問 葛西善蔵 氏はどうですか。
答 葛西善蔵氏も、西洋種の交 りは少いと思ふ。
問 それでは、東洋種の作家の作品の要素をお伺ひしたいのです。
答 それは難問だね。ここに云ふ東洋種と云ふ意味は、西洋種の交 つて居ないと云ふ事だ。即ち消極的に云つたものに過ぎない。それを積極的にどう云ふ特色のあるものが、東洋種になるかと云ふ事になると、三考も四考もしなければならない。それはお互ひに面倒だし、まあ見合せる事にしよう。ただ徳田秋声氏や葛西善蔵氏の作品には、官能的にも思想的にも、西洋人にかぶれたと云ふ痕跡 が少い。それ丈 けは安全に云ひ得られるかと思ふ。
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問 風流 に就いて御 意見を。
答 風流と云ふ事をどう解釈するかは、文人墨客 の風流は、先づ日永 の遊戯である。南画南画と云ふけれど、二三の天才をのぞいた外 は、大部分下らないものと云つて差支 へない。僕はああ云ふ風流を弄 びたくない。僕の尊敬する東洋趣味は、(前の東洋種と混合してはいけない)人麻呂 の歌を生み、玉 の蘭を生み、芭蕉 の句を生んだ精神である。煎茶 の宗匠 や、漢詩人などの東洋趣味と、一緒 にされて堪るものではない。
問 佐藤春夫 氏は風流を感覚だと云ひ、久米正雄 氏はそれを意志だと云つて居ますが、それに就 いてのお考は如何 でせうか。
答 それは感覚と云ふ言葉の意味や、意志と云ふ言葉の意味を、はつきり制限して貰はないと、僕にはどちらにも左袒 出来ない。あらゆる芸術は感覚的である。同時に又あらゆる芸術は、意志的である。だから、風流は意志だと云ふ説も、ある意味では成立つと同時に、風流は感覚だと云ふ説も、矢張 りある意味ではなりたつだらう。僕はまだ両氏の議論を読んで居 ない。両氏はどの位感覚と意志とを別のものにして、論ずる事が出来たかそれを見る時を楽しみにして居る。
問 行為を主としたものと、心境を主としたものとの差別が文芸上には、ありませんでせうか。
答 主として事件を書いたものと、主として心境を書いたものの差別は、あると思ふ。
問 それで、事件を主としたものが西洋的に、心境を主としたものが東洋的と云へるでせうか。
答 水滸伝 でも、槍 の権三 でも、皆事件を主にして居る。しかし矢張 り東洋的である。ゲエテの「さ迷へる人の歌」のやうなものは、心境を主として居る。しかし矢張り西洋的である。心境と事件とか云ふやうなものでは、東洋と西洋の区別を、大ざつぱにさへ出来ないと思ふ。要するにその作者次第だと思ふ。
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問 将来の日本の文芸はどうなるでせうか。西洋的になるでせうか。又東洋的になるでせうか。
答 それはどつちになるかわからない。しかしこれだけは確実である。若し将来、西洋人が日本の文芸を珍重 するとすれば、東洋的の文芸を珍重するだらう。例へば、形容の言葉にしても、「孔雀 のやうに傲慢 な女」と云ふのは日本人には新しい感じを与へても、西洋人には新しい感じを与へない。逆に「瓜実顔 の女」と云ふのは、日本人には珍しくないが、西洋人には珍しいだらう。一つの形容の言葉に就 いて云はれる事は、作品全体に就いても云はれる事である。
(大正十五年五月)
〔談話〕