僕は一体冬はすきだから十一月十二月皆好きだ。好きといふのは、東京にゐると十二月頃の自然もいいし、また町の
容子もいい。自然の方のいいといふのは、かういふ風に僕は郊外に住んでゐるから
余計そんな感じがするのだが、十一月の
末から十二月の初めにかけて、夜
晩く外からなんど帰つて来ると、かう
何ともしれぬ物の
臭が立ち
籠めてゐる。それは
落葉のにほひだか、霧のにほひだか、花の枯れるにほひだか、果実の
腐れるにほひだか、何んだかわからないが、まあいいにほひがするのだ。そして寝て起きると
木の
間が
透いてゐる。葉が落ち散つたあとの木の間が
朗かに
明くなつてゐる。それに
此処らは
百舌鳥がくる。
鵯がくる。たまに
鶺鴒がくることもある。
田端の
音無川のあたりには冬になると
何時も
鶺鴒が来てゐる。それがこの庭までやつてくるのだ。夏のやうに
白鷺が空をかすめて飛ばないのは
物足りないけれども、それだけのつぐなひは十分あるやうな気がする。
町はだんだん暮近くなつてくると
何処か物々しくなつてくる。ざわめいてくる。あすこが
一寸愉快だ。ざわめいて来て愉快になるといふことは、
酸漿提灯がついてゐたり楽隊がゐたりするのも
賑かでいいけれども、僕には、それが賑かなだけにさういふ時は暗い寂しい町が
余計眼につくのがいい。たとへば
須田町の通りが非常に賑かだけれど、
一寸梶町青物市場の方へ
曲るとあすこは暗くて静かだ。さういふ処を何かの
拍子で歩いてゐると、「
鍋焼だとか「火事」だとかいふ俳句の季題を思ひ出す。ことに
極くおしつまつて、もう
門松がたつてゐるさういふ町を歩いてゐると、ちよつと
久保田万太郎君の小説のなかを歩いてゐるやうな気持でいい気持だ。
十二月は僕は
何時でも東京にゐて、その
外の場処といつたら
京都とか
奈良とかいふ
甚だ平凡な処しかしらないんだけども、京都へ初めて
往つた時は十二月で、その時分は、
七条の停車場も今より小さかつたし、
烏丸の
通だの
四条の
通だのがずつと今より
狭かつた。でさういふ古ぼけた京都を知つてゐるだけだが、その古ぼけた京都に滞在してゐる
間に二三度
時雨にあつたことをおぼえてゐる。
殊に
下賀茂の
糺の森であつた
時雨は、
丁度朝焼がしてゐるとすぐに時雨れて来たんで、甚だ風流な気がしたのを覚えてゐる。時雨といへば
矢張り其時、奈良の
春日の
社で時雨にあひ、その時雨の
霽れるのをまつ
間お
神楽をあげたことがあつた。それは古風な
大和琴だの
筝だのといふ楽器を鳴らして、
緋の
袴をはいた小さな――非常に小さな――
巫女が舞ふのが、
矢張り優美だつたといふ記憶がのこつてゐる。勿論其時分は
春日の
社も今のやうに
修覆が出来なかつたし、全体がもつと古ぼけてきたなかつたから、それだけよかつたといふ
訣だ。さういふ京都とか奈良とかいふ処は度々ゆくが、冬といふとどうもその最初の時の記憶が一番
鮮かなやうな気がする。
それから最近には
鎌倉に
住つて
横須賀の学校へ
通ふやうになつたから、東京以外の十二月にも親しむことが出来たといふわけだ。その時分の鎌倉は避暑客のやうな種類の人間が少いだけでも非常にいい。ことに今時分の鎌倉にゐると、人間は日本人より西洋人の方が冬は高等であるやうな気がする。どうも日本人の貧弱な顔ぢや毛皮の
外套の襟へ
頤を
埋めても埋め
栄えはしないやうな気がする。
東清鉄道あたりの従業員は、日本人と
露西亜人とで冬になるとことにエネルギイの差が目立つといふことをきいてゐるが、今頃の鎌倉を
濶歩してゐる西洋人を見るとさうだらうと思ふ。
もつとも小説を書くうへに於ては、
寧ろ夏よりは十一月十二月もつと寒くなつても冬の方がいいやうだ。また書く上ばかりでなく、書くまでの段取を火鉢にあたりながら漫然と考へてゐるには
今頃が一番いいやうだ。新年号の諸雑誌の原稿は
大抵十一月
一杯または十二月のはじめへかかる。さういふものを書いてゐる時は、他の人は寒いだらうとか
何とかいつて気にしてくれるけれども、書き出して
脂が乗れば煙草を
喫むほかは
殆ど火鉢なんぞを忘れてしまふ。それにその時分は
襖だの
障子だのがたて切つてあるものだから、自分の思想や情緒とかいふものが、部屋の中から
遁出してゆかないやうな安心した処があつてよく書ける。もつともよく書けるといつても、それは必ずしも作の出来栄えには比例しないのだから、勿論新年号の小説は
何時も傑作が出来るといふ
訣にはゆかない。
(大正六年)