天王寺の
別当、
道命阿闍梨は、ひとりそっと床をぬけ出すと、
経机の前へにじりよって、その上に乗っている
法華経八の
巻を
灯の下に繰りひろげた。
切り燈台の火は、花のような
丁字をむすびながら、
明く
螺鈿の経机を照らしている。耳にはいるのは
几帳の向うに横になっている
和泉式部の寝息であろう。春の夜の
曹司はただしんかんと更け渡って、そのほかには
鼠の啼く声さえも聞えない。
阿闍梨は、白地の錦の
縁をとった
円座の上に座をしめながら、式部の眼のさめるのを
憚るように、
中音で静かに法華経を
誦しはじめた。
これが、この男の日頃からの習慣である。身は、
傅の
大納言藤原道綱の子と生れて、
天台座主慈恵大僧正の
弟子となったが、
三業も
修せず、
五戒も持した事はない。いや
寧ろ「
天が
下のいろごのみ」と云う、Dandy の階級に属するような、生活さえもつづけている。が、不思議にも、そう云う生活のあい間には、必ずひとり法華経を
読誦する。しかも阿闍梨自身は、少しもそれを
矛盾だと思っていないらしい。
現に
今日、和泉式部を訪れたのも、
験者として来たのでは、勿論ない。ただこの
好女の数の多い情人の一人として
春宵のつれづれを慰めるために忍んで来た。――それが、まだ
一番鶏も鳴かないのに、こっそり床をぬけ出して、酒臭い
唇に、
一切衆生皆成仏道の妙経を読誦しようとするのである。……
阿闍梨は
褊袗の襟を正して、専念に経を読んだ。
それが、どのくらいつづいたかわからない。が、暫くすると、切り燈台の火が、いつの間にか、少しずつ暗くなり出したのに気がついた。
焔の先が青くなって、光がだんだん薄れて来る。と思うと、
丁字のまわりが
煤のたまったように黒み出して、追々に火の形が糸ほどに細ってしまう。阿闍梨は、気にして二三度燈心をかき立てた。けれども、暗くなる事は、依然として変りがない。
そればかりか、ふと気がつくと、
灯の暗くなるのに従って、切り燈台の向うの空気が
一所だけ濃くなって、それが次第に、影のような人の形になって来る。阿闍梨は、思わず
読経の声を断った。――
「誰じゃ。」
すると、声に応じて、その影からぼやけた返事が伝って来た。
「おゆるされ。これは、五条西の
洞院のほとりに住む
翁でござる。」
阿闍梨は、身を
稍後へすべらせながら
眸を
凝らして、じっとその翁を見た。翁は
経机の向うに白の
水干の袖を掻き合せて、
仔細らしく坐っている。
朦朧とはしながらも、
烏帽子の紐を長くむすび下げた物ごしは
満更狐狸の
変化とも思われない。殊に黄色い紙を張った扇を持っているのが、
灯の暗いにも関らず
気高くはっきりと眺められた。
「
翁とは何の翁じゃ。」
「おう、翁とばかりでは
御合点まいるまい。ありようは、五条の
道祖神でござる。」
「その道祖神が、何としてこれへ見えた。」
「御経を
承わり申した嬉しさに、せめて
一語なりとも御礼申そうとて、
罷り
出たのでござる。」
阿闍梨は不審らしく眉をよせた。
「
道命が法華経を読み奉るのは、常の事じゃ。今宵に限った事ではない。」
「されば。」
道祖神は、ちょいと語を切って、
種々たる
黄髪の頭を、
懶げに傾けながら
不相変呟くような、かすかな声で、
「清くて読み奉らるる時には、
上は
梵天帝釈より
下は
恒河沙の諸仏菩薩まで、
悉く
聴聞せらるるものでござる。よって翁は
下賤の悲しさに、
御身近うまいる事もかない申さぬ。今宵は――」と云いかけながら、急に皮肉な調子になって、「今宵は、
御行水も遊ばされず、且つ
女人の肌に触れられての
御誦経でござれば、
諸々の仏神も不浄を
忌んで、このあたりへは
現ぜられぬげに見え申した。されば、翁も心安う
見参に入り、聴聞の御礼申そう便宜を、得たのでござる。」
「何とな。」
道命阿闍梨は、不機嫌らしく声をとがらせた。
道祖神は、それにも気のつかない
容子で、
「されば、
恵心の
御房も、念仏読経
四威儀を破る事なかれと仰せられた。翁の
果報は、やがて御房の
堕獄の悪趣と思召され、
向後は……」
「黙れ。」
阿闍梨は、
手頸にかけた水晶の念珠をまさぐりながら、鋭く翁の顔を
一眄した。
「不肖ながら道命は、あらゆる経文論釈に
眼を曝した。
凡百の
戒行徳目も修せなんだものはない。その
方づれの申す事に気がつかぬうつけと思うか。」――が、
道祖神は答えない。切り燈台のかげに
蹲ったまま、じっと頭を垂れて、阿闍梨の
語を、聞きすましているようである。
「よう聞けよ。
生死即涅槃と云い、
煩悩即菩提と云うは、悉く
己が身の
仏性を観ずると云う
意じゃ。己が肉身は、三身即一の
本覚如来、煩悩
業苦の三道は、
法身般若外脱の三徳、
娑婆世界は
常寂光土にひとしい。道命は無戒の
比丘じゃが、既に
三観三諦即一心の
醍醐味を
味得した。よって、
和泉式部も、道命が
眼には
麻耶夫人じゃ。
男女の交会も
万善の
功徳じゃ。われらが寝所には、
久遠本地の諸法、
無作法身の諸仏等、悉く
影顕し給うぞよ。されば、道命が住所は
霊鷲宝土じゃ。その方づれ如き、
小乗臭糞の持戒者が、
妄に足を
容るべきの仏国でない。」
こう云って阿闍梨は
容をあらためると、水晶の念珠を振って、
苦々しげに叱りつけた。
「
業畜、急々に
退き居ろう。」
すると、
翁は、黄いろい紙の扇を開いて、顔をさしかくすように思われたが、見る見る、影が薄くなって、
蛍ほどになった切り燈台の火と共に、消えるともなく、ふっと消える――と、遠くでかすかながら、勇ましい
一番鶏の声がした。
「春はあけぼの、ようよう白くなりゆく」時が来たのである。
(大正五年十二月十三日)