小学校時代。――尋常四年の時に始めて十七字を並べて見る。「落葉
焚いて
葉守りの神を見し
夜かな」。
鏡花の小説など読みゐたれば、その
羅曼主義を学びたるなるべし。
中学時代。――「
獺祭書屋俳話」や「
子規随筆」などは読みたれど、句作は
殆どしたることなし。
高等学校時代。――同級に
久米正雄あり。
三汀と号し、
朱鞘派の俳人なり。三汀及びその仲間の仕事は詩に於ける
北原白秋氏の如く、俳諧にアムプレシヨニスムの手法を用ひしものなれば、面白がりて読みしものなり。この時代にも句作は
殆どせず。
大学時代。――
略ぼ前時代と同様なり。
教師時代。――海軍機関学校の教官となり、
高浜先生と同じ鎌倉に住みたれば、ふと句作をして見る気になり、十句ばかり
玉斧を
乞ひし所、「ホトトギス」に二句御採用になる。その
後引きつづき、二三句づつ「ホトトギス」に載りしものなり。但しその
頃も既に多少の文名ありしかば、十句中二三句づつ雑詠に
載るは
虚子先生の
御会釈ならんと思ひ、少々尻こそばゆく感ぜしことを忘れず。
作家時代。――東京に帰りし
後は
小沢碧童氏の
鉗鎚を受くること
一方ならず。その他
一游亭、
折柴、
古原艸等にも恩を受け、おかげさまにて幾分か
明を加へたる心地なり、
尤も新傾向の句は二三句しか作らず。つらつら
按ずるにわが俳諧修業は「ホトトギス」の厄介にもなれば、「
海紅」の世話にもなり、
宛然たる
五目流の早じこみと言ふべし。そこへ
勝峯晉風氏をも知るやうになり、
七部集なども
覗きたれば、
愈鵺の如しと言はざるべからず。
今日は唯
一游亭、
魚眠洞等と
閑に俳諧を愛するのみ。俳壇のことなどはとんと知らず。又格別知らんとも思はず。たまに
短尺など送つて句を書けと云ふ人あれど、短尺だけ
恬然ととりつ離しにして
未だ
嘗書いたことなし。この俳壇の門外漢たることだけは今後も永久に変らざらん
乎。
次手を以て前掲の諸家の
外にも、
碧梧桐、
鬼城、
蛇笏、
天郎、
白峯等の諸家の句にも恩を受けたることを
記しおかん。白峯と言ふは「ホトトギス」にやはり二三句づつ載りし人なり。
(大正十三年)