序論
飛流直下三千丈、疑是銀河落九天。
是
豈明治の思想界を形容すべき絶好の辞に
非ずや。優々閑々たる幕府時代の文学史を修めて明治の文学史に入る者
奚ぞ目眩し
心悸せざるを得んや。
文学は即ち思想の表皮なり、乞ふ思想の変遷を察せしめよ。
封建の
揺籃恍惚たりし日本は
頓に覚めたり。和漢の学問に牢せられたる人心は自由を呼吸せり。鉄の如くに固まれるものは泥の如くに解けたり。維新の始めに
方りてや、所謂智識を世界に求むるの精神は
沛乎として抑ゆべからず。天下の人心は飢渇の如く新しき思想新しき智識を追求めたり。其錦旗を
飜して東海道に下向し、山の如き関東の勢を物の数とせざりしが如き議政官に上局下局を設けて公議輿論を政治の標準とし、世界第一の民政国たる米国に擬せんとせしが如き政治的冒険の花々しく、恐ろしく、快絶奇絶なりしが如く、当時の思想界の冒険も
亦孟賁をして
後へに
瞠若たらしむる程の勢ありき。
若し明治元年より今日に至るまで日本の思想史を分ちて上中下の三となさば其上代は即ち極めて大胆なる、極めて
放恣なる、而して極めて活溌なる現象を有する時代にして、加藤弘之氏が「真政大意」を作りて人民参政の権利を以て自然の約束に
出でたりと論じ、福沢諭吉氏が西洋事情世界
国尽しの如き平民的文学を
創めて天は人の上に人を作らずと
喝破せしが如き、
将又明六社なる者が其
領袖西
周、津田
真道、森有礼等に
因りて廃刀論、廃帝論、男女同権論の如き日本歴史に
未曾有なる新議論を遠慮会釈なく
説き立てしが如き、中村敬宇先生が自助論を飜訳し耶蘇教の洗礼を受けしが如き、皆是れ前例なく
先蹤なく、前人の夢にだも思はざる所迄に向つて先づ手を附けし者なり。其勢水の堤を破りて広野を湿すが如く浩々滔々として禁ずべからず、止むべからず。千里の竜馬
槽櫪の間を脱して鉄蹄を飛風に望んで快走す、何者も其奔飛の勢を
遏止する
能はず、何物も其行く所を預想する能はず。
既にして
奔る者は疲れたり。回顧の時代は来れり。成島
柳北、栗本
鋤雲の諸先生が新聞記者として多くの読者を喜ばすに至りたるは何故ぞ。
反故の中に埋るべき運命を有せりと思はしめたる漢詩文が再び重宝がられ、朝野新聞の雑録及び花月新誌の
一瀉千里の潮頭が
忽ち月の引力に因りて旧の岸に立廻らんとせしに非ずや。英語階梯や「リードル」を携へて洋学先生の門に至りしものが更に之を
抛ちて再び漢学塾を訪ひ、古老先生の教を拝聴せしものは何故ぞ。余りに急走したる結果が大なる休息を求むるに至りたる故に非ずや。
然れども第十九世紀の大勢は後へを圧せり。疲れたりと
雖も中止すべからざるなり。
填然として之に
鼓ち兵刃既に交はるに及んでは勢勝敗を決せざるべからず。其一兵一卒の疲れたるが為めに全軍の掛引を変ずべからず。福沢諭吉氏を除きては先輩諸子の既に
殆んど倦色を著はせし当時に於て田口
卯吉氏は経済に於て自由貿易論を主張し、馬場
辰猪氏は政治上に於て自由民権を説き、中江
篤介氏は社会的に平民主義を論じ、星、大井の諸氏は法律論を唱へ、此回顧的退歩的の潮流に抗し民心を激励
鞭撻して此切所に踏み
止り、更に進歩的の方角に之を指導せんとせり。是
蓋し明治思想史の中世紀なりとす。
思想は来れり。之を表はすべき文学は
如何。蓋し心に思ふより口に言はるゝなりとは思想界に於て正当に来るべき順序にして思想は必ず
脩辞の前に来る者なり。思想ある者は必ず之を正当に言顕はすべき言語を求めずんばあらず。上来
陳べ来りしが如き新日本に生じ来れる思想は数年間之を発表すべき文学を求めつゝありしなり。而して其暗中に摸索するが如き勤労は先づ外山
正一矢田部良吉等諸氏の新躰詩と為り、「我は海軍、我敵は古今無双の英雄ぞ」と
曰ふが如き、「かせがにやならぬ男の身」といふが如き、今日より見れば随分
蕪雑なる或者はアホダラ経に似たる当時より見れば、
頗る傑作なる文学を出し、更らに矢野文雄氏の経国美談報知新聞の繋思談の如きものとなりて現はれ、シキリに現世紀の思想を顕はし、現世紀の感情を歌ふべき文躰を発見せんと努力せり。是ぞ明治思想史第三段となす
所謂「言文一致躰」と言ひ、「翻訳躰」と言ひ、「折衷派」と曰ひ、「元禄風」と曰ふが如き皆是れ脩辞上の題目にして、而して今日に至るまで未だ一致したる形式を為さゞる者なり。
斯の如く脩辞の問題盛んなると同時に美術的の文学(即ち狭義の文学)は
勃然として起り来れり。
蓋し脩辞を以て
直ちに文学の全躰なりとするものは未だ文学を解せざる者なり。脩辞は唯文学の形式なるのみ。然れども
渠ありて始めて水の通ずるが如く思想を顕はすべき形式なき間は到底精細美妙なる審美的の観念は其発達を自由にする能はざるなり。是故に美術的の文学は是非とも脩辞の発達を待ちて発達するなり。而して明治の文学も亦此通則を
免る能はずして脩辞の時代と共に美術的の文学は来れり。高壮美真の如き理想の歌はれたる恋愛学慈悲友誼、愛国の如きもの不完全にもせよ
稍精細に画かれたるは実に此時限に始まれり。波瀾層々此文運は如何になるべきか、何処に向つて奔るべき乎。過去は即ち未来の運命を指定する者なり、未来は即ち過去の影なり。
請ふ吾人をして明治文学史を観察せしめよ。
凡例三則
編述の躰裁は錯雑なり
吾人は序論に於て明治文学に三段落あることを論じたり。編述の躰裁を整へんとせば、
須らく筆を明治の初年に起し、福沢、西、中村等諸先生より論じ起すべきなり。しかも
斯の如くせんには材料未だ
具はらざる也。比較、
簡撰多少の時日を要するなり。吾人にして若し間暇あらば実に斯の如くせんことを欲す。
怨むらくは吾人の境遇之を許さゞるなり。
此に於てか吾人は先づ材料を得し所より筆を着け、随て記るし、年序を追はず、人物を論ぜず、明治文学の現象として起りたる何物をも怠らず観察して之を論評し、末に於て全般の観察をなさんと欲す。
吾人が所謂文学なる者の釈義
文章即ち事業なりとは吾人の深く信じて疑はざる所なり。事業の全躰を以て文章なりと
曰はゞ固より
誤謬なるべし。然れども文章世と相
渉らずんば言ふに足らざるなり。
北村
透谷君なる人あり。吾人が山陽論の冒頭に書きたる文章は事業なるが故に崇むべしと曰ひしをば難じたり。然れども彼は吾人を誤解せるのみ。彼は吾人を以て
夫の宗教家若しくは詩人、哲学者が
世界的と呼べるところの事業に渉らずんば無益の文章なりと曰ひたるが如く言へり。
如何なれば彼の眼
斯の如く斜視する乎。彼は自らを高くし、高、壮、美、崇、恋などいふ問題は
恰も自己独占の所有品にして吾人の如き俗物が(彼の見て以て俗物とする)関せざる所なるが如く言へり。彼は吾人を
誣ひて吾人の思はざることを思ひたるが如く言へり。
吾人が文章は事業なりと曰ひしは文章は即ち思想の活動なるが故なり、思想一たび活動すれば世に影響するが故なり。
苟も
寸毫も世に影響なからんか、言換ふれば此世を一層善くし、此世を一層幸福に進むることに於て寸功なかつせば彼は詩人にも文人にも
非るなり。若し「事業」てふ文字を以て唯見るべき事功となさんには、若し「世を渉る」てふ詞を以て物質的の世に渉ることなりせば吾人の文章は事業なりと言ひしは誤謬なるべし。然れどもキリストの事業が三年の伝業に終らざるを知らば(彼の事業は万世に亘れる精神界の事業なり)、エモルソンの言へる如く大著述家は短き伝記を有することを知らば(彼の世と渉るは書中に活きたる彼の精神に在り)、吾人が斯く言ひしは当然なることなり。
批評とは何ぞや
吾人は明治の著作及著者を批評せんとて立てり。批評とは何ぞや、
夫の中に愛憎の念を挾み、
妬評、
諛評、悪言
罵詈を
逞くし、若しくは放言高論高く自ら標し、己を尊拝して他人を卑しみ、胸中自家の主義を定めて人を上下するが如き者奚ぞ批評の消息を解せん。
透谷子又曰く
他を議せんとする時尤も多く己れの非を悟る。頃者激する所ありて生来甚だ好まざる駁撃の文を草す。草し終りて静に内省するに、人を難ずるの筆は同じく己れを難ぜんとするに似たり。是非曲直軽しく判し難し。如かず修練鍛磨して叨りに他人の非を測らざることをつとむるに。
と。吾人は彼が批評の関頭既に一歩を誤るを知れり。批評豈他人を是非する者ならんや。
吾人の批評は正しく他人を画かんと欲する
耳。伝記若し人の外観的記載といふべくんば批評は人の内観的記載のみ。
吾人が此所に之を記し置く
所以の者は夫の局量狭隘の徒、自尊卑他なる文学的「パリサイ」人が紛々
喧々たらんことを恐れて、
予め彼等が口を
塞がんが為のみ。
田口卯吉君と其著述(一)
慶応の年中中根
淑君と同じく洋書を読みし童子。駿河の沼津に於て郷校に学びし童子。江原素六氏の監督せる沼津兵学校に学びし書生。彼は
寛弘の被覆の下に多感の性情を蔵し、愚かなるが如き態度の下に数学的、組織的、解剖的の能力を秘め、
吶弁の下に天才を蓄へしが、幕府の覆滅と共に敗者の運命を蒙りたる一家の中に生れて、善く之に
堪へ、独力を以て自己の運命を開拓せり。田口卯吉なる名は早く既に明治十二三年の交に於て天下に重かりしなり。
カライル氏同じ
蘇格蘭の農詩人たるバルン氏を論ずるや曰く、蒸気機関の後に立つ
侏儒は山岳を移し得べし、然れども彼は
鋤を以て山を覆し能はざるなり、と曰ひて彼が無教育にして大文家たりしことを賞讃せり。吾人も亦田口君に於て
斯の如く言ふの権利を有す。今日に於て許多の便宜を有する人々の眼より見れば、彼は
少かの学問を有する人の如く見ゆべし。彼文字は美文的の技術に乏しきが如く見ゆべし。種々の点に於て彼は其修業の不完全なりしことを
嗤笑さるゝなるべし。彼の漢文は或は漢学者の物笑ひたるべし。彼の史論は或は考証家の
首肯せざる所なるべし。彼の専門とする経済学も、彼をして人毎に一つの癖はある者を我には許せ経済の
遠と
洒落しめたる経済学も、或は古風なる「マンチェスター」派のものなりと顧みざる者もあらん。種々の点に於ても彼は種々の欠点を見出さるゝなるべしと雖も怪しむ
勿れ、彼は多く学問し多く詮索するの機会を有せざりしなり。
人若し少なき学問を以て多く考ふることを得ば其少なき学問は
寧ろ彼の誇るべき者なり。
天下自ら運命を作れる人は皆不完全なる武器を以て大なる事を
遂げたる者なり。
乞ふ吾人をして彼の著書を細評する前に、先づ其大躰に就て一二言ふ所あらしめよ。
(一)
玲瓏なる理解力 吾人は彼に於て始めて堅硬なる思想を見るを得たり。彼は其言ふ所を明かに知れるなり、彼の脳髄は整へり。世の文学者なる者、自らは空言に非ずと信じて書くことにても、思想錯雑して前後衝突し論理的に之を
煎じ
詰れば結局空論に化して自らも之を驚く者あり。
其論文の構造は如何にも華麗にして
恰も
蜃気楼の如くなれども堅硬なる思想の上に立たざるが故に、一旦
破綻を生ずれば破落々々となり
了る者あり。甚しきに至つては、
徒らに知らぬ事を
喋々し一知半解識者をして
嘔吐を催さしむる者あり。然れども田口君の論文に至ては毫末も斯の如きの病なし。彼は事理を見るに明かなり。故に横に之を説くも
竪に之を論ずるも、如何なる攻撃に遇ふも、如何なる賞讃に遇ふも彼は動かざるを得るなり。白旗不
レ動兵営静なりとは彼が論文を形容すべき好辞なり。
田口卯吉君と其著述(二)
(二)数学的の脳髄 数学は諸学科の基本なれども久しく我学者間に軽蔑せられたりき。関新助、渋川春海、中根玄圭の如き諸大家――我国のニュートンとも
曰ふべき大科学家――も新井白石、頼山陽等の人口に
籍々たるに反対して、殆んど知られずに過ぎたりき。然れども地底の岩を音なしに流るゝ水こそ地面を
膏腴[#「腴」は底本では]にする者なり、彼れ数学者が人知らず
辛棒せし結果は我人民の推理力を養うて第十九世紀科学
跋扈の潮流に合することを
能くせしめたりき。果然経済学の唱道者は数学者の子孫より出でたり、田口君の推理力は其母方の血統なりとか聞く佐藤一斎に出でしにはあらずして其父方の血統に出でしなり。田口某君と称する彼の先考は実に数学者なりしなり。彼れは幕府天文方の吏として世に知られざる生涯を送りしかども、彼れが養ひ得たる数学的脳髄は田口君が解剖的組織的の天才となりて明治の時代に称讃せらるゝに至りぬ。
彼の脳髄が
如何計り数学的なるやは彼の書きしものが
悉く条理整然として恰も幾何学の答式を見るが如くなるに
因りて知らる。吾人は彼の統計表、計算表、相場表の如き者を捕へて之を巧みに使用し、二と二とを合するが故に四なりと云ふが如き口調を以て人を説き伏することの如何にも巧なるに驚歎す。
若し夫れ環の端なきが如く、
繚繞として一個の道理を始より終りまで繰り返へし、秩序もなく、論式もなく、冒頭もなく結論もなく、常山の蛇の首尾
尽く動くが如く、其一段、一節を切り取るも完全の意味を有し、而して其全躰を見るも其文路に段落の分つべきなきエメルソンの文の如く、植村正久氏の文の如く、寧ろ散文の詩と云ふべきものに至りては田口君の作に於て只一編だも見るべからず。彼は斯の如くなる能はざるなり、斯の如くなるを好まざるなり。
(三)何物をも
見遁さゞる
敏捷 徳富蘇峰の将来之日本を以て世に出づるや、彼れは世界の将来が生産的に傾くべきを論ずる其著述に於て、
杜甫の詩を引証し、
伽羅千代萩の文句を引証し、其「コーデーション」の意外なる所に出づるを以て世を驚かしめたりき。夫れ水上の
藁何か有らん、然れども其流るゝ方向は即ち水の方向なりとせば、一片の藁も亦意味を有するなり。読書之楽何処尋、数点梅花天地心。彼れは此中の消息を解する者なり。而して田口君は此点に於て
太だ蘇峰氏に似たり。彼は火災保険生命保険の必要を論述せんとして曲亭馬琴の夢想兵衛を引き、日本に於ける金銀価格の歴史を論ぜんとして先哲叢談に
朱舜水が日本金価廉也、中国百
二倍之
一といへるを引けり。
所謂眼光紙背に
透る者、書を読む、斯の如くにして始めて書を
活かすべし。天下の書は何人も自由に読むを得べし。然れども読者の多くは宝の山に入れども手を
空うして還れり。人は秘密を語る者なり、然れども慧眼を具する者に非んば其秘密を捉む能はざるなり。田口君が「史海」に用ふる材料は未だ
嘗て他人の用ふる材料に異ならざるなり。然れども一たび田口君の手を
歴れば新しき物となりて出で来るなり。ミダス
[#「ミダス」は底本では「シダス」]は其杖に触るゝ
総ての物を金にしたりき。田口君は其眼に触るゝ物を以て、
直に自家薬籠の中の材となす。
(四)真面目 彼は
詐らんには余り聡明なり、
胡麻化さんには余り多感なり。自ら見る明故に詐る能はざる也。良心の刺撃太だ切、故に胡麻化す能はざるなり。彼は屡々自ら胡麻化したるが如く言へり。然れども其自ら胡麻化したりと公言する
所以は即ち其正直なる所以なり。彼の文中には屡々「妻女にのろき」、「眼を皿にして」など言へる洒落たる文字あれども、
而も是れ彼が正直にして多感的なるを
掩はんとする
狡獪手段なるのみ。
試みに彼に向つて一
駁撃を試みよ。彼は必ず反駁するか冷評するか、何かせざれば止まざるなり。彼れは自家の位地を占むることに於て毫末も
仮借せざるなり、彼れは議論に負けたとか勝つたとか言ふことを
頗る気にするなり。言ふこと
勿れ、是れ彼の短所なりと。吾人を以て之を見る是れ彼れの正直なる所なり。彼れは自ら
野暮と呼ばるゝを嫌ふべし。然れども彼の斯の如くに野暮なるは即ち彼をして名利の為め、栄誉の為めに節を売らしめず、独立独行、其議論を固守して今日に至らしめし所以なり。彼をして福地源一郎氏の如く明治の大才子となりて浮名を流すに至らざらしめし所以也。
(五)自信 彼は
艱難の中に人と為り自己の力を以て世に出で、自己の創意を以て文壇に立ちたれば経験は彼に
自信を教へたり。「阿母よ榎本氏に屡々行くこと勿れ、彼れに求むるの嫌あれば」と曰ひたる蒼顔の青年は此時より既に自ら其力を信じたりき。彼れは外山正一氏の駁論に対して驚かざりしなり。外山は実に一たびは我文学界にボルテアの如き
嘲罵の
銕槌を
揮ひたりき。彼れは其学識を
衒ひて、ミル、スペンサー、ベンダム、ハックスレー、何でも御座れと並べ立てゝ
傲然たること
猶今の井上博士が仏人、独逸人、魯人、以太利人、西班牙人の名を並べて下界の無学者を笑ひ給ふが如くなりき。(井上氏に言ふ、余は山路弥吉と称す、名を隠して議論の責任を遁るゝ者に非ず)。然れども彼は外山と議論を上下して優に地歩を占めたりき。加藤弘之氏が「人権新説」を著はし優勝劣敗是天理といへる前提より、自由民権主張すべからず、政府と役人と貴族とに従順なるべしと云へる奇妙なる結論を為し得意然たりし時に彼は寸鉄人を殺す的の冷評を試みたりき。福沢諭吉氏が通貨論を著はして紙幣も貨幣も差違なきが如く、
詭弁を
逞くせし時に彼れは之を難詰して許さゞりき、彼は世の称讃する大家先生の前に瞠若たるものに非らず、彼れは自らの力を信ぜしかば、容易に他人に雷同せざりし也。
(六)精細 彼は精力過絶なりと曰ふべからず。彼れは曲亭馬琴の半ば程も精力を有せざるべし。然れども
普く辛苦して材料を
蒐聚するに至りては吾人は之に敬服せざるを得ず。「ペインステーキング」が若し文家の一特質ならば、彼はたしかに此特質を有する也。彼の統計表を作り、年表を作ることの
如何に精細なるよ。彼れ
嘗て新井白石を称讃して其概括力に加ふるに精細緻密の能あるを称讃したりき。彼は精細の点に於て実に白石氏に似たり。
(七)若し彼の短所を言へば 其自信に強きが為めに往々独断に流るゝことあり。たとへば高橋五郎氏に
胡誕妄説なりと論斥せられし「興雲興雨」の術の如き、彼れは其知らざる物理をも
軽しく論じ去れり。其一たび基督教に入つて更に之より出でしが如き、而して其霊気学を唱道せしが如き、其宗教論の如き(吾人嘗て史海の批評に於て之を指出したり)
頗る大切なる結論を容易に為せり。
独断なり故に
狭隘なり。彼は数個の原則を
捉み此を以て人事の総てを論断せんとせり。彼は何物も此原則の外に逸する能はずとせり。彼の史論が往々にして
演繹的にして
帰納的ならざるものあるは(たとへば日本開化小史、上古史の如き)之が為めなり。
田口卯吉君と其著述(三)
此脳と此腕とを持てる彼れは自由貿易論者として
顕はれたり。純粋なる
寧ろ極端なる「マンチェスター」派の経済論者として顕はれたり。自由貿易と田口卯吉氏は
恰も
賈生と治安策、ダルウヰンとダルウヰニズム(化醇論)、スペンサーと不可思議論の如く、彼れを説けば必ず是れを聯想する名となれり。彼は極端なる個人主義、放任主義、或る意味に於ての世界主義を遠慮会釈なく説き立てたり。世は彼れの為めに驚かされたり、或る者は其大胆なるに恐れたり、或る者は其議論の条理整然として敵すべからざるを恐れたり。彼れは誰れにも
推されず誰れにも戴かれずして日本の経済家となれり。其経済雑誌が世上の歓待する所となりて、書生も読み、官吏も読み、実業家も読み、羽なくして四海に飛び、競争者を圧し、反対家を倒し、声望隆々として
旭日の如き勢を呈せしは明治十五六年より同十八九年の交に在りき。
吾人は今経済雑誌に就きて評論せざるべし。然れども其
嘗て一たび世上に歓待せられたる理由は此に一言せざるべからず。
蓋し明治の初年より洋学者が世上に紹介せし経済論は大約アダム・スミスを祖述し一個人を単位とし放任主義を
旨とする旧学派なりしかば、経済学は即ち自由貿易論なりし也。而して田口君は善く此主義を捉んで之を事実に応用せり。是れ其読者を得ることの多かりし理由の一也。而して我国情も亦此主義の成長を助くる者ありき。明治の初年より政府の最も鋭意せし所は外国の文物を輸入するに在り。大久保内閣及び其継続者は政府の一面に於てこそ保守の政策を取り、言論の自由を抑へ、貴族政治を助長せしと
雖も経済の一面に於ては猶進取の政略を取り、政府万能主義の実行者にして、
頻りに勧業の事に心を用ひしかば上の好む所下之より
甚しき者ありて地方官の如きは往々民間の事業を奪ひて之を県庁の事業とし以て大官に
諂はんとする者あり。経済雑誌は
斯の如き時に於て起てり。其批評的、
破毀的の議論は善く其弊害を
鑿ちしかば天下は勢ひ之を読まざるを得ざりき。是れ其理由の二也。
田口君の著述として文学史に特筆せらるべきものは彼れの日本開化小史なり。明治政史の一大段落なる西南乱の未だ発せざる頃当時猶
孱弱なる一青年の脳髄に日本の文明史を書かばやてふ一大希望ぞ起りける。彼れは大胆にも其事業に取り掛かれり、而して間もなく日本開化小史世に出でたり。記憶せよ、此有味なる、其模型に於て新しき、歴史は実に斯の如くにして出たりき。
吾人は日本開化小史に就て幾多の欠点を見たり。而れども是れが青年田口の作なりしことを思ひ、吾人が猶田舎に於て
紙鳶を飛ばし、
独楽を
翫びつゝありし時に於て作られし著述なることを思へば非難の情は愛翫の情に打勝れざるを得ず。而して是れが今の「史海」の作者田口君の筆に因つて書かれしものなることを思へば田口君の才の寧ろ早熟にして、
爾来大なる変化なく古の田口は猶今の田口の如くなるに驚かざるを得ず。人の才は猶鉄の如し、鍛錬一たび成れば
終に変ずべからざる乎。
抑亦修養の
工夫一簀に欠かれて半途にして進歩を中挫せしか。或は「十で神童、十五で才子、二十になれば並の人」てふ進むも早く退くも早き日本人の特性は田口君も例外たる能はざる乎。
吾人は嘗て思へり、日本開化小史の最も優れたる所は其思想の発達と物質的の進歩とを観察せし点に在り、日本開化小史巻の四に於て日本文学の変遷を序述し、上宮太子の憲法十七条より説起し平安朝の四六文を評論し、進んで和文世に出でゝ言語と文章の
漸く親密に
近きし事情を叙する所、鋭敏なる観察力は火の如く
耀けり。其王朝文学より鎌倉文学に至るまでの結論に曰く、
王政柔弱に帰し学士を保護する能はざるに至りて我国の文学漸く独立の萌を得、其将さに傾覆せんとするに至つて始めて見るべきの書あり。
と鉄案断乎として
易ふべからず、爾来十余年日本文学史を書くもの(たとへば三上、高津二学士の如き)多しと雖も未だ此の如き
精覈なる批評眼を見る能はざるなり。而して物質的の進歩に注意せしは経済学者たる彼の特質固より斯の如くなるべき也。
田口鼎軒先生に対して
愛山生
君を指してマンチェスター派と曰ひたるは君が自由貿易を主張し、保険事業を以て政府に属すべからずとなし、国を建つるの価は幾何ぞと論じ、個人主義世界主義を唱へられしが為也。されど余は此事に就きて極々の素人なれば君が果してマクレオッドやらバスチヤやらそんな事は存ぜぬなり。斯る詳細の系統は専門家たる君の命に従はん。余が君を以て天文方の子なりとせしこと、君が母氏の榎本氏に行ことを否みたりと云ふ二事は余が静岡に在りし頃家大人の談話に聞きたり、故に信じて書けり。しかれども君自ら間違なりと曰はるれば間違に間違なかるべし。君の漢文が御上手にや御下手にや余亦素人也何ぞ解せん。しかし是は或る老先生が田口も善いが其漢文には閉口すると云ひたりとか云ふ評判なれば其儘掲げたる耳。余自身には御立派な御文章のやうに拝見仕候也。
田口卯吉君と其著述(四)
田口君の史論に関し大欠点と覚ゆるは彼れの人物に重きを置かざることなり。彼れの史論は余りに因果づくめなり。
斯うすれば斯うなる者、
斯る場合には斯る現象を生ずと
予め人事を推断して、而して史を評する者なり。若き男女を一室に置けば時として恋話を生ずべし、
然れども亦生ぜざることもあるべし、人間の万事唯一の常感を以て論ずべくんば、此世は実に動かすべからざる宿命の支配する所也。然れども人類は斯の如き者に
非るなり、英雄の行為は時として尋常の外に飛び出づることあり、時勢は人を作る者なれども、人も亦時勢を作る者也。歴史家の眼中は決して人物を脱すべからざる也。
田口君固より人物を論ぜざるに非ず、然れども不幸にして田口君の著す所の人物は平凡の人物なり、彼れの筆は英雄を写し出す能はざる也。彼れは人物に向つて同感の情少なき也。史上の人物に対して敬畏崇拝の念を生ずる如きは田口君に於ては蓋しなき所也。熱情は或は人をして判断を過らしむることあるべし、然れども熱情ある人に非れば
活きたる人物を写し出すこと能はざる也。史海にも、日本開化小史にも吾人は君が英雄崇拝の
迹を見るを得ざる也。
人物論は論理学の為し能ふ所に非る也、論理学を以て人物を論ぜんとせば直ちに人物を破毀すべきのみ。人を知るの最もなる道は直覚なり、同感なり、詩人的の識認なり、不幸にして彼れは之を欠けり。
福沢諭吉君及び其著述(一)
田口君に就きて猶言ふべきこと多けれども、そは他日機会を見て
此処に
掲ぐべし、乞ふ吾人をして眼を明治文学史の巨人なる福沢諭吉君に転ぜしめよ。
明治五年二月より明治十年十月まで学問ノ
勧メ発売高合して五十九万八百四十六部、彼れが明治の開化史に於て偉大なる影響を及ぼしたるや知るべきのみ。彼れは実に無冠の王なりき。英雄の事業一成し一敗す、維新の大立者たる西郷隆盛は城山の露と消え残るは
傷夷と国債とのみ。松菊、甲東
空しく墓中に眠りて、而して門下の故吏
徒らに栄ふ。而して此間に
方りて白眼天下を
睥睨せる
布衣の学者は日本の人心を改造したり、少くとも日本人の中に福沢宗と
曰ふべき一党を形造れり。
才子論
読者の恕を乞ふ、吾人は福沢君を論ずる前に先づ才子論を試むべし。
人品を拝まずして衣裳を拝むは人類の通癖なり。
世の人物を論ずる者、官爵を以て論じ、位階を以て論じ、学位を以て論ずるが如きは固より言ふにも足らぬ者也。而して彼の学問を以て人を論ずる者の如きも亦多くは衣裳を拝むの類なるを如何せん。
天下の人、指を学者に屈すれば必ず井上哲次郎君を称し、必ず高橋五郎君を称す。吾人は幸にして国民之友紙上に於て二君の論争を拝見するを得たり。井上君
拉甸語、伊太利亜語、
以斯班牙語を引証せらるれば高橋君一々其出処を論ぜらる。無学の
拙者共には御両君の博学あり/\と見えて何とも申上様なし。去りながら博学畢竟拝むべき者なりや否や。
若しもシェーキスピーアを読まずんば戯曲の消息を解すべからずとせばシェーキスピアは何を読んでもシェーキスピアたりしや。若しも外国に通ぜずんば大文豪たる
能はずんば、未だ外交の開けざる国に生れたる文家は三文の価値なき者なりや否や。二君の博学は感服の至りなれども博学だけにては余り難
レ有くもなし、
勿論こはくもなし、然るに奇なるかな世人は此博学の人々を学者なりとてエラク思ひ、学問は二の町なれど智慧才覚ある者を才子と称して賞讃の中に
貶す。是豈衣裳を拝んで人品を忘るゝ者に非ずや。
才子なるかな、才子なるかな、吾人は真の才子に
与する者也。
吾人の
所謂才子とは何ぞや。
智慧を有する人也。智慧とは何ぞや、内より発する者也、外より来る者に非る也。事物の真に達する者なり、其表面を
瞥見するに止る者に非る也。自己の者也、他人の者に非る也。智慧を有する人に非んば世を動かす能はざる也、智慧を有する人に非んば人を教ふる能はざる也。更に之を
詳に曰へば智慧とは実地と理想とを合する者なり、経験と学問とを結ぶ者なり、坐して言ふべく
起つて行ふべき者なり。之なくんば尊ぶに足らざる也。
吾人の人を評する唯正に彼の智慧
如何と尋ぬべきのみ。たとひ深遠なる哲理を論ずるも、彼れの哲理に非ずして、書籍上の哲理ならば、何ぞ深く敬するに足らんや。たとひ美を論じ高を説くも其人にして美を愛し、高を愛するに非んば何ぞ一顧を価せんや。自ら得る所なくして
漫りに人の言を借る、彼れの議論
奚ぞ光焔あり精采あるを得んや。博士、学士雲の如くにして、其言聴くに足る者少なきは何ぞや。是れ其学自得する所なく、中より発せざれば也。彼等が唯物論として之を説くのみ、未だ
嘗て自ら之を身に躰せざる也。故に唯物論者の経験すべき苦痛、
寂寥、失望を味はざる也。彼等が憲法を説くや亦唯憲法として之を説くのみ、未だ嘗て憲法国の民として之を論ぜざる也、故に其言人の同感を引くに足らざるなり。彼等の議論は彼等の経験より来らざる也、彼等の智識は彼等の物とはならざる也。
明治の文学史は我所謂才子に負ふ所多くして彼の学者先生は
却つて為す所なきは之が為なり。
事実の中に活くる者
吾人をして福沢翁に返らしめよ。吾人は彼れの事実の中に
棲む人なるを知る。
翁の書を読みもて行けば
恰も翁に伴うて明治歴史の旅行を為すが如し、漢語まじりの難解文を作り
臂を振つて威張りし愚人も、チョン
髷を戴きて頑固な理屈を言ひ、旧幕時代を慕つて明治の文明を
悪む時勢
後れの老人も、若しくは
算盤を携へて、開港場に奔走する商人も、市場、田舎、店舗、学校、
渾ての光景は我眼前に
躍如として恰も写真の如くに映ず。翁は真個に事実中に
活くるの人也。嗚呼是れ古今文学上の英傑に欠くべからざる一特質なり。時世を教へ、時勢を動かすの人は皆是れ、時勢を解するの人也。
福沢諭吉君及び其著述(二)
曰く学問の勧め、曰く文明論概略、曰く民間経済論、曰く時事小言、福沢君の著述が
如何計り世間を動かしたるよ。吾人の郷里に在るや、
嘗て君の世界国尽しを読んで始めて世界の大勢を知りたりき。「天は人の上に人を造らず」の一語が如何に深く日本青年の脳裏に喰込みしよ。楠公の忠節は権助の首くゝりの如してふ議論が如何に世論を
沸騰せしめしよ。而して慶応義塾派の一隊が如何計り社会に勢力たりしよ。
毀誉褒貶の極めて多きは其人の尋常ならざるを証する者也。「ホラを福沢、嘘を諭吉」てふ嘲罵が彼れの上に蒙りしより以来今日に至るまで或は大俗人の如く、或は自利一辺の小人の如く、或は大山師の如く、種々様々の論評は彼に向けられしかども、槲樹は痩地にも根を深くし、雨にも風にも恐れずして漸く天を突くの勢を為せり。一是一非の間に彼れは発達して明治の大家となれり、中村敬宇氏が元老院に死し、西周、神田孝平の諸先生が音も香もなくなりし時代に於て、言換れば明治の文運が新時代を生じたる今日に於て彼れは猶文界の巨人として残れり。時事新報は今日も猶彼れの議論を掲げて天下に紹介せり。彼れの論ずる所は
雑駁にせよ、
堅硬を欠くにせよ、其混々たる脳の泉は今日に至るまで猶流れて
涸るゝことをなし。是豈驚異すべきに非ずや。
吾人の彼れに敬服する所は彼れが
何処までも「平民」として世に立てること是也。彼れは真個にミストル・フクザハを以て満足する者也。彼れは自ら其職分を知れり、自ら其技能を知れり。彼れは衣貌を以て、官爵を以て人に誇る者に在らず、自己の品位は即ち自己に在ることを知れり。彼れは斯くの如くにして世を渡れり、斯くの如くにして自ら律し、併せて世を教へたり。明治の時代に平民的模範を与へたる者、己の生涯を以て平民主義を解釈したる者は彼れに
非ずして何ぞや。
而して吾人の彼れに敬服する第二の点は其事務家的能力是也。
所謂幹事の才なる者は蓋し彼に於て始めて見るべし。之を聞く彼れの時事新報を書くや
些少の誤字をも注意して更正すること
太だ綿密なりと。吾人は嘗て彼の原稿なるものを見しことあり、其
改刪の処は必ず墨黒々と
塗抹して
刪りたる字躰の毫も見えざる様にし、絶えて尋常書生の
粗鹵なるが如くならず。
嗚呼是れ彼れが成功の大原因に非ずや。彼れは何事にも真面目なり。其軽妙婉転たる文章も
本是れ百錬千鍛の裏に出で来る也。誠実なる人也。其眼に一種の威厳ありて其口の一字を書せるが如く締りたるは明かに彼れの人物を示せる者也。
文学者としての福沢諭吉君
(一)平民的文学 学問の勧めが世の中に歓迎せらるゝ頃は文学は平民的ならざる
可らずてふ思想は一般の風潮なりしが如し。明六社中の論文も、岸田吟香氏の新聞も東京日々新聞の如きも皆
殆んど言文一致の躰裁を以て書かれたり。「ナント熊公堂だへ「時に旧平さんと云へるが如き冒頭を以て誰れにも読まるゝ如く書かれたる者多かりき。此点に於ては当時の識者は今日の文人に
勝れりと曰ふべし。文は達意を旨とする者也。最も簡易にして誰れにも通ずるを善しとすとは当時に於て何人も首肯する所なりき。
而して福沢氏の文章は当時より今日に至るまで毫も其躰裁を改めず、何人にも解し易きのみならず、読み去りて一種の味あり。極めて俗なれども
厭くことなく、人をして覚えず巻を終へしむ。
夫の蓮如の「御文章」は彼れが理想の文学なりと聞きつれども彼れの文は単に文のみとして論ずるも蓮如に勝ること数等也と云ふべし。
(二)自得する所あり 彼れが文章に
斯の如く一種の味ある
所以は何ぞや。彼れは其語る所に於て自得する所あれば也。彼れは固より深遠なる哲学を有せざるべし。天地の
表彰を通じて神霊を見るが如き
超越的の直覚を有せざるべしと
雖も、彼れはたしかに人生てふ経験を有せり。彼れは社会、政治、経済、人情を貫通する数条の道理を理会せり。故に之を語るや、即ち自家嚢中の物を出すなり。彼れは飜訳的に語らざる也、代言的に語らざる也、直ちに自家の
胸臆を語る、故に其言自ら快聴すべき也。
福沢諭吉君
彼の
天職
鳬短く鶴長し、柳は緑、花は紅、人豈吾と同じうすべけんや。此星の栄は彼の星の栄に異なり。福沢君の天職は日本の人心に実際的応用的の処世術を教ふるに在り。
怜悧なる商人を作り、
敏捷なる官吏を作り、寛厚にして利に
聡き地主を造るに在り。彼は常に地上を歩めり、彼れは常に尋常人の行く所を行けり。彼は常に平直なる日本人民の模範を作らんとなしつゝあり。
封建破れて、昨夢未だ覚めず。新しき世界に古き精神を
逗めたる明治の初年に
方りては、彼の喝破せし此主義が如何に開化党に歓迎せられて守旧党に驚愕せられたるよ。彼は一方には神の如く一方には悪魔の如く眺められたる者は之に因るのみ。然れども
駸々たる時勢の潮流は日々に彼れの党派を加へ来りて、天下の幾分は殆んど福沢的に化するに至れり。彼れは其天職を
畢へしなり。
彼れは党派の首領のみ、国民の嚮導者には非らず
然れども彼れは一党派の首領のみ、国民の
嚮導者には非る也。何となれば、彼れは其一身に於て日本国民が要求する
渾ての者を代表せざれば也。請ふ見よ、彼れの弟子等が往々にして唯物的(哲学に於てに非ず、実行に於て也)に流るゝを、福沢流の才子と称せらるゝ人物が
稍もすれば唯生活を善くするの一事を以て其最終の目的となすことを。
人
若し金を積んで郷里に居り、時に金を散じて人を恵み、橋を架し、道を作り、小恵小善を行ふを以て足れりとせば、福沢君は実に天下最第一の師たらん。然れども世は唯小善の人を以て治むべからず、尋常平凡の人物より成立ちし共和政治は最も
卑陋なる者なり。是故に世は英雄崇拝を要す。而して福沢君は之を教へざる也。人は唯善く生活するを以て満足する者に非ず、人の心の深き所には
袍に満足せざるものを有す、是故に世は宗教を要す、此故に哲学を要す、而して福沢君は之を教へざる也、是皆天下の最大要求也。而して彼れは冷眼に之を見たり。是れ彼れが一派の餓鬼大将(
請ふ語の不敬を許せ、猶君が所謂楠公権助のごときのみ、
悪しき意味あるに非る也)たるに止りて、国民の大師たる能はざる所以也。
吾人をして正直に
曰はしめば、世若し福沢君の説教をのみ聞きたらんには、此世に棲息するに足らざる者也。彼れの宗教は詮じ来れば処世の一術に過ぎず。
印度の古先生が王位を棄て、妻子と絶ちて、樹下石上に露宿しながら伝へたる寂滅の大道も、己れの生血を以て印したる
基督の福音も、
凡そ天下の偉人、豪傑が生命を賭して買ひたる真理も、吾人は之を
粟米麻糸と同じく唯生活する為の具として見ざるべからず。「天は人の上に人を作らず」てふ訓言は真理の一辺にせよ、之れが為めに最も高き人品は吾人の崇拝すべきものなり。最も偉大なる模範は吾人の畏敬すべきものなりてふ真理の他の一辺を忘却したらんには、吾人は常に碌々たる小人と伍せざるべからず。松島、宮島の美景は美なるが故に保存すべしと説かずして、日本の地は天然の美景に富むが故に、
宜しく世界の楽園となして、外人の金嚢を振はしむべしと説くに至つては、是れ天然の恩恵なる清風明月も亦
造鉄術の材料たるのみ。
斯の如きの
逼仄なる天地、是豈人類の生活し得べき所ならんや。
幸にして世は福沢君の弟子のみに非ず、此世は猶未だ全く唯物的、懐疑的、冷笑的の世界に変ぜざる也。
(明治二十六年三月一日―五月七日)