北京の生活

長谷川時雨




 そのころ、義弟の住居は、東三條胡同といふ、落着いた小路にあつて、名優梅蘭芳の邸とおなじ側にあつたが、前住のふらんす婦人の好みで、多少ふらんす風に改築された支那家屋だつた。
 であるからかも知れないが、玄關をはいると、水族館とも箱庭式ともどつちともつかない、噴水と泉水と、花壇と鉢植の一間があつて、夜は花やかな電燈が點くやうになつてゐる。地下室のレストーランなどが眞似てもよい――また、どこかそんな氣もするところがある好みだつた。その隣室が大小二箇の客間になつてゐた。その次に食堂があつた。
 二枚折の腰屏風の片つぽが長いやうな全體の建てかたで、庭に面して折れ曲つてゐた。食堂が兩方のまがり角になつてゐて、書齋、寢室、湯殿、控部屋と、ずつと奧に、すぐに庭へ出られる廣い部屋が二室あつて、義弟の家では、子供たちが東京の學校に來ないうちは子供部屋とくらがはりにつかつてゐた。
 私の妹は北京に住みつくと、すぐに樟材くすのきで櫃をつくらせたといつて、その物置に幾箇もならべてあるのを見せた。好い樟の、一枚板が、とても安く買へるから、これならば何を入れておいても蟲がつかないから、このまま歸る時はもつて歸るのだといつてゐた。事實それは、此方へ歸つて來てから、立派な、とても好い洋服だんす幾箇に化けてゐる。
 私はその時の、妹の生活が、ものを書くものには理想的なので羨ましかつたので、勉強するには北京に住んで、東京へは刺戟を受けに來たいとその後もよく言つた。それより前は、住むには奈良がよからうとか、京都がよいとかいつてゐたが、一足飛びに北京黨になつてしまつた。それほど、細君の樂なところなのだつたのだ。もとよりそれは、中流以上の生活ではあらうけれど、その生活費の安さは、たうてい思ひもよらないことでもあつたからだ。
 私たちは夕方に北京に着いたのだが、靜な晩春の暮色の中で、丁度張作霖の晩年敗戰の時で、市中に戒嚴令がしかれてゐたので、兵隊が手荷物をしきりに改めた。同仁病院々長であつた義弟の關係やら何かで、大勢の出迎へをうけたので、荷物は馴れた人達がどんどん運んでくれてしまつたが、停車場の裏手の方へ出るのに、高い橋のやうなところを渡つてゆくと、若い兵隊たちが化粧鞄をあけたりして、しやがんで、細かいものを見はじめた。私は彼等が頭を集めてゐる金屬製の容器類から、匂ひのよいクリームや、仁丹を彼等の掌へ振り出して見せてやつた。それらの兵隊たちは、後の日に見た昔風の、藍色に赤い丸を染めた、ダブダブの支那服を着てゐるのとちがつて、ふと見ると、日本の兵隊さんたちと間違ふほど、キツチリした軍裝をしてゐた。
 そんなふうに、遲く着いたので翌朝眼がさめると、誰よりも早く朝の庭を、窓をひらいてゆつくりと眺めてゐた。と、ひとりの老人が、木立の間を丁寧に掃ききよめて打水をしてゐるのが、いかにも親切なやりかただが、此家の雇人としては、あまりにも日に燒け黒み、胸まであらはで身汚なすぎるのだつた。それに、私を不思議がらせたのは、私の眼が窓にあると知ると、彼は身をかくすやうにして隅の方へ行くことだつた。
 厨司ちゆうずや、女中や、ボーイや運轉手たちにお土産の心づけをする時に、あのおぢいさんにもやつて下さいと言つたらば、あああれは苦力だと言つた。お客樣の眼になんぞついて怒られるかと思つて隱れたのだらうとも言つた。その苦力は、たつた月八圓ばかりで、朝毎に家の者の眼のさめないうちに、庭を掃き清め、夜更けまで畠の世話から何から、下※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)りのことは一さいするのだが、一軒の家に雇はれきりでないものは、小額の錢で幾軒かかけもちにしてゐるのもあるといつた。
 私は庭へおりて、家の※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)りを見まはして見た。この家ばかりではなく、何處でも、中の廣さがわからないやうな建てかたになつてゐて、門は一間か一間半ぐらゐになつてゐる。別だん密林なのではないが、どうも母屋の家根がよく見えない土塀つづきだ。そして、よく見ると、土塀にそつて一側、住居があるのだが、それすらはつきりしないほど巧く出來てゐる。
 妹の家の庭の向う、道路に面した方にも別人の住居が二軒も並んであるのだが、さうきいてもわからなかつた。門の片側に、運轉手のゐる小屋があり、その後がボーイの住居、その後が厨司一家ちゆうずいつかで、細長く住んで、間に空地くうちはあるが、客室の後までつづいてゐる。その後が後庭で、畠をつくつてゐた。かう書くと、門の兩側がせまく小汚らしげだが、どういたして、石疊に楊柳の花が散り、厨司の小屋かと思ふ垣根には、ライラツクの花がにほつてゐる風情だ。
 ある日、厨司が一週間分の賄費を、買物の帳面を持つてとりに來た。
 葱一本、牛肉拾錢と、ちらと讀んだ私はその人たちの買もの帳だと思つた。それにしても葱一本とは――
 すると妹が説明した。びつくらしたでせう、ほんとに、支那人、えらいのよ、厨司たちは毎朝買出しに行くのに、主人自慢でありながら買ものはちつともむだをしないで、およそ一日に一人分幾錢といつて賄ふのよ、と。
 妹の家の厨司は腕利きで、今までにもよい主人ばかりをもつてゐた。彼は、日本料理も得意だ。おさしみでも、椀盛りでも震災後の東京なら、流行する店の味と違はない位だつた。夫人おくさん、日本へ行つたら、こんな風なさしみ皿買つて來て下さい、といふふうだ。お茶受けには鮨をつくり、汁粉をつくる。しかもお國料理はもとより、ふらんす料理も立派にやる。それで月給は二十圓、女房が女中をしてゐて別に五圓の手當。これは例外によい價ださうで、たいがいの家では、拾圓十五圓といふのを使つてゐる。
 いいえ、食事は自分たちでするのですよ、あたしも來た當座、びつくらしてしまつて、それぢや、なんぼなんでも、一流といつても好い職人に、あんまり氣の毒だと思つたら、古くから在住するかたに、別なことをすると、他の者が、困るといはれましたの、と妹はいつた。
 まかなひつてどの位? ときくと、さあ、お客樣がいらしつたから、一圓五十錢にもしたかしら、それとも一圓かしら? 大概三十五錢から、四十錢だと上等なのです。
 一食ではない、もとより一日分三度、一汁五菜、二汁三菜位はつけるといふ。しかもおやつまで入れ、煎茶の代もはいつてゐるといふのだから驚いてしまつた。
 大概このほかに、看門的といふ門番が居る。月給から話すと、東京と別にたいした違ひはないやうだが、彼等はみな、各自の小屋で自炊なのだから、主人の臺所の經費は甚しく輕い。
 もすこしそれらのことを、短い日に見た、在留邦人のくらしかたではあるが、その居まはりの日常生活の見たままを、そのうちに書いて見よう。‥‥
(「文藝春秋」昭和十二年十一月)





底本:「桃」中央公論社
   1939(昭和14)年2月10日発行
初出:「文藝春秋」
   1937(昭和12)年11月
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2009年1月17日作成
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