僕は
鵠沼の
東屋の二階にぢつと
仰向けに寝ころんでゐた。その又僕の枕もとには
妻と
伯母とが差向ひに庭の向うの海を見てゐた。僕は目をつぶつたまま、「今に雨がふるぞ」と言つた。妻や
伯母はとり合はなかつた。殊に妻は「このお天気に」と言つた。しかし二分とたたないうちに珍らしい
大雨になつてしまつた。
×
僕は全然人かげのない松の中の
路を散歩してゐた。僕の前には白犬が一匹、尻を振り振り歩いて行つた。僕はその犬の
睾丸を見、薄赤い色に冷たさを感じた。犬はその路の曲り
角へ来ると、急に僕をふり返つた。それから確かににやりと笑つた。
×
僕は路ばたの砂の中に
雨蛙が一匹もがいてゐるのを見つけた。その時あいつは自動車が来たら、どうするつもりだらうと考へた。しかしそこは自動車などのはひる筈のない小みちだつた。しかし僕は不安になり、路ばたに茂つた草の中へ杖の先で雨蛙をはね飛ばした。
×
僕は
風向きに従つて
一様に曲つた松の中に白い洋館のあるのを見つけた。すると洋館も
歪んでゐた。僕は僕の目のせゐだと思つた。しかし何度見直しても、やはり洋館は
歪んでゐた。これは
不気味でならなかつた。
×
僕は
風呂へはひりに行つた。
彼是午後の十一時だつた。風呂場の流しには青年が
一人、
手拭を使はずに顔を洗つてゐた。それは毛を抜いた

のやうに
痩せ衰へた青年だつた。僕は急に不快になり、僕の部屋へ引返した。すると僕の部屋の中に腹巻が一つぬいであつた。僕は驚いて帯をといて見たら、やはり僕の腹巻だつた。(以上
東屋にゐるうち)
×
僕は夢を見てゐるうちはふだんの通りの僕である。ゆうべ(七月十九日)は
佐佐木茂索君と馬車に乗つて歩きながら、
麦藁帽をかぶつた
馭者に
北京の物価などを尋ねてゐた。しかしはつきり目がさめてから二十分ばかりたつうちにいつか憂鬱になつてしまふ。唯灰色の
天幕の
裂け目から明るい風景が見えるやうに時々ふだんの心もちになる。どうも僕は頭からじりじり参つて来るのらしい。
×
僕はやはり散歩してゐるうちに白い水着を着た子供に
遇つた。子供は小さい竹の皮を兎のやうに耳につけてゐた。僕は五六間離れてゐるうちから、その鋭い竹の皮の先が妙に恐しくてならなかつた。その恐怖は子供とすれ違つた
後も、
暫くの
間はつづいてゐた。
×
僕はぼんやり煙草を吸ひながら、不快なことばかり考へてゐた。僕の前の次の
間にはここへ来て
雇つた女中が
一人、こちらへは背中を見せたまま、おむつを畳んでゐるらしかつた。僕はふと「そのおむつには毛虫がたかつてゐるぞ」と言つた。どうしてそんなことを言つたかは僕自身にもわからなかつた。すると女中は
頓狂な調子で「あら、ほんたうにたかつてゐる」と言つた。
×
僕はバタの
罐をあけながら、
軽井沢の夏を思ひ出した。その
拍子に
頸すぢがちくりとした。僕は驚いてふり返つた。すると軽井沢に
沢山ゐる
馬蝿が一匹飛んで行つた。それもこのあたりの馬蝿ではない。
丁度軽井沢の馬蝿のやうに緑色の目をした馬蝿だつた。
×
僕はこの頃空の曇つた、風の強い日ほど恐しいものはない。あたりの風景は敵意を持つてぢりぢり僕に迫るやうな気がする。その癖前に恐しかつた犬や
神鳴は
何ともない。僕はをととひ(七月十八日)も二三匹の犬が
吠え立てる中を歩いて行つた。しかし松風が高まり出すと、昼でも頭から
蒲団をかぶるか、妻のゐる次の
間へ避難してしまふ。
×
僕はひとり散歩してゐるうちに歯医者の
札を出した家を見つけた。が、二三日たつた
後、妻とそこを通つて見ると、そんな家は見えなかつた。僕は「確かにあつた」と言ひ、妻は「確かになかつた」と言つた。それから妻の母に尋ねて見た。するとやはり「ありません」と言つた。しかし僕はどうしても、確かにあつたと思つてゐる。その札は齒と本字を書き、イシヤと
片仮名を書いてあつたから、珍らしいだけでも見違へではない。(以上家を借りてから)
(一五・七・二〇)〔遺稿〕