九条武子

長谷川時雨




       一

 人間は悲しい。
 率直にいえば、それだけでつきる。九条武子と表題を書いたままで、幾日もなんにも書けない。白いダリヤが一輪、目にうかんできて、いつまでたっても、一字もかけない。
 遠くはなれた存在だった、ずっと前に書いたものには、気高けだかき人とか麗人とか、ありきたりの、誰しもがいうようなめことばを、ならべただけですんでいたが、そんなお座なりをいうのはいやだ。
 その時分書いたものに、ある伯爵夫人が――その人は鑑賞眼が相当たかかったが、
あのお方に十二単衣ひとえをおきせもうし、あの長い、黒いおぐしを、おすべらかしにおさせもうして、日本の女性の代表に、外国へいっていただきたい。
ああいうお方が、もう二人ほしいとおもいます。一人は外交官の奥さまに、一人は女優に――和歌をおこのみなさるうちでも、ことに与謝野晶子よさのあきこさんのを――
 歌集『黒髪』に盛られた、晶子さんの奔放な歌風が、ある時代を風靡ふうびしたころだった。
 その晶子さんが、
京都の人は、ほんとにおしんでいます。あのお姫さまを、本願寺からなくなすということを、それは惜んでいるようです、まったくお美しい方って、京都が生んだ女性で、日本の代表の美人です。あの方に盛装して巴里パリーあたりを歩いていただきたい。
といわれた。米国アメリカの女詩人が、白百合しらゆりたとえた詩をつくってあげたこともあるし、そうした概念から、わたしはざくらのかたまりのように輝かしく、憂いのない人だとばかり信じていた。もっとも、そのころはそうだったのかもしれない。

桜ですとも、桜も一重ひとえのではありません。八重の緋ざくらか、かばざくらともうしあげましょう。いつぎぬ檜扇おうぎをさしかざしたといったらよいでしょうか、王朝式といっても、丸いお顔じゃありません、ほんとに輪郭のよくととのった、瓜実顔うりざねがおです。
と、おなじ夫人がいったことも、わたしは書いている。
 それなのに、なぜ、その時のままのを、ほかの人のとおりに、古いままで出さないのかといえば、わたしは女でなければわからない、女の心を、ふと感じたからで、あたしには偽りは言えない。といって、いきているうちから伝説化されて、いまは白玉楼中はくぎょくろうちゅうに、清浄におさまられた死者を、今更批判するなど、そんな非議はしたくない。ただ、人間は悲しいとおもいあたるさびしさを、追悼の意味で、あたしの直覚から言ってみるに過ぎない。しもとの多くくるのは知っているが、手をさしのべて握手するのも目に見えぬ武子さんであるかもしれない。

 昭和二年ごろだった。掠屋りゃくやが――商業往来にもない、妙な新手のものが、階級戦士ぶってやって来ていうには、
「九条武子さんとこへいったら、ちゃんと座敷へ通して、五円くれた。」
 それなのに、五十銭銀貨ひとつとは、なんだというふうになじった。女というものはそういったらば、まけずに五円だすとでも思っている様子なので、
「あちらには、阿弥陀あみださまという御光ごこうが、うしろにひかっていらっしゃるから、お金持ちなのだろう。われわれは、原稿紙の舛目ますめへ、一字ずつ書いていくらなのだから、お米ッつぶ拾っているようなもので、駄目だめだ。」
と断わったことがあったが、吉井勇よしいいさむさんが編纂へんさんした、武子さんの遺稿和歌集『白孔雀しろくじゃく』のあとに、柳原※(「火+華」、第3水準1-87-62)やなぎはらあきこさんが書いていられる一文に、
――ある日のことだった。思想のとても新らしい若い男が、あの方と話合った事があった、その男の話は常日頃つねひごろそうした話に耳なれていた私でさえ、びっくりさせられるようなことを、たあ様の前でべらべらとしゃべった。それにあのたあ様は眉根まゆね一つ動かさずにむしろその男につりこまれたかのように聞いておられた。そしてその男の話に充分の理解と最も明晰めいせき洞察どうさつをもって、今の社会の如何いかに改造すべきや、現内閣の政治上の事に至るまで、とても確かな意見を出して具合よく応答されたのには聞いていた私があきれた。「どうせ華族の女だもの、薄馬鹿に定まってらあ、武子っていう女は低脳だよ」
たしかにこんな蔭口をたたいた事のあったこの男も、すっかり参ってしまって、辞去する頃には、「ねえ、僕らの運動の資金をかせいで下さいな、何? 丁度新聞社から夕刊に出す続きものを頼まれてるんですって? そいつはうまいや、いや、どうも有難う。」
その男が帰ってしまったあとで私はたあ様にいた。「たあ様の周囲にあんな話をして聞かせる方もありますまいに、いつのまにあんな学問なさったの?」その時、たあ様は笑いながら、「私だってそう馬鹿にしたもんじゃありませんよ。」(下略)
 この一節いっせつに思いあわせたのだった。その訪問者の軽率なのも、掠屋りゃくやにもおかしさもあったが、武子さんの晩年の救済事業が、なんとなくえてきた心境を感じさせていたので、人をるいとまもなく、聞こうとしたものがあったのだと思わせられた。死んでしまった、古い宗教からけて、自分の救いを――と、いってわるければ、新しくゆく道をたずねていた人ではないかと、思っていたことにこの一節がぴたときたのだった。

 武子さんを書く場合に、普通常識ではかりきれないものがあるということを、はっきりさせておかないと具合がわるい。身分があるとか、金持ちだとかいうのとは、またちがっている。それらの人たちからも拝まれてもいれば、一般からもおがまれている。ある時は人間であり、ある時は阿弥陀さまと同列に見られ――見る方が間違っているのだが、特別人あつかいで、それが代々、親鸞聖人しんらんしょうにん以来であり、しかもその祖師は、苦難をなされはしたが、もとが上流の出であり、いかなる場合にも凡下ぼんげとはおなじでなく、おがまれ通してきた血であることだ。本願寺さまは本願寺さまでなければならぬところを、大谷家おおたにけになり、子爵と定まり、伯爵となったが、それだけでも門徒には大打撃だったのだ。生仏いきぼとけさまの血脈おちすじが、身分が定まってしまったのだから、信徒の人々には一大事で浅間あさましき末世とさえおもわれたのだ。
 武子さんはそうした家柄の、本派本願寺二十一代法主明如上人ほっすみょうにょしょうにん(大谷光尊こうそん)の二女に生れ、長兄には、英傑とよばれた光瑞こうずい氏がある。
 で、また、ここに、他の宗教家と著しく違うところに、親鸞聖人の妻帯は、必死の苦悩を乗りこした浄土であったのだが、いつからのことか、このお寺だけはおめかけのあることがなんでもないことになっていて、お生母はらさんというものがあることなのだ。姻戚いんせき関係もおおっぴらで、もっとも縁の深いのが九条家で、つき関白兼実かんぱくかねざねの娘玉日姫たまひひめと宗祖の結婚がはじまりで、しかも宗祖は関白の弟、天台座主てんだいざす慈円の法弟であったのだから関係は古い。ごく近くでは、光瑞氏夫人が九条家から十一歳の時に輿入こしいっているし、光瑞師の弟光明師には、夫人の妹がとつがれている。重縁ともなにとも、感情がこぐらかったら、なかなか面倒そうだ。
 山中峯太郎氏著、『九条武子夫人』を見ると、父君光尊師は幼いころから武子さんを愛され、伏見桃山のふもとの別荘、三夜荘さんやそうにいるころは、御門跡ごもんぜきさまとおひいさまのお琴がはじまったと、近所のものが外へ出てきたりしたという。武子さんの文藻ぶんそうはそうしてはぐくまれたというが、この父君の雄偉な性格は、長兄光瑞師と、武子さんがうけついでいるといわれているそうで、武子さんは暹羅シャムの皇太子に入輿にゅうよの儀が会議され――明治の初期に、日支親善のため、東本願寺の光瑩こうけい上人の姉妹はらからが、しん帝との縁組の交渉は内々進んでいたのに沙汰さたやみになったが――武子さんのは、十七の一月三日、暹羅シヤム皇太子が西本願寺を訪問され、武子さんも拝謁されたが、病いをおして歓迎、法要をつとめ、その縁談に進んで同意だった、父法主ほっすが急に重態となり遷化せんげされたので、そのままになってしまったという、東本願寺の元老、石川舜台しゅんたい師の懐旧談がある。――兄光瑞師――新門しんもん様――法主の後嗣あとつぎ者が革命児で、廿二、三歳で、南洋や、西蔵チベットへいっていることを見ても、その人たちと似た気性といえば、武子さんはなみなみの小さい器ではない。
 しかし、愛された父法主はき、新門跡は印度にいてまだ帰らず、ここで、木のぼりをしても叱られないでおさるさんと愛称された愛娘まなむすめに、目に見えない生活の一転期があったことを、見逃みのがせない。それは、新門跡夫人の父君、九条道孝みちたか公が、家扶かふをつれて急いで東京から来着し、おもな役僧一同へ、
――かねて双方の間に約束いたしおきたることは、もし当山に万一の事ありし時は、すみやかに私がまかり出て、精々せいぜい御助力いたすべく――
 これはみな、前記山中氏の著書のなかにあるから、信頼してよいものと思う。こうなると、前法主お裏方うらかたの勢力も、お生母はらさんのお藤の方もなにもない、お裏方よりは愛妾おめかけお藤の方のほうが、実はすべてをやっていたのだというが、もはや新門跡夫人の内房ないぼうでなければならない。と、同時に、武子さんの位置もおなじお姫さまでも、かわったといわなければならない。
 十八、十九、二十と、山中氏の著書の中にも、美しき姫の御縁談御縁談と、ところどころに書いてあるが、武子姫の御縁談のことを、重だってお考えになる方は、お姉君の籌子かずこ夫人が、その任に当られるようになりましたとある。本願寺重職の人々が、それぞれ控えていまして、その人々の意見もあり、籌子夫人お一方のお考えどおりには、捗行はかゆかぬ煩らわしい関係になっているのでした、ともある。
 その一節を引くと、
二十の春を迎えたまいし姫君、まして、世の人々が讃美の思いを集めています武子姫の御縁談につきまして、本願寺の人々が、今は真剣に考慮するようになりました。
「たあさまは、二十にお成りあそばしたのだから」
「しかし、それについて、御法主ごほっす何とも仰せがないから、まことに困る。」
「我れ我れから伺ってみようではないか」
と、室内部長とか、執行部長とか、本願寺内閣の要職にある人々が、鏡如様(光瑞師)の御意見を、伺い出ますと、
「お前たちが選考してよろしい。おれには今、これという心当りがない」と、一任するという意味でした。(註『九条武子夫人』、一四九頁)

 それよりさきに、若き新門様光瑞師は、外国にいたときに、愛妹武子さんの将来を托す人をたった一人選みだしたのだった。よき伴侶はんりょと見きわめ、妹をもらってくれといったのだというふうに、わたしはきいている。私は一連枝いちれんしにすぎないからと、先方は一応辞退されたのを、人物を見込んで言いだした人は、地位などで選みはしなかったのだから、二人だけの約束は結ばれた。帰朝すると、夫人にもその事は話され、武子さんもきいて、その人も帰ると表向きの訪問が許され、内園を、連れ立っての散歩も楽しげだったというのに、それはどうして破れたのか――
 そのかんの消息は、山中氏の著書ばかり引くようだが、
あらためて申すまでもなく、才貌さいぼうともにおうるわしく気高い武子姫に、御縁談の申込みは、すでに方々から集まっていました。中にも、先ず指を折られるのは、東本願寺の連枝(法主の親戚しんせき)の方でした。(中略)東本願寺の連枝へ、武子姫が入輿されますと、両家の間はいよいよ親密に結ばれることになるのでした。しかしながら、西本願寺の重職の人々にしてみますと、法主の妹君として、まして世にれなる才能と、たぐいなき麗貌れいぼうの武子姫が、世間的に地位なく才腕なき普通の連枝へ、御縁づきになる事は、法主鏡如様の権威にかかわり、なお自分たち一同の私情よりしても、堪えられないことに思われるのでした。――
 おお! まあ、そんなことで否決して、会議は幾度も繰りかえされたのだ。
明如みょうにょ様(光尊師)が御在世ならば、御一存ですぐ決まるのだけれど……」
「――たあさまが家格の低い所へ御縁づきというのでは、我れ我れが申訳もうしわけないことになる。」
「それは無論、御在世ならば、先方の人物本位にと仰せられるに相違はない。」
「いや、しかし、子爵以下では、何とも当家の権威にかかわる」――(『古林の新芽』、一五二頁)
 おお! まあ、なんと、そんなことで、華族名鑑をもってきても、選考難に苦しんだとは――
 ここで、前記の、
「お前たちが選考してよろしい、己には今、これという心当りがない。」
という光瑞師のいったことが、まことに痛切に響いてくる。
 私は一連枝にすぎないからと、一応辞退したというその人にも先見の明がある。私はその名もきいたが――
「世間的の地位なく」と断わるのは、若い人にむかって無理だと誰しもおもおう。それは、東の法主の後嗣者でもないのにという意味にとればわかる。だが、「才腕なき普通の連枝」とは、失礼なことを言ったものだ。この人、先ごろからの、東本願寺問題に、才腕ある連枝だとの評が高い。
かりそめの 別れと聞きておとなしう うなづきし子は若かりしかな
三夜荘さんやそう 父がいましし春の日は花もわが身もさちおほかりし
ふさふすまはかたく閉ざされて今日も寂しく物おもへとや
――『金鈴きんれい』より――

       二

 東西本願寺の由来は、七百年前、親鸞聖人の娘、弥女いやにょが再婚し、夫から譲られた土地に、父親鸞上人の廟所びょうしょをつくったのにはじまる。この弥女は覚信尼かくしんにといい、この人の孫が第三世覚如かくにょ。親鸞の子善鸞ぜんらんから、如信にょしんとなり、覚信尼の孫、覚如の代となるまでには、覚信尼は創業の苦労と煩悩ぼんのうもあったわけだった。八世の蓮如れんにょ上人の時、伝道教化きょうげにつとめ、九世実如のとき、準門跡の地位にまでのぼったのだ。十世証如しょうにょのころは戦国時代ではあり、一向一揆いっこういっきは諸国に勃発ぼっぱつし、十一世顕如けんにょに及んで、織田信長と天正てんしょうの石山合戦がある。
 石山本願寺は、現今いまの大阪城本丸の地点にあって、信長に攻められたのだが、一向宗は階級的な強さがあるので、負けるどころではなかったが、綸旨りんしくだって和議となったのだった。天正十九年に、豊臣秀吉とよとみひでよしから現在の、京都下京堀川、本願寺門前町に寺地じちの寄附を得た。しかし、この時に今日こんにちの東西本願寺――本願寺派本山のお西にしと、真宗大谷派本願寺のおひがしとが分岐した。東は、西の十一世顕如の長子教如の創建で、長子が寺を出たということには、意見の相違があり、閨門けいもんの示唆によって長子が退けられたともいわれている。
 東本願寺教如上人は、徳川家康の寄進で、慶長七年に六町四方の寺地を七条に得、堂宇も起してもらったが、長子であって本山を追われたという苦い経験が、世々代々、長子伝燈の法則が厳しい。そこに、いかなる凡庸でも長子より法主なくということになり、見込みのある御連枝ごれんし(兄弟、近親)でも、御出世はないものと見られ、せめて子爵でなくとも、男爵ででもおありならと、武子さんの配偶が断られた訳もそこにある。三百年間親戚としての往来はおろか、敵視状態だったのが、明治元年に絶交を解いて、交際が復活したからとて、両方の法主――光尊、光瑩の両裏方を、お互いに養女としあって、戸籍上の姻戚関係をむすんだといっても、おたから娘の武子さんを、となると、惜んだもののあったのも、わからなくもない。
 本願寺さんのおひいさんは、本願寺さんのでおきたいと、京都の人たちは惜んでいるというのも、いつまでもあの麗人がお独身ひとりみでと、案じているというのも、結びあわせてみると、卑俗な言いかただが、西から東へ人気が移る憂いは充分ある。お西さんからお東さんへ、のなかの玉をさらわれるふうに考えたものもなくはあるまい。
 なんと、因襲と伝統の殻との束縛よ、進取的な、気宇の広い若人わこうどたちには住みにくい世界よ、熟議熟議に日が暮れて、武子さんの心はぐんぐんと成長してゆく、兄法主には、大きく世界の情勢を見ることを啓発され、うちにはロシアとの戦争に、報国婦人団体が結成され、仏教婦人会の連絡をとり、籌子かずこ夫人について各地遊説ゆうぜいに、外の風にも吹かれることが多くなって、育ちゆく心はいつまでおかわいいおひいさまでいるであろうか。人を見る目も出来れば人の価値も信実もわかってくる。阿諛あゆと権謀の周囲で、離れてはじめてたっとさのわかるのはまことだけだ。
 一葉いちよう女史の「きょうづくえ」は、作としてほかのものより高く評価されていないが、わたしはあの「経づくえ」のお園の気持ちを、いまでも持っている女はすけなくはなったであろうが、あるとおもう、明治年代の、しとやかに育てられた、つつしみぶかい娘には、代表してくれている涙を包んでいる。あの中には、一葉女史の悲恋をも多分にふくめているが、武子さんにあの読後感をききたいとおもいもした。無論、あすこはぬけ出てしまって雑誌『白樺しらかば』の武者小路むしゃのこうじ氏の愛読者となったのは、心持ちが整理されてからではあろうが、別れてのちに、しみじみと知るまたとなきその人のよさ、世をふるにしたがって、思いくらべて惜しむ心はなかなかにあわれは深い。
 もとよりわたしは、たしかにそうと断定しない。わたしがその人の口からきいたのではないから。それにもかかわらず、わたしはいたましく思い、人世とはそんなものだとしみじみと感じる。もしそこに、若き灼熱しゃくねつの恋があったら、桃山御殿の一部で、太閤たいこう秀吉の常の居間であったという、西本願寺のなかの、武子さんが住んでいた飛雲閣ひうんかくから飛出されもしたであろうし、解決は早くもあったろうに、若き御連枝はムッとしてそのまま訪問されず、しかも、その人も配偶をむかえてから、かわものはなかったとのたんをもたれたのだから悲しい。
 も一度、
かりそめの 別れと聞きておとなしううなづきし子は若かりしかな。
 この歌は、とつがれてのち、夫君つまぎみを待って読んだ歌だと解釈されているけれど、もうそのころ、武子さんは二十三歳、令嬢としては出来上りすぎている立派な人だった。十八に、十七に、十九におきかえて考えると、おとなしううなずきし子が目に見えてくる。

 爵位局より発布の「尊族簿」が幾度もひっくりかえされているうちに、日はってゆく。お家柄第一、二十六、七歳より三十歳までの若様で、すぐれた家の爵位をぐ人、宗教は浄土真宗。これだけ具備した人を探しだそうとするのだが、幾度繰っても頁数はおなじで、いなかった人物が紙の上に飛出してくるはずもない。ここまで来て籌子かずこ夫人から、天降あまくだり案が提出されたのだから、ね廻してしまったものには具合がよかったと、ことが運んだわけだった。
 山中氏の『九条武子夫人』百六十二頁に、
――重職会議へ極めて内々のおはかりがありました。御生家ごせいかの九条公爵の御分家たる良致りょうち男爵を選考するようにとの、それは夫人よりの直接の御相談なのでした。
籌子夫人は十一歳の時に、鏡如様のお許嫁いいなずけとして、大谷家へ入輿せられ、幼き日より朝夕を、武子姫と共に――良致男爵は籌子夫人の弟君に当られます。なお、夫人の妹君には九条家に※(「糸+壬」、第3水準1-89-92)きぬこ姫がいられるのでした。ことに、良致男爵へ武子姫が、なおまた鏡如様の弟君の惇麿あつまろ様(光明師)へ※(「糸+壬」、第3水準1-89-92)子姫が、御縁づきになりますことは、籌子夫人御自身の深いお望みなのでした。その暁には、九条家と大谷家との御兄弟が、互にお三方さんがたとも御結婚になり、両家にとりてこの上のおむつみはないのでした。
籌子お裏方うらかたより直接のおはかりを受けまして、重職の人々は、九条良致男爵を、初めて選考の会議に上すようになりました。それまでは、子爵以上とのみ考えていたのです。
 なぜ、子爵だ、男爵だというのか、それは前に、東の御連枝という人を、無爵だといって断わったからで、男爵というのにこだわるのも、それでは男爵になれるようしますからとまでいって来たのを、すくなくも子爵でなくてはと拒絶したといわれているのを、わたし自身がうなずくために、引いてみたのだが、良致氏は前から男爵ではなく、武子さんをめとる前になったのだった。
 良致氏はお気の毒なかたで、やったり、とったりされた人だった。ずっと前に他家へゆかれ、それから一条家の令嬢の婿金むこがねとして、養われていたが帰されて――やっぱりこれも例をひいた方がよいから、山中氏の前のつづきを拝借すると、
――かつて一条公爵家の御養子として、しばらく同家に生活していられました。それは、元来一条家よりのねんごろなお望みがありまして、御結縁ごけちえんになったのでした。しかし、家風かふうの上から、そののち、男爵は再び九条家へ、おかえりになったのでした。(前掲一七四頁)
 なぜ、この山中氏の著書からばかり引例にするかといえば、材料の蒐集しゅうしゅうに、『婦人倶楽部』の多くの読者と、武子さんの身近かな人々からも指導と協力を得ているといい、筆者はもうすにおよばず、発行が、野間清治氏の雄弁会出版部であり、およそ間違いのないものであること、著者の序に、初校しょこうを終る机のそばに、武子さんが、近くきたりていますように感じつつ、合掌、と書かれた敬虔けいけんな著であるので、信頼して読ませて頂いたからだ。その行間からわたしは何を見たか――
 籌子かずこ夫人のこのお婿さん工作も、愛弟だったときけばうなずけるし、実家のあによめは東本願寺からきた人で、例の御連枝ごれんしと縁のあるかたであり、それらの張合もないとはいえまいが、良致氏は、籌子夫人の手許てもとへ引きとられていたというものがあるから、武子さんとも顔を合せていなくてはならないのに、この書では、結婚の日が初対面と記されてある。この初対面という方に従ってゆくと、これはまた、あれほど大切にしたおひいさんを、なんと手軽にあつかったものだか――もとより何もかも、知りすぎる位にわかってる方が進めてゆくのだから、誰にも安心はあったであろうが、いやしくも人生の最大事業をおこなう男女当事者が初対面とは――無智蒙昧もうまいな親に、売られてゆく、あわれな娘ならば知らず、一万円持参で、あの才色絶美、京都では、本願寺からはなすのはいやだと騒がれた美女ひとなのに――
 籌子夫人は幾度か上京し、仕度万端、みな籌子夫人の指図さしずだった。
 も一度。
ふさふすまはかたく閉ざされて今日も寂しく物おもへとや
三夜荘さんやそう父がいましし春の日は花もわが身もさちおほかりし

 緋の房の襖の向うは、彼女の胸の隠家おくがでなくてなんであろう。
結婚式をあげに東京へ出発、馬車のうちにはうなだれがちに、武子さんがいた。本願寺の正門から、七条の駅へ――けれども、御婚儀の日が、初対面の日なのでした。――昨日きのうまでの武子姫は、良致男爵……その人について、何も御存じがないのでした。男爵においても、それは同じく、新夫人の性格そのほか、更に御承知はないのでした。
(『九条武子夫人』より抄)

 ――七条駅近くの大路には、東本願寺の門がある。
 性格も趣昧も教養も、まさしく反対の二点にたっているとも書かれている。九月二十五日に九条家に入り、新男爵邸に即日移り、十二月には、先発の法主ほっす夫妻のあとを追って新婚旅行に、欧洲へ渡航する。しかも新郎は、英国に留学する約束だった。黙々読書する良致氏に、仕度の相談にゆくと、
「よろしいように」
と静かに答えるだけだったという。
 印度では光瑞こうずい法主一行の、随行員も多くにぎわしくなった。少女時代をとりかえしたように武子さんが振舞うと、明るい笑声のうちに、いつも姿を見せないのが良致氏であったという。籌子夫人が気にすると、船室にかくれて読書しているという。一方が明るくなると、一方はだんだん寡黙になる。
 船室でお茶がすんで、ボーイが小さなテーブルの上をかたづけにくると、武子さんは立上る、
「では失礼します。」
「どうぞ。」
 水の如き夫妻だ。
 武子さんも気にせず、良人もそれに不満足を感じるような、世俗的なのではないと、山中氏はいっていられるが、しかし、わたしははっきり言う。それはどっちかが軽蔑けいべつしているのだ。どっちかがすくんでいるのだ、でなければもっと、重大な、何か、ふたりは、表向きだけの夫婦ごっこ、互に傀儡かいらいになったことを知りすぎているのだ。性格的相違だけには片づけられないものがある。そして、短かい外遊期間中なのに、良致男は別居してしまった。だが、武子さんは社会事業の視察、見学をおこたらなかった。
 シベリア線で、籌子夫人して武子さんが帰朝ときまったとき、訣別けつべつの宴につらなった良致氏は、黙々として静かにホークを取っただけで、食後の話もなく、翌日、出立しゅったつのおりもプラットホームに石の如く立って、
「ごきげんよう」
と、別れの言葉は、この一言だけだとある。

 良致さんという人が、この通り沈黙寡言な、哲学者かと思っていたらば、先日、ごく心やすくしていたという男の人が来て話すには、なかなかすみにおけない、白粉おしろいそでや胸にもつけてくる人だというし、またある人も、気さくなよいサラリーマンだといった。新婚のころは、特別に、そんなムッとした人にならざるを得ぬことがあったものとおもえる。世間からは花の嫁御よめごをもらって、日本一の果報男かほうおとこといわれたが、他人ではわからないものが、その人にとってないとはいえまい。
 また、それでなければ、新婚三月の新夫人をかえしてしまって、滞欧十年、子までなさせて、そこの水に親しんではいられないはずだ。

 三年たった。ここいらから武子さんが、うるわしい武子だけでなく、同情と、人気とその人のもつ才能とが一つになって、注目される婦人となった。武子さんはいよいよ光り、良致さんはよく言われなかった。
 空閨くうけいを守らせるとはしからん。と、よく中年の男たちが言っていた。操持そうじ高き美しき人として、細川お玉夫人のガラシャ姫よりももっと伝説の人に、自分たちの満足するまで造りあげようとした。
 このあいだも、斎藤茂吉さいとうもきち博士の随筆中に、武子夫人がいきていられたうちは書かなかったがと、ある田舎いなかへいったら、砂にとった武子さんのはいせきぶつを見て、ふといふといと下男たちが笑っていたということをしるされたが、そんなばかげた事もおこるほど、よってたかって窮屈な型のなかへ押込んでいった。

       三

 武子さんの第一歌集『金鈴きんれい』を、手許においたのだが、ふととり失なってしまって、今、覚えているのは、思いだすものよりしかないが、
ゆふがすみ西の山のつつむ頃ひとりのわれは悲しかりけり
見渡せば西も東もかすむなり君はかへらず又春や
 作歌の年代を知るよしもないが、これらはずっと古くうたわれたものときいている。一年半以上も外国でくらして、秋も深くなって帰ると翌年の春、籌子夫人が急逝された。その人の望みによって武子さんの生涯は定まってしまったのに、それを望んだ人は死んでしまって、妻という名の、桎梏しっこくかせをはめられて残された武子さんの感慨は無量であったろう。全く運命というものは変なものだ。
 しかし、おかくれ遊ばした総裁様の御遺志をお伝えするが使命と、武子さんのうるわしい声が、各地巡回宣伝にまわられると、仏教婦人会の新会員は増えてゆくばかりなので、九条武子となっても、本願寺に起臥おきふしして、昔にもまさって本願寺の大切な人であった。そして、思い出したように、お美しい方が空閨に泣くとは、なぞと、時々書いたりいわれたりしたが、武子さんの場合だけは、それが不自然ではなく、なんとなくそれでいような気がしていた。語らざる了解があるように思われた。そうしているほうが、お互が気楽なのではないかと思えた。
 遺稿和歌集の『白孔雀しろくじゃく』をとって見ると、
百人ももたりのわれにそしりの火はふるもひとりの人の涙にぞ
その一歩かく隔りの末をだにたれかは知りてあゆみそめむぞ
この風や北より吹くかここに住むつめたき人のこころより吹く
この胸に人の涙をうけよとやわれみづからがくるしみの壺
おもひでのつばさよしばしやすらひて語れひとときその春のこと
影ならばぬべしさはれうつそ身のうつつに見てしおもかげゆゑに
引く力こばむちからもつかれはててあくたのごとくてられにしか
たまゆらに家をはなれてわれひとり旅に出でむと思ふときあり
たたかへとあたへられたる運命かあきらめよてふ業因ごういんかこれ
執着も煩悩ぼんのうもなき世ならばと晴れわたる空の星にこと問ふ
むなしけれ百人ももたり千人ちたりたたへてもわがよしとおもふ日のあらざれば
夢寐むびも忘れずとへどわするるに似たらずやとまた歎けりこころ
むしろわれ思はれびとのなくもがなあまりに病めばかなしきものを
――滞洛手帖十四首の中から――
ふるさとはうれし散りゆく一葉ひとはさへわが思ふことを知るかのやうに
ふるさとはさびしきわれの心知れば秋の一葉ひとはのわかれ告げゆく
叫べども呼べども遠きへだたりにおくれしわれのせんなきつかれ
わかを遠く去りつ正しともあやまれりとも知らぬ痴人しれびと
夕されば今日もかなしきくいの色昨日きそよりさらに濃さのまされる
水のごとつめたう流れしたがひつことわりのままにただに生きゆく

 震災後下落合しもおちあいに家を求めてからを知っている人が、武子さんの日常を、バサバサしたなつかしみのない、親分の女房みたいだと評し、わざとらしいしなをつくるが、電話の声と地声とはちがい、外から帰ると寛袍どてらにくつろぎ、廊下は走りがちに歩く、女中にきいてみたら、京都へゆく汽車の中では、ずっと身じろぎもしないで、座ったままだというのに――と、良致さんとの夫妻生活を、およそ男性のもとめるイットのないものとくさしたが、わたしは胸が苦しかった。武子さんはもうそのころ自分の表面的な職分と、自分の心だけでいるときとの、けじめがはっきりついて、卑近な無理解など、どうでもよいとの決心がついていたにちがいない。なぜなら、その人がいったようなただ、あざけたひとに、こんな心の声があろうか、
さくら花散りちるなかにたたずめばわが執着のみにくさはしも
ちりぢりにわがおもひ出も降りそそぐひまなく花のちる日なりけり
さくら花散りにちるかな思ひ出もいや積みまさる大谷おおたにの山
まぼろしやかの清滝きよたきに手をひたし夏をたのしむふるさとの人
やうやくに書きおへし文いま入れてかへる夜道のこころかなしも
 これはみんな、世にない人を思い出した歌ではない。ふるさとの人とは、誰をさしていったものだろう、そんなことは言っては悪いと叱られるかもしれない。だが、それだからこそ人間ではないか、それだからわたしは武子さんが悲しく、そして忘れないのだ。ただ、わたしはいう、あの豪気な、大きい心の人が、なぜその苦しみとひたむきに戦わなかったか、この人間の苦しみこそ、宗祖親鸞しんらんも戦って戦いぬいて、苦悩の中に救いを見出みいだし大成したのではなかろうか、良致氏が外国で家庭生活をもっていたことが、かえって武子さんを小乗的しょうじょうてきにしてしまったのかもしれない、仏教のことばなんかつかっておかしいが、そんなふうにもおもえる。さしせまった苦しさというものは、勇気を与えるが、それも長く忍んでいると詠歎的になってしまうものだ。
『白孔雀』の巻末に、柳原白蓮びゃくれんさんが書いているから、すこし引いて見よう、
百人ももたりのわれにそしりの火はふるもひとりの人の涙にぞ
第一この歌に私はもう涙ぐんでしまった。あのたあ様は本当に深い深い胸の底に涙の壺を抱いていた人だった。
私が今の生活にれるまでの間を、たあ様はどんなに励まし、かつ慰めてくれたことであったろう、「貴女あなたは幸福よ。」この一言によって私は考えさせられた。人というものはどうかすると自分の幸福を忘れている事がある。幸福だという事を忘れれば幸福にはぐれてしまう、という事を教えられた。私は何といってあの方に感謝していいかわからない。人こそ知らね私には深い思いがあるからである。
美しき裸形らぎょうの身にも心にも幾夜かさねしいつはりのきぬ
「ねえ、私だって、ああなのよ、こうなのよ、ねえ、よう。」甘えるように私の手をとってゆすぶったりした。私は、「そんなら御勝手になさいまし、ただ、くしゃくしゃ語ったって、私がどうにもして上げられるもんじゃなし。」とつんと突き放したものいいをすると、その時、ほっとためいきをつきながら「もういわないから、かんにんよ。」あの時の少女のような身のこなしが、今も目に浮かんで来てしようがない。
――たあ様の歌は本当の実感から生れたものだった。
私の友よ、友の霊よ、この歌の一つ一つが、貴女あなたの息から生れたものなのだ、それぞれに生命いのちがあるのだ――

 人生の裏も底も、涙も知りつくしたはずの歌人、吉井勇よしいいさむさんが『白孔雀』巻末に書いた感想をひいてみると、
――今その手録された詠草を見ると、「薫染くんぜん」に収められた歌以外のものに、かえって真実味に富んだ、哀婉あいえん痛切なる佳作が多いような気がする。私は先ず手録された詠草の最初にあった、
百人のわれにそしりの火はふるもひとりの人の涙にぞ足る
の一首に、これまでの武子夫人の歌に見られなかったような情熱を覚えると同時に、かなり感激した心持でこの新しい歌集『白孔雀』の編輯へんしゅうに従うことが出来たのであった。
この十一月初旬、この遺稿の整理をしにった別所温泉は、信濃路しなのじは冬の訪れるのが早いのでもう荒涼たる色が野山に満ちて、部屋の中にいても落葉の降る音が雨のように聴えた。が、手録の詠草を一首々々読んでゆくうちに、私の耳にはだんだんそんなもの音も聴こえなくなった。私は真実味の深い歌が見出されるたびごとに、若うして世を去った麗人をいたむの情にえなかったのである。
死ぬまでも死にての後もわれと云ふものの残せるひとすぢの路
そういう死をうたった歌や、
この胸に人の涙もうけよとやわれみづからが苦しみの壺
といったような悲しみの歌を読むと、私の目はひとりでにうるんだ。
たまゆらに家を離れてわれひとり旅に出でむと思ふときあり
たたかへとあたへられたる運命かあきらめよてふ業因ごういんかこれ
うつくしき人のさだめに黒き影まつはるものかかなしおみな
そのことがいかに悲しき糸口と知らで手とりぬ夢のまどはし
まざまざとうつつのわれに立ちかへり命いとしむ青空のもと
しかはあれど思ひあまりてきゆかばおのがゆくべき道あらむかな
何気なく書きつけし日の消息がかばかり今日のわれを責むるや
酔ざめの寂しき悔は知らざれど似たる心と告げまほしけれ
こういう寂しい心境をうたった歌を読んで、その人がもうこの世にないということを考えると、人生、一路の旅の、果敢はかなさを思わずにはいられなかった。――『白孔雀』から――

 吉井さんにしても、※(「火+華」、第3水準1-87-62)あきこさんにしても、人世の桎梏しっこくの道を切開きりひらいて、血みどろになってこられたかたたちだ、その人の心眼に何がうつったか? ただ、寂しい心情とのみはいいきれないものではなかったろうか。白蓮さんの感想には、書かれない文字や、行間に、言いたいものがいっぱいにある気がする。遠慮、遠慮、遠慮! 昔だったらわたしなど、下々げげものがこんなことを言ったら、慮外りょがいものと、ポンとやられてしまうのであろうが、みんなが武子さんをいとしむ愛しみかたがわたしにはものたらない。こんな、生きた人間を、なんだって小さなわくに入れてしまうのだろう。
 ――いや、武子さんは、御自分のしていることがお好きなのでした。御満足だったのです。一番好きなことをしていたのです。
 こういった中年男は、良致さんが大好きで、男は何をしても、細君はいとまめやかに、愛らしくという立場だから、失礼なことをいうのも仕方がない。どんな売女でももっている、女っぽさや、女の純なものがないの、けちんぼだの、勘定かんじょうが細かいのといった。わたしはそれに答えてはこういう。
 武子さんは、「女」を見せることを、きらったのだ、誰にも見られたくなかったのだ。わざとする媚態びたいがあるというが、それは、多くのものに、よろこばせたい優しみを、とる方がそうとりちがえたのではないか。算当さんとうが細かいというのは、本願寺はある折、疑獄事件があって、光瑞法主はそのために、せめをひいて隠退され、武子さんは、婦人会の存続について大変心配された。そんなことから、日常のことにも気をつけるようになられたのだろう。『無憂華むゆうげ』の中の、「父に別れるまで」の一節に、
――今思うとこんなこともあった。そのころの道具がかりの者が知らなかったのかどうか、割れなくていいというような意味から、かね水指みずさし稽古けいこ用に出してくれたのが、数年のあとで名高い和蘭陀毛織オランダモウル抱桶だきおけであったことや、また幾千金にかえられた堆朱ついしゅのくり盆に、接待煎餅せんべいを盛って給仕きゅうじが運んでおったのもその頃であった。
 そうした器物まで払いさげられたりして、経済のこともよくわかっていたのであろうし、それよりも、これはあとにもいうが、つまらないことで失いたくない、要用なことにと、いつも心にたたんでいられたのだと思う。

 武子さんは、あまり広く愛されて、世間のつくった型へはめられてしまって、聖なる女として、苦しんだ。そのせつないなかに生きぬいて、自分の苦しんだのとは、違う苦しみかたをしている気の毒な層の人たちを、広く愛そうとする、真に、しっかりした心の転換期がきたのではあるまいか。二十年、恋はむなしいと観じ、本願寺婦人会の救済事業を通じて、心身を投じようとしたその時に、あわれ死がむかって来たのではあるまいか――
 おせっかいな世間は、武子さんが完全な人となろう、としているときに――外国にいる人も、そちらにいる方が家庭円満であったかもしれないのに、麗人に空閨くうけいを十年守らせるとは何事だと、あちらで職について、帰りたがらぬ良致氏を無理に東京へ転任ということにしたということだが、十年ぶりで、帰る人にも悩みは多かったであろうし、武子さんは、まぶたもはれあがるほど泣きに泣いて、こころをつくろう人世へのお化粧をしなおされたいうことだ。

 死ぬる日の半月ばかり前に、偶然に行きあったのは、かの、かりそめの別れとすかされて、おとなしくうなずいて別れた東の御連枝ごれんしだった。だが、今度はかりそめの、この世での、それが長い別れになってしまった。おもいがけないやまいが急におもって、それとなく人々が別れを告げにあつまるとき、その人も病院を訪れたというが、武子さんはわなかったのだった。お別れはもう先日ので済んでおりますと、伝えさせたという。
 私が、戯曲的に考えれば、生母の円明院えんみょういんお藤の方が、手首にかけた水晶の数珠じゅずを、武子さんが見て、
 おかあさま、そのお数珠を、私の手にかけてください。
 といわれたということが、新聞にも出ていたが、その水晶の数珠は、かつて、武子さんが、御生母へあげたものだということから、その数珠には、母子だけしか知らない温かいものこもっているかもしれないと、思うことだった。
君にききし勝鬘経しょうまんぎょうのものがたりことばことばに光りありしか
君をのみかなしき人とおもはじな秋風ものをわれに告げこし
この日ごろくしき鏡を二ツもてばまさやかに物をうつし合ふなり

 勝鬘経は、印度舎衛しゃえ国王波斯匿はしのくと、摩利夫人まりぶにんとの間に生れて、阿踰闍あゆしゃ国王に嫁した勝鬘夫人ぶにんが仏教に帰依きえした、その説示だという、最も大乗だいじょうの尊さを説いたもので、わが聖徳太子も、推古すいこ女帝に講したまいし御経おんきょうときいたが、君とは、父法主ほっすでも、兄法主でもない人を指している。

 築地つきじ別院に遺骸いがいが安置され、お葬儀の前に、名残なごりをおしむものに、芳貌ほうぼうをおがむことを許された。
 二月八日のよいだった。梅の花がしきりににおっていた。わたしは心ばかりのこういて、「秋の夜」と署名した武子さんからの手紙を出して、机上においた。そこへ、安成二郎やすなりじろうさんが訪れられて、どうしてお別れにいって来ないのかといわれた。蘭燈ぼんぼりにてらされて、長い廊下を歩いていって、しずかな、清らかな美しいお顔を見ると、全くこの世の人ではない気がしたといわれた。そして、どうしてゆかないのかと、再び問われた。
 あまり多くのものに、死者の顔を見せるのは嫌いだから、見られるのはおいやだろうと思うと、答えたわたしの胸には、ちょっと言いあらわせないものが走った。
 震災ぜん、あの別院が焼けない前に、ある日の日かげを踏んで、足もとにあつまるはとけて歩きながら、武子さんに、ずっと裏の方の座敷で逢ったことがあった。その時ふと胸にきたものは、あんなにうららかなおもばせで、れいれいとした声で話されるに、憂苦ゆうくといおうか、何かしら、話してしまいたいといったようなものを持っていられるということだった。
 その時、
※(「火+華」、第3水準1-87-62)あきさまは、どうしてあんなことをなすったのでしょうね。」
と、突然と武子さんがいった。それは、白蓮びゃくれんさんが失踪して間もなくで、世上の悪評の的になっているときだった。
 二人は目を見合わせたきりで、探りあう気持ちだった。この人は、もっともっと大きい苦悶くもんをかくしているなと、思った。

 震災に、なんにも持たずにのがれ出たが、一束ひとたばの手紙だけは――後に焼きすてたというが、――あの中で、おとしたらばと胸をおさえて語ったお友達がある。――そういえば、秋の夜であり、きくであり、そのほかにも、種々のかえ名があるにはあったが――
 武子さんは、もうちゃんと、ああ出来上ってしまって、あれがいいのだから、美人伝へよけいな感想なんか書いてはいけないと。知っている人たちがみんなこういう。もとより、武子さんはわたしも大事にする。けれど、もっと大胆に、いいところをいってもいい、人間らしいところをはなしても、あの方の苦節にきずはつきはしない。お人形さんに、あの晩年の、目覚めざめてきた働きは出来ない。本願寺という組織にあやつられてでも、それを承知で、自分自身だけの、一ぱいの働きをするということは、ああいう場処にいる人には、あれでよいので、あらゆる事に働き出そうとしたことは、劇や舞踊の方にまで進んで、かなり一ぱいの努力だったと思う。
 そういえば、武子さんは快活な、さばけたところのあるのは、幼いときからだというが、人徳を知るのに面白い逸話がある。ある美術家のうちのとこに、ブロンズのドラ猫があった。ほこりまみれでよごれているのを、武子さんは猫が好きだったが、震災で焼いてしまったので、その埃りまみれの置物を、かあいい、かあいいとで廻していた。その事を、あとで、猫を作った某氏にその人が話して、君が逢えばきっと猫をつくらせられてしまうよといったらば、いや決して僕は魅惑されないといっていたのが、いつか銀の猫をつくって、呈上してしまって、そういったものへは内密にしていた。だが、それが縁で、デスマスクはその人がつくったということだ。

あなかしこ神にしあらぬ人の身のたれをしもが裁くといふや
ただひとりうまれし故にひとりただ死ねとしいふや落ちてゆく日は
をみなはもをみなのみ知る道をゆくそはをのこらの知らであること
――歌集『薫染くんぜん』より――

はつ春のを荒るる風に歯のいたみまたおそひ来ぬ――
 この最後の一首は、磯辺いそべ病院でせられたまくらもとの、手帳に書きのこされてあったというが、末の句をなさずかれたのだった。

嵯峨さがの秋」という脚本のなかで、蓮月尼れんげつにには、こう言わせている。
みめよいじゃとて、ほんに女は仕合せともかぎりませんわいな。
おお、そうですぞ、おまえさんの正直な美しい恋のまことが、やがてきっと、大きな御手みてにみちびかれてゆきまする。
 昭和三年一月十六日より歯痛、発熱は暮よりあった。十七日、磯辺病院へ入院、気管支炎も扁桃腺へんとうせん炎も回復したが、歯を抜いたあとの出血が止まらず、敗血症になって、人々の輸血も甲斐かいなく、二月七日朝絶息、重態のうちにも『歎異鈔たんにしょう』を読みて、
有碍うげそうかなしくもあるか何を求め何を失ひなげくかわれの

 この人に寿ことほぎあって、今すこし生きぬいたらば、自分から脱皮し、因襲をかなぐりすてて、大きな体得を、苦悩の解脱げだつを、あきらかに語ったかもしれないだろうに――
――昭和十年九月――





底本:「新編 近代美人伝(下)」岩波文庫、岩波書店
   1985(昭和60)年12月16日第1刷発行
   1993(平成5)年8月18日第4刷発行
底本の親本:「近代美人伝」サイレン社
   1936(昭和11)年2月発行
初出:「近代美人伝」サイレン社
   1936(昭和11)年2月発行
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2007年8月13日作成
青空文庫作成ファイル:
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