亦一説?

芥川龍之介




 大衆文芸は小説と変りはない。西洋人が小説として通用させてゐるものにも大衆文芸的なものは沢山たくさんあるやうだ。唯僕は大衆文芸家がみづから大衆文芸家を以て任じてゐるのは考へものだと思つてゐる。その為に大衆文芸は興味本位――ならばまだしもい。興味以外のものを求めないやうになるのは考へものだと思つてゐる。大衆文芸家ももつと大きい顔をして小説家の領分りやうぶんへ斬りこんで来るがい。さもないとかへつて小説家が(小説としての威厳を捨てずに)大衆文芸家の領分へ斬りこむかも知れぬ。都々逸どどいつは抒情詩的大衆文芸だ。北原白秋きたはらはくしう氏などの俚謡りえうは抒情詩的小衆文芸だ。都々逸詩人を以て任じてゐては到底たうてい北原氏などに追ひつくものではない。次手ついでに云ふ。今の小説が面白くないから、大衆文芸が盛んになつたと云ふのは※(「言+墟のつくり」、第4水準2-88-74)うそだ。古往今来こわうこんらい小説などを面白おもしろがる人は沢山たくさんゐない。少くとも講談の読者ほど沢山ゐない。その又小説の少数の読者も二十代には小説を読み、三十代には講談を読んでゐる。(その原因がどこにあるかは別問題として)大衆文芸が盛んになつたのはほんたうに小説にき足らないよりも、講談に飽き足らない読者を開拓した為だ。
(大正十五年六月)





底本:「筑摩全集類聚 芥川龍之介全集第四巻」筑摩書房
   1971(昭和46)年6月5日初版第1刷発行
   1979(昭和54)年4月10日初版第11刷発行
入力:土屋隆
校正:松永正敏
2007年6月26日作成
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