一、スカンヂナヴィア限界
私は自分が興味を以て研究してゐるスカンヂナヴィア文學 Skandinaviske litteratur について、御話することを甚だ欣快に存じます。
スカンヂナヴィア文學といふ名稱は地理學で申すスカンヂナヴィア半島の文學といふのでなく、もつと廣い範圍のもので、言語學的意味を有つてゐることを豫め御承知願つて置かなければなりません。即ち、ノルウェイ、スウェデンの兩國と、デンマルクは勿論のこと、イスランド、及びスウェデン語を話すフィンランドの一部分のことであります。普通にスカンヂナヴィア文學のことを北歐文學と申しますが、此の場合に於ける北歐といふ言葉の範圍はきはめて曖昧で、屡々ロシア、ドイツ、オランダ、ベルギイの如きですらも、北歐とよばれることがあります。それで私はわざと北歐といはずに、文學が基礎として立つ言葉を同じくし、地理的に近接し、歴史、民族、風習の上からも、非常に密接な關係にある北歐の諸國をスカンヂナヴィアの名の下に、引つ括るめて、お話しようと存じます。然し、十三世紀の頃から始まつて、現在まで約八百年に亘るスカンヂナヴィア文學の全貌を、此處に十分に申述べることは、たうてい不可能でありますから、ここでは傍系のフインランドや中世からのイスランドは措きまして、主要な丁、諾、瑞の三國について、ごく大掴みに、申上げることに致しませう。
二、一貫せるロマン主義
スカンヂナヴィア文學は英吉利また獨逸の文學とその發達の經路を殆んど同じくしてゐる。即ち、最初に神話、英雄傳説が歌の形であらはれ、次ぎにキリスト教が渡來して、それをキリスト教的に變化させ、同時にラテン文化を傳播する。その次にはフランス古典文學が支配し、やがて宗教改革が起つて、國語及び國民傳統の尊重となり、ローマン主義の勃興となり、自然主義の隆盛となり、それが終つて、新ローマン主義、農民文學、郷土文學或は勞働文學が起つたといふ順序で發達するといふのであります。然しフゥツリズム Futurism・ダダイズム Dadaism・シュルレアリズム Surralisme・或は表現主義 Expressionismus. 即物主義 Neue-sachlichkeit といふやうな、ひどく風變りのものは、スカンヂナヴィア文學には殆んどありませぬ。スカンヂナヴィア文學の主流はどこまでもローマン主義であるやうに思はれます。
三、古代文學の共通
さて、デンマルク、ノルウェイ、スウェデン三國の古代文學はいづれもみな共通で、古代ノルウェイ。イスランド文學といふ總括した名稱でよぶことができます。言葉を換へて申しますと、昔イスランドに渡つたノルウェイ人が、そこに古い原形のまゝに保存した文學、またその後そこ及びノルウェイ本土で發達した文學であります。このイスランド・ノルウェイ文學のうちで、一篇の書物として殘された最初のものが『エッダ』Edda であるといつてよいかと存じます。それ以前にもルゥネ Rune といふ、一種の神代文字で石や木や骨などに刻みつけた歌謠がありますが、これは文學よりも寧ろ考古學、言話學的の方面に興味が多からうと思つて、ここには省くことにします。
さて『エッダ』とは何かと申しますと、歌をもつて書きしるした神話並に神仙的英雄の行蹟であります。日本で言ふならば、古事記か日本書紀のやうなものであります。『エッダ』に舊と新との二つがあります。舊をセームンダール・エッダ Semundar Edda、新をスノルィ・ストゥルソンナール・エッダ Snorri Sturlussonar E. と申します。セームンドのエッダ、ストゥルソンのエッダと申す意味であります。然し一口に『エッダ』と申せば、舊エッダのことだけで、新エッダの場合には特に新とか、ストゥルソンとかいふ名を冠することになつてをります。
四、『エッダ』の解説
『エッダ』とは古代北歐語で第一に大祖母といふ意味であります。英語の Great Grandmother、ドイツ語の Urgrossmutter に當ります。白髮の老婆が爐邊に絲車を廻しながら昔話をするやうに古い/\傳説を語る此の本も、また高齡の老婆であるといふ意味から附けられた題であらうといふのが一つの解釋でありますが、それとはちがつて、これは「作詩法」といふ第二の意味を取つてつけたもので、そのわけは新エッダはイスランドの歴史家で、詩人であつたスノルィ・スツゥルソンがスカルド Skald とよぶ歌の作法、模範などを示したものであるが、その中にひいてある歌には舊エッダのものがまじつてゐる。だから、斯ういふ歌を集めた本をエッダといふものと、後の人が誤つたものであらうといふ説もあります。どちらが正しいか分りませんが、ノルウェイ協會から出してゐる古代ノルウェイ語の辭典には、第一に大祖母、第二に詩學といふ解釋が載つてをります。私一個としては此の大祖母の意味に解した方が文學的で面白いと思つてをります。
そこで舊い『エッダ』は一六四三年イスランドのスカルホルトの司教ブリニュルフ・スヴェインスソン Brynjulf Sveinsson が神話と古英雄の傳説とをうたつた、二十九の歌を發見してセームンダル・エッダと名付けました。スヴェインスソンは、これは有名な學者セームンドが作つたものか、或は集めたものと思つてゐたらしいのです。だがそれは後になつて根據のないものと分りました。それが始まりで、後、各所から發見されたものを集め、現在では大小三十六篇の古歌が載つてをります。その中には脱漏があつたり、斷片のものがあつたりして、意味のハッキリしないものもありますが、これを大體二つに分けて、神々の歌と、英雄たちの歌としてあります。
神々の歌には、天地開闢の神話が出てをりますが、それは希臘神話などとは違ひまして、北歐式の陰慘なものであります。最初に出てくるのはヴェルースパー Vluspa 即ち
一、聞召せとわれは願ふ(註、われとは巫女)
大となく小となく
聖なる族 ヘイムダールの御子達
戰ひに仆れしますらをの父よ!(註、主神オージン[#「オージン」は底本では「オージシ」])
汝は遠き昔の人々につきて
わが憶えをる昔語り
語り聞かせよと、われに求む。
われは猶、古への巨人 をおぼゆ
過ぎにし日、われに糧 を與へにし……
二、九つの世をもわれは知れり
土の下に大いなる根を張りし
大いなる木の上にありしてふ(註、イグドラシルといふとねりこの木)
九つの世界をも。
三、その昔、ユミールに住みし世は
海も、冷たき浪も、砂もなく
大地も未だなく
その上に蒼穹 もおほはざりき。
只果てしなき深き淵の
口あけてゐたるのみ。
草一つだになかりき。
四、さるをブゥルのみ子たち
平らなる地をもたげ
そこに中つ國を建てぬ(註、中つ國の名はミズガルド)
日は南より岩をあたゝめ
地は韮 をもて青みたりき。
月の姉なる日は南より
その右の手を天のはじにかけぬ、
何處をわが家と知らざりければ……
日もまた居るべきところを知らず
星も定まる宿を知らざりき。
太古 天地 の初めは渾沌として無であつた。その渾沌の中にブゥルの子たち、即ち、オージンとその兄弟ヴィリ、ヴェとが國造りのわざをする。その業とは巨人ユミールを殺すことでした。巨人の血は大海に滿ち、その骨は大山嶽となり、齒は巖となり、頭蓋は天に、髮は樹木に、腦味噌は雲になつたといひます。そこで形勢が變つてアスガルド、即ち神の國が出來ましたが、神々もまた運命を免がれることは出來ません。殺戮の罪や、契約違犯の罪など、樣々な罪を犯した神國には、巨大な海蛇や、死の船や、冷酷な惡魔ロキや、地獄のムスペルヘイムの怪人、火の巨人スゥルトウなどが、ぞく/\と押し寄せて、破滅の力をふるひ、主神オージンは狼フェンリルに殺され、雷神トォルは海蛇に打負かされ、オージンの娘フレイヤは火の巨人に殺されました。さうした世の終りといふべき光景を、『エッダ』はその獨特な簡潔な表現で、斯う歌つてをります。大となく小となく
聖なる
戰ひに仆れしますらをの父よ!(註、主神オージン[#「オージン」は底本では「オージシ」])
汝は遠き昔の人々につきて
わが憶えをる昔語り
語り聞かせよと、われに求む。
われは猶、古への
過ぎにし日、われに
二、九つの世をもわれは知れり
土の下に大いなる根を張りし
大いなる木の上にありしてふ(註、イグドラシルといふとねりこの木)
九つの世界をも。
三、その昔、ユミールに住みし世は
海も、冷たき浪も、砂もなく
大地も未だなく
その上に
只果てしなき深き淵の
口あけてゐたるのみ。
草一つだになかりき。
四、さるをブゥルのみ子たち
平らなる地をもたげ
そこに中つ國を建てぬ(註、中つ國の名はミズガルド)
日は南より岩をあたゝめ
地は
月の姉なる日は南より
その右の手を天のはじにかけぬ、
何處をわが家と知らざりければ……
日もまた居るべきところを知らず
星も定まる宿を知らざりき。
天つ日は暗く、
大地はわだつみに沈み、
熱き星々は空より落ち、
烈しき湯氣はうづまきぬ。
生命を養ふ火は、
焔と立騰りて、
み空をこがしたりき。
まつたく、天照大神が天の岩戸に隱れ給うたときのやうに、まつたく大地はわだつみに沈み、
熱き星々は空より落ち、
烈しき湯氣はうづまきぬ。
生命を養ふ火は、
焔と立騰りて、
み空をこがしたりき。
今われ、
地の新たにわだつみの浪の中より
緑りとなつて立昇るを見る。
瀧はおち、鷲はとび、
岩根の淵の魚をとらふ。
イザヴォルにもろ/\の神、
かんつどひまして、
地を取り卷く、
かの恐ろしき大蛇について、語らせ給ひぬ。
そこで、種子をまかぬ畑に實が生り、熟し、すべての惡は善とかはり、純潔の神バルドル Baldr は再び歸つて來ました。正義の君主たちは、黄金の屋根をもつ、ギムレイ Gimle の高樓に住んで幸福に暮らし、天からすべてを支配して、最高の審判をする王が降つてくる。地の底からは惡龍が上つて來て、人間の死骸をその翼にのせて運び去るといふところで、巫女の託宣の歌は終つてゐます。地の新たにわだつみの浪の中より
緑りとなつて立昇るを見る。
瀧はおち、鷲はとび、
岩根の淵の魚をとらふ。
イザヴォルにもろ/\の神、
かんつどひまして、
地を取り卷く、
かの恐ろしき大蛇について、語らせ給ひぬ。
初めの部分は異教的でありますが、最後はどうもキリスト教の影響が多いやうであります。特に純潔の神バルドル Baldr の再來は、キリストの復活とよく似てゐます。
五、『エッダ』の各篇
然しバルドルの死は全然キリストのそれとはちがひます。それは此の篇の補遺とも見るべき、『バルドルの夢』Baldrs drumar に斯ううたつてあるのでわかります。
惡夢を見たバルドルの身を心配したオージンは巫女にきいてみると、自分の息子の爲、冥土の國では、もう座席を設けてゐるといふことが分りました。バルドルの母フリッガ Frigga はそれを知つて、非常に驚き、悲しみ、バルドルが夭折しないやうにと、あらゆるものに、バルドルに危害を加へないやうにと約束をさせましたが、只、やどり木だけは小さな、つまらぬものと思つて、うつかりと約束をしなかつたが爲に、それで造つた矢に射られて死んだといふのであります。ギリシヤ神話のアキレスの致命の踵がここでは、武器の方に移つてゐるのは面白いではありませんか。またこれは濃やかな母性愛をあらはした、北歐神話中の名篇であります。
『エッダ』の中にはこの外に、主神オージンの箴言集、教訓集のやうな『ハァマール』Havamal や、雷神トォルの武勇、冐險をうたつた『ヒュミイルクヴィザ』Hymirkvidha や、それから、雷神が眠つてゐる間に、その大切な鎚を巨人にぬすまれて、それを取り戻しに、女裝して巨人の住居に行く、『スリュムスクヴィザ』Thrymskvidha はなか/\面白い作であります。
神々の歌にはまだいろ/\の歌がありますが、それは略してこれから古英雄たちの歌のことを少しお話してみたいと思ひます。
『エッダ』の殆んど後半を占めてゐる古英雄たちの歌は、神話とはちがつてどうもスカンヂナヴィア原生のものでなく、中央ヨウロッパ、特に獨逸のものが、殆んど原形のまゝ、或はいくらかの北歐的修正を加へて、編入保存されたものが大部分を占めてゐまして、ノルウェイまたはスウェデン等に發生したと思はれるものは少ないのであります。たとへば、『エッダ』の中の最も古い傳説をうたつた『ヴェールンダル・クヴィザ』Vlundar kvidha 即ち、ヴェールンドの歌といふのがあります。これは熟練な金工ヴェールンドが、家出した妻の歸るのを待ちながら、拵へて置いた指環をニャールの王に奪はれ、剩へ、奴隸のやうに足の筋をきられて、ある島に禁錮せられた怨みから、王の二子をだまして殺し、指環を修繕に來た王女に暴行して、自分の工夫した翼をつけ、空をとんで逃げてしまつたといふ話ですが、これはドイツにある鍛冶ウイラントの話そのまゝで、ゲルマン民族に共通のものであります。
それと反對に北歐固有のものと思はれるものの一例は『ヘルガ・クブィザ』Helga kvidha 即ちヘルギの歌であります。主人公のヘルギがルキューレ Valkyre の助けを得て、樣々の武勇をあらはすことを歌つたものであります。ルキューレは、軍神オージン Odhin の侍女[#「侍女」は底本では「待女」]たちで、常に戰場の空をかけめぐつて戰死者があると、その傷を見て勇怯をたしかめ、勇者ならばオージンの住むルハラの宮殿につれてくるのが役目であります。このルキューレは全然スカンヂナヴィアのもので、それと、ヘルギとの戀愛的關係を持たせたところに、固有の面白さがあります。
六、歐洲二大神話の一
『エッダ』は廣い意味に於ける北歐の傳説を比較的、原形を保つて殘してゐる點で貴重な文學であります。歐洲の二大神話のその一つである北歐神話は、可なり立派にその中に殘されてゐます。ひとりスカンヂナヴィアの文學者のみでなく、この寶典から、詩想を得た者は他の國でも澤山あります。例へば、リヒアルト・ワーグネルの歌劇は『エッダ』を元にして造つたといふが如き一例であります。
七、特異の形式
『エッダ』の形式は獨特なもので、ごく短かい句毎の頭に重ねて行く、所謂頭韻をもつてゐます。たとへば、先程申しましたヴェルウスパーの初めの句は、
Hliodhs, bidh ek allar, helgar kindir,
meiri ok mini, mgu Heimdallar
となつてHの音や、Rの音、アラル、ヘルガール、ヘイムダラールと似た音がいくつも重なつてゐます。五、七、五七と幾つも句を重ね同じやうな言葉をくりかへして行くところは、萬葉の長歌と似たところがありませんか。
次に新らしい『エッダ』即ちスノルイの『エッダ』はさきに申しましたやうに、スカルド歌謠の作例といつたやうなもので、舊い『エッダ』とは別な意味で面白いものでありますが、文學的にはそれほどのものとは思はれませんから、此處では略することに致します。『エッダ』はこれだけにして、次にはスカルドのことに移ります。
八、スカルド歌謠
スカルドとは元來詩人の意味でありますが、此處ではスカルドによつて作られた歌であります。この歌は只文字に書いて、默讀したのではなく、日本の平家物語のやうに節を附けて、歌はれたものであります。
スカルドはその祖先をオージンの大神にもつてゐると申しますが、その守護神はブラギ Bragi であります。つまりブラギはギリシヤ、ローマのミューズの神、日本で言へば和歌三神に當るわけであります。スカルド詩人は大部分は朝廷に仕へたもので、常に君側にあつてその武徳をうたひ、或は戰場の有樣を描き、自らも軍に從つて、辛苦をなめたものであります。スカルドは斯うしていつも作者の主人の賞讃をうたつてばかりゐるところに、エッダとの相違があります。スカルドの形式はエッダと同樣でありますが、只エッダよりもずつと嚴密で、更にいろいろの法則が附加されてゐるだけであります。のみならず用語は同じ古代北歐語でも表現の仕方がエッダとちがひ、廻りつくどいので、不馴れの者にはよみづらいのです。たとへば舟のことを舟といはずに、波の馬といひ、白い浪頭を「波の牡山羊」といふたぐひです。これはケニンガアル kenningar といふ一種の隱喩でありますが、別にヘィティ Heiti といふのは全く違つた名をいふので、言はば符牒であります。たとへば、女といふ言葉を普通にコーネと言はないで、フリョード Flyod、またはスプルンド Sprund といふやうな類であります。これが解釋は後世の人に不可能でありますが、幸にも新らしい『エッダ』のスカルドスカパルマール Skaldskaparmal 即ち、スカルド作詩法にのつてゐるので分るのであります。
スカルド詩人のうち、最も古いとせられてゐるのはウルフ Ulf でありますが、頗る達者な作家で一夜に一長篇をこしらへたといひます。そのほかスカルド詩人の中では、聖地で人殺しをしながら、詩の功徳で危い生命を取り止めたエルプル Erpr や、非常に數奇な生活を送つたエギル・スカラグリムソン Eegil Skallagrimsson などといふ人達もあり、エピソードにとんでゐますが、只今は省いて他の機會にゆづることに致します。スカルドの盛時は、ハラルド美髮王の時代で、王自らも優秀なスカルド Harald Harfagr でありました。
九、散文時代
スカルドに次いだサァガ Saga は散文の物語で、これはイスランドの美しい産物であります。軍談、講談のやうに歴史の事實を巧みな話術で話したのが今日に殘つてゐるわけであります。
イスランドでは今日でも、宴會や、集會の席で、この講釋を餘興として聞く風習が昔のまゝに殘つてをります。
十、傳統の精神
これで甚だ概略ながら、古代のイスランド、ノルウェイ文學のお話を終りました。で、この古代文學が現代のスカンヂナヴィア文學とは如何なる關係をもつてゐるかと云へば、勿論、形式の上からは何んにもありません。けれどもその剛健不屈の古い傳統の精神、ローマンスの夢にあこがれる傳統の精神は、ちやんと殘つてゐます。イプセンの如き、ストリンドベーリの如き、いづれも自國の古い傳統に深い愛着をもち、その精華を發揮しましたし、ビョルンソンの如きは、スカルド蒐集の功によつてノーベル賞を貰つたほどであります。
十一、中世以後の文學
以上お話致しましたイスランド・ノルウェイ文學の榮えた後、イスランドは衰微しましたのが、十六世紀の半ばからやうやく復活して、十八世紀になつて、やつとローマン主義の文學が再び興つて來ました。けれども、『エッダ』や『スカルド』や『サーガ』に比すべきほどの力はありません。最近、グンナァル・グンナルソン Gunnar Gunnarsson といふ作家が國境を越えて名聲をはせてゐますが、これはデンマルク語を用ひてをりますから、或はデンマルク作家にかぞへて然るべきかも知れません。
要するに古代イスランドの文學を受けついだのは、イスランド自身よりもデンマルク、ノルウェイ、スウェデンの三國でありました。然し宗教改革に至るまでのスカンヂナヴィアの中世文學は大體に於て隆盛ではなかつたといふことが出來ませう。スカルドやサーガの盛時を過ぎると、ラテンやフランスの古典の飜譯時代が來ました。キリスト教の普及に伴つて渡來したラテン語が尊重されて、學問は僧侶の手に歸し、文學もまた僧侶や貴族の支配するところとなりました。しかし、一方には國語の統一といふことが行はれ、國語で著作された文學も僅かながら出るやうになりました。この國語を整理改造して、文學用語にまで高めた功績はスウェデンではオーヴラス・ペトリス、デンマルクではクリスチャン・ペテルセンであります。
十二、用語の問題
私はここで、ちよつと、スカンヂナヴィア文學の用語について、おことわりして置かなければなりません。前に、スカンヂナヴィア文學が、基礎として立つ言葉は同じであるやうに申しましたが、これは大體のことで、元より同一國語を使用してをるのではありません。然しデンマルクとノルウェイとは同じ言葉を、違つた發音と、違つたアクセントで話し、幾分違つた綴方や、表現や、單語で文章を書いてをります。これは元ノルウェイが政治的にも、文化的にもデンマルクの支配を受け、その爲に、都會ではデンマルク語が通用して、古來のノルウェイ語は只方言として農民の間に殘つてゐたが故であります。このノルウェイ化したデンマルク語をノルウェイ人はリクスモール Riksmaal 國の言葉、または公用語といひ、これに對して、古代ノルウェイ語や、その面影をとめてゐる、ノルウェイ農民の言葉を整理再建した新ノルウェイ語、ニューノルスク Nynorsk をランスモール Landsmaal とよび、國粹を主張する人々はこれを以て、一公用語を排斥せんとしてをります。そしてもう久しいながら、この新ノルウェイ語で堂々たる大作家の作が幾つも出て、その勢力も段々加はつてをりますが、在來は勿論、今日でも Riksmaal の作家が、イプセン、ビョルンソンを初め、八分通りを占めてをりますから、デンマルクとノルウェイとは同じ國語の文學をもつてゐると言つても誤りではありません。しかも、デンマルク、ノルウェイ語と新ノルウェイ語との差は極めて僅かであります。まだスウェデン文學は、その國語たるスウェデン語で書かれてゐますが、瑞典語と他の二國語との相違は殆んどいくらもないといつてよろしいので、まづ東京語と、名古屋語と、大阪語とのちがひくらゐと言へば言へませう。ですから、私がスカンヂナヴィア文學は同じ語を基礎としてゐると申しても、ごく大まかな意味で、ゆるされると思ひます。
そこで、宗教政革が來て、國語の尊重、國語文學の隆盛となり、遂にデンマルク、ノルウェイ文學に巨人ルゥドヴィク・ホルベルの[#「ホルベルの」は底本では「ポルベルの」]出現を見るに至り、スカンヂナヴィア文學に大きな光明をなげることになりました。
十三、諷刺劇の盛時
ホルベル Johan Ludvig Holberg は一六八四年、ノルウェイのベルゲンで生まれ、青年時代にデンマルクの首府ケェプペンパヴンに移り住み、一五七五年[#「一五七五年」はママ]に亡くなりました。歴史、地理、科學、法律、哲學、言語學など、あらゆる方面に精通してゐましたが、それよりも喜劇作家として、非常な名聲をはせ、スカンヂナヴィアのモリエールといふ名を受けました。當時の社會の裏面をありのまゝにさらけ出して、鋭い諷刺をほしいまゝにしました。スウィフトの『ガリバー巡島記』にヒントを得たやうな『ニェルス・クリームの地下旅行』Niels Klims Underjodiska Reis といふ物語の如きは、餘りにも眞に迫つて、偶然事實と符合したので、これは自分のことを惡口したものだと、譏誹の訴へを起したものすらありました。
ホルベルの劇は北ドイツでも盛んに演じられました。またホルベルが、一七二三年に、その第一作を出すまでは、デンマルク、ノルウェイも劇といふものは、ほんの僅かより知られてゐなかつたのでしたが、彼のおかげで初めて、劇らしい劇が演じられるやうになつたのですから、彼はまたデンマルク、ノルウェイ劇界の元祖ともいふべきでありませう。
十四、抒情詩人の群れ
ホルベルが劇に活動してゐる間に多くの抒情詩人が出ましたが、その中でエル Ewald は全歐洲にも匹敵するものが外にないと言はれたほどの大詩人で、一七五一年フレデリック五世 Frederik V. が招聘したドイツの有名な詩人クロップシュック Klopstock の影響を受け、のち、よくその短所をすて、自ら大を爲した人で、今日もなほデンマルクの國歌として愛誦せられてゐる『クリスチャン王は高き帆柱に近く立つ』Kong Christian stod ved hoje Mast や、『小さなグンヴォル』Llille Gunvor などの作があります。
エルと並び稱せられるものに、ウェッセール Wessel があります。『靴下のない戀愛』といふフランス古典主義風の悲劇は當時劇界に流行したフランス趣味をきはめて烈しく詈つたものでありました。當時、デンマルクではフランス文化の讃美者たちとドイツ文化の擁護者たちなどが各々、ノルウェイ協會、デンマルク協會とを組織して爭つてゐました。エルはデンマルク協會を建てた一人で、ドイツ派でありましたが、ウェッセールはノルウェイ教會の最も優れた協會員でありました。さうでありながら、始終フランス文化排斥の急先鋒に立つたのは奇であります。エルは三十八歳、ウェッセールは四十三歳で共に夭折致しました。
十五、スウェデンの黄金時代
一方、スウェデンでは一五六〇年頃から一七五〇年頃までは、文化の黄金時代といはれたほどで、グスターヴ・アドルフス Gustav Adolfus やカール二世 Karl II. 等の名君が學問を奬勵して、文學の隆盛となりました。スウェデン詩歌の元祖スチェルンエルム Stjernhjelm はこの時に出ました。ルネッサンス Renaisance の新原則を應用して、巧みにこれをスウェデン語と國民性とに適合せしめて、純藝術詩の基礎を定めました。スウェデンボーリ、即ち神祕主義で有名な所謂スウェデンボルグもこの時代の人であります。
千七百年代から、ローマン主義時代までのスウェデンでは、フランスのクラッシク文學をまねた典雅な擬古典主義文學が隆盛で、スチェルンエルム以後の詩人は言葉の清醇と作詩の自由とを妨げられました。
この時代を代表するものはオローフ・ダーリン Olof Dalin で、そのすぐれた形式と、機智とで名があります。この時代にスウェデン語は文學、科學の用語として、動かし難い位置を占めました。
一七八〇年から一八〇九年までが、有名なグスターヴ三世 Gustaf III. の治下で、スウェデンのアウグスツス時代といはれるほど文化の隆盛を見ました。今日ノーベル賞を銓衡するスウェデン學士院 Svenska Akademien の建つたのもこの時です。この時代にも詩人は二派に分かれ、一方はフランス文學の華麗を慕ひ、他は國民文學の權威を主張しました。フランス派の驍將はヘンリク・チェルグレン Henrik Kelgren で、形式の整つた詩を書いて、美學に精通してゐました。これに對して、國民派の大詩人はミカエル・ベルマン Michael Bellman でありました。初めダーリンの弟子で『月』Maanen といふフランス式の詩を處女作として書きましたが、後ち、國民の日常生活をうたふ詩人として不朽の名を殘し、今日でもベルマン祭が行はれてゐるほど一般に愛好せられてをります。
十六、ロマン主義運動
ドイツに始まつたローマン主義運動は十九世紀の始まると共にスカンヂナヴィアにもはいつて來ました。中にもデンマルクでは最も美しい實を結びました。このローマン主義の輸入者はドイツ生れのスタッフェルト A. W. Staffeldt で、一時はエール以來の大抒情詩人と言はれましたが、間もなく、その感化を受けたエーレンシュレーゲル Oehlenschlger にすつかり壓倒されて了ひました。エーレンシュレーゲルはドイツ人を父にもち、母もドイツで教育を受けたデンマルク婦人で、自分でもよくドイツ語で著作したといひます。彼の作でよく引き合ひに出されるのは『アラディン、或は不思議なランプ』であります。ゲーテの知己であり、ヘッベル Hebbel とも交はりがあつて、半分はドイツ人で、全然ドイツ・ローマン派の影響の下に立つた人であります。
デンマルクのローマンチストと言へば、私共はハンス・クリスチャン・アンネルセン H. C. Andersen 所謂アンデルセンを忘れることは出來ません。アンデルセンといへば、直に鴎外の『即興詩人』を想ひ出すほど、我々には知られてをります。私もその現代語譯を出すと間もなく、大地震で、絶版となりました。童話の作家としては王位にある人ですが、他の方面ではそれほどではありません。
十七、自我主義の詩人哲學者
ロマンチズムは哲學思想の方面で詩人哲學者キェルケゴォル S. A. Kierkegaard を出しました。彼の大著『あれか、これか』Enten-eller『人生の段階』『哲學小論』『哲學小論集成』等は日記、書簡論文、説教などの形で書いた、秀れた文學であります。自我的、厭世的、虚無的でありながら、キリスト教的敬虔な思想はスカンヂナヴィア文學者たちに、たとへばイプセンに、またストリンドベーリに大なる影響を與へ、引いては歐洲、近代思想の先驅者の一人に數へられるに至りました。彼の思想は近年ます/\歐洲の哲學思想に大きな影響を與へてゐると申します。私は自分が譯した『憂愁の哲理』のなかから、彼の警句の一、二を引いて彼の思想のほんの一端をのぞいてみたいと存じます。
「大人は少年の夢を實現するものである。人はその實例をスウィフトに見る。彼はその少年時代に癲狂院を建て、成年の後、自らその中に收容された。」
また――
「芝居の脇道具で火事が起つた。
キェルケゴォルの大著『あれか、これか』や『人生の段階』は、文學としてもニイチェの『ツァラツゥストラ』に勝るとも劣らぬものであります。
十八、スウェデンのローマン主義
スウェデンへはデンマルクを通してローマン主義が入りました。此の派の詩人で有名なものはアルムクヴィスト Armkvist、テグネール Tegner、リュドベーリ Rydberg でありますが、中にもテグネールは有名で、其の『フリーヂョフ物語』Fridjef saga は英獨語にも幾度も飜譯されました。それまでスウェデンは軍事的政治的に、中央歐羅巴に勢力をふるつたことはありましたが、文學は一向駄目であつたのを、テグネールのおかげで進出することが出來ました。
十九、反動來る
斯く盛んなローマン主義に反動が來ました。それは一八七七年にデンマルクの大批評家ゲオルグ・ブランデス Georg Brandes によりフランス流の自然主義が鼓吹されたからであります。ブランデスほどスカンヂナヴィア文學を指導し、またその隱れた寶玉を發見して、内外に紹介した人はほかにありません。キェルケゴォルも、イプセンもハムスン Hamsun も、この人が有力な紹介者の位置に立つてをります。
そこでデンマルクに自然主義がはひつて、ヤコプセン Jacobsen、ドラックマン Drachman 及びシャンドルフ Schandorph の三大家が出ました。ヤコプセンが最もローマン主義の臭ひのうすい作家で、よく外國にも知られ、ドラックマンは海洋小説家で、後ちにローマン派に復歸し、シャンドルフは最初から、ローマン派と自然派との間に板ばさみになり、ハムレットもどきに to be or not to be と苦しみましたが、その代表作『中心なく』Uden midtpunkt は流石に、フランス自然主義大家の筆を偲ばせるものがあります。その他ノーベル賞を受けたギェレルウプ Gjellerup、怪奇な筆を弄することロシアのアンドレエフに似たヘルマン・バング Herman Bang などありますが、此處には申しません。
二十、スウェデンの自然主義
スウェデンの方では、一八七九年に、アウグスト・ストリンドベーリ August Strindberg が『赤い部屋』Raada rummet を出したのが自然主義の始まりで、そのおかげで、スウェデン文學が一新され、エィエルスタム Geijerstam、ボート Bth オーラ・ハンソン Ola Hanson などが、その後を追ふやうになりました。ストリンドベーリについてはその劇の大部分と、小説の若干とが飜譯されて、いろいろ紹介もされてをりますから、私は此處には別に申し上げません。只一つ言ひたいことは、彼の自然主義的、或は社會主義的、コスモポリタンな一面だけより見ない在來の行き方に一歩を進め、スウェデンの歴史に、傳統に、力強い執着をもつ國民的な、又民族的な他の一面をも見て頂きたいといふことであります。
二十一、ノルウェイ文學の獨立
さて私は、ここで、しばらく閑却したノルウェイに歸らなければなりません。ノルウェイは一八一四年五月十七日、政治的にデンマルクから分離獨立はしましたが、一八三〇年頃迄は萬事が混亂して見るべき文學もなかつたのが、ウェルゲラン Wergeland とウェルハーヴェン Welhaven とが出て、やつと自國の文學を持つやうになりました。ウェルゲランは急進愛國家で、新しいノルウェイを直ちに昔のノルウェイに接合せよ、中間にあるデンマルク、ノルウェイ時代といふ怪しげなハンダを除き去れと叫び、ウェルハーヴェンは、その反對に漸進主義を唱へて、各々味方を得て、一八四五年ウェルゲランが死ぬまで、烈しく抗爭をつゞけました。
ウェルゲランの作は粗笨蕪雜で、只熱情があるのが取り柄で、ウェルハーヴェンの詩は優麗典雅で、用語は巧みを極めてゐますが、その缺點は纎細で、迫力がないことであります。ウェルゲランの代表作は『創造、人間及び救主』Skabelen, Mennesket af Messias といふ抒情的一大劇詩、ウェルハーヴェンのは『ノルウェイの黎明』Norges Dmring と題する詩集であります。この二詩人の後に來たのがアスビョルンソン Asbjornson とモー Moe で、我々にも知られた北歐民話の蒐集家であります。それからもう一人肝要な人物は、前にも申しました新ノルウェイ語、ランスモールの整理改造をしたイール・オーセン Ivar Aasen、此の人は抒情詩にもすぐれた人で、散文に妙を得てゐました。
然しイプセンがその史劇を書き、ビョルンソン Bjrnson が農民小説『シュンニエヴ・ソルバッケン Synnve Solbakken(拙譯『日向丘の少女』)を書き出すに至つて、ノルウェイは初めてすぐれたローマン文學を有するに至り、七十年代の終り頃から、この兩詩人によつて、一躍世界文學の最高水準に達しました。
二十二、ノルウェイ文學多士濟々
此の兩者と並んで、ノルウェイで Den fire Store 即ち四大文豪と特別扱を受けるアレキサンドル・ヒェラン Alexander Kieland と、ヨナス・リエ Jonas Lie とがあります。イプセンとビョルンソンについては、餘りによく知られてをるので、此處に省略して何にも申しません。只、一言、申したいことは、故郷には貴ばれぬ豫言者でありながら、なほ自國の傳統に深い執着をもつたイプセンと、農民文學の新らしい型を出したビョルンソンとは、今日、我々の再檢討を要する、何物かをもつてはゐないだらうかといふことです。ビェランはその文體の明快と情調の輕さで日本人にも好かれてゐますが、リエは殆んど知られてをりません。北歐らしく憂鬱な情調が好かれぬのかも知れません。二人とも自然主義系統の作家で、社會の暗黒面を容赦なくあばいてゐるところは同じでありますが、到底フランス人のやうに冷血な經驗の分析者であり、絶望的運命觀の上に立つことは出來なかつた處にスカンヂナヴィア人の生地があらはれてゐます。
この外、コレット Collet、ヴィニェ Vinje、ガルボル Galborg、エルステル Erster、スクラム Skram 等此の時代に著名な作家が輩出してをりますが、此處には割愛しておきます。
一口に言ふと、この時代の文學は寫實的であり、問題的であり、自由戀愛、個人の自由、婦人の解放などに力を入れたのがその特徴であります。
二十三、結論
私は前に、ローマン主義がスカンヂナヴィア文學の主流であるやうに申しましたが、この事はいつの時代の何人の作を讀んでも直ちに感ずる處であります。スカンヂナヴィアには遂に一人のフロォベルもモォパッサンも出ませんでした。所謂四大文豪以來、現在までの大勢を支配するものはやはり寫實を基とした新ローマンチックであります。我々がよく知つてゐるヨハン・ボーエルを、北歐のモォパッサンなどといふ人がありますが、これは極めて淺薄な見方で、彼は徹頭徹尾ローマンチストで理想家であります。ハムスンの如きは、自分の自然主義的色彩をもつ『飢ゑ』から『パン』(拙譯『白夜の牧歌』)の如き自然に耽溺する夢想の作家となり、『土の惠み』以來漂浪主義となつてをります。ビョルンソンとは形の變つた農民文學のハンス・エ・キンク Hans E. Kinck 又現にその方面で活躍してゐるオーラヴ・ドウン Olav Duun、カトリック主義のシグリド・ウンセット Sigrid Undset 等のノルウェイ作家たちから、デンマルク・ユルラン派の郷土文學、スウェデンのセルマ・ラーゲルレーヴ Selma lagerlf、ヘイデンスタム Heidenstam 等、みなそれ/″\特色はありながら、皮一重の下はみなローマンチストだと云へませう。二十世紀に入つてスカンヂナヴィアでも寫實主義や、社會、文學の問題などに關心をもつやうになつて、共産主義小説などといつて、四十卷にも亘る大小説を書いたノルウェイのクリストッフェル・ウップダール Updal の如きがあり、また昨年還暦の記念出版をしてノーベル賞の候補に推された、デンマルクのマルチン・アンネルセン・ネクセー Martin Andersen Nex などがあります。またスウェデン、フインランドにも赤色作家があるさうですが、これ等は紹介によりますと、やはりローマンチックで、人道主義的であると言ひます。特にネクセーの如きは、私はその作を讀んで、明かに彼がヒュマンテリアンであつて、決して、勞農文學のプロレタリヤ作家でないことを知りました。
以上、説いて未だ盡くさぬところが澤山ありますが、一先づこれを以て終ることに致します[#「致します」は底本では「致しとます」]。
(放送講演による)