みごとな女

森本薫




  人
あさ子
真紀



豪奢ごうしゃと言うのではない、足りととのった家庭。人形をかざったピアノが一つ、坐り机が一つ、縁先に籐椅子が二つ、卓。みるところ若い女の部屋らしい。
六月。
誰もいない。

あさ子。二十四。和服。身体つきは大柄で少し肥っているが美しい。時々片手を上げて指先で両の眉を内から外へ撫でつける癖がある。話をさせても他人の調子には頓着とんちゃくなく、ゆっくり句切って云うようなところがある。外出から帰ったところ。すこしの間部屋の真中に立って周囲を見まわし、思い出したようにピアノの前にいく。
ちょっとためらった後、ショパンの作品九番の第二の夜曲をさぐりさぐりき出す。甚だしくまずい。少し弾いて直ぐ行詰まってしまう。立ち上って、楽譜をさがす。
あさ子 (さがすものが見つからないらしく)どうしたのかしら……。(もう一度、そんなに多くもない楽譜をパラパラ繰る)あ、そうか……(楽譜を放り出してピアノを離れ、ゆっくり縁側へ出て、又入って来る。机の横に置いた小物入れから作りかけにした衣装人形を取り出し、縁側に行って椅子にかける)
真紀。四十七。ずっと若くみえる。
真紀 (縁づたいにきて通り過ぎそうになって気がつき)おや。あさ子、あなた何時いつ帰ったの?
あさ子 たった今よ。薬局ん中でみてたんじゃないの。
真紀 いいえ、ちっとも知らなかった、母さん。
あさ子 そう。みてるんだと思ってた。御免なさいね。
真紀 それはいいけれど。また行かなかったのね。(にやりとする)
あさ子 あら母さん、行ったわよ。
真紀 お弁当を届けさせたら、おいでになりませんって、変な顔して帰ってきたよ。ほんとは何処どこかで遊んでたんだろう。
あさ子 ひどいわ。そうじゃないのよ。ほんとに、行ったことは行ったのよ。そしたらね、よし子さんが、帯留おびどめね、せんから言ってたでしょう、あれを買いに行くから付き合ってれって言うの。
真紀 お裁縫は厭だし、丁度幸いと言うところね。
あさ子 でもお友達がそう言うもの仕方がないわ。おつきあいよ。
真紀 此の間お師匠さんにお目にかかったら、何て仰言おっしゃったと思う? あなた。
あさ子 なんて?
真紀 そう。可哀そうだから。
あさ子 あらあら母さん、何んて仰言ったのよ。言いかけといて止めるの? そんなことってないわ。さあ、母さんったら。
真紀 何です? それは。あなたいくつ?
あさ子 だって。じゃ言って呉れる?
真紀 薬学校の方じゃ優等生だったそうですが、お裁縫の方じゃ劣等生です、って。卒業の見込無いそうですよ。
あさ子 まあ! 嘘でしょう。
真紀 自分でいてみるといい。
あさ子 あたしが訊いたら、そのとおりって仰言るにきまってるわ。
真紀 自分でわかってれば、それでいいさ。
あさ子 そうじゃないの。
真紀 あなた、自分で、いけないって言われることがわかってれば、少しは精を出すものよ。
あさ子 違うんだったら、母さん。お師匠さんはあたしを揶揄からかうのよ、そんな風に言って。
真紀 あきれたひとだ。それで、あなた自分では一人前の腕のつもり?
あさ子 卒業の見込み無し、ってほどではないと思うわ。
真紀 (あきれた感じで)ふむん!
あさ子 何よ、母さん。
真紀 だってあなた。(笑う)
あさ子 厭な母さん。
真紀 あなたのお裁縫は、私が見たって、到底とうてい卒業の見込みはありゃしないよ。
あさ子 あら。(悄気しょげて)困るわ。あたし、ちっとも怠けてなんかいやしないのよ。だけど、あれでしょう三年間ちっともお針なんか持たなかったんだもの。そりゃ、女学校の時分はやったけれど。
真紀 そうかな、女学校の時分だって、大概母さんが代ってやっていたようよ。
あさ子 そうだったかしら。
真紀 厭だよ、のひとは。そうだったかしらもないわ。
あさ子 でも、古い話だから憶えてやしない、あたしは。
真紀 させられた方で忘れないからいい。
あさ子 母さんは物憶えのいい方よ、どっちかって言うと。
真紀 あなたにはかなわない。
あさ子 どうして?
真紀 どうしてでも。(笑う)
あさ子 (わけわからずに笑う)
間。
真紀 もう出来るの? それ。(あさ子の持っている人形をあごで示す)
あさ子 も少し。
真紀 今、何処をやってるの?
あさ子 裾廻すそまわしんところ。
真紀 此の間中のと、また違ってるの?
あさ子 ――。
真紀 ねえ。
あさ子 え?
真紀 また違うのをやってるのかい?
あさ子 そら、とうとう間違えちゃった。母さん、いろんなこと言うから、ほら(示して)こんな。
真紀 だってあなた、さんざんひとにしゃべらせといてちっとも聴いてやしないじゃないの。
あさ子 だから、何よ。なに言ってたの、今。
真紀 つまり、ね、あら厭だ、つまりなんて話じゃなかったのよ。少しは真面目に他人ひとの話を聴くものよ。
あさ子 真面目に聴いてるわ、あたし。でも、何の事だか、訳が分らないんだもの、これ以上真面目になんてなれやしないでしょう。
真紀 だからさ、一体どうする考え? そんなに次から次へお人形の着物ばかりこしらえて、お人形屋でも出すつもり?
あさ子 出来たら、そうしたいわ。
真紀 そんなこと言って、母さんを揶揄うんじゃないでしょうね。
あさ子 どうして?
真紀 どうしてって、そうじゃないか。
あさ子 でも、あたし、することがないんだもの。
真紀 することならいくらでもあるじゃないの、他に。
あさ子 どんなこと、じゃあ?
真紀 そうね、お茶をたてるとか、お裁縫だとか。その他にも、花をけるとか、それからまた時にはピアノをさらうとか、何だってあるよ。それだけあれば、ることが無いなんて言やしないな、母さんなら。
あさ子 そうかしら。
真紀 贅沢ぜいたくよ、あなた。
あさ子 でもね、あたし薬専へ行ってた間、ちっともあんなことしなかったでしょう。だからこの頃になって急にあれやこれや一遍にやり出すとね、母さん怒っちゃ厭よ、怒りゃしないわね、あたし、あんなものがみんな、なんだか、こう大変な大仕事みたような気がして仕方が無いの。木曜がお茶で、土曜がお花、月曜がピアノでその他の日がお裁縫でしょう。だからそのほかの時に、独りでやってみる気なんて、起りやしないの。そのくせ、じっとしてると、……長い間学校にいた所為せいかしら。
真紀 ――。
あさ子 時々、あたしね、お友達のことなんか、考えてみるのよ。野田さんやなんか、どうしてるかしらん、なんて。
真紀 お嫁入りなすった方かい。
あさ子 医学部の研究室にいるひとよ。
真紀 ――。
あさ子 あたしもしばらく、あそこにいたわね。あたしが家へ帰ることにきまったので、代りにあのひとが行ったのよ。
真紀 あなたは、今でもやっぱり、あの、理化学研究所に入らなかったことを、何とか思ってるんじゃない?
あさ子 ――。
真紀 そりゃ、惜しいには惜しいだろうけど、先生方もあんな風に言って下すったのだし。
あさ子 (笑って)母さん、あたしもう何とも思ってやしない、それなら。
真紀 そう、そんならいいけど。
間。
あさ子 此の間、慥えた人形ね。収さんが持って帰ったのよ。あれが一等出来が悪いんだのに。
真紀 どうして、そんなのを持って帰るのだい、あの人。
あさ子 しらないわ。変な恰好かっこうしてるのよ、そりゃ。他のと取り換えるからって言うのに、これでなくちゃ厭だってきかないの。
真紀 変梃へんてこな所はあなたの感じが出てるんだろう、きっと。
あさ子 ひどいわ、母さん。
真紀 あれで、いろんなことをやってみるらしいね。
あさ子 収さん? 建築の写真なんか集めてるのよ。
真紀 文学部なんだろう。
あさ子 ほんとは芝居の勉強がしたいんだって。
真紀 芝居って。あの芝居かい、歌舞伎やなんかでやっている。
あさ子 さあ、あたしにもよくわからないんだけれど。
真紀 変なものをやるんだね。他にすることがありそうなものを。
あさ子 だって、そりゃ、仕方が無いと思う。母さん嫌い? あのひと。
真紀 好きさ。いい人だもの。けどやってることはね。
あさ子 文学?
真紀 あんまり好きじゃないね。
あさ子 あたし達は解らないのよ。家じゃ、みんな化学なんだもの。
真紀 それで、あなたにも始終しょっちゅうそんな話をするの文学とか、芝居とか。
あさ子 ちっともよ。あたしがそんな話をし出すと妙な顔をするのよ。
真紀 解からないときめてるんだね。
あさ子 きまりが悪いのよ、きっと。あかい顔するのよ。
真紀 何考えてるんか、わからないね、若い人って。それじゃ、いつも、どんな話をしてるの?
あさ子 話なんてしやしない。
真紀 でもピアノのお稽古が済んだらぐ帰っちまうってわけじゃないでしょう。先生がお帰りになってからだってあなた達、随分、調子にのってお喋りしてるようよ。
あさ子 母さん大概そばにいるじゃないの。
真紀 いない時のことよ。
あさ子 いない時だって、おんなし。
真紀 昨日はお天気だったが明日は雨だろう、とか、家の二階の梯子段はしごだんは十二段だけれどあんたんところは何段ですって話だの、そんな話ばかりかい。
あさ子 そんなに何時も何時もお天気の話ばかり、しやしない。
真紀 あなたのは、大概そのへんよ。
あさ子 (睨む)まあ。
あさ子、指先で眉を撫でつける、之で三度目くらい。真紀、真似る。
あさ子 母さん!
真紀 私が言うのよ、それは。わるい癖よ。
あさ子 はばかりさま。
真紀 いくつだい、収さん。
あさ子 (ねて)しらない。
真紀 二十、四?
あさ子 三。
真紀 じゃ、一つ下ね、あなたより、そうは見えないねえ。
あさ子 けてみえる方ね。
真紀 男はその方がいいんだよ。
あさ子 女は?
真紀 女はあなた、(気を換えて)莫迦ばかなことをくものじゃない。何時だってそれよ、あなたは。(間、一寸ためらった後)あなた、此の間、よし子さんのところへおばれして行ったね、お祭とかで。
あさ子 え。
真紀 あの時、何方どなたかに会ったあすこで。
あさ子 いいえ。
真紀 そう。
あさ子 よし子さんのお兄さんって、あんな方あたししらなかった、あの時迄。
真紀 会ったのかい。その方に。
あさ子 鈴木内科へ出てらっしゃるんですって。
真紀 弘さんて方だね。
あさ子 あら母さん知ってるの?
真紀 そりゃ……あなたの知らないことで私の知ってることだってあるさ。
間。
真紀 (何か云いそうにする)
収、黙って静かに入る。痩せた学生。二十三。
あさ子 来た来た。
真紀 (驚いて振返る)あら。
収、笑って一寸頭を下げる。
真紀 なんです、あさ子。来た来たって何?
収 兎を追い出してるつもりですよ、おばさん。
真紀 ほんと。失礼よ。
あさ子 (大きな声で笑う)
収 しからんね。他人が入ってくると、いきなりげらげら笑うって法があるかい。
あさ子 今ね、今、あんたのことを言ってたの。
真紀 あさ子。
あさ子 母さんね。あんたの悪口言ってたのよ。だからあわててるの。(笑う)
真紀 嘘よ、あさ子がそう言ったの。
あさ子 あら、あたしじゃないわ。自分こそ。
収 どうも大変な所へ入って来たらしいなあ。逃げ出した方が無事かな。
あさ子 大丈夫よ。そんなにいけないことじゃないの。
収 どうだか。
真紀 ほんとに、どうだかしれやしない。(笑う)
収 (あさ子に)あなただね。悪口言ったのは。
あさ子 違うったら。
収 そうに違いない。わかってるさ。
あさ子 (睨む)まあ。
収 睨んだって恐くないよ。
真紀 (あさ子に)ほら、その次は。
収、指先で眉を内から外へ撫でつけてみせる。
真紀 駄目々々。たった今叱られたばかりよ。
収 へえ。それなら早くそ言って呉れるといいのに。大失敗だな。
あさ子 いいわよ。君とは今日はもう口をきかないから。
収 大変なことになったもんだなあ。(真紀に)ああ、忘れてた。おばさん、母からのことづかりものです。それでちょっと学校のかえりに。
真紀 あらそう。御苦労さま。何か……。
収 用じゃないんです。(包を出して)礼儀上到来物とうらいものですって言うんだって、中味は「藤屋」の……。
あさ子 羊かん?
収、真紀、「おや」と云う顔。
真紀 (あさ子に)何か言って?
あさ子 (笑って)いいえ。
真紀 母さん、相変らずお忙がしい?
収 そう云ってますね。口癖です。
真紀 性分ね。此の頃ちっとも会わないのでさびしくって仕様がない。ちっとは遊びに来るように云っといて下さいよ。
収 向うでも、そ言ってましたよ。あちらは閑人ひまじんだからって。
真紀 閑人? ひどい事言うね。家は商売があるから……何と言ってもあなたのお家の方がやっぱり閑よ。
収 そりゃ、そうですね。でもやっぱり。なんかんか言ってますよ。
あさ子 収さん。坐らないことに決めたの?
収 う……うん。僕もそう思ってるんだが、一向いっこうお許しが出ないし、それに場所も(あたりを見廻す)
真紀 御免々々。うっかり。(立ち上る)
収 よろしよろし。(ピアノの前に行き、その椅子をげてくる)
奥さん奥さん、と外でよぶ声。
あさ子 母さん、よんでる。
真紀 ほら早速さっそくだ。収さん、ちょっと失礼。やっぱり忙しいでしょう。(去る)
収 (人形をみて)相変らずだな。
あさ子 楽譜持って帰ったでしょう、此の前の時。
収 そうそう。言わなかったかな。
あさ子 いけないひとよ。弾こうと思ったら無いんだもの。楽器が無いのに楽譜どうするの。
収 使い道は一つじゃないよ。あれ無しじゃ弾けないのかい? まだ。
あさ子 自分だってそうのくせに。
収 冗談だろう。
あさ子 弾ける?
収 ああ。
あさ子 ほんと?
収 あなたとは、少し違うね。
あさ子 まあ。
収 まあ、って何だ。
あさ子 だって、まあだわ。
収 おやおや。
あさ子 おやおやでもないわ。
収 まあ、なんだね。(二人笑う)
真紀。
真紀 あさ子、あなた分ってるんでしょう、小宮さんの風邪薬。
あさ子 アミノピリンを抜くのよ。
真紀 それだけじゃ、わかりゃしない。
あさ子 フェナセテン、一・五。ブロバリン、〇・五、ケンチャナ、〇・―。いいわ、あたしが慥えて来よう。あの人、んな薬にでも中毒するんですって、あんなのもないわねえ。(去る)
真紀 (坐りながら)あれだけがあの人の取柄とりえ
収 一つ、身についた取柄があれば、大したものじゃありませんか。僕みたようなのもいるんだから。
真紀 あなたはそうでもないらしい。
収 何故?
真紀 あさ子なんか、始終しょっちゅうめてますよ。
収 あれは言えないんだ。悪口なんか、考えつかないんですよ。
真紀 悪口さえ一人前言えないってことになるじゃないの。
収 自慢してもいいと思うけれど……。
真紀 そうだろうか、どうして。
収 理由なく。いや、有りますよ、理由は。
真紀 好みの問題ね。
収 そうとばかりは言い切れないな。
真紀 他人事だからよ。あんたは。
収 まあ、そう言って言えないこともないけれど。
真紀 世間ひととおりの事をさ、あんまり知らなさすぎると思うの。それが……。
収 しかし、何処へ出してもそのままで押しとおせる世間知らずってのはねえ……。
真紀 ああ。
収 いいんですよ、そりゃ、素的すてきじゃありませんか。
真紀 そう言うと、あなたは知ってるように聞えるけれど。
収 知りません、僕は。
真紀 お話にならない、それじゃ。
収 おばさん知ってそうですね。
真紀 そうね、年のひらきだけは。
収 案外簡単なものなんだな、それじゃ。
真紀 莫迦ばかにするんじゃない。
収 どんなものです?
真紀 世間?
収 ええ。
真紀 世間は……
収 世間でしょう。
真紀 まあ(そうさ)。
収 苦しくって。
真紀 ふん。
収 悲しくって。
真紀 ふんふん。
収 醜くって。
真紀 ――。
収 下品で。
真紀 時々はいいこともあるさ。
収 いいこともね。それだけ?
真紀 まだまだあるねえ。追々おいおい分かる。
収 やっぱり、予備知識はりませんね。
真紀 追々って言うのは……。
収 要る時が来ればわかる、と言う意味でしょう?
真紀 その時が来てもわからないと言う人間は?
収 要らない人か、莫迦か、どちらかでしょう。
真紀 あさ子は莫迦の方なの?
収 前の方じゃないですか。
真紀 何もしらないでいていきなりひどい目に会わされたりすると、どうするかと思うの。そこんところよ、私の案じるのは。思い過ごしかしら、こんなこと。
収 それは悪者ですよ、そう言う奴は。(笑う)
真紀 随分いるじゃないの、そう言うのが。
収 そりゃ仕方がないな。それに悪者だとか悪運だとか言う奴は気を配ってる人ほどつかまり易いんじゃないんですか。
真紀 理屈を言ってるのよ、あなたは。
収 まあ、そんなに心配しなくっていいでしょう。そんな閑に、そろそろいいお婿さんでも探した方が実際的じゃないの、おばさん。
真紀 貰い手があればねえ。
収 ありますよ、いくらでも。おばさんの方で惜しがってるだけじゃないの。
真紀 お裁縫ひとつさせてもね、あたしが気をつけないで放っとくと、袖口迄縫いつめてしまうの。そんなのよ。
収 まさか。
真紀 と思うでしょ。嫁にやる。先様さきさまに厳しい御両親でもあれば、直ぐ出戻りだものね。そうなると笑い事じゃ済まない。
収 そういう所へやればいい。それを承知の……と言うより、そう言う所を買ってくれる。
真紀 ないでしょう、そんなの。生煮えの御飯を食べさせられてにやにやしてるなんて……しあったとしたら、少し気味が悪いわね。
収 そんなこと言ってて、じゃ一体どうするんです。放っといたらだんだん遅くなるばかりじゃありませんか。
真紀 さ、だからさ……。
間。
真紀 あれで、理化学研究所だけは、当人よくよく這入はいりたかったらしいのね。
収 そうでしょう、そりゃ。
真紀 何か言って? あなたに。
収 いいえ。
真紀 口を合わせてるようね。
収 ?
真紀 あなたが文学の話をするのかって訊いたら、やっぱり、いいえ、って。
収 だってほんとだもの。気になるんですか、それが。
真紀 ならないこともないの。あなたなんかそう思うでしょうね。這入りたければ、入れてやればいいって。
収 僕はやはり、これでいいのだと思うけど。
真紀 私達はどうしていいのかわからないの、本当のところはね。みんなあのひとが可愛くって仕方がないのよ。だから、あの子の好きにさせてやりたくなったり、そうかと思うと、それがかえって当人の為にならない気がしてみたり。少しは親の思惑おもわくでも押し切るほどだったらいいんだけど。
収 一々押し切るようだったら、一層困るんでしょう。
真紀 そうかもしれない。でも、あんなのも、今時ねえ。
収 どちらにしても不足は言うか。親って勝手なもんだな。しかし、そう言えばそうかもしれないな。
真紀 なに? 独合点ひとりがてんじゃわからない。
収 研究所へ入っておいた方が、おばさんの、ほら、世間知らずで押しとおれたかもしれないと思うんだけれど。
真紀 そこが難しいところね。女ってものは結局、あれだ、つまり……。
収 そう、それなら同じことです。これでいいんですよ。
真紀 どうするつもりだろう。あんなに人形ばかり慥えて。
収 含む所有るように見えるんですか。
真紀 まさか。でも何にも言わないから。
収 言うことが無いからでしょう。
真紀 簡単ね、あなたのは。
収 そんなに気になるかなあ。
真紀 私ね、私、なんだかあの子に大変悪いことをしたような気がするの。勿論もちろん気が廻るのよ、これは。(顔をらす)自分でも可笑おかしいと思うんだが。
収 何とも思ってやしませんよ。そんなんじゃない、あれは。
真紀 あさ子の理解者ね、あなたは。
収 あのひとのすることならすべて賛成しますよ。
真紀 大変ね。
収 少しファンの方かな。
真紀 お嫁さんに貰って呉れるかしら?
間。
収 (静かに)おばさん。
真紀 え?
収 いや。
真紀 冗談々々。あのひとがもっと年下ならそう言うのよ。あなたはまだまだ勉強するんだものね。
収 (笑いながら)なかなか、うまいや。
真紀 私も、そろそろ決心しなくちゃいけないかねえ。
収 ――。(笑っている)
真紀 早すぎやしないわね。二十四。
収 そうですとも。どこかお話があるんですか。
真紀 ええ、まあ。
収 いいですね。医者、やはり。
真紀 ああ。
収 あのひとの知ってるひと?
真紀 いいえ。でも顔やなんかは知ってるの。お友達の兄さんで……お家もよく知ってるし……。
収 それならいい。
真紀 鈴木内科へ出てる方なのよ。
収 そうですか。それで……。
あさ子。
あさ子 母さん、電話。
真紀 (立上り)そう、何方どなた
あさ子 知らない。男の方よ、誰だか分かりますかって、笑ってるの、厭だわ。
真紀 そうかい。(去る)じゃ。
あさ子 今お店へ来た人ね、爪切りを呉れって言うのよ。こちらは薬局ですから爪切りはありませんて言ったら、そしたら剃刀かみそりの替刃って言うの、化粧品ならありますって言うとね、僕の奥さんは三十七になるが、今日迄一度も和製の化粧品を使ったことのないのが誇なんだって。此の間も独逸ドイツの何とか言う会社へ直接注文して、二十何円もするクリームを取寄せたんだって。そしてね、僕は主戦論者だが、その第一の理由は、もし戦争が始ったら、うちの奥さんも、少しは国産愛用者になるだろうと思うからだって。店でみんな大笑いしてるのよ。
収 ――。
あさ子 (椅子を卓の方へ寄せ)此の間持って帰った人形、どうして。おばさん笑ってたでしょう?
収 ――。
あさ子 厭だわ、聴いてないのね。(眉を撫でる)
収 ――。
あさ子 どうかした?
収 (思い出したように)いいえ。
あさ子 そう。だったらいいけれど。
収 あなたは何時来ても人形を慥えてるね。
あさ子 そう言う時ばかり、やって来るのよ。
収 明日お嫁入りって言う日でも、そうしてるんだろうな。
あさ子 いやだお嫁入なんて。
収 どうするんだ? 出来上ったのは。
あさ子 売りに行くの。みんな同じことを言うのね。
収 おばさんもそう言った?
あさ子 たった今よ。
収 ふ。人間の考えてることなんて、大概同じようなものだな。
あさ子 あたしは違う。
収 違う? どう違うの。
あさ子 どうだかしらないけれど、違うわ。あたしはただ慥えるだけよ。出来たらどうするなんて考えてやしない。
収 そう言う気持だけが嬉しいんだね。
あさ子 そう言うことになるのかしら。そうばかりでもないんだがな。
収 何言ってるんだかわかりゃしないじゃないか。
あさ子 そんな風に、ちゃんと考えてみたわけじゃないの。でもそう言うことになるわけね、結局。
収 結局じゃない。始っからそうだ。
あさ子 (素直に)じゃ、そうしときましょう。あたし、これをしてる間は気が伸び伸びするわ、ほんとに。
収 つまらん、つまらんことだよ。何の役にも立ちやしないからね。明日にも結婚する人が人形の着物を縫ってるなんて、考えたっておかしいよ。もう、そろそろお料理の研究でも始めるんだね。
あさ子 意地悪ね、今日は。あたし、明日にでも結婚するの? 誰と?
収 そりゃ明日は。そうさ明日はしやしないさ。だけど明後日はするかもしれない。そうだろう、結婚しない、なんて考えられない。
あさ子 それは、そう。女だものね。
収 そらみろ。
あさ子 なあに?(笑う)何、威張ってるの?
収 あなたは、どんな人と結婚したいんだ、医者か。
あさ子 さあ。
収 はっきりするんだ、法学士の外交官か。
あさ子 ――(笑っている)
収 法学士はいけないな、他人を莫迦にすることしか知らないんだよ。それに医者は、医者は、人を莫迦にしない代りに自分が莫迦になることがあるよ。
あさ子 医学部の人って、遊ぶんじゃない?
収 しらない。医者だね、医者か、やっぱり。そりゃ医学部だって色々あるさ。結局は一人々々引き抜いてみなければ、十把一じっぱひとからげにはゆかないと思う。
あさ子 概してよ。
収 概してなんか知るものか。そんな統計って見たことが無い。
あさ子 あんたは、どう思う? 自分と同じ方面の仕事をしている人と、まるで反対の仕事をしている人とどっちがいいと思って、結婚するのは。
収 しらんね。結婚しない間にそう言うことを考えられるのは女だけだろう。
あさ子 あたしのお友達なんか、全然反対の仕事をしてる人と、お互に助け合って行くのが、本当の生活だって言うんだけど。
収 どうだかわからない。薬学をやったものは医者の奥さんになればいいよ。無理がなくて、当り前で、きっと仕合せだろう。
あさ子 あんただったらうする? 若しも、あんたがあたしだったら。
収 何うしてそんなことが訊きたいんだ。
あさ子 訊くだけだったらいいでしょう。
収 参考のために?
あさ子 はは。
収 笑いごとじゃない。大変なことだ。
あさ子 だから訊いてるのよ。
収 そんなこと訊いたって仕方がないよ。
あさ子 どうして。
収 だってそうじゃないか。結局あなたはあなたで、僕は僕さ。そこんとこはどうにもなりゃしない。あなたは此の頃そんなことを考えてるのか?
あさ子 子供じゃないもの、もう。
収 (感じ入って)ああ、成程。
あさ子 (わけがわからず)ほんとよ。(平気で)平凡ね、私の考。
収 大変いいと思うよ、それは。
あさ子 軽蔑するでしょう。
収 いけないな、そんなことを言うのは。軽蔑なんてしやしないよ。ところで僕は、何をうじうじしてるんだろう。莫迦な奴だ。
あさ子 え? 何て言ったの?
収 いいことだ。君の知らない……。
あさ子 変よ。
収 そうかな。
あさ子 変だわ。
収 (立上り)どら、帰ろう。
あさ子 もう帰るの。
収 話すことも無いらしいからね。
あさ子 いつもね、それは。来週月曜日は来るんでしょう、お稽古。
収 来られないだろうと思うんだ。
あさ子 再来週さらいしゅうは?
収 多分。
あさ子 じゃ、またそん時ね。
収 来られないだろう。その次も、それから後もずうっと。
あさ子 あら、どうして?
収 (れったく)どうしても糞もあるもんか。来られないと言ったら来られないんだ。
あさ子 (立上り、大きな声で)母さん母さん!
収 (驚いて)なんだ、そりゃ。
あさ子 母さんをよぶのよ。
収 よぶのさ、大きな声だからね、あなたの声は。よんでどうするのだ。
あさ子 よぶだけよ。
収 じゃ、よばなくたって、同じじゃないか。
あさ子 (笑って)なら帰るなんて言わないか。
収 ――。
あさ子 母さんは、あたしのしようと思うことは何でも、黙ってしてくれるから。
収 (参って)いいよ、いいよ。僕だって黙ってしてやるよ。強い女だな、君は。(坐る)
女中。
女中 よし子様のお兄様がいらっしゃいましたけれど……
あさ子 あたしじゃないでしょう。母さんいるんでしょう。
女中 ええ、でも奥さまが、そう……。
あさ子 そう。
女中、去る。
収 お客様らしい。やっぱり帰らなくちゃ。
あさ子 駄目々々。今帰っちゃ駄目よ。も少し。
収 だって、僕の知らない人だ。
あさ子 大丈夫よ。紹介したげるから。
収 して欲しくないよ。よく知ってる人?
あさ子 一度逢ったの。
収 紹介もすさまじい。一度逢った人か。(立上る、あさ子も)
真紀、弘。弘、三十三。
真紀 どうしたの? 立ちはだかって。
あさ子 帰るんだって、急に。何だか、怒ってるみたいよ。
真紀 莫迦ね、晩まで遊んでってもいいんでしょ。まだ日があるから暑いよ。晩御飯を済ましてからになさい。
収 しかし、遅くなると。
真紀 心配なんてするものか、あなたの母さんが。(笑う。弘に)親戚と言ってもいいんです。須藤収、さんは付けたり付けなかったり。(収に)上野弘さん。あさ子のお友達のお兄様よ。さ、どうぞ……。
弘 いいじゃありませんか、ごゆっくりなさい。私が入ってもいいでしょう。
あさ子 そおら、言わないことじゃない。
収、あきらめて坐る。
女が[#「女が」はママ]椅子を持込んで去る。
弘 (あさ子に)この間はどうも、失礼しました。あの時言ってらしった症状ね、今日血液検査表が出来ました。やっぱり、仰言ってたとおりでしたよ。
あさ子 そうですか! やっぱりあたしの言ったとおりでしたの。(弘の差出す紙片を手にとって)まあ、ほんと。
弘 然し、完全にあなたの勝と言うわけじゃありませんよ。その三番目の表を御覧なさい。それじゃない、その下、それそれ。肘静脈血の窒素含有物の定量です。まだまだ議論の余地はありそうですね。もっとも……。
あさ子 あたし忘れていましたわ。此の間は、どうも御馳走さまでした。
弘 や、どうも。
真紀 なあに、突然びっくりするじゃないの。
あさ子 (母を睨む)いいわ、母さん。(手が眉の所へ行く)
真紀 また。
あさ子 母さんこそ。
弘 ちっともわかりゃしない。
あさ子 母さん。
真紀 ん?
あさ子 先刻の電話、誰?
弘 (笑って)うまく誤魔化ごまかした。
あさ子 あら、そうじゃないんです。ほんとなんですよ。御自分の名前も仰言らないで、誰だかわかりますか、って笑ってるんですもの、とても変なのよ。
弘、真紀と顔を見合せて頭を掻く。
あさ子 あら。
弘 どうも。
あさ子 (困って)あらあら母さん、どうしましょう。あたし大変なこと言ってしまった。
真紀 しらない、私はしらない。
あさ子、両手で顔を蔽う。みんな笑う。
弘 (収に)学校は、何をおやりです。
収 ……。
あさ子 独文ですの。
弘 いいなあ、そいつは。
あさ子 怠け文学部。
収 笑われた仕返しかい。
弘 私は、美学をやりたかったのだが、親父がどうしても許して呉れないので、到々医者にされて了いました。大した方向転換です。しゃくに触ったもんで一週間ほどってもの、食事をとらないで頑張ってやりましたよ。尤もそれは家だけで、外ではやっていましたけれど。(笑う)
真紀 おや、そうでしたの。それじゃ、収さんと合うわけですよ。私、一寸失礼。(去る)
弘 文学は、何を専門になさるんです。
収 何って、別にきまってやしないんです。
あさ子 仰言いよ。
収 言うことなんて、ないじゃないか。
あさ子 あるんですよ、ほんとは。
弘 そりゃ、あるでしょう。
あさ子 あのね。
収 (むっとして)お喋りは止せったら。一々余計なこと言うもんじゃないよ。(あさ子舌を出す)
間。
収 どうも唇が乾いて仕方がないのですが、あれは、やはり胃が悪い所為せいでしょうか。
弘 始終そうなんですか?
収 ええ、此の頃ずっと。
あさ子 運動不足よ。
弘 出来ませんね、そりゃ。
あさ子 閑で困ってるくせに。
弘 それは、あなたのことでしょう。
あさ子 あたしはとっても忙しいのですよ。毎日いろんなことで。
弘 お茶とか花とか。
あさ子 あんなもの。
弘 おやおや。
あさ子 どこがいいんでしょうねえ。あたしなんかちっとも面白くない。
弘 やってるうちに、わかるのでしょう。
収 わかる迄には止して了うのですよ。
あさ子 しないのと同じね、止そうかしら、あたし。
弘 止すことは一番に言いますね。
女中。
女中 (あさ子に)奥さまがちょっと。
あさ子 (立上り)待っててね。
女中 お仕事は片付けましょうか?
あさ子 仕事って、(卓の上の人形をみて)ふふ、いいの。(去る。女中去る)
弘 いいですね。
収 ?
弘 あの人、あさ子さんですよ。
収 綺麗ですね。
弘 美しいも美しいけれど。
収 それに頭も悪くない、どっちかと言えば優秀です。
弘 それはそうだが。
収 優しくって温かです。
弘 ええ……優しくって、温かでもあるけれど。
収 まだ言い足りないのですか?
弘 そんな気がします、なんだか。
収 少し変なんです。誰でもみんな持ってるはずのものを持っていない。
弘 いや誰もみんなが持っていないものを持っている、そう言った方がよくわかる。
収 そうですか。そうですね。ええ。(一寸元気がない)やっぱりね。人間は怖ろしく散文的なんだと思うけど。
弘 化学の所為でしょう、それは。物事を極端に大掴みにしてみるか、滅茶々々に砕いてみるか、そんな習慣がつきますからね。
収 そうでしょうか。
弘 その点じゃ私も負けない方ですよ。
収 なに僕だってそうだが。
弘 詩だとか小説だとか、そんなものは、読まないようですね、あまり。
収 雑誌だって読みゃしませんね。芝居や映画なんてのも、生れて此の方みたことのないひとです。
弘 雑誌もですか?
収 少しひどいですか?
弘 いや。私は雑誌は認めません。女の雑誌はね。
収 自分じゃ、わからないんだと思ってるんです。
弘 ほう。
収 あなたも、あのひとが好きになりそうですね。
弘 好きですね。大変好きです。ほんと言うと、私はあのひとを貰いたいと思ってるんです。細君にですね。私は今年三十三です。
収 どうしてそんなことを僕に仰言るんです。僕達はまだ五分間しかお話していませんよ。それじゃまるで長い間の友達みたいじゃありませんか。
弘 構わないでしょう。あなたはいい人だと思いますよ。
収 益々ますます驚きますね、どうしてです。
弘 そう感じたからです、見た時。
収 至極しごく簡単ですね。そんな直感を信用なさるんですか?
弘 信じますね。医者ってものは一体そう言うものです。
収 妙ですね、そりゃ。一番科学的に物を見る筈の……。
弘 あなたはどうです。
収 さあ、僕は。
弘 私はあまりよくは思われていないようですね。
収 どうしようかと思って、考えてるところです。(笑いながら)
弘 私だって、これで悪い人間じゃありませんよ。そうはみえませんか?
収 ――。
弘 間違ってるかもしれません。もし、そうだったら許して下さい。これは多分邪推かもしれません。だから、しかし、明瞭はっきりしておかないと、後でみんなが困ることですから。(間)万一です、万一ですね、あなたがあさ子さんを……。
収 若し、そうだったら、どうなさるんです?
弘 困りますね。
収 困ったって仕方がない。
弘 しかし、やっぱり困るより他、仕方が無いでしょう。私だってあの人を愛しています。
収 そうし始めたところでしょう。
弘 それは、しかし、五年でも、五分間でも、時間の問題ではないと思うけれど。
収 そりゃ、そうですね。全く。
弘 しかし私は、あなたも好きです。
収 止しましょう、僕は年上の人に同情されるのは好まないのです。殊にその理由の無い場合。
弘 いや、まだそこ迄は行っていない。同情されるのは私かもしれない、私は……。
あさ子。
あさ子 (飲物を卓の上に置いて)どうぞ。
収 変に神妙だな。
あさ子 接待係り。
弘 いいものが出来てるでしょう、その腕で。
収 砂糖と食塩を間違えたりなんかして。
あさ子 大丈夫、みんな母さんがするんだから。
収 なんだ、運ぶだけか。
弘 それなら運搬係りの方だ。いいからあちらへ行きなさい。うちの妹なんかも始終やられてます。
あさ子、笑い笑い去る。
間。
弘 万事あの調子ですね。
収 動かざること山のごとしって言う形です。ところが、あの顔がだんだん恐くなるのですがね。
弘 みてると偉いものだと言う気がするんでしょう、きっと。
収 も少しすると、わけがわからなくなります。独り相撲ですからね。殴りつけるより他に逃げ道は無いのです。
弘 みる人にもよりますね、それは、あなたの神経ですよ、きっと。
収 あなたは?
弘 私は、ありふれた医学士ですよ。
収 あなたは、あの人の御主人には丁度いい人のようです。健康で卒直で[#「卒直で」はママ]、いい常識を持ってらっしゃる。それに身分も丁度いい。
弘 真面目にお話、して下さい。成可なるべく静かにしましょう。こんなことはあの人には知らせたくないと思いますからね。あなただって異存はないでしょう。あの人をびっくりさせるだけの話ですから。
収 僕はちっとも冗談なんか言ってやしませんよ。こうなるってことは、はじめっからわかってたんです、何かしら、僕にはね。なんだかそれを待ってたような気もするんです。
弘 そりゃ。どう言う意味です。
収 僕はあんまり長い間、あのひとを眺め過ぎてきました。此の頃じゃ、少しやり切れない気がするんです。そんなことをしてるのがです。でも、今更どうすることも出来やしない。今急に僕が来なくなったりしたら、きっとこの家の人が変に思いますからね。だからと言って、僕は今んなって僕を愛して下さいなんて言えませんよ。笑われるかもしれませんからね、長い間他人に見られないで他人のすることを見ていた罰でしょう。
弘 私には、どうもよくわからない。なぜ、あなたは……。
収 いや、僕の考えは多分間違ってるでしょう。それはわかっています。まともな考え方じゃないってことはわかってくるんだけど[#「くるんだけど」はママ]、やっぱりそんな気がするんです。どうにも仕様の無いことです。あの人を喰った顔をみてると、僕はにとられてしまいます。あまりみごとなとぼけ顔にぼんやりして了うのです。手も足も出なくなるって言う言葉がありますが、こんなんだと思いますね。だから、誰か、あなたでもいい、そんなひとが不意に現れて、どんどん物事を処理して呉れたら……。
弘 あなたは少し、自分勝手を言ってやしませんか。あなたがぼんやりするのは自由です。しかし、あさ子さんの方はどうでしょう。
収 どうって何です?
弘 そうですねえ、あなたがただ、呆っ気に取られているんじゃ、あのひと、失望しやしませんか? それは、つまり、どう言うことかって言うと。
収 それですか。それなら大丈夫です。僕は完全に無視ですよ。こんな服を着てますからね。
弘 ?
収 眼中にはないのです、あの人の。僕は失恋ですよ。(笑う)
間。
弘 そりゃ、そうかもしれない、あの人にかかったら、誰だってそうでしょう。私だって、多分……。
収 しかし、悲しいことにその態度も、すっかり僕の気に入りました。堂々と、まるで風のように僕を失恋させましたよ。
弘 そうなりますね。それを押し切ることを、あなたの自尊心が許さないとすれば。
収 自尊心だと仰言るんですか。そうみて下さるなら、それはあなたの御好意だと思っておきます。あなたとお話していて、ほんとに僕は恥しくなりましたよ。あなたもやはり、みんなが持っていないものを持ってられるようです。僕は顧みて自分を恥しいとは思いましたが、あの人のこれから先のことを考えてみて、非常に、なんだか楽しい気持がしてきました。
弘 あなたは、私のことを前から御存じだったのですか?
収 あなたのお出でになる少し前から。
弘 私があのひとと結婚したがっていると言うことも?
収 ええ。それからあのひとの母さんがそうさせたがっていると言うことも。
弘 ちょっと待って下さい。それは、また別の問題です。
収 今日、少くとも今日はそう心を決めている筈です。
弘 じゃ、あなたの気持は、もう動かないのですね。
収 ええ。
弘 若し、私がこのまま黙って帰って、二度と此処へやって来ないとしたら。
収 そしたら、みんなが不幸になるだけです、僕も含めて。何にもならないことです。誰も喜ばない。
あさ子、少し遅れて、真紀。
あさ子 何の話、面白そうね。
収 あなたの悪口さ。言われた仕返しに。
あさ子 嘘でしょう。
収 (弘に)そうですねえ。
弘 ほんとですよ。
あさ子 ううん、あなたはあたしの悪口は言わないわ。
収 あれです。あんな気でいるんだから。
真紀 さあ、御飯にしましょう。一緒に来て下さい。何も無いんですけど。
収 も少し、此処にいましょう。静かでいい。
弘 ええ、そうしましょう。まるで街ん中でないようですね。それに日が落ちたので涼しくなりましたよ。
あさ子 母さん、もう葭戸よしどを入れなくちゃ、駄目ね。
真紀 そうね。梅雨があがると、うんと暑くなるよ、きっと。
弘 入梅はいつでした?
真紀 十二日。
収 あがるのはいつです。
真紀 梅雨三十日って言うから。
あさ子 雷がなる迄よ。
真紀 此の頃は、雷が鳴ったって、なかなかあがりゃしない。
収 いろんなことが変りますね。あさ子さん、ピアノでも弾かないか。聴きたいんだって仰言ってたよ。
弘 ええ、是非一つ。
あさ子 駄目、あたし。
収 駄目だから聴きたいんだろう。巧いのなら他所よそで聴けるよ。
あさ子 自分がさきに弾けばいいでしょう。ホ短調が楽譜なしで弾けるんだから。
収 僕の後では尚更なおさら弾けなくなるよ。さあ愚図々々言ってないで。
真紀、笑い笑い拍手の形。
あさ子、真紀を打つ真似。
真紀、大袈裟に逃げる。
それでも、あさ子はやっぱりピアノの蓋をあける。
真紀 (収に)ピアノの稽古を止すんだって?
収 ――。(笑っている)
真紀 止さなくって、いいんだろう。折角、母さんに頼んであげたんじゃないの。
収 ええ、もう止さなくってもいいんです。だけど、男がピアノって、可笑しいじゃありませんか。
単調なソナティヌ。
三人ひっそり笑いながら聴いている。
めいめいがそれぞれの思いを追っていて、まるで聴いていないようででもある。
夕闇の色が濃い。
弘 (笑ったまま)奥さん、あなたは今日、(収を指さし)このひとに大変いけないことをなさいました、御存知ですか?
真紀 (これも笑ったまま)知っています。でもそうするより、他に仕方がなかったと思います。
収 (之も笑ったまま)わかってますよ。おばさん。あれはあれでよかった。大変よかった。
真紀 でも、あなたも悪かった。そうだろう。あなたも悪かったよ、ほんとに。
収 ほんとです。そのとおり。
真紀 何にも言わないでね、済んだことは。可哀想だから。
収 大丈夫ですよ、あのひとには責任の無いことです。
真紀 有難う。
収 僕は悪者じゃなかったでしょう。
弘 私には……どう言っていいのか……わからない。
収 何も仰言る必要はありませんよ。みんなが考えて、一番いいと思われる結果が自然に出て来たのですからね。(立上って)どら、僕もこれから、ひとつ体操でも始めようかな。(手を振ってみる)
あさ子 (ピアノを止めてふり返る)あら体操? 誰が体操をするの? 体操ってラジオ体操のこと?(ゆっくり眉を撫でる)あたしもしようかしらと思ってるの。
――幕――

(雑誌掲載は『劇作』昭和九年十一月、初演は昭和十三年三月)





底本:「現代日本文學大系83 森本薫・木下順二・田中千禾夫・飯沢匡集」筑摩書房
   1970(昭和45)年4月5日初版第1刷発行
   1981(昭和56)年10月30日初版第13刷
初出:「劇作」
   1934(昭和9)年11月
入力:伊藤時也
校正:松永正敏
2002年3月11日公開
2011年5月25日修正
青空文庫作成ファイル:
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