教育の目的

新渡戸稻造




 今日世界各國の人の學問の目的とする所には種々あるが、普通一般最も廣く世界に行はれて居る目的は、各自の職業に能く上達するにある。マア職業教育とでも言はうか。或はモウ一層狹く云ふと、實業教育と云ふのが、能く其の趣意を貫いて居るやうである。子弟を教育する其の目的は、先づ十中の七八迄職業を求むるに在る。殊に日本に於いては職業を得る爲に教育を受くる者が多い、百中の九十九まではさうかと思はれる。昔はどうであつたか知らぬが、近頃は各國共に此の目的を以て、教育の大目的として居るやうである、殊に獨逸などでは、最もさう云ふ風である。
 近來亞米利加の教育法はどうであるか。亞米利加は何の爲に大いに普通教育を盛んにして居るかと云ふと、即ち良國民を拵へることが其目的である、能く國法を遵奉する國民を造るのである。大工左官をさせたならば獨逸人に負けるかも知れぬ。大根を作り、薯を作らしたならば、愛蘭の百姓に及ばぬかも知れぬが、先づ國家の組織或は公益と云ふことを知り、大統領を選ぶ時きにも、村長を選ぶ時にも、必ず不正不潔な行爲をしてはならぬ、國家の爲、一地方の爲だと云ふ大きな考を以て、投票する樣な國民を養成したいと云ふのである。彼の料理屋で御馳走になつた御禮に投票するのとは、少し違ふやうだ。佛蘭西人は少しく米國人と異つてゐる。同じ共和國ではあるかなれども、國民が投票する時に、亞米利加ほど合理的にすることは餘り聞かない。佛蘭西人は何の爲に子弟に教育を施すかと云ふと、先づお役人にしたい、月給取にしたいと云ふのである。十歳から二十歳まで教育すると、毎月幾許の金を要する。合計十ヶ年間に幾千法の金がいる。之れだけの金を銀行に預けて置けば、年五朱として何程の利殖になる。けれども都合好く卒業をして、文官試驗にでも及第すれば、何程の俸給が取れる。或は何々教師の免状を取れば、此くらゐの月給に有り付くと云ふので、先づ算盤をせゝくつて、計算した上で教育する。之は職業を求むる爲なのである。否職業を求むると云ふよりも、位地を求むる爲なのである。
 之に類して獨逸の教育法も、職業教育とか實業教育とかを主とするのである。獨逸語のヴイルトシヤフトリツヘ、アインハイト(Wirtschaftliche Einheit[#「Wirtschaftliche Einheit」は底本では「Wirthschaftliche Einheit」])、英語のエコノミツク、ユニツト(Economic Unit)、即ち『經濟上の單位』を能く有効にしやうと云ふのが目的である。即ち一國一市をして、成るたけ生産的に發達せしむるには、どうしたら宜いか、如何にせば最も國家經濟の爲めになるかと、經濟から割出した議論を立てゝ來ると、所謂社會經濟とか國家經濟とか云つて、國の生産を興さねばならぬと云ふことになる。殖産を盛んにしたならば、即ち其國其市の發達が一番に能く出來る、それが爲には、先づ經濟的の單位として子弟の教育をするに歸着する。一寸佛蘭西に似て居るやうではあるけれども、獨逸のは子弟を職業に進めるのであり、佛蘭西のは其實位地を求めさす爲である。教師になりたい、役人に成りたいと、位地をチヤンと狙つてやつて居る。斯樣々々の位地を得たい、それには是れだけの學問が要る。即ち是れだけの準備をする爲に何程の金を要すると云つて、チヤンと算盤を彈いてやるから、之は仕事を求むるのでは無い、位地を求むるのである。能く考へて見ると、之は獨り佛蘭西ばかりで無い、世界各國とも、皆さう云ふ傾向になつて居るであらうが、就中佛蘭西が最も著しいのである。
 之を日本の例に取ると、少しく政治論のやうだが、例へば農學をやる、何故農學をやるかと云ふと、おれは日本の農業を改良したいからだと言ふであらう。されど日本の農業を改良するに就いては、種々の方法があるので、悉く自分一人でやらなくても宜い、それは到底出來ることでない。各個分業で農業の方法を漸次改良すれば宜いのである。けれども一つ間違ふと日本の農業を改良するには、どうしても農商務大臣にでも成らねばならぬ、さう云ふ地位に達し無ければ仕事が出來ないやうに思ふ人もある。然るに明治十四年に農商務省が出來てより今日に至る迄、農商務大臣が幾人變つて居るか知れぬ。其お方々が日本の農業改良の爲に、どれだけの事を盡されたかと云ふと、何だか知らぬが、僕の眼には餘り大きく見えない。山高きが故に貴からず、木あるを以て貴とし、位あるが爲に貴からず、人格あるが故に貴しとす。位地と人格との差は大なるものである。日本の教育に於いては普通佛蘭西風に、皆おれは何う云ふ地位を得たい、銀行の頭取に成りたい、會社の重役に成りたい、或は役人に成りたい、而も高等文官に成りたいと云つて、初から其の位地を狙つて居る。さうしてそれが爲に五年なり十年なり奔走して居る間に官制改革……ヒヨイと顛り覆つてしまふ。職業教育を狹くやると、さう云ふ弊に陷つて來る。それならと云つて、僕は决して職業教育をするなと云ふのではない、職業を求むる爲に教育をすれば又た宜いこともある。それは獨逸の例を見れば分る。彼の鈍い獨逸人、あれほど國民として鈍い者はあるまいと思はれ、皆が豚を喰ひ、ビールを飮んで、たゞゴロ/\として居るので、國民としては甚だ智慧の鈍い者である。さうして愛國心なども有るのか無いのか、漸う/\三十余年前に佛蘭西と戰爭をして勝つたから、アヽおれの國も矢ツ張り人並の國だわいと思つて、初めて一個の邦國たる自覺が起つた。斯く未だ目が覺めてから四十年にもならない、それまでは熟睡して居つた國である。其の國民にして今日の如き進歩をなしたのは、主として此の職業教育が盛んになつた結果であることは僕が斷言して憚らぬ。故に國を強くし、殊に殖産を盛んにする國是の定まつた以上は、職業の爲に――位地の爲とは言はない――教育することは誰しも大いに贊成する所である。
 職業教育に就いては、茲に又た最も著しき一例がある。英國の富豪モーズレーは、世界の趨勢を鑑るに、獨逸と亞米利加とは國運勃興の徴候が見えてゐる。然るに獨逸は國土に限りがあるが、亞米利加はトント限りがない。故に後來英吉利の最も恐るべき敵は亞米利加であるぞ。だから一つ亞米利加の經濟状態を探究して見やうと云ふので、自腹を切つて數萬の金を出し、是れは政府より依頼されたのでは無い、モーズレー自身が金を出し、英吉利の有名なる數多の人々を委員に頼み、商業、工業、農業或は教育と、それ/″\各自の取調事項の分擔を定めて、彼等を亞米利加へ派遣して取調べさせた中に教育に關した調査がある。それによつて見ると、亞米利加では小學校を卒業した者、即ち十歳くらゐの子供が何か詰らない仕事をして、一日に十仙か八仙くらゐの賃錢を貰ふ。其の給金が段々と年を重ぬるに從つて増して行く。十五歳になれば五十仙取れる、二十歳になるとズツト進んで一弗も取れるやうになる。それから尚ほ段々と長ずるに從つて進むかと云ふと、先づ概してそれより以上は進まない。二十五歳でも一弗、三十歳でも一弗、五十歳にもなれば八十仙と云ふやうな工合に下つて來る。是れは所謂小學校だけの教育を施したものであつて、職業的の教育を授けたもので無いからである。ところが茲に稍高等な教育を受ける者がありとすれば、其の子供が十歳の時分には十錢も取れ無い。小學校を卒業すれば引續いて中學校へ這入るのだから、寧ろ十錢どころでは無い、尚ほ學費を要する。マイナスくらゐなものである。さうして二十歳くらゐになつて稍高等の學校を卒業すると、圖を引くとか、機械を動かすやうになる。さうすると直ぐに幾ら取れるかと云へば、一弗は取れ無い、先づ五十仙とか八十仙くらゐなものである。前に云つた小學校を出て、直に十仙の金を取る者を甲と云ひ、後者を乙とすれば、僅か小學校を卒業した者でさへ、二十歳になつて一弗の收入を得て居るのに、稍高等の學校を卒業した者が、二十歳になつて六十仙か八十仙しか取らない。而もそれまでは一文の金を儲けるどころではない、常に親の脛を齧つて居り、さうして學校を出てからの儲け高が少いから、双方の親が寄合つて何と云ふであらうか。甲者の親が乙者の親に向つて、『お前の子供は何だ、高等の學校へ入れて金ばかりを使ひ、何だか小理窟のやうなことばかりを云つて、漸う/\學校を卒業したと思つたら、僅かに五十仙か八十仙しか取ら無いぢやないか。して見るとおれの所の子供はエライものだ。小學校を卒業した十歳の時から金を儲け、今では一日に一弗も取つて居る、學問も何も要らない、お前は飛んだことをしたものだ』と言ふのである。如斯きは我國に於いても往々聞くところの言葉である。然るに乙者が二十五歳に成ると中々前の一弗の儘で無い、一弗五十仙にもなる、三十歳になれば益す良くなつて來て二弗も三弗も取り、四十歳になると益す多くの收入を得ると云ふやうな傾向である。然るに今一層高等なる職業學校、或は大學のやうな所へ子弟を入れるならば、二十歳になつても未だ卒業しない、二十五歳か三十歳近くになると、何うやら斯うやら四角なシヤツポを廢めて、當り前のシヤツポを冠る。『お前の所の小僧は、三十になるまでも親の脛を齧り、四角なシヤツポを冠つて居る』と斯う謂はれる。その小僧が大學を卒業して、銀行へ出たり、文官試驗に出たりして都合よく行けば、漸う/\月給三十圓ぐらゐだ。餘程良くつて六十圓、日に二圓しか取れぬ。其代りに三十歳から四十歳になると、其の途中で放蕩をし無いで眞面目にやつて行けば、前にシツカリ學問をしたお蔭で、ドシ/\と報酬額が増して來るのである。幾十圓、或は幾百圓と云ふやうに成るであらう。五十ぐらゐになれば國務大臣にでも成れる人物もある。初め十歳から金を取り始めた先生は、六十歳に成つても、迚も國務大臣の見込は無い。是れはモーズレーの委員の調べて書いたものゝ大意である。實に此の給料増進率が巧みに出來て居る。
 然るに職業の爲に教育をするに就いて、極めて困難なることは其程度である。一躰教育なるものは、各自が心に存する力を發達せしむるのが目的であるのに、夫れに程度を定めて、之れ以上發達せしむべからずと斷定したり、或は其の程度で以つて押へるのは甚だ忍び無いことである。けれども職業の教育になると、之を定めねばならぬ。手近い話が大工が釿などを使ふときにでも、出來るだけウンと氣張つてやれと云はれて、ウーンと有りと有らゆる力を出してやつた時には、どんなことが出來るか。材木を損するばかりではなく、自分の手足を負傷するかも知れぬ。物事には程よい加※[#「冫+咸」、U+51CF、229-上-5]があるから、職業を見當にする教育の目的も、之を充分に何處までもズツト伸ばすことは難かしいと思ふ。或漢學者から聽いたのに、教育の字は餘程面白い字だ、の字を解剖して見ると上のと云ふ字を逆にしたのださうで、下のと云ふ字はと云ふ意味ださうである。之は小供が彼方向いて居るのを、美味しい物即ち肉を喰はせてやるから、此方へ向けと云つて引張込む意で、是れが所謂の字の講釋ださうである。斯う云ふ意味に取るときには、職業教育も餘程注意しなければならぬ。何故かと云ふと職業を授けて行くに、其の職業の趣味を覺えさせねばならぬし、そして其職業以上の趣味を覺えさせぬ樣にもせねばならぬ。
 曾て實業學校長會議の席上にて愚説を述べたことがある。其説の要點は、今日我日本に於いて、專ら職業教育を唱へるけれども、之には注意しなければならぬことがある。近頃我國には鍛冶屋のやうな學校もあれば、大工のやうな學校もある。高尚な學校は大學であるが、兎に角隨分高尚な所まで、大工や左官の學問も進んで來て居る。然るに實際今日職業の統計を取つたならば、必ずや日本國民の著しき多數は、車を挽くのを渡世として居る。日本國中の車夫の統計を擧げたならば、恐らくは全國の大工の數よりも、左官の數よりも餘計に在りはせぬかと思はれる。故に大工左官の爲に學校を建てゝやる必要があるならば、其數の上からして、車夫の爲にも學校を建てゝ遣ることが一層必要であらうと云ふた。之は未だ僕が其筋に建議した譯では無いが、若し車夫學校を建てるとすると、それにはどんな學科が必要であらうかと思つて、色々考へたが、先づ第一に生理學が必要と思つた。彼等に取つて欠くべからざるものは筋肉の勞働である。車を曳く姿勢にも樣々あり、又た驅けるときにも、足を擧げて走る奴もあり、ヒヨコ/\と走る奴もある。之を兵式體操を教ふるが如く、其の筋肉を使ふ時分に『進めツ』と云つたら、斯う云ふ工合に梶棒を握り、足を擧げて驅けるのだと、一々教へてやつたらドウであらうか。全國幾萬と云ふ車夫が、最も經濟的に筋肉を使用することが出來て、勞力を多大に節約し得らるゝだらう、之は大切な問題である。それに就いては一通り生理學を教へねばならぬ。生理學を教へて置くことは獨り車夫の爲ばかりで無い、其の車に乘る所のお客さんの爲にも大なる利益がある。一寸車夫が客の顏を見て、『アヽお客さん、あなたは腦充血でもありさうな方です』とか、或は一寸脈を取つて見て、此のお孃さんは心臟病があるとか分る、それで挽き加※[#「冫+咸」、U+51CF、229-下-10]をするやうになる。又た生理學ばかりで無い、地質學も心得てゐたら宜からう。客が彼方へ※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)れと云へば、すると、あそこの地質は何と云ふ地層で、雨の降る時分には中々滑る岩層であるとか云ふことが分る。其他氣象學も教へて置けば、今は天氣が晴れて居るけれども、是れから車を挽いて三里も行けば、天氣が變つて來るからと、前以つてそれだけの賃錢を増して約束する。客の方でも車から降りるときに、彼是小言を云ふ必要が無いと云ふやうな種々な便利がある。如斯くに車夫學とでも言はうか、之を特殊の專門學校で教へるやうにしたらどうであらう。されど一歩進んで考へると、車夫が生理學を學び、一寸人の脈でも取れるやうになれば、矢張り車を挽いて居るだらうか、恐らく挽いてはゐまい。脈が取れるやうになると、もうパツチと半纏とを廢めてしまひ、今度は自分が抱車に乘つて開業醫に成りはせぬか、それが心配である。して見ると車夫なら車夫と云ふ職業で、彼等を捨て置いて、車夫以上の智識を與へてはならぬ。夫れと同じ事で、商業だらうが、工業だらうが、或は教育學であらうが、其他何の學問であらうが、人を一の定まつた職業に安んじて置かうと思へば、其の職業以上の教育をせぬやうに程度を定めねばならぬ。然るに之は甚だ壓制なやり方で、到底不可能ではあるまいか。維新以前は、左官の子供は左官、左官以外の事を習つてはならぬぞと押へ附けて居たかなれど、時々左官の子にして左官に滿足しない奴も出て來た。或はお醫者さんから政治家が出たり、左官から慷慨悲憤の志士が出たりした。之は何かと云ふと、教育と云ふものは程度を定め、之れ以上進んではならぬと云つて、チヤンと人の腦膸を押へ附けることの出來ないものであるからだ。
 少年が大工にならうと思つて工業學校へ這入るとする。然るに彼等は工業學校を卒業した曉に大工を廢めてしまひ、海軍を志願する、かゝる生徒が續々出來るとする。すると縣知事さんが校長を呼んで、此の工業學校は、文部省から補助金を受けてゐるとか、或は縣會で可决して經費を出して居るのであるとか云ひ、其の學校の卒業生にして海軍志願者の多いのは誠に困ると、知事さんらしい小言を云ふ時には何うであるか。『お前は海軍の方へ這入り、海の上の大工に成らうと云ふのでもソレはいかぬ。大工をやるは宜いが、海上へ行つてはいかぬ、陸上の大工に限る』とチヤンと押へ附ける事が出來るか、それは决して出來ない。日露戰爭に日本の海軍が大勝利を博し、東郷大將が大名譽を得られた。明治の歴史に是れほどエライ人は無いと云ふことをば、大工の子供も聞いて居る。それに倫理の講堂では、一旦緩急あらば、義勇公に奉じ云々と毎々聞いて居る。それで彼等に、之は陸上に居つたとて詰らない。小屋だの料理屋だのを建てゝ居るよりも、おれも一つ海軍に入つて、第二の東郷に成らうと云ふ野心の起ることがありとしても、それは無理がない。そこで育の字だ、此の上の方のが美味の肉を喰はうと思ひ、此方へ向いて來るのも亦た當り前である。夫れをこちらへ向かせまいと思つたら、あちらの方にも一つ美味しい肉を附けて、大工は東郷さんよりもモウ一際エライぞと云ふことを示さねばならぬ。ところが大工が東郷大將よりもエライと云ふことは一寸議論が立ちにくい。ヨシ立つた所で子供の頭には中々這入らない。止むを得無い、社會の趨勢で、青年がドウしても海軍に行きたがるやうになつた時には、之を押へ附けることは出來ない。けれども其局に當る教育者が、成丈生徒を其職業の方に留めたいなら、其職業の愉快なること、利益あること、而も只だ個人の爲のみの利益でない、一縣下、一國の爲の利益だ、公に奉ずる道だと云ふことを能く教へねばならぬ。ナニ大工學だ、左官學だ、そんなものは詰らぬと云つて、馬鹿にするやうではいかぬ。けれども世人が軍人々々と云つて居る間は、皆軍人に成りたいのは無理でないから、それで我々はお互ひに注意して、職業に優劣を附けないやうにせねばならぬ。
 一體子供は賞められる方へ行きたい者である。小さい奴は錢勘定で動くものでない。日本人は賞められるのを最も重く思ふことは、日本古來の書物を讀んでも分る。日本人と西洋人との區別は其點に在るので、日本人は惡く云へばオダテの利く人間である、良く云へば非常に名譽心の強い人間である。譬へば日本の子供に對しては、此コツプを見せて、『お前が此のコツプを弄んではならぬ、若し過つて壞したら、人に笑はれるぞ』と云ふのであるが、西洋の子供に對してはさうでない。七八歳或は十歳くらゐの子供に對して、『此コツプは一個二十錢だ、若しもお前が此のコツプを弄んで壞したら、二十錢を償はねばならぬ、損だぞ』と云ふと、その子供はさうかなと思つて手を觸れない。日本の子供には損得の問題を云つても、中々頭に這入るもので無い。殊にお武士さんの血統を引いて居る人達はさうだ。『損だぞ。』『そんならやつてしまへ』と云つて、ポーンと毀してしまう。それで日本人の子供に向つて、『此コツプは他人から委ねられた品物だ、一旦他人から保管を頼まれたコツプを壞すと云ふのは、實に耻かしい次第だ、大切にして置け』と斯う云ふのも宜いが、それよりは『お前がそんな事をすると、あのをぢさんに笑はれるぞ』と云ふと直ぐに廢めてしまふ。人に笑はれるほど恐ろしいものは無いと云ふのが、今日の所では日本人の一つの天性だ。日本では名譽心――榮譽心が一番に尊い。であるから今云ふ職業のことでも同じ道理である。大工や左官が卑しい者だと云つて居ると、誰もそれに成るのを嫌がる。軍人ばかりを褒めると、皆軍人になりたがる、所謂オダテが利くのである。それでどんなに必要な職業でもそちらに向かない。併し政府の云ふことなら大概な事は聽く。所謂法律を能く遵奉し、國家と云ふ字を頗る難有がる國民であるから、法律を以て職業の順序を定めるも宜からう。しかし縣令や告諭ぐらゐでは覺束ない。内閣會議にでも出し、それから貴衆兩議院で决めて、可成人の嫌ふやうな職業を重んずるやうにする法令でも發布したら、或は利目があるかも知れぬ。けれども日本人はオダテの利く人間だから、そんなことをするよりも、遊ばせとかさんの字をモツト餘計に使ふやうにすれば、大分利目があらうかと思ふ。『車屋さん、どうぞ是れから新橋まで乘せて往つて戴きたいものです、お挽きあそばせ。』『車屋さん、是は甚だ輕少ですが差上げませう。』サア斯うなつて來ると車夫と云ふものはエライものだ、尊敬を受くるものだとなつて、車夫の位地もズツト高まるし、又た子供も悦んで車夫に成るであらう。皆それ/″\高尚な資格を備へた人が車夫になる。今日では竊盜でもあるとか、或は喧嘩でもしたと云ふと、其の犯人としては車夫仲間へ一番に目を付けると云ふ話だが、そんな事も無くなつてしまひ、一朝天下の大事でも起れば、新聞屋が車夫の所へ御高説を承はりたいと云つて往くやうにならう。マア世の中はそんなものである。要するに一方に於て職業を輕蔑する觀念が大いに除かれ無ければ、どれほど職業教育に力めた所で効能が薄からう。
 以上教育を施す第一の目的が職業であることを述べて來たが、然るに第二には又たそれと反對の目的がある。それは即ち道樂である。道樂の爲に教育をする、道樂の爲に學問をすることがある。之は一寸聞くと耳觸りだ。けれども能く之を味つて見ると、又た頗る面白い、高尚な趣味があらうと思ふ。人が學問をするのも斯う行きたいものだ。來月は月給が昇るだらうと、職業的勘定づくめの學問をすると、丸で頭を押へられるやうなものだ。けれども道樂に學問をすると、さう云ふことが無い。譬へばの字の上のが、何だか芳しい香氣がするぞ、美味さうだ、一寸舐めて見やうと思つて、段々の方へ向つて來る、即ち樂みを望んでクルリと※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)つて來るのであるから、是ほど結構なことはない。道樂の爲に學問することは、一方から考へると非常に高尚な事である。然るに日本人には道樂に學問すると云ふ餘裕が未だ無いと云つても宜い。
 日本人は頭に餘裕が無い。西洋人には餘裕があることに就いて云へば、彼の英吉利の政治家を見るに、大概の政治家は何か著書を出すとか、或は種々の學術を研究して居る。今の首相も、先達の新聞に載せてある所を見ると、何とか云ふ高尚な書物を著はして居る。グラツドストーンの如きは、あれほど多端な生涯を送つたにも拘らず、常にホーマアの研究をして居た。故の首相ソールズベリー侯は自宅に化學實驗室を設けて置いて、役所から歸ると、暇さへあれば化學の研究をして居た。前首相バルフオアの如きは二三種の哲學書を著して居る。然るに日本の國務大臣方にはどう云ふ御道樂があるか。學者の讀む眞面目な書物などをお著はしになつたことは一切無いと云ふ話である。それならどんな事をしてお出でになるか、能くは分らぬ。酒席で漢詩でも作らるゝが關の山であらう。して見ると道樂の爲に學問をすることは、日本では未だ中々高尚過ぎるのである。其一つの證據には、『女道樂』、『酒道樂』、『食道樂』と云ふやうな書物は出て居るけれど、『學問道樂』と云ふ本は未だ出てゐない。さう云ふものが出ねばいかぬ。村井さんも最う少し世の中が進んだならば、『學問道樂』と云ふものを書くだらう乎。私は村井さんの存命中に、さう云ふ日の來らんことを希望するのである。
 學問の一つの目的として道樂を數へることも、决して差支へなからうと思ふ。一寸聞くと差支へるやうに思はれるけれども、意味の取りやうに由つては實際差支へが無い。或は道樂を目的として教育するのは、をかしいと云ふ人があるかもしれぬが、併し華族さんの如きは別に職業を求むる必要がない。さう云ふ人は道樂に學問するのが大いに必要であらうと思ふ。否、華族さんで無くても、一般に道樂に學問をしたら宜い。即ち學問の研究を好むやうにならねばいかぬ。それのみならず、我々が家庭に在つて子弟を養育する際にも、學問道樂を奬勵したい。然るに今日では、學問は中々樂みどころで無い、道樂どころではない、餘程うるさい、頗る苦しいものゝやうに思はれて居る。それと云ふのは、昔は雪の光で書物を讀んだとか、螢を集めて手習をしたとか、所謂學問は螢雪の功を積まねばならぬ、餘程辛いものであると云ふ教になつてゐるからである。併し僕とても、學問は骨を折らずに出來るものだとは云はない。たゞ面白半分にやつたら、其内に飛び上つて行くものだとは云はない。學問や研究は中々頭腦を費さねばならぬ、眠い時にも睡らずに勵まねばならぬ。けれどそれと同時に學問は面白い、道樂のやうなものであると云ふ觀念を一般の人に與へたい。家庭に於いても、アハヽヽと笑う間に、子弟をして學問の趣味を覺らせることが必要である。
 今日小學では何う云ふ風に教育して居るかと云ふと、大體小學校の教授法が面白くない。子供は低い腰掛をズラリと並べ、其所に腰をかけて居る。先生は高い所に立つて居る。子供が腰掛の上に立つて、先生が下に坐つて居ても、まだ子供の方が低いのに、先生が高い所に立つのだから、先生ばかり高く見える。即ち學問は高臺より命令的に天降る、生徒は威壓されて學問を受ける。それもマア宜いが、さうしてたゞ窮屈に儀式的に教へて居るので、面白をかしく智識を與へることが無い。一體日本の子供ほど可哀相なものはあるまいかと思ふ。我國には憲法があつて、國民は自由である。或は種々の法律があつて、生命財産の安全を保つて居るけれど、教育の遣り方を見ると實に情無い。先づ子供が生れる、脊に負はれる、足を縛られる、血の循環が惡くなる、或は首が曲る。太陽の光線が直接に頭を射て腦充血が起る、又た其光線が眼の中に入つて眼を痛める。或は乳を無暗に哺ませ過ぎて胃腸病を多くする。日本に眼病や胃腸病の多いのは幼兒の養育法を過つて居るからである。又た足を縛るから足の發育が出來ないで、皆短い足になつてしまふ。生れたときからさう云ふ養育法をやり、さうして小學校へ入學してからでも、何か面白いことを云つて笑ふ間に學問をさせるとか、或は筋肉を動かして、身體の發達を促がせば宜いが、さう云ふことはない。尤も近來は小學校の教授法も大分に改良が出來たけれど、兎に角子供の心中には、學問は苦しいものだ、辛いものだと云ふ觀念が注入されて居る。其筆法で大學まで來るが、其間子供が何か書くときでも、面白いと思つて書きはしない、いやだ/\と思つて書いて居る。即ち智識を得るのは成程螢雪の功だと思ふやうになる筈だ。
 若し學校に於ける教育法の改良が急に出來ぬならば、切めて子供が家庭に居る間でも、智識が面白く其頭腦に注入される樣にしたい。父母が面白をかしく不知不識、子供に智識を與へるやうにしたい。僕は子供の時に頭髮を結うて貰つた、八歳の頃迄は髮を結つたのであるが、時々他人から髮を梳いて貰ふと實に痛くて堪らない。其痛さ加※[#「冫+咸」、U+51CF、232-下-8]は今でも忘れられ無い。あれが今日の教授法である。けれどもお母さんが梳くと痛く無い、どんなに髮が縺れてゐても痛くも何とも無かつた。家庭の教育とは斯う云ふものでは無からうかと思ふ。同じ事でも母親は柔かくやるから痛くない、丸でお乳でも哺んで居る心地がした。ところが母親で無い人、即ち今日の先生がやると、無暗に酷くグウーツとやる。……さう云ふ譯で學問は辛いものだと云ふ觀念があるから、學校を卒業すればもう學問は御免だ、眞平御免を蒙りたいと云ふ考が起る。ましてや道樂の爲に學問をするなどゝ云ふ考は毛頭起る理由が無い。僕の望む事は家庭に於て、女子供に雜誌でも見せる折には、譬へば『ラヂユーム』と云ふものは、佛蘭西の斯う云ふ人が發明したもので、之は著しい放射性の元素であると云ふことでも書いてあつたなら、それを平易に説いて聞かせ、尚ほ※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)畫でも有れば見せて皆で樂しむやうにしたい。其間に子供は學問の趣味を味ふのであるが、今日の所では其の教へ方を無理に難かしくして居る。即ち小學校などでは儀式的に教育するから、子供があちらを向いて居るのを、こちらへ向かせる眞の教育の趣旨に適ふまいと思ふ。前に云ふ通りの字はの字の上に、子供のが轉倒して居るのであるから、其の子供の向き方を變更させるのには大いに手加※[#「冫+咸」、U+51CF、232-下-25]がいる。其の手加※[#「冫+咸」、U+51CF、232-下-26]を過まれば教育の方が轉倒してしまふ。願くは教育は面白いものであると云ふ觀念を持たせ、道樂に學問をする人の増加するやうにありたいものだ。
 第三の目的は、道樂と稍關聯して居る、稍類似して居ると思ふが、少し違ふので即ち裝飾の爲に學問をすることで、之も則を越えない程度で、目的としたら宜いと思ふ。教育を飾りにする、これは一寸聞くと甚だをかしい。成程之は過ぎるといかぬ。總じて物は過ぎるといかぬのである、殊に飾りの如きはさうだ。婦人が髮でも飾るとか、或はお白粉を付けるとか、衣類を美麗にするとか、それにしても度を越えると堪らない。されど程好くやつて置くなら、益す其美色を發揮して、誠に見宜い者である。ナニ婦人に限つた事はない、男子でもさうだ、矢張り裝飾が必要である。男は何の爲に洋服の襟飾を掛けるか。矢張り幾らか裝飾を重んずる故だ。フロツクコートの背に幾つもボタンが付いてゐるが、彼所へあんな物を付けたのはどう云ふ譯であらうか、前には臍があるから、平均を保つ爲後に付けたのか、或は乳として付けたのか。乳なら前の方へ付けさうなものだが、後の方に付けるのは何う云ふものであらうか、何しろこんなものは無用の長物だと思へる。けれども一は縫目を隱すため、一は裝飾の爲だと聞くと成程と合點が往く。尤も之れは、昔、劍を吊つた時分、帶を止める爲にボタンが必要であつたのが、今では飾と成つたのだ。凡そ天下の物に裝飾の交らぬはなからうと思ふ。して見れば矢張り教育なるものも、一種の飾としてやつても宜い。
 學問が一の裝飾となると、例へば同じ議論をしても、一寸昔の歌を入れて見たり、或は古人の言行を擧げて見たりすると、議論其者が別にどうなるものでは無くとも、一寸裝飾が附いて、耳で聞き、目で見て甚だ面白くなるのである。其の裝飾が無くして、初から要點ばかり云つては心に入り樣が惡い。世間の人が朝出會つて『お早う』と云ふのも、一種の飾のやうなものだ。朝早いときには早いのであるから、別に『お早う』と云ふ必要が無い、默つて居れば宜からうに、さうではない。『お早う』と云ふ一言で以つて双方の間がズツト和ぐ。今まで何だか變なつらだと思つた人の顏が、『お早う』を言つてからは、急に何となく打解けて、莞爾かなやうに異つて來る、即ち其の人の顏に飾が附いたやうになる。さうするとお互ひの交際が誠に滑かに行くのである。
 露國の聖彼得堡に一人の有名な學者がある。其人は波斯教の經典、『ゼンダ、アヴエスタ』に通じ、波斯古代の文學に精しく、而して年齡は八十ばかりになつて居るさうだ。此人が聖彼得堡の大學では一番に俸給が高い、ところが波斯の古代文學の事だから研究希望者が無い。それで先生は教場に出て講義をするけれど、之を聽く學生が一人も無い爲に、近頃は大學に出ないで、自分の家にばかり居るさうだ。それなら月給は何うするかといふと、それは滿遍なく取つて居るさうだ。愛媛縣知事安藤謙介君は露西亞學者で、あの人が露國の日本公使館に居た時分、露國の文部大臣であつたか、兎に角位地の高い役人に會つた時に、『彼の某はエライ學者だとか云ふけれども、其講義を聽く者が少しも無いさうだ。然るに其俸給は一番高い、幾千と云ふ年俸を取つて居るさうだが、隨分無駄な話で、國の費えでは無いか』と言つた。さうすると其役人の曰く、『どうして、あれは安いものである。波斯の古代文學を研究して居る者は、歐羅巴に彼一人しか無い。ところで偶々十年に一度とか、五年に一度とか、波斯古代の文學に就いて取調べる事があり、研究を要したり、或は學者の間に議論でも起るとなると、其事に精通したものが他に無いから、直ぐに先生の判斷で定まる。して見れば一ヶ年何千圓の年俸を遣つて置いた所で安いものだ』と云つたさうであるが、その某と云ふ學者は唯だそれだけの御用だ。之は何の爲であるか、乃ち謂はゞ國家の飾りだ。『斯う云ふ學者はおれの國にしかない、他に何處にもあるまい』と世界に誇れる。即ち波斯の古代文學に就いて、此人が專賣特許を得て居るのである。さう云ふ飾りの人物だから、一ヶ年三萬圓くらゐの俸給を遣つても安いものだ。日本では利休の古茶碗を五千圓、六千圓と云ふやうな金を出して買求め、之を裝飾にして居るものがある。是れは國の風習だから仕方がないけれど、之れよりも學者を國家の裝飾として居る方が宜からうかと思ふ。學問と云ふものは國の飾とでも言ふべきものである。又た個人より言へば、各自日常の談話に於ても、自然其所に裝飾が出來て萬事圓滑に行くのである。故に教育、或は學問の目的として此の裝飾を重んずることは、至當な事であらうと思ふ。
 第四の目的は一見した所、道樂或は裝飾に稍似てゐるが、大分に其の主眼が違ふのである。即ち第四の目的は眞理の研究である。一寸難かしいやうであるが、別に説明の要も無い。無論先きに言つた職業とは違ふ。職業を目的とする者ならば、之は果して眞理だか何だか、そんなことはどうでも構はぬ、金にさへなれば宜いのである。けれども學者と稱するものが學問をする時分に、之が果して眞理であるか無いかと云ふことを研究するのは、是は高尚な……最も高尚とは言はれぬけれども、マア今まで述べた所のものよりは遙かに高尚であらうと思ふ。併し之も餘程餘裕がなければ出來ぬことである。日本で言はうならば、大學と云ふ所は、學理を攻究する最高の場所である。然るに實際は何うかと云ふと、それは隨分學理の攻究も怠らないが、學理の攻究ばかりするには何分俸給が足ら無い。學問するには根氣が大切である、根氣を養ふには食物も美味なる物を食はねばならぬ、衣服も相當なるものを着ねばならぬ。冬は寒い目をしてはならぬ、夏は暑い目をしてはならぬ。成るたけ身體を壯健にして置かねば學問が出來るものでは無い、それには金が入る。然るに今日の有樣では所謂學者の俸給は、漸く生命を繼ぐだけに過ぎぬ。かゝる譯であるから、學問の攻究、眞理の研究などゝいふことは、學問の眞個の目的とでも云ふべきものであるけれども、實は餘り日本に行はれて居ない。ドウか其の眞理の攻究の行はれるやうにしたいものだ。先に車夫を鄭重に待遇するやうにならば、世人は好んで車夫になるだらう、さすれば車夫に學問を授けても、車夫たるを厭ふものが决して無いやうになるだらうと言つたが、學者も亦た其通りで、兎に角學者を鄭重にすることをせねばならぬ。日本に於ては、或る事に就いては、幾らか學者を鄭重にする風があるけれども、概して鄭重にはしない。一寸鄭重にするのは何う云ふことかと云ふと、先づあの人は學者であると云へば、一寸何かの會へ行つても、上席に座らせるやうな形式的のことをする。けれども亦た一方に於ては、どんな學問をして居ても、學問にはそれ/″\專門のあるものだが、それを專門に研究することを許さない。少しく專門に毛が生えて來ると、こちらからもあちらからも引張りに來て、『おれの所へ來て呉れ』と云ふ。『イヤおれは斯ういふ學問をする積りだから行けない』といふと、『目下天下多事だ、是非君の手腕に據らなければならぬ。君のやうな人はもう其上學問をする必要がない、俸給はこれだけやるから』などゝ云つて誘ひ出すのである。さうすると本人もツイ其の氣になつて、折角やり掛けた專門の學問を打捨てゝしまひ、ノコ/\と其の招聘に應じて、事務官とか、教育家とか云ふ者になつてしまふのである。之は學者の方でも、意思が少しく薄弱であるか知れぬが、又た一方から云へば、學者を一寸鄭重にするやうで其實虐待するのである。果して鄭重にするならば、『月給は澤山にやらう、寐て居て本を讀むなり何うなり、勝手にするが宜い、お前の思ふ存分に專門の學問を研究しろ』と云はねばならぬ。彼の露西亞の學者見たやうにあつてこそ、初て眞の專門學者が出來るのであるが、今日の日本では中々さうは行かない。
 最後の目的、即ち教育の第五の目的に就いて一言せん。之は少しく異端説かも知れないが、僕の考ふるところに據れば、教育は云ふに及ばず、又た學問とは、人格を高尚にすることを以て最上の目的とすべきものでは無いかと思ふ。然るに專門學者に云はせると、『學問と人格とは別なものであれば、學問は人格を高むることを目的とする必要がない。他人より借金をして蹈倒さうが、人を欺さうが、のんだくれになつてゴロ/\して居やうが、己の學術研究にさへ忠義を盡したら宜いじやないか』と云ふ者もある。或は又た、『自分のやつて居る職務に忠勤する以上は、ナニ何所へ行つて遊ばうが、飮まうが、喰はうが、それは論外の話だ』といふ議論もある。學問の目的は、第四に述べた所のもの、即ち眞理の研究を最も重しとすればそれで宜い。人間はたゞ眞理を攻究する一の道具である、それでもう學問の目的を達したものである、人格などは何うでも宜いと云ふ議論が立つならば、即ち何か發明でもしてエライ眞理の攻究さへすれば、人より排斥されるやうなことをしても構はぬと云ふことになるが、人間即ち器ならず、眞理を研究する道具ではない。君子は器ならずと云ふことを考へたならば、學問の最大且つ最高の目的は、恐らく此の人格を養ふことでは無いかと思ふ。それに就いては、たゞ專門の學に汲々として居るばかりで、世間の事は何も知らず、他の事には一切不案内で、又た變屈で、所謂學者めいた人間を造るのではなくて、總ての點に圓滿なる人間を造ることを第一の目的としなければならぬ。英國人の諺に“Something of everything”(各事に就いての或事)と云ふがある。或人は之を以て教育の目的を説明したものだと言ふた。之は何事に就いても何かを知つて居ると云ふ意味である。專門以外の事は何も知らないと云つて誇るのとは違ふ。然るに今此語の順序を變へて見れば、“Everything of something”(或事に就いての各事)と云ふことになる。即ち一事を悉く知るのである。何か一事に就いては何でも知つて居ると云ふ意である。世には菊花の栽培法に就いて、如何なる秘密でも知つて居ると云ふ者がある。或は龜の卵を研究するに三十年も掛つた人がある。さう云ふ人は、人間の智惠の及ぶ限り龜の卵の事を知つて居るであらう。其他文法に於ける一の語尾の變化に就いて二十餘年間も研究した人がある。さうすると其等の事柄に就いては餘程精通して居るが、それ以外のことは知らぬ。是は宇宙の眞理の攻究であるから、第四に述べた所の目的に適つて居る。されど人間としてはそれだけで濟むまい。人間は菊の花や、龜の卵を研究するだけの器械なら宜いけれども、决してさうではない。人間には智識あり、愛情あり、其他何から何まで具備して居るを見れば、必ずそれだけでは人生を完うしたと云ふことが出來ぬ。して見れば專門の事は無論充分に研究しなければならぬが、それと同時に、一般の事物にも多少通曉しなければ人生の眞味を解し得ない。今日の急務は餘り專門に傾き過ぎる傾向を幾らか逆戻しをして、何事でも一通りは知つて居るやうにしなければならぬ。即ち菊の花のことに就いて云へば、おれは菊花栽培に最も精通して居る、それと同時に一寸大工の手斧ぐらゐは使へる、一寸左官の壁くらゐは塗れる、一寸百姓の芋くらゐは掘れる。政治問題が起れば、一寸政治談も出來る、一寸歌も讀める、笛も吹ける、何でもやれると云ふ人間でなければならぬ。之は隨分難かしい注文で、何でも悉くやれる譯にも行くまいが、成るべくそれに近付きたい。所謂何事に就いても何か知ることが必要である。之は教育の最大目的であつて、斯くてこそ圓滿なる教育の事業が出來るのである。茲に至つて人格も亦た初て備はつて來るのであらうと思ふ。
 然るに今日では妙に窮窟なることになつて居て、世の中に一種偏窟な人があれば、『あれは一寸學者風だ』と云ふが、實は人を馬鹿にした話である。又た自分も一種の偏窟な人間であるのを、『おれは學者風だ』と喜んで居る人もあるが、僕の理想とする所はさうでない。『あれは一寸學者見たやうな、百姓見たやうな、役人見たやうな、辯護士見たやうな、又た商人のやうな所もある』と云ふ、何だか譯の分らぬ奴が、僕の理想とする人間だ。然るにそれを形の上に現はして、縞の前垂を掛けて居るから商人だ。穢い眼鏡を鼻の先きに掛け、髭も剃らず、頭髮を蓬々として居れば學者だと云ひ、其上傲然として構へて居れば、愈々以てエライ學者だと云ふやうに、圓滿なる發達の出來なかつた者を以て學者風と云ふのは、抑も間違つた話だと思ふ。盖し學問の最大目的は人間を圓滿に發達せしむることである。
 今日は學問の弊として、往々社會に孤立する人間を造り出す。彼のギツヂングスの社會學に『ソシアス』(Socius)と云ふ語があるが、之は『社會に立つて、社會に居る人』の意である。實に其通りで、苟も人間が此世に在る以上は、决して孤立して居られるものでない。と云ふ字を見ても、或る説文學者の説には、倒れかける棒が二本相互に支ふるの姿勢で、双方相持になつて居るのがだと云ふことだ。我々は社交的の動物であつて、决して社會以外に棲息の出來ないものである。だから吾人々類が圓滿に社會に立つて行けるやうにするのが教育の目的でなければならぬ。されど輕卒にあちらへ行つてはお追從を云ひ、こちらへ來ては體裁能くやつてゐる小才子を以て、教育の目的を遂げた者とは云はぬ。先づ己れの修むべき所のものは充分に之を修め、さうして誰とでも相應に談話が出來て、圓滿に人々と交際をして行けることが教育、即ち學問の最大目的だと思ふ。
 我々は决して孤立の人間になつてはならぬ。飽くまでも此の社會の活ける一部分とならねばならぬ。然るに今までは動もすれば學問に偏してしまひ、學者と云ふと、何だか世の中を去り、山の中にでも隱れて、仙人のやうになつてしまふのであるが、之は大なる間違である。蓋し相持ちにして持ちつ持たれつするが人間最上の天職である。彼の戰國の時、楚の名士屈原が讒せられて放たるゝや、『擧世皆濁れり、我獨り清めり』と歎息し、江の濱にいたりて懷沙の賦を作り、石を抱いて汨羅に投ぜんとした。彼が蒼い顏をして澤畔に行吟してゐると、其所へやつて來た漁父が、『滄浪之水清兮、可以濯吾纓。滄浪之水濁兮、可以濯我足』と歌つて諷刺した。此歌の意味は、『お前が厭世家になつて河に飛込み、可惜一命を捨つるのは馬鹿なことだ。聖人と云ふものは、世と共に歩調を進めて行かねばならぬ、今死ぬる馬鹿があるか』と云ふ意味であらう。して見ると屈原よりも、漁父の方に達見がある。又た彼の伯夷叔齊は、天下が周の世と成るや、首陽山に隱れ、蕨を採つて食つた。其の蕨は實に美味しかつたらうが、我輩の伯夷叔齊に望みたいことは、蕨が美味しかつたなら、何故其蕨を八百屋へでも持つて來て、皆の人にも食はせるやうにしてくれなかつたか、又た蕨粉の製造場でも拵へて、世間の人と共に之を分ち食するやうにしなかつたかと云ふことだ。自分ばかり甘い/\と食つて居るのでは、本當の人間と云へない。故に我々は孤立的動物でない、人間をソシアスとして考へねばならぬ。即ち人間は社會に生存すべき者であつて、决して社會以外に棲息の出來ないものであることを自覺せねばならぬ。又た人間は只だの動物とは異つてゐる。又た單に道徳的萬物の靈長と云ふのみでも無い。人間は社會的の活物である、故に人間をソシアスとして教育することが、最も必要なりと確信するのである。
 我日本に於いては、封建割據の制度からも、自然と地方々々の人の間に隔壁を生じ、互に妙な感情を持つに至つた。近頃は大分に矯正されたけれども、尚ほ大分殘つて居る。尚ほ又た人怖がらせをするやうな、妙に根性の惡いことがある。折々書生仲間の中には、頭髮を蓬々とし、肩を怒らし、短い衣服を着て、怖い顏付をし、四邊を睥睨しながら、『衣至于肝、袖至于腕』などと謳つて、太い棒を持つて歩いて居る。さうして成るたけ世間の人に不愉快な觀念を與へる。それを世間の人が避けると、『おれの威嚴に恐れて皆逃げてしまふ』などゝ云つて悦んで居る。女小供は度々さう云ふ書生に逢ふと、『また山犬が來たナ、噛附きさうだから避けよう』と思つて避ける。併し犬なら犬除の呪もあるけれど、四本足では無くて、二本足で歩いて居る奴だから、『何だか氣味の惡い奴だ』と思つて避けるまでゝある。之は决して其の書生等が惡いばかりで無い、今までの教育法の結果、凡べて他人を敵と視る考から産出されて居る。此考は封建時代の遺物である。僕の生國は今日の巖手縣、昔の南部藩であるが、國隣りに津輕藩があつた。南部と津輕とは、昔しから恰も犬猫のやうに仲が惡かつた。それが爲に南部の方から津輕の國境に向つて道路を造れば、津輕の方はそれとは丸で方角の異つた所へ道路を造ると云ふやうな譯で、少しも道路の連絡が付かない。又た津輕の方で頻りに流行つてゐるものは、南部の方では决して之を用ゐぬと云ふやうな妙な根性があつた。今までも尚ほ其の風が幾らか存して居る。此の双方の間に隔壁を作ることが、即ちソシアスの性格の無い證據だ。然るに今日の日本は、露國と戰つて世界列強の一に加はり、歐米文明國と同等の地位を占めたのである。されば今後の人間を教育せんとするに當つては、最早斯る孤立的觀念、即ち偏頗なる心を全く取去り、其の大目的として、必ずや圓滿なる人間を造るやう、即ち何所までもソシアスとして子弟を薫陶するやうにありたい。之が又た一面に於ては、人格修養の最良手段であらうと思ふ。
 以上に述べた所のものを一言にして云はゞ、即ち教育の目的とは、第一職業、第二道樂、第三裝飾、第四眞理研究、第五人格修養の五目に岐れるのであるが、之を煎じ詰めて云はゞ、教育とは人間の製造である。而して其の人間の製造法に就いては、更に之を三大別することが出來やうと思ふ。例を取つて説明すれば、其の一は彼の左甚五郎式である。甚五郎が美人の木像を刻んで、其の懷中に鏡を入れて置いたら、其の美人が動き出したので、甚五郎は大に悦び、我が魂が此の木像に這入つたのだと、尚も其の美人を踊らして自ら樂しんだと云ふことは、芝居や踊にある。之は自分の娯樂の爲に人間を造るのである。第二例は、英吉利のシエレーと云ふ婦人の著はした、『フランケンスタイン』と云ふ小説にある話だ。其大體の趣意を一言に撮めば、或醫學生が墓場へ行つて、骨や肉を拾ひ集め、又た解剖室から血液を取り來り、此等を組合せて一個の人間を造つた。併しそれでは只だ死骸同然で動かない。それに電氣を仕掛けたら動き出した。固より腦膸も入れたのであるから、人間としての思想がある。こちらから談話を仕掛けると、哲學の話でも學術の話でもする。されど只だ一つ困つたことには、電氣で働くものに過ぎぬので、人間に最も大切なる情愛と云ふものがない、所謂人情が無い。それが爲に其の人間は甚だしく之が欠乏を感じ、『お前が私を拵へたのは宜い、併し是ほどの巧妙な腦膸を與へ、是ほど完全なる身體を造つたにも拘はらず、何故肝腎の人情を入れて呉れなかつた』と云つて、大いに怨言を放ち、其の醫學生に憑り付くと云ふ隨分ゾツトする小説である。此の寓意小説は只だ理窟ばかりを詰込んで、少しも人間の柔かい所の無い、温い情の無い、少しも人格の養成などをし無い所の教育法を責めるものである。彼のカーライルは、『學者は論理學を刻み出す器械だ』と罵つたが、實に其通りである。たゞ論理ばかりを吹込んで、人間として最も重んずる所の、温い情と、高き人格とを養成しなかつたならば、如何にも論理學を刻み出す器械に相違ない。さう云ふ教育法を施すと、教育された人が成長の後に、何故おれ見たやうな者を造つたかと、教師に向つて小言を云ひ、先生を先生とも思はぬやうになり、延いては社會を敵視するに至る。故にかゝる教育法は、即ち先生を敵と思へと教ふるに等しいものである。
 それから第三の教育法を説明する例話は、ゲーテの著はしたる『フアウスト』である。此戯曲の中に、フアウストなる大學者が老年に及び、人生の趣味を悉く味つた所で、一つ己れの理想とする人間を造つて見たいと思ひ、終に『ホムンキルス』と云ふ一個の小さい人間を造つた話がある。其の人間は徳利の中に這入つて居るので、其の徳利の中から之を取出して見ると、種々の事を演説したり、議論したりする。而してフアウストは自分で深く味ひ來つて、人間に最も必要なるものと認めたる温き情愛をも、其の『ホムンキルス』の胸の中に吹込んだのである。そこで其の『ホムンキルス』は能く人情を解し、遖れ人間の龜鑑とすべき言行をするので、之を見る人毎に讚歎して措かず、又た之を造つたるフアウストも、自分よりも遙かに高尚な人間が出來たことを非常に感じ、且つ悦んだと云ふことである。之は出藍の譽ある者が出來たので、即ち教育家其人よりも立派な者が作られたことの寓説である。
 今日我國に於て、育英の任に當る教育家は、果して如何なる人間を造らんとして居るか。予は教育の目的を五目に分けたけれども、人間を造る大體の方法としては、今云ふた三種の内の孰れかを取らねばならぬ。彼等は第一の左甚五郎の如く、たゞ唯々諾々として己れを造つた人間に弄ばれ、其人の娯樂の爲に動くやうな人間を造るのであらうか。或は第二の『フランケンスタイン』の如く、たゞ理窟ばかりを知つた、利己主義の我利々々亡者で、親爺の手にも、先生の手にも合はぬやうなものを造り、却つて自分が其者より恨まれる如き人間を養成するのであらうか。將た又た第三のフアウストの如く、自分よりも一層優れて、且つ高尚なる人物を造り、世人よりも尊敬を拂はれ、又た之を造つた人自身が敬服するやうな人間を造るのであらうか。此の三者中孰れを選ぶべきかは、敢て討究を要すまい。而して此等の點に深く思慮を錬つたならば、教育の目的、學問の目的はどれまで進んで行くべきか、我々は其目的を何所まで進ませねばならぬかと云ふことも自から明瞭になるであらうと思ふ。
(明治四十年八月刊『隨想録』所收)





底本:「明治文學全集 88 明治宗教文學集(二)」筑摩書房
   1975(昭和50)年7月30日初版第1刷発行
   1983(昭和58)年10月1日初版第2刷発行
底本の親本:「隨想録」丁未出版社
   907(明治40)年8月15日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「盖し」と「蓋し」、「挽く」と「曳く」の混在は、底本通りです。
入力:kamille
校正:染川隆俊
2007年1月6日作成
2016年1月18日修正
青空文庫作成ファイル:
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●表記について

「冫+咸」、U+51CF    229-上-5、229-下-10、232-下-8、232-下-25、232-下-26


●図書カード