ない
態であった。僕は
係員の先生やお医者さんにもことさら注意を頼んで、その教場を去って再び
玄関に来たときは、母なる人の姿も
俥の影も跡が見えなかった。
十一時の
鐘が鳴ると同時に彼も教室を出て、
下駄をはいて友人と笑いながら話をしているのを僕は
認めた。これなら大丈夫だ、この様子で家に帰ったなら、母の安心はいかばかりであろうと思いつつ、彼の姿の門を
出ずるを見送った。彼は友人と
肩をたたいて談笑しつつ去ったが、おそらく彼の
脳髄はただ試験の答案をもってのみ
満たされて、母の苦心に考えを向ける余地はなかったろう。しかるに
奚ぞ知らん、彼が無難に何時間の試験を
経、その翌日もまたその翌日も無難に
経たことは、彼の学力のみによると思ったなら、大いに見当がちがっておりはしまいか。
彼の眠られぬ時はともに起き、彼の眠っている際もなお眼ざまし、彼の起きぬ
間にとく起きて、彼の準備を助け、彼の眼や耳にさらに触るることなく、彼の身辺を
擁護する母の情愛があって、始めて無難な試験を
経たものと、迷信かは知らんが僕は信ずる。
右はただ僕の実見にふれた一例に過ぎぬ。かくのごとき
恩愛は人の眼を
忍んで、世にあまたあると信ずる。いな、あまたどころではない、かくのごとき情愛は空中に
満ちていると思う。ただこの満ちている情愛に
触れていながら、これに感ずるに
鈍きわれわれの心情こそ、
遺憾至極である。感応の力にして
鋭敏であるなら、いたるところありがたからざる場所はなく、見る人ごとにありがたからざる人はない。
黒住教の開祖
宗忠翁の歌に、
有りがたやかゝるめでたき世に出でてたのしみ暮らす人ぞ一とく
有りがたやかゝるめでたき世に出でてたのしみ暮らす身こそ安けれ
有りがたや心の雲もはれわたりうきよの雲はとにもかくにも
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『
荘子』に「名は
実の
賓なり」とあるごとく、
実は
主にして
名は
客である。言葉も同じく考えの
賓、思想の
客なりといいうると思う。一方に名などどうでもよいではないかという人があれば、また一方には人は名によりて
吉凶ありとて、ことに近ごろ姓名判断など
盛んに
流行る。しかし
名と
実とが
相伴わねば、とかく誤りをきたしやすいから、名はできうるだけ明らかにしておくに
若くはない。
これははなはだ着実な議論であるが、さらに一歩を進めて高い見地よりみれば、
老子の言うごとく、名の名とすべきは常の名にあらずである。言語の
用は思想を確実に、意志を明らかにさえすれば事が
足る。遊ばせ言葉は
暇つぶしでかつ
煩わしい。言葉はなるべく簡略なるがよいというのも無理ならぬ説なれども、僕の考えでは名も言葉も
自ら物や思想の
実を現すだけで
用の足るものでない。二つながらこれを用うる人の心のさまを言い現すものであると思う。すなわち名であれ言葉であれ、客観的のものを言い現すに
止まらで、これを用うる人の心持ちを示すものである。
古人の
曰く「
言者身之文也」と。日本の
諺にも「言葉は
立居をあらわす」というが、これはただ
品や育ちを現すとの意でない、心持ちを知らすの意である。
僕の知れる老人に
滑稽趣味に
饒なものがあった。封建時代には
従者や出入りの者に勝手に新しき名をつけることは普通であったから、この老人もまた種々な名を出入りの者どもにつけた。かつて彼が使っていた若者を
冷しながら、
「
貴様が笑うときの顔はまるで
猿のようだ。これから姓名を改めてはどうだ」
といい、
真面目になって
猿嘉という命名書を与えた。
爾来この若者はこの姓を用いしのみならず、その子孫は今なお
猿嘉氏を称している。また老人の
親戚中に耳がはなはだ小さなものがあったので、彼はその人のために新たに
半耳と命名したという。これらの命名は客観的にその人々の
特徴を言い現したものだといえば、名は
体をあらわすといわれる、いわゆる
名詮自性とやらである。しかし若者
某のごときは、ただ笑うとき
猿に似たからとて、そればかりが彼の特徴でもあるまい。おそらく他にも種々な
特徴があったろうと推量する。彼が
怒る時は
鰐のごとく、
酔った時は
河童のごとく、しかして
睡った時は
仏顔であったかも知れぬ。また
半耳君にしても然りである。彼は耳に異状がありしとするも、
口なり
鼻なり
業平をしのぐほどの形をしていたかも知れぬ。
しかるにこの老人が彼らに命名した時は、ことさら悪い特徴をふざけて
指摘したのである。彼らを取扱うに冷評的態度をもってすると、好意をもって善良なる特徴を選ぶのとは、非常なる相違を生ずる。もし好意をもってすれば、
猿だとか、
耳朶が半分だなどいう特徴の一端を挙げずに、
愉快なる印象を与うるがごとき名をつけうることも必ずできる。ゆえに僕は言いたい、名は実を示すというよりも、命名者の心を現すものであると。
用語においてはなおさらである。これは
何人でも経験あることであろう。同一の人を評するに敵意をもってすると好意をもってするとはその結果において実に
雲泥の差がある。
優れた人を評するにつけても、
「あの男はエライ」という者あり、
「エラそうだ」というもあり、また、
「エラぶる」というもある。
「まるい
鶏卵も切りようで四角」。
「物も言いようで
角が立つ」。
俗に「
糞も
味噌も一
緒にする」というが、
味噌を見て
糞のようだというのと、糞を見て味噌のようだというのとは、その人の
態度に大差あるを証明する。ゆえに同じことを言うにまったく別な言葉を用いてよいこともある。
たとえばここに
笑みを含んで話するものがあるとすれば、甲はこれを、
「
巧言令色の人、
阿諛佞の人」
と評するし、乙は、
「よいぐあいに世渡りする
上手者、
愛嬌を振りまく八方美人」
という。また
丙は、
「真に人に接して
城壁を
設けず
一視同仁的の愛情の深い人だ」という。
いま甲と丙との批評を聞くと、同じ人を評しているものとは思われぬ。乙の批評を聞くにおよび、
親戚関係でもある人かという疑問が起こる。同一の人にしても甲乙丙の
見ようによりてはかくのごとき差異を生ずる。またここに人あり他の質問に応じて充分に説明するときは、甲は、彼はものしり顔して少しばかりの学問を
衒うと評し、乙は、彼はちょっとひと通りはものをしっているようだが、だいぶ得意になって話すると言い、丙は、彼は我々の質問に対し
懇切によく説明してくれたと
謝する。同じ人の同じ説明でさえも、聞く人によりてかくのごとき異なった感情を受くる。
こういう例をあげきたれば、
何人にもまた何事についても必ずおびただしくある。また僕はかくのごとき例を多くあげたいと思う。なんとなれば読者中には甲か乙かあるいは丙かに属する人あり、自分でおのれは甲に属し、おのれは乙に属すると考うる人もあろう。ちょっと茶一
杯飲むにしても、こんなまずい茶をよくも恥かしげもなく出せたものだ。この家の主人はずうずうしい恥知らずのけちんぼなりと
謗る人もあれば、あるいはわれわれがちょっと来るたびごとに五円、六円の
玉露を出す必要はない、彼は「
戊申詔書」のご趣意をよく奉ずる、感心な
乃木式の人なりと
讃める人もある。
また
昔時シナの
妃が庭園を散歩し、
桃の
熟したのを食い、味の余りに
美なりしに感じ、独りこれを
食うに忍びず、
食い残しの半分を皇帝に
捧げ、その愛情の深きを賞せられ、
寵愛いよいよ厚きを加えたが、その後
妃の
寵衰えたとき、かつて食い残した品を捧げた無礼の
件によりて
罰せられたという。
寸分異ならぬ同一事実のものでも、
見ようによりては
褒めることもできれば、
誹しることもできる。賞することも
罰することもでき、殺すことも
活かすこともできる。同じことも見聞する人により
霄壤の差を生ずる。
僕の知人に思いがけなき災難にあって裁判所に呼び出された人がある。彼は
日ならずして無罪を宣告せられたが、
逮捕の理由は彼がある
嫌疑者に数千の
金を与えたというにあって、裁判官が、
「なにゆえに
貴様はかかる大金を彼に与えたるか」
の
尋問に対し、彼は、
「彼が
嫌疑がましいことをなすにつけ、いついかなる運命に
陥るかも知れぬ、万一そうなると自分の心残りとすることは一人の老母の身の上である、老母が安全に生活する心配がなければ、私は
繋獄の身となるも
悔ゆることがない、ついては
若干の金を得て老母の養老金にしたいと頼まれ、わが輩一
片の
義侠、これを
否むに
忍びず、彼のために
出金した」
と答えたが裁判官はこの事実をもって彼を
共謀者なりとみなした。すなわち僕の友人は答うるに事実のままをもってしたが、裁判官はこれをそのままに受けないで、
憐れであるから金を恵むというも、一円や二円の額ならその申し開きも受け取れるが、数千の金を出すにいま述ぶるがごとき申し訳けは取り上げがたいと
告げた。友人はこれを聞き、カッとしてわが胸中に
湧きいずる同情の海に比ぶれば二千、三千の金はその一
滴にだも
値せずと
絶叫したと聞いた。金を与えたという事実は同一なるが、これを
叙するに裁判官の用いた言葉と友人の用いたる言葉とは非常に違っている。してこの差の起こるゆえんはまったく心の置き所が異なるからである。
また僕の知人にてある所で演説したことがある。始むるにあたりてあたかも前面に掲げてあったご
真影に最敬礼して
登壇し、
今日の教育はややもすれば技術的教育に流れ、人格教育は
怠りがちである、ゆえになにごとに対しても「イエス」と「ノー」の区別さえもできぬものがある。自分が
爾く思わぬことでありながら、思っているようの返事をしたり、あるいは
爾く思いながらも思わぬごとき言葉を使ったりする、あたかも子供に
戯れてくすぐる時は「
叔父さんいやだ」といいながらも、
止めればまたからかってもらいたい
風をするごとく、真にいやなのであるか
否かわからぬのと同じである
云々、と述べた。
すると
傍聴者のなかに、
痛くこの演説が
癪に
触った者があって、講演者を罪せんとたくらみ、彼は御真影の前をも
憚らず
猥褻なる
語を用いたと称して問題を惹き起こしたことがある。
講演者はいかなる点が
猥褻であるか
とんと理解しえなかったが、よくよくその事情を聞くと「いやだいやだ」で始まる
猥褻の歌があるそうである。講演者はさらにその歌のあることさえも知らなかったが、演説中にいやだいやだという句を使ったために、
猥褻と思われたのであったという。同一なる言語を使用しても言う人は子供の
頑是なきところを述べんとの心なるに、聞く人はおそらく
自らしばしば唄った
甚句か
端唄を思い出したのである。いかなることでも
揚足をとり曲解することは容易なる
業で、口の先は偉い力を有するものである。
我が
邦には西洋語にては言いにくき便利なる言葉がある。そのなかに「何々
しやあがった」というのは一つである。また「何々を
してやった」というも一例である。まず前者について一言せんに、僕はこの言葉の起こりを知らぬが、外国人が見たら「
上った」というのでむしろ
鄭重な言葉と思うであろう。しかし日本人
間にありては、この一言でいかなる善事をも悪化しうる。たとえば、
「
何某は死に
やあがった」
「誰は結婚し
やあがった」
「勉強し
やあがった」
「
昇進し
やあがった」
といい、たとえ善事であっても、これに対して右の一句を加うればたちまち悪化する。これはおたがいに常に耳にすることである。僕はかくのごとき言葉を聞くと、常に
不愉快に思い、また人を
陥るる手段をめぐらしているなと思う気がして、この言葉に対しては常に気味が悪い感想を
懐く。
また「シテヤッタ」という言葉が広く行われる。むろん善い意味に用うることもあるが多くは悪意に用うる。僕はこれを聞くごとに一種の不愉快を感ずる。かつてドイツに留学していたころ、やはり同じく留学していた同胞の一人が次のごときことを話した。自分が何々博士を訪ねて、種々議論したうち、少し
癪に
障ったことがあったので、こうこういって
やったところが、だいぶ相手も
凹んだようだったと。僕はこれを聞き思いきったことを言ったものだ、相手の人も定めしだいぶまいったであろうと思い、そののち同博士を
訪ねた折、それとなくこうこういう議論につきいかにお考えであるかと、いわゆるやっつけた人の説を繰り返せるに、博士は
曰く、
「それに類したようなことを、この前に君の国の人がいっていたことがあった。なにぶん言葉が不完全なので、
明瞭にその言うところの意味がわからなかった」
といい、進んで
滔々としてその説の正当ならぬことを説かれたことがある。つまり同一の事柄を、一人は「
やっつけた」と大いに
誇張していい、一人はそんなことははなはだ軽く、
やっつけられたともなんとも思わぬことがしばしばある。かくのごとき場合には
やっつけたと思う心ははなはだ
陋かつ小であって、先方を
困らす動機を示すのみで、はたして自分の言が有効であったかを保証するものでない。
近ごろ僕の知人にして雑誌記者の
来訪を受け、なんかの質問を受けたことがある。しかるにその質問があまりくだらなかったので取り合わなかった。数日ならずしてなにかの雑誌に自分の名が掲げてあったので、はてな、そんな雑誌に投書したことはなかったがと思い、試みにその記事をみると、某氏を
訪ねて大いに議論を戦わしたるに、彼は答うるに言葉なく、ギャフンと参ったと書いてあり、始めてハハアあの時のことであったかと思ったという。この場合においても記者がいかに
某を
重大視し、某は彼に対して
無頓着なりしかを示すだけで、同じことをまったく別な態度で見るとかくのごときゆきちがいが
始終起こる。こういう例をあげきたれば僕自身にも少なからざる経験がある。おそらくは同様の経験を持たぬ人はあるまい。
そもそも外国人が日本人を批評し、日本人はとかく
嘘をつくというが、悪意をもって
嘘を言わなくとも、事実に違ったことを
吐く点にいたりては、おそらくは日本人は西洋人よりもはるかに多いと思う。その事実に違うというはおもに二つの原因より来る。一つは普通教育がまだまだ充分ならぬから、用うる言葉に精確を
欠くためである。ゆえに角ばりたるものなればすべて四角という。これを聞いた外国人は真に四角なものかと思うと、なんぞはからん、三角とか六角とか八角なものがある。言う者はあえて
嘘をいう考えはない。何角だかは考えないで、ただ角なるゆえに四角というのである。
輪廓が
円縁であればただちに円いと言い、
屈曲さえあれば円いというも、その
円というのは円形の意でない。しかるにこれを聞く外国人は、これを
真円と解するゆえに
円ならぬものを
円と
嘘をいうとする。
もう一つの原因は前述の主観的の要素が西洋人よりも日本人にはなはだ強い。すなわち感情が事実に
混じやすい。ゆえに事実を冷静に客観的に述べないで、あるいは
厭味を付加したりあるいは喜ぶ意を含ましめたりする。天気が
曇れば曇ったというだけで事実を述ぶるに足るに、曇ってき
やがったというような言葉を用うるために、曇るのを望ましく思う人でも、これを聞いて不愉快の感を起こす。
これに反して
鄭重なものの言い方に、心にもないことを含ませることがたくさんある。
手紙の文中に「恐縮の至り」「
欣喜の至り」などあり、西洋でも
書簡文には、その終りに Your obedient servant と記する礼法があるが、これを、
「
貴下の柔順なる
忠僕」
と直訳すると、
邦文の「
頓首」、「
再拝」より
ひどく聞こゆれども、この句の
源はさほど
卑屈の意ではなく、
「
貴下に serve する、すなわち用に立つことあらばあまんじて従う」
の厚意を述べた語である。いったい日本語には敬語が
夥しいから、人の
葬式に
悔みに行っても、心の中の半分だも思わぬことまで述べる。少し
正直な人は
惑わされる。古人の
歎ける一首に
曰わく、
偽りのなき世なりせばいかばかり人の言の葉はうれしからまし
用言などは意さえ通ずれば、どうでもよきようなものの、悪意をもって用うれば、いかなる
善言美語も不愉快の感を与える。ゆえに言葉などはどうでもいいという人は、まず心を善くせよとの前提がなくてはならぬ。『聖書』に「心に
充ち
溢れて言葉となる」とあるが、心から
湧き出たものがまことの言葉である。
言の葉の声に心のあらはれてやさしき人の底井知らるゝ
僕は先に同一事実を別語で語りうるといったが、それと同じように同一言語をもって正反対の心を現すこともできる。
婉曲巧妙なる言葉の
下に
骨を
銷することもできる。言葉などどうでもよいというは、心に比ぶればはなはだ軽少なりとの意でなく、心そのものを無視して言語はどうでもよいと言い、
厭味たっぷりの文句や人を
陥れる言い
振り、人に
無礼する語を用いることはなはだ
慎むべきことである。僕自身が
田舎生まれではなはだ
不謹慎の語を用いること多きゆえ、一層このことを感じ、また世には僕みたような人もあるだろうと思い、所感の一端を述べたのである。
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こういう僕もこれより言わんと
欲することについて、
自ら反対の例となるの恐れなきにしも
非ざれども、言わずにおれば、なおさら悪例の一つとなるに過ぎぬから、しばらく読者の耳をかりたい。読者も必ず僕と同じ経験があるであろうが、とかくに他人の我々に与うる忠告や訓戒は、われわれの身にとってはなはだ見当ちがいであるごとき感を与えることが多い。
老人らが
懇々と
吾人に身の
治め方について説いてくれるときでも、この老いぼれめが
維新前の話をしているわいと、
馬耳東風に聞き流すことが多い。また
吾人の真情や実況を一通り心得ている友人が
懇切に我々に忠告するときにも、ややもすればこの男がまだまだ
俺の腹の中を知らんわい、なんと見当違ったことをいうものかと、
胸底で笑いたくなることもある。
またわれわれが『論語』や『聖書』を読み万世
不朽の金言と称せらるる教訓に
触れても、
甘いことをいっている、この
訓は
某に聞かしてやりたいものだと、おのれの身にあてはめて考えるよりは、他人に応用する
心地することがままある。
ゆえに、少しく油断すると
聖人君子の言葉を用いて他人を
責むる道具とする
懼がある。さればこそ、他人を
偽君子と呼び、不忠不義と
罵り、あるいは説教するに聖人の句を引用して人を
罪するごとき面白おかしいことがとかくありがちである。
こういうふうに他人が
吾人のために与うる訓戒も、友人が精神より述ぶる忠告も、
先賢が血を流して教えた大義も、自分の身の上には直接あてはまらないように思うことの多きゆえんは、一つには自分がこれらの言を充分に味わう
境涯に達しない、すなわち自己の
非を
悟らず自己の弱点を察しないゆえである。また一つには忠告する者が
吾人の
境遇を
充分知らぬゆえである。
今しばらく第一の点について一言したい。これをいうについては例のとおり僕は
自ら経験した
恥もさらさねばならぬ。
たとえば小さいことながら、僕は若い時から金を使うにはなはだ
不始末であった。不始末といえばあるいは他人を借り倒したり、人に
迷惑かけたりするように聞こえるか知らんが、それほどにまでは不始末を実行したとは思わぬが、僕のいわゆる不始末は、小使帳をつけないとか、予算を立てないということである。これがために自分が知らないうちに
懐が
空になったり、旅行中に費用が不足したりすることが折々ある。このことについては
親戚友人から折々忠告もされたが、しかし非常に行きづまって進退これきわまるときまで、その忠告のいかに
懇切に、いかに
穿っているかを味わうことができなかった。
「子を持って知る親の恩」「孝行をしたい時には親は無し」
と
諺にいうごとく、親が
存命で孝行する機会のあるときに孝道の教訓を聞いても、なに分かりきったこと、百も承知と思いながら
怠るが、親無きあとで『
孝経』を読みかえすと、初めてその「
経書」の真意が明らかになる。これ
故人の忠告が不足なるにもあらず、『
孝経』の悪いのでもない。ひたすら自分が訓戒あるいは忠告を理解するの力なく、これを受け
容れる
襟度のなかったためである。くどくどしく細かいことをいうようだが、具体的の例をあげると、酒好きの者に飲酒の害、禁酒の徳をどれほどくりかえしても、なかなか耳に入らぬが、いよいよその害毒が身におよんで病いにでもかかると初めて成るほどという観念が起こる。
また
放蕩にふけっている者も同じことで、
耽溺しているあいだは『論語』をもっても『
法華経』をもってもなかなか浮かびきれない。
説けば説くほど自分に関係ないことのように心得て、「君の言うことは一々もっともだが、僕の場合は少し違う。君が心配するほどのことはないよ」
底の考えでますます深みに
陥るのもわれわれはしばしば見る。しかるにこの人にして相手方が彼を
欺くか、あるいは
自ら
飽きてくると初めて目が
覚める。かつて友人のいったことがテッキリ自分のことであった、『聖書』の文句の何章何節は、自分個人のために書かれたものであるごとく感じられてくる。
いったい聖人君子の教えと称するものは、長いかつ広い経験に基づいたことは多いとはいえ、
抽象的のものが多くて具体的でない。いわば
汎論的で、各論的でない。万民に
演べた言で個人に述べた言でないからして、とかくわれわれ
凡人の頭には入っても腹の底に
沁みることが
薄い。
大ざっぱの教訓も、すなわち忠義でも、孝行でも、信義でも、いずれも抽象的で、いかなる国民にも、いかなる
境遇の者にも応用できるだけに、これは
俺のことだと私の意味に取ることは薄くなる。それゆえに先に述べたように、こういう文字は人を
責むる道具に用いるほうがむしろ多いかと
思う。彼は不忠者である、彼は不孝者であるという言葉はしばしば聞くが、
俺は不忠である俺は不孝であると感ずることは少ない。またたまたま
己れの非を自覚しても、すぐに
俺はまだ
某々ほどに
堕落せぬとか、あるいは
俺の場合は特別であると
自ら
義(justify)せんとしたがる。
実際僕が今こうしてこのことを書きながらも、僕自身が人を責めておりはせぬか、この文を
草するよりは、むしろ
退いて己れ、果たして忠なるか、己れ果たして孝なるかを考えるほうが筆取るよりも急務ではないかとまったく思わぬでもない。これを思うと同時にまた若い時につまらぬことながら僕がここに言わんと欲することを言ってくれる人があったなら、いくらか誤りも少なかったろうにと思いかえしてまた筆を取る。
決して
誰彼を
怨むわけではないが、……もし怨むとすれば時勢を怨むというよりほかにないが、……明治十年前後、僕が学校ざかりの時分には、日本の国は教訓については(道徳とは言わぬ)
沙漠の時代であった。
僕の十歳代の時を顧みると年長者なり、
先輩なり、親切に指導する者ははなはだ少なかった。
有為なる人物を育てるようには、心がけた人がたくさんあったが、正しい人間を造ろうということには心のうちには、いずれも思っていたろうけれども、これを形に
顕して
自らこれを個人に及ぼすことのはなはだ少ない時代であった。ゆえに
神経質なる僕のごとき者は、(僕と同感の青年が何万とあったろう)すがりよって、教えを求めようと
飢え
渇いていたものである。しかるに親切な人も正しい人も
許多あったが、時代の要求は少しは悪い
奴でも役に立つ
人才を要する傾向があったから、教育上道徳観念を
養う者はほとんどなかった。ゆえにこれを求むる者は
勢い書物に
依ったのである。
しかるに残念なことには書物にあることは前述のごとく
抽象的であるから、未熟の
頭脳には入りにくい。たまたま入れば自分を
省みるより他人を責むる道具となる。
そこで僕は
始終思うに、個人の訓戒を実際に
施すには、その
抽象的教訓を具体的に
翻訳しなければならぬ。この翻訳をするには、一つには伝記を読んで、
何某がどういう誤りをして、どういう結果に
陥った。そしていかなる法によって、取り返しをしたかを知るが一つ。また一つには
年輩も
境遇も同じような親友とたがいに真情をうちあけて、
俺はこういうことをした、あるいはこういう悪い考えが浮かんで困ると語り合い、また友人の実験を聞いて、実際の人生にいかなる
誘惑のあるものか、
自ら知らぬ
経験を具体的に他人から聞きただすも一つの法であろうし、また
自ら
退いて想像して、
己れがかくのごとき場合に
陥ったならば、いかに身を
処するかを、考えるもまた一法であると思う。
僕がいま最後に述べたことは、子供らしい方法で、世間の
物笑いになるか知らぬが、少なくとも僕のごとき平凡なる青年にはすこぶる役に立った方法である。たとえば今に記憶に残っていることも少なくないが、十五、六のころ一人で想像して、もし
俺がかくかくの困難に
陥ったときは、自分はどうしよう、もし
俺がかくかくの誘惑にさそわれたときには、こうしようと夢みるごとくに描いた仮定が、その後しばしば役に立った。今後も役に立つであろうと信ずる。事に当たって
惑うときも苦しむときもちょっと一歩
退いて、
「ハハアこれはいつぞや夢に見たこういう場合に当てはまる。そのときにはこうしようと思ったが、今日その通りできぬはずがない」
と、こう思うと大概のことには、かねての
準備があるがごとき自信を抱いてくる。ゆえにこの想像がなかったならば
狼狽すべかりし場合にも、うんこれは例の夢が実現せられているんだと、思いきりがつく。もっとも聖人君子ならざる身であれば、事に当たって一時
惑うは
遺憾ながらあっても、そのことをかねて期待しておったとおらぬとはたいへん違う。彼の有名な
業平の辞世を見ても、
遂に行く道とは兼て聞きしかど昨日けふとは思はざりしを
とある。
業平という人は文芸に優秀なることは言うまでもないが、その人となりについてどれほど根底のたしかな人か知らんが、その
臨終になって、「
昨日けふとは思はざりしを」とのこの句はちょっと
不意打ちをせられて、あわてたようにも聞こゆるけれども、もし彼にして「
遂に行く道」を
兼て聞いておらなかったならば、彼の
狼狽は定めし見苦しかったものであろう。
僕がさきに述べた、
艱難誘惑を仮想的に描いて、これに対する方法を定めよとは、まことに子供らしいことはわが輩も承知である。これを読む諸君なかんずく聖人、君子、英雄、
豪傑らは、僕の言の幼稚なるにふきだすであろう。けれども僕はしばしば言いしとおり、僕の
同僚たる
凡人に対して話をするのであるから、よろしく非凡の人々は
諒としてもらいたい。
この仮想によって、
抽象的の教えを具体的に翻訳して初めて意味が
明瞭にかつ実際的になり得る。明瞭に実際的にならなければ、いかなる金言もなんの
値もない。そのかわり明瞭に実際に自分の言行を支配する力があれば、いかなる
卑見も
黄金の
値を有するにいたる。それであればこそ
路傍で
耳朶に触れた一言が、自分の一生の
分岐点となったり、
片言でいう
小児の言葉が、胸中の
琴線に触れて、
涙の源泉を突くことがある。
老嫗の
一口噺が一生涯の
基を
固めたり、おのれながらなんでそんなつまらぬことが、こんなに自分を刺激したろうと驚くことがままある。
釈迦が東西南北の門を
出で、あるいは病める者あるいは死せる者、あるいは老いたる者あるいは
貧しき者を見て、人生観に新しき立脚地を開いたが、病める者死せる者老いたる者貧しき者はわれわれも毎日眼にしておりながら、われわれはあえてこれがために新しき人生観も得ない。
かの英国の誇りとするシャフツベリー
卿は、身は名流であり、一家は巨万の富を積み、
娯楽に世を渡る資格をそなえておりながら、中学校時代
乞食の葬式の途中
棺から
死骸のおちるのを見て、十五分間に自分の生涯の方針を定めたと称している。
しかるにわれわれもよし
乞食の葬式にあらずとも、これに類したることはしばしば見ている。世の
憂き事、人生のつらいことが毎日われわれの眼に
映り耳に
響きながら、われわれの胸にはなんらの影をも落とさず、なんらの共鳴をも引き起こさない。しかるに世にいくらか仕事をなした人について
質したならば、十に八、九までは、私の
立志はかくかくの時に発したと、なにか具体的な、しかも他人の耳にはつまらなく聞こゆる
些細な出来事を指摘するであろう。これ
蓋し、すでに腹の畑は
肥しができ、掘り起こされて
土壤が柔かになり、
下種の時
晩しと待っているところに、空飛ぶ鳥が
偶然一
粒墜したり、眼に見えない風が山の
彼方より種を抱いて吹き来たったりして、春に
萠し、夏に花咲き、秋に実るのである。
人の心も先に言った想像なり、あるいはそれよりはるか以上の方法をもって、準備を
整えていさえすればいかに
卑近な教えでも、いかに
些末な忠告でも、必ずこれを受け取って
発芽して、花咲かせて実るものと思う。
他人の
諫言忠告をいつでも
容れる心の態度を有する者は真の
大人、君子、英傑である。シナ太古の聖人が世を
治むる時代には
朝廷に
諫鼓という太鼓のような物を
備えおいて、
誰人にても当局に忠告せんとする者はこれを打つと、役人が出て
諫言を聴いたと伝えるが、今日は
諫鼓のかわりに新聞があるけれども、耳を傾ける度量は昔にくらべてどうであろう。
なお他人に忠告するについては、
一言したいことがある。たびたび言うとおり聖人君子でないわれわれ
凡人に訓戒を与えることははなはだむずかしいし、また与えたところが
釈迦、
孔子、
耶蘇の訓戒でさえもいちいち反応ないのに、われわれの訓戒が功を
奏することはおぼつかなく思う。
友人に忠告することは常にあることで、ある意味においては世にありすぎることである。こんなことまで忠告するにおよばんのにと思うことがままある。
しかし忠告する
値があることについても、もっとも注意すべきは時を選ぶ一条である。友人の心の
畑が
耕されているや否や、英国の
諺に賢人とは正しき時に、正しき言を
放つ者なりとあるが、実にそのとおりで、どんな正しい言でも時ならぬ時に放てば
愚人の言にも
劣る。おそらく多くの人はみな経験があるだろう。
まじめになって、友人を
諫めたためにあるいは
友誼を破り、あるいは他人の心に反抗心を
惹き起こさせて、いっそう彼を
堕落せしむるの
機縁となることがある。時ならぬ忠告は有害ならぬまでも、無益におわる場合多ければ、
葬式に
祝詞を呈し、めでたき折に泣き
言を述ぶるに
等しきことは常識に
任せて
謹みたい。
僕のたびたび引用する『
菜根譚』に、
「人の悪を
攻むるは
太だ
厳なるなかれ、その受くるに
堪うるを
思うを要す。人に教うるに善を以てするは、高きに過ぐるなかれ、それをして従うべからしむべし」
とある。
人を批評するにも、人を判断するにも、また人に忠告を与えるにも、先方の事情を深くかつ同情的に
汲むにあらざれば、われわれの批評がけっしてその当を得ない。かえってわれわれの判断が誤りやすい、すなわちわれわれの忠告は
功を
奏しない。
管仲が戦場で
遁げたからとてただちにこれを
卑怯と批評し
臆病者と判断し、しかして
勇敢なれと忠告した者があったならば、おそらく彼は腹の底で笑うのみであったろう。彼を知る
鮑叔が彼を
目して臆病者とも卑怯者とも言わなかったのは、彼の人となりと、彼の事情を知っているからである。
僕はずいぶん異なった境遇に
遭遇したあまたの人に接して考える。教訓も忠告も、その百分の一も功の無きはこれを受ける人の真情に当たらぬのと、これを受ける人に対する同情の
薄きによると思う。約言すればとかくわれわれの忠告なるものには誠意誠心が欠けがちで、軽々しくするがゆえに、先方を動かさぬは当然のことである。人に忠告せんと思う者は口に言を発するに先だちて深く心に念ずるこそ順序であろう。また人より忠告を受くるものは先方の誠意を疑ってはならぬ。彼の言は長く心中に念じたる結果、やむなく口外に
出でたるものと思えば、これ実に天の声である。
貝原益軒がものせる『
大和俗訓』の中に、忠告に関するまことに
穿った教訓があるから、左に
抜萃する。
「およそ人を
諫むるには、人の気質によりて
直諫、
諷諫の二つの法あり。知らずんばあるべからず。その心
和順にて義理明らかなる人ならば
直諫すべし。直諫とは
過ちをいいあらわし、
理をすぐにのべて、
是非をまげず、つよく
諫むるなり。かくのごとくなれば聞く人おそれて従う。
孔子の法語の
言とのたまう
是なり。また気質
和順ならず義理くらき人ならば、
諷諫すべし。
諷諫とはただちにその人の
過悪をさしあらわしていわず、まずその人のよきところをあげて
誉め、その人を喜ばしめ、その人の心に従いてさからわず、ただその事の
損なると
益なるとを説きて
得心せしむべし。あるいは他事によそえて善悪
得失を述ぶべし。かくのごとくすれば聞く人、はらたたずしてよろこびて
諫めを聞きしたがう。
孔子の
巽与の
言とのたまえる
是なり。人をいさむる法はこの二つなり。その人の気質によりていさめの法かわるべし。直諫するこそ本意なれども、正直に強く
諫めても聞く人の耳にさからいて受け用いざれば益なし。
名君賢者ならでは
直諫によろしき人は
稀なり。よのつねの人ならば
諷諫すべし、諷諫をよくして人のよく聞き入れたるためし多し。是いさめのよき手だてなり。いさめの道を知らで
辞をあらくして人にさからい、みだりにいえば人怒りて必ず聞きいれず。人に益なくしてわが身のわざわいとなる。ことにわが親に直諫して腹立たしめ、親よろこばざれば親子の
中うとくなる。大なる不幸なり。親をいさむるには法あり。
易に
曰『
納レ約自レ』、まどは明らかなるところなり。たとえば家の内にある人に外より物を言い入るるに、
壁越にいえば聞こえず、
よりいえば聞こゆ。
諫めを言うも
亦かくの如し。いかなる
愚なる人も、必ずいずくにぞ
片はしに道理開けて明らかなる所あり、或いは好む所の
欲あり。その所をよく見つけて言い入るれば聞き入れやすし。この
諫めようのよきこと
古もさるためし多し。ふさがりたる処を知らずして、いかに
忠をつくして
諫むとも、聞き用いざれば益なし」。
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いかなる文字でも、善き意味にも悪き意味にも用いらるるが、
感情なる言葉ほど、ときには善く、ときには悪く用いらるる言葉は少なかろう。人を
讃めて言うときに、あの人は感情家であるから、言うことが活気があるとか、あるいは精神がこもっているなどという。これに反し、あの人は感情家だから、議論が学理の
軌道をはずれ、とかく横道に走るともいう。
いったい感情は読んで字のごとく、われわれの
感覚といわゆる
人情との二つを含むものであるから、善くもとれるし、悪くもとれると同じく、正しきにも走り、正しからざるにも走りやすい。感情はいわば一種の力であって、感情あればこそ思想も力を
添え、感情の力なければ、人の考えはとかく冷淡にして働きに現れることは少ない。よし現れても、その
運動量が弱い。
感情は意志や思想に力をつけるものであるゆえ、誤った思想に感情が混じると、その誤りがいっそう恐ろしくなる。ここにおいて、僕はしばしば感情の教育ということを口にするが、人の感情をして私を去って
潔からしめたならば、
自ら正しき思想に
結びついて、偉大なる力を
惹き起こすものであるが、もし感情にして
卑しい
女々しいものであれば、することなすこと小さくなって、偉大なる思想さえも、小感情のために、大きなところを失って
縮まってしまう。おたがいも折々見ることで、知り合いの人のなすことを
傍観しても、
思慮はたいそうよく、すなわち思想においては間違いはなくとも、これを実行せんとするにあたり小さな感情から割り出すがために、とかく
卑劣な
穢い挙動に終ることがままある。あるいは人の思想をまたは行動を判断するについても、小さな感情をまじえてするがために、せっかくの大きなことも善きことも充分
認識せられないでしまうことが多い。
イギリスの
諺に「いかなる英傑も
彼の
側に
侍る
小姓の
眼には偉大と映じない」とある。これ英傑が偉大ならざるにあらずして、
小姓が偉大ならざるがためである。それと同じく、小さなる感情を
挾む人には、いかに善きことも、いかに
大なることも、けっして真の性質を
会得しえない。僕
自ら古今の英雄や
豪傑を批評するにつけて、小さなる感情よりすることをたびたび恥ずかしく思う。
僕が数年前、米国に留学していたころ僕の下宿屋の主婦とリンカーンの
人物評を試みたことがある。この主婦は、もとはその家柄は
卑しからぬ者で、南北戦争のさいには南軍
方であって、最もリンカーンの政策に反対した者であったためか、リンカーンの人物を評するにも、その時の感情を
はさんで、彼に関することならば、なにごとも曲解する傾きがあった。してこの曲解に対して、わが輩が一々
弁護したところが、最後の反対論として、
「だってもリンカーンという人は非常な
醜男子でしたもの」
とあたかも彼の
容貌の
醜なりしことが、最大の罪悪でありしがごとく述べた。
これほど明らかに口に出さなくとも、これに
負けないほどの不合理な理由から、人の批評をしたり、歴史の事実を判断するものは
許多ある。なかんずく無学な者か、あるいは少しばかりの学問があってもことさら婦人の仲間に多いと思う。婦人が往々にして身を
誤つなどは、これと同じ
筆法より、人を判断するからである。あるいは一
席の歌を
聴いて、その声が善ければその音声のために感情を動かされて、他のことにはなにも眼をくれない、ついに
蓄音器の代用たるべき者のために身を誤ったりする。
一口にいういわゆる「
様子がいい」人、すなわち
木偶同然の者のために身を誤るのはすなわちこれである。
また相応なる位置にある立派な人でも、かたわらにいる者のために、おべんちゃらをもって、あるいは
御追従をもって、その感情をやわらげられて、判断力を失うことは歴史にたくさんある。一身を誤る理由の多くあるうちにも感情ほど
大なる力はおそらく少なかろう。
学者の説によれば人類の進歩は思想において発達するとともに、感情はいよいよ
鈍くなるという。ことごとくこの議論には
敬服はせられぬけれども、議論にあらずして実際において、
劣等人種もしくは
修養なき者は感情ことに小さな
女々しい感情に左右せらるること多きを思って、僕みずから感情家たるゆえか、これこそいちばん改革すべきところであると思う。
米国においては四年ごとに
大統領の改選が行われる。一期ごとに選挙はさかんになり、党派もふえる。したがって候補者の数も増すために、
世人の議論がなかなかやかましくなる。一家のうちでも二つに割れ三つに割れているところさえもある。
しかるに彼らの論ずるところを
傍で聞くと、
地質学者が
化石を科学的に
攻究するごとき調子がある。甲の候補者はかくのごとき長所があるから、よろしく選挙すべしというと、乙の候補者の特長は、甲に対してこう
勝るとか、あるいは彼らのたがいの短所がどこにあるとか、すこぶる冷淡に論じて、たまたま議論が
極端に走って、
容易ならぬ結果に
陥るかと思えば、政治論はそれだけで、他の点において
親しく談話をする
様子は、わが国においてはなかなか見えないことで、このことは
独り政治にのみ関してしかるわけではない。
日々の事業について、実業家がその職業を
営むにつけても同じこと、おのれが
損したからとて、みだりにその罪を他人にかぶせるようなことはない。むろんそのかわり大いに成功したからとて、他人に
感謝する感情もないように見受ける。
西洋の新聞や雑誌に、しばしば日本の実業家の
品性すなわち商業道徳なるものを
難じている。われわれとてもいかに
讃めたくも、日本の商業道徳を西洋のそれに
優るとはいいかねる。
否大いに
劣ると言わざるをえない。その理由は
許多あるが、僕がここで言いたいことは
唯一点である。
すなわち日本の実業家はおのれの事業中に感情を
はさむの欠点あることである。無論よくいえば、冷たい金銭に人情を加えるのであるから、かえって
高尚らしくも聞こえるけれども、それは
慈善をなすときか、友人を祝うときか、
霊前に
供うるときのことで、事業のためには、金銭は単に無心無情の
器械である。ところがその器械に一種の感情をつけ加えるのがかえって間違いの基となる。
失敗すると、失敗の
本たりし理由を
人格視して、あの
金のために
祟られたとか、あの機械のために一身を
亡ぼしたとか、ついにはこれを供給した人にこの
怨を
被せ、
何の
某はあれほど
老練であるから、この事業の失敗することはわかっておったろうに、なにゆえおれに出資するとき注意しなかったろうとか、某はおれの性質をよく心得ているに、金だけ貸して一言の忠告しなかったのはひどい。某は大いにわが輩の着手するときに賛成したのを見ると、わが輩の
倒るるのを予期して、かえって事あることを心ひそかに喜んでいるであろうとか、某は初めのうちは大いにわが輩に注意を加えて手出しをしないように
勧めたが、真にこういう失敗のあることを予期したならば、なぜ、もすこし強く警戒してくれなかったろう。ちょっといい加減に注意するくらいは、かえって不親切である、などの議論はわが輩もしばしば聞いたし、読者も必ず聞いたろう。また、なかには言うた人もあるかも知れぬ。
また事業と感情とを混同する事についていうべきことは、外国ではたとえば
注文の
日限に品物ができなければ、むろん
契約破棄となる。日本とても法律上はそうであるけれども、東西の違うところは、西洋ならばおたがい知人のあいだでも Business is business で、
私の交際と取引上のこととは別として考える。日本ではこれに感情をただちに入れるから、ことが
縺れてくる。ゆえに前に述べた約束の時期に、品物ができなければ、感情に
訴えて申し訳をすることを計る。自分が病気であったとか、あるいは
親戚に不幸があったとか、子供が
怪我をしたとか、出産したとか、取引にまったく関係なき一家のことをもって、申し訳に供しようとする。
借財の
返済も同じことである。もっとも借財が、一家の生計のために借りた金であれば、一家の
都合によって返済の
能不能も定まることであるから、感情的の理由も通る場合もあまたあろうが、借財が事業のために
負ったものならば、一身上あるいは一家上の
都合は言うべきものではないと思う。かく入るるべからざるところに、感情を入れるから、人の交際が面白くなくなってしまう。せっかくの親しい友達のあいだが破れることなどもよく目撃することである。
普通にいう
癪に
触るとか、虫が好かないとか、はなはだ
漠とした言葉をもって、われわれの感情的の
作用をいいあらわしているが、この
癪、この虫がわれわれ日常の生活をどれほど害しているのか、
統計に積もると大したものであろう。
なにかの会合に出席しても、この虫がいなかったならば、有益にかつ
愉快に過ごしうるだろう。合理的の事故なくして不愉快に思ったり、途中歩いてもなんの理由なく、見ること聞くことが気に
触ったり、家へ帰ってきてもまた同じく一生
世を面白くなく渡るのは、とかく
詰まらぬことに感情の作用をたくましくするにあることを思えば、われわれは
勉めてこの害を
矯めるようにせねばならぬと思うが、僕はけっして英米人をそのまま
傚って
彼の
風に
化せよとはかつても言ったこともない。また今もなおそういう議論は主張しないけれども、彼らにくらべてわれわれが世渡りするに、少なからず損をしていることは確かである。
善悪
正邪はとにかく、
損徳の点から
打算しても、なんの必要もなきところに、感情を
費すことはおろかな
業である。僕はかつて精力の
貯蓄なる題のもとに、精神の力も貯蓄すべきことを論じたことがあったが、感情の貯蓄についても同じような
説をときたい。
ただ読者に
誤解なきよう願いたいことは、
高尚または有益なる感情をも殺せという意は僕に
更にない。すなわちさきに言うた感情を貯蓄せよなる言葉の内に、感情を有することの望ましきを
含ましてある積りだが、ただ感情の入って
邪魔になるところに、感情を
入るるべからずというに過ぎぬので、さきにいった商業家の
取引あるいは政治の党派論のごときはもっともその適例と思う。学理あるいは歴史の研究についてはいうまでもない。昔のシナの学者も
道心と
人心と区別して説いたそうである。道心は
人心のその正を得たる心と
王陽明は説いたが、
正を得るとは、
人欲のまざらないところで、つまらぬ感情のなきをいうところであると思う。
すなわち
客観的に冷静にものの理を求むる心である。これに反し、人心とは道心のその
正を
失ったところで、
我田引水的に勝手しだいの
理屈を案ずる心理
動作で、自己の感情によりて万事を判断する心である。自己の希望がものの
理と
符合すればよいが、なかなかそう
甘くゆくことが
少ないから、結局感情に
駆られて
為すことは、
理に
背くこととなりやすい。
さらに注意したきは、友人あるいは会合において討論するさいなどには、一層この点に注意しないと正々堂々たる議論はそっちのけになって、
人身攻撃のごとき、あるいは
卑怯なる言葉に
陥って、自己が弁護せんとする議題をもかえって
損われ、加うるにおのれの
人品まで下劣にすることは
往々にして見ることである。理屈において
負けたならば、一本
参ったと
綺麗に
敗ければ男らしくもあり、かえって自分の主張に
泥をつけないものとなるに、おのれの議論が弱いときには、その弁護に感情を
含まして、みすぼらしい論法など振りまわす。よし
皮肉をもって一時勝利を得るにしても、その実は敵に
敗けたものである。
ことを論ずるにあたり、
悪口雑言をはさむのは、
理は
尽きて、自己の主張の論拠のなきを自白すると同然である、つまり負けた証拠にほかならぬ。思想と議論はあくまでも冷静たるを要す。また実行と
性情はあくまでも熱烈たるべし。ことにあたるに
果断なくてはならぬが、その果断も一時的感情より来たるものは
誤りやすいから、
思慮の上にも思慮をめぐらして、定めねばならぬ。「果断
義より来たる者あり、
智より来たる者あり、勇より来たる者あり。義と智を
併せて
而して来たる者あるは上なり。
徒らに勇のみなる者
殆し」
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世の中を見渡すと、職業とこれを営む者とのあいだの釣合いが当を得たものと得ないものとがあることは、
何人も意外としないものはあるまい。両者の関係はちょうど夫婦のようなもので、世には、
似た
者夫婦もあれば、いかにしても釣合いの説明できぬような場合も少なくない。昔の人も円きものが三角の穴に入らんとし、四角のものが円きところに
箝らんとするといったが、実にそのとおりで、おそらくなんの職業にしても、これに従事せる人につきいちいちに調べたならば、もとよりその職業につく目的をもって進みきたり、かつ現在の職業に
甘んずる人は百人に一人あるや否や我らは大いに疑わざるを
得ない。
自分の知れる人について考うるも、現在の地位に甘んじ、かつ得意でいる者ははなはだ少ない。たまたまそういう人がありとするも、そは年来の予定の行動の一部をなしたのでなく、むしろ計らずその地位に
箝ったという場合が多い。
たとえば法学士にして某職にある者に
質せば、中学時代よりその目的としたる位地に達したと答うる者は百人に一人もあろうか疑わしい。まして
秩序的教育を受けぬ人は、おのれが望むがままに今日の地位に進める人はほとんどあるまいとまで疑われる。
少し年老った者は年若い者いわゆる後進者より職業
選択について相談を受けぬ者はほとんどあるまい。あるいはすでに一定の職業にある者よりしてなお他に
活路を求めたき希望を
訴えられぬ人はなかろう。
わが輩もかくのごとき相談を、平均したら三日に一度ぐらいの割合に受けている。はなはだしきは簡単なる手紙をもって、自分の
姓名と生年月日とを
認め、これに現在の職業を書き加えて、他に発展の
途を講じたいが、何をなしたらよかろうかと、あたかも
卜者に
尋ねるがごとき信書がくる。わが輩も返事に
窮し
躊躇していると、三銭
切手を封入せる以上返事をうながす権利があると
催促されたことも一、二度でない。
いったい自己の職業選定に、
毫も知らぬ他人に相談することがすでに大なる
誤りである。前述のごとき場合には、僕はつねに親はもちろん、その他親類、親友なりもしくは土地の
先輩にしてよく当人の性質をわきまえる人に相談せよと返事する。いかに
詳しく
認めても、一
片の手紙におのれの性質をいい現すことは、とうていできることではない。よし筆はいかに達者でも、書くべき材料、すなわち自己の性質を客観的に
記叙することはおそらく不可能であろう。したがって一
面識だもなき人に自分の
生涯を左右する職業の選定を相談しても、けっして満足な返事は得られぬと思う。
ある具体的の問題あり、かくすればかくなり、こうすればこうなると、
理詰で判断はできるが、自分はだいたいの
見地よりこの問題を見る力なく、
取捨去就に迷うゆえ、いわゆる先輩の判断を
乞うというならば、知らぬ人に対しても相当の考えを立て判断を下すこともできようが、その性質および周囲の事情に深き関係を有する職業選定は、日ごろ交際ある人にあらざればなかなか判断のできるものでない。
おそらく職業の
選択は
細君の選択よりもいっそう困難であろう。細君の選択には
往々にして
媒介者の言に一任し、しかして結婚の式を挙げたのち、始めて両者の
気象の合わぬことを発見し、離婚する場合がはなはだ多い。世界の文明国中で離婚数の多きこと日本のごときはなしというも、要するに選択に注意せぬためであろう。ましてさらに困難な職業を選ぶに、見ずしらずの他人を頼み、あるいは一時の感情にかられて決定することは危険のはなはだしきものである。
わが輩はいま感情にかられるといった。わが輩はあえて感情そのものが悪いというのでない。ことにあたるには熱するくらいになるがいい。熱するというのはすなわち感情の
昂奮する
謂である。しかしことにあたるか否かを判断するときは、
須く感情を
避け冷静に
是非曲直の判断を下すを要する。
折々青年にして時々の新聞を見て大いに
憤慨し、その日の感情により自分の将来の職業を定めんとする者がある。軍国の際のごときことに
然り、将軍の
凱旋を見て、おのれも軍人にならんと思い、某代議士が演説に
大喝采を得たるを聞いては、おのれもただちに代議士たらんことを思い、あるいは実業家が
拝謁を賜わりたりと聞き、おのれも実業家たらんと思うように、一時の現象に
眩惑されて
終身の方針を定むることは、必ず悪い結果をもたらすとは断言されぬが、
危険が多いとはいいうる。
いったい「三つ
子の
魂百までも」というがごとく、
何人にも幼少の折、漠然とした職業選定の
傾きが心に備われるものである。いわゆる学者向きであれば研究的にできており、あるいは才子的のものもあれば、あるいは事務的のものもある。人はおのおのその心の
構造を異にしている。ただ自分も判然とそれを自覚しなければ、世間の人は無論、親さえも明らかに
観察することはできない。しかるに、この
混沌たる
有様のなかにも、おのずから
輪廓だけはぼんやりと現れている。
鶏卵にたとえていえばちょうど
黄身も
白身もまだ判然と分かれておらぬ程度である。それが
月日を
経るに従い、黄身は黄身、白身は白身と分かれ、さらに進んでは頭もでき、手も足もそなわり、一つの
雛に
化するように、きわめて幼少の折から自然的に各分業的の
萠あるものである。しかるにこの
観念ははなはだ
漠としているゆえ、前述のごとく自己の認識にのぼらぬのである。
しかるにある外部の
刺激によってこの自覚が急に鮮明となることがしばしばある。
天性軍人になるべき資格を
孕める者が一
日新聞を見て始めて自己の
天職のいずれに存するかを発見するがごときはそれで、かくのごとき場合においては一時的の感情と見ゆるものがけっしていわゆる一時的感情にあらずして、先天的感情の
発揮である。ゆえに職業を選ぶにつき一見一時的感情とみゆる動機によりて定むることも必ずしも誤りなりとは言えぬ。
一
日、
横山健堂氏より
故伊藤公に関する
趣味多き
談を聞いた。
公がかつて
吉田松陰先生の
塾にいたとき、一夜、他の
塾生とともに
炉を囲んで談話しているあいだに、公は時の
長州藩の家老が人を得ないことを
憤慨した。これを聞いていた
松陰先生は、平生は女子のごとく
柔しくしてめったに大声だも発せぬ人であったにかかわらず、この時にかぎり声を
励まして、
「
貴様の言うごとく
自ら天下を料理する考えを
真面目に有するなら、
長州家老の
適否のごとき
歯牙にかくるに
値いなきものである。しかるにいま
貴様の言を聴けば、それはやはり家老どもの力を
藉らねば、天下が治まらぬというごとき
卑怯の意志あることを自白するにほかならぬ。そんなことで天下の
大勢がわかるものか」
と
叱咤した。つねになき激語を発したので
弟子どもも一時はあっけにとられたという。伊藤公は多数
塾生の面前でかく
叱られ、心に恥じたが、さすがに伊藤公だけあって深くこの教訓を心に銘じ、この時より自分のあらゆる能力をもって天下のためにつくさんことを決心したと、数年後
帰省されたとき旧塾のなかでこの述懐談をしたことがあるという。
伊藤公が先生に
叱られたその
瞬間に起こった一時の感情が同公をして政治家たらしめたかと
質せば、その時始めて「
寝耳に水」のごとくこの教訓が公の
耳朶を打ったとは思われぬ。また
松陰先生にしても誰にでもこの筆法をもって
鞭撻されたとも思われぬ。日ごろ先生が公に見るところあり、この機に乗じて一
針を加えたにすぎぬ。また伊藤公にとりてはこの一言を
含味しうるだけの素養がすでに胸中にあったから、その決心は一時の感情のごとく見えながら、しかもその実、数年来胸中にしらずに
蘊蓄された
熟慮を引き出させたのである。
しかしこれは
独り伊藤公のみでない。ときどき凡人の間においてもまた同様である。僕の友人にもまたこれを証明すべき適切の事例があるから、ここにこれを挙示したい。
彼は青年時代、学校にあるやいずれの学科も人並にできたためにかえって職業の選択に大いに迷った。ある時は実業家にならんと考えたこともあるが、子供のときには政治家になる望みがもっとも強かった。そののち世の中の
腐敗を聞き宗教家にならんとまで
考え込んだことあり、また学者となって身を立てようという考えを起こしたこともある。
しかるに彼が十九歳のころなりしと聞く。一夜北国にありて月明に乗じ独り郊外を散歩し、一
軒立ての
藁家の前を通過せんとした。ふと
隙漏る光に屋内を
覗うと、
炉を囲める親子四、五人、一言だも
交さずぼんやりとして
安を
貪っていた。そのころ彼は、宗教家たらんとの念が最高潮に達していたときであったが、この
有様を見、この考えが急に一転した。というのは親子夫婦
共働し、雪を
踏んで家に帰れば身体すでに
疲憊し、夕食を終ればたがいに物語るだけの元気も
失せ、わずかに拾った
薪に身を
暖め、
安を
貪るがごとき
輩が、どうして教育や宗教などを考うる
余地があろう。彼らをして人間らしい精神をもたせるには、まずなによりも衣食
足るの道を講ぜしめねばならぬ。
さりとて衣食の
充足のみに進ましむればただ
奢侈に流るるのみである。衣食充足の道を講ずるとともに、精神的教訓を与うることはもちろん必要であるが、ともかく下層階級の経済状態を改善するは、すべての改良の根本なりとの観念に打たれ、その
翌日より倫理学、心理学の書をかたづけ、急に経済学の書を読み始めたという
談を聞いた。これだけの
談を聞けば、彼は一時の感情に打たれて職業を決したようにも思われるが、また
詳しくその事情を聞くとこの考えに到達するに順序があったようである。すなわち彼の先代の関係だとか、あるいは彼の北国における境遇とかいろいろさまざまの勢力が知らずしらず彼をある方面に向かわしめていたのを、この冬の一夜の出来事がいよいよ自覚的にこれを決定せしめたものである。
以上
例示したるごとく
生涯を一貫する職業選定の決心は、能力の多少、位地の上下を論ぜず、一時の
些細なることのために定められる場合は決して少なくないから、前述の一時の感情に迷わさるるなというに対し、この感情は果たして一時的なりや否やという問題を、
自ら提供しておのれに
省み、しかも冷静に自己の真意を分析するを要する。
すなわち約言すれば熱情を冷静に考えよということになる。なにゆえにおのれはこのことにつき、かく熱するかを
篤と攻究したいのである。
凝っては思案に
能わずと、
古人も教えている。
凝るとは熱するの
謂である。ものを思い込むと他を顧みる余地も余裕もない、ゆえにとかく
過ちを生じやすいのである。もっとも実際にことにあたるときは他を顧みず猛進せねばならぬが、ことにあたるか否かを考うるあいだは
凝ることは
禁物である。しかるに青年の一大特長はものに熱するにある。二十代前後は感情のもっとも
旺盛なとき、三十代前後は
手腕のもっとも発達するとき、四十前後は知識のもっとも発達するとき、しかして五十前後は思慮のもっとも深いときである。
青年は知識にも思慮にもまた
手腕においても、まだまだ不足あるかわりに、ある命令のもとに仕事するときはもっとも熱してあたる。これが彼らの特長なると同時に、方向を誤ることもまたこれより起こる。彼らは思慮も熟せず判断力も
固くないから、見るもの聞くものその他すべて五感に触るるものによりて心の底までも
動揺されやすい。かく動揺されるときは、さなきだに思慮
分別の
熟せぬ青年はいよいよ心の
衡平を失い、
些事をも
棒大に思い、あるいは反対に大事を
針小に誤る傾向がある。これも無理ならぬことで、実際のことにあたり責任の地位を踏めることなき者は、なかなかに自己の言行のおよぼす範囲を適当に
計量することはできぬ。青年にこの弱点あることは青年自身も
承知している。承知しているゆえ、いわゆる
先輩の意見を
叩き、職業を選定せんとするのである。
しかし先輩がいかに思慮あるとも、いかに判断力を
備うるとも、青年がある事に熱するゆえんを
容易に判断しうるものでない。たとえば政治家たらんと熱する者ありとせよ、なにゆえに政治家たらんと熱するかと聞かば、必ずや天下人心の
腐敗とか、政党
宜しきを得ぬとか、ひととおり
何人も
首肯するような理由を述ぶるであろう。しかるにこういう
漠然としたことでは、なかなか熱心ということは起こりがたい。ゆえにさらに深く立ち入りてその理由を
質せば彼の熱心せる理由は必ずしも政治に関係するものでないようなことが出てくる。
某が自分の村に政談演説したとき熱烈なる
拍手喝采を得た。それが彼の心を動かしたという場合には、彼の熱心は政治のためにあらずして拍手喝采のためである。拍手は政治にあらず。また実業家を志望する人に聞けば日本は
貧乏であるときまりきった議論を述ぶる。しからば今日急にそのことを思いつき、その方面に
猛進せんとする
志はなにより起こりしかと
質せば、これまた実業になんの関係もなきことが
導火線となれることがある。
たとえば
某令嬢を
慕いたるも実業家ならねば
嫁せしめぬというを聞き、実業を志望したというがごとき
滑稽的動機すらも現にわが輩の耳にしたところである。かくのごときはおそらくは自分も知らずに行えるので、
滑稽な動機に動けることに気づかずにいるのであろう。
かくのごとき
誤解を
生ずるのは、要するに自分の一個に関する具体的の事実をば、
抽象的文字をもって説明するから、その説明がかえって真情を離れ、世間に対する聞こえはよいが、実際にはあてはまらなくなるのである。抽象的の文字を使えば意味の範囲がひろくなり、
高尚に聞こゆるかわりに、また他の意味をも含んでき、したがって自己の場合にまったくあてはまらなくなることがある。たとえば飲みたい食いたい、それについては金を
儲けたい、金を儲けるために
何品を幾円で買い、これを幾円で売れば幾円を
儲けるという具体的問題ありとする。この動機は飲食の
欲である。これを満足する方法として商売し、商売の目的は何千百円を
儲くるにある。ことを始むるときは
爾く具体的に細密にもくろみするが、しかしこれを人に語るときは私は実業に従事するという。
実業といえば抽象的文字である。したがって意味が広い。そのなかには商売のみならず、工業農業も入る。保険、運輸の事業も入る。これに従事するとなると
丁稚小僧となり自転車で走ることも、
炎天のもと、
裸足で畑に草取りするのも、自動車で会社に出勤することも含まれ、範囲が非常にひろくなる。なにを商売して何円
儲けるという具体的希望が、実業従事という
抽象的言葉にいい現されると、実際から遠いものとなる。
物理学にいう
固形体のものを
流動体に変じ、ガス
体に変ずるがごとく、
嵩は大きくなるけれども、つかみどころがなくなりがちである。ゆえに職業を選ぶにはそもそも自分がある職業を志願し
志を立てたときの具体的
境遇、
情実をしずかに考うると、その志望がいかに根底あることか、また一時の軽々しい動機に起こりしかわかるであろう。
すなわち
抽象的のひろい意味の言葉を用うるにいたった
本にさかのぼって、しずかに考えると思い半ばに過ぐるものがありはせぬか。大きなひろい意味の言葉を用うるときはしばしば
自ら
欺くことがある。わが輩はとくに職業を選定せんとする青年に自己の動機を
回顧せんことを
勧む。先人の言に
曰く、
「
凡そ人事を
区処する、
当に
先ずその結局を
慮り、
而して後に手を下すべし、
楫無きの舟を
行る
勿れ、
的無きの
箭を発する
勿れ」と。
して
楫を
執るとき、
箭を放つときは心静かに落ちつけて、よくよくおのれの力先きの方向に留意するを要する。
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目前の現実世界を離れて、しばらく人生を理想化し、理想の天地を追うの美点はいわゆる老人になると次第に減じてゆくように思われる。かく理想の減じゆきて実際的になるのをもってただちにこれを着実と呼び賞賛する者もあるが、わが輩から言わせるとこれは俗化して若き
気象がなくなるのである。すなわち青年においてもっとも愛すべく、もっとも
尊ぶべき、
高朗なる性情が消えるのである。「
大人にしてなお
赤児のごとし」という語があるが、しいて赤児のごとくにならずとも、すくなくともいつまでも青年の
気概を
失わずにあるを要する。「あの人は年とってもいつも若い気でいる」という語もしばしば聞くが、これも意味がたくさんあるではあろうが、しかし僕は年齢にかかわらずに理想にあこがれる人という意味に解釈し、いつも若い気でいる者は実に尊敬すべき価値ある人なりと考える。かくのごとき人の心には余裕がある。すなわち
生木のようなる
弾力があって、世の
変遷とともに進む能力を保留している。「
老木は
曲らぬ」とは
邪道に迷わぬの意より弾力なきを笑うの言である。
およそ何事においても行きづまれるは
見悪きものなるが、ことに理想において行きづまり、若い気のなくなった人は、まるで
枯木に弾力なきに
等しく実に
みすぼらしい。また自分にはこれ以上に希望なしとて、現状ですでに得意がりあるいは落胆している人は一層気の毒である。ところが誰でも少し油断すると
小成に
安んじ、これでよいという気になりやすく、しからざればなにごとについてもいたずらに不満の声を高くして、一見理想があるようにも見ゆるがこれ必ずしもしからずである。いわゆる成功なるものは多く理想の低き人の口にするところで、十円の月給をもらう人が百円を目的とし、その百円の月給を得るにいたれば、これを成功と称し
自ら安心する。これあるいは成功であるかも知れぬ。しかしながら物質的目的を達するをもってただちに理想とするごときははなはだ
当を得ないことではなかろうか。
欲心と理想とはちがう。欲は迷想とこそいうべけれ、理想とは称しがたい。
事たれば足るにまかせて事たらず足らで事たる身こそ安けれ
という歌は子供も知っているが、月給の増すのをもって目的とし人生の理想なりと解釈しておるならば、「
事たる
身こそ
安けれ」というような、安心の時代はとうてい
到来せぬであろう。
しかるに理想はこれとは別方面のところに存するものである。月給等の
形而下のことをのみ欲するを理想と呼ぶのは
大なる誤りであろう。ゆえに右のごとき月給の増減によって理想の例に用うるは
当を得ないことで、理想といわゆる成功とは必ずしも同一方面に共存するものでない。
なんとならば月給とかその他の物質的
形而下の
事柄については不足を
甘んずるのがむしろ理想ある人のすることである。ゆえに
俸給が上がって喜ぶはよいが、それだけのために喜ぶのは
感服できぬ。上がらなくとも喜んでいたい。
否下がっても喜びたい。であるから、いわゆる立身したとて、たちまち、「
吾は得たり、成功したり」と考えるのはまことに望ましからぬことである。これすなわち彼の「精神の
井戸が
水枯れした」のである、
遼遠なるべき前途を
放棄したのである。
彼の「青年の前途は遼遠なり」とは青年は理想に生きるという意味である。彼がたとえ
若死をすればとてこの遠大なる理想を有するにおいては、これをもってただちに
長命と呼ぶ、なんの
不可か
是れあらんやである。老人においてもまたしかりで、もし年齢において行きづまるも理想において行きづまらずんば、その老人の前途たるや
等しく
遼遠なりといわねばならぬ。その偉大なる希望において生くるの点よりはこれを青年であると呼んでよかろう。もし人、年をとりたくなかったならばよろしく大いに
鵬大なる理想をいだくべきである。
世の賢人君子はいざ知らず、わが輩らのごとき
凡人、あるいは凡人以下の者は、
姑息かは知らんが、前途をして
遼遠ならしむることを
努め、われはたしてかかる大理想ありや
否やを反省する必要があると思う。すなわち賢人君子の
眼よりせばあるいは
児戯に等しいかは知らんが、青年時代の希望の実状を
印してこれを現今の実際と照合し、もって理想の
規矩にあててみるのである。いっそう具体的に述ぶればあるいは月に一回なり、すくなくとも年に一回、年の終りとか年のはじめに、あるいは自分の誕生日、あるいは親の
命日、あるいは自分になにか特別の意味のある日、
退いて
予ははたして青年時代の理想に近づきつつありや、あるいは
逆戻りせぬかと深く
省るのである。しかるときにはおそらく十人のうち九人ないし十人までが種々なる名目のもとに逆戻りしていることを発見するであろう。
して種々なる名目とは、すなわち俗才とか、実際とかいうごとき、あるいは現今の社会状態とか、あるいは世の習わしとか、友人の
勧めとか、時勢の
変遷とか、
娯楽の必要とか、生理的要求とか、ちょっときくともっともらしい名目のもとに、青年時代の
溌剌たる理想に遠ざかれるを発見するであろう。老いてもなお青年の活気と理想とを持続せんには折々自己に
省るに
如くはない。
省て退歩せる点あらばさらに理想に向かって
奮励努力一番し、かくしてつねに若い心持ちで向上する。これすなわち僕の若返りの
工夫である。要するに
脳髄のうちに折々
大掃除を行って、
煤、
埃、
芥、
枯れ
枝等をみな払うことをしたい。
われわれの年寄るというは精力の枯れるの
謂である。よし身体が弱り果てるも、心ばかりは
老耄たくない。よし
老耄ても、
愚痴だけはいいたくない。
僕はつねに思うに、庭の樹を見ても年々歳々同じからずして、
老行くとともに元気も衰えるが、手入れをしたり、肥料をほどこすと、再び
色香を増すを見る。樹そのものは弱りても、その境遇を
刷新すれば、
甦生するの
勢いを
顕す。
死灰再燃、人も同様、身体が弱れば
食物を変えたり、転地
療治をしたり、温泉に
浴みしたりして健康を回復するが、住居も変えず、居ながらにして心的境遇を一変する方法もあろう。
山深く何か庵を結ぶべき心のうちに身はかくれけり
一身を物的境遇より
退かせて、心的境遇に入らしむることも、これまた
麒麟老ゆるも
駑馬に劣るに至らざる
工夫。木は根あればすなわち栄え、根
壊るればすなわち枯る。魚は水あればすなわち
活き、水
涸るればすなわち死す。
燈は
膏あればすなわち
明、
膏尽くればすなわち
滅す。人は
真精なり、これを
保てばすなわち
寿、これを
えばすなわち
夭す。
かの哲学的詩人として有名なるブラウニングの句に the last of life for which the first was made とあるが、僕は日ごろこの句の
津々たる興味に感嘆する。意訳すれば、
「人生の終り――これぞすなわち深く人生の始めの作られし目的」
嗚呼実に然り。人生の起これる
所以のものは終りを
完うするにあらざるか、
事に始終あり、始めは終りのためにして、終りは始めのためならず、草木の
発芽するは花咲き、
実を結ぶため、人の生まるるは
熟して死するためなれば、幼少青年時代は
準備の時代で、人生の目的時代はその後に存すると知れば、青年時代の活気を
憧憬するは
蝶を花を楽しむに異ならない。なるほど若年のころは
花やかなるはいうまでもないが、頭の白きも、
額の波も、
華化することはできぬであろうか。
俗の
諺にいう「
老木に
花を
咲かす」とは不可能なるか。僕は『
古今和歌集』のなかにある菊に寄せたる一首を読んで、さすがに菊は長命のシンボルなりと少なからず趣味を感じ、なお老いてもよく菊のごとく老の花を咲かせ、老の
香を放ち、老華の若葉に劣らぬを示すこそ、老の身の使命であろう。
色変はる秋の菊をば一年にふたゝび匂ふ花とこそ見れ
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かつてベルリンに在学のころヘルムホルツ博士の名が世界にひろく
轟いているので、僕の学問にはなんの関係もなかったけれども、好奇心にかられて先生の
講釈を一度聞きにいったことがあった。医学の講義をドイツ語でされるから僕が聞いてはわからぬことは言うまでもないが、先生の試験がよく眼に見えておぼろげに理解しえた。講義の大意も多分こういうことであったろうと、その時深く頭脳に
印象し、今日もなお忘れない。
試験は
蛙の
筋肉を取ってこまやかな糸のごとき一部分を
秤にかけて、この筋肉をもっておのれの重量の何倍ある物質を
支えうるか。すなわち
筋肉の力を証明する主意と心得た。この試験によると、蛙の筋肉はおのれの重量に何十倍(何百倍?)の重さをみごとに
支えたので、学生が大いに
拍手喝采して、なおいっそう僕の印象を深めた。
たぶんこの簡単なる、また
素人にも理解しやすき試験は医科大学あるいは諸所の医学試験でも教授の材料となっていることであろうが、
門外漢の僕には人体(試験材料は蛙でも人間の筋肉でもあまり変りあるまいと
想像する)の内に恐しき力の
潜伏していることを思った。この試験の割合であらゆる筋肉の力を用うるわけには無論ゆくまいが、もしその十分の一の力を
発揮しえたなら、おそらく今日十五、六
貫目の我々の五体をもって、米の四、五
俵は
朝飯前に二、三里の道を
運搬することができよう。
僕みずからたびたび感ずることなるが、あるいは神経衰弱だのあるいはリュウマチスだのあるいは
胃弱だのと、その他種々の
故障のために、
天賦の力の百分の一も利用せず発揮もせずに一生送る者は、この人体に
潜伏せる力について深く考えたい。
たぶん読者の中にも同じ経験を有する人もあろうが、僕は何事をしても結了したあとで、
俺は今少しよくできるはずだがなと思わぬことはない。
たとえば演説をする、して終わるとただちに起こる考えは、なんとまずい言いざまじゃないか、おのれには今少しよい思想もあるに。また同じ思想でももっと順序正しく説明出来るはずだに、あるいはも少し面白く述べうるはずだがと、おのれを
怨まぬことはない。
文章を書いても同じことである。
ある問題について
討議しても同じことである。
俺はも少しよくできるはずだがという観念は付き物のように万事について起こる。
自負心であろうかと思うけれども自負心とは違う。またおのれの最善をつくさなかったのかというと、あながちそうではない。
その時の最善をつくしてもこの考えが起こる。おのれの力の深さが三層に分かれていて、平生はいちばん浅い一段の力で事に当たり、幾分か重大だと思うときは、第二層の力を
発揮するが、第三段の深さに
潜伏する力を発揮したことがない心地がする。ゆえにさきにいう何事を終っても、第三層にあるおのれの力が声を発して、
「お前はまだ
俺の力は借りないよ、もいっそう深く考え、もういっそう高く行うにあらざればお前の全力が発揮できないぞ」
と物事につけて
叱るような心地がする。
たぶんこの
知覚についてはわが輩と経験を同じくする人が
許多あることと信ずる。かくのごとく筋肉の力においても、精神的の力においても、各人にまだまだ開発すべき余裕のあるものと信ずる。余裕のあることはまことに結構であるが、一生余裕の
貯えだけで発揮せずに宝の持ち腐れで終わることはどうであろうか。はなはだ惜しく思う。
おたがい、世を見渡しても、一見
優雅なる婦人などが、ときによって大男三、四人ぐらいの力を出すことがある。はなはだ例が
不吉であるが、精神病院にいってみると、やさしい女の乱暴するのを
止めるために大男が五人もかかることを見ると、いかに女の
筋肉に力の
潜んでいるかに驚かされる。僕はたびたび見たが、
雛を
養っている
雌鶏の
傍に、
犬猫がゆくと、その時の
見幕、全身の筋肉に
籠める力はほとんど
羽衣を
徹して現れる。
あるいは今に
忘れぬが、わが輩の七、八歳のころ、故郷にあって
朋輩三、四人と
山遊びしたとき、森の内で火を
焚いた
廉をもって、近所の
百姓に追われて
命からがら落ちのびたことがある。その
後その場におもむき実地
踏査を
遂げたのに、どうして七、八歳の子供が一里余の山道を、しかもあまたの小流を
跳りつ越えつつ走ったろうと考えると、少なくもその時は僕も第三層に
潜んでいる力を出したかと思われる。
わが国従来の教えとして全力を出さぬことを
賞める。すなわち
余裕しゃくしゃくという言葉は、まだ力はつくさないぞ、あとには予備が
控えているぞという態度である。
この態度は独りわが国ばかりではない。
何国人といえども尊敬するところである。リンカーンの年を
経るにしたがってますます人物の高まるのは、同氏にはさきにいった三層どころではない、そのなお奥に四層も五層も深みがあったから、彼の性格を味わえば味わうほど
甘味を感ずる。
これに反し、張りきっておって、二十
貫目の力を二十貫目
始終手先きや足先きに現す者は感心はするけれども、
吾人の深い尊敬に
値しない。
数年前、ある青年と話の際、僕は、君に十貫目の力があるなら八貫目だけ出してあとの二貫目はとっておけといったら、この青年がいぶかって、私の主義はなにごとについても最善をつくし全力を
注ぐということであるんですが、先生のは、あやふやじゃありませんかといわれたことがある。なるほど意味の取り方によって、わが輩の言葉はけしからん言葉である。ほどよく、いい加減にお茶を濁しておけ、一所懸命になるな、熱心は
禁物だというように誤解を起こしやすいけれども、僕の意は決してそういう考えでない。
僕の意をことごとく説明することは、僕にとっては不可能である。かつまたことごとく説明することは僕の意に
背く。考えがある以上はこれをいい現すについて、一割か二割は自分に貯えておきたい気がする。
種までもことごとく
さらけ出すことはしたくなく思う。つねに幾分の
ゆとりが欲しい。十貫目の力のあるものならば、その八分九分だけを用いて、残部は準備として貯えおき、これを資本として十二貫になったならば、その時に十貫出す。十貫を利用して資本力が十五貫にましたなら、その時に十二貫出すと、つねに
余裕を
貯えておいてこれを
種として進みたいと思うのである。もっともこれは
喩の言葉であるから、他の例をとれば十貫のものを使ってただちに二十貫の力を得るというごとき、つきせぬ河の流れの水を引くごとき例をとって、僕の正反対の説を述べることもできるから、はなはだ例は不完全であるけれども、僕の心のあるところだけは読者諸君はわかっていただけたであろう。
右に言ったことをもっとまっすぐにいうと、何事に従事するときも、普通に用うるあらんかぎりの力をつくすべしという言葉とはさらに
矛盾しないと思う。いかんとなれば、普通にいう全力をつくせ、あらんかぎりの力を出せということは、実際十貫目の力のあるものを、一
匁も残らぬほどに十貫目出せということではない。よし仮りに
正直な男があって、十貫目を十貫目ことごとく出したと
見なしても、おのれは十貫目の力よりないものと思ったものが、十貫目の底にいたると、まだまだ底のあることを発見する。単に僕のいった
俺は第一層の力しかないと思っていた者が、一層をつくすと二層にいたり二層の底まで達すると、一層二層に
勝る第三層が発見せられるように、かくのごとくにしていわゆる十分に力を出す者に限って、おのれに十二
分の力があり、十二分の力を出した者がおのれに十五分の力あることがわかってくる。いよいよ進めばいよいよ哲学者のいわゆるパーソナリティー(わが国で普通にいう人格とは違う)の
大を知る。
かく述べたならば前項において十分のものを八分より用うるなと不熱心に聞こゆる僕の言と、この項において述べる十分あるものは十分以上に力を出せということと、実際において
矛盾しないことも察せられるだろう。
昔、かの英国の大文豪と称せらるるジョンソン博士が、世の迷信を
嗤わんがために一夜墓地に散歩して
石碑を
叩いて
幽霊があるものなら
顕れよと言って、一夜を暮らしたという話があるが、これを批評してカーライルが、このことたるや実に博士に似合わぬ愚挙である。
嗚呼博士よ、君にして
幽霊を見るの望みあるならば、なんぞ
墓場に行くを要せん。おのれに
顧みれば霊魂のおのれに
潜んでいることが明らかでないかと論じたが、
吾人も少しく心静かにおのれを
省ると、銘々の内に
潜んである力の偉大なることを感ずる。
僕の先にいった全力をつくすなかれというは、要するに
省るだけの余地をとっておけというにほかならぬのである。しかるに僕が誤解しやすき言葉を用いたのは、いわゆる全力をつくすと称する人々が、とかく静坐して内観をするの余地を許さぬからである。いわゆる奮闘いわゆる努力等に
没頭する者は、ほとんど一粒の種も残さずに自分の力を
消耗するおそれあるをみる。努力奮闘を
標榜する者も
静坐黙想をすることは
潜勢力を増加するのもっとも得たる
策だと思う。
いかに
繁劇な
生涯を送る人でも、折々いわば人生より
退いて黙想するの必要あることは、たがいの経験で明らかであろう。
僕の祖父はかつて
禅僧について、いったい
禅学というのはどんなものですと
藪から棒にたずねたときに、僧の答えは禅学と申しましても、別にこれという学問ではなくて、この世を渡る者は
坊主であれ商人であれ武士であれ、幾分か実行していることであるので、あなた方が戦場で敵を相手に戦うときにも、禅学をやっていらっしゃる。すなわちただ敵を
斫ろう、前に進もうという考えで
齷齪するあいだは、勝つことも進むこともおぼつかない、しかるに一歩一寸
退く余裕があれば、その
突嗟に敵の
隙がわかる。そこで勝てる。この一歩
退くところを禅学というのでありますと答えたというが、もちろん僕はなにごとをするにつけても退くだけが余裕があるというのでない。とかく
譬は不完全であるから言葉だけでみると、僕が単に不熱心たれ、退け、何事にも熱するなというように聞こえるか知らぬが、
分別ある読者は僕の真意を味わわれるであろう。
僕のいわゆる折々退け、折々
冥想せよということは、単に
不精に
寝転んでおれ、不精に
構えろというのとは大いに違う。また折々という文字が
漠としたことである。一年に一回ともとれるし、一日に三回ともとれる。むろん一定の回数や時間をあげることははばかるところであるが、僕自身だけでは平素(ことさら重大なる問題のないとき)少なくとも一日一回、時間の長短をいえば五分以上くらいの程度なれば、いかに
忙しい人といえどもかの実行の範囲内にあると思うし、また
希わくは一年に一回ぐらい一週間なり十日間なりほとんど俗事を忘るるごとき
境涯に入ることができるならば、これに越すことはあるまい。といって必ずしも山深く身を隠せとか、異境に
隠遁せよということではない。
おたがいの心の持ちようによっては俗界の中心にあってもほとんど
遁世のごとき心境がたもてると思う。われわれにその心がけさえあればいかなる
境遇にあっても
平旦の気を養う機会のなきはない。
松平楽翁公の書室
銘に
曰く、「
寧静是れ心を
養う第一法」と。
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毎春年の改まったについて、年ごとに起こる感じが再び
湧き
出で、
俺はもう
幾歳になったなアと、年を数え二十年前、三十年前に比べて、どれほど進んだか思い
較べると、ただ恥ずかしきことばかり多い。青年のとき描いた理想が、いわゆる世の中の実際に
擦れて
摩滅したこともあまたある。しかし年に較べれば、自分ながらまだ理想を割合い余計に
抱いておるがごとくに信ずる
廉もないではない。
僕が三十六のころ、ドイツ見物に数週間ベルリンに
費やしたことがあったが、その際ある文士に会って、
四方山の文談を聞いたときに、話がゲーテとシラーに移って、両氏の性格および文才と、後世に及ぼせる偉業を論じた。そのとき僕はその文士に
尋ねた。
カーライルが、かつてゲーテを
賞めたなかに、青年はとかくシラーに
憧憬れて、ゲーテを
疎んずるの傾向があるが、三十歳に至れば、
思慮もやや
熟し、人生のなにものたるかもいくぶんか判明し、ここにおいてかゲーテの偉大なることを認めてシラーの
若気を捨てるにいたると説いてあるが、僕は
今日三十よりむしろ四十に近い年になるが、ゲーテとシラーのいずれを好んで読むかといえば、まだシラーを選ぶの
心地する。おそらく僕の精神発達のいまだ幼稚なるを証するのではあるまいかと、
自ら疑うことが多いと告白したところが、かの文士は、それは君は心配するにおよばない、ドイツ人のうちにも、今日なおシラーを
推して、思想においてははるかにゲーテに
優るものなりと
称嘆する者はけっして少なくない。むしろシラーを好んで読む者は、精神未熟といわんより理想高き性格の高潔なるを
証するものだ、といって僕を
慰めてくれたことがあったが、かくいえば、あるいは
新渡戸の
奴めが自分の不足なるところを、
態よき言葉を用いて
隠蔽し、
暗に
自慢するごとくに聞こゆるでもあろうが、正直に自白すれば、近来になって僕もゲーテを
尊崇するの念が、十年前にくらべて増してきた。
しかしてゲーテ
崇拝の念の増すのは、さきの某文士の
言によれば、あるいは
自ら
俗化して理想の
光明が
追々に
薄らぐの
譏りを受けるかも知れぬ。僕がここに話をすることは
譏りを受ける受けないが問題ではない。
自ら君子ぶるのを
厭うがため、横道ながら注解的に右のことを述べて、再び本題に立ち返って話をすれば、年を追うに従って俗化する
危険あるを思うがゆえに、
努めて幼少の時に
描いた理想を
養うことは
年々歳々枯れゆく心の
色香を新たむるの道であろうと信ずる。
過般渡米の日、
数多の著名なる人々、いわゆるこの国の思想界の指導者ともいうべき人々に直接あって、その人物に
触れ、その思想の一端をうかがうの機会を得て、もっとも僕の心に深き印象を与えたことは思想の力という一条であった。
いわゆる
黄金崇拝物質的の米国などと
綽名されてあるこの国民が
奢侈贅沢の
弊害に
陥る傾向が割合いに少ない。
換言すれば一方には巨万の
富を積みながらこれに安んじないで、なんなりこれ以上の、富以上の事業をまっとうせんと努力する
気前と精力は、この国民の大いに買ってやるべき
気象である。
わが
同胞はだいたいにおいて
貧乏であるから、
富貴の
誘惑なるものを知らない。
貧乏人が金持を批評することは、とかく見当が違うことが多い。自分で金を持ってみると、金持の心理的作用もその
誘惑もよく理解しうると思う。しかして我が国において少しく金を持った人は、多くなにに使うかと、彼らのなすところを米国の金持に
較ぶれば、米国人は確かに日本人のいまだ持っておらない思想なるものに動かされておることを察しうる。
世界を動かすものは思想である。暴力で一時国を
建てることもできるし、国を
亡ぼすこともできる。産業で国を
建てることもできるし、産業で国が
廃頽することもある。学芸によって国の
勃興することもある、学芸によって国が
惰弱に流れることもある。あるいは思想においても方向を
誤ると、いかなる極端に落ちることがないともかぎらぬが、武力でも学力でも、芸術の力でも、健全なる思想が
真先きに立って指導するにあらざれば、国家も社会も個人も、なんのために存在しておるかを解しないでしまう。
して思想と一口にいうものの、世の中の欲もすなわち名誉も
富貴も知らない清浄
無垢の青年時代に起こる思想が実に
貴い。ゆえに年とともに若い思想を強めたいと思う。あるイギリスの文豪もかつて言った、
「偉大なる人物とは成熟せる
脳髄をいただいて、なお幼少の心を
抱くものなり」と。
すなわち大人にして
赤子の心を失わない者の
謂に外ならぬ。
とかくに若い者といえば、むしろ青年の弱点を指す意味合いがある。近ごろこそ各地方で青年会がさかんに行われて、その目的は実に
嘉すべきであるが、同じく青年の会合でも、三、四十年前に行われたるものは、若い衆の寄合いと称して、若い衆といえば
碌でもないことをする者、思想も理想もなく、ただ
放埒に時を移す者のごとく見なして、老人もこれを許し、また青年自身もこれを許して、その言行の正しからざることがあっても、
自らも世人も
咎めなかった。
普通教育のいまだ一般にいき渡らないときは、かくのごときことも無理でない。教えてくれる設備もない時代と場所に生まれ育った者は、ただこの世に出てきたというのみで、もの言うからこそ人間に違いないが、その他の点においてはむしろ動物に近い。ゆえに動物的の行動をとっても無理ならぬことであった。
人の動物と違うところは思想あるがためで、この思想なるものを養わない以上は、
禽獣に
髣髴たるものである。そこで人を
測るに、いずれの
定規をもってするか、動物的の標準をもってするか、向上的すなわち思想の上下をもって
測るか、用いる
量によって人に対する観念がちがってくる。すなわち動物的の定規をもってすれば、若い衆の飲酒にふけったり夜遊びするのは、普通一般のことで
賞めるほどのことでなくとも、
咎めることではない。しかるに思想の標準をもって
図るときは、なにか一種の
思慮を持たぬ者は、人間のごとくにみなさない。近ごろの青年会と昔の若い衆と違うのは、高いほうの標準を使うからである。
ただ思想の発展にはとかくに
障害物があって、
挫けやすいもので、
譬えて言うならば、ごく微妙な外界の影響を受けやすい花のごときものである。外界の事情をよく知らない青年時代には、いかなることがあっても一と花咲かしてみせるという元気もあるが、年
経る間には風も吹けば
霜も降り、雨もあたれば
旱もある。そのたびごとに根をはらすくふうをしなければ、とかく人生の半分も
来ぬうちに花どころか葉も根もみな枯らしてしまう。すなわち種無しになってしまう。
僕が新年を迎えるごとにもっとも強く心に
省みることは、幼少時代の思想と今日と、どれほど
隔ったかという
廉である。これをもっと具体的にいえば左のごとき問題が起こる。
一、幼少の折、母を失ったときに、親に対して孝をつくすことができなかったが、せめて母の希望であった点は忘却せずして、遅れながらもこれを達しようと、こういう考えが浮んだ。年改まるごとにいま母に対するの観念と、および実行が幼少のときの思想とどれほど一致するか。
一、子供のときに飲んだくれの醜態を見て、俺は酒にふけることは決してしまいという考えを抱いた。して年経るごとに、今日俺のなすことがはたしてこの思想にかなっておるか。
一、幼少の折、学校で学問の大事なことを聴いて、よし学者にならなくとも、勉学読書は暇あるごとに怠るまいと思った。年改まるごとに、今日のわがなすことが、この点においてどうであろうと対照してみる。
一、幼少の折、かつて、あるところで話を聞いたことによって、人を怨み悪み嫉むことは、下品なものということを大いに感じたことがあったが、年経るごとに今日ははたして俺が人を怨まないか悪まないか嫉まないかと昔にくらべてみる。
一、幼少のときにある放蕩息子が身をあやまって、自分のみならず大勢の人に迷惑やら心配をかけたのをみて、婦人関係は深く慎しむべしと決心した。年経たる今日において、はたしてこの思想どおり身を処しておるか。
一、賭博のよろしくないことはつくづく親の話によって承知し、いかなる誘惑があるとも、賭博などには手を出すまいぞという思想を抱いた。年経た今日において、はたして幼少の思想にかなう行いをするか云々。
というように、問題を
掲げていちいち実際と、思想というか
理想というか、かつておのれの心の、向上したときに抱いた考えと引きくらべてみると、年
経るにしたがって、むしろ
堕落したことを発見する者が多くなかろうか。読者のなかには、僕のいうことがはなはだ子供らしい、
迂遠なことだ、世渡りの道を知らぬとなじる人もあろう。僕も甘んじていわゆる
世渡りの道に
疎きことを自信する。僕の世渡りの道と考えることは、低い標準の上に立って行くよりも、高い程度の所にぶら下がってゆくことにしたいと日ごろ念じている。
一種の思想をもって世渡りを
企てる者は、同じ思想を
抱いている人のうちにはもっともよく受けいれられて、いわゆる調子よく世渡りもできるが、異なった思想を抱いている者、あるいはなんの思想をも
抱かずに世渡りをする者に対しては、はなはだ面白からぬ
印象を与えるがために、とかく
彼此の批評を受けたり、あるいは、ときにはそれがために
迫害も
凌がねばならぬことは承知せねばならない。
普通にいう世渡りの上手だというのは、ただ無主義で
無定見で無思想で、流るるままに浮かんでゆくを称するのであるが、いやしくもいずれかの主義を抱いた者は、一時調子よいことがあっても、浮き沈みのあることは覚悟せねばならない。またこの反対の勢力の
風波に会わなければ、思想も練ることはできない。
僕がもっとも
崇拝する人物はキリストのほかにソクラテスとリンカーンであるが、二人とも生きているあいだに名声さかんで、一時
流行児となって大いにもてはやされたが、ついにその最後は世人の皆知っているとおりである。
ルーズベルトに対する世評の動くこと、実に驚くべきものである。かつては同氏を攻撃し、ほとんど
蹴たおすばかりの語調が新聞や雑誌に表れ、また僕が直接話をした個人の言葉にもしばしば
顕れたけれども、そののち誰いうともなく、同氏の名望が再び回復されつつある。僕はまだ同氏に面会するの機会を得ないが、氏の人格と、ことに氏が思想の人であることは彼のいうことなす
事々によって明らかである。彼を
嫌う人も、彼を
賞むる人も、彼の人格より彼の思想について判断することを思えば、昔も今も思想家はその思想を天下に刻印するには、血をもってするの覚悟がなくてはならない。といって誤解のなきことを欲するが、われに思想あり、この思想を世に伝えんがために早くわれを殺せといわんばかりに、めざましきを好む演劇的な挙動を
恣にして、
態と反動を招いて、かえってはなばなしく
斃れることを望むのが宜いと言うのではない。できるだけ
穏便に平凡に、自分の思想を実行することにつとめることが肝心なので、これがわれわれ日々の務めである。
偉大なる
凡人となるは平凡なる
豪傑となるよりも、はるかに
上乗であると思う。米国に行きてことに感ずることは、この国には偉大なる凡人の多きことは、ほとんど日本において平凡なる豪傑の多きがごとくである。凡人をして偉大ならしむるのはそれ思想
乎。思想ほど恐しき力はない。人の動くのはみな思想の力によるのである。すなわち世の細事
大業も機械に
譬うれば思想なる原動力の発現にほかならない。これを草木に
譬うれば、
緑の
柳、
紅の花と現れる世の変化も思想なる根より起こるものであるから、なにはさておき根の
培養は
怠れない。根さえ確かなれば、
幹なり枝なり葉なり花なり自然の結果として栄える。
誰人も経験あることならんが、だんだん年とるについても、若きとき思い込んだ思想が、なにごとについてもヒョコヒョコと胸底に浮かび
出で、あるいは
邪魔し、あるいは手伝いし、われわれの今日の仕事に関係を絶たない。
「三つ
子の心は百までも」「老馬
路を忘れず」という。青年時代に植えた
種子は、よかれ、
悪しかれ、いつまでも身辺に
纒いつく。
古き書にもあるとおり、「
汝一度水田に
種子を
播け、数日を
経て収穫すべし」と。われわれひとたび
播ける
種子の
酬いは、われわれ自身が刈らねばならぬ。若い時に植える
種子は、後年植えるものよりいっそう深く根を張る。
植ゑし植ゑば秋なき時や咲かざらんはなこそ散らめ根さへ枯れめや
とあるごとく、単に植えさえしておけば、秋のない年はいざ知らんが、いったい一年間に秋のなきはずはないから、必ず秋がくるに相違ない。その秋がくれば、草木の性質として花を咲かす機会到来は
必定。けだし去年の花は
縦しまったく散り
了っても、根さえ枯れずに健全なれば。
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僕がヨーロッパ旅行中、ベルギー、オランダ、ドイツなどでしばしば見たことがあり、また日本でも
大和辺あるいは東京でもときどき見る
犬車というものがある。すなわち犬に
曳かせて荷を運ぶ小さな車である。これは犬の使用法として理想に適したものとは思われぬ。犬というものはその
肩骨の構造から考えても、車を
曳くようにできておらぬが、とにかく
方々で行われている。
ヨーロッパのある都会では小僧が車に乗り、犬に
曳かせて用を達している。しかるに犬が空腹になるとなかなか動かぬ。
擲っても
叩いても動かない。このときに肉でも与えると動きだす。そこで
悪戯の小僧らは、自分が車の上に乗り、乗ったまま棒の先に肉をつけて、車の上から犬の鼻さきへぶらさげる。犬はこれを
食おうと思いワンといって動きだす。いくら動いてもけっして達することはできぬ。どこまでも肉をとろうとして進むが、いくら進んでも肉はけっして口に入らぬ。僕は人間の理想というものもかくのごときものでありはせぬかという考えをもっている。
われわれが一つの理想をもって進む。一歩進むとまた一歩前に理想がある。何歩進んでも同じことを繰り返すに過ぎぬように思われる。理想というものははたして達しえざるものであろうか。
カーライルはかつて、「いかなる
卑しい者といえどもけっしてこれに絶対的満足を与うることはできない」といった。なんとなれば絶対的満足は理想がことごとく充実された
暁において始めて達せられるのである。
しかるにその理想はけっして満足されるということはない。またないはずである。人間は一を得ると第二が欲しくなる。第二段にのぼると第三段が欲しくなる。どこまで行っても人間の欲望の絶ゆるところがない以上は、けっして満足するものでない。いまのカーライルの言にあるとおり、いかなる
賤しい、
路傍の
乞食でも、腹が
空いているときに
握飯を与えると、「三日も食わずにいたが、これは結構」といってありがたく
頂戴する。も一つ
与ろうとすると今度はそうありがたく思わない。
「塩加減が悪いから塩をまいていただきたい」「
香の物をつけていただきたい」
という注文が出る。
三つめには、「
握飯ばかりではなんですから
塩引でも」という。
四つめには「塩物ばかりでは
喉が
乾く、
刺身を」といいだす。
乞食のごとき者でさえも、その欲望を満たそうとすれば、どこまで行っても満足せぬ。
「
八百膳」の料理を
奢られても、三日続けて食わさるれば、不足を訴える。帝国ホテルの
御馳走でも、たび
重なればいやになる。食物だけのことを望めば、人間はいかなる
酒池肉林に
入れても永く満足はせぬものである。
人間には絶対的幸福はけっして得られるものでない。また得られぬはずのものである。この
乞食が三日も
飯を食わぬときにいちばんに痛切に感ずるものは
胃の
腑である。
握飯でも食いたいというのが彼の理想である。彼の理想というが、これは彼の理想でなくしてその実
胃の
腑の理想である。腹がいっぱいになり
刺身が食いたいというのは、腹の理想でなく、
舌の理想である。あるいは着物が着たいとか、高位につきたいとか、人に
褒められたいとか、世の中に大きな顔がしたいとかいうは、
虚栄心を
充たす理想である。同じく理想というも、その出所を異にするから、したがってこれを
充たす物体も変ってくる。自分の理想を絶対的に充たしえぬことは、あたかも犬の鼻の前にたれている肉のごとく、いかに肉に
憧れて進んでもけっしてその望みの全部を達するときがない。
あるいは理想とはこの世で実現しうるような、そんな低いものでない。私の思想は、も一歩高く、到底この世で満足のできぬ理想をもっていると大きなことをいう人がある。しかしこれは理想でなく、むしろ空想というものである。
理想という以上は、合理的にして、
分度ある欲望の要求であろうから、少なくともその幾部分は、
吾人の在世中実現のできるものであると思う。この例はあたるかどうか知らぬけれども、われわれの理想なるものは、分量で
測るものでなく、品質で測るものではなかろうか。たとえば花を見たいと思うと、菊でも
桔梗でも花を見れば、すなわち花を見たいという理想の一部分を達したというものであろう。あるいはそれは違う、
桔梗の花を見たいのでなく、花を見たいのである。花という以上は何万という花がある、その花の全体を見たいので一、二の花をもって満足するのでないというかも知れぬ。それがすなわち分量と品質の違うところである。
僕はつねに思う、一
枝の花のなかに千種の花を見えぬ者は花を語るに足らぬと。すなわち理想を論ずる者は一の中に千万の数を読むを要する。われわれが理想とするところはいかに小なりとするも、その全体を実現することはできずともいく分かすることはできる。昔から
天女を見ると、
羽衣を着て自由自在に空中を飛び歩いている。おそらく交通機関としたら、これほど便利なものはあるまい。すなわち
羽根が交通機関の理想のごとくなっていたから日本でも西洋でも自由自在に動くものの
意匠には羽根をつけている。しかしこれは理想で、できるものでないといっていたが、二十世紀になり飛行機ができた。飛行機は羽根で飛ぶのでないが、空中を飛び歩くという点にいたってはやや多年の理想を実現したものといって差し支えない。
これと同じくわれわれの思うとおりの理想は行われないか知らぬが、その一部分は必ず行われると思う。これは国家社会の理想のみでなく、個人においてもそうであると思う。個人がこういうことをぜひ行いたいと望み、
神や
仏に祈れば、その祈願として合理的ならば必ずそれが
早晩達せられると僕は確信する。なかには金が欲しく天から
小判の降りきたるを理想とすればそれは実現されぬ。それは理想でなく、
欲想である。実現せられぬのは理想でなく空想である。
理想は
何人でも、
活きている者は必ずもっている。またこれがその生命である。
耶蘇教で教えているとおり、「人はパンのみにて生くるものにあらず」。
人はなんで
活きているかというに、理想で活きている。ただ
呼吸するだけならパンだけでもよい、パンでなくとも、
握飯でも
麦飯でもよいけれども、この世に生きている
甲斐には、なにか理想がなくてはならぬ。前の犬のごとくなにか前にぶらさがっているものを得ようと思うから動くのである。われわれのすべての働きは理想を実現せんためで、理想なしにぶらぶら流れのまにまに
活きていることは存在するというだけで、人間の生活をしているとは言いがたい。ことばを換えていえば、人間の生活なるものは理想を実地に翻訳することになりはせぬか。
理想という
原語を行為に翻訳するのである。わからぬ外国語をわかるような言葉に換えることを翻訳というと同じく、もやもやしており、あるいははっきりしても形のない思想を、実際の言行に現すのである。これが人生というものではないかと思う。
この翻訳はなかなか
難い。原文を精確に
会得しなければ翻訳はできない。また訳する言葉がわからなければ適切な翻訳ができぬ。原文を誤解し、日本語を誤解している者が翻訳すれば、できた翻訳のろくなものならぬことは無理もない。それと同じくわれわれがとかく思うように理想に近づきえぬのは、理想が精確でなく、実行もはっきりせぬと翻訳の仕方が分からぬからである。ここにおいてわれわれは翻訳に
拙い生活を送っている。
維新前に、どこかの殿様が行列を正して
西丸近所を通って
登城するさい、外国人が乗馬でその行列の
鼻を
乗切った。殿様はもとよりその従者も
一方ならず
憤慨し、
殿はただちに通訳を
召し、
「
汝は言語もわかることであるから、あの人の無礼を
糺してその場で切り捨ててこい」
と命じた。通訳は「かしこまりました」といって、その外人を呼びとめ、
「私の主人なんの
守という大名が
登城の途中に、
貴方の馬に乗ってゆかれる姿勢を見、西洋の
鞍が面白い、まだ見たことがないから、どうか拝見したい、また
乗人も見事に乗っている、あの外人にお頼みして
鞍を見せてもらうことはできまいかと申します。途中でお
止め申して、はなはだ失敬であるが、せっかくの望みであるから、見せていただきたい。主人が
駕籠をおりてくるのが本当ですがあなたは乗馬が上手ですから、
駕籠の前に来て見せてくださらぬか」
という。外人は得意になって、
駕籠のそばに来たり
鞍を見せんと下馬し脱帽して
挨拶した。そのとき通訳官は、
「この外人はまことに恐れ入ったしだいであるといい、かく脱帽しておわびを申し上げています、何分にも
命だけはお
許しを
願いたい」
と申し上げる。殿様も外人が
下馬して
脱帽しわびることなら許してつかわせといわれた。そこで通訳は外人に向かい、
「見事なお
鞍を拝見してありがたい。
駕籠のなかからはなはだご無礼ではあるが、まことにご苦労であったと厚くお礼を申しております」
という。外国人は恐縮し日本に来て大名と直接にお話したことは
始めてで、
名誉なことであると喜び、再三
脱帽したあとで去った。通訳官はかく再三脱帽しておわびを申し上げていますと言うと、大名は、
「苦しゅうない、苦しゅうない」
翻訳というものはこうもできるものだ。しかしさらにはげしい翻訳の仕方もある。
幕府時代に使節が始めてヨーロッパへ派遣されたことがある。
髪をチョン
髷に
結い、
裃を
着け、二本さし、オランダへ行った。これよりさき、外国で日本人が来るそうだ、毛が頭の半分だけ
生え、その毛がつっ立っているそうだ。これは見ものだというので、子供も女も寄り集まって見に出た。使節の一行は幾台かの馬車をつらねてホテルから
宮廷に
拝謁に出かけた。何万という人々は沿道に立って異様な
装した日本人を見、ぞろぞろとそのあとについてゆく。なかには吹き出すもあれば、あらゆる
侮辱を使節に加うるもあった。おそらく日本の
侮辱法の最大なるものは「
尻をまくって
叩く」ことであろうが、西洋ではこの方法を実行することができない。そのかわりに双手を開いて
鼻の前にならべて人を
遇する侮辱法がある。日本人にはおかしくもなんとも思われぬが、西洋人はこれをもって極端なる侮辱の方法と
見なし、無礼の極とし、日本人が
尻をまくって人を侮辱すると同じくらいの程度とみなしている。
使節が馬車に乗って行くと、両側の子供らが
鼻の前へ手を当てワイワイいっている。使節はなんのことやら合点が行かぬので、通訳官にだたすと、
「あれは日本でいうと三拝九拝にあたる、あの子供はあなた方に最敬礼を表しているのである」
といった。そこで日本の使節もよいことを聞いた、小笠原流にもない礼法を学んだと喜び、いよいよ
宮廷に達し
拝謁するとき、使節は
玉座の前でみな手を鼻に当てた。
陛下は大いに驚き、自分に
侮辱を加うるのはなはだしきものであれば、ただこのままには
棄ておかれぬ、そもそもこの儀はなにごとなるかとかたわらなる通訳に問われた。すると通訳官はこれが日本の最敬礼でありますといった。陛下もなるほどそうか、それでは
朕も遠来の大使を
遇するに最敬礼をもってせんといわれ、使節も陛下もともに侮辱を最敬礼と心得て実行されたという話がある。
通訳というものはこういうこともできる。僕はこの話を思い出して一人で笑い出すことがある。笑うとともに思いあたることがある。すなわち理想を実行に翻訳するにあたり、翻訳を間違えたり、あるいは故意に曲解して実行することは、いまのオランダ語の通訳官と一
寸一
分も違わぬことがありはせぬか。
たとえば男女の
心中のごとき、二人が夫婦になるのを理想とするが、
不義の交際は親も許さず世間も認めぬ。この世で晴れて一緒になれぬなら、むしろあの世で
蓮華の上にということになる。
かくのごとくその理想なるものを実行するさいにその翻訳の任にあたる自分の考え一つで、
勝手次第に意味をとる。ちょっと聞くともっともらしく思うこともあるが、翻訳のやり方によってははなはだもっともでない実行に現れることが
間々ある。たとい商売人でも役人でも、書生でもいかなる職業の人でも自分の同業者の悪口をいう。はなはだしきは
人身攻撃をする者もある。して彼らの理由を
訊せば、人間が世の中にいる以上は、
優勝劣敗の原則にしたがい競争するを要するがゆえ、かくすると弁解する。なるほど競争とか優勝劣敗とかいうと、学理的でよく聞こえるけれども、この理屈を実行に翻訳するにあたっては勝手なやり方をする。敵を
殪すにはいかなる手段方法をも用いる、
嘘をついてもかまわぬというは、優勝劣敗あるいは生存競争ということを読み違えていると言わなければならぬ。
僕はたびたび耳にすることであるが、学校で試験のとき、
狡猾をやる学生がある。それを呼び出して聞くと、なかなか相当の理屈がある。試験に不正を行ったのは一つの理想より出たことである、どうか早く学士になり、親に安心を与えたいと思うが、近ごろ親が病気でこうこうだとあわれげな話をする。してみると君が試験に
狡猾をしたのは、親孝行のためにしたというのか、「そうでござります」という。こういうことは
間々ある。
愛国忠君などということを
口癖にいう人にはこれが実行の翻訳を
誤る人が多い。愛国だといってみだりに外国人を悪口したり、戦争をしないでもよいのに、戦争を主張したりする人がある。
明治二十年ごろ、
国粋主義のさかんなとき、途中で外国人の婦人に
唾を
吐きかけた学生があった。なぜそんなことをなしたかと
訊問されたとき、国体を
発揮するためだと答えた。愛国ということはよく聞こえるが、これを実行に翻訳するときは、オランダの通訳官と同じく勝手にする。
むかし英国の学者ジョンソンは愛国心ほど
怪しげな心はない。いかなる悪党も愛国なる言葉を用うれば、犯罪をなすことができるといった。
明治十
年ごろまでは
強盗したり乱暴
狼藉した者に、なぜそんなことをしたかと聞くと、国を
憂いて大いに
旗上げするつもりであるといった。また
地租改正のとき、あっちこっちで
騒いだ。このとき重税を課しては国のために
憂うべき事であると、
佐倉宗吾を気取ったまではいいが、佐倉宗吾のように命を捨てたかといえば、なかなか捨てるどころか、かえって
強盗強姦したものもある。これが愛国だということはちょっとわからぬ。とかく愛国とかあるいは何々の主義だといって議論して歩くあいだはよく聞こえるけれども、これを実地に行うときは、翻訳が間違いやすいゆえにわれわれがいやしくも理想をいだくという以上、その理想なるものを実現するにあたって、理想の品位を下げぬように行為に現すにあらざれば理想でなく、
妄想であることを一言したい。
近時理想ということが一つの流行語になり、
成功はいうにおよばず失敗をも理想に
帰する傾向がある。この語にあざむかれず、これを間違えず翻訳する一方法として、僕はいかなる小事にあたっても、なにかことをなすときは、ちょっと
退いて、これは自分の理想を実行するのか
否かと考えたいと思う。たとえば愛国の理想を
描くならば、戦争のとき、
馬背にまたがって
功名手柄をするをもってただちに理想とは称しがたい。なぜなれば馬に乗らずとも、戦線に立たずとも愛国の行為を
遂げるみちはある。
また日本の政治を改善したいと思うまでは理想として
嘉すべきであるが、これを行うには大臣にならねばならぬことはない。理想を実現するにある位地をむさぼるのはいまだ真の理想とは思われぬ。
教育家は教育をもって自分の理想とする。しかるにこの理想は文部大臣にならなければ実現ができないという人をよく
糺してみると、真に教育のためにつくしたい
志よりは、他に望みがあるのが多い。だんだんそのいうところを聞くと、教育
云々というのは第三次の考えで、大臣になりたいということは第二次の考えで、第一次的根本の考えは馬車に乗り
大廈に
住いすることが理想なのである。つまりそれなら馬車会社の
馬丁になるのがこの人の理想にかなっている。
あるいは実業家になりたいというは、いかなるところより起こった考えかと
煎じつめると、実業家は美服を
着け茶屋に行ってドンチャンやるにある。しからばこの望みも実業家たるにあらずして
幇間でも俳優でもできるわざにある。とかく理想々々と
高尚らしくいうが、とんでもないところから割出している者が多い。
日本の教育を進めるには、必ずしも大臣になりあるいは文部の役人となる必要はない。また県の教育課長、
視学官になる必要もない。真に教育を理想とするなら、学校の教師になる必要もないくらいである。教えという字はなぐるとか
叩くとかいうことを含んでいるようだが、育という字は子という字を
顛倒し、下に
肉月がついている。子が向こうを向いているのを、肉をもって――肉はまず
旨いものとしてある――向こうを向いているものを引き寄せる意である。教育するという事がはたしてわれわれの理想であるとすれば、必ずしも役人となるを要しない。家にいて
下女下男の教育もできる。また自分の
女房子女を教育することもできる。
むかしの立派なる教育家
貝原益軒、
中江藤樹、
熊沢蕃山等はみな
塾を開いたことはあるが、今日のごとく何百人の生徒を集めて演説講義したものでない。
藤樹のごときは村を散歩することが教育であった。
人そのものが教育である。
人が真に教育家なら笑っても教育になる。寝ているのも教育になる。一
挙手、一
投足、すべて社会教育とならぬものはない。われわれの目的および理想が教育であるなら、全身その理想に
充ち
満ち、することなすことがことごとく教育でなくてはならぬ。位地を選んで大臣、局長、課長にならねばならぬということはない。文教の職にあたった政治家は、たくさんあるけれども、なんらの功績を残さぬ者が多い。明治以来文部大臣となりし人のなかで、今日まであの人の時にこういうことをしたと記憶される人はきわめて少ない。僕は文部省を攻撃するのでなく、ただ説明の便宜に引例したのである。して僕のいうことは教育のみに限らない。他の
官衙においても同然である。
また西洋でも同じである。各国の教育史を見てもペスタロッチ、フレーベルなどは自身で
鼻汁をたらした子供を集めて教えたということは残っているが、役人になったかどうか、
世人は問わない。われわれの理想を翻訳するに、どの位地、どの
椅子に
坐らなければできぬというものでない。位地を得ればなお良いかも知らぬが、位地ばかりが理想を達するゆえんでない。
否々位地を得たため、かえって理想を失する
輩が多い。理想は
椅子にあるものでないから、椅子を得たによってまっとうするとはいわれぬ。もし椅子によりてなしうるなら、人でなく椅子が働き、人は椅子の道具に化するようなものである。
しかるにわれわれはややもすれば、理想なる文字のもとに野心を包み、あるいは月給をよけいに取りたい、人に
褒められたい、いばりたいというような望みを包む。ゆえにだんだんいわゆる理想の奥を探るとすこぶる
賤むべき
野卑なる動機に到着することがしばしばある。自己の欲望の
汚穢を
掩うために理想という文字を用うるものがたくさんある。要するに理想の実現は位地によるものでない、心の底まで理想が
透徹するならば、なにごとにあたっても実現すると思う。一杯の茶を飲もうが、一言の話をしようが、そのなかに理想が実現せられる。
人と交際するにあの人は茶を飲むにも
余裕がありそうだという人がある。たとい茶を飲まなくともその人のそばにゆくと
心地のよいことがある。
西郷隆盛のそばにいると
心地よく
翁の
身体から
後光でも出ているように人は感じ、
翁は近づくと
襟を正さねばならぬほど
威厳があった。威厳はあるが、なんとなく惹きつけられるようで近づきたくなり、いよいよ近づいても
狎れて失礼することはできぬというふうであった。これ全く
翁の心のそとに
顕れたがためである。理想もまたかくのごとくならねばならぬ。
理想があれば手なり足なりに現れる。かの
椅子に
坐らなければ理想が行われぬというは、
下手な職人が道具をならべると同じである。こういう職人は道具の善悪をならべ立てるが、いずれを使っても仕事が下手なことはわれわれがつねに目撃している。ゆえに理想があるなら、つねにここが理想を実行するところだという考えをもてば、理想の実現せられぬところはない。
泥棒するの罪悪なることは誰でも知っているが、人が見ていないところにものが落ちていると、十に七、八人までは持っていってもよいか知らという気が起きる。
盗む気はなくとも欲しい気はある。両者は行為に現れたときは大いに接近している。
聖書に「人を
憎むは人を殺すなり」という意味が書いてある。人を
憎むのは、機会があれば殺すという行為に現れやすい。
彼奴は
嫌な
奴だ、早く死ねばよいということと、社会になんの制裁もなければ、一歩を進めてみずから手を下すということとははなはだ近接している。ものが欲しいというのと、見る人がなければ
拾うということは遠くとも
従兄弟同士ぐらいである。欲しがる人が拾わぬというは、世の中に制裁があるからである。
この場合にかねて承知の道心を起こしてここだなという考えをもてば、はじめて落ちた物を拾わないりっぱな人物が出てくる。あるいは拾ってもちぬしを探して、返すごとき人物となる。先年もある青年が婦人の
誘惑に
陥らんとしたとき、かねて聞いていたことは「ここだな」と思い、ついに危険を
脱したということを手紙で通知してきた。青年はみな理想をもっているが、
卑近な小さなことにまで翻訳して始めて理想の理想たるところが現れ、かつまた高くなり強くなるものである。これは少しでも実験ある人のみな感ずるところで、僕のように達しないものでも、これを適切に感じたことが二、三度ある。
昔のある皇后の御歌に、
もろこしの山のあなたに立つ雲はこゝに焚く火の烟なりけり
われわれはとかく理想は遠い所にあり、
唐土の山のかなたに立つ
烟のごとく、ほとんどわれわれと没交渉のように心得、理想に
憧憬れているという青年男女などは、日々学課をそっち
退けとし、月や星を
眺め、へたな歌をつくり理想を養うているというが、理想はそう遠いものでない。
「ここに
焚く火の
烟なりけり」で、日々やっていることのうちに理想が含まれてある。またこれを養うに遠方にゆき
塵界を去らねばならぬものでない。われわれは山へ
引っ
込むもよい、
塵界を去るもよいが、それが理想を養う必要条件では断じてない。理想は心の
作用である、実際は身体の作用である。心と
身体とは別であるがごとく、理想と実行とは別のごとくしてそうでない。われわれが一つの理想をもって世の中を渡ろうとするときには、その理想の中に身も入らなければならぬ。
実業家は店において、職工は工場において、学生は学校、家庭あるいは運動場において、女子はその台所において、いかなる位地にあっても、理想を実現することはできうる。また真の理想なれば実際に行われぬものはない。いかに高き理想も実際に現すことができると信ずる。
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年が明けて、来たるべき一年間の出来事を
卜するためか、あるいはまた過ぎた年の
厄払いのためか、正月の二日に、
宝船を
枕の下に敷き、めでたき初夢を結ぶことは、わが国古来の習俗で、いまもこの
風を行うものが何万の数に達するであろう。文明の今日になって、なおかくのごとき迷信が行わるるといって、これを憂うる人もあろうが、また一歩しりぞいて考えると、これを迷信と非難するものの、はたして迷信であるか否かと反問するの余地があると思う。
ゆめやゆめ、うつゝやゆめとわかぬかな、いかなる世にかさめんとすらん
とは古き人の
歎きであるが、いまも同感なる者は少なくない。
よく人は、「人生は夢の如し」などという。人生ははたして夢なるか、夢ならざるか。これは学者も
名僧知識も、いまだ容易に断定を下しえない。
夢に死し夢に生まるゝ朝寝坊起きて苦を知る釈迦よりはまし
と
猩々庵原松の狂歌にある。夢見つつねむりおるあいだが人生か、めざめたる
暁が人生か。これは哲学者、宗教家などに問いても、夢そのものがなにものなるか、また夢と称するものの範囲がはっきりするまでは、とうてい満足な解答を与うることができぬであろう。いわんやわが輩においては、いずれが正しいか断言することを
憚るが、しかしもし夢なる文字を真実ならぬこと、事実ならぬこと、普通にいう本当でないという意味に用いるなら、僕は断じて、人生は夢でないと言いたい。
なんとなれば人生ほど実際なるものはない。実際も実際、実際過ぎるほどに実際なるは実に人生である。米国の詩人ロングフェローが、その『向上の詩』において、それ人生は夢ならずと
謡ったのも、もっとも至極の観察である。
しかし夢もまた人生の一部である。ほとんど夢なきの人生はない。かりに「聖人夢なし」という句が本当なりとするも、
世人ことごとく聖人ならざる以上は、やはり夢は人生に添えるものである。もし実際ならざることを夢と称するならば、未来も理想もすべて夢であるといわねばならぬ。しかし折々はかえって夢のほうが、普通にいう実際よりも、なお実際なることがある。明らかに夢見ているときでも
「これは本当であろうか」
「夢ではあるまいか」
と疑うことは、普通に人のいうところである。しかるに実際の場合にもことさらにその実際なることを感ぜしむるときは、「夢ではないか」と思う。
かりに日常普通に起こらぬ、人生のうわっつらでない事実が起こったとする。たとえば不幸の上に不幸が重なり、火災に
罹った上に親を
喪うとか、子を
失うとか、あるいは自分が急病にかかるとか、すなわち人生のあらゆる苦しみが、一時に
襲い来たるときはこれぞ人生の実際の実際たるゆえんであって、すなわち人生の
蓋を
除けて底に達したようなときである。人はかかる場合に会うと、これは夢ではないかと思い、夢であれかしと
祈る。
普通にいう夢とは、自己の
意識の行われぬときに心に
触るる現象である。しかして意志の行われぬときは、普通ならば
睡眠中である。ゆえに睡眠中に起こったことを夢と称している。また人生の出来事ははたして意識の行われているときにのみかぎるものであろうか。
人間普通八時間
睡眠し、しかしてその間は意志も意識も中止するなら、意識の行わるるのは、一日中三分の二しかない。人間が六十年、生きるものとすれば、四十年間は意識が行わるるも他の二十年間はまったく無意識に過す時となる。しかしはたしてこの二十年間は、全然無意識に過ぐるものであるか、またもしなんらかの意味があるとすれば、意識的の時間すなわち四十年の意識時間を休ませるだけの
作用あるものであるか。僕はこの二十年間なる長時間はかく簡単なものでないと思う。この間は単に身体を休め、精神を休むるというだけにとどまらぬと思う。もし休むとしても、その休むことは、まったくなにもなさずにいるとの意味であるまい。
農業に休田というがある。これはその田地が単に作物を生育しておらぬだけの意味でなく、翌年の
作物を生育する力を
増殖するために休むのである。人間の
睡眠時間もまた同じく、なにもなさずにいるという消極的作用にとどまらで、起きて大いに働く力を養う時である。ゆえにこの間に結ばるる夢は
徒らに
疲労せる身体の
幻すなわち
諺にいう五
臓の
煩いでなく、精神的営養物となるものと思う。
かくのごとく意識の行わるるときのみが人生でない。また知覚の存するときのみが人生のすべてでない。
空々寂々に過したり、または
睡眠する時もまた人生にとっては重大な時である。
長短よりいえば、前にも述べたごとく、人生の三分の一を成しているが、この時間だけは人間の力でいかんともなしえぬとか、あるいは睡眠中は死んだも同然なりなどとは、普通に聞くところである。通常、
睡眠と死とは、同一物のように思われている。さればこそ
沙翁の悲劇『ハムレット』にも、「死ぬるは
眠るなり、眠るはことやすけれど、眠る間に夢という恐ろしきものあるなれば
云々」と死と眠りとをほとんど同一視してある。ただ時間の差異のみとみなされている。
ゆえに人の一生を生と死との二者に分けて論ずれば、睡眠はむしろ死の部に含まれているがごとくに
称えられるが、僕は繰り返していいたい、睡眠の時間も、その間に結ばるる夢も、人生の一部をなすものであると。この間に直接の意識知覚が行われぬとしても、人生には重大なときであって、心がけによっては、この時間をも向上のために資することができると思う。古人の言に夢の
魂などと称するものがある。
君こふる夢のたましひ行かへり、夢路をだにもわれに教へよ
といい、また、
つらさのみまさり行く幾おもひやる夢のたましひいかゞ行くらん
などという歌があるが、これは睡眠中の心理的動作を
指すもので、今日の学者といえども
捨てがたい面白い
詞章であると思う。
近ごろ心理学者が
潜在識ということを説く。僕は潜在識とは学問上、いかなるものなるやを知らぬが、僕の平凡見解でわかりやすく俗語で説けば、心の奥底に
潜み
隠れ、自分がいっこう気づかぬとき、
不意々々と現るる感想をいうように思わるる。たとえばわれわれが子供のとき、母の
乳房につけるころに見たり聞いたり、または感じたりしたことは、われわれの心の、いわば
片隅に
隠れ、
忘れられているらしく思われるが、必ずしも消滅し去るものでない。
元来、人が事物を記憶するのは、たいがい四歳以上になって見聞したことにかぎる。しかして三歳、または二歳のころ、まったく無意識的に見たり聞いたりしたことは、根底より消え失せるかと問わば、けっしてそうでない。どこかに
潜んでいて、いつかことに
触れ機に接して、
何人にも聞いたこともないことを想い浮かべるのは、よく各人の実験し、また他人についても見聞することである。われわれがなにかするときに、こういうことはかつて前にもあった、いつであったか、その時を忘れたが、確かにあったと思い出すことがある。またあるいはまったく新しい所、――たとえば外国に行って、その風景などもなんとなしにかつてどこかで見たように感ずることもある。しかるに実際はいかに考えても、見たはずがないというがごとき類は一種の潜在識の作用であろう。この潜在識はわれわれ個人として経験したことばかりのものにかぎらない。われわれの祖先が経験したことまでも材料となる。
たとえば
誰でも一度か二度は経験しない人はあるまいが、寝ておって、高い所から落ちる夢を見て、
冷汗をかいて
目ざめることがある。かくのごとき夢はどこの国の人でも見る夢であって、おそらく人類共通の経験に基づいたことであろう。
さて近ごろの学説によれば、これは人類が数万年以前、いまだ
猿であったときか、あるいは猿のごとき生活を営んでおったころ、樹木の枝に宿り、木から木に伝わり、それこそ夢の浮き橋を渡るような交通法を行っておった際は、
諺に
違わず、折々は木から落ちることもあったに違いない。われわれの祖先にとってはこれほど
怖いことはない。悪く落ちれば絶命は
必定であるが、幸い途中の枝にでもかかれば生命だけは助かる。しかるに助かった者には永久忘れがたい恐しい経験である。したがってこのことは全身、全心に
沁みこんで、死ぬまでも記憶に留るのみならず、子孫の記憶にまで留って人類の
潜在識に化するにいたる。これがすなわちわれわれの代になってもなお、時々は現れ出て
冷汗をかかせる理由となる。
これについて
奇態なことは、高きより落ちる夢を見て、けっして下まで落ちきった夢は見ない。いつも夢の浮き橋で中絶するという
風である。なぜなればもしまったく落ちきった祖先があったなら、必ず死んだであろう。死んだ経験の子孫に遺伝する理由はないから、落ちるだけの夢は見ても、いつも下に落ちきる前に目がさめるのである。かくのごとき夢は自身にあらざるとも、自身に関係近き者の実際なしたことに基づくものであると思う。
一斎翁の言に
曰く、
「およそ
人心の
裏絶えて
無きのこと、
夢寐に
形れず、
昔人謂う、
男、
子を
生むを
夢みず、
女、
妻を
娶るを
夢みず、この
言良に
然り」と。
眠る時にもこの
潜在識はひそかに働きつつある。ゆえにこの潜在識にして、純粋、潔白、
無垢であるならば、眠る間に働く人生もまた無垢なるものとなる。
「
夢は
逆夢」とか、
「あたらぬものは
夢とちょぼいち」
などいう
諺は、夢をもって未来を
卜する方法に用いんとするより起こる言であって、夢は過去の経験や思想より起こるとすれば、当たる当たらぬの論も無用で、
逆夢ということもなくなって、「
思うこと
寝言」なう
諺こそ事実に
適うなれ。
杜甫の「
夢李白」の詩に「
故人入二我夢一、
明二我長相憶一」と詠じたのも、
後二条院の、
こひしさのねてや忘ると思へどもまたなごりそふ夢のおもかげ
と歌われたのも、
詩仙にかぎらぬ情である証拠は、われわれ
凡人も折々経験して明らかであって、これはすなわち潜在識の作用によることが多いと思う。
僕の
素人的の考えでは、
潜在識は知識を、心という土蔵の奥にある
葛籠の中に入れて、しまいこんだように思われる。ゆえに日ごろよき考えと、しからざる考えとを
蔵め入るるによって、潜在識の性質に異同を
生ずることはいうまでもない。潜在識はその
本を
質せば、意志にさかのぼって、自分の力のおよばざる方面より来たる知識もあるが、その大部分は自分の希望どおりのものを選んで入れることができる。
人に交わっても、その短所のみを見、ここが心に
叶わぬとか、あの
風が気にくわぬとかいう、弱点のみを心の奥にある
葛籠に詰め込むか、あるいは善良なる
観察と思想を入るるかは、精神の持ちよういかんによってできるものと信ずる。しかしてこの貯蔵した意識が、眠るときに、
葛籠より現れ
出で、不愉快なものは不愉快な夢となって
祟り、善事は善く出て、
愉快なる夢となって、おのれの心を喜ばしかつ心を養うものである。
伽話にある「
舌切雀」の
葛籠にいかなるものが潜在してあるかは、もらう人の
与かるところでないようなものの、その根本を
質せばもらう人が入れ込むのである。
欲張り
婆さんは、みずから
化物を
葛籠の中に潜在させたから、
蓋を開くとともに
醜怪なものが
顕れだし、
正直爺さんは
宝物を
潜在させたから、なかからあらわれ出たのがすべて財宝であった。
それと同じく
宝船を
枕の下に敷いて眠っても、ただ
欲張り考えで眠れば、よし宝船を夢みても遠い沖を
帆走る光景を見たり、あるいはかえって宝船の難破を見たりするであろう。これに反し、得たる
宝を
慈善的公共的その他の正当な使用に
充つることを
日ごろ念じながら夢をむすべば、おそらく宝船以上の
宝の夢を得るであろう。しかしてかかる夢は普通にいう
邯鄲の夢でなくして、理想とも称すべきものであり、また人生の実際の一部となるものである。僕が夢を一概に迷信として
排斥すべからずといったのもこれがためである。
子供が眠るときに、
怖ろしい顔して
叱ると、子供はかつ泣き、かつふるえつつ眠ってしまう。かくのごとき夜にむすぶ夢のなかには、あるいは
鬼に
襲われたり、あるいは
化物に
逢ったり、あるいは
魘されたりして
可愛ゆかるべき顔にも苦痛または恐怖の念がありありと
顕れる。これに反し愛らしき物語を聞かせ、あたたかき愛情をもって、寝かしつけたときは、子供も天使に迎えられたり、あるいは極楽に連れられて楽しく遊んだりする夢を見、すやすやと眠る顔には
笑をふくみ、いわゆる「子供の寝顔」となる。かく
怖ろしき夢をむすぶも、
吉夢を見るのも、ともに子供にとっては(大人にしても、同じであるが)、一つの精神的経験を構成する分子となる。目がさめるとともにあるいはこれを忘れてしまうかも知れぬが、しかもどこかに、子供の意識となって残り、すなわちいわゆる
潜在識となって、なにかにつけて記憶にのぼってくるものである。
僕もかつて病いにかかり、体温の四十度を越したとき、夢に
怖ろしき
化物を見たことがある。眼がさめたのちも、化物は眼前にちらついて残っていた。けしからぬことであると、自分ながら自分を
責め、これはまったく熱が高いためであると思い、試みに検温器をかけるとはたして高熱であった。かく精神は落ち着き、自覚したのちでも
化物の
形がハッキリと目に
映じていた。このとき僕は独り病室におったので、かたわらにあったランプをつけ、目をみひらき、ばかなものを見たものと思いつつ、空中をにらんだが、なおその姿が
髣髴として眼前に残っていた。むろん、これは病的であることを、僕はよく知っていた。しかしいかに病的とはいえ、みずから
明瞭に自覚しておるにかかわらず、夢に見たことが、さめたるのちまでも、その
現象の消え去らず、連続しておった。あるいは心理学者の一笑を招くかも知れぬが、いわゆる夢なるものといわゆる実際なるものとが連続しておることを
考え、怪物の夢そのものよりかえっていわゆる実際のほうがおのずから
怖ろしくなったことがある。
右に述べたことは、夢に見たことが、実際にも、眼前に連続したのである。これと同じく実際なることも、また夢に連続するものと思う。ゆえに目
覚めているとき、つねに高きよいことを思うものは、夢にもまた
下品な、
紊れたことを見ぬものである。しかるに少し油断し、修養を
怠ると悪夢を結ぶか、よしそれまでに至らぬとしても吉夢を見ないようになる。
孔子は、
「
甚だしいかな、
吾が
衰えたるや。
久しく
吾れ
復た
夢にだも
周公を
見ず」
といっている。
孔子が油断したのか、しからざるか、僕は知らぬがこの一言は大いに考うべきことである。この言葉を裏面よりみれば、衰えぬときは、
周公のことを夢にまでも見たということを含んでいるであろう。しからばすなわち
白居易の詩に、
「
平生所レ厚者 昨夜夢見レ之」
とあるように、日ごろめざめているときに
高尚な善良のことを想っていると、夢にこれを見るものならん。はたしてそうならば、
睡眠中のいわゆる
夢魂によっていわゆる
醒覚中の真意が
何処にありしかを
窺うこともできる。
昼中働いている間ほとんど無意識にいかなることにもっとも心を寄せていたか、かえって夜中に結ぶ夢によりて解きうるであろう。
佐藤一
斎の『
言志耋録』に、
「
感は
是れ
心の
影子なり、
夢は
是れ
心の
画図なり」と、また、
「
人を
知るは
難くして
易く、
自ら
知るは
易くして
難し、
但し
当にこれを
夢寐に
徴し
以て
自ら
知るべし、
夢寐自ら
欺く
能わず」と。
実にそのとおりで、
良木は
良果を結ぶごとく、意識的善行は潜在的善智を結び、潜在的善智は無意識的善夢を結ぶという順序ではあるまいか。しからば夢はまた
吾人の平素
識らず識らずに思う心の
鏡と称してもよかろう。かく考えると、
睡眠を利用して修養の用に供することができそうである。
わが輩が今まで数百の言をならべて述べきたった要点は、夢は
偶然なる現象にあらず、まったく
空のものにあらず、病的のものにあらず、ばかげたるものにあらず、人生の一部としてかえりみるべきもの、一歩進んでは大いに修養の資に供すべきものであるというにほかならぬ。わが輩のこの文を見る人のうちには定めし僕の思想の
浅薄なるに
驚く人もあろう。
一般人士の
踏む境界を
脱していっそう高き
境界に達したならば、夢相も夢物もみな同一の
虚妄にして、すべてあるところなしと
悟らるるであろうことは、あたかも先に掲げた例のとおり、現時の人類がいまだ人間にならざりし時代、すなわち今日よりもなお低き
境遇にありしころの経験を、夢の中にあるごとく、折々繰り返すことあれば、
荘子は高き思想界に入ってのち、自己の経験をかえりみて百年があいだ
胡蝶となって花の上に
戯れてのち驚き
覚めたるごとく言った。
形而下の世にあると、
形而上の世にあるとは、物を夢と見なすのと、夢を物と見なすの差があろう。わが輩は凡人の
情なさに、
形而下の話をして夢を物とみなして長々しく弁じたが、
形而上の思想の存在するをまったく心得ぬわけでもない。しかしわが輩のごとき考えをもって夢をも修養の用に供する
工夫をし、まじめにかつ永く
努めたなら、必ず一段も二段も高き
境遇に進入することを得るであろう。古人の歌に、
世の中は夢か現か現とも夢とも知らずありてなければ
などいう一首の意味も、
吾人の立場の高低によってどうとも取れる。なおさら修養が積んだならもう一段
昇りて
王陽明とともにかく
吟ずるの日も来たらん。
人間白日醒猶睡 人間は白日に醒むるも猶睡るがごとく
老子山中睡却醒 老子は山中に睡るも却って醒めたり
醒睡両非還両是 醒睡両つながら非 還両つながら是
溪雲漠漠水冷冷 溪雲漠漠たり 水冷冷たり
自警録終