田沢稲船

長谷川時雨




       一

 赤と黄と、緑青ろくしょうが、白を溶いた絵の具皿のなかで、流れあって、にじのように見えたり、彩雲あやぐものように混じたりするのを、
「あら、これ――」
 絵の具皿を持っていた娘は呼んだ。
「山田美妙斎びみょうさいの『蝴蝶こちょう』のようだわ。」
 乙姫おとひめさんのたつの都からくる春の潮の、海洋わたつみかすみが娘の目に来た。
 山田美妙斎は、尾崎紅葉こうよう、川上眉山びざんたちと共に、硯友社けんゆうしゃを創立したところの眉毛まゆげ美しいといわれた文人で、言文一致でものを書きはじめ『国民の友』へ掲載した「蝴蝶」は、いろいろの意味で評判が高かったのだ。
 源平屋島の戦いに、御座船ござぶねをはじめ、兵船もその他も海に沈みはてたとき、やんごとなき御女性に仕えていた蝴蝶という若い女も、一たん海の底に沈んだが、思いがけず、なぎさに打上げられた。それは春の日のことで、霞める浦輪うらわには、寄せる白波のざわざわという音ばかり、磯の小貝は花のように光っているのどかさだった。見る人もなしと、思いがけなく生を得た蝴蝶は、全裸まはだかになった――そのあたりを思いだしたのだ。
「あたし、小説を書こう。」
 十七の娘、田沢錦子きんこは、薬指ににじむ、五彩の色をじっと見ながら、自分にいった。

 空はまっ青で、流れる水はふくらんでいる――
 何処どこにか、雪消ゆきげの匂いを残しながら、梅も、桜も、桃も、山吹やまぶきさえも咲き出して、かわずの声もきこえてくれば、一足外へ出れば、野では雉子きじもケンケンと叫び、雲雀ひばりはせわしなくかけ廻っているという、錦子が溶きかけている絵具皿のとけあった色のような春が、五月まぢかい北の国の、蝶の舞い出る日だった。
 むかしの、出羽でわ郡司ぐんじの娘、小町の容色をひく錦子も、真っ白な肌をもっている、しかも、十七の春であれば、薄もも色ににおってくる血の色のうつくしさに、自分でも見とれることもあるのだった。その生々しさがきあがったとき、この娘は、
 ――なんてまずいんだろう。
と、自分の描く絵が模写にすぎないのを、腹立たしくなっていた。
 ――この色は出やあしない。こんな、綺麗きれいな色は、ちっとも出やあしないじゃないか、残念だが――
 彼女は、自分の腕にいつくこともあった。と、そこにパッとにじみだして開いてくる命の花のはなやぎを、どんなふうに色に出したら写せるかと、みつめながらさじをなげた。
 匕を投げたといえば、錦子はお医者さまの娘だ。徳川時代には、お匕といえば、御殿医であることがわかり、医者が匕を投げたといえば病人が助からぬということであるし、匕を持つといえば内科医のことだった。これは漢法医が多く、漢薬は、きざんであったのを、盛りあわせてせんじるから、医者は薬箱をもたせ、薬箱には、の永い、細長い平たい匕――連翹れんぎょう花片はなびらの小がたのかたちのをもっていたものだ。
 錦子の家は出羽の西田川郡であったが、庄内米、酒田港と、物資の豊かな、鶴岡の市はずれではあり、明治廿年代で西洋医学をとり入れた医院だったから、文化の低い土地では、比較的新智識の家族で、名望もあった。
 ――あたしの画はまずい。
と、思う下から、山田美妙斎の小説は、なんとばらしく、女の肉体の豊富さを描きつくしているのだろうと、口惜くやしいほどだった。
 錦子は、水にひたった蝴蝶の、光るような、なめらかな肌が、目の前にあるように、眼をよせてながめていた。小説の中の蝴蝶も、自分の年とおなじ位だと思うと、彼女は自分の肌を、美妙斎に、描写されたようにはずかしかった。それは、いつぞや、自分のことを言ってやったふみに、
 ――体に、あぶらがあると見えて、お風呂ふろにはいった時も、川で泳いだときも、水から出て見ると、水晶の玉のように、パラパラと水をはじいてしまって――
 そんなふうに、書いたこともあった気もするのだ。
 ――ええ、泳ぎますとも、まっぱだかで――とも書いたようだ。
 ――田沢湖は秋田です。うつくしい郡司の娘が、恋人をしたって身を投げたという湖は、それは先生、田沢という姓名からのお誤りでしょう。田沢いなぶねは、ピンピンしています。此処ここには、近くでは、大岸の池というのがあります。あたくし、真っ白なおおとりに乗った、あたくしの水浴みずあみの姿を描きたいのですが、駄目だめですわ――
 そんなふうにも書いたことがあったようだったが――どうだろう、「蝴蝶」は、もっと前に出ているのだ――
 錦子が、いくらつぶやいても仕方なかった。彼はとうとう大きな溜息ためいきをした。
 錦子は、絵の具皿の中から、白とべにとが解けあったところを、指のさきにすくいとると、かたわら絵絹えぎぬの上へ、くるりと、女の腰の輪かくを一息に丸く描いて、その次には、上の方へもっていってポチリと点を打ったあがりをおいた。
 その反対の方へむけて、腕の曲折を、ふっくらとつくると、それは、思いがけない生々しさで錦子の前へ、若い女が横たわって、羞恥しゅうちを含んでいる――
「おお、蝴蝶どの、そなたの姿はわらわによう似ていられる――」
 歌舞伎役者のせりふもどきで錦子は、満足した自分の体も、そこへ、その通りの姿態ポーズひじを枕にして、ころがった。
 ――小説にしようか、絵の修業をしようか――まとまりようのない空想が、あとからあとからいてくる。つい、うっとりとしていると、
「あら、これ、何なの?」
 妹がその絵を、見ているのは好いが、その後から母も来る様子なのに、錦子はあわてた。
「その、小説の口絵を、真似まねたのよ。」
 そう言って妹はごまかせても、母親の眼はこわい。絵の具がかわかないで、生々して見えるその尻の恰好かっこうは、娘の尻の肉つきそのままであることを母親は、一目で見破るであろう。乳首の出ぬ丸いさしぢちは?
 ――おお、まあ、なんてこの娘は、いやな――
と、あきれて、眼をむけながら角立つのだてるに違いはない。
 いつも、いつも、お前はなんて早熟ませているのだろうとつぶやく母親には、見られたくなかったので、錦子ははねおきると、乳房おちち※(「白/八」、第3水準1-14-51)あさがおにしてしまい、腰の丸味はたらいにしてしまった。
 錦子は、まったくませていた。売出しの小説作家、山田美妙斎に文通しだした。だが、小説「蝴蝶」の書かれたのは、二、三年前だが、近頃になって、「蝴蝶」の出ていた、『国民の友』の新年附録を、探し出して読みふけり、すっかり魅了され、心酔しつくしてしまった。そして、急に、グイグイ引き寄せられる気持ちになっている。錦子が動かされたのも無理はないほど、美妙斎の「蝴蝶」は、発表された当時も世評が高かったのだ。そのころ仲たがいをしていた尾崎紅葉さえ、宛名あてなを、蝴蝶殿へとした公開状で、
かくすべき雪のはだえをあらはしてまことにどうも須磨すまの浦風
と、一首ものしたように、それには挿絵さしえに、渡辺省亭わたなべせいていの日本画の裸体が、類のないことだったので、アッといわせもしたのだった。
 河井酔茗かわいすいめい氏の『山田美妙評伝』によると、美妙斎は東京神田柳町に生れ、十歳の時には芝の烏森からすもり校から、ともえ小学校に移り、神童の称があったという。十三歳に府立二中に入学したが、学科はそっちのけで、『太平記』や、『平家物語』をはじめ、江戸時代の草双紙くさぞうしの中では馬琴ばきんに私淑したとある。芝に生れた尾崎紅葉とは、二中の時おなじ学校で、紅葉が三田英学校から大学予備門にはいると、二級の時に美妙斎が四級にはいり、旧交があたためられて、二人は文学で立とうという決心をあかし合い、しかも、芝からでは遠いというので、美妙斎の家は、学校に近い駿河台するがだいに引越して、紅葉も寄宿し、八畳のへやに、二人が机を並べ、そのうちに、おなじ予備門の学生石橋思案いしばししあんも同居し、文壇を風靡ふうびした硯友社けんゆうしゃはその三人に、丸岡九華きゅうか氏が加わって創立され、『我楽多文庫がらくたぶんこ』第一号が出たのは明治十八年五月二日だと考証されている。
 その石橋思案氏が、後に脳をわずらわれたが、稲舟いなぶね女史の話を私にしてくだされたのだった。
 錦子は自分のしたことがおかしくなって、クックッ忍び笑いをらしながら、
ひとり さける のばら あわれ
あかぬ いろを たれか すてん
のばら のばら あかき のばら――
うたいかけた。この詩も、美妙の「野薔薇のばら」というのの一節だったが、妹は、うしろに立った母親に言った。
「姉さんて、妙な人ねえ。お琴をいても、唄わないくせに、ねえ。」
 けれど、その妹が、敵は幾万ありとても、すべて烏合うごうせいなるぞ――という軍歌が、おなじ人が、早く作ったものだということは知らないでいた。
「錦子は、お父さんのお許しが出そうなのではずんでいるのだよ。」
と、母は、錦子のへやの中を見廻して言った。
「姉さんがいなくなると、さびしいねえ。」
 錦子は、母親が現われたのでさっきからの、おどるような――火花が指のさきから散るような気持を、じっと堪えて、握りしめた手を胸におしつけていたが、思わず
「あら! 東京へ行ける。」
と、感情の、顔に出るのを、さとられまいとしながら、せかせか言った。
「でもね、本当に、美術学校って、女も入学出来るのだろうかって、お父さんは御心配なさってたが。」
「出来ないはずないでしょ。済生さいせい学舎(医学校)だって、早くっから、女を入れたのでしょ。」
「そうらしいけれどね。」
 母は、娘を、非凡な才智をもつものと見ている。それは、雪深い国では、何処どこにもちょっと見当らない、かおりの高い一輪の名花だった。
 この娘を東京へ出して、思うままに修業をさせたら――それこそ小野の小町などは、明治の、才色兼備の娘に名誉を譲るだろう。
 そう思う母人ははびとの生れ育った時代は、幕末、明治と進歩進取の世に生れあわせていた。奥羽の各藩もさまざまの艱苦かんくの後、会津あいづ生れの山川捨松すてまつは十二歳(後の東大総長山川健次郎男の妹、大山いわお公の夫人、徳冨蘆花とくとみろかの小説「不如帰ほととぎす」では、浪子――本名信子さんといった女の後の母に当る人)、津田英語塾の創立者津田梅子女史は九歳、その他、七、八人の、十七、八歳をかしらにした一行と、海外へ留学した最初の人を出したりして、その後も、何やかと、幕末からつづいた、新旧の、女丈夫たちに刺戟しげきされて来ているので、東京では、もうすっかり急進欧化の反動期にはいっているときに、奥羽のすみの家庭人は、かえって、そのころになって動いていた。
「あたしも、なるたけ、出してあげたいと、骨を折っているけれど――」
 彼女は、娘の描いた、おとなしい絵を手にとって眺めて沈呻ちんしんした。
 ――この娘はもっと強い子だが――
 琴をかせても黙っていている。あれは、あの時、胸のなかに、何か、物足らない思いが一ぱいに詰まっているのだ。この娘は、何も言わないが、どんなことを考えているか知れたものではないと、母親には、それが心配なのだ。
 けれど、錦子が琴をかき鳴らしても唄わないのは、邪念があったのではない。琴の糸のかなで出すあやは、彼女の空想を一ぱいにふくらませ、どの芽から摘んでいいかわからない想いが湧上わきあがるのだ。どう整理してよいか、まだ、そのわけが分明はっきりとしないものが醗酵はっこうしかけてくるのだ。だから彼女は、うっとりとしたような、不機嫌のような、押だまったままでいるのだ。だがとうとう、錦子は、朝夕眺めた、鳥海山も羽黒山も後にして、出京することになった。

       二

 山田武太郎と表札の出ている、美妙斎の住居すまいを訪れた、みちのく少女おとめのいなぶねは、田舎娘が来たのかと、気にもかけなかったであろう美妙に、ハッと目をみはらせた。
 美妙は、たしか二十歳ごろから四、五年の間、女学生向きの『いらつめ』という月刊雑誌を出したりして、若い女性たちとも、顔をあわせることも多くあったし、その時分も、浅草公園裏の薄茶の店の、石井おとめとの関係もあったのだが、この小説家志願娘には心をひかれた。
 ――いなにはあらぬいなぶねの――
 そんな句も、詩人美妙の胸には、ふと浮かんだかも知れない。
稲舟いなぶねって好い名だな。錦子さんでも好いけれど、最上川もがみがわがそばなのでしょう。みちのくというと、最上川だの、名取川だの、衣川ころもがわだの、北上川きたかみがわだのって、なつかしい川の名が多い。父が、ずっと、あっちにいたからかも知れないが――」
 美妙は、無口な娘を前にして、そんなことをいった。
 美妙斎のお父さんは、維新前後奥州の方にいっていて、美妙の武太郎は明治元年の夏留守中に生れたのだった。その後、長野県の方にお父さんは警部をつとめていて、美妙は、やかましい祖母おばあさんと、お母さんに育てられた、内気な、おとなしい息子むすこだった。
 父親がなつかしかった少年時を思出して、美妙は、あっちの方の川の名など数えたりして見た。
「絵はやめてしまうのですか?」
「ええ。」
「小説を書こうというの?」
「ええ。」
 十七でしたね、といてから美妙はおもしろい暗合を思い出していた。
 十七という年齢としは、才女に、なにか不思議なつながりを持つのか、中島湘煙しょうえん女史(自由党の箱入娘とよばれた岸田俊子としこ)も、十七歳のとき宮中へ召され、下田しもだ歌子女史も、まだ平尾鉐子せきこといった時分、十七で宮中官女に召され、歌子という名をたまわったのだ。そのほかにと考えながら、
田辺龍子たなべたつこ三宅みやけ龍子・雪嶺せつれい氏夫人)さんも十七位だったかな、小説を書きはじめたのは、そうだ、木村あけぼの女史も十七からだ。」
と、日本の、明治の、巾幗きんかく小説家たちの、創世期時代の人々の名をあげたが、それは、そんな古いことではなかったから、錦子も、おぼろげながら知っていた。
「あたくしに、書けましょうか。」
 唐人髷とうじんまげの、つややかなのと、花櫛はなぐしばかりを見せているように、うつむいてばかりいる娘は、その時顔をあげて、正面に美妙斎と眼を合わせた。
 生際はえぎわの、クッキリした、白い額が、はずかしさに顔中赤味をさしたので、うつくしく匂った。女らしさがすぎるほど、女らしい女だった。
 肉附きの好い丸顔で――着物は何を着ていたかわからないが、彼女が次の年に「白薔薇しろばら」を書いたなかに、赤襟、唐人髷の美しいお嬢さまが、九段くだんの坂の上をもの思いつつ歩く姿を、人の目につく黄八丈きはちじょうの、一ツ小袖に藤色紋縮緬ちりめん被布ひふをかさね――とあるのは、もっとも当時の好みであったから、それを応用しても間違いはなかろう。唐人髷が大好きだったことは友達が知っている。
 美妙斎は二十七になった美丈夫だ。白皙はくせき、黒髪、長身で、おとなしやかな坊ちゃん育ちも、彼の覇気はきは、かなり自由に伸びて、雑誌『みやこの花』主幹として、日本橋区本町の金港堂きんこうどう書店から十分な月給をとっていたうえに、創作の収入も多かった。

 ゆきを、いくら伸して見ても、女の着物の仕立は、一尺七寸五、六分より裄は出ない。
 大柄おおがらな娘というのではないが、錦子はシックリした肉附きだ。丸い肩の上に、五分ほどつまんだ肩上げが、地方から出て来た娘々して、何処かひなびているのを、美妙は、掘りたての、土の着いている竹の子のように、皮をいていった下の、新鮮なものを感じていた。
 立った姿も、思いがけなく、すんなりしているのに、この娘のアクをおとしたならば、素晴らしいと見た。
 この娘が、無口でいて、体で、何か雄弁に語っているのに気がつくと、紙へ書かせたならば、無口なだけに、案外大胆なことを書くのではないかと思ったのだろう。
「絵を習うよりは、君は、書いた方がいかも知れないね」
と、力を入れてやってもいふうに言った。
 アクをおとしたならば、と美妙は錦子を見たが、そういう美妙もアクのある好みの方だった。何かの好みが、紅葉とは違っていた。
 それは、紅葉は町の子であって、美妙は神田ッ子でも、警部さんの息子で、家庭が、京阪でいうモッサリしていたからでもあろうが、大学予備門にいた、十九歳ごろから、小説で売出してからでも、長靴好きでよく穿いていたということだ。
 だがまた、それは、明治の初期から二十年ころまではそうしたふうがハイカラだったのだ。ハイカラ――高襟は、もっと、ずっと後日で生れた言葉だが、言いあらわすのに都合が好いから借用する。芝居の、黙阿弥もくあみもので見てもわかるが、っさりした散髪を一握り額にこぼして、シャツを着て長靴を穿いているのが、文明開化人だ。しかも、金巾カナキンのポッサリした兵児帯へこおびしめて、ダラリとしりへ垂らしている。これも後には、白か紫の唐縮緬モスリンになり、哀れなほど腰の弱い安縮緬ちりめんや、羽二重はぶたえ絞りの猫じゃらしになったが、どんな本絞りの鹿でも、ぐいと締る下町ッ子とは、何処か肌合はだあいが違っている。しかし、絞りをしめだしたのもずっとあとだ。
 とはいえ、年少にて名をなした、美妙斎の額は、叡智えいちに輝いていた。
 ことに、その時分は、紅葉、眉山、思案、九華と、硯友社創立時の友達たちを向うに廻して、金は這入はいるが、「蝴蝶」を発表当時ほど言文一致派の気焔きえんは上らないで、西鶴さいかく研究派の方が、頭角を出して来たうえに、言文一致は、二葉亭四迷ふたばていしめいの「うきくさ」の方が、山田より前だのあとだのとあげつらわれたり、幸田露伴の「五重の塔」や「風流仏ふうりゅうぶつ」に、ぐっと前へ出られてしまってはいたが、美妙斎の優男やさおとこに似合ぬ闘志さかんなのが、錦子には誰よりもまさったものに見えもすれば、スタイルも好きだった。
「先生。」
と、彼女は、離れともない思慕もまじえて、
「あたくし、一生懸命になります。当今いまどんな方たちが、女で、小説をお書きになってらっしゃいます。」
 座蒲団ざぶとんの隅を折りながら、うつむきがちに、それでも、ハッキリと言った。
「さあ! 樋口一葉ひぐちいちようという人が、勉強しているというが――三宅みやけ龍子、小金井こがねい喜美子、若松賤子しずこ――その人たちかな。あなたのように、書こうとしているひとはあるでしょうよ。」
「その方たち、どういう方なのでございます。」
「小金井喜美子さんは、森鴎外おうがいさんの妹さんです。」
「あ。あの『舞姫』をお書きになった、鴎外先生の?」
「小金井さんは、ふらんすの翻訳。若松賤子は英語もので、両方ともしっかりしている。若松賤子は明治女学校の校長さんの夫人で、巌本嘉志子かしこというのが本名だ。」
 美妙斎は眼を窓の外にやって、この娘を送ってやりながら散歩してもいい日だと思っている。
 窓は八畳の室にあって、八、九年前には、学生だった紅葉山人が同居して、机を並べて、朝から晩まで文学談をやっていたということや、北向きだから冬は寒いということまで、窓をあけてお茶の水の土手を見渡しながら、美妙斎はへだてなく語った。
 そんなに気の合った紅葉が、たった三、四日で、飯田町いいだまちの祖父母の宅へ越していってしまったのは、窓が北向きで、寒いばかりではなかった。長く、後家ごけ同様に暮している山田の母親と、そのしゅうとめにあたる、とても口やかましい祖母とがいて、おとなしい孫息子を、引っかかえすぎるのに、うるさくなって越したのだが、その事だけは、美妙斎はいわなかった。
 神田川にそそぐお茶の水の堀割は、両岸の土手が高く、樹木が鬱蒼うっそうとして、水戸みと家がへいした朱舜水しゅしゅんすいが、小赤壁しょうせきへきの名を附したほど、茗渓めいけい幽邃ゆうすいの地だった。
 徳川幕府の士人の大学、昌平黌しょうへいこう聖堂の森は、まだ面影を残し、高等師範学校のへいは見えるが、かかったばかりのお茶の水橋は、細く、すっと、恰好かっこうだ。錦子も立って眺めた。うぐいすがささ鳴きをし、目白めじろが枝わたりをしている。人声もきこえぬ静かさで、何処からかうたいつづみの音がきこえてくる。
「君は、やっぱり一ツ橋の女子職業学校にしましたか?」
 美妙斎は錦子を、傍におきたい慾望をもって言った。
 東京見物をするならばと誘われたが、錦子は、麹町こうじまちの女学校に、おなじ郷里から来ている友達が、外まで迎えに来てくれているはずだからと断った。
 帰りがけに、書いて持って来ていた小説を、美妙の机の横において、目を通してくれといった。山田の門口かどぐちまで迎いに来ていたのは進藤孝子という仲のよい友達で、その女の生家も、鶴岡市の医者だった。
 錦子と孝子が逢えば、話はいつも詩のことだった。孝子は新体詩を好んだので、美妙が、美しい詩ばかりでなく、「貧」というのでは、紙屑かみくず買いをうたっているといえば、錦子は、坑夫の詩もあるし、車夫の小説もあると負けずに言う。
 この二人が文壇の見立みたてを探しだして、面白がって、くらべっこをした。
凌雲閣りょううんかく登壇人(未来の天狗てんぐ木葉武者こっぱむしゃ)ってのがあるわ。浅草公園、十二階のことでしょ。」
 錦子がひろげると、孝子が首をのばして、
「エレベエタア休止中、螺旋らせん階にて登りし人――とあるわ。」
と、読みだした。
「頂上十二階までが、春のや主人――坪内逍遥つぼうちしょうようよ。それから、森鴎外、森田思軒しけん依田学海よだがくかい、宮崎三昧道人さんまいどうじん。」
「あたしにも読ましてよ。」
と錦子は引きとって、
「エレベエタアにて一分間に登りし人、頂上十二階まで紅葉山人、露伴子、美妙斎主人――いいわね。」
 錦子は、いちごのような色のれた唇で、
「十一階が二葉亭だわ。それと、漣山人さざなみさんじん。十階に広津柳浪ひろつりゅうろう江見水蔭えみすいいんよ。五階目通過中に川上眉山人びざんじんがいる。いい気味だわ。」
「どうして。」
と孝子は笑った。
「硯友社だからでしょ。」
「投書家って、よく何か知っているものね。ねえ、この凌雲閣の登りかたで、古い人のことも解るわねえ。」
 それは錦子のいう通りだった。彼女たちが見ている十二階登壇人の続きには、
 開業以前、建築中より登壇したる人というのに、末松青萍すえまつせいひょう、福地桜痴おうち、矢野竜渓りゅうけい末広鉄腸すえひろてつちょうがある。
 夫松さんは伊藤博文の愛婿あいせいで、若い時から非常な秀才と目されていた人だったという。明治十二、三年時分――もっと早くからかも知れない――演劇改良、国立劇場設立をとなえている。桜痴居士こじは、現今の歌舞伎座を創立し、九代目団十郎のために、いわゆる腹芸の新脚本を作り、その中で今でも諸方でやる「春雨傘はるさめがさ」が、市川家十八番の「助六」をきかせて、蔵前くらまえ札差ふださし町人、大口屋暁雨ぎょうう侠気きょうきと、男達おとこだて釣鐘庄兵衛の鋭い気魄きはくを持って生れながら、身分ちがいの故に腹を切るという、その頃では、まだ濃厚に残っていた差別待遇をふうした作を残している。
 その芝居へ出てくる、葛城太夫かつらぎたゆうと、丁山ちょうざんという二人の遊女が、吉原全盛期の、おなじはり意気地いきじをたっとぶ女を出して、太夫と二枚目、品位と伝法でんぽうとの型を対立させて見せてくれた。そしてそれには丁度よく美しく品位ある中村歌右衛門や、故人の沢村源之助という、伝法肌でんぽうはだな打ってつけの役者がいた。
 末広鉄腸は、早く「渓間の姫百合(ママ)」を出して、明治小説界の最も先駆者だが、その人たちは学者であり、政治家であり、社会人としても重きをなしていたから、十二階の高さにも、建築前に達していたというのであろう。
 事務員に黒岩涙香くろいわるいこう小史がいる。『万朝報よろずちょうほう』の建立者で、ユーゴーの「ミゼラブル」や、その他「モンテ・クリスト」をはじめ、沢山の翻訳があって、ああしたものを、その頃の一般大衆にも読ませてくれた恩人だった。
 奥山閣から――花屋敷とよばれた中にあった、宇治の鳳凰堂ほうおうどうのような五層楼――凌雲閣をにらむ人に正直正太夫しょうじきしょうだゆう緑雨醒客りょくうせいきゃくのあるのも面白い。
 上野山から眺めている連中のなかには、不知庵主人内田魯庵ろあんがあり、漢詩の大家で、業病ごうびょうにかかり妹の曾恵子そえこを熱愛していた義弟勇三郎がその病の特効薬だときいて、他人の尻肉をりとったりしたのち、死刑になった事件を引き起したりした、気の毒な野口寧斎ねいさいがある。
「ちょっと、ちょっと、これ見ない? 見たくなければ見せない。」
と、孝子が、ヒラヒラと見せびらかした一枚には「明治文学界八犬士」の見立みたてがある。滝沢馬琴ばきんの有名な作、八犬伝の八犬士の気質風貌ふうぼうを、明治文壇第一期の人々に見立てたのだ。
「あら! 犬江親兵衛が美妙斎よ。」
と、錦子はよろこんだ。親兵衛は一番若くって、ピチピチしている人物だった。
 その親兵衛が美妙で、色ならば緑、草木ならば豊後梅ぶんごうめだとある。
「豊後梅は、実が大きくって、生で食べても、梅干にしてもおいしい。」
「そんな、自慢ばかりしていないで、ほかのも読んでよ。」
と、孝子は笑った。
 犬山道節どうせつが森鴎外で、色は黒、花では紫苑しおん犬飼現八いぬかいげんぱちは森田思軒で、紫に猿猴杉えんこうすぎ。犬塚信乃しのが尾崎紅葉で緋色ひいろ芙蓉ふよう。犬田小文吾こぶんごが幸田露伴、栗とカリン。大法師が坪内逍遥で白とタコ。
「緑は、すっきりしていて好いけれど――もうちっと。」
と錦子が色に不服をいうと、孝子が「花見立」というのから、
「桃よ、美妙斎は桃よ、紅葉は桜見立よ。」
りだした。

       三

 錦子は出京してから、一ツ橋の学校にも近いので、神田猿楽町さるがくちょう親戚しんせきの家に泊っていた。
 小さい家ではあったが、黒塀の中から、深張りの洋傘こうもりをさしたりして、錦子が出てくると、附近には法律学校や医学校の書生が多かったので、目をひいた。
 駿河台するがだいの山田の家とはいくらも距離がなかったから、自然と足近くなっていった。美妙は文学者の話をよくしてくれた。そのうちに、手を入れてやった錦子の小説を、発表してくれるとも言った。
 駿河台の東紅梅町には、尼古来ニコライ教会が落成して間もなかった。あんな高台へ、あんな高い建築を許して勿体もったいなくも皇居のお屋根まで見えると、憤慨するものもあったほど巍然ぎぜんとした、石の壁と、銅がわらの、塔の屋根はとがっているが円く、妙致を極めたものだった。
「昔だと、南蛮寺とでも、いったのでしょうね。これがニコライ寺さ。露西亜ロシアの国教です。日本へ伝道に来た坊さんの名をとって呼んでるけれど、ほんとは、基督キリスト復活聖堂というのですと。」
と、広壮な、寺院の廻りを、並んで歩きながら、美妙斎は、鐘楼の高さを、百二十五尺あるのだと語りながら、
「そういえば、あなたの髪の毛は赤いね。」
と、洗い髪をそのまま、チョンピンにして、白い大幅のリボンを、額の上へ、大きな蝶のように結んで、紫のはかま胸高むなたか穿いている錦子をじっと見て、
「稲舟なんていうより、君がそうしていると、この建築物によく似合っている。ほんとにい、ほんとに好い。」
と、すこし離れて、すかして見るようにした。
「おかしなひとだ。日本がみうと黒い毛なのにね。」
「いいえ、赤っ毛なんですわ。」
 錦子が、はずかしがって項垂うなだれると、くびすじから背中の生毛うぶげが金色にのぞかれた。
 片翳かたかげりの、午後のまちではあったが、人っこ一人通らない閑静さで、蜥蜴とかげが、チョロチョロと歩道を横ぎってゆくほどだった。美妙斎はおさえきれないように、いたずらっぽく錦子の髪の毛をひっぱった。
 見る見る、錦子の耳朶みみたぶが、葉鶏頭はげいとうのような鮮紅あかさの色になって、からだをギュッと縮め、いよいよ俯向うつむいてしまった。
 と、片側の赤煉瓦れんがの、寮舎――ニコライ寺の学寮――の窓から、讃美歌がれて来て、オルガンの合奏もきこえだしたので、美妙斎は錦子をかかえるようにして歩き出した。
 そんなことがあってから後だった。孝子に逢うと、錦子は、
「嫌になっちまうわ。」
つぶやいた。
「学校でね、跡見玉枝あとみぎょくし先生が、あたしの絵のことをね、あんまり濃艶のうえんすぎるっておっしゃるのよ。それだけなら好いけれど、ベタベタしているって言うんですもの――」
「絵がなの?」
 孝子が問いかえしたことは、それは、女生徒の間にも、女教師たちの間にも、不言不語いわずかたらずに考えられていることなのだ。彼女が描く絵はとにかくとして、出京当時にくらべると、びっくりするほど急に女づくって、毎日々々綺麗になってゆくのが、目に立つのだった。
「あたし、種々いろいろなことを覚えようと思ってるのよ、山田先生に教えて頂いて――」
と、錦子はいった。
「ちょいと、文学者たちって、べにさまだの、よしさまだのって、手紙に書いてたのね。あたし、紅より、っていう手紙見て、ちょいと怒ったことがあるの。そうしたら、紅葉さんですって。」

 六月の日が照りはじめると、稗蒔屋ひえまきやや、風鈴屋や、金魚売、苗売の声が、ふし面白く季節を町に触れ流してゆくようになった。
 本郷台も駿河台も、すっかり青葉になって、お茶の水橋はまっさおな間に、細く白く見えるようになり、下ゆく水は、のぞかなければ見えなくなった。夜は、関口せきぐちの方からほたるが飛んで来て、時鳥ほととぎすも鳴きすぎた。
 その頃、どうかすると美妙が、じりじりしているのを、錦子は見逃みのがさなかった。小説は「はぎの花妻名誉の一本ひともと」を発表してもらえることになっていた。
 そうした日の、ある夕ぐれ、青葉の匂いをいで、そぞろ歩きをしようと、当然帰途は美妙斎におくってもらうつもりでたずねると、留守だった。
 かしこそうなお母さんが出て来て、まああがれ、まあ上れと進めた。
 美妙斎がお母さん孝行なことは、話をしていてもわかるので、錦子もお母さんの進めに逆らわなかった。
「あなたは、他家へはおいでになられないのでしょうね。御惣領ごそうりょうでは――」
と、なんとなく、お嫁にゆかれるのかというような、口うらをひかれた。
「お宅は、お妹御いもとごさんおひとりですか?」
ともいった。
 錦子は、美妙のお母さんのいう意味を、意識しながら、自分には優しくしてくれる祖母がいるので、大概な願いはかなうのだというように言った。
 すると、継母ではないのかときかれたので、錦子はどぎまぎした。そんなはずはないとうち消した。
「でもね、財産のあるお家の、家督をすてて、いくらあなたが物好きでも……」
と、お母さんは考えるように言うのだった。
 錦子は、ふと、暗い気がした。美妙は好きで好きでたまらないが、このお母さんや、もっと強いおばあさんがいる、この家の者にはなりきれないと思うのだった。
 そんなこと、自分だけの考えだと思っていたらば、このお母さんも、何か、そんな事を考えているのだなと思えた。
 それは、錦子が感じた通りだったのだが、お母さんの方は、息子もきらいでなさそうな娘で、丁度さそうだと思うが、この娘が自分に代って炊事や、掃除そうじなどをするだろうかと考えるのだった。嫁は使いよい女中をかねなければならないというのが、その人たちの女庭訓おんなていきんであったのだ。
 錦子は、美妙は師の君ででもよいが、もっと深い交渉も持ちたかった。だが、この家庭の嫁となることは躊躇ちゅうちょされた。彼女は美妙に愛されて――それよりもっと愛されたいものが芽ぐんでいる。それは、一度根ざしたら、その生涯であろう芸術の芽だった。
「ここいらあたりで身を固めさせたい。」
 賢なる母親は、あんまり年若く名をなした息子の盛名が、昨今、すこしなまっているので、なんとなく前途を危惧きぐしていた。地方の豪家と縁を結んでおけば――そんな下心がないともいわれなかった。
「武太郎は孝行ですよ。言文一致とかで書きだした時も、まっさきにあたしに読んできかせましたのですよ。あたしが、そこが、いけないといえばきっと直しました。」
 おお、それは、と錦子は眼をパチパチさせた。これは大変、自分のものも、そんなふうに差図されてはたまらないと案じた。だが、
「先生は、ほんとに美しい、よいお声でございますわねえ。」
と、長いたもとを、ひざの上に、乗せたりかえしたりして、どうして、いとまを告げようかとしていた。
「山形の方もお寒いのでしょうね、山田の父の出は、岩手県なんぶの山田と申すところですの。いいえ、あたしたちは知りませんけれど。」
 美妙の母親は、江戸生れの者には、肌合はだあいが違う重っくるしさを、仲たがいをして離れている夫からとおなじにこの娘からも受取りながら、
「でも、あたしも医者の娘ですよ。」
と笑った。東洋のシェクスピヤというような、輝かしいあだ名のあった天才を生んで、しかもその独り子が、色白で美しくって、親孝行で、口答えもしないで、他家よその女の子より優しくしてくれる、めったにない息子を持っただけに錦子が、ムンズリと押黙ってしまうと、うちとけて話かけたくても、だんだん渋ったくなる気がして、そう長くは引き止めなかった。
 それに、美妙がお酒好きで、飲みだすと帰りが遅くなるし女遊びをする様子も知っているだけに、
何処どこへ寄りましたかねえ。あの人は、いろんなことを考えているので、お友達のところへ行くと長いから。」
と、錦子に、帰るしおを与えた。
 錦子は、青葉の中を、美妙と、そぞろ歩きしようという、あてはずれただけではない重っくるしさを抱えてぽっくりを引きずって歩いた。
 美妙斎の、特長のある長いあごも、西欧の詩人や学者のように、耳のあたりで、ふっさりと髪を縮らせた魅惑も、逢わない時はことさらに強く思いうかべられて、こういう時には、ああいう眼をする。ああした時には、額よりもあごの方が光ると、チラチラと眼にうかぶのだが――あの人は好きで好きでならないが、彼家あすこのお嫁さんにと考えると、気が進まないのだった。
 それに、樋口一葉が、好い小説を書出したので、自分ももっと勉強しなければいけないと思っていることを、意地わるく、しつこく思いだしたりした。美妙に逢っていると、励まされるのでそんなに屈託しなかったが――
「樋口夏子は苦労しているもの。だからって、あなたが、求めて、あの女とおんなじ苦労をしなくっても好い。あなたは、あなたのものが生れてくるさ。それに、僕がこんなに大事にしていれば、一葉は、かえって田沢錦子をうらやむかもしれない、いや、僕を好きなのではないが、あの女にも、恋はあろうさ。」
 そんなようにもいわれた。一葉は、あの細っこい体で、一文菓子いちもんがしの仕入れにも行くのだそうだが、客好きで、眉山びざんなどから聞くと不断ふだんは無口だが、文学談になると姐御あねごのようになる。そうすると、青い顔のほおの上が真赤になって、顔が綺麗になるということだ。浅草の、大音寺前だいおんじまえという吉原に近いところで荒物店あらものやを出すとかいうから、そのうちに吉原を素見ひやかしながら、あの辺を通って見ようといったりして、
「そんな生計みすぎも、書くための、命をささえるしろなのだろう。」
と、それは、思いやりのある暗い眼つきをしたが――ああ、やっぱり、くらべものにはならないのだ。好い気になって、のんきな気持ちで聴いていたが――
(じゃあ、あたしは、何を目的に、一生懸命になったら好いのだ。)
 自問自答すると、(恋愛)という答えしか出なかった。そしてまた、その目標は美妙斎だと思わないわけにはいかなかった。
 錦子が神保町じんぼうちょうへおりてくると、広い間口をもった宿屋の表二階一ぱいに、書生たちが重なって町を見おろしていた。この附近は下宿屋が門並かどなみといっていいほどあって、手すりに手拭てぬぐいがどっさりぶらさがっていたり、寝具を干してある時もあるが、夕方などは、書生の顔が鈴なりになっているのだった。
 書生たちが見おろしていたのは、ヨカヨカ飴屋あめやが来ているからだったが、飴屋は、錦子を見ると調子づいた。
 ヨカヨカ飴屋は二、三人づれで、一人がうたうと二人がはやした。手拭で鉢巻きをした頭の上へ、大きなたらいのようなものを乗せて、太鼓をたたいているが、畳つきの下駄を穿いた、キザな着物をあずまからげにして、題目太鼓の柄にメリンスの赤いのや青いきれを、ふんだんに飾りにしている、ドギツい、田舎いなかっぽいものだった。
 ドドンガ、ドドンガと太鼓を打って、サイコドンドン、サイコドンドンとはやした。錦子が通ると錦子に呼びかけるように、
 ――お竹さんもおいで、お松さんも椎茸しいたけさんもねえちゃんも寄っといで。といやらしく言って、
 ――恋の痴話文ちわぶみナ、ねずみにひかれ猫をたのんで取りにやる。ズイとこきゃ――と一人が唄うと、サイコドンドン、サイコドンドンとやかましく囃したてた。
 二階から書生どもはワッと笑いたてた。
 錦子はカッとして、どんどん寄宿している叔父の家へ帰ってくると、一層不機嫌になっていた。孝子のところから手紙が来ているといわれても、ちっともうれしくなかった。
 それでも手紙は気になった。急いであけて見ると、
――先達せんだっての「見立」の続きをお知らせいたします。あなたの好きな方のお名もありますから、早くお知らせいたしたく、お目にかかるまでとっておけないので手紙にしました。お礼をおっしゃい。
「文壇女性見立」
女教師鴎外、芸妓紅葉、女生徒さざなみ、女壮士正太夫しょうだゆう権妻ごんさい美妙、女役者水蔭すいいん比丘尼びくに露伴、後室こうしつ逍遥、踊の師匠眉山、町家の女房柳浪。
それからね、衆議院議員見立には、山田美妙斎は改進党の島田しゃべ郎(三郎)よ。偉いのは田辺竜子と小金井貴美子と、若松賤子しずこの三人が、女でも、その仲間にはいっていました。
「当世作者忠臣蔵見立」というのでは、
由良之助ゆらのすけが春のや(逍遥)で、若狭之助わかさのすけが鴎外で、かおよ御前ごぜんが柳浪、勘平かんぺいが紅葉で、美妙はおかるよ。力弥りきやさざなみ山人なの。定九郎さだくろうが正太夫なのは好いわね。
 錦子は、おかるが美妙というところで、クスンと鼻で笑ったが、嬉しくなくはないが、なんとなく浮きたたなかった。
 その晩の出来ごとで、もひとつ錦子を悲しませたことが出来た。
 二、三年前から女の髪剪かみきりがはやっていたが、最初は、黒い歯の鋭い虫がみきるのだといって下町の女たちは、極度に恐れて、呪文じゅもんを書いた紙をしごいて、髪に結びつけたりしていたが、そのうちに、なんでもそれは、通り魔のようなもので、知らないうちにまげを切られたり、顔を斬られたりするのだといった。
 美しい娘で、外に立っていたらば、突然、痛いと思うと、ほっぺたから血がにじみだしたというようなことは、眼につきやすい女に多かった。
 錦子が、朝目ざめて見ると、唐人髷がころりところがりおちた。
 ハッと唇の色を変えて、錦子はふるえあがったが、いたずらものが忍び込んだ形跡もないので家の者たちは神業かみわざだと、わざわいのせいにした。他分、表で斬られたのを、枕につくまで落ちずについていたのであったろう。だが錦子は、いやあな予感がしたのだった。

 七面鳥の錦嬢きんじょうという名を、近所の書生たちからつけられたのは、唐人髷を切られてからだった。
 短かい髪を二ツにけて、三ツあみのお下げにし、華やかな洋装となった錦子の学校通いは、神田、本郷の書生さんたちの血を沸騰させた。美妙斎の食指のムズムズしないわけはない。
 ――今日錦嬢と――
という文字は、美妙斎の日記二十四年の末からはじまっている。二十五年にいたっては、ますます頻繁ひんぱんだ。
 ある時は、上野摺鉢山すりばちやま――あの、昼も小暗おぐらく大樹の鬱蒼うっそうとしていた、首くくりのよくある場所――上野公園のなかでも、とくに摺鉢山。ある時は九段――これも、日中あまり人通りがなかった場所だ。ある時は根津ねづ旗亭きていでの食事。
 ここで、一言ひとこと筆者が申したいのは現今、どなたの稲舟いなぶね研究にも、十九で死んだことになっているが、わたしは二十三歳と信じていた。ずっと前に書いた小伝にも根拠があって二十三と書いたのだが、この稿をはじめる時、あまり他の年譜を信じすぎて、自分の思いあやまりかと諸説にしたがい、末年を十九にとったために、年に無理が出来て来た。で、美妙が錦子の肩上げを見たところは十七であったが十八にしていただきたい。もっとも、錦子の生れた地方も、他の、みちのくの国々とおなじに、丸年まるどしで――満幾歳で数えていたとすれば、こじつけられないこともない。
 写真も古い『文芸倶楽部』に出ていたのは、何処やら野暮くさいが、二十三の春にうつした婚礼の丸髷のは、聡明で、しとやかで、柔らかみがあり、品のある顔と、しなやかな姿だった。
 さて、傍見わきみをしないで、急ぎましょう。
 十九になった錦子は、小暗い木蔭の道路での、美妙斎のひじの小突き工合や、指の握りかた、その他のあしらいの荒っぽさや、丁寧さが、女の心を掴むのに、活殺自在であることを、なんとなく感知した。
 側にいても、身が縮まるような悦びは、それはもう、とうに過ぎさった日となった。今は、美妙が接する女は、自分ばかりでないのを知って悲しかった。
 ――あたしはこんなことをに来たのではない。
 そんなふうに、冷たく自分を叱ることもある。
 ――こんなことで、一葉に負けない小説が書けるか――
 悦びといまいましさと、切なさが、幻燈の花輪車かりんしゃのように、赤く黄色く青く、くるくると廻る――そんな時に、国もとへ帰れと呼びかえされた。
「お父さんが、あんなに、お前の、書いたり読んだりするのを嫌がって、厳しくなさったのを、学校を勉強するからと出してあげたのだ。」
 それがまあ、とんでもない女になって――と、可愛がった祖母までが怒っているという。
 七面鳥とは、派手に美しい錦子の洋服姿であり、昨日の優美な娘風と、一夜に変ったスタイルを、書生たちは言現いいあらわしたのであろうが、錦子は、たしかにその頃から、沈んだり、はしゃいだりすることが多くなった。
「あたし、郷里くにへ帰らなきゃならないのよ。だけど、いいわ。あっちにいて、思いっきり勉強するの、好いもの書くわ。」
 そう言って泣かれた友達は、それも好いかも知れないと慰めて、
「なにしろ、あんまりあなた、美妙斎が好きすぎるもの。『いらつ』に書いてるひとにも何かあるんだって? 困るわねえ、浅草にもだってね。」
 自分の好きな男は、他女ひとも好きなのだ――そんなふうに簡単に錦子に考えられたろうか?
 錦子はこんなふうに思うこともある。阿古屋姫あこやひめとは誰だろう――そもじは阿古屋の貝にもまさった宝と、何かに書いてあったが誰だろう。あたしかしら?
 ――甘いささやき――
 銀蜂ぎんばちがブンブン言っているのでも、郷里くにへ帰った錦子は、ものごとが手につかなかった。
 だが、ふと、美妙の手許にあった、薄すべったい、青黒い表紙の雑記帳を、一ひらめくって見た、いやな思い出もおもいださないことはない。表紙うらに鉛筆のはしり書きで、
まじいにあひ見る事のつれなきに
さりともあはで返されもせず
 廿四年十一月六日作とあった。あれが、わたしへの、ほんとの美妙の心ではないかとも思い、いえ、そんなことは決してないはずだとも打消した。
 しかし、どうも、それは、はずでばかりはなかったようだ。人の心は微妙であるから、なんともほかからはっきりはめられないが、美妙斎はそのころから関係のあった、浅草公園の女、石井留女とめじょを、九月尽日じんじつ落籍らくせきして、その祝賀を、その、おなじ雑記帳へも書いているのだ。
 この女の人を、のちにおっぽりだしたので、『万朝報』でたたかれて、美妙斎は失脚の第一歩を踏んだのだったが、留女を落籍した日は暴風の日であって、一直いちなおから料理をとって祝った。茶碗もりや、たい頭附かしらつきの焼もので、赤の飯ではやしたてたのだ。その後、この女のところへであろうが、別荘、別荘、と別荘行きを毎夜しるしつけてある。もとより、錦嬢とあってることも、その他の女とのこともある。
 これは、稲舟にも入用なことだ。稲舟の田沢錦子は、今日までの記録では、不良少女のようにいわれているけれど、そうした留女のような莫連女ばくれんおんなと同棲したからこそ美妙は、錦子のモダンな性格が一層したわしかったのかも知れない。
 錦子はまた出京した。そしてまた帰った。どうしても郷里くにじっとしていられない気持ち――無論美妙斎からの手紙もある。それよりも彼女が出たいのだ。
 錦子がそうしているうちに、郷里で、彼女を恋いしたうものが出来た。それに、東京に来てから、墨田川へ身を投げようとしたような、発作ほっさを起したこともあった。
 錦子に思いを寄せた郷里の男のことは、いなぶねの死後に出た秘書――美しい水茎みずくきのあとで、改良半紙に書かれた「鏡花録」によってわずかの人が知っているだけだ。墨田川投身も、知ってるものはすけない。
 その間に書いたものが、稲舟の文壇初舞台デビューといってもよい小説「医学終業」だ。
 だが、錦子が煩悶はんもんに煩悶した三、四年の間を、美妙と留女との歓楽はつづいて、前川――浅草花川戸のうなぎ屋――に行き、亀井戸の藤から本所ほんじょ四ツ目の植文うえぶん牡丹ぼたん見物としゃれ、万梅まんばい――浅草公園伝法院でんぼういんわきの一流割烹店かっぽうてん――で食事をし、歌舞伎座見物の帰りは、銀座で今広いまひろとりをたべるといったふうだった。
 美妙という人が、どんな生活をしていたかということが、稲舟はどうして死んだか、ということと、あわせの裏表になるのだが、紙数をとるから、そんな事ばかりは書いていられない。塩田良平氏が美妙の日記を研究発表されるということであるから、やがて世に知れるであろう。
 とはいえ、世の中は悲しくも面白いものだ。その二十六年には、十二階に百美人の写真が出たのだ。あの、市村羽左衛門いちむらうざえもんとの情話で名高い、新橋の洗い髪のお妻が、髪結銭かみゆいせんもなく、仕方なしに、髪をあらったままで写した写真が百美人一等当選だったのを、美妙が六銭の入場料をはらって見て、そしておとめのところへいっている。

       四

 近いうちに、どうしても東京へも一度行くという音信が、孝子のところへ、錦子から届いた。
 郷里くにの実家に、落附こうとすればするほどあたしはジリジリしてくる。どうして好いのか、笑って見たり、怒って見たり、疳癪かんしゃくをおこしてばかりいる。
 あたしは、こんな事をしていて好いのかと、自分の胸を※(「てへん+毟」、第4水準2-78-12)むしっている。郷里いなかへ帰ったからって、好いものは書けやしない。やッぱりあたしは、美妙せんせいのそばにいなければいけないのだ。
 あなたは、美妙の評判がよくないと仰しゃるが、それは、あの人を女が好くのでねたまれるのです。それにこのごろ、紅葉の方が小説を多く書いて、美妙が休みがちなので、そんなうわさをするのでしょう。
 実は、美妙からも出て来ないかといって下さるから、あたしはどうしても出京します。
 ――そんなふうな手紙が幾度か繰返されてくるうちに、ある日、錦子は、孝子の前へ笑って立った。
「いけない娘になってしまって――自分でも、我儘だと思うけれど、なんだかジリジリして。」
と、あやまるように孝子を見る眼に、矯羞きょうしゅうをうかべた。
「あなたを、大層思っていた人が郷里に、あったというではないの。」
「あんなの、なんでもないのよ。種々いろいろなこという人随分あったけれど、戯談じょうだん半分なのよ。」
と、錦子は友達の真面目まじめなのを、ごまかしてしまおうとした。
「でも、その人は、結婚を申込んだというのじゃないの。お父さんもお母さんも、御承知なのでしょ。」
「でも、どうとでも、お前の心のままにしろというから、いやだといったの。だから、それは何でもないのよ。もともと友達のつもりだったのだから。」
 そうはいったが錦子も、その男が、青くなったり、赤くなったりして涙ぐんだのを思い出すと気とがめもするのだった。
「あたし、一生独立しようと心に誓って、はじめは、医者になろうかと思ったのですけれど、それもだめだったし、画師えしになろうかとも思ったのですけれど、それも駄目。やっぱり、もともと好きな文学でと思ってるのですの。けれど、それも下手へたの横好きというんでしょ。自分ながら才がないので、気をもんじゃって、それで始終むしゃくしゃしているのですの。だから、この頃は写真師にでもなろうかと考えていますからって断ったの。無理じゃあないでしょ。」
と言いたした。その裏に、美妙にひかれるもののある事をさとられまいとして、雄弁だった。
「色は白いけれど変なのよ、猫背ねこぜなのよ、桜津っていうので、うちの女中なんか殿様だの御前ごぜんだのってほど、華族の若様ぜんとしているのよ。桜津三位中将さんみちゅうじょうって渾名あだななの。」
「それはあなたが附けたのでしょ。」
と孝子もおかしいけれど叱るようにいった。
「嘘よ、お正月の歌がるたをした時、負けたんで額に墨でまゆずみを描かれたからよ。」
 いたずらっぽくはいったが、その男は漢学の造詣ぞうけいも深く、書家でもあった。錦子が、北斎ほくさいの描いたという楊貴妃ようきひふくが気に入って、父にねだって手に入れた時、それにあう文字を額にほしいと思って、『文選もんぜん』や『卓氏藻林たくしそうりん』や、『白氏文集はくしもんじゅう』から経巻まで引摺ひきずりだして見たが、気に入った句が拾いだせないので、疳癪かんしゃくをおこし、取りちらかした書籍しょもつを、手あたり次第に引っつかんでほうりだしたとき、ふとした動機で桜津が思いちがいをしたのだった。
「あたしね、怒りっぽくなったりあきっぽくなったりするって言ったでしょ。その時も、欠伸あくびしながら写真帳を枕にして、だらしなく寝ころんでいたの。そしてね、おっり出した本を引きよせて見ると、大好な長恨歌ちょうごんかの、夕殿蛍飛思悄然という句が、すぐあったじゃないの。だから、それ書いて頂戴ちょうだいって、桜津に頼んだの。それをね、すっかり思いちがいしてしまったのよ。」
と、錦子は桜津という男が、何をたのんでも、はっきりしない男だから、一ヶ月もたたなければ書いて来まいと思っていたらば、すぐに書いて来て、嬉しそうにニタニタしながら、不出来ですがといったのは好いが、こんな珍本を見つけましたからって、おいていった和本のなかへ、艶書えんしょを入れて来たりして、それからは、一日に二度も来るようになったのだと、困ったというふうに話した。
 孝子は、錦子が、随分変ったなあと、しげしげと見詰めていた。自分でも手紙に、我儘わがままになったと書いてはよこしたが、東京へ出してもらいたいために、親たちにいやがられるようにしたのではないかとさえ思った。小説が書けないということと、恋心というものが、そんなにあくどい苦しみだとは、孝子には察しもつかなかったが、桜津が自分への思慕しぼだと、思いちがいをした、長恨歌の、夕殿蛍飛思悄然という句を選みだしたということには、そんなものかなあという、ほのかな、ほんのりとした、くゆりを、思いしみないでもなかった。
「だけど、あなた、山田さんと結婚する?」
「そんなこと、考えてもいないわ。」
 そうはいっても、錦子は悩ましげだった。
「小説書いて、独立出来る?」
「だから、あたし、医学終業という題のは、そう思って出京した娘が、女義太夫になってしまうことに書いて見たの。」
 ふと、二人の眼のなかには、桜の花と呼ばれた娘義太夫の竹本綾之助たけもとあやのすけや、藤の花の越子こしこや、桃の花の小土佐こどさが乗っている人力車の、車輪や泥除どろよけに取りついたり、後押あとおしをしたりして、懸持かけもちの席亭せきから席亭へと、御神輿おみこしのように、人力車をかついでゆくようにする、贔屓ひいきの書生たちが、席へ陣取ると、前にいっている仲間と一緒になって、下足札げそくふだで煙草盆をたたいて、三味線にあわせて調子をとり、綾之助なら綾之助が、さわりのところで首を振ると、ドウスルドウスルと叫ぶという、女芸人たちの、ばからしいほどな、素晴らしい人気を思いうかべてもいた。
「でも、あたし、どうしても、やって見るつもりなの。」
 錦子は自分の胸に、たしかめるように、みしめるように言っているのが、孝子には悲しくきかれた。
「女がなんかしていこうっての、きっと、厭なことも多いでしょうよ。どんな厭なことでも、忍耐がまん出来る?」
「どんなことだって、堪えるわ。」
 その時、そうは言いきった錦子だったけれど、美妙斎との交渉が深まってくると、堪えきれないことが沢山あった。
 おとなしい錦子が、書くものや、うわつらだけではあろうが、なんとなく莫蓮ばくれんになって来た。美妙斎の影響だと、孝子は思わないではいられなかった。
「あたしの写真をね、どうしてそんな場所ところへもってらっしゃったのか、芸妓げいしゃが拾ってね、あてつけだって怒ったの。お嬢さんへって宛名あてなで、随分しどいこと書いてよこしたのですって。あたしそれ見せてもらって、小説のなかへ入れるわ。」
とも錦子はいったりした。こんど来て見ると、美妙斎が、改進新聞社の勤めもやめてしまい、金港堂の『都の花』も廃刊になり、家の中が苦しそうだともいった。

 改良半紙へけいを引いた下敷を入れて、いなぶねと署名したまま題も置かず、一行も書けない白紙へむかって、錦子は呻吟うなっている日がつづいた。
 墨をって、細筆を幾たびらしても、筆さきもすずりの岡も、かわいて、墨がピカピカ光ってしまうだけだった。
 錦子は、そんな、ムシャクシャしたあとで、そんなにまで書けない自分を嘆きに、美妙斎の書斎を訪ずれると、今夜も留守、今夜も留守という日がつづいた。
 錦子は、肩懸けでも編んで、気持ちをまぎらそうとしたが、毛糸を編む手許になんぞ心は集中されなんかしなかった。ウーとうなると、グイと糸をひっぱって、編棒で突きさしたりして、丸い毛糸の玉を、むしゃくしゃにねじりあげてしまった。
「おそろしくヒステリーになってるね。」
と、そんなあとで逢うと、美妙はハグラかすように言う。
「随分お留守ですのね。」
「ええね。」
 美妙はしゃあしゃあと答えて、
「別荘行きも、もうおめさ。」
と、うふ、うふと胸のなかで、自分だけで笑って、別荘なんぞ、何処にあるのかと聞くと、
「それは言えんさ、それにもう、すでに過去のことだ。」
 いきなり、錦子の両の頬のえくぼを、両方の人差指で、はさむようにキュッと押して、
「怒ってるの。」
と顔をもっていった。
 その手を払って、錦子は顔をそらした。ほそった横顔にも、弾力のないほおの肉にも、懊悩おうのうのかげはにじみ出ているのだが、美妙は、手のうらをかえすように別のことを冷たく言った。
此処ここの家も、もう越すんだ。」
 錦子はそれをきくと、すねてなんぞいられなくなって、すぐその話の筋へ引きこまれていった。
「君は何故なぜっていうのですか。何故ってね。僕は、このごろ四面楚歌そかさ。貧乏になったのも知ってるでしょう。何にも目ぼしい作書いてないものね。そりゃあ、演劇改良会をつくろうと思って、脚本なんぞ書いたりしてはいるがね、白い眼をいてる奴があるから――落目さ。そりゃあ、僕だって、このままでないという事は、自信はあるけれども。」
「どうしても、このおうちを、お離れにならなければ、いけませんの。」
 不自由なく育った錦子には、住居すまいを売って立退たちのくということは、没落ということを、眼で見ることだと思った。
「あたしが、いけなかったのでしょうか。」
と、自分のせめのように、家のなかを見廻した。小説修業の女弟子などが出はいりするのが、美妙が軽薄才子のようにののしられるたねなのではないかと案じた。
「そんなことは、どうでもいいさ。この辺はね、金満家の住居や、別荘には――別荘って、妾宅しょうたくだよ。」
とニヤリとして、
「閑静で、便利でもって来いの土地さ。景色は好いし、われわれふぜいのボロ家は、だんだんなくなるさ。」
 だから、今日は書斎の整理をすこし手伝ってもらおうかといった。
「ここのおへや、なつかしくって――」
 錦子が湿っぽくなるのを、
「君がはじめて来てくれたのは、二十四年だったかね。そうそう、君をおくった帰途かえりに、巡査にとがめられたことがあったっけなあ。」
「あら、そんなことなんか、なかったわ。」
 錦子は思い出にカッカする頬をおさえた。
「あるよ、山下町だったかでも査公に一ぺんとがめられたし、たしかこの家の門前でも咎められたよ。はなさなかったかねえ、自分の家へ、盗人ぬすっとにはいる奴もないじゃないか。」
 フッと、タバコの煙を、錦子に吹きかけたが
「ハア? 違ったかな。すると、あれはしず嬢だったかな。そうだ、思い出した、前の日に伯母おばさんにぶたれたと言ったっけ。」
 こともなげに言いはしたが、錦子の血がサッと逆流するのを意地わるくはかるように、
「なにを妙な顔をしてんのさ。そんな女、今ごろいるもんかね。みんな追っぱらっちゃった。」
 バタバタそこらの書籍を引っぱり出してほうり出しながら、
「あ、こんないたずら書きがしてある。見たまえ。」
 眼をよせて考えこんでしまっている錦子の手をグイと引っぱって差しつけたのは、
 労役をはじぬを妻とする。芸妓げいしゃ前髪を気にする。と二行にならべて書いてある美妙の落書したものだった。
 間もなく、小石川久堅町こいしかわひさかたまちに越すと、美妙が浅草公園の女をだましたという風説がやかましくなった。長い間だましていて、二千円からの金を奪ったというような悪評がたったのだった。
 赤い紙の、四頁だった『万朝報』は大変売れる新聞だった。そこの記事にそうしたことが載っていたのを、美妙が反駁はんばくした。
 妖艶ようえん巣窟そうくつの浅草公園で、ことに腕前のすごいといわれたおとめのことは、種にしようと思ったから近づいたのだ。三五さんご年の研究で、人事千百がわかったから、久し振りで書こうとおもっていたところだ。そこへ新聞記事になって紹介されたのは、好い前触れ太鼓だから、責めもしない、怒りもしない。丁度よいから早速そのままを昨日きのうから書出した。
 というのだった。それを文士モラル問題として、手厳しく、というより致命的にやっつけたのが、『早稲田わせだ文学』だった。
「裸蝴蝶」の問題の時には、
 ――これより先、裸美の画坊間ぼうかん絵草紙屋えぞうしやに一ツさがり、遂に沢山さがる。道徳家なげき、美術家あきれ、兵士喜んで買い、書生ソッと買う。しかしてその由来を『国民の友』の初刷に帰する者あり。吾人ごじんかつてゾラの仏国にでたるを仏国の腐敗に帰せしものあるを聞けり。由来すると説くものを聞かず――
 と「小羊こひつじ漫言」に『早稲田文学』の総帥坪内逍遥は書いたが、おとめ問題での美妙の反駁文には手厳しかった。「小説家は実験を名として不義を行うの権利ありや」という表題で仮借かしゃくなくやった。
 かなり誤っている記事であろうが、それを明らかに正誤もしないで、恬然てんぜん、また冷然、否むしろ揚々として自得の色あるはどうか、文壇に著名なる氏が、一身に負える醜名は、小説壇全体の醜声悪名とならざるを期せざるなりと責め、――いわゆる実験とは如何、不義醜徳を観察するのいいか、みずからこれを行うの謂か、もし後者なりとせば、窃盗せっとうの内秘を描かんとするときは、まず窃盗たり、姦婦かんぷの心術を写さんとするときは、みずからまず姦通を試みざるべからず――
と、悪虐を描くためには、悪虐し、殺人にはみずから殺人するか、そんな世間法せけんほうな賊は、文壇にどんな功があろうともよわいするをいさぎよしとしない。特にそんな奴には警察が厳重にしてくれ。だが科学者のいう所の観察であろうと信じている。アジソンの「スペクテートル」における観察者の義であろうと思う。ならば、観察者は清浄無垢むくの傍観者であり、潔白けっぱく雪の如くなるべきやと、堂々とやった。
 美妙も思いがけなかったであろうが、錦子は泣くに泣けない激しい失望だった。

 浅草公園の売茶の店は、仁王門のわきの、くめ平内へいないの前に、弁天山へ寄って、昔の十二軒の名で、たった二軒しか残っていなかった。
 観音堂裏には、江崎写真館の前側に、二、三軒あった。あとは池の廻りや花屋敷の近所に、堅気かたぎな茶店で吹きさらしの店さきに、今戸焼の猫の火入れをおいて、牀几しょうぎを出していた。
 銘酒屋は、十九年の裏田圃たんぼ(六区)が、赤い仕着しきせの懲役人を使用して埋め立てられてから出来た、新商売だった。
 石井とめという女は、売茶女だとも、銘酒屋女だともいうが、ともかく美妙は、おとめを二百円の代金しろきんをだして、月三十円かの手当をやり、物見遊山ものみゆさんにも連れ廻り、着ものもかってあてがった――後のことは分らないが、はじめの支出を書いた日記を、錦子に開いて見せて、
「僕が、こんなことで厭になったのなら仕方がないが、君だけは、小説家としての僕を、知ってくれるはずだが――」
と、うらみっぽくさえいうのだった。
 他人が見捨るなら、あたしは――という、不思議な反抗心が、一度は美妙に失望した錦子に、美妙を救おうという気を起させた。
 そして、そう思ったことが錦子にとって、今までにない楽しさをもって来た。天涯孤立となった美妙は、錦子を、いなぶね女史として無二の話相手にしだした。錦子にとっては嬉しいことばかりだった。愛されるばかりでなく、急に一人の文学者として、美妙に遇されるようになったのだから――
 人のうわさも七十五日、あれまでにやられると美妙斎も復活しだした。稲舟も『文芸倶楽部』が博文館から発行されると、前に書いてあった「医学終業」を出して、目をつけられるようになった。「白ばら」は最初はじめての閨秀けいしゅう作家号にるし、「小町湯」や美妙との合作もつづいて発表された。
 稲舟の作品は、美妙を離れないともいわれた。美妙に、令嬢気質かたぎを捨てろとでもいわれたためか、お転婆てんばな、悪達者わるだっしゃだともいわれ、莫蓮女ばくれんおんなのようにさえ評判された。美妙との関係がそうさせたのでもあるし、そんな、ゴシップ的ばかりでなしに、女流作家のなかでの人気ものにした。
 二人の結婚は、誰が見ても、するのが当然のようになっていながら、おそろしく気にされていたが、錦子がその相談に郷国くにへ帰ると、すぐあとから美妙斎が追っかけていって、近くの旅館に宿をとって、嫁にもらって行きたいと切り出した。
 美妙斎は居催促いざいそくでせがむし、錦子はなんでもやってくれという。めんくらった親たちや祖母は、やっと、一家が帰依きえしている学識のある僧侶そうりょに相談して、町の人がその問題に興味をもちはじめたのを防いだが、相続人だから千円のお金を附けたということを、町ではうわさした。
 新婚の夫妻となって、作並さくなみ温泉から帰って来たのは二十八年の暮も、大晦日おおみそかの三、四日前だった。
 それと、前か後かわからないが、箪笥たんす二十円、ボンネット七十円、夜具ふとん八十円何がいくらと、八十銭のあしだまで書きならべて、新聞紙であまり書きたてるから、披露しないわけにはゆかない、これだけの品代金を、金で送ってくれと、錦子は生家に四百何十円かをせびった。
 来客には派手な社会の者もあり、見られても恥かしくないようにしたい。今は離れの一室にこもっているが笑われたくないとか、山田家でたてかえるとしても、悠暢ゆうちょうに遊ばせている金ではないとか、披露の式は都下の新聞紙にも掲載されるだろうから、その費用の領収証は取り揃えてお目にかけるというような下書きは、美妙が書いて渡した。
 華やかなあらし捲起まきおこしたこの新夫婦、稲舟美妙の結合は、合作小説「峰の残月」をお土産みやげにして喝采かっさいされた。
 しかしまた、別種の暴風雨あらしが、早くも家のなかにはらみだしていたのだ。
 世間的に美妙が蟄伏ちっぷくしていた時には、心ならずも彼女たちもほこを伏せていた、おかあさんとおばあさんは、美妙の復活を見ると、あの輝かしかった天才息子を、大切な孫を、嫁女よめじょが奪ってしまって、しかも、肩をならべて文学者づらをするのが気にいらない。
「僕を可愛がっているんだから――」
と、美妙はとりなすが、美妙が大祖たいそと称するところの、八十五歳の養祖母おます婆さんは、木乃伊ミイラのごとき体から三途さんずの川の脱衣婆おばあさんのような眼を光らせて、しゅうとめおよしお婆さんの頭越しに錦子をにらめつけた。
 美妙の父吉雄が、およしの妹とずっと同棲していて、帰らないというのも、この大祖お婆さんがいるからだということを、錦子は嫌というほど悟らせられた。
 だが、そうした女傑が、二人も鎮座することは、錦子も承知の上だった。その覚悟はしていたのだが、耐えられないのは、日本橋に出ている芸妓に、美妙の子供が出来かけている――ということだ。狭い家庭内で、三人の女に泥渦どろうずねかえさせないではおかなかったのだ。
 錦子は半狂乱のようになった。そんな時期だったのだろう。錦子は墨田川へ身を投げようとした。――墨田川! それは、ふうちゃんが水をみつめていた、あの橋の上流だ。
 結婚してたった四月、お金を無心にやられたのだともいうし、離縁されて帰されたのだともいい、体の悪いのを案じて出京した母親が、連れもどったのだともいわれているが、そのうちのどれにしても帰りにくかった古里ふるさとへ、錦子は帰らなければならなかったのだが、故郷にも待っている冷たい眼は、傷心の人をなでてはくれない。
 憂鬱ゆううつの半年、身をひきむしってしまいたいような日々を、人形を抱いて見たりほうりだしたり、小説を書けば、「五大堂」のように、没身みなげ心中を思ったりして、錦子はだんだんにつかれていった。
 事あれかしの世間は、我儘娘の末路、自由結婚、恋愛三昧ざんまい破綻はたん呵責かしゃくなく責めて、美妙にすてられた稲舟は、美妙をのろって小説「悪魔」を書いていると毒舌をろうした。
 錦子は、そうまでされても美妙をかばった。そんなものは書いていないということを、紅葉の文芸欄といってもよい、『読売新聞』によって、「月にうたう懺悔ざんげ一節ひとふし」を発表してもらったが、自分が悪かったということばかりいっている、しどろもどろの長歌みたいなものだった。
 恋とはそうしたものか、そんな中でも、美妙へは消息していた。手紙では人目がうるさいので、書籍の行間に、切ない思いを書き入れては送った。

 秋の早いみちのくに、九月の風がサッと吹きおろすと、ホロホロッと白露しらつゆは乱れ散った。それを見ていた錦子の、張り切っていた気持ちにくずれが来て、白い粉の薬を飲んだのが廿三の彼女の一期いちごの終りだった。花をさして、机の上に一本の線香をくゆらして――
 私は、今日耳にしたのだが、その時、錦子を絶息からよみがえらせて、四、五日保たせたのは、錦子の許婚いいなずけの人で、それから、その医師は、はやったということだ。
 この、明治二十九年には稲舟をさきに、一葉も散り、若松賤子も死んでいる。生前、さほどいじめなくてもよかった稲舟への同情は、再び美妙へのモラル問題となった。それはただちに、日本橋のを正妻にしたからかも知れない。
 今は、七十を越して、比丘尼びくにのように剃髪ていはつしている石井とめ女を、途中で見かけたという便りを叔父おじからもらったが、この章を終るまでにたずね出せなかったので、錦子との交錯は不明だ。





底本:「新編 近代美人伝(下)」岩波文庫、岩波書店
   1985(昭和60)年12月16日第1刷発行
   1993(平成5)年8月18日第4刷発行
底本の親本:「春帯記」岡倉書房
   1937(昭和12)年10月発行
初出:「東京朝日新聞」
   1937(昭和12)年3月27日〜4月21日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:川山隆
2007年9月5日作成
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