舎衛城は人口の多い都である。が、城の面積は人口の多い割に広くはない。従ってまた
厠溷も多くはない。城中の人々はそのためにたいていはわざわざ城外へ出、大小便をすることに
定めている。ただ
波羅門や
刹帝利だけは便器の中に用を足し、特に足を労することをしない。しかしこの便器の中の
糞尿もどうにか
始末をつけなければならぬ。その始末をつけるのが
除糞人と呼ばれる人々である。
もう髪の黄ばみかけた
尼提はこう言う除糞人の一人である。舎衛城の中でも最も貧しい、同時に最も心身の
清浄に縁の遠い人々の一人である。
ある日の午後、尼提はいつものように
諸家の糞尿を大きい
瓦器の中に集め、そのまた瓦器を背に負ったまま、いろいろの店の
軒を並べた、狭苦しい路を歩いていた。すると向うから歩いて来たのは鉢を持った一人の
沙門である。尼提はこの沙門を見るが早いか、これは大変な人に出会ったと思った。沙門はちょっと見たところでは当り前の人と変りはない。が、その
眉間の
白毫や
青紺色の目を知っているものには確かに
祇園精舎にいる
釈迦如来に違いなかったからである。
釈迦如来は勿論
三界六道の
教主、
十方最勝、
光明無礙、
億々衆生平等引導の
能化である。けれどもその何ものたるかは尼提の知っているところではない。ただ彼の知っているのはこの舎衛国の
波斯匿王さえ如来の前には臣下のように
礼拝すると言うことだけである。あるいはまた名高い
給孤独長者も
祇園精舎を造るために
祇陀童子の
園苑を買った時には
黄金を地に
布いたと言うことだけである。
尼提はこう言う
如来の前に
糞器を
背負った彼自身を
羞じ、万が一にも無礼のないように
倉皇と
他の
路へ曲ってしまった。
しかし如来はその前に尼提の姿を見つけていた。のみならず彼が他の路へ曲って行った動機をも見つけていた。その動機が思わず如来の
頬に微笑を
漂わさせたのは勿論である。微笑を?――いや、必ずしも「微笑を」ではない。
無智愚昧の
衆生に対する、海よりも深い
憐憫の情はその
青紺色の目の中にも
一滴の涙さえ浮べさせたのである。こう言う大慈悲心を動かした如来はたちまち平生の
神通力により、この年をとった
除糞人をも
弟子の
数に加えようと決心した。
尼提の今度曲ったのもやはり前のように狭い路である。彼は
後を振り返って如来の来ないのを確かめた上、始めてほっと
一息した。如来は
摩迦陀国の王子であり、如来の弟子たちもたいていは身分の高い人々である。
罪業の深い彼などは
妄りに
咫尺することを避けなければならぬ。しかし今は幸いにも無事に如来の目を
晦ませ、――尼提ははっとして立ちどまった。如来はいつか彼の向うに威厳のある
微笑を浮べたまま、
安庠とこちらへ歩いている。
尼提は糞器の重いのを
厭わず、もう一度他の路へ曲って行った。如来が彼の面前へ姿を現したのは
不可思議である。が、あるいは一刻も早く
祇園精舎へ帰るためにぬけ道か何かしたのかも知れない。彼は今度も
咄嗟の
間に如来の
金身に近づかずにすんだ。それだけはせめてもの仕合せである。けれども尼提はこう思った時、また如来の向うから歩いて来るのに
喫驚した。
三度目に尼提の曲った路にも如来は悠々と歩いている。
四たび目に尼提の曲った道にも如来は
獅子王のように歩いている。
五たび目に尼提の曲った路にも、――尼提は狭い路を
七たび曲り、七たびとも如来の歩いて来るのに出会った。殊に七たび目に曲ったのはもう逃げ道のない
袋路である。如来は彼の
狼狽するのを見ると、路のまん中に
佇んだなり、
徐ろに彼をさし招いた。「その
指繊長にして、爪は
赤銅のごとく、
掌は
蓮華に似たる」手を挙げて「恐れるな」と言う意味を示したのである。が、尼提はいよいよ驚き、とうとう
瓦器をとり落した。
「まことに恐れ入りますが、どうかここをお通し下さいまし。」
進退共に
窮まった尼提は
糞汁の中に
跪いたまま、こう如来に歎願した。しかし如来は
不相変威厳のある微笑を
湛えながら、静かに彼の顔を
見下している。
「
尼提よ、お前もわたしのように
出家せぬか!」
如来が
雷音に呼びかけた時、尼提は
途方に暮れた余り、
合掌して如来を見上げていた。
「わたくしは
賤しいものでございまする。とうていあなた様のお
弟子たちなどと
御一しょにおることは出来ませぬ。」
「いやいや、
仏法の貴賤を分たぬのはたとえば
猛火の大小
好悪を焼き尽してしまうのと変りはない。……」
それから、――それから如来の
偈を説いたことは
経文に書いてある通りである。
半月ばかりたった
後、
祇園精舎に参った
給孤独長者は竹や
芭蕉の中の
路を尼提が一人歩いて来るのに出会った。彼の姿は
仏弟子になっても、余り
除糞人だった時と変っていない。が、彼の頭だけはとうに髪の毛を落している。尼提は長者の来るのを見ると、路ばたに立ちどまって
合掌した。
「尼提よ。お前は仕合せものだ。一たび如来のお
弟子となれば、永久に
生死を躍り越えて
常寂光土に遊ぶことが出来るぞ。」
尼提はこう言う長者の言葉にいよいよ
慇懃に返事をした。
「長者よ。それはわたくしが悪かった
訣ではございませぬ。ただどの路へ曲っても、必ずその路へお
出になった
如来がお悪かったのでございまする。」
しかし尼提は
経文によれば、一心に
聴法をつづけた
後、ついに
初果を得たと言うことである。
(大正十四年八月十三日)