本所両国

芥川龍之介




大溝おほどぶ


 僕は本所界隈ほんじよかいわいのことをスケツチしろといふ社命を受け、同じ社のO君と一しよに久振ひさしぶりに本所へ出かけて行つた。今その印象記を書くのに当り、本所両国ほんじよりやうごくと題したのは或は意味を成してゐないかも知れない。しかしなぜか両国は本所区のうちにあるものの、本所以外の土地の空気もただよつてゐることは確かである。そこでO君とも相談の上、ちよつと電車の方向板はうかうばんじみた本所両国といふ題を用ひることにした。――
 僕は生れてから二十歳頃までずつと本所ほんじよに住んでゐた者である。明治二三十年代の本所は今日こんにちのやうな工業地ではない。江戸二百年の文明に疲れた生活上の落伍者らくごしやが比較的大勢おほぜい住んでゐた町である。従つて何処どこを歩いてみても、日本橋にほんばし京橋きやうばしのやうに大商店の並んだ往来わうらいなどはなかつた。若しその中に少しでも賑やかな通りを求めるとすれば、それはわづか両国りやうごくから亀沢町かめざわちやうに至る元町もとまち通りか、或ははしから亀沢町に至るふた通り位なものだつたであらう。勿論そのほか石原いしはら通りや法恩寺橋ほふおんじばし通りにも低い瓦屋根かはらやねの商店はのきを並べてゐたのに違ひない。しかし広い「お竹倉たけぐら」をはじめ、「伊達様だてさま」「津軽様つがるさま」などといふ大名屋敷はまだ確かに本所の上へ封建時代の影を投げかけてゐた。……
 殊に僕の住んでゐたのは「お竹倉たけぐら」に近い小泉町こいづみちやうである。「お竹倉」は僕の中学時代にもう両国停車場や陸軍被服廠ひふくしやうに変つてしまつた。しかし僕の小学時代にはまだ「大溝おほどぶ」に囲まれた、雑木林ざふきばやしや竹藪の多い封建時代の「お竹倉」だつた。「大溝」とはその名の示す通り、少くとも一間半あまりのどぶのことである。この溝は僕の知つてゐる頃にはもう黒い泥水をどろりとよどませてゐるばかりだつた。(僕はそこへ金魚にやる孑孑ぼうふらすくひに行つたことをきのふのやうに覚えてゐる。)しかし「御維新ごゐしん」以前には溝よりも堀に近かつたのであらう。僕の叔父をぢは十何歳かの時に年にも似合はない大小を差し、この溝の前にしやがんだまま、長い釣竿つりざををのばしてゐた。すると誰か叔父の刀にぴしりと鞘当さやあてをしかけた者があつた。叔父は勿論むつとして肩越しに相手を振り返つてみた。僕の一家一族の内にもこの叔父程負けぬ気の強かつた者はない。かういふ叔父はこの時にも相手によつては売られた喧嘩を買ふ位の勇気は持つてゐたのであらう。が、相手は誰かと思ふと、朱鞘しゆざやの大小を閂差くわんぬきざしに差した身のたけ抜群のさむらひだつた。しかも誰にも恐れられてゐた「新徴組しんちようぐみ」の一人ひとりに違ひなかつた。かれは叔父を尻目しりめにかけながら、にやにや笑つて歩いてゐた。叔父は彼を一目みたぎり、二度と長い釣竿の先から目をあげずにゐたとかいふことである。
 僕は小学時代にも「大溝おほどぶ」の側を通る度にこの叔父をぢの話を思ひ出した。叔父は「御維新」以前には新刀無念流しんたうむねんりう剣客けんかくだつた。(叔父が安房あは上総かづさへ武者修行に出かけ、二刀流の剣客と仕合をした話も矢張やはり僕を喜ばせたものである。)それから「御維新」前後には彰義隊しやうぎたいに加はる志を持つてゐた。最後に僕の知つてゐる頃には年とつた猫背ねこぜの測量技師だつた。「大溝おほどぶ」は今日こんにち本所ほんじよにはない。叔父もまた大正の末年ばつねん食道癌しよくだうがんを病んで死んでしまつた。本所の印象記の一節にかういふことを加へるのは或は私事に及び過ぎるであらう。しかし僕はO君と一しよに両国橋を渡りながら、大川おほかはの向うに立ち並んだ無数のバラツクを眺めた時には実際烈しい流転るてんさうに驚かないわけにはかなかつた。僕の「大溝」を思ひ出したり、その又「大溝」に釣をしてゐた叔父を思ひ出したりすることもかならずしも偶然ではないのである。

両国


 両国りやうごくの鉄橋は震災前しんさいぜんと変らないといつても差支さしつかへない。唯鉄の欄干らんかんの一部はみすぼらしい木造に変つてゐた。この鉄橋の出来たのはまだ僕の小学時代である。しかし櫛形くしがたの鉄橋には懐古の情も起つて来ない。僕は昔の両国橋に――狭い木造の両国橋にいまだに愛惜あいじやくを感じてゐる。それは僕の記憶によれば、今日こんにちよりも下流にかゝつてゐた。僕は時々この橋を渡り、なみの荒い「百本杭ひやつぽんぐひ」やあしの茂つた中洲なかずを眺めたりした。中洲に茂つた芦は勿論、「百本杭」も今は残つてゐない。「百本杭」もその名の示す通り、河岸かしに近い水の中に何本も立つてゐた乱杭らんぐひである。昔の芝居はころなどに多田ただ薬師やくし石切場いしきりばと一しよに度々この人通りの少ない「百本杭」の河岸かしを使つてゐた。僕は夜は「百本杭」の河岸かしを歩いたかどうかは覚えてゐない。が、朝は何度もそこにむらがる釣師の連中を眺めに行つた。O君は僕のかういふのを聞き、大川おほかはでもさかなの釣れたことに多少の驚嘆をらしてゐた。一度も釣竿を持つたことのない僕は「百本杭」で釣れた魚のなんなんだつたかを知つてゐない。しかし或夏の夜明けにこの河岸かしへ出かけてみると、いつも多い釣師の連中は一人ひとりもそこに来てゐなかつた。その代りに杭のあひだには坊主ばうず頭の土左衛門どざゑもん一人ひとり俯向うつむけに浪に揺すられてゐた。……
 両国橋りやうごくばしたもとにある表忠碑も昔に変らなかつた。表忠碑を書いたのは日露役にちろえきの陸軍総司令官大山巖おほやまいはほ侯爵である。日露役の始まつたのは僕の中学へはひり立てだつた。明治二十五年に生れた僕は勿論日清役のことを覚えてゐない。しかし北清ほくしん事変の時には大平だいへいといふ広小路ひろこうぢ(両国)の絵草紙ゑざうし屋へき、石版刷せきばんずりの戦争の絵を時々一枚づつ買つたものである。それ等の絵には義和団ぎわだん匪徒ひと英吉利イギリス兵などはたふれてゐても、日本兵は一人も斃れてゐなかつた。僕はもうその時にも矢張やはり日本兵も一人位ひとりくらゐは死んでゐるのに違ひないと思つたりした。しかし日露役の起つた時には徹頭徹尾露西亜ロシア位悪い国はないと信じてゐた。僕のリアリズムは年と共に発達するわけにはかなかつたのであらう。もつともそれは僕の知人なども出征してゐた為めもあるかも知れない。この知人は南山なんざんたたかひ鉄条網てつでうまうにかかつて戦死してしまつた。鉄条網といふ言葉は今日こんにちでは誰も知らない者はない。けれども日露役の起つた時には全然在来の辞書にない、新しい言葉の一つだつたのである。僕は大きい表忠碑を眺め、今更のやうに二十年ぜんの日本を考へずにはゐられなかつた。同時に又ちよつと表忠碑にも時代錯誤に近いものを感じないわけにはかなかつた。
 この表忠碑のうしろには確か両国劇場りやうごくげきぢやうといふ芝居小屋の出来る筈になつてゐた。現に僕は震災ぜんにも落成しない芝居小屋の煉瓦壁れんぐわべいを見たことを覚えてゐる。けれども今は薄汚うすぎたない亜鉛葺トタンぶきのバラツクのほかに何も芝居小屋らしいものは見えなかつた。もつとも僕は両国の鉄橋に愛惜あいじやくを持つてゐないやうにこの煉瓦建れんぐわだての芝居小屋にも格別の愛惜を持つてゐない。両国橋の木造だつた頃には駒止こまとばしもこの辺に残つてゐた。のみならず井生村楼ゐぶむらろう二州楼にしうろうといふ料理屋も両国橋の両側に並んでゐた。そのほか鮨屋すしや与平よへい鰻屋うなぎや須崎屋すさきや、牛肉のほかにも冬になるとししや猿を食はせる豊田屋とよだや、それから回向院ゑかうゐんの表門に近い横町よこちやうにあつた「坊主ぼうず軍鶏しやも」――かう一々数へ立てて見ると、本所ほんじよでも名高い食物屋くひものや大抵たいていこの界隈かいわいに集つてゐたらしい。

「富士見の渡し」


 僕等は両国橋りやうごくばしたもとを左へ切れ、大川おほかはに沿つて歩いて行つた。「百本杭ひやつぽんぐひ」のないことは前にも書いた通りである。しかし「伊達様だてさま」は残つてゐるかも知れない。僕はまだ幼稚園時代からこの「伊達様」の中にある和霊われい神社のお神楽かぐらを見に行つたものである。なんでも母などの話によれば、女中の背中におぶさつたまま、熱心にお神楽をみてゐるうちに「うんこ」をしてしまつたこともあつたらしい。しかし何処どこを眺めても、亜鉛葺トタンぶきのバラツクのほかに「伊達様」らしい屋敷は見えなかつた。「伊達様」の庭には木犀もくせいが一本秋ごとに花をつてゐたものである。僕はその薄甘うすあま※(「鈞のつくり」、第3水準1-14-75)ひを子供心にも愛してゐた。あの木犀も震災の時に勿論灰になつてしまつたことであらう。
 流転るてんの相の僕をおびやかすのは「伊達様だてさま」の見えなかつたことばかりではない。僕は確かこの近所にあつた「富士見ふじみわたし」を思ひ出した。が、渡し場らしい小屋は何処どこにも見えない。僕は丁度ちやうど道ばたにいもを洗つてゐた三十前後の男に渡し場の有無うむをたづねて見ることにした。しかし彼は「富士見の渡し」といふ名前を知つてゐないのは勿論、渡し場のあつたことさへ知らないらしかつた。「富士見の渡し」はこの河岸かしから「明治病院」の裏手に当る向う河岸がしかよつてゐた。その又向う河岸は掘割りになり、そこに時々何処どこかのうち家鴨あひるなども泳いでゐたものである。僕は中学へはひつたのちも或親戚を尋ねる為めに度々たびたび「富士見の渡し」を渡つて行つた。その親戚は三遊派さんゆうはの「りん」とかいふもののおかみさんだつた。僕のうちへ何かの拍子ひやうし円朝ゑんてう息子むすこ出入しゆつにふしたりしたのもかういふ親戚のあつた為めであらう。僕は又その家の近所に今村次郎いまむらじらうといふ標札を見付け、この名高い速記者(種々の講談の)に敬意を感じたことを覚えてゐる。――
 僕は講談といふものを寄席よせではほとんど聞いたことはない。僕の知つてゐる講釈師は先代の邑井吉瓶むらゐきつぺいだけである。(もつとも典山てんざんとか伯山はくざんとか或は又伯龍はくりゆうとかいふ新時代の芸術家を知らないわけではない。)従つて僕は講談を知る為めに大抵たいてい今村次郎いまむらじらう氏の速記本に依つた。しかし落語らくごは家族達と一しよに相生町あひおひちやう広瀬ひろせだの米沢町よねざはちやう日本橋にほんばし区)の立花家たちばなやだのへ聞きに行つたものである。殊に度々たびたび行つたのは相生町の広瀬だつた。が、どういふ落語を聞いたかは生憎あいにくはつきりと覚えてゐない。唯吉田国五郎よしだくにごろうの人形芝居を見たことだけはいまだにありありと覚えてゐる。しかも僕の見た人形芝居は大抵たいてい小幡小平次こばたこへいじとかかさねとかいふ怪談物だつた。僕は近頃大阪へき、久振ひさしぶりに文楽ぶんらくを見物した。けれども今日こんにちの文楽は僕の昔見た人形芝居よりも軽業かるわざじみたけれんを使つてゐない。吉田国五郎の人形芝居は例へば清玄せいげん庵室あんしつなどでも、血だらけな[#「血だらけな」は底本では「血だけらな」]清玄の幽霊は大夫たいふ見台けんだいが二つに割れると、その中から姿を現はしたものである。寄席よせの広瀬も焼けてしまつたであらう。今村次郎氏も明治病院の裏手に――僕は正直に白状すれば、今村次郎氏の現存してゐるかどうかも知らないものの一人ひとりである。
 そのうちに僕は震災ぜんと――といふよりもむしろ二十年ぜんと少しも変らないものを発見した。それは両国駅の引込み線をおさへた、三尺に足りない草土手くさどてである。僕は実際この草土手に「国亡びて山河さんか在り」といふ詠嘆を感じずにはゐられなかつた。しかしこの小さい草土手にかういふ詠嘆を感じるのはそれ自身僕にはなさけなかつた。

「お竹倉」


 僕の知人は震災の為めに何人もこの界隈かいわいたふれてゐる。僕の妻の親戚などは男女九人の家族中、やつと命をまつたうしたのは二十はたち前後の息子むすこだけだつた。それも火の粉を防ぐ為めに戸板をかざして立つてゐたのを旋風の為めにき上げられ、安田家やすだけの庭の池の側へ落ちてどうにか息を吹き返したのである。それから又僕の家へ毎日のやうに遊びに来た「おでうさん」という人などは命だけは助かつたものの、一時は発狂したのも同様だつた。(「お条さん」は髪の毛の薄い為めに何処どこへも片付かずにゐる人だつた。しかし髪の毛をやす為めに蝙蝠かうもりの血などを頭へつてゐた。)最後に僕のかよつてゐた江東かうとう小学校の校長さんは両眼ともめいを失つた上、前年にはたつた一人の息子を失ひ、震災の年には御夫婦とも焼け死んでしまつたとか言ふことだつた。僕も本所ほんじよに住んでゐたとすれば、恐らくは矢張やはりこの界隈かいわいに火事を避けてゐたことであらう。従つて又僕は勿論、僕の家族も彼等のやうに非業ひごふの最後を遂げてゐたかも知れない。僕は高い褐色の本所会館を眺めながら、こんなことをO君と話し合つたりした。
「しかし両国橋りやうごくばしを渡つた人は大抵たいてい助かつてゐたのでせう?」
「両国橋を渡つた人はね。……それでも元町もとまち通りには高圧線の落ちたのにれて死んだ人もあつたと言ふことですよ。」
かく東京中でも被服廠ひふくしやう大勢おおぜい焼け死んだところはなかつたのでせう。」
 かういふ種々の悲劇のあつたのはいづれも昔の「お竹倉たけぐら」の跡である。僕の知つてゐた頃の「お竹倉」は大体「御維新ごゐしんぜんと変らなかつたものの、もう総武そうぶ鉄道会社の敷地のうちに加へられてゐた。僕はこの鉄道会社の社長の次男の友達だつたから、みだりに人を入れなかつた「お竹倉」の中へも遊びに行つた。そこは前にも言つたやうに雑木林ざふきばやしや竹藪のある、町中まちなかには珍らしい野原だつた。のみならず古い橋のかかつた掘割りさへ大川おほかはに通じてゐた。僕は時々空気銃を肩にし、その竹藪や雑木林の中に半日を暮らしたものである。溝板どぶいたの上に育つた僕に自然の美しさを教へたものは何よりも先に「お竹倉」だつたであらう。僕は中学を卒業する前に英訳の「猟人日記れふじんにつき」を拾ひ読みにしながら、何度も「お竹倉」の中の景色を――「とりかぶと」の花の咲いた藪のかげや大きい昼の月のかかつた雑木林のこずゑを思ひ出したりした。「お竹倉」は勿論その頃にはいかめしい陸軍被服廠や両国駅に変つてゐた。けれども震災後の今日こんにちを思へば、――「かへつて并州へいしうを望めばこれ故郷」と支那人の歌つたのも偶然ではない。
 総武そうぶ鉄道の工事の始まつたのはまだ僕の小学時代だつたであらう。その以前の「お竹倉」はよるは「本所ほんじよなな不思議」を思ひ出さずにはゐられない程もの寂しかつたのに違ひない。夜は?――いや、昼間さへ僕は「お竹倉」の中を歩きながら、「おいてき堀」や「片葉かたはあし」は何処どこかこのあたりにあるものと信じないわけにはかなかつた。現に夜学にかよふ途中、「お竹倉」の向うに莫迦囃ばかばやしを聞き、てつきりあれは「狸囃たぬきばやし」に違ひないと思つたことを覚えてゐる。それはおそらくは小学時代の僕一人ひとりの恐怖ではなかつたのであらう。なんでも総武鉄道の工事中にそこへかよつてゐた線路工夫の一人ひとりは宵闇の中に幽霊を見、気絶してしまつたとかいふことだつた。

「大川端」


 本所ほんじよ会館は震災ぜん安田家やすだけの跡に建つたのであらう。安田家は確か花崗石くわかうせきを使つたルネサンス式の建築だつた。僕はしひの木などの茂つた中にこの建築の立つてゐたのに明治時代そのものを感じてゐる。が、セセツシヨン式の本所会館は「牛乳デイ」とかいふものの為に植込みのある玄関の前に大きいポスタアをかかげたり、宣伝用の自動車を並べたりしてゐた。僕の水泳を習ひに行つた「日本游泳協会」は丁度ちやうどこの河岸かしにあつたものである。僕はいつか何かの本に三代将軍家光いへみつは水泳を習ひに日本橋にほんばしへ出かけたと言ふことを発見し、滑稽に近い今昔こんじやくの感を催さないわけにはかなかつた。しかし僕等の大川おほかはへ水泳を習ひに行つたと言ふことも後世こうせいには不可解に感じられるであらう。現に今でもO君などは「この川でも泳いだりしたものですかね」と少からず驚嘆してゐた。
 僕は又この河岸かしにも昔に変らないものを発見した。それは――生憎あいにくなんの木かはちよつと僕には見当けんたうもつかない。が、かく新芽を吹いた昔のみ木の一本である。僕の覚えてゐる柳の木は一本も今では残つてゐない。けれどもこの木だけは何かの拍子ひやうしに火事にも焼かれずに立つてゐるのであらう。僕はほとんどこの木の幹に手をれて見たい誘惑を感じた。のみならずその木の根元には子供を連れたおばあさんが二人曇天どんてんの大川を眺めながら、花見か何かにでも来てゐるやうに稲荷鮨いなりずしを食べて話し合つてゐた。
 本所会館の隣にあるのは建築中の同愛どうあい病院である。高い鉄のやぐらだの、何階建かのコンクリイトの壁だの、こと砂利じやりを運ぶ人夫にんぷだのは確かに僕を威圧するものだつた。同時に又工業地になつた「本所の玄関」といふ感じを打ち込まなければかないものだつた。僕は半裸体の工夫こうふ一人ひとり、汗に体を輝かせながら、シヤベルを動かしてゐるのを見、本所全体もこの工夫のやうに烈しい生活をしてゐることを感じた。この界隈かいわいの家々の上に五月のぼりひるがへつてゐたのは僕の小学時代の話である。今では、――誰も五月のぼりよりは新しい日本の年中行事になつたメイ・デイを思ひ出すのに違ひない。
 僕は昔この辺にあつた「御蔵橋おくらばし」と言ふ橋を渡り、度々たびたび友綱ともづなうちの側にあつた或友達のうちへ遊びに行つた。彼もまた海軍の将校になつたのち、二三年ぜんに故人になつてゐる。しかし僕の思ひ出したのはかならずしも彼のことばかりではない。彼の住んでゐた家のあたり、――瓦屋根のあひだ樹木じゆもくの見える横町よこちやうのことも思ひ出したのである。そこは僕の住んでゐた元町もとまち通りにくらべると、はるかに人通りも少なければ「しもた」もほとん門並かどなみだつた。「しひ松浦まつうら」のあつた昔はしばらく問はず、「江戸の横網よこあみ鶯の鳴く」と北原白秋きたはらはくしう氏の歌つた本所ほんじよさへ今ではもう「歴史的大川端おほかははた」に変つてしまつたと言ふ外はない。如何いか万法ばんぱふ流転るてんするとはいへ、かういふ変化の絶えない都会は世界中にも珍らしいであらう。
 僕等はいつか工事場らしい板囲いたかこひの前に通りかかつた。そこにも労働者が二三人、せつせとつちを動かしながら、大きい花崗石くわかうせきけづつてゐた。のみならず工事中の鉄橋さへ泥濁りに濁つた大川の上へ長々と橋梁はしげたを横たへてゐた。僕はこの橋の名前は勿論、この橋の出来る話も聞いたことはなかつた。震災は僕等のうしろにある「富士見ふじみの渡し」を滅してしまつた。が、その代りに僕等の前に新しい鉄橋を造らうとしてゐる。……
「これはなんといふ橋ですか?」
 麦藁帽をかぶつた労働者の一人ひとり矢張やはり槌を動かしたまま、ちよつと僕の顔を見上げ、存外ぞんぐわい親切に返事をした。
「これですか? これは蔵前橋くらまえばしです。」

「一銭蒸汽」


 僕等はそこから引き返して川蒸汽かはじようきの客になる為に横網よこあみの浮き桟橋さんばしへおりて行つた。昔はこの川蒸汽も一銭蒸汽と呼んだものである。今はもう賃銭も一銭ではない。しかし五銭出しさへすれば、何区でも勝手にかれるのである。けれども屋根のある浮き桟橋は――震災は勿論この浮き桟橋もほのほにして空へ立ちのぼらせたのであらう。が、一見した所は明治時代に変つてゐない。僕等はベンチに腰をおろし、一本の巻煙草に火をつけながら、川蒸汽の来るのを待つことにした。「石垣にはもうこけが生えてゐますね。もつとも震災以来四五年になるが、……」
 僕はふとこんなことを言ひ、O君の為に笑はれたりした。
「苔の生えるのは当り前であります。」
 大川おほかはは前にも書いたやうに一面に泥濁どろにごりに濁つてゐる。それから大きい浚渫船しゆんせつせんが一艘起重機きぢゆうきもたげた向う河岸がしも勿論「首尾しゆびの松」や土蔵どざうの多い昔の「一番堀いちばんぼり」や「二番堀にばんぼり」ではない。最後に川の上を通る船も今では小蒸汽こじようき達磨船だるまぶねである。五大力ごだいりき高瀬船たかせぶね伝馬てんま荷足にたり田船たぶねなどといふ大小の和船も何時いつにか流転るてんの力に押し流されたのであらう。僕はO君と話しながら、「※(「さんずい+元」、第3水準1-86-54)湘日夜東げんしやうにちやひがしに流れて去る」といふ支那人の詩を思ひ出した。かういふ大都会の中の川は※(「さんずい+元」、第3水準1-86-54)げんしやうのやうに悠々と時代を超越してゐることは出来ない。現世げんせいは実に大川おほかはさへ刻々に工業化してゐるのである。
 しかしこの浮き桟橋の上に川蒸汽を待つてゐる人々は大抵たいてい大川よりも保守的である。僕は巻煙草をふかしながら、唐桟柄たうざんがらの着物を着た男や銀杏いてふ返しにつた女を眺め、何か矛盾に近いものを感じないわけにはかなかつた。同時に又明治時代にめぐり合つた或懐しみに近いものを感じないわけには行かなかつた。そこへ下流からいで来たのは久振ひさしぶりに見る五大力ごだいりきである。へさきの高い五大力の上には鉢巻をした船頭せんどう一人ひとり一丈余りのを押してゐた。それからおかみさんらしい女が一人御亭主ごていしゆに負けずに竿を差してゐた。かういふ水上生活者の夫婦位妙に僕等にも抒情詩ぢよじやうしめいた心もちを起させるものは少ないかも知れない。僕はこの五大力を見送りながら、――その又五大力の上にゐる四五歳の男の子を見送りながら、幾分か彼等の幸福をうらやみたい気さへ起してゐた。
 両国橋りやうごくばしをくぐつて来た川蒸汽はやつと浮き桟橋へ横着けになつた。「隅田丸すみだまる三十号」(?)――僕は或はこの小蒸汽に何度も前に乗つてゐるのであらう。かくこれも明治時代に変つてゐないことは確かである。川蒸汽の中は満員だつた上、立つてゐる客も少くない。僕等はやむを得ずふねばたに立ち、薄日うすびの光に照らされた両岸の景色を見て行くことにした。もつとふなばたに立つてゐたのは僕等二人に限つたわけではない。僕等の前には夏外套なつぐわいたうを着た、顋髯あごひげの長い老人さへやはり船ばたに立つてゐたのである。
 川蒸汽は静かに動き出した。すると大勢おほぜいの客の中に忽ち「毎度御やかましうございますが」と甲高かんだかい声を出しはじめたのは絵葉書や雑誌を売る商人である。これもまた昔に変つてゐない。若し少しでも変つてゐるとすれば、「何ごとも活動ばやりの世の中でございますから」などと云ふ言葉をはさんでゐることであらう。僕はまだ小学時代からかう云ふ商人の売つてゐるものを一度も買つた覚えはない。が、天窓てんまど越しに彼の姿を見おろし、ふと僕の小学時代に伯母をばと一しよに川蒸汽へ乗つた時のことを思ひ出した。

乗り継ぎ「一銭蒸汽」


 僕等はその時にどこへ行つたのか、かく伯母をばだけは長命寺ちやうめいじの桜餅を一籠ひとかごひざにしてゐた。すると男女の客が二人ふたり、僕等の顔を尻目しりめにかけながら、「何か※(「鈞のつくり」、第3水準1-14-75)ひますね」「うん、糞臭くそくさいな」などと話しはじめた。長命寺の桜餅を糞臭いとは、――僕はいまだに生意気なまいきにもこの二人を田舎者ゐなかものめと軽蔑したことを覚えてゐる。長命寺にも震災以来一度も足を入れたことはない。それから長命寺の桜餅は、――勿論今でも昔のやうに評判のいことは確かである。しかし※(「飮のへん+稻のつくり」、第4水準2-92-68)あんや皮にあつた野趣やしゆだけはいつか失はれてしまつた。……
 川蒸汽は蔵前橋くらまへばしの下をくぐり、廐橋うまやばし真直まつすぐに進んで行つた。そこへ向うから僕等の乗つたのとあまり変らない川蒸汽が一艘矢張やはなみを蹴つて近づき出した。が、七八間隔ててすれ違つたのを見ると、この川蒸汽の後部には甲板かんぱんの上に天幕テントを張り、ちやんと大川おほかはの両岸の景色を見渡せる設備も整つてゐた。かういふ古風な川蒸汽もまた目まぐるしい時代の影響をかうむらないわけにはかないらしい。そのあとへ向うから走つて来たのはお客や芸者を乗せたモオタアボオトである。屋根船や船宿ふなやどを知つてゐる老人達は定めしこのモオタアボオトに苦々にがにがしい顔をすることであらう。僕は江戸趣味に随喜ずゐきする者ではない。従つて又モオタアボオトを無風流ぶふうりうと思ふ者ではない。しかし僕の小学時代に大川に浪を立てるものは「一銭蒸汽」のあるだけだつた。或はそのほか利根川とねがは通ひの外輪船ぐわいりんせんのあるだけだつた。僕は渡し舟に乗る度に「一銭蒸汽」の浪の来ることを、――このうねうねした浪の為に舟のれることを恐れたものである。しかし今日こんにちの大川の上に大小の浪を残すものは一々数へるのに耐へないであらう。
 僕は船端ふなばたに立つたまま、鼠色に輝いた川の上を見渡し、確か広重ひろしげいてゐた河童かつぱのことを思ひ出した。河童は明治時代には、――少くとも「御維新ごゐしん」前後には大根河岸だいこんがしの川にさへ出没してゐた。僕の母の話に依れば、観世新路くわんぜじんみちに住んでゐた或男やもめの植木屋とかは子供のおしめを洗つてゐるうちに大根河岸だいこんがしの川の河童にわきの下をくすぐられたと言ふことである。(観世新路に植木屋の住んでゐたことさへ僕等にはもう不思議である。)まして大川にゐた河童のかずは決して少くはなかつたであらう。いや、かならずしも河童ばかりではない。僕の父の友人の一人ひとり夜網よあみを打ちに出てゐたところ、何かともあがつたのを見ると、甲羅かふらだけでもたらひほどあるすつぽんだつたなどと話してゐた。僕は勿論かういふ話をことごとく事実とは思つてゐない。けれども明治時代――或は明治時代以前の人々はこれ等の怪物を目撃もくげきする程この町中まちなかを流れる川に詩的恐怖を持つてゐたのであらう。
「今ではもう河童かつぱもゐないでせう。」
「かう泥だの油だの一面に流れてゐるのではね。――しかしこの橋の下あたりには年を取つた河童の夫婦が二匹いまだに住んでゐるかも知れません。」
 川蒸汽は僕等の話のうち廐橋うまやばしの下へはひつて行つた。薄暗い橋の下だけは浪の色もさすがにあをんでゐた。僕は昔は渡し舟へ乗ると、――いや、時には橋を渡る時さへ、磯臭いそくさ※(「鈞のつくり」、第3水準1-14-75)にほひのしたことを思ひ出した。しかし今日こんにちの大川の水はなん※(「鈞のつくり」、第3水準1-14-75)も持つてゐない。若し又持つてゐるとすれば、唯泥臭い※(「鈞のつくり」、第3水準1-14-75)だけであらう。……
「あの橋は今度出来る駒形橋こまかたばしですね?」
 O君は生憎あいにく僕の問に答へることは出来なかつた。駒形こまかたは僕の小学時代には大抵たいてい「コマカタ」と呼んでゐたものである。が、それもとうの昔に「コマガタ」と発音するやうになつてしまつた。「君は今駒形こまかたあたりほとゝぎす」を作つた遊女も或は「コマカタ」と澄んだ音を「ほとゝぎす」の声に響かせたかつたかも知れない。支那人は「文章は千古の事」と言つた。が、文章もおのづから※(「鈞のつくり」、第3水準1-14-75)を失つてしまふことは大川の水に変らないのである。

柳島


 僕等は川蒸汽を下りて吾妻橋あづまばしたもとへ出、そこへ来合せた円タクに乗つて柳島やなぎしまへ向ふことにした。この吾妻橋から柳島へ至る電車道は前後に二三度しか通つた覚えはない。まして電車の通らない前には一度も通つたことはなかつたであらう。一度も?――若し一度でも通つたとすれば、それは僕の小学時代に業平橋なりひらばしかどこかにあつた或可也かなり大きい寺へ葬式に行つた時だけである。僕はその葬式の帰りに確か父に「御維新ごゐしんぜん本所ほんじよの話をして貰つた。父は往来わうらいの左右を見ながら、「昔はここいらは原ばかりだつた」とか「なんとかさまの裏の田には鶴が下りたものだ」とか話してゐた。しかしそれ等の話の中でも最も僕を動かしたものは「御維新」前には行き倒れとか首縊くびくくりとかの死骸を早桶はやをけに入れ、その又早桶を葭簀よしずに包んだ上、白張しらはりの提灯ちやうちんを一本立てて原の中にゑて置くと云ふ話だつた。僕は草原くさはらの中に立つた白張の提灯を想像し、何か気味の悪い美しさを感じた。しかも彼是かれこれ真夜中まよなかになると、その早桶のおのづからごろりと転げるといふに至つては、――明治時代の本所はたとひ草原には乏しかつたにもせよ、恐らくまだこのあたりは多少所謂いはゆる御朱引ごしゆびそと」のおもかげをとどめてゐたのであらう。しかし今はどこを見ても、唯電柱やバラツクの押し合ひへし合ひしてゐるだけである。僕は泥のはねかかつたタクシイの窓越しに往来わうらいを見ながら、金銭を武器にする修羅界しゆらかいの空気を憂鬱に感じるばかりだつた。
 僕等は「橋本はしもと」の前で円タクをおり、水のどす黒い掘割り伝ひに亀井戸かめゐど天神様てんじんさまへ行つて見ることにした。名高い柳島やなぎしまの「橋本」も今は食堂に変つてゐる。もつともこの家は焼けずにすんだらしい。現に古風な家の一部や荒れ果てた庭なども残つてゐる。けれども硝子ガラスへ緑いろに「食堂」と書いた軒燈けんとうは少くとも僕にははかなかつた。僕は勿論「橋本」の料理を云々うんぬんするほどの通人つうじんではない。のみならず「橋本」へ来たことさへあるかないかわからない位である。が、五代目菊五郎きくごろうの最初の脳溢血なういつけつを起したのは確かこの「橋本」の二階だつたであらう。
 掘割りを隔てた妙見様めうけんさまも今ではもうすつかり裸になつてゐる。それから掘割りに沿うた往来わうらいも、――僕は中学時代に蕪村ぶそん句集を読み、「君くや柳緑に路長し」といふ句に出合つた時、この往来にあつた柳を思ひ出さずにはゐられなかつた。しかし今僕等の歩いてゐるのは有田ありたドラツグや愛聖館あいせいくわんの並んだ、せせこましいなりに賑かな往来である。近頃私娼ししやうの多いとか云ふのも恐らくはこの往来の裏あたりであらう。僕は浅草あさくさ千束町せんぞくまちにまだ私娼の多かつた頃のよるの景色を覚えてゐる。それは窓ごとにかげのさした十二階の聳えてゐる為にほとんど荘厳な気のするものだつた。が、この往来はどちらへ抜けても、ボオドレエル的色彩などは全然見つからないのに違ひない。たとひデカダンスの詩人だつたとしても、僕は決してかう云ふ町裏を徘徊はいくわいする気にはならなかつたであらう。けれども明治時代の諷刺ふうし詩人しじん斎藤緑雨さいとうりよくうは十二階に悪趣味そのものを見いだしてゐた。すると明日みやうにちの詩人たちは有田ドラツグや愛聖館にも彼等自身の「悪の花」を――或は又「善の花」を歌ひ上げることになるかも知れない。

萩寺あたり


 僕はろくでもないことを考へながら、ふと愛聖館あいせいくわん掲示板けいじばんを見上げた。するとそこに書いてあるのは確かかういふ言葉だつた。
「神様はこんなにたくさんの人間をお造りになりました。ですから人間を愛していらつしやいます。」
 産児制限論者は勿論、現世げんせいの人々はかういふ言葉に微笑しないわけにはゆかないであらう。人口過剰に苦しんでゐる僕等はこんなにたくさんの人間のゐることを神の愛の証拠しようこと思ふことは出来ない。いや、むしろ全能のしゆの憎しみの証拠とさへ思はれるであらう。しかし本所ほんじよの或場末ばすゑの小学生を教育してゐる僕の旧友の言葉に依れば、少くともその界隈かいわいに住んでゐる人々は子供のかずの多い家ほどかへつて暮らしもらくだと云ふことである。それは又どの家の子供もかく十か十一になると、それぞれ子供なりに一日の賃金をかせいで来るからだと云うことである。愛聖館あいせいくわんの掲示板にかういふ言葉を書いた人は或はこの事実を知らなかつたかも知れない。が、確かにかういふ言葉は現世の本所ほんじよの或場末に生活してゐる人々の気持ちを代辯することになつてゐるであらう。もつとも子供の多い程暮らしも楽だといふことは子供自身には仕合せかどうか、多少の疑問のあることは事実である。
 それから僕等は通りがかりにちよつと萩寺はぎでらを見物した。萩寺も突つかひ棒はしてあるものの、幸ひ震災に焼けずにすんだらしい。けれども萩の四五株しかない上、落合直文おちあひなほぶみ先生の石碑を前にした古池の水もれになつてゐるのは哀れだつた。ただこの古池に臨んだ茶室だけは昔よりも一層ものびてゐる。僕は萩寺の門を出ながら、昔は本所ほんじよ猿江さるえにあつた僕の家の菩提寺ぼだいじを思ひ出した。この寺にはなんでも司馬江漢しばかうかん小林平八郎こばやしへいはちらうの墓のほかに名高い浦里時次郎うらざとときじろう比翼塚ひよくづか[#「比翼塚ひよくづかも」は底本では「翼比塚ひよくづかも」]残つてゐたものである。僕の司馬江漢を知つたのは勿論余り古いことではない。しかし義士の討入りのに両刀をふるつて闘つた振り袖姿の小林平八郎は小学時代の僕等には実に英雄そのものだつた。それから浦里時次郎も、――僕はあらゆる東京人のやうに芝居には悪縁の深いものである。従つて矢張やはり小学時代から浦里時次郎を尊敬してゐた。(けれども正直に白状すれば、はじめて浦里時次郎を舞台の上に見物した時、僕の恋愛を感じたものは浦里よりもむし禿かむろだつた。)この寺は――慈眼寺じげんじといふ日蓮にちれん宗の寺は震災よりも何年か前に染井そめゐ墓地ぼちのあたりに移転してゐる。彼等の墓も寺と一しよに定めし同じ土地に移転してゐるであらう。が、あのじめ/\した猿江さるえの墓地はいまだに僕の記憶に残つてゐる。就中なかんづく薄い水苔みづごけのついた小林平八郎の墓の前に曼珠沙華まんじゆしやげの赤々と咲いてゐた景色は明治時代の本所ほんじよ以外に見ることの出来ないものだつたかも知れない。
 萩寺はぎでらの先にある電柱(?)は「亀井戸かめゐど天神てんじん近道」といふペンキ塗りの道標だうへうを示してゐた。僕等はその横町よこちやうまがり、待合まちあひやカフエの軒を並べた、狭苦しい往来わうらいを歩いて行つた。が、肝腎かんじんの天神様へは容易よういに出ることも出来なかつた。すると道ばたに女の子が一人ひとりメリンスのたもとひるがへしながら、傍若無人ばうじやくぶじんにゴムまりをついてゐた。
「天神様へはどうきますか?」
「あつち。」
 女の子は僕等に返事をしたのち、聞えよがしにこんなことを言つた。
「みんな天神様のことばかりくのね。」
 僕はちよつと忌々いまいましさを感じ、この如何いかにもこましやくれたとをばかりの女の子を振り返つた。しかし彼女は側目わきめも振らずに(しかも僕に見られてゐることをはつきり承知してゐながら)矢張やはまりをつき続けてゐた。実際支那人の言つたやうに「変らざるものよりして之を見れば」何ごとも変らないのに違ひない。僕もまた僕の小学時代には鉄面皮てつめんぴにも生薬屋きぐすりやへ行つて「半紙はんしを下さい」などと言つたものだつた。

「天神様」


 僕等は門並かどなみの待合まちあひあひだをやつと「天神様てんじんさま」の裏門へ辿たどりついた。するとその門の中には夏外套を着た男が一人ひとり、何か滔々としやべりながら、「お立ち合ひ」の人々へ小さい法律書を売りつけてゐた。僕は彼の雄辯に辟易へきえきせずにはゐられなかつた。が、この人ごみを通りこすと、今度は背広を着た男が一人最新化学応用の目薬めぐすりと云ふものを売りつけてゐた。この「天神様」の裏の広場も僕の小学時代にはなかつたものである。しかし広場の出来たのちにもここにかかる見世物小屋みせものごや[#「見世物小屋みせものごやは」は底本では「世見物小屋みせものごやは」]き人形や「からくり」ばかりだつた。
「こつちは法律はふりつ、向うは化学――ですね。」
亀井戸かめゐども科学の世界になつたのでせう。」
 僕等はこんなことを話し合ひながら、久しぶりに「天神様」へお詣りに行つた。「天神様」の拝殿は仕合せにも昔に変つてゐない。いや、昔に変つてゐないのは筆塚ふでづかや石の牛も同じことである。僕は僕の小学時代に古い筆を何本も筆塚へ納めたことを思ひ出した。(が、僕の字は何年たつても、一向いつかう上達する容子ようすはない。)それから又石の牛の額へ銭を投げてのせることに苦心したことも思ひ出した。かう云ふ時に投げる銭は今のやうに一銭銅貨ではない。大抵たいていは五厘銭か寛永通宝くわんえいつうはうである。その又穴銭の中の文銭ぶんせんを集め、所謂いはゆる「文銭の指環ゆびわ」をこしらへたのも何年まへの流行であらう。僕等は拝殿の前へ立ち止まり、ちよつと帽をとつてお時宜じぎをした。
太鼓橋たいこばしも昔の通りですか?」
「ええ、――しかしこんなに小さかつたかな。」
「子供の時に大きいと思つたものは存外ぞんぐわいあとでは小さいものですね。」
「それは太鼓橋たいこばしばかりぢやないかも知れない。」
 僕等は暖簾のれんをかけた掛け茶屋越しにどんより水光りのする池を見ながら、やつと短い花房を垂らした藤棚ふぢだなの下を歩いて行つた。この掛け茶屋や藤棚もやはり昔に変つてゐない。しかし木の下や池のほとりに古人の句碑の立つてゐるのは僕には何か時代錯誤を感じさせないわけにはかなかつた。江戸時代に興つた「風流」は江戸時代と一しよに滅んでしまつた。唯僕等の明治時代はまだどこかに二百年間の「風流」の※(「鈞のつくり」、第3水準1-14-75)にほひを残してゐた。けれども今はのあたりに、――O君はにやにや笑ひながら、恐らくは君自身は無意識に僕にこの矛盾をし示した。
「カルシウム煎餅せんべいも売つてゐますね。」
「ああ、あの大きい句碑の前にね。――それでもまだの亀の子は売つてゐる。」
 僕等は、「天神様」の外へ出た後、「船橋屋ふなばしや」の葛餅くずもちを食ふ相談をした。が、本所ほんじよ疎遠そゑんになつた僕には「船橋屋」も容易に見つからなかつた。僕はやむを得ず荒物屋あらものやの前に水をいてゐたおかみさんに田舎ゐなか者らしい質問をした。それから花柳病くわりうびやうの医院の前をやつと又船橋屋へ辿たどり着いた。船橋屋も家はあらたになつたものの、大体は昔に変つてゐない。僕等は縁台えんだいに腰をおろし、鴨居かもゐの上にかけ並べた日本アルプスの写真を見ながら、葛餅を一盆ひとぼんづつ食ふことにした。
「安いものですね、十銭とは。」
 O君は大いに感心してゐた。しかし僕の中学時代には葛餅も一盆ひとぼん三銭だつた。僕は僕の友だちと一しよに江東梅園かうとうばいゑんなどへ遠足に行つた帰りに度たびこの葛餅を食つたものである。江東梅園も臥龍梅ぐわりゆうばいと一しよに滅びてしまつてゐるであらう。水田すゐでんはんの木のあつた亀井戸かめゐどはかう云ふ梅の名所だつた為に南画なんぐわらしいおもむきを具へてゐた。が、今は船橋屋の前も広い新開の往来わうらいの向うに二階建の商店が何軒も軒を並べてゐる。……

錦糸堀


 僕は天神橋てんじんばしたもとから又円タクに乗ることにした。この界隈かいわいはどこを見ても、――僕はもう今昔こんじやくの変化を云々うんぬんするのにも退屈した。僕の目に触れるものはなかば出来上つた小公園である。或は亜鉛塀トタンべいめぐらした工場である。或は又見すぼらしいバラツクである。斎藤茂吉さいとうもきち氏は何かの機会に「もののきとどまらめやも」と歌ひ上げた。しかし今日こんにち本所ほんじよは「ものの行き」を現してゐない。そこにあるものは震災の為に生じた「ものの飛び」に近いものである。僕は昔この辺に糧秣廠りやうまつしやうのあつたことを思ひ出し、更にその糧秣廠に火事のあつたことを思ひ出し、如露亦如電によろやくによでんといふ言葉のかならずしも誇張でないことを感じた。
 僕のかよつてゐた第三中学校も鉄筋コンクリイトに変つてゐる。僕はこの中学校へ五年のあひだかよひつづけた。当時の校舎も震災の為に灰になつてしまつたのであらう。が、僕の中学時代には鼠色のペンキを塗つた二階建の木造だつた。それから校舎のまはりにはポプラアが何本かそよいでゐた。(この界隈かいわいは土のせてゐる為にポプラア以外の木は育ちにくかつたのである。)僕はそこへ通つてゐるうちに英語や数学を覚えたほかにも如何いかに僕等人間の情け無いものであるかを経験した。かう云ふのは僕の先生たちや友だちの悪口わるぐちを言つてゐるのではない。僕等人間と云ふうちには勿論僕のこともはひつてゐるのである。たとへば僕等は或友だちをいぢめ、彼を砂の中に生き埋めにした。僕等の彼をいぢめたのは格別理由のあつたわけではない。若し又理由らしいものを挙げるとすれば、唯彼の生意気なまいきだつた、――或は彼は彼自身を容易にげようとしなかつたからである。僕はもう五六年ぜん、久しぶりに彼とこの話をし、この小事件も彼の心に暗い影を落してゐるのを感じた。彼は今は揚子江やうすこうの岸に不相変あひかはらず孤独に暮らしてゐる。……
 かう云ふ僕の友だちと一しよに僕の記憶に浮んで来るのは僕等を教へた先生たちである。僕はこの「繁昌記はんじやうき」の中に一々そんな記憶を加へるつもりはない。けれども唯一人ひとりこの機会にスケツチしておきたいのは山田やまだ先生である。山田先生は第三中学校の剣道部と云ふものの先生だつた。先生の剣道は封建ほうけん時代の剣客けんかくまさるとも劣らなかつたであらう。なんでも先生に学んだ一人ひとりは武徳会の大会に出、相手の小手こて竹刀しなひを入れると、余り気合ひのはげしかつた為に相手の腕を一打ちに折つてしまつたとか云ふことだつた。が、僕の伝へたいのは先生の剣道のことばかりではない。先生は又食物を減じ、仙人せんにんに成る道も修行してゐた。のみならず明治時代にも不老不死の術に通じた、正真紛しやうじんまぎれのない仙人の住んでゐることを確信してゐた。僕は不幸にも先生のやうに仙人に敬意を感じてゐない。しかし先生の鍛煉たんれんにはいつも敬意を感じてゐる。先生は或時博物学教室へき、そこにあつたコツプの昇汞水しようこうすゐを水と思つて飲みしてしまつた。それを知つた博物学の先生は驚いて医者を迎へにやつた。医者は勿論やつて来るが早いか、先生に吐剤とざいを飲ませようとした。けれども先生は吐剤と云ふことを知ると、自若じじやくとしてかう云ふ返事をした。
山田次郎吉やまだじろきちは六十を越しても、まだ人様ひとさまのゐられる前でへどを吐くほど耄碌まうろくはしませぬ。どうか車を一台お呼び下さい。」
 先生はなんとか云ふ法を行ひ、とうとう医者にもかからずにしまつた。僕はこの三四年のあひだは誰からも先生の噂を聞かない。あの面長おもながの山田先生は或はもう列仙伝れつせんでん中の人々と一しよに遊んでゐるのであらう。しかし僕は不相変あひかはらずほこり臭い空気の中に、――僕等をのせた円タクは僕のそんなことを考へてゐるうちに江東橋かうとうばしを渡つて走つて行つた。

緑町、亀沢町


 江東橋かうとうばしを渡つた向うもやはりバラツクばかりである。僕は円タクの窓越しに赤錆あかさびをふいた亜鉛トタン屋根だのペンキ塗りの板目はめだのを見ながら、確か明治四十三年にあつた大水おほみづのことを思ひ出した。今日こんにち本所ほんじよは火事には会つても、洪水に会ふことはないであらう。が、その時の大水は僕の記憶に残つてゐるのでは一番水嵩みづかさの高いものだつた。江東橋かうとうばし界隈かいわいの人々の第三中学校へ避難したのもやはりこの大水のあつた時である。僕は江東橋を越えるのにも一面にみなぎつた泥水の中を泳いでかなければならなかつた。……
「実際その時は大変でしたよ。もつとも僕のうちなどはゆかの上へ水は来なかつたけれども。」
「では浅い所もあつたのですね?」
緑町みどりちやう二丁目――かな。なんでもあの辺は膝位ひざくらゐまででしたがね。僕はSと云ふ友だちと一しよにその露地ろぢの奥にゐるもう一人ひとりの友だちを見舞ひに行つたんです。するとSと云ふ友だちがどぶの中へ落ちてしまつてね。……」
「ああ、水が出てゐたから、どぶのあることがわからなかつたんですね。」
「ええ、――しかしSのやつは膝まで水の上に出てゐたんです。それがあつと言ふ拍子ひやうし可也かなり深い溝だつたと見え、水の上に出てゐるのは首だけになつてしまつたんでせう。僕は思はず笑つてしまつてね。」
 僕等をのせた円タクはかう云ふ僕等の話のうち寿座ことぶきざの前を通り過ぎた。画看板ゑかんばんを掲げた寿座は余り昔と変らないらしかつた。僕の父の話によれば、この辺、――二つ目通りから先は「津軽つがる様」の屋敷だつた。「御維新ごゐしんまへの或年の正月、父は川向うへ年始にき、帰りに両国橋りやうごくばしを渡つて来ると、少しも見知らない若侍わかざむらひ一人ひとり偶然父と道づれになつた。彼もちやんと大小をさし、たかの紋のついた上下かみしもを着てゐた。父は彼と話してゐるうちにいつか僕のうちを通り過ぎてしまつた。のみならずふと気づいた時には「津軽様」のどぶの中へ転げこんでゐた。同時に又若侍はいつかどこかへ見えなくなつてゐた。父は泥まみれになつたまま、僕のうちへ帰つて来た。何でも父の刀は鞘走さやばしつた拍子ひやうしにさかさまに溝の中に立つたと云ふことである。それから若侍にけた狐は(父はいまだこの若侍を狐だつたと信じてゐる。)刀の光に恐れた為にやつと逃げ出したのだと云ふことである。実際狐の化けたかどうかは僕にはどちらでも差支さしつかへない。僕は唯父の口からかう云ふ話を聞かされる度にいつも昔の本所ほんじよ如何いかに寂しかつたかを想像してゐた。
 僕等は亀沢町かめざはちやうかどで円タクをおり、元町もとまち通りを両国へ歩いて行つた。菓子屋の寿徳庵じゆとくあんは昔のやうにやはり繁昌はんじやうしてゐるらしい。しかしその向うの質屋しちやの店は安田やすだ銀行に変つてゐる。この質屋の「いちやん」も僕の小学時代の友だちだつた。僕はいつか遊び時間に僕等のうちにあるものを自慢じまんし合つたことを覚えてゐる。僕の友だちは僕のやうに年とつた小役人こやくにん息子むすこばかりではない。が、誰も「いちやん」の言葉には驚嘆せずにはゐられなかつた。
「僕のうち土蔵どざうの中には大砲おほづつ万右衛門まんゑもん化粧廻けしやうまはしもある。」
 大砲おほづつは僕等の小学時代に、――常陸山ひたちやまうめたにの大関だつた時代に横綱を張つた相撲すまふだつた。

相生町


 本所ほんじよ警察署もいつのにかコンクリイトの建物に変つてゐる。僕の記憶にある警察署は古い赤煉瓦れんぐわの建物だつた。僕はこの警察署長の息子むすこも僕の友だちだつたのを覚えてゐる。それから警察署のとなりにある蝙蝠傘屋かうもりがさやも――傘屋の木島きじまさんは今日こんにちでも僕のことを覚えてゐてくれるであらうか? いや、木島さん一人ひとりではない。僕はこの界隈かいわいに住んでゐた大勢おほぜいの友だちを覚えてゐる。しかし僕の友だちは長い年月としつきの流れるのにつれ、もう全然僕などとは縁のない暮らしをしてゐるであらう。僕は四五年まへ簡閲点呼かんえつてんこ大紙屋おほがみや岡本をかもとさんと一しよになつた。僕の知つてゐた大紙屋は封建時代に変りのない土蔵どざう造りの紙屋である。その又薄暗い店の中には番頭や小僧が何人もいそがしさうに歩きまはつてゐた。が、岡本さんの話によれば、今では店の組織も変り、海外へ紙を輸出するのにもいろいろ計画を立ててゐるらしい。
「この辺もすつかり変つてゐますか?」
「昔からある店もありますけれども、……町全体の落ち着かなさ加減はね。」
 僕はその大紙屋おほがみやのあつた「馬車通り」(「馬車通り」と云ふのはあたりへ通ふガタ馬車のあつた為である。)のぬかるみを思ひ出した。しかしまだ明治時代にはそこにも大紙屋のあつたやうに封建時代の影の落ちた何軒かの「しにせ」は残つてゐた。僕はこの馬車通りにあつた「魚善うをぜん」といふ肴屋さかなやを覚えてゐる。それから又樋口ひぐちさんといふ門構への医者を覚えてゐる。最後にこの樋口さんの近所にピストル強盗清水定吉しみづさだきちの住んでゐたことを覚えてゐる。明治時代もあらゆる時代のやうに何人かの犯罪的天才をつくり出した。ピストル強盗も稲妻いなづま強盗や五寸くぎ虎吉とらきちと一しよにかう云ふ天才たちの一人ひとりだつたであらう。僕は彼の按摩あんまになつて警官の目をくらませてゐたり、彼の家の壁をがんどう返しにして出没を自在にしてゐたことにロマン趣味を感じずにはゐられなかつた。これ等の犯罪的天才は大抵たいていは小説の主人公になり、さらに又所謂いわゆる壮士芝居の劇中人物になつたものである。僕はかういふ壮士芝居の中に「大悪僧だいあくそう」とか云ふものを見、一場ひとば々々の血なまぐささに夜も碌々ろくろく眠られなかつた。もつともこの「大悪僧」は或はピストル強盗のやうに実在の人物ではなかつたかも知れない。
 僕等はいつかほこりの色をした国技館こくぎくわんの前へ通りかかつた。国技館は丁度ちやうど日光につくわう東照宮とうせうぐう模型もけいか何かを見世物みせものにしてゐる所らしかつた。僕のかよつてゐた江東かうとう小学校は丁度ちやうどここに建つてゐたものである。現に残つてゐる大銀杏おほいてふも江東小学校の運動場の隅に、――といふよりも附属幼稚園の運動場の隅に枝をのばしてゐた。当時の小学校の校長の震災の為に死んだことは前に書いた通りである。が、僕はつい近頃やはり当時から在職してゐたT先生にお目にかかり、女生徒に裁縫さいほうを教へてゐた或女の先生も下水げすゐに近い京極きやうごく子爵家(?)のどぶの中に死んだことを知つたりした。この先生は着物は腐れ、体は骨になつてゐるものの、貯金帳だけはちやんと残つてゐた為にやつと誰だかわかつたさうである。T先生の話によれば、僕等を教へた先生たちは大抵たいてい本所ほんじよにゐないらしい。僕は比留間ひるま先生に張り倒されたことを覚えてゐる。それからそう先生に後頭部を突かれたことを覚えてゐる。それから葉若はわか先生に、――けれども僕の覚えてゐるのは体罰たいばつを受けたことばかりではない。僕は又この小学校の中にいろいろの喜劇のあつたことも覚えてゐる。殊に大島おほしまと云ふ僕の親友のちやんと机に向つたまま、いつかうんこをしてゐたのは喜劇中の喜劇だつた。しかしこの大島敏夫としおも――花や歌を愛してゐた江東小学校の秀才も二十はたち前後に故人になつてゐる。……
 国技館のとなりに回向院ゑかうゐんのあることは大抵たいてい誰でも知つてゐるであらう。所謂いはゆる本場所の相撲すまふまた国技館の出来ない前には回向院ゑかうゐん境内けいだい蓆張むしろばりの小屋をかけてゐたものである。僕等はこの義士の打ち入り以来、名高い回向院を見る為に国技館の横を曲つて行つた。が、それもここへ来る前にひそかに僕の予期してゐたやうにすつかり昔に変つてゐた。

回向院


 今日こんにち回向院ゑかうゐんはバラツクである。如何いかきんもんを打つた亜鉛葺トタンぶきの屋根はつてゐても、硝子ガラス戸を立てた本堂はバラツクと云ふほかに仕かたはない。僕等は読経どきやうの声を聞きながら、やはり僕には昔馴染なじみの鼠小僧ねずみこぞうの墓を見物に行つた。墓の前には今日こんにちでも乞食こじきが三四人集つてゐた。が、そんなことはどうでもい。それよりも僕を驚かしたのは膃肭獣をつとせい供養塔と云ふものの立つてゐたことである。僕はぼんやりこの石碑を見上げ、何かその奥の鼠小僧の墓に同情しないわけにはかなかつた。
 鼠小僧ねずみこぞう治郎太夫ぢろだいふの墓は建札たてふだも示してゐる通り、震災の火事にも滅びなかつた。赤い提灯ちやうちん蝋燭らふそく教覚速善けうかくそくぜん居士こじがくも大体昔の通りである。もつとも今は墓の石を欠かれない用心のしてあるばかりではない。墓の前の柱にちやんと「御用のおかたにはおまもり石をさし上げます」と書いた、小さい紙札もりつけてある。僕等はこの墓を後ろにし、今度は又墓地の奥に、――国技館の後ろにある京伝きやうでんの墓を尋ねて行つた。
 この墓地も僕にはなつかしかつた。僕は僕の友だちと一しよに度たびいたづらに石塔を倒し、寺男や坊さんに追ひかけられたものである。もつとも昔は樹木じゆもくも茂り、一口に墓地と云ふよりも卵塔場らんたふばと云ふ気のしたものだつた。が、今は墓石ぼせき勿論もちろん、墓をめぐつた鉄柵てつさくにも凄まじい火のあとは残つてゐる。僕は「水子塚みづこづか」の前を曲り、京伝きやうでんの墓の前へ辿たどり着いた。京伝の墓も京山きやうざんの墓と一しよにやはり昔に変つてゐない。唯それ等の墓の前に柿か何かの若木が一本、ひよろりと枝をのばしたまま、若葉を開いてゐるのは哀れだつた。
 僕等は回向院ゑかうゐんの表門を出、これもバラツクになつた坊主ばうず軍鶏しやもを見ながら、ひとの橋へ歩いて行つた。僕の記憶を信ずるとすれば、この一つ目の橋のあたりは大正時代にも幾分か広重ひろしげらしい画趣を持つてゐたものである。しかしもう今日こんにちではどこにもそんな景色は残つてゐない。僕等は無慙むざんにもひろげられたみちを向う両国りやうごくへ引き返しながら、偶然「たいちやん」のうちの前を通りかかつた。「泰ちやん」は下駄屋げたや息子むすこである。僕は僕の小学時代にも作文は多少上手じやうずだつた。が、僕の作文は、――と云ふよりも僕等の作文は、大抵たいてい所謂いはゆる美文だつた。「富士の峯白くかりがね池のおもてくだり、空仰げば月うるはしく、余が影法師黒し。」――これは僕の作文ではない。二三年まへに故人になつた僕の小学時代の友だちの一人ひとり、――清水昌彦しみづまさひこ君の作文である。「泰ちやん」はかう云ふ作文の中にひとり教科書の※(「鈞のつくり」、第3水準1-14-75)にほひのない、活き活きした口語文を作つてゐた。それはなんでも「にじ」といふ作文の題の出た時である。僕は内心僕の作文の一番になることを信じてゐた。が、先生の一番にしたのは「泰ちやん」――下駄屋「伊勢甚いせじん」の息子木村泰助きむらたいすけ君の作文だつた。「泰ちやん」は先生の命令を受け、彼自身の作文を朗読らうどくした。それは恐らくは誰よりも僕を動かさずにはおかなかつた。僕は勿論「泰ちやん」の為に見事に敗北を受けたことを感じた。同時に又「たいちやん」のゑがいた「虹」にありありと夕立ちの通り過ぎたのを感じた。僕を動かした文章は東西にわたつて少くはない。しかしまづ僕を動かしたのはこの「泰ちやん」の作文である。運命は僕を売文の徒にした。若し「泰ちやん」も僕のやうにペンをつてゐたとすれば、「大東京繁昌記はんじやうき」の読者はこの「本所ほんじよ両国りやうごく」よりも或は数等美しい印象記を読んでゐたかも知れない。けれども「泰ちやん」はどうしてゐるであらう? 僕は幾つも下駄の並んだ飾り窓の前にたたずんだまま、そつと店の中へ目を移した。店の中には「泰ちやん」のお母さんらしい人が一人ひとり坐つてゐる。が、木村泰助君は生憎あいにくどこにも見えなかつた。……

方丈記


 僕「今日は本所ほんじよへ行つて来ましたよ。」
 父「本所もすつかり変つたな。」
 母「うちの近所はどうなつてゐるえ?」
 僕「どうなつてゐるつて、……釣竿屋の石井いしゐさんにうちを売つたでせう。あの石井さんのあるだけですね。ああ、それから提灯屋ちやうちんやもあつた。……」
 伯母をば「あすこには洗湯せんたうもあつたでせう。」
 僕「今でも常磐湯ときはゆと云ふ洗湯はありますよ。」
 伯母「常磐湯と言つたかしら。」
 妻「あたしのゐたへんも変つたでせうね?」
 僕「変らないのは石河岸いしがしだけだよ。」
 妻「あすこにあつた、大きい柳は?」
 僕「柳などは勿論焼けてしまつたさ。」
 母「お前のまだ小さかつた頃には電車も通つてゐなかつたんだからね。」
 父「上野うへの新橋しんばしとのあひださへ鉄道馬車があつただけなんだから。――鉄道馬車と云ふ度に思ひ出すのは……」
 僕「僕の小便をしてしまつた話でせう。満員の鉄道馬車に乗つたまま。……」
 伯母「さうさう、赤いフランネルのズボン下をはいて、……」
 父「何、あの鉄道馬車会社の神戸かんべさんのことさ。神戸さんもこのあひだ死んでしまつたな。」
 僕「東京電燈の神戸かんべさんでせう。へええ、神戸さんを知つてゐるんですか?」
 父「知つてゐるとも。大倉おほくらさんなども知つてゐたもんだ。」
 僕「大倉喜八郎きはちらうをね……」
 父「僕もあの時分にどうかすれば、……」
 僕「もうそれだけで沢山たくさんですよ。」
 伯母「さうだね。この上損でもされてゐた日には……」(笑ふ)
 僕「『はん馬場ばば』あたりはかたなしですね。」
 父「あすこには葛飾北斎かつしかほくさいが住んでゐたことがある。」
 僕「『下水げすゐ』もやつぱり変つてしまひましたよ。」
 母「あすこにはわる御家人ごけにん沢山たくさんゐてね。」
 僕「僕の覚えてゐる時分でも何かそんな気のする所でしたね。」
 妻「おつるさんのうちはどうなつたでせう?」
 僕「お鶴さん? ああ、あの藍問屋あゐどんやの娘さんか。」
 妻「ええ、にいさんの好きだつた人。」
 僕「あのうちどうだつたかな。兄さんの為にも見て来るんだつけ。もつとも前は通つたんだけれども。」
 伯母「あたしは地震の年以来一度も行つたことはないんだから、――行つても驚くだらうけれども。」
 僕「それは驚くだけですよ。伯母をばさんには見当けんたうもつかないかも知れない。」
 父「何しろ変りも変つたからね。そら、昔は夕がたになると、みんな門を細目ほそめにあけて往来わうらいを見てゐたもんだらう?」
 母「法界節ほふかいぶしや何かの帰つて来るのをね。」
 伯母「あの時分は蝙蝠かうもり沢山たくさんゐたでせう。」
 僕「今は雀さへ飛んでゐませんよ。僕は実際無常むじやうを感じてね。……それでも一度行つてごらんなさい。まだずんずん変らうとしてゐるから。」
 妻「わたしは一度子供たちに亀井戸かめゐど太鼓橋たいこばしを見せてやりたい。」
 父「臥龍梅ぐわりゆうばいはもうなくなつたんだらうな?」
 僕「ええ、あれはもうとうに。……さあ、これから驚いたと云ふことを十五回だけ書かなければならない。」
 妻「驚いた、驚いたと書いてゐればいのに。」(笑ふ)
 僕「そのほかに何も書けるもんか。若し何か書けるとすれば、……さうだ。このポケツト本の中にちやんともう誰か書き尽してゐる。――『玉敷たましきの都の中に、むねを並べいらかを争へる、たかいやしき人の住居すまひは、代々よよてつきせぬものなれど、これをまことかとたづぬれば、昔ありし家はまれなり。……いにしへ見し人は、二三十人が中に、僅に一人ひとり二人ふたりなり。あしたに死し、ゆふべに生まるるならひ、ただ水のあわにぞ似たりける。知らず、生れ死ぬる人、何方いづかたより来りて、何方いづかたへか去る。』……」
 母「何だえ、それは? 『お文様ふみさま』のやうぢやないか?」
 僕「これですか? これは『方丈記はうぢやうき』ですよ。僕などよりもちよつと偉かつたかも長明ちやうめいと云ふ人の書いた本ですよ。」
(昭和二年五月)





底本:「芥川龍之介全集 第四巻」筑摩書房
   1971(昭和46)年6月5日初版第1刷発行
   1971(昭和46)年10月5日初版第5刷発行
初出:「東京日日新聞」
   1927(昭和2)年5、6月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:j.utiyama
校正:もりみつじゅんじ
1999年8月23日公開
2012年3月22日修正
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