一
人間は悲しい。
率直にいえば、それだけでつきる。九条武子と表題を書いたままで、幾日もなんにも書けない。白いダリヤが一輪、目にうかんできて、いつまでたっても、一字もかけない。
遠くはなれた存在だった、ずっと前に書いたものには、
その時分書いたものに、ある伯爵夫人が――その人は鑑賞眼が相当たかかったが、
あのお方に十二単衣 をおきせもうし、あの長い、黒いお髪 を、おすべらかしにおさせもうして、日本の女性の代表に、外国へいっていただきたい。
ああいうお方が、もう二人ほしいとおもいます。一人は外交官の奥さまに、一人は女優に――和歌をおこのみなさるうちでも、ことに与謝野晶子 さんのを――
歌集『黒髪』に盛られた、晶子さんの奔放な歌風が、ある時代をああいうお方が、もう二人ほしいとおもいます。一人は外交官の奥さまに、一人は女優に――和歌をおこのみなさるうちでも、ことに
その晶子さんが、
京都の人は、ほんとに惜 んでいます。あのお姫さまを、本願寺から失 なすということを、それは惜んでいるようです、まったくお美しい方って、京都が生んだ女性で、日本の代表の美人です。あの方に盛装して巴里 あたりを歩いていただきたい。
といわれた。
桜ですとも、桜も一重 のではありません。八重の緋ざくらか、樺 ざくらともうしあげましょう。五 ツ衣 で檜扇 をさしかざしたといったらよいでしょうか、王朝式といっても、丸いお顔じゃありません、ほんとに輪郭のよくととのった、瓜実顔 です。
と、おなじ夫人がいったことも、わたしは書いている。それなのに、なぜ、その時のままのを、
昭和二年ごろだった。
「九条武子さんとこへいったら、ちゃんと座敷へ通して、五円くれた。」
それなのに、五十銭銀貨ひとつとは、なんだというふうに
「あちらには、
と断わったことがあったが、
子
――ある日のことだった。思想のとても新らしい若い男が、あの方と話合った事があった、その男の話は常日頃 そうした話に耳なれていた私でさえ、びっくりさせられるようなことを、たあ様の前でべらべらとしゃべった。それにあのたあ様は眉根 一つ動かさずにむしろその男につりこまれたかのように聞いておられた。そしてその男の話に充分の理解と最も明晰 な洞察 をもって、今の社会の如何 に改造すべきや、現内閣の政治上の事に至るまで、とても確かな意見を出して具合よく応答されたのには聞いていた私が呆 れた。「どうせ華族の女だもの、薄馬鹿に定まってらあ、武子っていう女は低脳だよ」
たしかにこんな蔭口をたたいた事のあったこの男も、すっかり参ってしまって、辞去する頃には、「ねえ、僕らの運動の資金をかせいで下さいな、何? 丁度新聞社から夕刊に出す続きものを頼まれてるんですって? そいつはうまいや、いや、どうも有難う。」
その男が帰ってしまったあとで私はたあ様に訊 いた。「たあ様の周囲にあんな話をして聞かせる方もありますまいに、いつのまにあんな学問なさったの?」その時、たあ様は笑いながら、「私だってそう馬鹿にしたもんじゃありませんよ。」(下略)
このたしかにこんな蔭口をたたいた事のあったこの男も、すっかり参ってしまって、辞去する頃には、「ねえ、僕らの運動の資金をかせいで下さいな、何? 丁度新聞社から夕刊に出す続きものを頼まれてるんですって? そいつはうまいや、いや、どうも有難う。」
その男が帰ってしまったあとで私はたあ様に
武子さんを書く場合に、普通常識ではかりきれないものがあるということを、はっきりさせておかないと具合がわるい。身分があるとか、金持ちだとかいうのとは、また
武子さんはそうした家柄の、本派本願寺二十一代
で、また、ここに、他の宗教家と著しく違うところに、親鸞聖人の妻帯は、必死の苦悩を乗りこした浄土であったのだが、いつからのことか、このお寺だけはお
山中峯太郎氏著、『九条武子夫人』を見ると、父君光尊師は幼いころから武子さんを愛され、伏見桃山の
しかし、愛された父法主は
――かねて双方の間に約束いたしおきたることは、もし当山に万一の事ありし時は、速 かに私が罷 り出て、精々 御助力いたすべく――
これはみな、前記山中氏の著書のなかにあるから、信頼してよいものと思う。こうなると、前法主お十八、十九、二十と、山中氏の著書の中にも、美しき姫の御縁談御縁談と、ところどころに書いてあるが、武子姫の御縁談のことを、重だってお考えになる方は、お姉君の
その一節を引くと、
二十の春を迎え給 いし姫君、まして、世の人々が讃美の思いを集めています武子姫の御縁談につきまして、本願寺の人々が、今は真剣に考慮するようになりました。
「たあさまは、二十にお成りあそばしたのだから」
「しかし、それについて、御法主 は何とも仰せがないから、まことに困る。」
「我れ我れから伺ってみようではないか」
と、室内部長とか、執行部長とか、本願寺内閣の要職にある人々が、鏡如様(光瑞師)の御意見を、伺い出ますと、
「お前たちが選考して好 しい。己 には今、これという心当りがない」と、一任するという意味でした。(註『九条武子夫人』、一四九頁)
「たあさまは、二十にお成りあそばしたのだから」
「しかし、それについて、
「我れ我れから伺ってみようではないか」
と、室内部長とか、執行部長とか、本願寺内閣の要職にある人々が、鏡如様(光瑞師)の御意見を、伺い出ますと、
「お前たちが選考して
それよりさきに、若き新門様光瑞師は、外国にいたときに、愛妹武子さんの将来を托す人をたった一人選みだしたのだった。よき
その
あらためて申すまでもなく、才貌 ともにお麗 しく気高い武子姫に、御縁談の申込みは、すでに方々から集まっていました。中にも、先ず指を折られるのは、東本願寺の連枝(法主の親戚 )の方でした。(中略)東本願寺の連枝へ、武子姫が入輿されますと、両家の間はいよいよ親密に結ばれることになるのでした。しかしながら、西本願寺の重職の人々にしてみますと、法主の妹君として、まして世に稀 れなる才能と、比 いなき麗貌 の武子姫が、世間的に地位なく才腕なき普通の連枝へ、御縁づきになる事は、法主鏡如様の権威に関 わり、なお自分たち一同の私情よりしても、堪えられないことに思われるのでした。――
おお! まあ、そんなことで否決して、会議は幾度も繰りかえされたのだ。
「明如 様(光尊師)が御在世ならば、御一存ですぐ決まるのだけれど……」
「――たあさまが家格の低い所へ御縁づきというのでは、我れ我れが申訳 けないことになる。」
「それは無論、御在世ならば、先方の人物本位にと仰せられるに相違はない。」
「いや、しかし、子爵以下では、何とも当家の権威に係 る」――(『古林の新芽』、一五二頁)
おお! まあ、なんと、そんなことで、華族名鑑をもってきても、選考難に苦しんだとは――「――たあさまが家格の低い所へ御縁づきというのでは、我れ我れが
「それは無論、御在世ならば、先方の人物本位にと仰せられるに相違はない。」
「いや、しかし、子爵以下では、何とも当家の権威に
ここで、前記の、
「お前たちが選考してよろしい、己には今、これという心当りがない。」
という光瑞師のいったことが、まことに痛切に響いてくる。
私は一連枝にすぎないからと、一応辞退したというその人にも先見の明がある。私はその名もきいたが――
「世間的の地位なく」と断わるのは、若い人にむかって無理だと誰しもおもおう。それは、東の法主の後嗣者でもないのにという意味にとればわかる。だが、「才腕なき普通の連枝」とは、失礼なことを言ったものだ。この人、先ごろからの、東本願寺問題に、才腕ある連枝だとの評が高い。
かりそめの 別れと聞きておとなしう うなづきし子は若かりしかな
三夜荘 父がいましし春の日は花もわが身も幸 おほかりし
緋 の房 の襖 はかたく閉ざされて今日も寂しく物おもへとや
――『金鈴 』より――
二
東西本願寺の由来は、七百年前、親鸞聖人の娘、
石山本願寺は、
東本願寺教如上人は、徳川家康の寄進で、慶長七年に六町四方の寺地を七条に得、堂宇も起してもらったが、長子であって本山を追われたという苦い経験が、世々代々、長子伝燈の法則が厳しい。そこに、いかなる凡庸でも長子より法主なくということになり、見込みのある
本願寺さんのお
なんと、因襲と伝統の殻との束縛よ、進取的な、気宇の広い
もとよりわたしは、たしかにそうと断定しない。わたしがその人の口からきいたのではないから。それにもかかわらず、わたしはいたましく思い、人世とはそんなものだとしみじみと感じる。もしそこに、若き
も一度、
かりそめの 別れと聞きておとなしううなづきし子は若かりしかな。
この歌は、爵位局より発布の「尊族簿」が幾度もひっくりかえされているうちに、日は
山中氏の『九条武子夫人』百六十二頁に、
――重職会議へ極めて内々のお諮 りがありました。御生家 の九条公爵の御分家たる良致 男爵を選考するようにとの、それは夫人よりの直接の御相談なのでした。
籌子夫人は十一歳の時に、鏡如様のお許嫁 として、大谷家へ入輿せられ、幼き日より朝夕を、武子姫と共に――良致男爵は籌子夫人の弟君に当られます。なお、夫人の妹君には九条家に
子 姫がいられるのでした。ことに、良致男爵へ武子姫が、なおまた鏡如様の弟君の惇麿 様(光明師)へ
子姫が、御縁づきになりますことは、籌子夫人御自身の深いお望みなのでした。その暁には、九条家と大谷家との御兄弟が、互にお三方 とも御結婚になり、両家にとりてこの上のお睦 みはないのでした。
籌子お裏方 より直接のお諮 りを受けまして、重職の人々は、九条良致男爵を、初めて選考の会議に上すようになりました。それまでは、子爵以上とのみ考えていたのです。
なぜ、子爵だ、男爵だというのか、それは前に、東の御連枝という人を、無爵だといって断わったからで、男爵というのに籌子夫人は十一歳の時に、鏡如様のお
子
子姫が、御縁づきになりますことは、籌子夫人御自身の深いお望みなのでした。その暁には、九条家と大谷家との御兄弟が、互にお籌子お
良致氏はお気の毒な
――かつて一条公爵家の御養子として、暫 く同家に生活していられました。それは、元来一条家よりの懇 ろなお望みがありまして、御結縁 になったのでした。しかし、家風 の上から、その後 、男爵は再び九条家へ、お復 りになったのでした。(前掲一七四頁)
なぜ、この山中氏の著書からばかり引例にするかといえば、材料の籌子夫人は幾度か上京し、仕度万端、みな籌子夫人の
も一度。
緋の房の襖の向うは、彼女の胸の
結婚式をあげに東京へ出発、馬車のうちにはうなだれがちに、武子さんがいた。本願寺の正門から、七条の駅へ――けれども、御婚儀の日が、初対面の日なのでした。――昨日 までの武子姫は、良致男爵……その人について、何も御存じがないのでした。男爵においても、それは同じく、新夫人の性格そのほか、更に御承知はないのでした。
(『九条武子夫人』より抄)
――七条駅近くの大路には、東本願寺の門がある。
性格も趣昧も教養も、まさしく反対の二点にたっているとも書かれている。九月二十五日に九条家に入り、新男爵邸に即日移り、十二月には、先発の
「よろしいように」
と静かに答えるだけだったという。
印度では
船室でお茶がすんで、ボーイが小さなテーブルの上をかたづけにくると、武子さんは立上る、
「では失礼します。」
「どうぞ。」
水の如き夫妻だ。
武子さんも気にせず、良人もそれに不満足を感じるような、世俗的なのではないと、山中氏はいっていられるが、しかし、わたしははっきり言う。それはどっちかが
シベリア線で、籌子夫人して武子さんが帰朝ときまったとき、
「ごきげんよう」
と、別れの言葉は、この一言だけだとある。
良致さんという人が、この通り沈黙寡言な、哲学者かと思っていたらば、先日、ごく心やすくしていたという男の人が来て話すには、なかなか
また、それでなければ、新婚三月の新夫人をかえしてしまって、滞欧十年、子までなさせて、そこの水に親しんではいられないはずだ。
三年たった。ここいらから武子さんが、
この
三
武子さんの第一歌集『
ゆふがすみ西の山の端 つつむ頃ひとりの吾 は悲しかりけり
見渡せば西も東も霞 むなり君はかへらず又春や来 し
作歌の年代を知るよしもないが、これらはずっと古くうたわれたものときいている。一年半以上も外国でくらして、秋も深くなって帰ると翌年の春、籌子夫人が急逝された。その人の望みによって武子さんの生涯は定まってしまったのに、それを望んだ人は死んでしまって、妻という名の、見渡せば西も東も
しかし、おかくれ遊ばした総裁様の御遺志をお伝えするが使命と、武子さんのうるわしい声が、各地巡回宣伝にまわられると、仏教婦人会の新会員は増えてゆくばかりなので、九条武子となっても、本願寺に
遺稿和歌集の『
その一歩かく隔りの末をだに
この風や北より吹くかここに住むつめたき人のこころより吹く
この胸に人の涙をうけよとやわれみづからがくるしみの壺
おもひでの
影ならば
引く力
たまゆらに家をはなれてわれひとり旅に出でむと思ふときあり
たたかへとあたへられたる運命かあきらめよてふ
執着も
むしろわれ思はれ
――滞洛手帖十四首の中から――
ふるさとはうれし散りゆく一葉 さへわが思ふことを知るかのやうに
ふるさとはさびしきわれの心知れば秋の一葉 のわかれ告げゆく
叫べども呼べども遠きへだたりにおくれしわれの詮 なきつかれ
岐 れ路 を遠く去り来 つ正しともあやまれりとも知らぬ痴人
夕されば今日もかなしき悔 の色昨日 よりさらに濃さのまされる
水のごとつめたう流れしたがひつ理 りのままにただに生きゆく
ふるさとはさびしきわれの心知れば秋の
叫べども呼べども遠きへだたりにおくれしわれの
夕されば今日もかなしき
水のごとつめたう流れしたがひつ
震災後
さくら花散りちるなかにたたずめばわが執着のみにくさはしも
ちりぢりにわがおもひ出も降りそそぐひまなく花のちる日なりけり
さくら花散りにちるかな思ひ出もいや積みまさる大谷 の山
まぼろしやかの清滝 に手をひたし夏をたのしむふるさとの人
やうやくに書きおへし文いま入れてかへる夜道のこころかなしも
これはみんな、世にない人を思い出した歌ではない。ふるさとの人とは、誰をさしていったものだろう、そんなことは言っては悪いと叱られるかもしれない。だが、それだからこそ人間ではないか、それだからわたしは武子さんが悲しく、そして忘れないのだ。ただ、わたしはいう、あの豪気な、大きい心の人が、なぜその苦しみとひたむきに戦わなかったか、この人間の苦しみこそ、宗祖ちりぢりにわがおもひ出も降りそそぐひまなく花のちる日なりけり
さくら花散りにちるかな思ひ出もいや積みまさる
まぼろしやかの
やうやくに書きおへし文いま入れてかへる夜道のこころかなしも
『白孔雀』の巻末に、柳原
第一この歌に私はもう涙ぐんでしまった。あのたあ様は本当に深い深い胸の底に涙の壺を抱いていた人だった。
私が今の生活に馴 れるまでの間を、たあ様はどんなに励まし、かつ慰めてくれたことであったろう、「貴女 は幸福よ。」この一言によって私は考えさせられた。人というものはどうかすると自分の幸福を忘れている事がある。幸福だという事を忘れれば幸福にはぐれてしまう、という事を教えられた。私は何といってあの方に感謝していいかわからない。人こそ知らね私には深い思いがあるからである。
私が今の生活に
美しき裸形 の身にも心にも幾夜かさねしいつはりの衣
「ねえ、私だって、ああなのよ、こうなのよ、ねえ、よう。」甘えるように私の手をとってゆすぶったりした。私は、「そんなら御勝手になさいまし、ただ、くしゃくしゃ語ったって、私がどうにもして上げられるもんじゃなし。」とつんと突き放したものいいをすると、その時、ほっとためいきをつきながら「もういわないから、かんにんよ。」あの時の少女のような身のこなしが、今も目に浮かんで来てしようがない。
――たあ様の歌は本当の実感から生れたものだった。
私の友よ、友の霊よ、この歌の一つ一つが、貴女 の息から生れたものなのだ、それぞれに生命 があるのだ――
――たあ様の歌は本当の実感から生れたものだった。
私の友よ、友の霊よ、この歌の一つ一つが、
人生の裏も底も、涙も知りつくしたはずの歌人、
――今その手録された詠草を見ると、「薫染 」に収められた歌以外のものに、かえって真実味に富んだ、哀婉 痛切なる佳作が多いような気がする。私は先ず手録された詠草の最初にあった、
百人のわれにそしりの火はふるもひとりの人の涙にぞ足る
の一首に、これまでの武子夫人の歌に見られなかったような情熱を覚えると同時に、かなり感激した心持でこの新しい歌集『白孔雀』の編輯 に従うことが出来たのであった。
この十一月初旬、この遺稿の整理をしに往 った別所温泉は、信濃路 は冬の訪れるのが早いのでもう荒涼たる色が野山に満ちて、部屋の中にいても落葉の降る音が雨のように聴えた。が、手録の詠草を一首々々読んでゆくうちに、私の耳にはだんだんそんなもの音も聴こえなくなった。私は真実味の深い歌が見出される度 ごとに、若うして世を去った麗人を傷 むの情に堪 えなかったのである。
この十一月初旬、この遺稿の整理をしに
死ぬまでも死にての後もわれと云ふものの残せるひとすぢの路
そういう死をうたった歌や、
この胸に人の涙もうけよとやわれみづからが苦しみの壺
といったような悲しみの歌を読むと、私の目はひとりでに潤 んだ。
たまゆらに家を離れてわれひとり旅に出でむと思ふときあり
たたかへとあたへられたる運命かあきらめよてふ業因 かこれ
うつくしき人のさだめに黒き影まつはるものかかなし女 は
そのことがいかに悲しき糸口と知らで手とりぬ夢のまどはし
まざまざとうつつのわれに立ちかへり命いとしむ青空のもと
しかはあれど思ひあまりて往 きゆかばおのがゆくべき道あらむかな
何気なく書きつけし日の消息がかばかり今日のわれを責むるや
酔ざめの寂しき悔は知らざれど似たる心と告げまほしけれ
たたかへとあたへられたる運命かあきらめよてふ
うつくしき人のさだめに黒き影まつはるものかかなし
そのことがいかに悲しき糸口と知らで手とりぬ夢のまどはし
まざまざとうつつのわれに立ちかへり命いとしむ青空のもと
しかはあれど思ひあまりて
何気なく書きつけし日の消息がかばかり今日のわれを責むるや
酔ざめの寂しき悔は知らざれど似たる心と告げまほしけれ
こういう寂しい心境をうたった歌を読んで、その人がもうこの世にないということを考えると、人生、一路の旅の、果敢 なさを思わずにはいられなかった。――『白孔雀』から――
吉井さんにしても、
子――いや、武子さんは、御自分のしていることがお好きなのでした。御満足だったのです。一番好きなことをしていたのです。
こういった中年男は、良致さんが大好きで、男は何をしても、細君はいとまめやかに、愛らしくという立場だから、失礼なことをいうのも仕方がない。どんな売女でももっている、女っぽさや、女の純なものがないの、けちんぼだの、
武子さんは、「女」を見せることを、きらったのだ、誰にも見られたくなかったのだ。わざとする
――今思うとこんなこともあった。そのころの道具掛 の者が知らなかったのかどうか、割れなくていいというような意味から、金 の水指 を稽古 用に出してくれたのが、数年のあとで名高い和蘭陀毛織 の抱桶 であったことや、また幾千金にかえられた堆朱 のくり盆に、接待煎餅 を盛って給仕 が運んでおったのもその頃であった。
そうした器物まで払いさげられたりして、経済のこともよくわかっていたのであろうし、それよりも、これはあとにもいうが、つまらないことで失いたくない、要用なことにと、いつも心に武子さんは、あまり広く愛されて、世間のつくった型へはめられてしまって、聖なる女として、苦しんだ。その
おせっかいな世間は、武子さんが完全な人となろう、としているときに――外国にいる人も、そちらにいる方が家庭円満であったかもしれないのに、麗人に
死ぬる日の半月ばかり前に、偶然に行きあったのは、かの、かりそめの別れとすかされて、おとなしく
私が、戯曲的に考えれば、生母の
おかあさま、そのお数珠を、私の手にかけてください。
といわれたということが、新聞にも出ていたが、その水晶の数珠は、かつて、武子さんが、御生母へあげたものだということから、その数珠には、母子だけしか知らない温かい
君にききし勝鬘経 のものがたりことばことばに光りありしか
君をのみかなしき人とおもはじな秋風ものをわれに告げこし
この日ごろくしき鏡を二ツもてばまさやかに物をうつし合ふなり
君をのみかなしき人とおもはじな秋風ものをわれに告げこし
この日ごろくしき鏡を二ツもてばまさやかに物をうつし合ふなり
勝鬘経は、印度
二月八日の
あまり多くのものに、死者の顔を見せるのは嫌いだから、見られるのはお
震災
その時、
「

と、突然と武子さんがいった。それは、
二人は目を見合わせたきりで、探りあう気持ちだった。この人は、もっともっと大きい
震災に、なんにも持たずに
武子さんは、もうちゃんと、ああ出来上ってしまって、あれがいいのだから、美人伝へよけいな感想なんか書いてはいけないと。知っている人たちがみんなこういう。もとより、武子さんはわたしも大事にする。けれど、もっと大胆に、いいところをいってもいい、人間らしいところを
そういえば、武子さんは快活な、さばけたところのあるのは、幼いときからだというが、人徳を知るのに面白い逸話がある。ある美術家のうちの
あなかしこ神にしあらぬ人の身の誰 をしも誰 が裁くといふや
ただひとりうまれし故にひとりただ死ねとしいふや落ちてゆく日は
をみなはもをみなのみ知る道をゆくそはをのこらの知らであること
ただひとりうまれし故にひとりただ死ねとしいふや落ちてゆく日は
をみなはもをみなのみ知る道をゆくそはをのこらの知らであること
――歌集『薫染 』より――
はつ春の夜 を荒るる風に歯のいたみまたおそひ来ぬ――
この最後の一首は、「
みめよい娘 じゃとて、ほんに女は仕合せともかぎりませんわいな。
おお、そうですぞ、おまえさんの正直な美しい恋のまことが、やがてきっと、大きな御手 にみちびかれてゆきまする。
昭和三年一月十六日より歯痛、発熱は暮よりあった。十七日、磯辺病院へ入院、気管支炎もおお、そうですぞ、おまえさんの正直な美しい恋のまことが、やがてきっと、大きな
この人に
――昭和十年九月――