鰹といふと鎌倉で
春の日の霞める時に住吉の、岸に出でゐて釣船の、とをらふ見れば古の事ぞ思ほゆ、水の江の浦島の兒が堅魚釣り、鯛釣りほこり七日まで――
と、魚の王鯛と同格に、といふとをかしいが、共に
目に青葉山ほととぎす初松魚
これは土佐でも住吉でも、自由にはめられる、だが、蜀山人の狂歌の
鎌倉の海より出し初鰹、みな武藏野のはらにこそ入れ
となぜなつたのであらう?思ふに鎌倉武士のあらましは關東武士であつた。江戸の氣風は徳川權現樣三河御譜代の持參だとばかりは言へない。武藏特有の肝つ玉のあつたことと、土地に
江戸人のなりたちは、士農工商のうち農だけが缺けてゐる。農の出の人も、農業では住へなかつた。士、工、商の三階級で、士と工とが江戸の氣風をつくつたものだといへる。知識階級の士は節度正しく、一死もつて奉公を念としてゐた。工は職場を命の捨どころ、武士の戰場同樣と心得てゐた。この二者が、明日の命をはからず、一念職に殉じようと心がけた。武士が食祿の多少でなく、心にはぢぬ生きかたをしようとし、美食せず、美衣せぬこと、文武を磨くことをもととし、帶刀を心の鏡として、錆ぬことを念願にした。工人(職人)は職場の印半※[#「纏」の「广」に代えて「厂」、11-2]の折目だつたのを著、晒しの下帶のいつも雪白なのを締め、女房はグチヤつかぬ炊きたての白い飯を辨當に詰めてやるといつた心意氣で、名を惜しみ、受持つ仕事に責任感が強かつたのが、自然女にまで行きわたり、割合に物堅く、キツプのよさとなり、負じ魂となり、死恥をさらすなのたしなみとなつた。
世がくだるにしたがつて、それが表面化し、
それとこれが結びついて、初鰹の
初鰹女の料 る魚でなし
初鰹旦那ははねがもげてから
初鰹煮て喰ふ氣では値がならず
初鰹得心づくでなやむなり
初鰹値をきいて買ふ物でなし
「はねがもげてから」は飛ぶやうに賣れる勢のいいうち買はないといふことであり、「煮て喰ふ氣」はさしみにする品は高いからであり、「得心づくでなやむ」のは安かれ惡かれ、初鰹旦那ははねがもげてから
初鰹煮て喰ふ氣では値がならず
初鰹得心づくでなやむなり
初鰹値をきいて買ふ物でなし
だが、裏長屋に住んで、袷をころしても、食ふといふにいたつては、初鰹の名に惚れすぎた結果で、早いとこをといふのが、早急になり、走りものずきになつた末期江戸人の病根で
初の字が五百、鰹が五百なり
初鰹女房日なしへいつけてる
初鰹女房は質を請けたがり
がよく諷してゐる。初鰹女房日なしへいつけてる
初鰹女房は質を請けたがり
私が、大正のはじめ京橋佃島にすんでゐたころでも、まだ押送り船が房州から、白帆をふくらませ、八丁櫓で波をきつて、鰹をつんではいつてきた。河竹默阿彌翁の「梅雨小袖昔八丈」の、髮結新三の長屋の場は、初鰹季節を描いて、その時分の初かつをのねだんまでが出てゐる。鰹賣が
(「三田新聞」昭和十年五月卅一日)