横浜。
日華洋行の主人
陳彩は、机に背広の
両肘を
凭せて、火の消えた
葉巻を
啣えたまま、今日も
堆い商用書類に、繁忙な眼を
曝していた。
更紗の窓掛けを垂れた部屋の内には、
不相変残暑の
寂寞が、息苦しいくらい支配していた。その寂寞を破るものは、ニスの
のする戸の向うから、時々ここへ聞えて来る、かすかなタイプライタアの音だけであった。
書類が一山片づいた
後、
陳はふと何か思い出したように、卓上電話の受話器を耳へ当てた。
「
私の
家へかけてくれ給え。」
陳の唇を洩れる言葉は、妙に底力のある日本語であった。
「誰?――婆や?――奥さんにちょいと出て貰ってくれ。――
房子かい?――私は今夜東京へ行くからね、――ああ、向うへ泊って来る。――帰れないか?――とても汽車に
間に合うまい。――じゃ頼むよ。――何? 医者に来て貰った?――それは神経衰弱に違いないさ。よろしい。さようなら。」
陳は受話器を元の位置に戻すと、なぜか顔を曇らせながら、肥った指に
燐寸を
摺って、啣えていた葉巻を吸い始めた。
……煙草の煙、草花の
、ナイフやフォオクの皿に触れる音、部屋の隅から湧き
上る調子
外れのカルメンの音楽、――陳はそう云う騒ぎの中に、一杯の
麦酒を前にしながら、たった一人茫然と、
卓に肘をついている。彼の周囲にあるものは、客も、給仕も、煽風機も、何一つ目まぐるしく動いていないものはない。が、ただ、彼の視線だけは、帳場机の後の女の顔へ、さっきからじっと注がれている。
女はまだ見た所、
二十を越えてもいないらしい。それが壁へ貼った鏡を後に、絶えず鉛筆を動かしながら、
忙しそうにビルを書いている。額の
捲き毛、かすかな
頬紅、それから地味な
青磁色の半襟。――
陳は
麦酒を飲み干すと、
徐に大きな体を起して、帳場机の前へ歩み寄った。
「陳さん。いつ私に指環を買って下すって?」
女はこう云う間にも、依然として鉛筆を動かしている。
「その指環がなくなったら。」
陳は
小銭を探りながら、女の指へ
顋を向けた。そこにはすでに二年前から、延べの
金の
両端を
抱かせた、約婚の指環が
嵌っている。
「じゃ今夜買って頂戴。」
女は
咄嗟に指環を抜くと、ビルと一しょに彼の前へ投げた。
「これは護身用の指環なのよ。」
カッフェの
外のアスファルトには、涼しい夏の夜風が流れている。陳は人通りに
交りながら、何度も町の空の星を仰いで見た。その星も皆今夜だけは、……
誰かの戸を叩く音が、一年後の現実へ
陳彩の心を
喚び返した。
「おはいり。」
その声がまだ消えない内に、ニスの
のする戸がそっと明くと、顔色の蒼白い書記の
今西が、
無気味なほど静にはいって来た。
「手紙が参りました。」
黙って
頷いた陳の顔には、その上今西に
一言も、口を開かせない
不機嫌さがあった。今西は冷かに目礼すると、一通の封書を残したまま、また前のように音もなく、戸の向うの部屋へ帰って行った。
戸が今西の後にしまった
後、陳は灰皿に葉巻を捨てて、机の上の封書を取上げた。それは白い西洋封筒に、タイプライタアで宛名を打った、格別普通の商用書簡と、変る所のない手紙であった。しかしその手紙を手にすると同時に、陳の顔には云いようのない
嫌悪の情が浮んで来た。
「またか。」
陳は太い眉を
顰めながら、
忌々しそうに舌打ちをした。が、それにも関らず、
靴の
踵を机の
縁へ当てると、ほとんど輪転椅子の上に仰向けになって、
紙切小刀も使わずに封を切った。
「拝啓、貴下の夫人が貞操を守られざるは、再三御忠告……貴下が
今日に至るまで、何等
断乎たる処置に出でられざるは……されば夫人は旧日の情夫と共に、日夜……日本人にして且
珈琲店の給仕女たりし
房子夫人が、……
支那人たる貴下のために、
万斛の同情無き能わず候。……今後もし夫人を離婚せられずんば、……貴下は万人の
嗤笑する所となるも……
微衷不悪御推察……敬白。貴下の忠実なる友より。」
手紙は力なく陳の手から落ちた。
……陳は
卓子に
倚りかかりながら、レエスの窓掛けを
洩れる夕明りに、女持ちの金時計を眺めている。が、蓋の裏に彫った
文字は、房子のイニシアルではないらしい。
「これは?」
新婚後まだ何日も経たない房子は、西洋
箪笥の前に
佇んだまま、
卓子越しに夫へ
笑顔を送った。
「
田中さんが下すったの。御存知じゃなくって? 倉庫会社の――」
卓子の上にはその次に、指環の箱が二つ出て来た。
白天鵞絨の蓋を明けると、一つには真珠の、他の一つには
土耳古玉の指環がはいっている。
「
久米さんに
野村さん。」
今度は
珊瑚珠の
根懸けが出た。
「古風だわね。
久保田さんに頂いたのよ。」
その後から――何が出て来ても知らないように、陳はただじっと妻の顔を見ながら、考え深そうにこんな事を云った。
「これは皆お前の戦利品だね。大事にしなくちゃ済まないよ。」
すると房子は夕明りの中に、もう一度あでやかに笑って見せた。
「ですからあなたの戦利品もね。」
その時は彼も嬉しかった。しかし今は……
陳は身ぶるいを一つすると、机にかけていた両足を下した。それは卓上電話のベルが、突然彼の耳を驚かしたからであった。
「私。――よろしい。――
繋いでくれ給え。」
彼は電話に向いながら、
苛立たしそうに額の汗を拭った。
「誰?――
里見探偵事務所はわかっている。事務所の誰?――
吉井君?――よろしい。報告は?――何が来ていた?――医者?――それから?――そうかも知れない。――じゃ
停車場へ来ていてくれ給え。――いや、終列車にはきっと帰るから。――間違わないように。さようなら。」
受話器を置いた
陳彩は、まるで放心したように、しばらくは
黙然と坐っていた。が、やがて置き時計の針を見ると、半ば機械的にベルの
鈕を押した。
書記の今西はその
響に応じて、心もち
明けた戸の後から、
痩せた半身をさし延ばした。
「今西君。
鄭君にそう云ってくれ給え。今夜はどうか私の代りに、東京へ
御出でを願いますと。」
陳の声はいつの間にか、力のある調子を失っていた。今西はしかし例の通り、冷然と目礼を送ったまま、すぐに戸の向うへ隠れてしまった。
その内に
更紗の窓掛けへ、おいおい当って来た薄曇りの西日が、この部屋の中の光線に、どんよりした赤味を加え始めた。と同時に大きな
蠅が一匹、どこからここへ
紛れこんだか、
鈍い
羽音を立てながら、ぼんやり
頬杖をついた陳のまわりに、不規則な円を
描き始めた。…………
鎌倉。
陳彩の家の客間にも、レエスの窓掛けを垂れた窓の内には、
晩夏の日の暮が近づいて来た。しかし日の光は消えたものの、窓掛けの向うに煙っている、まだ花盛りの
夾竹桃は、この涼しそうな部屋の空気に、快い明るさを
漂わしていた。
壁際の
籐椅子に
倚った
房子は、膝の
三毛猫をさすりながら、その窓の外の夾竹桃へ、
物憂そうな視線を遊ばせていた。
「
旦那様は今晩も御帰りにならないのでございますか?」
これはその側の
卓子の上に、紅茶の道具を片づけている召使いの老女の言葉であった。
「ああ、今夜もまた寂しいわね。」
「せめて奥様が御病気でないと、心丈夫でございますけれども――」
「それでも私の病気はね、ただ神経が疲れているのだって、今日も
山内先生がそうおっしゃったわ。二三日よく眠りさえすれば、――あら。」
老女は驚いた眼を主人へ挙げた。すると子供らしい房子の顔には、なぜか今までにない恐怖の色が、ありありと
瞳に
漲っていた。
「どう遊ばしました? 奥様。」
「いいえ、何でもないのよ。何でもないのだけれど、――」
房子は無理に微笑しようとした。
「誰か今あすこの窓から、そっとこの部屋の中を、――」
しかし老女が一瞬の後に、その窓から外を
覗いた時には、ただ微風に
戦いでいる夾竹桃の植込みが、
人気のない庭の芝原を
透かして見せただけであった。
「まあ、気味の悪い。きっとまた御隣の
別荘の坊ちゃんが、
悪戯をなすったのでございますよ。」
「いいえ、御隣の坊ちゃんなんぞじゃなくってよ。何だか見た事があるような――そうそう、いつか
婆やと
長谷へ行った時に、私たちの後をついて来た、あの鳥打帽をかぶっている、若い人のような気がするわ。それとも――私の気のせいだったかしら。」
房子は何か考えるように、ゆっくり最後の言葉を云った。
「もしあの男でしたら、どう致しましょう。旦那様はお帰りになりませんし、――何なら
爺やでも警察へ、そう申しにやって見ましょうか。」
「まあ、婆やは臆病ね。あの人なんぞ何人来たって、私はちっとも
怖くないわ。けれどももし――もし私の気のせいだったら――」
老女は
不審そうに
瞬きをした。
「もし私の気のせいだったら、私はこのまま
気違になるかも知れないわね。」
「奥様はまあ、
御冗談ばっかり。」
老女は安心したように微笑しながら、また紅茶の道具を始末し始めた。
「いいえ、婆やは知らないからだわ。私はこの頃一人でいるとね、きっと誰かが私の後に立っているような気がするのよ。立って、そうして私の方をじっと見つめているような――」
房子はこう云いかけたまま、彼女自身の言葉に引き入れられたのか、急に
憂鬱な眼つきになった。
……電燈を消した二階の寝室には、かすかな香水の
のする薄暗がりが拡がっている。ただ窓掛けを引かない窓だけが、ぼんやり
明るんで見えるのは、月が出ているからに違いない。現にその光を浴びた房子は、独り窓の側に
佇みながら、眼の下の松林を眺めている。
夫は今夜も帰って来ない。召使いたちはすでに寝静まった。窓の外に見える庭の月夜も、ひっそりと風を落している。その中に鈍い物音が、
間遠に低く聞えるのは、今でも海が鳴っているらしい。
房子はしばらく立ち続けていた。すると次第に不思議な感覚が、彼女の心に目ざめて来た。それは誰かが後にいて、じっとその視線を彼女の上に集注しているような心もちである。
が、寝室の中には彼女のほかに、誰も人のいる理由はない。もしいるとすれば、――いや、戸には寝る前に、ちゃんと
錠が
下してある。ではこんな気がするのは、――そうだ。きっと神経が疲れているからに相違ない。彼女は
薄明い松林を見下しながら、何度もこう考え直そうとした。しかし誰かが見守っていると云う感じは、いくら一生懸命に打ち消して見ても、だんだん強くなるばかりである。
房子はとうとう思い切って、
怖わ
怖わ
後を振り返って見た。が、果して寝室の中には、
飼い
馴れた三毛猫の姿さえ見えない。やはり人がいるような気がしたのは、病的な神経の
仕業であった。――と思ったのはしかし言葉通り、ほんの一瞬の間だけである。房子はすぐにまた前の通り、何か眼に見えない物が、この部屋を満たした薄暗がりのどこかに、
潜んでいるような心もちがした。しかし以前よりさらに堪えられない事には、今度はその何物かの眼が、窓を後にした房子の顔へ、まともに視線を焼きつけている。
房子は全身の
戦慄と闘いながら、手近の壁へ手をのばすと、
咄嗟に電燈のスウィッチを
捻った。と同時に見慣れた寝室は、月明りに
交った薄暗がりを払って、頼もしい現実へ飛び移った。
寝台、
西洋、洗面台、――今はすべてが昼のような光の中に、嬉しいほどはっきり浮き上っている。その上それが何一つ、彼女が陳と結婚した一年以前と変っていない。こう云う幸福な周囲を見れば、どんなに気味の悪い
幻も、――いや、しかし怪しい何物かは、
眩しい電燈の光にも恐れず、寸刻もたゆまない凝視の眼を房子の顔に注いでいる。彼女は両手に顔を隠すが早いか、無我夢中に叫ぼうとした。が、なぜか声が立たない。その時彼女の心の上には、あらゆる経験を超越した恐怖が、……
房子は一週間以前の記憶から、
吐息と一しょに解放された。その拍子に
膝の三毛猫は、彼女の膝を飛び下りると、毛並みの美しい背を高くして、快さそうに
欠伸をした。
「そんな気は誰でも致すものでございますよ。
爺やなどはいつぞや御庭の松へ、
鋏をかけて居りましたら、まっ
昼間空に大勢の子供の笑い声が致したとか、そう申して居りました。それでもあの通り気が違う所か、御用の暇には私へ
小言ばかり申して居るじゃございませんか。」
老女は紅茶の
盆を
擡げながら、子供を慰めるようにこう云った。それを聞くと房子の
頬には、始めて微笑らしい影がさした。
「それこそ御隣の坊ちゃんが、おいたをなすったのに違いないわ。そんな事にびっくりするようじゃ、爺やもやっぱり臆病なのね。――あら、おしゃべりをしている内に、とうとう日が暮れてしまった。今夜は
旦那様が御帰りにならないから、好いようなものだけれど、――御湯は? 婆や。」
「もうよろしゅうございますとも。何ならちょいと私が御加減を見て参りましょうか。」
「好いわ。すぐにはいるから。」
房子はようやく気軽そうに、
壁側の
籐椅子から身を起した。
「また今夜も御隣の坊ちゃんたちは、花火を御揚げなさるかしら。」
老女が房子の
後から、静に出て行ってしまった
跡には、もう夾竹桃も見えなくなった、薄暗い空虚の客間が残った。すると二人に忘れられた、あの小さな三毛猫は、急に何か見つけたように、一飛びに戸口へ飛んで行った。そうしてまるで誰かの足に、体を
摺りつけるような身ぶりをした。が、部屋に拡がった暮色の中には、その三毛猫の二つの眼が、無気味な
燐光を放つほかに、何もいるようなけはいは見えなかった。……………
横浜。
日華洋行の宿直室には、
長椅子に寝ころんだ書記の
今西が、余り明くない電燈の下に、新刊の雑誌を
拡げていた。が、やがて手近の
卓子の上へ、その雑誌をばたりと
抛ると、大事そうに
上衣の隠しから、一枚の写真をとり出した。そうしてそれを眺めながら、蒼白い頬にいつまでも、幸福らしい微笑を浮べていた。
写真は
陳彩の妻の
房子が、
桃割れに
結った半身であった。
鎌倉。
下り終列車の笛が、星月夜の空に
上った時、改札口を出た
陳彩は、たった一人跡に残って、二つ折の
鞄を抱えたまま、寂しい構内を眺めまわした。すると電燈の薄暗い
壁側のベンチに坐っていた、背の高い背広の男が一人、太い
籐の
杖を引きずりながら、のそのそ陳の側へ歩み寄った。そうして
闊達に鳥打帽を脱ぐと、声だけは低く
挨拶をした。
「陳さんですか? 私は
吉井です。」
陳はほとんど無表情に、じろりと相手の顔を眺めた。
「
今日は御苦労でした。」
「先ほど電話をかけましたが、――」
「その
後何もなかったですか?」
陳の語気には、相手の言葉を
弾き
除けるような力があった。
「何もありません。奥さんは医者が帰ってしまうと、日暮までは婆やを相手に、何か話して御出ででした。それから御湯や御食事をすませて、十時頃までは
蓄音機を御聞きになっていたようです。」
「客は一人も来なかったですか?」
「ええ、一人も。」
「君が監視をやめたのは?」
「十一時二十分です。」
吉井の
返答もてきぱきしていた。
「その
後終列車まで汽車はないですね。」
「ありません。
上りも、
下りも。」
「いや、
難有う。帰ったら
里見君に、よろしく云ってくれ給え。」
陳は
麦藁帽の
庇へ手をやると、吉井が鳥打帽を脱ぐのには眼もかけず、砂利を敷いた構外へ
大股に歩み出した。その
容子が余り
無遠慮すぎたせいか、吉井は陳の
後姿を見送ったなり、ちょいと両肩を
聳やかせた。が、すぐまた気にも止めないように、軽快な口笛を鳴らしながら、
停車場前の宿屋の方へ、太い籐の杖を引きずって行った。
鎌倉。
一時間の
後陳彩は、彼等夫婦の寝室の戸へ、
盗賊のように耳を当てながら、じっと容子を
窺っている彼自身を発見した。寝室の外の廊下には、息のつまるような暗闇が、一面にあたりを封じていた。その
中にただ一点、かすかな明りが見えるのは、戸の向うの電燈の光が、
鍵穴を洩れるそれであった。
陳はほとんど破裂しそうな心臓の
鼓動を抑えながら、ぴったり戸へ当てた耳に、全身の注意を集めていた。が、寝室の中からは何の話し声も聞えなかった。その沈黙がまた陳にとっては、一層堪え難い
呵責であった。彼は目の前の暗闇の底に、停車場からここへ来る途中の、思いがけない出来事が、もう一度はっきり見えるような気がした。
……枝を
交した松の下には、しっとり砂に露の下りた、細い路が続いている。大空に澄んだ無数の星も、その松の枝の
重なったここへは、
滅多に光を落して来ない。が、海の近い事は、
疎な
芒に流れて来る
潮風が明かに語っている。陳はさっきからたった一人、
夜と共に強くなった
松脂の
を嗅ぎながら、こう云う寂しい闇の中に、注意深い歩みを運んでいた。
その内に彼はふと足を止めると、不審そうに行く手を
透かして見た。それは彼の家の
煉瓦塀が、何歩か先に黒々と、現われて来たからばかりではない、その
常春藤に
蔽われた、古風な塀の見えるあたりに、忍びやかな靴の音が、突然聞え出したからである。
が、いくら
透して見ても、松や芒の闇が深いせいか、
肝腎の姿は見る事が出来ない。ただ、
咄嗟に感づいたのは、その足音がこちらへ来ずに、向うへ行くらしいと云う事である。
「
莫迦な、この路を歩く資格は、おればかりにある訳じゃあるまいし。」
陳はこう心の中に、早くも疑惑を抱き出した彼自身を叱ろうとした。が、この路は彼の家の裏門の前へ出るほかには、どこへも通じていない筈である。して見れば、――と思う
刹那に陳の耳には、その裏門の戸の開く音が、折から流れて来た潮風と一しょに、かすかながらも伝わって来た。
「
可笑しいぞ。あの裏門には
今朝見た時も、錠がかかっていた筈だが。」
そう思うと共に
陳彩は、獲物を見つけた
猟犬のように、油断なくあたりへ気を配りながら、そっとその裏門の前へ歩み寄った。が、裏門の戸はしまっている。力一ぱい押して見ても、動きそうな
気色も見えないのは、いつの
間にか元の通り、錠が下りてしまったらしい。陳はその戸に
倚りかかりながら、膝を
埋めた芒の中に、しばらくは
茫然と
佇んでいた。
「門が明くような音がしたのは、おれの耳の
迷だったかしら。」
が、さっきの足音は、もうどこからも聞えて来ない。
常春藤の
簇った塀の上には、火の光もささない彼の家が、ひっそりと星空に
聳えている。すると陳の心には、急に悲しさがこみ上げて来た。何がそんなに悲しかったか、それは彼自身にもはっきりしない。ただそこに
佇んだまま、
乏しい虫の
音に聞き入っていると、自然と涙が彼の頬へ、冷やかに流れ始めたのである。
「
房子。」
陳はほとんど
呻くように、なつかしい妻の名前を呼んだ。
するとその
途端である。高い二階の
室の一つには、意外にも
眩しい電燈がともった。
「あの窓は、――あれは、――」
陳は
際どい息を呑んで、手近の松の幹を
捉えながら、延び上るように二階の窓を見上げた。窓は、――二階の寝室の窓は、
硝子戸をすっかり明け放った向うに、明るい室内を
覗かせている。そうしてそこから流れる光が、塀の内に茂った松の
梢を、ぼんやり暗い空に漂わせている。
しかし不思議はそればかりではない。やがてその二階の窓際には、こちらへ向いたらしい人影が一つ、
朧げな
輪廓を浮き上らせた。
生憎電燈の光が
後にあるから、顔かたちは誰だか判然しない。が、ともかくもその姿が、女でない事だけは確かである。陳は思わず塀の
常春藤を
掴んで、倒れかかる体を支えながら、苦しそうに切れ切れな声を洩らした。
「あの手紙は、――まさか、――房子だけは――」
一瞬間の後陳彩は、
安々塀を乗り越えると、庭の松の間をくぐりくぐり、
首尾よく二階の真下にある、客間の窓際へ忍び寄った。そこには花も葉も露に濡れた、水々しい
夾竹桃の一むらが、………
陳はまっ暗な外の
廊下に、乾いた唇を噛みながら、一層
嫉妬深い聞き耳を立てた。それはこの時戸の向うに、さっき彼が聞いたような、用心深い靴の音が、二三度
床に
響いたからであった。
足響はすぐに消えてしまった。が、興奮した陳の神経には、ほどなく窓をしめる音が、
鼓膜を刺すように聞えて来た。その後には、――また長い沈黙があった。
その沈黙はたちまち
絞め
木のように、色を失った陳の額へ、冷たい
脂汗を絞り出した。彼はわなわな
震える手に、戸のノッブを探り当てた。が、戸に錠の下りている事は、すぐにそのノッブが教えてくれた。
すると今度は
櫛かピンかが、突然ばたりと落ちる音が聞えた。しかしそれを拾い上げる音は、いくら耳を澄ましていても、なぜか陳には聞えなかった。
こう云う物音は
一つ
一つ、文字通り陳の心臓を打った。陳はその度に身を震わせながら、それでも耳だけは剛情にも、じっと寝室の戸へ押しつけていた。しかし彼の興奮が極度に達している事は、時々彼があたりへ投げる、気違いじみた視線にも明かであった。
苦しい何秒かが過ぎた後、戸の向うからはかすかながら、ため息をつく声が聞えて来た。と思うとすぐに
寝台の上へも、誰かが静に
上ったようであった。
もしこんな状態が、もう一分続いたなら、陳は戸の前に立ちすくんだまま、失心してしまったかも知れなかった。が、この時戸から洩れる
蜘蛛の糸ほどの朧げな光が、天啓のように彼の眼を
捉えた。陳は
咄嗟に
床へ
這うと、ノッブの下にある
鍵穴から、食い入るような視線を室内へ送った。
その刹那に陳の眼の前には、永久に
呪わしい光景が開けた。…………
横浜。
書記の
今西は内隠しへ、房子の写真を
還してしまうと、静に
長椅子から立ち上った。そうして例の通り音もなく、まっ暗な次の
間へはいって行った。
スウィッチを
捻る音と共に、次の
間はすぐに明くなった。その部屋の卓上電燈の光は、いつの
間にそこへ坐ったか、タイプライタアに向っている今西の姿を照し出した。
今西の指はたちまちの内に、目まぐるしい運動を続け出した。と同時にタイプライタアは、休みない響を
刻みながら、何行かの
文字が断続した一枚の紙を吐き始めた。
「拝啓、貴下の夫人が貞操を守られざるは、この上なおも申上ぐべき必要無き事と存じ候。されど貴下は溺愛の余り……」
今西の顔はこの瞬間、
憎悪そのもののマスクであった。
鎌倉。
陳の寝室の戸は破れていた。が、その
外は寝台も、
西洋も、洗面台も、それから明るい電燈の光も、ことごとく一瞬間以前と同じであった。
陳彩は部屋の隅に
佇んだまま、寝台の前に伏し
重なった、二人の姿を眺めていた。その一人は
房子であった。――と云うよりもむしろさっきまでは、房子だった「物」であった。この顔中紫に
腫れ上った「物」は、半ば舌を吐いたまま、
薄眼に天井を見つめていた。もう一人は陳彩であった。部屋の隅にいる陳彩と、寸分も変らない陳彩であった。これは房子だった「物」に重なりながら、爪も見えないほど相手の
喉に、両手の指を
埋めていた。そうしてその
露わな
乳房の上に、生死もわからない頭を
凭せていた。
何分かの沈黙が過ぎた
後、
床の上の陳彩は、まだ苦しそうに
喘ぎながら、
徐に
肥った体を起した。が、やっと体を起したと思うと、すぐまた側にある
椅子の上へ、倒れるように腰を下してしまった。
その時部屋の隅にいる陳彩は、静に壁際を離れながら、房子だった「物」の側に歩み寄った。そうしてその紫に
腫上った顔へ、限りなく悲しそうな眼を落した。
椅子の上の陳彩は、彼以外の存在に気がつくが早いか、気違いのように椅子から立ち上った。彼の顔には、――血走った眼の中には、凄まじい殺意が
閃いていた。が、相手の姿を一目見るとその殺意は見る見る内に、云いようのない恐怖に変って行った。
「誰だ、お前は?」
彼は椅子の前に立ちすくんだまま、息のつまりそうな声を出した。
「さっき松林の中を歩いていたのも、――裏門からそっと忍びこんだのも、――この窓際に立って外を見ていたのも、――おれの妻を、――房子を――」
彼の言葉は一度途絶えてから、また荒々しい
嗄れ声になった。
「お前だろう。誰だ、お前は?」
もう一人の陳彩は、しかし何とも答えなかった。その代りに眼を挙げて、悲しそうに相手の陳彩を眺めた。すると椅子の前の陳彩は、この視線に射すくまされたように、
無気味なほど大きな眼をしながら、だんだん壁際の方へすさり始めた。が、その間も彼の
唇は、「誰だ、お前は?」を繰返すように、時々声もなく動いていた。
その内にもう一人の陳彩は、房子だった「物」の側に
跪くと、そっとその細い
頸へ手を廻した。それから頸に残っている、無残な指の
痕に唇を当てた。
明い電燈の光に満ちた、
墓窖よりも静な寝室の中には、やがてかすかな泣き声が、
途切れ途切れに聞え出した。見るとここにいる二人の陳彩は、壁際に立った陳彩も、床に跪いた陳彩のように、両手に顔を埋めながら………
東京。
突然『影』の映画が消えた時、私は一人の女と一しょに、ある活動写真館のボックスの椅子に坐っていた。
「今の写真はもうすんだのかしら。」
女は憂鬱な眼を私に向けた。それが私には『影』の中の房子の眼を思い出させた。
「どの写真?」
「今のさ。『影』と云うのだろう。」
女は無言のまま、膝の上のプログラムを私に渡してくれた。が、それにはどこを探しても、『影』と云う標題は見当らなかった。
「するとおれは夢を見ていたのかな。それにしても眠った覚えのないのは妙じゃないか。おまけにその『影』と云うのが妙な写真でね。――」
私は手短かに『影』の
梗概を話した。
「その写真なら、私も見た事があるわ。」
私が話し終った時、女は寂しい眼の底に微笑の色を動かしながら、ほとんど聞えないようにこう返事をした。
「お互に『影』なんぞは、気にしないようにしましょうね。」
(大正九年七月十四日)