大川は、東京下町を兩斷して、まつすぐに流れてゐる。
その古の相貌は、まことに美しい潮入り川で、蘆荻ところどころ、むさしの側は、丘は鬱蒼として、
このころこそ全くの隅田川で、
名にしおはばいざこと問はん都鳥我思ふ人はありやなしやと。
と、東下りの業平さんに涙させた――もつとも、その古跡は、埼玉の古利根川だともいふが――白き鳥の、喙と足の赤いのが、いう/\と魚をくつて、むつれてゐたのだ。してまた、白い鳥がくつきりと見えるほど、水は澄んで青かつたのだ。お江戸となつた元祿のころには、江東にばせをが住んでゐて、大川に、新大橋がかかると、
ありがたやいただいてふむ橋の霜。
と吟じ、五十年ばかりたつと、賀茂の眞淵うしのその時分の大川端、中洲の
大川端といふ名が、ある種の魅惑をもつてきこえてきたのは、吉原が淺草千束村に移り、その交通路とこの川筋がなつたので、特殊の文化を兩岸に生んで來てからで、辰巳(深川)お旅辨天や松井町(本所)の賑はひと、辰巳文學(といつてよければ)
おゝ、あの舟でゆくのは、田之助ぢやないか。
といふふうに大川筋は、遊山、氣保養の本花道となり、兩河岸は大名そんなことをいつてゐたらば限りがないが、それらの脈をひいた新時代的のものをいへば、故小山内薫さんの小説「大川端」が、明治の末から大正のはじめにかかる大川端情緒を、名殘りなく現はしてゐる。
あの小説は、中洲眞砂座に立籠つて、近松研究をしてゐたところの新派劇の伊井蓉峰一座と、濱町のお宅の
この間、哥澤節を日本的ソプラノ・テノールと紹介したが「夕暮」を唄ふときいて、およしなさい、もはや眺め見渡す隅田川の實感は、震災後の若人には來ない。大川ばた全體が燒禿げた
大角力も花火も、九ツの鐵橋と共に、昔の甘い夢はさそはない。あの濁流の盛上る大川こそ新興首都が吐き出す力の流れだ。あれが、昔のやうに澄んで流れる設備が出來るときこそ、大アジアの首都東京が完備する時なのだ。
――昭和十三年七月九日・東京日日新聞――