大丸呉服店

長谷川時雨




――老母のところから、次のような覚書をくれたので、「大丸」のことはもっと後にゆっくりと書くつもりだったが、折角の志ゆえそのまま記すことにした。

 小伝馬町こでんまちょう三丁目のうなぎやは(近三きんさん)明治廿四、五年ごろまであったと思います。
 大伝馬町四丁目(この一町だけとおりはたご町)大丸呉服店にては一月一日表戸を半分おろして、店を大広間として金屏風きんびょうぶを立てまわし、元旦がんたん一日はおよそ(そのころで三百人以上)三、四百人の番頭、若者、小僧一同に大そうなごちそうが出る。お酒も出る。福引その他、実に一年中を一日に楽しませるので、近所の子供らも皆女中小僧をつれて遊びにゆき、羽根をつくやら、まりなげ、楊弓ようきゅうもあり踊りもあれば、三味線もあり、いろいろと楽しませ夕方帰りには、山ほど土産をそれぞれにくれました。
 大丸の符牒ふちょう
 (イエトモヲコルコトナシ)
とか聞いておりました。
 朝は早くから小僧が「おきろよおきろよ。」と呼んで、見世中みせじゅう十人ぐらいで、ぐるぐる起して廻りました。客がはいってくると、帳場の者が――帳場に
 甚四郎[#「甚四郎」は枠囲い]とか
 才助[#「才助」は枠囲い]とか大書した、三尺ばかりの紙札の下に、各自めいめいの横に、小さな帳場格子とかけすずりをひかえて、ずっと並んで坐っています。客は名札を見て、気の合いそうな売手のところへと上ってゆきます。
女客なれば、クノイチクノイチという
男客なれば、ハツコウハツコウという
 クノイチと言えば店中女客と思い、ハツコウといえば男客だと知ります。
 不一のクノイチは不器量な女の事
 不一のハツコウは嫌な男の事
 ト一のクノイチはよき女人のこと
 ト一のハツコウはよき男のこと
 客の買物の金高によって御馳走ごちそうがちがう。その符牒は、
 お菓子なれば「きしるし」という。おそばなれば「とくいし」という。御飯なれば「ふしんかた」という。さかななれば「またろ」という。(またあい)かもしれません。
 大門通り右側に、たはらや(田庄)呉服大問屋、大丸その他へおろし店。そのさきに市田、これも大問屋、市田の方は多く織ものと模様もの、上々品ばかり、人形町その他の呉服店へおろす。
 大門通り左側は角からずっと金物店ばかり、この辺を通ると店々にならんでいる番頭若者らが、よき女子の時は煙草盆タバコぼんのはいふきを二ツたたく。それをまた隣りの店で二ツたたき、つぎつぎに知らせるのです。大丸のまむこうに、大丸出入りの菓子や「かめや」あり、旅籠町はたごちょう通りに大丸とならんで大丸の糸店いとだなと扇店があり、「みすや針店」のとなりが森田清翁という、これも出入りの菓子や。十月十九日べったら市の日には店へ青竹にて手すりをこしらえ、客をはかって紅白の切山椒きりさんしょを売りはじめます。たいした景気、極々よき風味なり。向側の「かめや」にても十九日にはやはり青竹にて手すりをこしらえ、柏餅かしわもちをその日ばかり売ります。エビス様の絵の団扇うちわを客にだしました。この家は神田小柳町からの大火で店蔵をおとして、主人が気が変になって、四、五年の後店もなくなりました。通油町とおりあぶらちょうの大通りの向う側の横町は南新道、それとならんだ通りが大丸新道、この一丁は、大丸の土蔵の窓――裏側なのです――に金網が張ってあり、湯殿も、台所もみなおなじ。

 以上、老母からの手紙は、辿々たどたどしい文ではあるが、大丸という大呉服店を通して、そのうらのおたなものの奴隷生活がうつしだされている。一年に一度の、この目覚ましい慰安的な、解放したようでその実解放しない、人目をくらます華々しいやり方と、終りの方に書いてある、窓々の金網のことを見すごすことは出来ない。
 あたしは震災の幾年か前、ある怪談会が吉原水道じり引手茶屋ひきてぢゃやで催された時にいって、裏の方から妓楼ぎろうの窓を見たことがある。そこにも金網が張ってあった。娼妓しょうぎの逃亡を怖れてだといったが、それより幾年前、帝都の中央まんなかの日本橋に、しかも区内のめぬきで中心点である士地ゆえ、日本国の中心といってもよい場処の大呉服店に、そうした窓が、しかも一丁の半分以上をしめて金網が張りわたされていたという事実がある。それはあたしも子供心に知っていた。盗品をおそれるのだといったが、それならば台所の窓にまでしなくってもよいはずである。外からの盗人をおそれたのではない。
 理屈はやめて、大丸はその近所の者にとって、何がなし目標点だった。物珍らしい見物みものがあれば、みな大丸の角に集まってゆく。鉄道馬車がはじめて通った時もそうなら、西洋人が来たと騒いで駈附けるのも大丸であるし、お開帳の休憩もそこであった。アンポンタンが知らない時分の大丸は、神田から出た北風ならいの火事には、類焼やけるものとして、くら戸前とまえをうってしまうと店をすっかり空にし、裸ろうそくを立てならべておいたのだという、妙な、とんでもない巨大おおき男店おとこだなだった。
 大丸は大伝馬おおでんま旅籠はたご町から大門通りへ折れまがって裏まで通った、一丁の半分以上を敷地にして幾戸前かの蔵と店とで、糸店いとだなによった方に広い土間があった。表附きはあけっぴろげではなく、土蔵造りのところどころに間口があり、そのほかは上部だけ扉があがって、下部は土で塗ってあった。大戸の上げおろしが、あの広い間口では大変だったせいもあろうが、その中側が一軒以上ぐるりとタタキになっている土間だった。老母の覚書にもある通りの紙の名札が、高い欄間らんまから並べて張ってあったが、それは店さきの畳からは、三間以上も奥の方だった。角の大黒柱を中にして、座りどころにも位置があるらしく、甚四郎、才助などと書いた両側に専属の小僧の名が、三ツも四ツも並べて書きつけてあった。
 店さきの諸所に、小切れをいれた箱がすえてあった。あたしの祖母は連合つれあいが呉服の御用商人であり、兄がやはり絹呉服の御用商であった関係か、大丸とはゆかりがありげであった。あたしたちがよい事をしたおりや、若い娘客に何か与えたくなったおり、ちょいと曳裾ひきずそのおつまをとって出かけてゆくさきは、いつも大丸だった。彼女がはいってゆくと、誰かしら顔を見た番頭が立って来て、小切れ箱からしぼりばなしをつまみ出した。赤いのや、濃い紫や、浅黄のが取りだされて八釜やかましぼりとか、麻の葉とか、つのしぼりとか、赤の黄上げのだとか、種々な鹿絞りにも名のあるのをあたしは知った。祖母はその二、三種を、手ごろな有りぎれのまま、ザクリと手にさげて帰る――あたしたちの目はかがやいたものである。そのれ地が、もらった嬢さんたちの結綿島田ゆいわたしまだにもかけられ、あたしたちの着物にもじゅばんの襟にもかけられた。帯にもなった。
 ある日、大丸に大変な人だかりがした。西洋人とうじんが買物に来ているのだという。いってみると、太い赤いくびすじに金茶色の毛がモジャモジャしている、眼鏡をかけた男と、キチキチした、黒っぽく光る上衣うわぎに、腰の方だけ沢山ひだを重ねて広がった服をきている、意地のわるそうにがった、茶色の眼の、きつねのような女が、ボンネットをかぶって、見物にかけつけたものをめかえしていた。小さくてせている犬をつれていた。子供の目にも、今思いだしても、決して上品なよい人柄とは思えなかったので、ものめずらしくはあったが、なんとなくこの西洋人とうじんを軽蔑した。その時分、黒いやせた、茶色の斑点が額にコブのようにある洋犬いぬをカメと呼んだ。だが、そのおり人々が口にしたカメは、連れていた小犬ではなく、どうもその女の方をさして呼んでいた様子だった。西洋人けとうじん傲慢ごうまんだった。泥靴のままで畳の上へ上っていった。
 お正月元日は、大戸の上がところどころ明けてあった。お茶番のいる広い土間の入口のくぐり戸をはいってゆくと、平日いつもに増してお茶番の銅壺どうこにえたち、二つの茶釜ちゃがまからは湯気がたってどこもピカピカ光っていた。すぐ前の別座になっている、大格子の中が大番頭や、支配人や、一番番頭のいるところだった。頭の上の神棚にもお飾りが出来てお燈明とうみょうが赤くついている。そこの前の大飾りは素張すばらしい鏡餅かがみもちが据えてあった。海老えびもピンとはねていた。
 夜があけるとすぐ羽根の音である。いつも番頭の並んでいる区画に、ずっと金屏風が――立派な画のもある――がめぐらされて、そのうち側で羽根をつくのだが、それは朝のうちだけのことで近所の女たちが、見物に出かける時分には、屏風の前の方へ出てきている。小僧も、若者も、番頭も入交いりまじりで、ゆかりのある家の女供や近所の者が、風はなし、自由に広しするので遊びにゆくので、とても壮観な位に、しまいには屏風もとりはらってしまっての追羽根になる。騒々しい位の羽根の音だ。
 糸店いとだなによった方に舞台があって、立派な衣装をつけた芝居を番頭たちがっている。そこも見物はギッシリだ。だがこうした足どめ策をしても、やっぱり外に忍び出るものは多かった。
 この広い店、中央の羽根つき場になる個所はずっと天井が高く、あかりとりになっていて廻りだけにぐるりと二階がある。お客を接待する座敷の方は立派できれいだが、それでも薄暗かった。なぜなら、中央の広場の方の手すりから光りはくるが、肝心な表通りへ面した方には、たしか窓もない盲目建めくらだてだったからである。窓があったとしても、小さなので、細かい、格子ででもあったのであろう。そこから明りがさしたようには覚えていない。床の間には、小谷さんの娘さんがさした、大きな松竹梅の生花が飾ってあった。合宿室も、そうした二階のそこらにあった。台所に近い蔵前には、各自の姓名なまえをかいた雑煮箸ぞうにばしの袋が、板張りに添って細い板割で造った、幾筋かの箸たての溝に、ずらりと並んではさんであった。
 ある番頭が、羽根を突いていて、暑くなったので糸織の羽織をぬいで小僧に渡した。羽織の裏は大きな帆かけ船があって七福神が乗っているのだった。宝と書いてある帆は繻子しゅすで盛上っていた。帆づなの金糸きんしをひくと、帆がひっくりかえって――アンポンタンは多分宝ものが沢山積んであるものだろうときめていたからよく見もしないで、蜜柑みかんまきのみかんを拾うのに無中だったが、その船のうちこそ、彼らが給料をのこらずかけたといってもよい、手のこんだ不思議な細工だということであった。禁欲された彼らが、不自然な生活は哀れなものであったろう。誰も彼も胃病患者に違いない――もしくは十二支腸虫患者か、みんな生気のない、青びょうたんみたいだった。
 だが、不思議に元日に間違いはなく――もっとも大僧より小僧の方のよろこびの日だったのだ。大きいものはもう昼から夕方になると、段々にかげをかくしてしまった。そして無邪気な、近所のものがのさばりかえった。

 大丸の神棚の下に納まっている大番頭たちは、みんな近くに家を持っていた。蔵附きの中流以上の構えである。面白いことに養子制度で、どの家でも細君が家附きの娘だという。多くの中から目ぼしい若者を養子に抜いてゆくのであろう。だが、大番頭の息子も小僧と一緒に終業するのかどうかそれは知らない。あたしの知っている大番頭さんの娘は、おあぐさんにおたをさんという姉妹だった。そのお母さんも、そのまたお母さんも家附きの娘だ。とても丁寧な人たちで――一体にどこの家の女の人もそうだったが――お風呂であうと板の間でも両手をついて、寒いのに何時いつまでも御挨拶ごあいさつがある。時候が冷えますということから、朝晩めっきり寒くなったこと、皆様おかわりがないかということ、先日は何々して何々がなにとやらと、とても閑談的なのである。
 おあぐさんという名は妙だが、下町ではよく阿久利という名をつける。大概大事な子で、子育ちの悪い家でつける者だという。このおあぐさんが、年寄り連の理想的な娘なので、あの通りにお優しく、しとやかな声を出さなければいけないと、よく引合ひきあいに出してしかられた。おあぐさんの家は向う新道の角から二軒目で、二階と塀を通りにもち、玄関はわざとのように、敷石のある露路に古い磨いた格子戸をもっていた。冬は朝早くからかんざらいといって長唄ながうたのおさらいをする。午後おひるっからもする。三味線の音がよく聞えるので、ソラおあぐさんはおさらいだと私も三味線をもたされるので、その方角は鬼門だった。
 その他、大丸直属の仕立屋や縫箔屋ぬいはくやが幾軒かあった。店蔵づくりの、上方かみがた風の荏柄えがらぬりの格子窓で、入口の格子戸の前に長い暖簾のれんが下っていた。帯ばかりくける家もあった。天水桶てんすいおけがあって――桶といっても上に乗っている手桶だけ木で、下の天水桶は鋳鉄いものが多かった。かなりいい金魚が飼ってあるので、金網を張ってあるのもあった。その一軒の大仕立屋におしゅんさんという美しい娘がいて、上方風の「油屋お染」のような濃艶のうえんなおつくりしていた。面長おもながしもぶくれな顔に黒いびんを張って、おしどりに結って鹿の上を金紗きんしゃでむすんでいた。つまみの薬玉くすだまかんざしの長い房が頬の横でゆれて、羽織をきないで、小さい前かけ位な友禅ゆうぜんちりめんの小ぶとんに、緋ぢりめんのひものついたのを背にあてて、紐を胸でむすんでさげていた。そのひとちんを抱いて、夕方遊びに出るのを見るのがあたしは大好きだった。
 大丸の小僧はみんな馬鹿なのかと思ったことがある。大きな姿なりをして、頭髪をおかっぱのようにして、中には胸にあぶらやのような茶色の切れをかけていた――お茶盆をもって、アーアーと節をつけて、店のはなっさきを行ったり来たりしていたからだ。アーアーというのは、おはいりという事なのだといったが、眺めていると好い気持ちではなかった。
 大丸と向いあった角に仏具屋があって、その横に交番があったが、ある日引っこしをした。人夫が交番へ丸太ン棒を通して担いでいってしまったので吃驚びっくりした。でも交番がとれて四ツ角が広くなったのは具合がよかった。何事もみんな物珍らしいことはこの四ツ角に立って見物する最上の場所だったから――
 住吉踊すみよしおどりの一隊が来てかっぽれを踊ると、大きな渦になって見物がとりまいた。梅坊主うめぼうずの連中は夕方にやってくるのでよく人が寄った。お正月の出初でぞめも賑やかだった。下町のまといは大概あつまって、ずっと大伝馬町から油町通りに列をひいて揃って梯子はしご乗りをする。それよりも大丸の年中行事は、諸国から出開帳でがいちょうの諸仏、諸神のお小休みだ。いわ嵯峨さがのお釈迦しゃか様が両国の回向院えこういんでお開帳だとか、信濃しなのの善光寺様の出開帳だとか――そのうちでも日蓮宗ははなやかだった。小伝馬上町こでんまかみちょう身延山みのぶさんの出張寺はあったが、本所の法恩寺へお開帳はもっていった。そのかえりが一日上町のお祖師様へ立寄るのだった。大万燈や、ひげ題目を書いた。ひぢりめんのくくり猿をつけた大巾おおはばちりめんの大旗や、出車だしもでた。縮緬ちりめんゆかたのお揃いもある、しぼりの揃いもある。派手を競い、華美をつくし、見ているのも足労くたびれるほど沢山、目印を各講中ごとに押立てくるが、そのどれもがかわらないのは、気狂いかと思うほど無中で太鼓をたたいてお題目だいもくをど鳴ることだった。花笠を背にしている一連もあれば、男女とも手拭てぬぐいを吉原かぶりにしているのもある。胸で小意気に結んでいるのもある。
 その人たちが――無数な人たちが、一時大丸の店を一ぱいに占領してお中食ちゅうじきをする。それから一休みして順繰りにくりだす。先頭が両国橋へかかる時分に、まだ中頃のが足揃いをしている。御本体が出て、お茶湯ちゃとうが一番最後に出てゆく。
 ある日もアンポンタンはおまっちゃんと四ツ角で、その大人の、目覚めざましい狂奔きょうほんを見物していた。すると、帝釈様たいしゃくさまの剣に錦地にしきじ南無妙法蓮華経なむみょうほうれんげきょうのぼりをたてた出車だしの上から声をかけたものがある。
「ヤッちゃん、手を出して――はやく乗った、乗った。」
 学校友達の古帳面屋のお金ちゃんのお父さんだった。その人は背の高いキレイナ人で、清元きよもとのおさらいの時に山台やまだいに乗って、二、三人でうたっていたことがあって、みんなにオシイー、オシイー、とほめられた人だった。その時はじめて清元とは首を振って唄ってしまうと、おしいーと長くひっぱってほめられるものだということを知ったのだった。金坊のお父さんは、講中の世話役だからたちばなのもようのお揃いの浴衣ゆかたを着て、茶博多ちゃはかたの帯をしめて、おしりをはしょって、白足袋の足袋はだしで、吉原かむりにして襟に講中の団扇うちわをさしていた。
 あたしたちは吃驚びっくりしているうちに、見物が抱上げて出車だしの上の人たちの手に渡してくれた。無論上にはお金坊もおよっちゃんもいた。妙に晴がましかったが、押上げてくれた人たちが不思議とほこらしげにニタニタ笑っていた。日傘ほどの大きな団扇で誰かがあおいでくれる――お金ちゃんのお父さんは首から拍子木ひょうしぎをかけていて、止るところや何かで鳴らした。火の用心と赤く書いてある腰にさげた袋から煙草タバコを出して吸った。行列が深川の高橋にかかった時、あたしは橋の上から後の方を見渡して、誰もほかに知ったものはなし、何処どこにつれてってしまわれるのかとホロホロして帰してくれとせがんだが、もう仕用がないときかれなかった。
 憲法発布はっぷの時、大丸では舞楽の「蘭陵王らんりょうおう」の飾りものをした。これは日本橋油町の鉾出車ほこだしにあったもので、神田田町の「猿」、京橋の「閑古鳥かんことり」と並んで、有名な日本橋の「竜神りゅうじん」とは違うが維新の時国外へ流れ出てしまった、この有名な蘭陵王の面は、アメリカにあるとかいった。大丸では当時の町総代が京都までいって織らせた、蘭陵王の着用のれ地の価値を知っているので、それを造って飾った。その日何処どこでもしたという酒樽さかだるのいくつかが、大丸の前にもかがみが抜いて柄酌ひしゃくがつけて出された。
 油町側では憲法発布の由来というような、通俗的な演説会といったふうなものを催した。そんな時にこそ大丸が会場であるはずなのだが、町内の関係で油町の加賀吉という大店で開かれた。そこはたしか山岸荷葉氏――紅葉こうよう門下で、少年の頃は天才書家として知られていた人である――の生家で、眼鏡や何かの問屋だった。年の暮のえびす講などに忘年芝居を催したりする派手な店で北新道のあたしの家の並びの荷蔵に、荷車で芝居の道具を出しに来たりしていた。その店が会場となり演説のつくえがおかれた。
 そんな事はお江戸開闢かいびゃく以来のことと見えて、アンポンタンの幼い頃にも忘れない不思議な光景を残している。まず、弁者は、その近辺でも当時の新智識ともくされたものと見えて洋服を着ていることの多いあたしの父であった。洋服が新時代の目標であったと見える。もっとも、官員さんの一人もいない土地であって見れば、私の父がハイカラだったのかも知れない。明治十二年官許代言人だいげんにん、今から見ればとても古くさい名だが、十二人とかしかなかった最初の仲間の一人であったときいている。
 前の日まで、憲法ということの講釈を、若い旦那だんなたちの幾人かが熱心に聴きにきた。その人たちが世話役でもあったのであろう。その当日も机をはこんだり、会場のしつらえを問合せに来たりして、いよいよ午後六時前となると、傍聴ファンの動作研究会というような集りになった。どうもまだノーノー、ヒヤヒヤが分明はっきりしないという訳なのだった。書生たちまでが一緒に並んでその稽古をやる。父はハイカラな礼服だが、朝からの祝酒いわいざけに、私が大きらいな赤黒い色になっている。手はずしてあった個処かしょで、合図を忘れるので、ファン連は、困りきって、演説を暗誦あんしょうしておこうと努力したが父は面倒くさがっていた。おれが、このコップをこうあげたらヒヤヒヤだ、机の此処ここへ手をやったらノーだ。こういう風になったら拍手だと教える。だが、やって見るとノーノーもヒヤヒヤも拍手も入交ぜとなる、何度繰返してもおんなじなので、まあいいやということになってしまった。今の言葉ならばそれが自然だというところだったろうが――
 聴衆は表の通り一ぱいの黒山だった。わかったのか解らないのか、ともかくとてもおめでたい事という概念と、はちきれるほど一ぱいなお祭り気分で、ノーノー、ヒヤヒヤ、拍手喝采かっさい、何もかもメチャクチャに景気よく、弁士を胴上げにして家まで送って持って来た。そのあとが馬場勝ばばかつ一派の長唄ながうた――馬場は浅草橋の橋手前、其処そこに住む杵屋きねや勝三郎といった長唄三味線の名人、夜一夜よひとよ唄うにまかせ、狂うにまかせ、市中は明るい不眠症にかかって、そこら中で花瓦斯はなガスが燃え酒樽がいた。雪をこねかえした泥濘ぬかるみに、お酒におなかの袋を破った死人がゴロゴロ転がった。
 多分戸を閉めないで寝た家が多かったろう。





底本:「旧聞日本橋」岩波文庫、岩波書店
   1983(昭和58)年8月16日第1刷発行
   2000(平成12)年8月17日第6刷発行
底本の親本:「旧聞日本橋」岡倉書房
   1935(昭和10)年刊行
入力:門田裕志
校正:小林繁雄
2003年4月2日作成
青空文庫作成ファイル:
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●表記について