芥川龍之介




 横浜よこはま
 日華洋行にっかようこうの主人陳彩ちんさいは、机に背広の両肘りょうひじもたせて、火の消えた葉巻はまきくわえたまま、今日もうずたかい商用書類に、繁忙な眼をさらしていた。
 更紗さらさの窓掛けを垂れた部屋の内には、不相変あいかわらず残暑の寂寞せきばくが、息苦しいくらい支配していた。その寂寞を破るものは、ニスの※(「均のつくり」、第3水準1-14-75)においのする戸の向うから、時々ここへ聞えて来る、かすかなタイプライタアの音だけであった。
 書類が一山片づいたのちちんはふと何か思い出したように、卓上電話の受話器を耳へ当てた。
わたしうちへかけてくれ給え。」
 陳の唇を洩れる言葉は、妙に底力のある日本語であった。
「誰?――婆や?――奥さんにちょいと出て貰ってくれ。――房子ふさこかい?――私は今夜東京へ行くからね、――ああ、向うへ泊って来る。――帰れないか?――とても汽車にに合うまい。――じゃ頼むよ。――何? 医者に来て貰った?――それは神経衰弱に違いないさ。よろしい。さようなら。」
 陳は受話器を元の位置に戻すと、なぜか顔を曇らせながら、肥った指に燐寸マッチって、啣えていた葉巻を吸い始めた。
 ……煙草の煙、草花の※(「均のつくり」、第3水準1-14-75)におい、ナイフやフォオクの皿に触れる音、部屋の隅から湧きのぼる調子はずれのカルメンの音楽、――陳はそう云う騒ぎの中に、一杯の麦酒ビールを前にしながら、たった一人茫然と、テーブルに肘をついている。彼の周囲にあるものは、客も、給仕も、煽風機も、何一つ目まぐるしく動いていないものはない。が、ただ、彼の視線だけは、帳場机の後の女の顔へ、さっきからじっと注がれている。
 女はまだ見た所、二十はたちを越えてもいないらしい。それが壁へ貼った鏡を後に、絶えず鉛筆を動かしながら、せわしそうにビルを書いている。額のき毛、かすかな頬紅ほおべに、それから地味な青磁色せいじいろの半襟。――
 陳は麦酒ビールを飲み干すと、おもむろに大きな体を起して、帳場机の前へ歩み寄った。
「陳さん。いつ私に指環を買って下すって?」
 女はこう云う間にも、依然として鉛筆を動かしている。
「その指環がなくなったら。」
 陳は小銭こぜにを探りながら、女の指へあごを向けた。そこにはすでに二年前から、延べのきん両端りょうはしかせた、約婚の指環がはまっている。
「じゃ今夜買って頂戴。」
 女は咄嗟とっさに指環を抜くと、ビルと一しょに彼の前へ投げた。
「これは護身用の指環なのよ。」
 カッフェのそとのアスファルトには、涼しい夏の夜風が流れている。陳は人通りにまじりながら、何度も町の空の星を仰いで見た。その星も皆今夜だけは、……
 誰かの戸を叩く音が、一年後の現実へ陳彩ちんさいの心をび返した。
「おはいり。」
 その声がまだ消えない内に、ニスの※(「均のつくり」、第3水準1-14-75)のする戸がそっと明くと、顔色の蒼白い書記の今西いまにしが、無気味ぶきみなほど静にはいって来た。
「手紙が参りました。」
 黙ってうなずいた陳の顔には、その上今西に一言いちごんも、口を開かせない不機嫌ふきげんさがあった。今西は冷かに目礼すると、一通の封書を残したまま、また前のように音もなく、戸の向うの部屋へ帰って行った。
 戸が今西の後にしまったのち、陳は灰皿に葉巻を捨てて、机の上の封書を取上げた。それは白い西洋封筒に、タイプライタアで宛名を打った、格別普通の商用書簡と、変る所のない手紙であった。しかしその手紙を手にすると同時に、陳の顔には云いようのない嫌悪けんおの情が浮んで来た。
「またか。」
 陳は太い眉をしかめながら、忌々いまいましそうに舌打ちをした。が、それにも関らず、くつかかとを机のふちへ当てると、ほとんど輪転椅子の上に仰向けになって、紙切小刀かみきりこがたなも使わずに封を切った。
「拝啓、貴下の夫人が貞操を守られざるは、再三御忠告……貴下が今日こんにちに至るまで、何等断乎だんこたる処置に出でられざるは……されば夫人は旧日の情夫と共に、日夜……日本人にして且珈琲店コーヒーてんの給仕女たりし房子ふさこ夫人が、……支那人シナじんたる貴下のために、万斛ばんこくの同情無き能わず候。……今後もし夫人を離婚せられずんば、……貴下は万人の嗤笑ししょうする所となるも……微衷不悪びちゅうあしからず御推察……敬白。貴下の忠実なる友より。」
 手紙は力なく陳の手から落ちた。
 ……陳は卓子テーブルりかかりながら、レエスの窓掛けをれる夕明りに、女持ちの金時計を眺めている。が、蓋の裏に彫った文字もじは、房子のイニシアルではないらしい。
「これは?」
 新婚後まだ何日も経たない房子は、西洋箪笥たんすの前にたたずんだまま、卓子テーブル越しに夫へ笑顔えがおを送った。
田中たなかさんが下すったの。御存知じゃなくって? 倉庫会社の――」
 卓子テーブルの上にはその次に、指環の箱が二つ出て来た。白天鵞絨しろびろうどの蓋を明けると、一つには真珠の、他の一つには土耳古玉トルコだまの指環がはいっている。
久米くめさんに野村のむらさん。」
 今度は珊瑚珠さんごじゅ根懸ねかけが出た。
「古風だわね。久保田くぼたさんに頂いたのよ。」
 その後から――何が出て来ても知らないように、陳はただじっと妻の顔を見ながら、考え深そうにこんな事を云った。
「これは皆お前の戦利品だね。大事にしなくちゃ済まないよ。」
 すると房子は夕明りの中に、もう一度あでやかに笑って見せた。
「ですからあなたの戦利品もね。」
 その時は彼も嬉しかった。しかし今は……
 陳は身ぶるいを一つすると、机にかけていた両足を下した。それは卓上電話のベルが、突然彼の耳を驚かしたからであった。
「私。――よろしい。――つないでくれ給え。」
 彼は電話に向いながら、苛立いらだたしそうに額の汗を拭った。
「誰?――里見探偵さとみたんてい事務所はわかっている。事務所の誰?――吉井よしい君?――よろしい。報告は?――何が来ていた?――医者?――それから?――そうかも知れない。――じゃ停車場ていしゃばへ来ていてくれ給え。――いや、終列車にはきっと帰るから。――間違わないように。さようなら。」
 受話器を置いた陳彩ちんさいは、まるで放心したように、しばらくは黙然もくねんと坐っていた。が、やがて置き時計の針を見ると、半ば機械的にベルのボタンを押した。
 書記の今西はそのひびきに応じて、心もちけた戸の後から、せた半身をさし延ばした。
「今西君。てい君にそう云ってくれ給え。今夜はどうか私の代りに、東京へ御出おいでを願いますと。」
 陳の声はいつの間にか、力のある調子を失っていた。今西はしかし例の通り、冷然と目礼を送ったまま、すぐに戸の向うへ隠れてしまった。
 その内に更紗さらさの窓掛けへ、おいおい当って来た薄曇りの西日が、この部屋の中の光線に、どんよりした赤味を加え始めた。と同時に大きなはえが一匹、どこからここへまぎれこんだか、にぶ羽音はおとを立てながら、ぼんやり頬杖ほおづえをついた陳のまわりに、不規則な円をえがき始めた。…………

 鎌倉かまくら
 陳彩ちんさいの家の客間にも、レエスの窓掛けを垂れた窓の内には、晩夏おそなつの日の暮が近づいて来た。しかし日の光は消えたものの、窓掛けの向うに煙っている、まだ花盛りの夾竹桃きょうちくとうは、この涼しそうな部屋の空気に、快い明るさをただよわしていた。
 壁際かべぎわ籐椅子とういすった房子ふさこは、膝の三毛猫みけねこをさすりながら、その窓の外の夾竹桃へ、物憂ものうそうな視線を遊ばせていた。
旦那様だんなさまは今晩も御帰りにならないのでございますか?」
 これはその側の卓子テーブルの上に、紅茶の道具を片づけている召使いの老女の言葉であった。
「ああ、今夜もまた寂しいわね。」
「せめて奥様が御病気でないと、心丈夫でございますけれども――」
「それでも私の病気はね、ただ神経が疲れているのだって、今日も山内やまのうち先生がそうおっしゃったわ。二三日よく眠りさえすれば、――あら。」
 老女は驚いた眼を主人へ挙げた。すると子供らしい房子の顔には、なぜか今までにない恐怖の色が、ありありとひとみみなぎっていた。
「どう遊ばしました? 奥様。」
「いいえ、何でもないのよ。何でもないのだけれど、――」
 房子は無理に微笑しようとした。
「誰か今あすこの窓から、そっとこの部屋の中を、――」
 しかし老女が一瞬の後に、その窓から外をのぞいた時には、ただ微風にそよいでいる夾竹桃の植込みが、人気ひとけのない庭の芝原をかして見せただけであった。
「まあ、気味の悪い。きっとまた御隣の別荘べっそうの坊ちゃんが、悪戯いたずらをなすったのでございますよ。」
「いいえ、御隣の坊ちゃんなんぞじゃなくってよ。何だか見た事があるような――そうそう、いつかばあやと長谷はせへ行った時に、私たちの後をついて来た、あの鳥打帽をかぶっている、若い人のような気がするわ。それとも――私の気のせいだったかしら。」
 房子は何か考えるように、ゆっくり最後の言葉を云った。
「もしあの男でしたら、どう致しましょう。旦那様はお帰りになりませんし、――何ならじいやでも警察へ、そう申しにやって見ましょうか。」
「まあ、婆やは臆病ね。あの人なんぞ何人来たって、私はちっともこわくないわ。けれどももし――もし私の気のせいだったら――」
 老女は不審ふしんそうにまばたきをした。
「もし私の気のせいだったら、私はこのまま気違きちがいになるかも知れないわね。」
「奥様はまあ、御冗談ごじょうだんばっかり。」
 老女は安心したように微笑しながら、また紅茶の道具を始末し始めた。
「いいえ、婆やは知らないからだわ。私はこの頃一人でいるとね、きっと誰かが私の後に立っているような気がするのよ。立って、そうして私の方をじっと見つめているような――」
 房子はこう云いかけたまま、彼女自身の言葉に引き入れられたのか、急に憂鬱ゆううつな眼つきになった。
 ……電燈を消した二階の寝室には、かすかな香水の※(「均のつくり」、第3水準1-14-75)においのする薄暗がりが拡がっている。ただ窓掛けを引かない窓だけが、ぼんやりあかるんで見えるのは、月が出ているからに違いない。現にその光を浴びた房子は、独り窓の側にたたずみながら、眼の下の松林を眺めている。
 夫は今夜も帰って来ない。召使いたちはすでに寝静まった。窓の外に見える庭の月夜も、ひっそりと風を落している。その中に鈍い物音が、間遠まどおに低く聞えるのは、今でも海が鳴っているらしい。
 房子はしばらく立ち続けていた。すると次第に不思議な感覚が、彼女の心に目ざめて来た。それは誰かが後にいて、じっとその視線を彼女の上に集注しているような心もちである。
 が、寝室の中には彼女のほかに、誰も人のいる理由はない。もしいるとすれば、――いや、戸には寝る前に、ちゃんとじょうおろしてある。ではこんな気がするのは、――そうだ。きっと神経が疲れているからに相違ない。彼女は薄明うすあかるい松林を見下しながら、何度もこう考え直そうとした。しかし誰かが見守っていると云う感じは、いくら一生懸命に打ち消して見ても、だんだん強くなるばかりである。
 房子はとうとう思い切って、うしろを振り返って見た。が、果して寝室の中には、れた三毛猫の姿さえ見えない。やはり人がいるような気がしたのは、病的な神経の仕業しわざであった。――と思ったのはしかし言葉通り、ほんの一瞬の間だけである。房子はすぐにまた前の通り、何か眼に見えない物が、この部屋を満たした薄暗がりのどこかに、ひそんでいるような心もちがした。しかし以前よりさらに堪えられない事には、今度はその何物かの眼が、窓を後にした房子の顔へ、まともに視線を焼きつけている。
 房子は全身の戦慄せんりつと闘いながら、手近の壁へ手をのばすと、咄嗟とっさに電燈のスウィッチをひねった。と同時に見慣れた寝室は、月明りにまじった薄暗がりを払って、頼もしい現実へ飛び移った。寝台しんだい西洋※(「巾+厨」、第4水準2-8-91)せいようがや、洗面台、――今はすべてが昼のような光の中に、嬉しいほどはっきり浮き上っている。その上それが何一つ、彼女が陳と結婚した一年以前と変っていない。こう云う幸福な周囲を見れば、どんなに気味の悪いまぼろしも、――いや、しかし怪しい何物かは、まぶしい電燈の光にも恐れず、寸刻もたゆまない凝視の眼を房子の顔に注いでいる。彼女は両手に顔を隠すが早いか、無我夢中に叫ぼうとした。が、なぜか声が立たない。その時彼女の心の上には、あらゆる経験を超越した恐怖が、……
 房子は一週間以前の記憶から、吐息といきと一しょに解放された。その拍子にひざの三毛猫は、彼女の膝を飛び下りると、毛並みの美しい背を高くして、快さそうに欠伸あくびをした。
「そんな気は誰でも致すものでございますよ。じいやなどはいつぞや御庭の松へ、はさみをかけて居りましたら、まっ昼間ぴるま空に大勢の子供の笑い声が致したとか、そう申して居りました。それでもあの通り気が違う所か、御用の暇には私へ小言こごとばかり申して居るじゃございませんか。」
 老女は紅茶のぼんもたげながら、子供を慰めるようにこう云った。それを聞くと房子のほおには、始めて微笑らしい影がさした。
「それこそ御隣の坊ちゃんが、おいたをなすったのに違いないわ。そんな事にびっくりするようじゃ、爺やもやっぱり臆病なのね。――あら、おしゃべりをしている内に、とうとう日が暮れてしまった。今夜は旦那だんな様が御帰りにならないから、好いようなものだけれど、――御湯は? 婆や。」
「もうよろしゅうございますとも。何ならちょいと私が御加減を見て参りましょうか。」
「好いわ。すぐにはいるから。」
 房子はようやく気軽そうに、壁側かべぎわ籐椅子とういすから身を起した。
「また今夜も御隣の坊ちゃんたちは、花火を御揚げなさるかしら。」
 老女が房子のあとから、静に出て行ってしまったあとには、もう夾竹桃も見えなくなった、薄暗い空虚の客間が残った。すると二人に忘れられた、あの小さな三毛猫は、急に何か見つけたように、一飛びに戸口へ飛んで行った。そうしてまるで誰かの足に、体をりつけるような身ぶりをした。が、部屋に拡がった暮色の中には、その三毛猫の二つの眼が、無気味な燐光りんこうを放つほかに、何もいるようなけはいは見えなかった。……………

 横浜。
 日華洋行にっかようこうの宿直室には、長椅子ながいすに寝ころんだ書記の今西いまにしが、余り明くない電燈の下に、新刊の雑誌をひろげていた。が、やがて手近の卓子テーブルの上へ、その雑誌をばたりとなげると、大事そうに上衣うわぎの隠しから、一枚の写真をとり出した。そうしてそれを眺めながら、蒼白い頬にいつまでも、幸福らしい微笑を浮べていた。
 写真は陳彩ちんさいの妻の房子ふさこが、桃割ももわれにった半身であった。
 
 鎌倉。
 くだり終列車の笛が、星月夜の空にのぼった時、改札口を出た陳彩ちんさいは、たった一人跡に残って、二つ折のかばんを抱えたまま、寂しい構内を眺めまわした。すると電燈の薄暗い壁側かべぎわのベンチに坐っていた、背の高い背広の男が一人、太いとうつえを引きずりながら、のそのそ陳の側へ歩み寄った。そうして闊達かったつに鳥打帽を脱ぐと、声だけは低く挨拶あいさつをした。
「陳さんですか? 私は吉井よしいです。」
 陳はほとんど無表情に、じろりと相手の顔を眺めた。
今日こんにちは御苦労でした。」
「先ほど電話をかけましたが、――」
「その何もなかったですか?」
 陳の語気には、相手の言葉をはじけるような力があった。
「何もありません。奥さんは医者が帰ってしまうと、日暮までは婆やを相手に、何か話して御出ででした。それから御湯や御食事をすませて、十時頃までは蓄音機ちくおんきを御聞きになっていたようです。」
「客は一人も来なかったですか?」
「ええ、一人も。」
「君が監視をやめたのは?」
「十一時二十分です。」
 吉井の返答ことばもてきぱきしていた。
「その終列車まで汽車はないですね。」
「ありません。のぼりも、くだりも。」
「いや、難有ありがとう。帰ったら里見さとみ君に、よろしく云ってくれ給え。」
 陳は麦藁帽むぎわらぼうひさしへ手をやると、吉井が鳥打帽を脱ぐのには眼もかけず、砂利を敷いた構外へ大股おおまたに歩み出した。その容子ようすが余り無遠慮ぶえんりょすぎたせいか、吉井は陳の後姿うしろすがたを見送ったなり、ちょいと両肩をそびやかせた。が、すぐまた気にも止めないように、軽快な口笛を鳴らしながら、停車場ていしゃば前の宿屋の方へ、太い籐の杖を引きずって行った。

 鎌倉。
 一時間ののち陳彩ちんさいは、彼等夫婦の寝室の戸へ、盗賊とうぞくのように耳を当てながら、じっと容子をうかがっている彼自身を発見した。寝室の外の廊下には、息のつまるような暗闇が、一面にあたりを封じていた。そのうちにただ一点、かすかな明りが見えるのは、戸の向うの電燈の光が、鍵穴かぎあなを洩れるそれであった。
 陳はほとんど破裂しそうな心臓の鼓動こどうを抑えながら、ぴったり戸へ当てた耳に、全身の注意を集めていた。が、寝室の中からは何の話し声も聞えなかった。その沈黙がまた陳にとっては、一層堪え難い呵責かしゃくであった。彼は目の前の暗闇の底に、停車場からここへ来る途中の、思いがけない出来事が、もう一度はっきり見えるような気がした。
 ……枝をかわした松の下には、しっとり砂に露の下りた、細い路が続いている。大空に澄んだ無数の星も、その松の枝のかさなったここへは、滅多めったに光を落して来ない。が、海の近い事は、まばらすすきに流れて来る潮風しおかぜが明かに語っている。陳はさっきからたった一人、と共に強くなった松脂まつやに※(「均のつくり」、第3水準1-14-75)においを嗅ぎながら、こう云う寂しい闇の中に、注意深い歩みを運んでいた。
 その内に彼はふと足を止めると、不審そうに行く手をかして見た。それは彼の家の煉瓦塀れんがべいが、何歩か先に黒々と、現われて来たからばかりではない、その常春藤きづたおおわれた、古風な塀の見えるあたりに、忍びやかな靴の音が、突然聞え出したからである。
 が、いくらすかして見ても、松や芒の闇が深いせいか、肝腎かんじんの姿は見る事が出来ない。ただ、咄嗟とっさに感づいたのは、その足音がこちらへ来ずに、向うへ行くらしいと云う事である。
莫迦ばかな、この路を歩く資格は、おればかりにある訳じゃあるまいし。」
 陳はこう心の中に、早くも疑惑を抱き出した彼自身を叱ろうとした。が、この路は彼の家の裏門の前へ出るほかには、どこへも通じていない筈である。して見れば、――と思う刹那せつなに陳の耳には、その裏門の戸の開く音が、折から流れて来た潮風と一しょに、かすかながらも伝わって来た。
可笑おかしいぞ。あの裏門には今朝けさ見た時も、錠がかかっていた筈だが。」
 そう思うと共に陳彩ちんさいは、獲物を見つけた猟犬りょうけんのように、油断なくあたりへ気を配りながら、そっとその裏門の前へ歩み寄った。が、裏門の戸はしまっている。力一ぱい押して見ても、動きそうな気色けしきも見えないのは、いつのにか元の通り、錠が下りてしまったらしい。陳はその戸にりかかりながら、膝をうずめた芒の中に、しばらくは茫然ぼうぜんたたずんでいた。
「門が明くような音がしたのは、おれの耳のまよいだったかしら。」
 が、さっきの足音は、もうどこからも聞えて来ない。常春藤きづたむらがった塀の上には、火の光もささない彼の家が、ひっそりと星空にそびえている。すると陳の心には、急に悲しさがこみ上げて来た。何がそんなに悲しかったか、それは彼自身にもはっきりしない。ただそこにたたずんだまま、とぼしい虫のに聞き入っていると、自然と涙が彼の頬へ、冷やかに流れ始めたのである。
房子ふさこ。」
 陳はほとんどうめくように、なつかしい妻の名前を呼んだ。
 するとその途端とたんである。高い二階のへやの一つには、意外にもまぶしい電燈がともった。
「あの窓は、――あれは、――」
 陳はきわどい息を呑んで、手近の松の幹をとらえながら、延び上るように二階の窓を見上げた。窓は、――二階の寝室の窓は、硝子ガラス戸をすっかり明け放った向うに、明るい室内をのぞかせている。そうしてそこから流れる光が、塀の内に茂った松のこずえを、ぼんやり暗い空に漂わせている。
 しかし不思議はそればかりではない。やがてその二階の窓際には、こちらへ向いたらしい人影が一つ、おぼろげな輪廓りんかくを浮き上らせた。生憎あいにく電燈の光がうしろにあるから、顔かたちは誰だか判然しない。が、ともかくもその姿が、女でない事だけは確かである。陳は思わず塀の常春藤きづたつかんで、倒れかかる体を支えながら、苦しそうに切れ切れな声を洩らした。
「あの手紙は、――まさか、――房子だけは――」
 一瞬間の後陳彩は、安々やすやす塀を乗り越えると、庭の松の間をくぐりくぐり、首尾しゅびよく二階の真下にある、客間の窓際へ忍び寄った。そこには花も葉も露に濡れた、水々しい夾竹桃きょうちくとうの一むらが、………
 陳はまっ暗な外の廊下ろうかに、乾いた唇を噛みながら、一層嫉妬しっと深い聞き耳を立てた。それはこの時戸の向うに、さっき彼が聞いたような、用心深い靴の音が、二三度ゆかひびいたからであった。
 足響あしおとはすぐに消えてしまった。が、興奮した陳の神経には、ほどなく窓をしめる音が、鼓膜こまくを刺すように聞えて来た。その後には、――また長い沈黙があった。
 その沈黙はたちまちのように、色を失った陳の額へ、冷たい脂汗あぶらあせを絞り出した。彼はわなわなふるえる手に、戸のノッブを探り当てた。が、戸に錠の下りている事は、すぐにそのノッブが教えてくれた。
 すると今度はくしかピンかが、突然ばたりと落ちる音が聞えた。しかしそれを拾い上げる音は、いくら耳を澄ましていても、なぜか陳には聞えなかった。
 こう云う物音はびとひとつ、文字通り陳の心臓を打った。陳はその度に身を震わせながら、それでも耳だけは剛情にも、じっと寝室の戸へ押しつけていた。しかし彼の興奮が極度に達している事は、時々彼があたりへ投げる、気違いじみた視線にも明かであった。
 苦しい何秒かが過ぎた後、戸の向うからはかすかながら、ため息をつく声が聞えて来た。と思うとすぐに寝台しんだいの上へも、誰かが静にあがったようであった。
 もしこんな状態が、もう一分続いたなら、陳は戸の前に立ちすくんだまま、失心してしまったかも知れなかった。が、この時戸から洩れる蜘蛛くもの糸ほどの朧げな光が、天啓のように彼の眼をとらえた。陳は咄嗟とっさゆかうと、ノッブの下にある鍵穴かぎあなから、食い入るような視線を室内へ送った。
 その刹那に陳の眼の前には、永久にのろわしい光景が開けた。…………

 横浜。
 書記の今西いまにしは内隠しへ、房子の写真をかえしてしまうと、静に長椅子ながいすから立ち上った。そうして例の通り音もなく、まっ暗な次のへはいって行った。
 スウィッチをひねる音と共に、次のはすぐに明くなった。その部屋の卓上電燈の光は、いつのにそこへ坐ったか、タイプライタアに向っている今西の姿を照し出した。
 今西の指はたちまちの内に、目まぐるしい運動を続け出した。と同時にタイプライタアは、休みない響をきざみながら、何行かの文字もじが断続した一枚の紙を吐き始めた。
「拝啓、貴下の夫人が貞操を守られざるは、この上なおも申上ぐべき必要無き事と存じ候。されど貴下は溺愛の余り……」
 今西の顔はこの瞬間、憎悪ぞうおそのもののマスクであった。

 鎌倉。
 ちんの寝室の戸は破れていた。が、そのほかは寝台も、西洋※(「巾+厨」、第4水準2-8-91)せいようがやも、洗面台も、それから明るい電燈の光も、ことごとく一瞬間以前と同じであった。
 陳彩ちんさいは部屋の隅にたたずんだまま、寝台の前に伏しかさなった、二人の姿を眺めていた。その一人は房子ふさこであった。――と云うよりもむしろさっきまでは、房子だった「物」であった。この顔中紫にれ上った「物」は、半ば舌を吐いたまま、薄眼うすめに天井を見つめていた。もう一人は陳彩であった。部屋の隅にいる陳彩と、寸分も変らない陳彩であった。これは房子だった「物」に重なりながら、爪も見えないほど相手ののどに、両手の指をうずめていた。そうしてそのあらわな乳房ちぶさの上に、生死もわからない頭をもたせていた。
 何分かの沈黙が過ぎたのちゆかの上の陳彩は、まだ苦しそうにあえぎながら、おもむろふとった体を起した。が、やっと体を起したと思うと、すぐまた側にある椅子いすの上へ、倒れるように腰を下してしまった。
 その時部屋の隅にいる陳彩は、静に壁際を離れながら、房子だった「物」の側に歩み寄った。そうしてその紫に腫上はれあがった顔へ、限りなく悲しそうな眼を落した。
 椅子の上の陳彩は、彼以外の存在に気がつくが早いか、気違いのように椅子から立ち上った。彼の顔には、――血走った眼の中には、凄まじい殺意がひらめいていた。が、相手の姿を一目見るとその殺意は見る見る内に、云いようのない恐怖に変って行った。
「誰だ、お前は?」
 彼は椅子の前に立ちすくんだまま、息のつまりそうな声を出した。
「さっき松林の中を歩いていたのも、――裏門からそっと忍びこんだのも、――この窓際に立って外を見ていたのも、――おれの妻を、――房子を――」
 彼の言葉は一度途絶えてから、また荒々しいしわがれ声になった。
「お前だろう。誰だ、お前は?」
 もう一人の陳彩は、しかし何とも答えなかった。その代りに眼を挙げて、悲しそうに相手の陳彩を眺めた。すると椅子の前の陳彩は、この視線に射すくまされたように、無気味ぶきみなほど大きな眼をしながら、だんだん壁際の方へすさり始めた。が、その間も彼のくちびるは、「誰だ、お前は?」を繰返すように、時々声もなく動いていた。
 その内にもう一人の陳彩は、房子だった「物」の側にひざまずくと、そっとその細いくびへ手を廻した。それから頸に残っている、無残な指のあとに唇を当てた。
 明い電燈の光に満ちた、墓窖はかあなよりも静な寝室の中には、やがてかすかな泣き声が、途切とぎれ途切れに聞え出した。見るとここにいる二人の陳彩は、壁際に立った陳彩も、床に跪いた陳彩のように、両手に顔を埋めながら………

 東京。
 突然『影』の映画が消えた時、私は一人の女と一しょに、ある活動写真館のボックスの椅子に坐っていた。
「今の写真はもうすんだのかしら。」
 女は憂鬱な眼を私に向けた。それが私には『影』の中の房子の眼を思い出させた。
「どの写真?」
「今のさ。『影』と云うのだろう。」
 女は無言のまま、膝の上のプログラムを私に渡してくれた。が、それにはどこを探しても、『影』と云う標題は見当らなかった。
「するとおれは夢を見ていたのかな。それにしても眠った覚えのないのは妙じゃないか。おまけにその『影』と云うのが妙な写真でね。――」
 私は手短かに『影』の梗概こうがいを話した。
「その写真なら、私も見た事があるわ。」
 私が話し終った時、女は寂しい眼の底に微笑の色を動かしながら、ほとんど聞えないようにこう返事をした。
「お互に『影』なんぞは、気にしないようにしましょうね。」
(大正九年七月十四日)





底本:「芥川龍之介全集4」ちくま文庫、筑摩書房
   1987(昭和62)年1月27日第1刷発行
   1996(平成8)年7月15日第8刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版芥川龍之介全集」筑摩書房
   1971(昭和46)年3月〜1971(昭和46)年11月
入力:j.utiyama
校正:もりみつじゅんじ
1999年3月1日公開
2004年3月8日修正
青空文庫作成ファイル:
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●表記について