大人の眼と子供の眼

水上滝太郎




 わたしの子供の頃のことであるが、往来を通る見ず知らずの馬車の上の人や車の上の人におじぎをして、先方がうっかり礼をかえすと、手をうって喜ぶいたずらがあった。日清にっしん戦争の頃で、かつ陸海軍の軍人の沢山住んでいた土地柄、勲章をぶらさげて意気揚々として通る将校が多かった。向こうの方から、金モールを光らせて来る姿を見ると、車の前につかつかと進んで、帽子をとったりして得意がるのであった。子供のいたずらと知って、すまして通り過ぎるのもあり、笑って行くのもあるが、中にはおあいそに礼をかえすのも、またうっかり誘われて本気で手をこめかみに上げる人もあった。偉い大人おとなが自分たちの相手になってくれたうれしさと、偉い大人を相手にさせてやったという力量をほこる心持が、ちゃんぽんに心の中でおどった。たった一人、いくど繰返しても、うかとは手に乗らない苦手にがてがあった。その頃は少佐か中佐か、いくらよくても大佐だったろうが、後の海軍大将伯爵山本権兵衛やまもとごんのひょうえである。毎日馬車に乗って、参謀の徽章きしょうを胸にかけて通った。不思議に子供も名前を知っていて、権兵衛ごんべえが来た来たと、口々にしめしあわせながら、先を争って帽子をとって頭をさげた。しかし権兵衛さんは、頬髯ほおひげうずまった青白い顔に、陰性のすごい眼を光らせてにらみつけるばかりで、微笑を浮かべた事さえなかった。
「権兵衛がたねきゃからすがほじくる……」と子供はくやしがって、馬車のうしろから追いかけながら、はやし立てるのがおきまりだった。
 だが、自分がここにしるそうとするのは、権兵衛さんの面影おもかげではなく、同じくその往来の出来事でながく心に残って忘れられない白馬はくばに乗った人の事なのである。それを、子供の眼が、いかに実際あるよりも美しく見るものかという例証のひとつにしたいのである。
 夏の日の事である。門前で遊んでいると、遠くからほこりをあげて、まっしぐらに白馬をかけさせて来る人があった。西洋の狩猟の絵に見るような黒い鳥打とりうち帽子をかぶり、霜降しもふりの乗馬服に足ごしらえもすっかり本式なのが、むち手綱たづなと共に手に持って、心持前屈まえかがみの姿勢をくずさず、振向きもせずに通り過ぎた。わずか一瞬間の事であったが、子供の眼には仰ぎ見る馬上の姿が、あまかけるようにそびえて高く見えたのである。
「いいなあ。」
 子供は一せいに感心して、見る見る町角まちかどに消えて行く白馬の行方ゆくえを見送った。
「おいらも今にあんな馬に乗っかるんだ。」
 一番頓狂とんきょう乾物屋かんぶつやの子は、ありあわせの竹の棒にまたがって、そこいら中をかけずり廻った。
「馬鹿、てめえみたいな鼻ったらしが馬になんか乗れるもんかい。あの人なんて百円の月給とりなんだぞ。」
 年かさの車屋の子は、はしゃぎ切って汗を流しているやつしかりつけた。
「百円? おっかねえ、おっかねえ。」
 乾物屋の子は目をまあるくして、おどけた顔を突出つきだした。
「百円の月給だってさ。」
 周囲の者も口々に驚嘆の声を発した。驚くほかに何らの考えも浮かばないほど、当時の子供の頭には、百円という金が大金だった。口でこそ百円とひと口にいうけれど、その分量もうちも到底想像出来なかった。
 その連中にまじって、自分は声こそ出さなかったが、心ひそかに驚嘆していた。自分も大きくなったら、あんな立派な馬に乗りたいが、百円の月給取にならなければ駄目だめなのかと思うとがっかりした。いったい世の中に、どういう人が百円なんていう莫大ばくだいもない月給をとるのだろう、大将かしら、大臣かしら、いろいろ考えたがわからなかった。話に聞けば自分の父も、自分が生まれない先に役人をしていた頃は、馬に乗って役所にかよったそうだが、どうも百円の月給取ではなさそうに思われる。しかし万一、父が百円の月給取だったら、どんなに嬉しいことだろうと、その事ばかり考えていた。
 夕方になって、「かえるが鳴いたからかえろ。」と我がちにいいながら、おなかをすかしてうちに帰ったが、自分はすぐに母のところへ飛んで行って、父の月給がいくらであるかきいた。
「なぜそんな事をきくのです。」
「なぜでもないけれど、百円?」
 母は黙って自分の顔を見ていたが、
「そんな事をきくものではありません。」
 といったばかりで取合わなかった。金銭のことを口にするのは卑しいことだと、おちぶれ士族の娘である母はかたく信じていて、平生へいぜいから子供たちにいいきかせてあった。
 それっきり自分は口をつぐんでしまったが、たった一瞬間にして通り過ぎただけの白馬鞍上あんじょうの紳士の姿は、一生涯忘れられないほどさわやかに眼に残った。どうかして、自分も大人になったら、偉い人になって百円の月給取になろうと、あたかも天下を望むような大きな事として考えていた。百円の金高きんだかは、広大無辺に思われたのである。
 ある時、母方ははかた叔父おじが来て、自分はそのひざの間で遊んでいたが、ふと思い出してきいて見た。
「叔父さんはうちのお父さんの月給いくらだか知ってる?」
 叔父は不思議そうな顔をして見おろしていたが、目尻めじりに微笑が浮かんだので、自分は安心して重ねてきいた。
「百円よりも多い? 少ない?」
「多いとも、倍も三倍も多いだろう。」
 自分は嬉しさに顔があかくなる位だったが、あまり無雑作むぞうさに、かつ意外な返事だったので、半信半疑だった。
「それじゃあ叔父さんは?」
「叔父さんか。叔父さんは百円の半分のまた半分位かな。」
 そういって太い声で笑った。
 父の月給が百円より多いらしく思われて来た事は、やがて自分も白い馬に乗ることが出来そうな気持を起こさせた。嬉しくてたまらなかった。そうして、そういういい返事をしてくれた叔父が、やはり偉い人に思われた。叔父さんの月給が、百円の半分のまた半分なんていうのはうそにちがいない。嘘だからこそあとで笑ったのだと思った。
 その馬上の紳士の姿は、二度と見たことがないが、それから三十年たって、自分は百円の月給取になった。その時、自分は馬に乗るどころでなく、一家を構える力もなく、下宿屋の二階にくすぶって、常に懐中の乏しさに難渋なんじゅうし、朝夕あさゆう満員の電車にいわし鑵詰かんづめの姿をして乗らねばならぬ身の上だった。もちろん、物価が驚くほど高くなったことと、貨幣の直打ねうちの変わったことを考えに入れなければならないが、しかし子供の時に考えた百円は、今日の壱万円よりも拾万円よりも百万円よりも莫大ばくだいなものであった。
 上に引合ひきあいに出した叔父についても、英雄崇拝の思い出がある。叔父は慶応義塾を出て、郵船会社に勤めていた。海上勤務の頃は、事務長をしていたのか、あるいはその下役したやくの事務員かは知らないが、欧洲航路の船に乗って、しばしば珍しいおみやげを持って来てくれた。六尺近い大男で、日本人には類のない白皙はくせきおもてにやや赤味を帯びた口髭くちひげをはやしていた。それが金筋の入った正服を着て、当時はまだ珍しかったバナナだの、パイン・アップルだののかごをさげて帰って来る姿は、自分の異国趣味を十分満足させた。文明開化という言葉が流行し、何の品でも質のいい物は上等舶来と唱えた時代だから、西洋といえば何よりも美しい国におもわれた。自分は叔父にせびっては、ヨーロッパの港々の話をきかしてもらった。
 しかし叔父を崇拝するのは、単にそのためばかりではなかった。それよりも叔父の投げる小石が子供の眼にははっきりと距離のはかれないほど遠くまで飛んで行くことに敬服していたのだ。
 叔父の家は木挽町こびきちょうにあった。二階一室に階下が三室位の小さな家で、自分から見れば祖母にあたる母親と、自分から見ればやはり叔父で、まだ高等小学校に通う位の年配だったから、豆叔父さんと呼んでいた叔父の弟と、台所を働くばあやとで暮らしていた。涙もろく、金銭にしまりのない、お調子に乗りやすい性質を多分にうけついだ自分は、まぎれもなく母方の血を引いているので、子供の時からこの祖母のごひいきだった。悧巧りこうな兄は父方の祖母のほめ者だったが、母方の祖母は自分をつかまえて、おまえは兄さんよりもきっと偉くなるよ、と無責任なことをいって可愛がってくれた。時々そのお祖母さんの寝顔がたぬきに見えて、夜中に泣き出すこともあったけれど、年中とまりがけで遊びに行っていた。二階の縁側に置いてある籐椅子とういすの上に足を投出なげだして、目の前の川をくだるボートを見るのが楽しみだった。夕方叔父が会社から帰って来る頃は、祖母に手を引かれて河岸かしに出て待っていた。大男の叔父の姿が見えると、自分は祖母の手を振切って、半丁ばかりかけていって、叔父の手にすがりつくのであった。
 このおいを喜ばせるために、叔父は小石を拾って川水の上に遠く投げて見せた。真似まねをして投げる豆叔父さんの石は川の真中ぐらいで水に落ち、更にその真似をする自分のは、足もとの浅瀬あさせに水音を立てるのであったが、叔父のは向こうの海軍大学の石垣にぶつかるのであった。その向う岸は幼い者にはひどく遠方に見えた。早く叔父さんのように大きくなりたいなあと、つくづく感じたものであった。川を越えて石を投げ得る人は、あらゆる事の勇者であるような気がしたのである。叔父はその後友人の負債の責任をしょって東京にいられなくなり、各地を流転るてんしたあげくに、ほとんど誰も知らないような状態で、北海道で死んでしまった。
 つい近頃往年の木挽町の河岸をぶらついた事があった。町の様子にも変りはなく、向う岸の海軍大学の景色も昔通りだった。だがはなはだしく意外に思ったのは、川幅の至って狭いことだった。子供の時に見た大人の偉さと同じく、大人になって見ると大したものではなかったのである。
 祖母も叔父も豆叔父も今は世になき人であるが、叔父の住んでいた家は以前のまま残っていて、知らない人の表札がかかっていた。去るに忍びない心持もあったが、幸い附近の人影も見えないので、足もとの小石を拾って向う岸まで投げて見た。別段力を入れないでも、無雑作に石垣に届くばかりでなく、樹木の茂った校庭にも楽々と投げこむことが出来た。二つ三つ投げ、最後のひとつをもう一度石垣にたたきつけた時、
「誰だッ。」
 と校庭からどなって、灌木かんぼくのしげみを押分けて顔を出した人があった。自分ははしたない所為を恥じて一散に逃出した。
 ついに自分も大人になった。しかし、あれほどまでに崇拝した大人が、いかに馬鹿馬鹿しいものであるかをとうに知ってしまった。あらゆるものに驚嘆し、すべてほんとにある物よりも、大きく、立派に美しく見る子供の眼を失ったことを悲しみ、永い間、その子供の頃の思い出以外のものは、心から自分を喜ばせることが出来なかった位落胆した。
 言葉をかえていえば、盲目的なあこがれの美しさに酔った自分をなつかしみ、実際の世の中の美しくない事に悲観し、著るしく懐疑的になったのであった。
 ところが最近になって、自分には更に新しい眼が開かれて来た。それは完全に発達した大人の眼である。いたずらに物事に驚かず、よきものとしきものの区別を知り、あらゆるものの価値を正当に批判し、しかもなお熱情をもってよきものを喜ぶ大人の眼が、無批判の憧憬讃美しょうけいさんびを事としていた単純きわまる子供の眼にまさる喜びを持つことを悟って来た。
 それは物の本体を見極める眼である。価値批判の眼である。単に生々なまなましい色彩に眼をくらまされるのではなく、光と共に陰影を見る眼である。単に事物の分量に驚くのではなく、その質を吟味する眼である。子供の眼が夢を見る眼ならば、これは実在を見る眼である。それが幻影を見る眼ならば、これは現実を見る眼である。深く、鋭く、冷静に、世態人情の一切にまで視線の及ぶ眼である。
 確かに線香花火せんこうはなびのように容易に熱し、たちまち火花を散らす感激はなくなったが、同時にまた贋物にせものにのぼせ上がり、くわせ物にだまされることのなくなったのが、大人の眼の効果である。





底本:「日本児童文学名作集(下)〔全2冊〕」岩波文庫、岩波書店
   1994(平成6)年3月16日第1刷発行
   2001(平成13)年5月7日第12刷発行
底本の親本:「日本名作選」日本少國民文庫、新潮社
   1936(昭和11)年7月15日発行
初出:「改造」
   1923(大正12)年
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2020年2月21日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について


●図書カード