地方主義篇

(散文詩)

福士幸次郎




最初の時代


 眞青まつさをな海のうへに夏のやうでもなく、秋のやうでもなく、慥かに春の日がその華かさが更に、烈しいとでも言ひたい位の正午の光を受けて、北海道通ひの蒸汽船が二艘、遙か遠くを煙りを吐いて走つてゐる。わたしは今にその玩具のやうに小さいながら、黒びかりする船の姿と、吃水面際の赤いいろどり、薄くたなびいた煙り、またはこれ等一切を取りまく、春光はるびのもとの明色めいしよくの濃い海の青を、三十何年來幻のやうに思ひ泛べられる。
 十五の時には黒い夏の日本海が十間ばかり白い泡を吐いて、無人の岩くれ立つた磯を打つのを見た。岩の間には淡色うすいろな撫子や、しをらしい濃紫の桔梗が咲いて居り、磯を離れて半丁ばかりのところに、屏風のやうに屹立した斷崖の上には、もう秋の口らしい蜩が鳴いてゐた。これはまだ郷里の中學にゐた頃、ひと夏その地方の西海岸を廻つた時の印象であつた。
 二十の年には、その頃もう東京に來てゐた時分だが、夏の眞盛り時、房州海岸を半月あまり旅をして、北日本海の海とはまるで違つてゐる、緑の濃い、明色めいしよくな太平洋の海を椿の樹々きぎのあひだから眺めた。
 だが日本海と格別ちがつたこのふゆ眞中まなかにさへ暖かく明るい大洋も、あのわたしが三十何年まへ山裾の城下まちから、十何里はなれた港へゆく途中、うまれて初めて見た耀かがやかしいばかり綺麗な、濃青こあをな海の色あひには及ばない。その時の汽船が北海道通ひの船だといふことを知つたのも、それはも少し年とつてからである。蒸汽といふものだといふことを知つたのも、あとでのことである。更にそれが海といふものであるといふことも、まだ齒のやつと生えかけたばかりのその時のわたしには、わかつてゐたことでは無い。ただわたしはそれを沙漠のなかの映像ででもあるかのやうに、一生涯わすれ得ない美しい極彩圖、この世に生を享けて以來最初の神祕な記憶、その一瞬間から永いのちのちまで蠱惑する「夢」として殘されたのである。
 移住民……! これもあとで分つたのだが、わたしの家族はそのとき、親代々住みなれた地方一の城下まちを離れ、幌をかけた荷馬車に搖られ搖られして、山裾から平原を北に横ぎり、山峽やまあひの險しい國道をとほり、峠をのぼり下りして、その別な平原にまさに這入らうとしたくちで突然と山が切れ、海が右にひろがつて、にこやかに、氣輕に、春のひかりのもとに眩ゆいばかり青々あをあをと、荷馬車の上の一行に現はれたのである。

 わたしの一家はその頃零落おちぶれたどん底にゐたらしいが、父も母も、またわたしにはただひとりの同胞きやうだいたる兄も、みな綺麗な事では知合ひの間には評判であつた。母はわたしの幼な年にも覺えてゐるが、色白のおもてに剃つた青い眉根と、おはぐろとのうつりの好い顏だちであつた。その頃十一の小ましやくれた、しかし勉強に精を出す兄は、女のやうに美しいと賞められてゐた。父はと言へば御維新の後々あとあとまでもチヨン髷をゆひ、「玉蟲たまむしのやうに光る着物を着た」好い男と言はれた。わたしの直ぐまへには、どれも四歳ぐらゐで死んでしまつたけれど、矢張り綺麗な子と賞めそやされた、兄が二人あつた。さて末子のわたしは父親母親のかすで出來たに相違ない。「この兒は一番不器量だ」と生れたときに、誰かに言はれた。わたしは全く親同胞に似ぬ不器量な、そして擧動の至極ボンヤリした子供であつた。でもこの子供がまだ乳呑兒と、誰しも見るそのとしで、どうしてそんなことをと思へるくらゐ、二歳ふたつから三つ四つ五つぐらゐの年齡としまでの、とぎれとぎれながら樣々の周圍の光景を、幻のやうに今なほあざやかに記憶してゐる。海の蠱惑はその中でも眞初めのものである。ああ、十二里の平野と山間の路を、荷馬車一臺に親子四人を乘せたか、人と荷物とを車二臺に分けたか、さういふことは知らないけれど、その時母の膝の上にでも抱かれてゐた、まだ滿にして一歳ひとつにもならぬこの乳呑兒は、乳の香りする息を吐き吐き、春の光のもとの海といふ晴れがましい極彩の魔女の衣裳を、不思議な樣にマンジリ目を開いて見まもつてゐたのである……

 人間が生れて以來數々のものに觸れてゐるうちに、他の一切のものは忘れても、或るものだけは何時までも覺えて居る、そして墓の中までも之れをその人の身についた財産のやうに持つてゆくといふことは、之れと其の人とのあひだに、何ものか因縁があるので無からうか。人がまさに溺れようとする瞬間、自分の忘れてゐた過去の生涯を吃驚するくらゐ鮮明に、卷物でもひろげてゆくやうに一刹那のあひだに見ると、今日の心理科學は教へてくれる。
 そんならわたし共の記憶といふものは全部この心理科學の示す定説のとほり、忘れられてゐるものも死んでゐるのではない。だがその中に特に最初から深く心に沁み込んで覺えて居り、それが人によつてそれぞれものが違ふといふのは、何ものか人それぞれの特殊のたち、特殊の生れつきに據るとは考へられないものだらうか。溺れる間際によみがへつたり、ものの香ひなどを嗅いで、思ひもつかない遠いことを突然思ひ出す吾々の記憶作用、そんな方面の人間の記憶の不思議な働きは今言はないとしても、それとは反對にわたし等自身が特にそれぞれ幼い折りから明白に記憶してる方面のもの、人がこの世界に生れて以來最初の頃の記憶として永く幾つか保存されてゐるもの、この幾つかのものに特にわたし等の生れ乍らのたちと、隱約の間に何か關係があるのではあるまいか。
 或る人の最初の最も鮮かな記憶といふものは、その人の暗い一生のもとに、暗く使役しえきされた暗い感情の、逸早いちはやく現はれたものであるかも知れぬ。かういふ人にとつてかういふ種類の記憶は、思ひ出すさへ彼の心を掻きむしるものである。
 又或る人の記憶には特に道徳的にその人の心を、色なり、※(「鈞のつくり」、第3水準1-14-75)ひなり、或ひは影なりでもつて、はやい頃から暗示ほのめかしてゐる何ものかがあつて、その人の光明のある立派な道を可愛らしく美しく純潔に、飾つてくれてゐるものがあるかも知れぬ。
 だが私等藝術に從ふものは、特にこの世界の美をいつくしむ心が惠まれてゐる故に、そしてこの世界の美といふものは、ものによつて一番幼い子供にもたやすく、感受出來るものである故に、そのあどけない、屈托のない子供心の中に無數に受け入れた印象のうちで、一番心に適つたものを一つ二つ、「この子が此位の年で」と驚かれる時分に、何より鮮明に感銘される事になるかも知れぬ。

 或る人の覺えてゐるのはまだ乳呑兒の頃に、枕の傍で添伏しの母の懷のなかから、樂しく聞いた時計のオルゴオルの音色ねいろである。また或る人は自分のために親が立ててくれ、空高く飜へしてくれた、鯉のぼりの偉觀は忘れてゐるが、今もまざまざ知つてゐるのは、どうしたわけか小川の底に沈んでゐるその鯉の殘骸たる金と黒とのきれ地である。或る人は音樂に特に最初の記憶がある。或る人は色彩に特に最初の記憶がある。何でもないことのやうであるが、ここにその人の兩親が與へた性質をも更に潜り、強く何ものかから受けついで來て、後々の生活をも支配する事になり、各人にとつて相違し、各人にとつて不變なる或る特質があるのでないか。それはしひたげられた暗い幼時の記憶や、特に教育や訓練によつての道徳的なものがほの見える幼時の記憶のそれとは全くこと違つて、美といふものに對するこの種の記憶は、自分ひとりでの心からをどり出たものであるから、一層その人の生得の性質、つまり個性といふものにも根據してゐるし、また至極單純な心で得られるものでもあるから、まだ西も東も知らないいはけない心でも、後々あとあとまでも美しい夢のやうにさだかに、心のなかに取り入れ納めることが出來る物ではなからうか。

 わたし等一家が港へ移住した頃、わたし等一家といふものは至極あはれな、みじめな、大工生活ぐらしをしたものだと云ふが、それに關しては、わたしの記憶はまだまだ二三年後の年のものに、初めて薄ぼんやりと現はれて居る。それよりまづ最初のものとして殘つてゐるものは、あの海の記憶、つまり前述のあの荷車の旅で母に抱かれて行つた途上、多分吸ひ飽きた母の乳房もその時離し、眼を荷車の前方にやつて、折り柄山脈が切れはじめて横顏をあらはしにこやかに彼方あなたへとひろがるのを見たあの青い海の記憶である。八歳やつつ九歳ここのつ後から暗い魂に浸る運命となつたわたしに、この記憶がわたしの一生の或る頃の年代、つまりこの人生を絶望し見限つてゐた二十五六の厭世時代に、不意に蘇つて來てくれたことは、當時のわたしの救ひの主となつた。なぜなら此の美しい海の景色に瞬間に溺れたわたしの心の中には、このわたしといふ人間の持つて生れた性質が、その時そこらの道端に多分生え出してゐた青草のやうに、可愛らしく生きてゐるもので、決して厭世的なもので無いのだと氣のついたことが、わたしの二十五年代の思想を一變させてくれた示唆の一つとなつたからである。
大正十二年春・名古屋にて

親の土地


※(ローマ数字1、1-13-21)


 汽車は山峽やまあひを出たのか、兩方に山脈が廣く展けて行つた。愈※(二の字点、1-2-22)來たなと、後の支度は妻にまかせて車室の窓をひらき、身體が半分はみ出すくらゐ車外に乘り出して、汽車の進行してゐる方の前方の景色を見た。
 此時はじめて分つたが霙といひたい位な、目にも見えぬ薄い細かい吹雪が汽車の進行する前方から、眞つ直ぐに吹きつける烈風に送られてやつて來て、それが眼と言はず、鼻と言はず叩きつけ、頬邊ほつぺたこそげるやうに冷たくうるほしてゆく。それを我慢して汽車の前方の左一帶を見まもると、汽車は今まさしく平野に行く傾斜地の高地にさしかかつて、兩側の山脈が末ひろがりに展けてゆく平野のふちは、向うへ向うへと遠のいて行き、紛れもないわたしの生れ故郷のまちの環境――つまり平野に望んだ低い山地のたたずまひが前方遙かに見え出した。
 併し家らしいものは山の臺上だいうへにも臺下だいしたにも見えず、ただその上下うへしたの所々に散點する森や林やの黒い影をうしろにかして、霧のやうなものがうつすり棚曳いてゐるのが、望まれるだけであつた。

 二十年まへわたしの眼界から消えてしまつた生れ故郷の城下町弘前は、この山裾の隅にあるのだと思ふと、前方から吹雪まじりに吹きつけてくる痛い空氣以上に、何かまた別な空氣がこの景色の土地一杯にひろがつて、それがわたしの肺にも這入れば眼にも沁みるやうに思はれ、異常に引きしまつた心持になるのであつたが、山裾のあひだに小さくても、人家の屋根のぎつしり並んだ都會の眺望を當てにしてゐたのに、密雲のもとに反射する光も艶もない雪の山と平野との無人境同樣の景色を見れば、「こんな處で何處に人間が住んでゐるのだらう」と憮然とならざるを得なかつた。

 密雲のもとの山脈は灰色のテーブルクロースを不行儀に、平べたく折り重ねて行つたやうに、平原の片側を轉回のたうつてゐる。そのところどころに例の霧がうつすり地の上を這つてゐる。これは然し霧ではないんだらう。今わたしの頬邊ほつぺたを吹きつけてゐる目にも見えないくらゐ、薄い細かい吹雪が彼の邊に吹き廻つて、それが、霧のなびいてゐるやうに見えるのであらうと、わたしは其のテーブルクロースの隅々に目を走らせてゆく。連脈のうへに一ときは高い山が上部は密雲のなかにとざしたまま、鼠色な腹を示しはじめた。この地方名うての靈山岩木山だなと、わたしは心のなかで合點うなづいた。餘り寒い景色なので別に感興も起らない。ただ雲のしたに現はれた裾ひろがりの鋭いスカイ・ラインをぢつと見まもる……

「私にも見せて頂戴、よう、よう」
 と今年四歳よつつになる長女が、妻のベンチから鼻聲を鳴らしてゐる。
「駄目、駄目。寒い風がピウピウ吹いてるんだよ。」
「いやいや。見るう。ひろ子も見るう」と足をバタバタやつてゐる。
 わたしは窓を離れて妻のベンチの處へ行つた。汽車は終驛が近いので、上野驛以來の乘合客も大半降りてしまつて、車内はわたし等夫婦親子の專有かのやうに、廣くガランとしてゐる。ベンチの凭れ板の列と、默りこくつてゐる些少の乘合客の頭とを越して、車室の突き當りに掛つてゐる掲示板が見透しになつて居り、窓外の險しい景色とは打つて變つて、ここは其處らの窓に蠅でも唸つてゐないかと思はれるくらゐ、ひつそりして暖かくうん氣ざしてゐる。

 妻はうしろ向きになつて、昨夜からベンチに敷詰めの毛布をこまめに疊んでゐる。
「貴方どう。もう弘前が見えて」
「いや未だ仲々」
「支度はみんな出來たわ」
「さうかい」
 わたしは窓外の景色に少し興が覺めてぼんやり答へた。この汽車を降りたら直ぐ寒暖計が一遍に二十度も落ちるやうな、外氣のなかにさらされるのだと思ひながらその前屈みになつてゐる妻の後姿をぢつと見た。
 彼女は肥つてゐる上に思切り着物を着込み、その上に當歳の赤ン坊をネンネコでおんぶしてゐるから、いつもより餘程膨大された恰好になつてゐた。傍には私等の鞄や信玄袋や風呂敷包でベンチが一つ盛り上つてゐた。
「でも岩木山が見え出したよ」
「ぢやもうまちが直きなんでせう」
「それが家ひとつ、人つ子ひとり見えないんだよ」
 わたしは例の遠くの森や林を流れる薄い霧を目に浮べた。
「父ちやん、わたしにも見せて」と長女が再び手を差しだして延びあがる。
「よし父ちやんの故郷を見ろ。えらい處だぞ」と、わたしは毛糸づくめの洋服で之れも着膨れた長女をやつこらさと抱きあげた。
「貴方寒いでせう」
「なあに寒けりや直ぐ厭だといふさ」
 わたしは少し自棄糞やけくそに子を抱きあげて窓外の風に向け、その小さい頭を出してやつた。

 汽車は川べりの勾配を走つてゐて、わたし等の視界に玩具おもちやのやうに小さく現れた先頭の機關車が、その灰色と鼠色とで塗りつぶされた無人境の平野を、ただ一人の生き物かのやうに白い綿毛の煙りを噴いて走つてゐる。川は雪のなかから黒い斷崖きりぎしと、一面に皺ばんだ鉛色の流れを見せたが、間もなく雪の畠地に隱れてしまつた。骸骨の樣な橋も黒々と長く見えてゐたが、斜めに見えてゐたものが眞正面に展いて見えたかと思ふと、またするすると斜めに走つて、雪のなかにさらはれるやうに見えなくなつてしまふ。

「どうだ、えらい處だらう。人つ子一人ゐないんだぞ」とわたしは長女の顏をのぞき込んだ。彼女もこの寂しさと荒さを極めた自然の威力に打たれたか、風上かざかみに顏を向けて、べそ掻くやうな表情をしてゐたが、ひつくやうになほも列車の前方を見まもつてゐる。十五年餘り故郷を離れて暮らしてそのうちこの子供が生れたので、わたしは故郷のまちを偲んでその頭の文字一字をとつて、「弘子ひろこ」と命名した。
 これぐらゐわたしの心を永いあひだ離れられなかつた故郷に、今、記念品の娘まで指し向けて會合するといふのに、無愛嬌ぶあいけうな、見るから寒氣さむけだつてくる無人境の風景畫を遠慮も會釋もなくおし擴げたのである! わたしは見も知りもせぬ人間がきびしい顏をして、「わたしはお前の父親のやうなもので、お前の産みの父親よりもつと縁の深いものだ。どうだ、わたしの風體ふうていは」といふやうな者に出會でつくはした氣がする。

「ひろ子、あれを御覽。ほらお山だよ、お山」とわたしは長女に鼠色の岩木山を指さした。

※(ローマ数字2、1-13-22)


 故郷の弘前市に着いたのは、これがさうかしらんと遠くから眺めてゐた大村落を通過して、また一と渡り雪の平野の一角を突つ切つてからのことであつた。尤も大村落と言つても雪の水田中に裸な立ち木の林と一緒に群がつた不樣な農家の長いわびしい繋がりで、停車場をのぞいては村のとつつきで四五臺の馬橇ばそりの列が、馬子まごてんでに積み上げた荷のうへに乘つかつて、村を離れて行くのが小さく見えたきりで、つひぞ人影らしいものはこの外見當らなかつた。
 弘前市もこれと大同小異で大村落を出てから漸く向うの山裾に見えはじめた屋根屋根の乏しい積み重なりが、わたしの氣分をなほなほ沈ませた。流石に停車場は地方での大驛なので、着車したときはこの汽車を利用して更に今一時間ばかり先きの距離の青森市に北行する乘客が、廣いプラツトフォームに溢れてゐた。雪はここでちらちら降りはじめた。

 わたし共は故郷の弘前へ來ても、ここから更に汽車を乘り替へて三里ばかり眞北まきたの友人の町に行くため、弘前驛で次ぎの汽車を待たねばならない。改札口を出て雪構ゆきがこひした通路を二た曲りばかり折れて、停車場の正面の入口に出る。雪構ひは地面から建物の廂まで丸太を組んで、これに菰を張つたものである。わたしはこれが故郷の町に來た正しい證據ででもあるかのやうに、立ちどまつてその高いてつ邊まで目をやつた。

 雪構ひの曲り角の所は外に出る通路になつてゐた。わたし等が其處を通つた時には、ボロ洋服の上に、犬の毛皮のチヤンチヤンコを着、汚れたコサツク帽をかぶつた逞しい男が、ラツパを持つてせかせか足踏みしてゐた。
 市内へゆく乘合の馬橇の馭者であらう。
「だいぶ待たなくちやならないんだネ。」
 とわたしは妻にいふ。
「どうして」
「だつて僕等の今の汽車が一時間ばかり延着したらう」
「ええ」
「赤帽に訊くと、そんな事で、此處の發車時間がすつかりゴチヤゴチヤになつたんださうだよ」
「へえ、さう」
 と妻は淋しさうに目をパチクリさせてゐる。
 今朝がた羽前と羽後の山間でわたし等の汽車は、大雪のため永いこと停車した。冬季休暇で歸郷する學生達は氣輕に車外に飛びだして、忽ちそこで雪達磨をこしらへた。乘合はした水兵の一團もこれに對抗して、同じやうな奴をこしらへた。そして卷莨まきたばこをくはへさせたり、新聞を持たせたりした。あの停車は四十分あまりもあつたらう。
「困るわね。それではK――さんの家には何時頃着くことになるでせう」
 K――さんとは之れから別の汽車に乘替へてわたし等の訪ねてゆくことになつてゐる友人の名である。
「驛員に訊いて見るから、兎に角待合室のなかに這入らう」
 急行列車は大丈夫と思つてゐるのに、奧羽線では、今頃から急行列車がそろそろ當てにならなくなるのである。

 待合室はどこも皆一杯なので、入り口のところに妻や子供を待たせて置いて、出札口に立つてゐる驛員のところへ行つて、發車の時間を訊く。驛員はこの地方の言葉を丸出しにして、五時何分でなければ貴方の所要の接續の汽車が出ないといふ。ここから他に支線で出る汽車もある筈だから、も少し都合よい時間がないかと更に訊きただすと、わたしにも聞きわけられない訛りのある言葉で説明して、結局要領を得ない。この待合室に一杯詰つてゐる人々も、今皆わたしと同じ運命にあつてそれが同じ事ばかり訊くので、驛員も氣が苛々いらいらしてゐるのらしい。しかしそれは兎に角わたしが郷里の人間の丸出しの言葉を聞いたのは、この驛員が殆ど最初であると言つてよかつた。それはこの郷里の大地からかに湧いてくるやうに、生き生きわたしの鼓膜を刺※[#「卓+戈」、U+39B8、256-下-17]した。わたしは微笑して引きさがり、雜沓のなかを掻きわけて妻のゐる方に戻つた。
 妻は座席を讓られたと見えて、二等室入口眞近のほのぐらいベンチに、小さい子を背負つた儘腰かけてゐた。
「どうしたの」
「駄目だ。二時間も待たなくちやならん」
「困りますネ」
「うん、弱つた」
 私は長靴の兩脚を、雪融けの水でぬかるみになつてゐる叩きに踏ん張つて、これからの善後策に就き妻と話をしたが、それが濟むと身を轉じて待合室の中央に向きをかへ、わたし等を取卷いてゐる群集を見まもつた。

 一種異樣な風采の群集である。其のわめいてゐるものは何も彼も騷音で這入つて來るが、中ではつきり聞きとれるものは、今しがた、出札口の驛員から聞いたと同じく、この大地から湧いて躍り出たとしか思はれない言葉である。
 待合室は雪構ひで外部を覆はれてゐる上に、電氣も未だつかないので、薄暗く、群集はただ黒く渦卷いてゐるやうに見えて居り、その中から一切の騷音が割れかへるやうに溢れてゐる。マントは大頭巾が着いたのを着てゐる。頭には風呂敷を三角に折つた冠り物をしてゐる。こんな冠り物をしてゐるのは、大抵百姓女である。見榮も恰好もなく着るによいだけ厚着をして、どれも皆元氣よく野獸のやうに強い響きをもつた、しかし其のなかに異樣なくらゐ可憐いぢらしさの籠つた言葉でもつて、大聲に喚き合はしてゐる。
 わたしの故郷の人はどんな人でも話好きだし又上手である。しかし二十年目でこの話の渦卷きに飛びこんだわたしには、あの車中から見た無人境の景色同樣、「おれはお前の父親同然のもので、父親よりも又お前に縁故の深いものだ」と、わけも解らず強く名乘り出されてゐるやうな氣がした。他郷の環境での二十年間にわたる生活は、わたしの眼と耳とを自分の思つてゐた以上に遠く、全然別に育ててくれたのである。
 わたしも他郷へなんぞ行かずに、この土地に居切ゐきりで今になるまで育つたら、彼等と同じ言葉を使ひ、同じ表情をし、同じ動作をして夢中に話しあつてゐるのだらう。それが今無理にやると、役者のするやうに空虚な眞似事をするに過ぎなくなる。環境には目に見えない魂があつて、それがその環境の人間のする如何どんなものにも現はれてゐるといひ、これを離れると個人はその生活の活力を失ふと、地方主義者のマウリス・バレエスはいふ。

 長女を連れて停車場の雪構ひした入口をぬけて、田圃向うの市街を一瞥したり、賣店に行つてキヤラメルや繪本をひろ子に買つてやつたりして、また妻のまへに立つてゐると、すぐ傍の二等室のストーヴに當つてゐた人だかりの中で、いかにも傍若無人のさまで足駄穿きの足をこのストーヴに突き出してゐた男が、のそのそわたしの方にやつて來た。四十近い年配で、黒のインバネスを着てゐた、目をシヨボシヨボ斜視すがめのやうにつかふ癖のある、童顏の大きな男であつた。
「君はX――君ぢやありませんか」とおづおづした聲で訊く。
 わたしは弘前へは出直してくるつもりだつたが、早くも見つかつたかと「さすつたナ」といふ氣で、相手をぢつと見た。
「ああさうです。君は?」
「うむ矢張りさうか」と如何にも人が好ささうに笑ひ出して、その特徴のある眼をなほ近づけ、言葉も俄かに土地の言葉になほした。
「忘れダガ。W――だ。W――……」
 忘れダガといふのは、忘れたかと云ふ事である。津輕地方語には濁音が多い。
「あつ、W君、青森の?」
「うん」
 わたしはこはばつた心が急に融ける思ひがして、同じくらゐせいの高い相手の顏に、感動の眼を見張つた。彼が大學生時代に東京で別れて以來十七八年になるが、よく見誤らずに見當てたものだと驚嘆した。わたしは人並よりは大分背の高い方である。彼もわたしに負けぬくらゐ高い。
「君の評判はよく聞いてゐる。あんなになるには隨分苦勞したべ」と彼は優しくいたはるやうに言つた。彼は青森市の少壯政治家として、地方民に囑望されてゐるのを、一二年來何處からとなく聞いてゐる。なるほど人好きのするゆつたりした偉丈夫だ。
「ああ苦勞したよ」とわたしは苦笑して、
「未だにその苦勞から脱けきらないで、今度は罹災民で都落ちだ」
「そして何處へ行く?」
「板柳だ」とわたしはこの弘前市から三里ほど北の町の名を言つた。
 彼は氣うとさうな斜視すがめの眼で何處どこを見るともなく見つめて、依然頬には人の好ささうな微笑を漂はせてゐた。輕薄な冗談ひとつ言はないが、人を惹きつける快い力が、その無言の身體のうちに溢れてゐる。わたしはまた故郷の大地の何ものかに觸れた氣がしたのである……
 わたし共は暫く昔話をしたあと、再會を期して別れた。

 この晩わたし共夫婦親子は弘前市の次ぎの驛で、夜遲くまでまた待たされた。ここは支線の汽車の立つ驛で、津輕平原を北に日本海を指してゆく處である。プラツトフオーム[#「プラツトフオーム」は底本では「プラツトフヤーム」]にある四方玻璃窓の待合室で待つてゐたのであつたが、雪はここへ來て以來本降りになつて、もの凄いくらゐ降りこめた。二十年この方睡つてゐたわたしの本能は目ざめて、身體に言ひ知れぬ力が漲つてきた。雪國の人間は雪を見ると氣が張つてくる。わたしはストーヴに足を突き出しながら、故郷の最初の夜の感銘を思ひふけつてゐた。妻はストーヴ前のベンチに腰かけて居睡つてゐた。ひろ子は毛布に厚くくるまれて、父の故郷の土地で最初の熟睡をしてゐた。待合室にはほかに人がゐず、ストーヴの石炭だけが赤い焔を吐いて、遠方の風のやうな音を立てて勢ひよく燃えてゐた。
大正十三年六月十七日・津輕碇ヶ關にて

土地の愛


 林檎畑のなかの路を夜十二時過ぎにとほる。廣い畑地はたちで、星闇のしたに林檎の樹が、收穫後の裸の影を無數に踊らせてゐる。だが果物畑といふものは、今の樣にこのみが一つもない時候になつたつて、また今夜のやうに樹の姿がそれとしか闇のなかに見えなくなつて、すがすがしい氣持がするものだ。
 わたしはそこでどんな遲い晩でも、この廣い果物畑くだものばたけを三四町眞直ぐに突つ切つて、途中家と言へば林檎の番小屋に毛を生やしたやうな、百姓家の二三軒しかない眞つ暗な路を通つて、自分の家にかへる。イギリスあたりの水彩畫にある高い茅屋根と、窓あかりを樹木の間から現してゐる百姓家が、まばらな家並みを續け、店屋みせやといふと殆ど無いと言つてよい村の廣い本通りを歩かないで、この果物畑の直線の路を通つて、自分の家にかへる。
 ところでそれがどれくらゐ私にかなつたものか、惠みの多い、頼母しい、ただし正體の知れない感激が、この場合にひしひしとわたしの心を捉へる。路のうへに湛へてゐる水溜り、四五日前に降つた雪が融けて黒闇々の地上に星影を映してゐるので、それがあるのが僅かに察せられる水溜りに、ヂヤブヂヤブとゴム長靴を下ろしてゆく瞬間に、胸は言ひやうないときめきに攫はれてゆく。
「こんな淋しい果物畑の路を淋しいとも思はず、かへつて無限にたのしいとくらゐに思へるのは不思議なことだ。こんな經驗はあの永い東京生活のなかで、一遍だつて味はつたことがない。これといふのも此處は例によつて自分の生れた土地の地續きだからだ」
 といつもの觀念に頭のなかの物が移りこむ。自分の生れた土地といふのは弘前の事で、今私の住んでゐる此の村はその弘前から三里離れてゐる。地續きのお膝下ひざもとの村と云つていい。人間と土地とを結びつける神祕的關係、自分の親も嘗つて此の土地を踏み、その親の親たる祖先も嘗つて踏んだのだといふ眼に見えない關係が異常に強く心に働く反射的意識、わたしの頭には十三の年死別れた父親が今のわたしらの年、何かの用事でこんな星闇のおそい晩、ここいらを獨りさびしく歩いたかも知れぬと思ひ、またここから未だ少し北にある村から聟になつてきたといふ祖父が、おなじやうにその一生中の此の年頃に、たけしい心持を懷いてここいら邊を深夜獨り旅したことがあるかも知れぬと思ふ。
 大自然はたとへ死物でも、人間が幾代も掛けて作り出す縁故は、人間の意識を不思議な深さまでくり擴げる。これが深夜無人の境地のやうな廣い林檎畠の路をあるいても、わたしを少しも淋しがらせてくれないのである。
大正十三年十二月・津輕青女子

土地の愛


 故郷、故郷! ほかの土地の人間からどんなに詰まらなく見えるところでも、これを故郷とする人間にとつて土地が心に及ぼす作用は異常である。われ等がこの世に初めて生れいでた土地に生えてゐる一と撮みの草だつて一とかけの石ころだつて、ほかのどんな處でも味はふことの出來ぬ感動を、情愛を、時には思想をまでも齎してくれる。それは吾等人間と外界との間に横はる隱約な契合である。自己と環境との間に横はる微妙な必然法則である。この點これを無くした世界は吾等人間の心を空虚にしてしまふ。呪ふべし、日本現在の生活精神といふものは、悉くこの事實を無視してゐる。そして土地が人間に結びつき、人間が其處に作る社會精神を特有のものにし、社會結合を鞏固にしてゐる關係なぞには、全く盲目である!
大正十四年夏・津輕青女子

田舍唄の風景畫


 郷里生活をした初めの年の夏、裏日本の北部でこの季節には特有の青い高い空から、すがすがしい微風が吹きおろされ、地上はくつろいだ、幸せな、ひそまりかへつた空氣を一杯に擴げるのであるが、わたしは此の頃の或る日、北津輕郡内の小都會の板柳で、いつまでも心に沁みてわすれがたい田舍唄の一とくさりを聞いたことがある。それはボサマと呼ばれるこの地方特有のブロヴアンサアル、即ち漂泊歌唱隊(註一)が、とある門口に立つて、三味線のひなびた旋律のもとに、
 ながく咲くのは胡桃くるみの花よ
 とそれこそ聲を長々と引つ張つて、號泣するやうに唄つた一と文句である。
 わたしは山間の坂みちから、木の茂みや、屋根で重なりあつた谿底の村が眼に浮んだ。そこには胡桃の大木が、田舍びた滿枝の花を見せて咲きさかつてゐた。
 ながく咲くのは胡桃の花よ
 純朴な田舍人ゐなかびとの見つけた感動すべき風景畫である。
註一。ボサマは坊樣バウサマで、盲人の男女の唄うたひ、此の地方から北海道までも逍つて歩く。唄はジヨンカラ節、ヨサレ節なぞといふ津輕民謠で、この胡桃の唄も或るジヨンカラ節の一句である。

早春の花


 融雪期が進行していつて其の遠い果てが海まで續くひろびろとした津輕平野で、去年の枯草と今年の新らしい黒い土とが春の日光を浴びる時、またこの平野を圍む山腹のそちこちの澤や、谷が薄い靄を棚引かせて、その奧に山肌の荒いひだを藍色におぼめかせるとき、わが郷土の農村の空はコブシの花で飾られる。
 コブシはこの地方では普通田打櫻たうちざくらと言ひならして居る。丁度この花の咲くあたりから、百姓は烈しく働き出し、岩木川沿岸のひろびろとした平野では到るところ田打ちを始めるからである。
 雜木林をチヨビチヨビ並べて一と筋につらなる村々の低空ひくぞらに、遠眼にもてらてらと白いつやを放して田打櫻たうちざくらの咲く見事さは、奧の日本を未だ知らぬ人には想像がつくまい。それは今も蝦夷の凄涼な俤を殘す此處いらの娘の齒のやうに、きよらかに白くかがやくのである。

處女性の海


 故郷を二十年も離れて日本南方の海の明るさに感心し續けて來た感銘では、今故郷の津輕つがるの海を見たとて貧血な景色だと映る位の事で、特別な興味も無からうと思ひながら、G――公園の海水浴場へこれから行くといふ友達一家の人達と、A――市に滯在中の或る日、自動車で押出したことがあつたが、公園入口の松原で皆々下車するあたりから、わたしの見込みは崩れはじめた。まづ其處では東海道、關西の海岸の松原なぞはゴミつぽいと思はれるやうな松原が、小サツパリした姿をあらはして一とで私の眼の膜を拂つて仕舞つた。あをぐろい茂りを東北地方夏季中特有の優しみある空に、高くのびのびと差出してゐる松の廣い方陣、その方陣と方陣とのあひだに所々空間があつて、綺麗な芝生カガハラへりどつた野球グラウンド、テニス・コート、時には白ペンキ塗りの棒杭だの木の柵だのを曲り角に置いて、松原の中へ抛物線状に繞込くねりこんで行くらしい散歩道、水底が水草で彩られて縞を成してゐる小さい川……。その内松原の一方が沼地に成つて、海岸の砂地に續く平面な場所が暴露する。も少し行くと、水平線の低い海が帶状おびじやうして、砂地の膨れあがつた曲線の彼方に現れる。稜を鋭く何箇所かそらに目がけて切り立つて、孔雀石と翡翠の明暗を隈つた半島が此方の海岸かいがんに詰め寄せるかのやうにあざやかに浮出してゐる。そこは東北地方の風景といふ先入觀念を完全にぬぐひとるに足る明るい澄んだ、そして又おとなしい畫面ぐわめんである……。

 うみに出るといふ私の衝動は失綜し、あしをなほ進めて行く事に何かしらんはにかみたい樣な意識が湧いて來た。二歳ふたつ年齡としから十六歳じふろくになるまで何度見たか知れないこの海を、わたしは畢竟ウヂケデ空虚ボヤラと見て居たのだ。そこの表情には春、雪解けの野原で銀色の草の若芽モエを喰ふ牛のハダ柔和ヤヤシミがある。そしてこの牝牛ハダベコは恐らく私が二歳ふたつ年齡としから十六の年齡としになるまで心を惹きつけられた同じ土地のあらゆる處女しよぢよの眼遣ひをして、此の私といふ狹隘で、横着に人間生活を悟りすまし、世間智でもつて硬化かうくわし切つてゐる者の心を、不意に轉落てんらくさせるだけの效果がある! ……

 友達の眼の長く切れたがた細君さいくんと、まだ處女で肉付に丸味のある妹とは、その色白の肌に海水着の黒いのを着て、ボートの板子いたごに一緒に取り附いておよいだ。彼女等はこの地方ちはうの山地の出生で、この日はじめて海に這入はいるのだが、黒色のどう人魚にんぎよで無からうかと幻覺を起させるほど、ここの風景に調和した慣海性があつた。彼女等はキヤツキヤツと叫びながら、白い足で水を高く蹴飛ばし蹴飛ばし、海岸と並行して泳いで行き、また泳いで歸つた。その歡喜に見ひらかれた眼には、肉感や淫猥を拔け出た貪婪たんらんさが溢れてゐた。私は友達と砂の上に居殘つてこれ等婦人の動作や表情やを見まもり、その後ふと眼を轉じて、あの孔雀石と翡翠とで明暗をくまどつた半島を見まもつた。そして太陽の光線のために無論視線の彎曲されてゐるのを自覺して、實際の映象中の岬の突端を實在の突端へと想像に描きながら、その往日むかしそこの斷崖ガンケぢて此方のいりうみの岸を見かへしたことがある、私の十六の春を回想した。

百姓女ジヤゴヲナゴの醉つぱらひ


 ンガオド何歳ナンボだバ。ワイのナ今歳コドシ二十六だネ。なにわらふんダバ。ンガ阿母オガあねダテ二十歳ハダヂしたヲドゴたけアせ。だけアそれほどチガはねエネ。ンヤデヤなア、ユギゲデセエ、ニシゴト日當ひあダりの屋根ヤネサ干すエネればタコエそがしグテ、オド晝間シルマまでタコ掻廻カマして、それガラ田畔タノクロサあがテせ、ママば、サゲ藥鑵ヤガンコれダノゴト二人でナガよグむアネ。田打櫻タウヂざくらハナコでも、蕗臺バキヤタヂハナコでも、彼處アコ田畔タノクロガラ見れバ花見はなみコだデバせ。弘前フロサギ公園地こうゑんち觀櫻會くわんあうくわいだけヤエにお白粉しろいカマリコアポツポドするエンタ物でネエネ。フン! 二十六にじふろくオドタテ何ア目ぐせバ。だケエに十年も後家ごけ立デデせ、ホガガらワラシもらわらの上ララそだデデ見デも、羸弱キヤなくてアンツクタラ病氣ネトヅガれデ死なれデ見れば、派立ハダヂ目腐めくさ阿母アバだケヤエに八十歳ハチヂウ身空みそらコイデ、カダルマゴにもよめにも皆死なれデ、村役場ガラコメコだのジエンコだのもらて、ムマヤよりもマダきたね小舍コヤコ這入ハエテセ、乞食ホエドして暮らすマナグデ來るデバ。フン! 他人フト辛口カラグヂきグシマネ自分のめしの上のハイホロガネガ。十年も後家立デデ、彼方アヂ阿母オガだの此方コヂ阿母オガだのガラ姦男マオドコしたの、オドゴトたド抗議ボコまれデ、年ガラ年中きもガヘデだエ何なるバ。ワガフたつてゴト好ギだテハデれダ夫婦フフだネ。十年も死んだオドサ義理立デデ、この上なに辛口カラグヂきガれるゴドアあるベナせ。はいホロゲ、ンガめしの上のはいホロゲ、はゝゝゝゝゝ。ンヤ、デアなあ、春にテ、ニシゴト干して、マゴして、春風ア吹グナガタコ掻廻カマして、はゝゝゝゝゝ。晝間ひるまネなれば田打櫻タウヂざくらハナコサゲんで、それガラマダグワツグワツと田サ這入ハエて、はゝゝゝゝゝ『婆のコオソア、ホウイヤ、ホウ……、ばゞコオソア、ばゞコオソアホウエヤ、ホウ……』と津輕の山地地方の温泉地、とある村立共同浴場の湯氣の中から廣くまるい肩の一角を見せた存在物がうして民謠「ばゞこし」を唄ひだした。

【「百姓女の醉つぱらひ」の東京俗語譯】 お前の亭主は幾歳だい。私のは今年二十六だよ。何を笑ふんだネ。お前の母親おふくろの姉だつて、二十も年下の男をもつたぢやないか。わたしはそんなに違やアしないよ。本當に嬉しいね、雪が融けてサ、鯡を日當りの屋根に干す頃になると、田圃の仕事が忙しくなつて、うちと晝間まで田をこねまはして、そから田の畔へあがつてサ、御飯も食べるし、酒も藥鑵に仕込んだのを二人で仲よく飮むんだよ。コブシの花でも、蕗の薹の花でも、彼處の田の畔から見れば結構この上ない花見なんだよ。弘前ひろさきの公園の觀櫻會見たやうに、白粉の香ひがプンプンするやうなものぢやないよ。へん! 二十六の亭主をもつたつて何がキマリが惡いんだよ。わたしのやうに十年も後家を立ててサ、よその家から子供を貰つて、藁の上から育てて見ても(作者註、吾が津輕地方の農村では、今なほ産婦は板敷に藁を敷いて子を産む習慣になつてゐる)、羸弱ひよわくてあんな病氣に取り憑かれて死なれて見ると、派立(本村もとむらの分村)の目病み婆見たいに八十の身空で、世話になる孫子にも嫁にも皆死なれて、村役場から米だの錢だのを貰つて、ウマヤよりもまだ汚い小屋へ這入つてヨ、乞食をして暮らす樣子が眼に見えて來ようぢやないか。へん! 他人に惡口をいふ隙に、自分の飯茶碗の蠅をお拂ひよ。十年も後家を立てて、彼方の嚊ア此方の嚊アから姦男マヲトコをしたの、亭主を取つたのと呶鳴りこまれて、年がら年中おこらせてゐたつて何になるよ。若くたつてわたしを好きだといふから、連れ添つた夫婦だあね。十年も死んだ亭主に義理立てて、この上なに惡口言はれる事があるんだらう。蠅をお拂ひよお前さんの飯の上の蠅をお拂ひよ。はゝゝゝゝゝ。いや、ステキだね、ステキだねえ、春になつて、鯡を干して、馬を出して、春風の吹く中で田をこねて、はゝゝゝゝゝ、お晝になれば、コブシの花を眺めてお酒を飮んでそれからまたノツシノツシと田へ這入つて、はゝゝゝゝ「婆の腰ア、ホウイヤ、ホウ……、婆の腰ア、婆の腰ア、ホウエヤ、ホウ……」

斷り書 ○地方主義の作家はその地方語をもつて創作することを主張するものである、詩、小説、戲曲すべて之れを實行せよといふ。私の右の一篇はその最初の試みを散文詩の上でしたものである。赤子の時より精神に刻みつけられたる言語を離れて、魂に眞實に響く文學的活動はない筈である。作者に於て然り、また同郷人間に於て然りである。○一方地方主義者は國内の各地方語を主宰し、民族全體の文明を負うて鍛へられたる、乃至鍛へられつつある共同語(今日普通に標準語と云はれてゐるもの)をも尊重する。そして文學的に成熟されたるそれの種々の機能、形式をも尊重する。だがそれはそれ、之れは之れである。○共同語は國語の代表的な位置に立つものであるが、國語の全體ではない。地方語、少くも方言をも併せてそれは國語である。○多くの日本人が間違つて讀んでゐるやうに、三保の松原を Mio-no-matsubara と發音しては三保の松原の情景の出ないことは、一度その土地に行つたことのある者の經驗することである。その土地では三保を Miho と h の音を響かせる。上州の吾妻郡に對するアヅマ郡、利根上流の吾妻川に關するアヅマ川も同樣な謬りの例(正しく發音すればアガツマ郡、アガツマ川)である。聲音は言葉の存在の形體である。從つて聲音を無視して言葉はない。○吾日本に於ける漢字の使用は、日本人の言語上の意識を甚しく毀損した。なぜなら漢字は聲音を無視して成つた觀念上だけの指表、即ち目じるしに外ならないからである。○音表文字も觀念の指表たるに止まる場合がある。事實また音表文字も萬國音表文字さへ聲音の完全な寫眞ではない。だが上海英語、英領植民地英語を在來の英語綴字法で記述しても、そこに何等かの土地の臭味を現し得、また桃山時代出版の伊曾保物語平家物語の歐字本がその時代生活を現してゐる。○言葉は國の手形である。そして生活の事實上の運搬をなす。○聲音に不注意な在來日本人は地方語なるものに至つて無自覺である。例へば東北のズウズウ辯と言ふごときも東北地方にはズウズウ音の分布は、何ぞ計らん東京の御膝下の茨城地方に始つて、會津地方を通じ、仙臺山形地方に北上してゐるのに止まり、南部、秋田、津輕の三地方には痕跡がないのである。この點東北のズウズウなる通り言葉は意味をなさない。○これに反し東北には他の地方にない正確な音、例へば「ハ」と「フワ」、「ガ」(喉音)と「ンガ」(鼻音)の如きも明瞭に區別する。東北有名の「シ」と「ス」の混同の樣なのも、實は混同ではなくてそのどちらにも屬せぬ一音 si である。日本語には昔シとスの區別がなかつたのではないかと思はれる。濁音の多いのも日本語の昔の形であると信じる。○地方語の民謠を記述するのに、今迄のやうに音をたださず、平氣で東京語發音化することも、無自覺千萬である。○わたしの此の試作は可成り純粹な津輕の口語で書き得たと信じる。コブシの花を嘆美するあたりも、これ位の事は百姓が普通いふことで、強ひて私が詩的がつたのではない。なほこの百姓女の性質がキツイのも、津輕女性の地方性上の典型として描出したのである。○なほ本二篇の假名づかひは片假名は純發音式、平假名の分は在來の假名づかひに、私の習慣の文部省式を多少交へてゐる。○尚右試作は室生犀星、芥川龍之介氏が後援の月刊雜誌「驢馬」の大正十五年五月特別號に發表されたもので校正に骨の折れる此の樣な作品を當時喜んで發表の勞を採つて戴いた同人諸君にこゝで尚改めて感謝の意を表したい。――大正十五年三月二十六日上京中、深川に於て

雪の回想



 春の季節をわたし等雪國人種の特に待焦れることは、雪に半年もとざされるからだと云ふぐらゐの事では足りない。寧ろも一つ進んで言ひたいことは、大自然が見せた無類の威力から、吾々人間が放されたいことから起る本能のやうに強い欲求だ。實際また雪ぐらゐ此の威力のすばらしい表現はなからう。暖國人種たる諸君も大自然の威力なら知つてゐると、胸をそらして言ひ放す人があるかも知れないが、諸君の出逢ふそれなぞは、一寸考へまはして貰ひたい、幸福の絶頂か、大自然の氣まぐれ藝當かの二つに過ぎぬ。
 熱帶だつてその暑さのために焦殺やきころされたといふ人はなく、却てそこの植物の豪奢な繁茂のもとに、禁慾と瞑想の樂しい宗教が生れた。一方自然がそこに示す威力の氣まぐれとしては、洪水、惡疫、毒蟲がある。だが何だそれは? 大自然がそれで人間の造營物を壞し、人間を屠る下から、ただちに同じぐらゐの旺盛な力で人間を殖やしてくれ、香ひの高い光澤に富む生活資料をバラ撒くではないか。
 雪はさうではない。一年のうちきまつて一定季節のもとに降り出し、地球の殆ど半ばを白く凍らせる。それは毎年規則ただしく、嚴格に、必然にやつてくる。世界はこの季節の間、北に向つて進むかぎり、どこまで行つても白いもののほか見るよしもない寂寞とした、單調な、人間にとつて極限までも無力なる死の擴がりである。この決定的なる必然さと無力さ! ここに大自然の底の知れない森嚴と壓迫とを内容とする威力が示される。
 人はこの下に膝を屈して「無」の中にぢつと生活するしかすべがない。それは限りのない「無」である。果てしのない「無」である。しかしこの「無」の中につらつき合せて默つてゐるしか他に術がないのである。


 眞つくろな空から粉のやうな雪が、誰かの言葉だが、まるでから撒くやうに降つてくる。
 廣野の遠くの森がこの雪の中に煙つて見えるのが朝の九時、邊りが軈て雪の他に何ものも見えなくなるのが正午、軈て晩になると、降り積つた雪の重さで、夜の十時頃から家の大屋根の棟が鳴り軋む。幽嚴きはまりない思ひに打たれる。
 外に出て見る。月が中天にかかつて密雲にとざされ、あたりには朦朧とした光を放射してゐる。村の通りも見えず、木も見えず、家も見えない、ただ無數に無限にサラサラと降りつむ煙のやうな、靄のやうな粉雪をおろしてくるだけである。
 こんな晩、その朦朧とした空に虹が出てゐるのを見た覺えがある。


 ……だが恁んな靜かな雪降りは一と季節にもさうたんとない。大抵は吹雪が三日四日、ときには七日も凄まじく吹きつづける。兩方の親指と人差指とで作つた、四角ぐらゐの大きさのガラス窓から、風の轟々と鳴る戸外をのぞいて見る。そこは白晝ながら朦朧として、丁度海の底でも見るやうに薄ぐらく、森の骨まばらな巨木が昆布のやうに根本ねもとから搖らめいてゐるのが眼に入る。
 顏を窓から離して、また今までとおなじ姿勢にかへる。わたしはこんな日何も讀まず、朝から書齋の爐のはたに默々としてうづくまつてゐる。晝めしを食べたあとも、また書齋にかへると同じ姿勢で默々としつづけてゐる。別に何も考へるでもない、ただ引きりなしの風音に耳を傾けながら、心のさまよつて行くころは、今の人間の世から何千年か先き、何萬年か先きの原始の境涯である。
 北緯四十二度、時節は一月初め、歐羅巴や北米ゾーンと違つて亞細亞はこの緯度で十分寒く、首都の東京を離れる二百里で、「白色恐怖」は思ひの儘に威力を振ふ。


 人間はこれに對して最初は抵抗する。雪が降るとまるで本能の目ざめのやうに、武者ぶるひして振ひ立つ勇猛な心さへおこる。だが大自然に正面から、そして不用意にあらがうて何の利益のないことは、どんな農民の無智なものも知つてゐる。秋の收穫が十月でをはり、日は一日毎にくらくなる頃、冬のための焚き物や食べ物の貯藏、家根や塀のための雪がこひの支度に取りかかる。その頃雨は毎日降る。瞬く間に山は痩せ林は裸になり、一物もない土地はひろびろと地平線につづき、到來の季節のために世界をあけわたす。やがて毎日の雨は霰と變つて、天の一角をこそげおとすやうに烈しく降つてくる。
 地方農民はここで覺悟のほぞをきめる。大自然の嚴たる必然さ、人間のただ頭をさげるしかない無力に畏怖し、やつと習慣的な微笑でもつて心の苦痛を慰め、霰の晴れ間に兩手を襟もとに突込みながら、家のぐるりや、肥やしの置き場や、裏のひろびろとした田圃やを見廻るのである。


 春が間近になる。夜なぞ外に出ると、星のない眞つ黒な空にも何ものか温かい氣が充ち充ちてゐるやうに思はれる。この頃雪が降れば粉雪ではなくて、牡丹の花びらのやうなボダ雪である。ついでこの雪が空中で融けて、何日か北方を目がけて眞一文字に吹く烈風におくられ、山や、野や、村の雪を融かす雨となる。河や、田に滿々と濁水を湛へて、去年こぞの枯れ草の殘骸や、水際の灌木の骸骨を水浸しにする。
 雨の降らない日は殘雪の底冷えで朝なぞ寒いが、曉闇の空氣を破つて山の小鳥の一隊が鋭くつぶやきの聲をあげ、屋根をガサガサ鳴らして餌をあさる。それが毎朝殖えてゆく。そして一群の羽音は未だ暗い屋のうへに強くはためき、この永いあひだ雪の音、風の音しか聞かなかつた單調な吾等の思ひを破る。わたしは何度枕に顏をおしあてて俯伏し、この小さい猛禽達の羽音、つぶやきに、斷ちわられたる季節の境を感じ、あの鼠なきといふ胸の迫る感激を覺えたらう。

 雪は毎日融ける。日和は毎日續き出す。空には濛々と水蒸氣がたてこめ、畑の上の一面の雪は割れて黒土をあらはし、環境をめぐる山々は青くけぶり、その鋭い山肌の稜を靄のなかに水晶のやうに輝かし、街道は人馬の往來が頻繁になり、子供等は騷ぎ、農家は活氣があふれ、もう春の來たことは何處にも彼處にも見えて來る。

 やがて大地の雪は皆消える、蕗の薹が淺みどりの鮮かな姿をあらはし始める。木の肌は光り、大地はうるほふ。
 わたし等の體中の血が新たな血でめぐる思ひがし、腕、足の筋肉が力を別にした氣がして、ここらでは百姓女まで勞働用に穿くゴム靴を穿いて新しい大地のうへを歩む。

 季節の享樂は最も健全な意味で、かうしてわたし等雪國人種に序開じよびらきをする……。
昭和三年六月・世田ヶ谷西山





底本:「日本現代文學全集 54 千家元麿・山村暮鳥・佐藤惣之助・福士幸次郎・堀口大學集」講談社
   1966(昭和41)年8月19日初版第1刷発行
   1980(昭和55)年5月26日増補改訂版第1刷発行
底本の親本:「現代詩人全集 第十卷」新潮社
   1929(昭和4)年12月発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:川山隆
校正:土屋隆
2008年8月25日作成
2011年5月31日修正
青空文庫作成ファイル:
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●表記について

「卓+戈」、U+39B8    256-下-17


●図書カード