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美濃部民子様
わたくしは今年の秋の初に、少しの暇を得ましたので、明治卅三年から最近までに作りました自分の詩の草稿を整理し、其中から四百廿壱篇を撰んで此の一冊にまとめました。かうしてまとめて置けば、他日わたくしの子どもたちが何かの底から見附け出し、母の生活の記録の断片として読んでくれるかも知れないくらゐに考へてゐましたのですが、幸なことに、実業之日本社の御厚意に由り、このやうに印刷して下さることになりました。
ついては、奥様、この一冊を奥様に捧げさせて頂くことを、何とぞお許し下さいまし。
奥様は久しい以前から御自身の園にお手づからお作りになつてゐる薔薇の花を、毎年春から冬へかけて、お手づからお採りになつては屡わたくしに贈つて下さいます。お女中に持たせて来て頂くばかりで無く、郊外からのお帰りに、その花のみづみづしい間にと思召して、御自身でわざわざお立寄り下さることさへ度度であるのに、わたくしは何時も何時も感激して居ます。わたくしは奥様のお優しいお心の花であり匂ひであるその薔薇の花に、この十年の間、どれだけ励まされ、どれだけ和らげられてゐるか知れません。何時も何時もかたじけないことだと喜んで居ます。
この一冊は、決して奥様のお優しいお心に酬い得るもので無く、奥様から頂くいろいろの秀れた美くしい薔薇の花に比べ得るものでも無いのですが、唯だわたくしの一生に、折にふれて心から歌ひたくて、真面目にわたくしの感動を打出したものであること、全く純個人的な、普遍性の乏しい、勝手気儘な詩ですけれども、わたくしと云ふ素人の手作りである点だけが奥様の薔薇と似てゐることに由つて、この光も香もない一冊をお受け下さいまし。
永い年月に草稿が失はれたので是れに収め得なかつたもの、また意識して省いたものが併せて二百篇もあらうと思ひます。今日までの作を総べて整理して一冊にしたと云ふ意味で「全集」の名を附けました。制作の年代が既に自分にも分らなくなつてゐるものが多いので、ほぼ似寄つた心情のものを類聚して篇を分ちました。統一の無いのはわたくしの心の姿として御覧を願ひます。
山下新太郎先生が装幀のお筆を執つて下さいましたことは、奥様も、他の友人達も、一般の読者達も、共に喜んで下さいますことと思ひます。
與謝野晶子
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装幀 山下新太郎先生
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與謝野晶子
晶子詩篇全集
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[#ここから2段組み]
如何なれば草よ、
風吹けば
一方に寄る。
人の身は
然らず、
己が心の向き向きに寄る。
何か
善き、
何か
悪しき、
知らず、
唯だ人は向き向き。
わが
家の天井に
鼠栖めり、
きしきしと音するは
鑿とりて像を
彫む人
夜も寝ぬが
如し。
またその妻と踊りては
廻るひびき
競馬の
勢あり。
わが物書く上に
屋根裏の砂ぼこり
はらはらと散るも
彼等いかで知らん。
されど我は思ふ、
我は
鼠と共に
栖めるなり、
彼等に食ひ物あれ、
よき温かき巣あれ、
天井に
孔をも
開けて
折折に我を
覗けよ。
わが心、
程を
踰えて
高ぶり、
他を
凌ぐ時、
何時も
何時も君を
憶ふ。
わが心、消えなんばかり
はかなげに
滅入れば、また
何時も
何時も君を
憶ふ。
つつましく、
謙り、
しかも命と身を投げ
出だして
人と真理の愛に強き君、
ああ我が賀川
豐彦の君。
時として
独を守る。
時として皆と
親む。
おほかたは
険しき
方に
先づ
行きて命傷つく。
こしかたも
是れ、
行く
末も
是れ。
許せ、我が
斯かる
気儘を。
野の秋更けて、
露霜に
打たるものの哀れさよ。
いよいよ赤む
蓼の茎、
黒き実まじるコスモスの花、
さてはまた雑草のうら
枯れて
斑を作る黄と緑。
唯だ
一事の知りたさに
彼れを読み、
其れを読み、
われ知らず
夜を更かし、
取り散らす
数数の書の
座を
繞る古き
巻巻。
客人[#ルビの「まらうど」は底本では「まろうど」]よ、これを見たまへ、
秋の野の
臥す
猪の
床の
萩の花とも。
ともに歌へば、歌へば、
よろこび身にぞ余る。
賢きも智を忘れ、
富みたるも財を忘れ、
貧しき我等も労を忘れて、
愛と美と涙の中に
和楽する
一味の人。
歌は長きも
好し、
悠揚として
朗かなるは
天に似よ、海に似よ。
短きは更に好し、
ちらとの
微笑、端的の叫び。
とにかくに楽し、
ともに歌へば、歌へば。
わが恋を人問ひ
給ふ。
わが恋を
如何に答へん、
譬ふれば
小き塔なり、
礎に
二人の命、
真柱に愛を立てつつ、
層ごとに学と芸術、
汗と血を塗りて固めぬ。
塔は
是れ
無極の塔、
更に積み、更に重ねて、
世の風と雨に当らん。
猶卑し、今立つ所、
猶狭し、今見る所、
天つ日も多くは
射さず、
寒きこと二月の
如し。
頼めるは、
微なれども
唯だ一つ
内なる光。
わが
行く
路は
常日頃
三人四人とつれだちぬ、
また時として
唯だ
一人。
一人行く日も華やかに、
三人四人と
行くときは
更にこころの
楽めり。
我等は
選りぬ、
己が
路、
一すぢなれど
己が
路、
けはしけれども
己が
路。
病みぬる人は思ふこと
身の
病をば
先きとして
すべてを思ふ習ひなり。
我は
年頃恋をして
世の
大方を
後にしぬ。
かかる立場の
止み
難し、
人に似ざれと、
偏れど。
ここで
誰の車が困つたか、
泥が二尺の口を
開いて
鉄の輪にひたと吸ひ付き、
三度四度、人の
滑つた跡も見える。
其時、
両脚を
槓杆とし、
全身の力を集めて
一気に引上げた心は
鉄ならば火を噴いたであらう。
ああ、
自ら
励む者は
折折、これだけの事にも
その二つと無い命を
賭ける。
木は皆その
自らの根で
地に縛られてゐる。
鳥は朝飛んでも
日暮には巣に返される。
人の身も同じこと、
自由な
魂を持ちながら
同じ区、同じ町、同じ番地、
同じ
寝台に起き
臥しする。
わたしは先生のお宅を出る。
先生の視線が私の背中にある、
わたしは
其れを感じる、
葉巻の香りが私を追つて来る、
わたしは
其れを感じる。
玄関から
御門までの
赤土の坂、並木道、
太陽と松の幹が太い
縞を作つてゐる。
わたしはぱつと日傘を拡げて、
左の手に持ち直す、
頂いた
紫陽花の重たい花束。
どこかで
蝉が一つ鳴く。
風ふく
夜なかに
夜まはりの
拍子木の音、
唯だ
二片の木なれど、
樫の木の堅くして、
年経つつ、
手ずれ、
膏じみ、
心から重たく、
二つ触れては澄み
入り、
嚠喨たる
拍子木の音、
如何に
夜まはりの心も
みづから打ち
みづから聴きて楽しからん。
部屋ごとに
点けよ、
百
燭の光。
瓶ごとに
生けよ、
ひなげしと
薔薇と。
慰むるためならず、
懲らしむるためなり。
ここに
一人の女、
讃むるを忘れ、
感謝を忘れ、
小き事一つに
つと泣かまほしくなりぬ。
三十を越えて
未だ
娶らぬ
詩人
大學先生の前に
実在の恋人現れよ、
その詩を読む女は多けれど、
詩人の手より
誰が
家の
女か放たしめん、
マリイ・ロオランサンの扇。
城が
島の
岬のはて、
笹しげり、
黄ばみて
濡れ、
その下に赤き
切、
近き
汀は
瑠璃、
沖はコバルト、
ここに来て
暫し
坐れば
春のかぜ我にあつまる。
トンネルを又一つ
出でて
海の景色かはる、
心かはる。
静浦の口の津。
わが
敬する
龍三郎[#ルビの「りゆうざぶらう」は底本では「りうざぶらう」]の君、
幾度か
此水を
描き
給へり。
切りたる石は白く、
船に当る日は桃色、
磯の
路は
観つつ曲る、
猶しばし
歩まん。
ルサイユ
宮[#ルビの「きゆう」は底本では「きう」]を過ぎしかど、
われは
是れに
勝る花を見ざりき。
牡丹よ、
葉は地中海の
桔梗色と
群青とを盛り重ね、
花は
印度の太陽の
赤光を懸けたり。
たとひ
色相はすべて
空しとも、
何か
傷まん、
牡丹を見つつある
間は
豊麗
炎※[#「執/れんが」、U+24360、11-上-10]の夢に我の
浸れば。
佳きかな、
美くしきかな、
矢を
番へて、
臂張り、
引き絞りたる弓の
形。
射よ、射よ、
子等よ、
鳥ならずして、射よ、
唯だ
彼の空を。
的を思ふことなかれ、
子等と弓との共に作る
その
形こそいみじけれ、
唯だ射よ、
彼の空を。
わが思ひ、この朝ぞ
秋に澄み、一つに集まる。
愛と、死と、芸術と、
玲瓏として涼し。
目を上げて見れば
かの
青空も
我れなり、
その
木立も
我れなり、
前なる
狗子草も
涙しとどに
溜めて
やがて泣ける
我れなり。
蓼枯れて茎
猶紅し、
竹さへも秋に黄ばみぬ。
園の
路草に隠れて、
草の露昼も乾かず。
咲き残るダリアの花の
泣く
如く花粉をこぼす。
童部よ、追ふことなかれ、
向日葵の実を
食む小鳥。
翅無き身の悲しきかな、
常にありぬ、
猶ありぬ、
大空高く飛ぶ心。
我れは
痩馬、
黙黙と
重き荷を負ふ。人知らず、
人知らず、人知らず。
外の国より
胆太に
そつと降りたる飛行船、
夜の
間に去れば跡も無し。
我はおろかな飛行船、
君が心を
覗くとて、
見あらはされた飛行船。
六もと
七もと立つ柳、
冬は見えしか、一列の
廃墟に
遺る
柱廊[#ルビの「ちゆうらう」は底本では「ちうらう」]と。
春の光に立つ柳、
今日こそ見ゆれ、
美くしく、
これは
翡翠の
殿づくり。
ものを知らざる易者かな、
我手を見んと求むるは。
そなたに告げん、我がために
占ふことは遅れたり。
かの世のことは知らねども、
わがこの
諸手、この世にて、
上なき
幸も、わざはひも、
取るべき限り満たされぬ。
甥なる者の歎くやう、
「
二十越ゆれど、詩を書かず、
踊を知らず、琴弾かず、
これ若き日と
云ふべきや、
富む
家の子と
云ふべきや。」
これを聞きたる若き叔母、
目の
盲ひたれば、手探りに、
甥の手を
執り
云ひにけり、
「いと
好し、今は
家を出よ、
寂しき我に似るなかれ。」
花を見上げて「悲し」とは
君なにごとを
云ひたまふ。
嬉しき問ひよ、さればなり、
春の盛りの短くて、
早たそがれの
青病が、
敏き感じにわななける
女の白き身の上に
毒の
沁むごと近づけば。
おもちやの
熊を抱く時は
熊の兄とも思ふらし、
母に先だち
行く時は
母より
路を知りげなり。
五歳に満たぬアウギユスト、
みづから
恃むその
性を
母はよしやと
笑みながら、
はた涙ぐむ、人知れず。
紅梅と
菜の花を
生けた
壺。
正月の
卓に
格別かはつた飾りも無い。
せめて、こんな暇にと、
絵具箱を
開けて、
わたしは
下手な写生をする。
紅梅と
菜の花を
生けた
壺。
唯だ一つ、あなたに
お尋ねします。
あなたは、今、
民衆の
中に在るのか、
民衆の
外に在るのか、
そのお
答次第で、
あなたと私とは
永劫[#ルビの「えいごふ」は底本では「えいがふ」]、天と地とに
別れてしまひます。
白きレエスを
透す秋の光
木立と芝生との反射、
外も
内も
浅葱の色に明るし。
立ちて窓を開けば
木犀の
香冷やかに流れ
入る。
椅子の上に少しさし
俯向き、
己が手の静脈の
ほのかに青きを見詰めながら、
静かなり、
今朝の心。
歌はんとして
躊躇へり、
かかる事、
昨日無かりき。
善し
悪しを
云ふも
慵し、
これもまた
此日の心。
我れは今ひともとの草、
つつましく
濡れて
項垂る
[#「項垂る」は底本では「頂垂る」]。
悲しみを喜びにして
爽かに大いなる秋。
何として青く、
青く沈み
入る
今宵の心ぞ。
指に
挟む筆は鉄の重味、
書きさして見詰むる紙に
水の光流る。
求めたまふや、わが歌を。
かかる
寂しきわが歌を。
それは
昨日の
一しづく、
底に残りし
薔薇の水。
それは
千とせの
一かけら、
砂に
埋れし青き
玉。
憎む、
どの
玉葱も
冷かに
我を見詰めて緑なり。
憎む、
その皿の余りに白し、
寒し、痛し。
憎む、
如何なれば
二方の壁よ、
云ひ合せて耳を立つるぞ。
堪へ
難く悲しければ
我は
云ひぬ「船に乗らん。」
乗りつれど
猶さびしさに
また
云ひぬ「月の出を待たん。」
海は閉ぢたる書物の
如く
呼び掛くること無く、
しばらくして、
円き月
波に
跳りつれば
云ひぬ、
「長き
竿の
欲し、
かの
珊瑚の
魚を釣る。」
鉢のなかの
活溌な
緋目高よ、
赤く焼けた
釘で
なぜ、そんなに無駄に
水に
孔を
開けるのか。
気の毒な先覚者よ、
革命は水の上に無い。
星が
四方の桟敷に
きらきらする。
今夜の月は
支那の役者、
やさしい
西施に
扮して、
白い絹
団扇で顔を隠し、
ほがらかに秋を歌ふ。
その
路をずつと
行くと
死の海に落ち込むと教へられ、
中途で引返した私、
卑怯な
利口者であつた私、
それ以来、私の前には
岐路と
迂路とばかりが続いてゐる。
空には七月の太陽、
白い壁と白い
河岸通りには
海から
上る帆柱の影。
どこかで鋼鉄の板を
叩く
船大工の
槌がひびく。
私の
肘をつく窓には
快い
南風。
窓の
直ぐ下の潮は
ペパミントの
酒になる。
我を
値踏す、かの人ら。
げに買はるべき我ならめ、
かの太陽に
値のあらば。
先づ
天つ日を、次に
薔薇、
それに見とれて
時経しが、
疲れたる目を移さんと、
して
漸くに君を見き。
そこの
椿に
木隠れて
何を
覗くや、春の風。
忍ぶとすれど、身じろぎに
赤い
椿の花が散る。
君の心を
究めんと、
じつと
黙してある身にも
似るか、素直な春の風、
赤い
笑まひが先に立つ。
扇を取れば舞をこそ、
筆をにぎれば歌をこそ、
胸ときめきて思ふなれ。
若き心はとこしへに
春を
留むるすべを知る。
花屋の
温室に、すくすくと
きさくな枝の桃が咲く。
覗くことをば怠るな、
人の心も
温室なれば。
なみなみ
注げる
杯を
眺めて
眸の
湿むとは、
如何に
嬉しき心ぞや。
いざ干したまへ、
猶注がん、
後なる酒は
淡くとも、
君の知りたる酒なれば、
我の追ひ
注ぐ酒なれば。
鳥羽の山より海見れば、
清き涙が
頬を伝ふ。
人この故を問はであれ、
口に
云ふとも尽きじかし。
知らんとならば共に見よ、
臥せる
美神の肌のごと
すべて
微笑む入江をば。
志摩の国こそ
希臘なれ。
弥生はじめの
糸雨に
岡の草こそ青むなれ。
雪に
跳りし
若駒の
ひづめのあとの
窪みをも
円く
埋めて青むなれ。
あれ、
琵琶のおと、
俄かにも
初心な涙の
琵琶のおと。
高い
軒から、
明方の
夢に流れる
琵琶のおと。
二月の雨のしほらしや、
咲かぬ花をば恨めども、
ブリキの
樋に身を隠し、
それと
云はずに
琵琶を弾く。
夜更けた
辻の薄墨の
痩せた柳よ、糸やなぎ。
七日の月が
細細と
高い屋根から
覗けども、
なんぼ柳は
寂しかろ。
物思ふ身も独りぼち。
落葉した木は
Yの字を
墨くろぐろと空に書き、
思ひ切つたる
明星は
黄金の句点を一つ打つ。
薄く削つた
白金の
神経質の粉雪よ、
瘧を
慄ふ電線に
ちくちく
触る粉雪よ。
我もやうやく街に立ち、
物
乞ふために歌ふなり。
ああ、
我歌を
誰れ知らん、
惜しき
頸輪の
緒を解きて
日毎に散らす
珠ぞとは。
思は長し、尽き
難し、
歌は
何れも
断章。
たとひ万年生きばとて
飽くこと知らぬ我なれば、
恋の初めのここちせん。
羽の
斑は
刺青か、
短気なやうな
蝶が来る。
今日の
入日の悲しさよ。
思ひなしかは知らねども、
短気なやうな
蝶が来る。
彼れも取りたし、
其れも
欲し、
飽かぬ心の
止み
難し。
時は短し、身は一つ、
多く取らんは
難からめ、
中に極めて優れしを
今は得んとぞ願ふなる。
されば近きをさし
措きて、
及ばぬ
方へ手を伸ぶる。
[#ここで段組み終わり]
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[#ここから2段組み]
小序。詩を作り終りて常に感ずることは、我国の詩に押韻の体なきために、句の独立性の確実に対する不安なり。散文の横書にあらずやと云ふ非難は、放縦なる自由詩の何れにも伴ふが如し。この欠点を救ひて押韻の新体を試みる風の起らんこと、我が年久しき願ひなり。みづから興に触れて折折に試みたる拙きものより、次に其一部を抄せんとす。押韻の法は唐以前の古詩、または欧洲の詩を参照し、主として内心の自律的発展に本づきながら、多少の推敲を加へたり。コンソナンツを避けざるは仏蘭西近代の詩に同じ。毎句に同韻を押し、または隔句に同語を繰返して韻に押すは漢土の古詩に例多し。(一九二八年春)
×
砂を掘つたら血が噴いて、
入れた
泥鰌が
竜になる。
ここで
暫く絶句して、
序文に
凝つて
夜が明けて、
覚めた夢から針が降る。
×
時に先だち歌ふ人、
しひたげられて光る人、
豚に
黄金をくれる人、
にがい
笑を隠す人、
いつも
一人で帰る人。
×
赤い桜をそそのかし、
風の
癖なるしのび足、
ひとりで聞けば
恋慕らし。
雨はもとより春の糸、
窓の柳も春の糸。
×
見る夢ならば大きかれ、
美くしけれど遠き夢、
険しけれども近き夢。
われは前をば選びつれ、
わかき仲間は
後の夢。
×
すべてが消える、武蔵野の
砂を吹きまく風の中、
人も荷馬車も風の中。
すべてが消える、
金の輪の
太陽までが風の中。
×
花を抱きつつをののきぬ、
花はこころに
被さりぬ。
論じたまふな、
善き、
悪しき、
何か
此世に
分つべき。
花と我とはかがやきぬ。
×
凡骨さんの大事がる
薄い細身の鉄の
鑿。
髪に触れても
刄の欠ける
もろい
鑿ゆゑ大事がる。
わたしも同じもろい
鑿。
×
林檎が腐る、
香を放つ、
冷たい
香ゆゑ
堪へられぬ。
林檎が腐る、人は死ぬ、
最後の
文が人を打つ、
わたしは君を
悲まぬ。
×
いつもわたしのむらごころ、
真紅の
薔薇を摘むこころ、
雪を素足で踏むこころ、
青い沖をば
行くこころ、
切れた
絃をばつぐこころ。
×
韻がひびかぬ、死んでゐる、
それで
頻りに書いてみる。
皆さんの愚痴、おのが無智、
誰れが
覗いた垣の
中、
戸は立てられぬ人の口。
×
泥の郊外、雨が降る、
濡れた
竈に木がいぶる、
踏切番が旗を振る、
ぼうぼうとした草の中
屑屋も買はぬ人の
故。
×
指のさはりのやはらかな
青い煙の
匂やかな、
好きな細巻、名は
DIANA。
命の
闇に火をつけて、
光る
刹那の夢の華。
×
青い空から鳥がくる、
野辺のけしきは既に春、
細い枝にも花がある。
遠い
高嶺と我がこころ
すこしの雪がまだ残る。
×
槌を上げる手、
鍬打つ手、
扇を持つ手、筆とる手、
炭をつかむ手、
児を抱く手、
かげに隠れて
唯だひとつ
見えぬは天をゆびさす手。
×
高い
木末に葉が落ちて
あらはに見える、小鳥の巣。
鳥は飛び去り、冬が来て、
風が吹きまく砂つぶて。
ひろい
野中の小鳥の巣。
×
人は
黒黒ぬり消せど
すかして見える底の
金。
時の言葉は
隔つれど
冴ゆるは歌の
金の韻。
ままよ、
暫く
隅に居ん。
×
いつか大きくなるままに
子らは寝に
来ず、母の
側。
母はまだまだ
云ひたきに、
金のお日様、
唖の
驢馬、
おとぎ
噺が
云ひたきに。
×
ふくろふがなく、宵になく、
山の法師がつれてなく。
わたしは泣かない気でゐれど、
からりと晴れた
今朝の窓
あまりに青い空に泣く。
×
おち葉した木が空を打ち、
枝も小枝も腕を張る。
ほんにどの木も冬に勝ち、
しかと
大地に立つてゐる。
女ごころはいぢけがち。
×
玉葱の
香を
嗅がせても
青い
蛙はむかんかく。
裂けた心を目にしても
廿世紀は横を向く、
太陽までがすまし
行く。
×
話は春の雪の
沙汰、
しろい
孔雀のそだてかた、
巴里の夢をもたらした
荻野綾子の宵の
唄、
我子がつくる
薔薇の
畑。
×
誰れも
彼方へ
行きたがる、
明るい道へ目を見張る、
おそらく
其処に春がある。
なぜか
行くほどその道が
今日のわたしに遠ざかる。
×
青い小鳥のひかる
羽、
わかい小鳥の躍る胸、
遠い海をば渡りかね、
[#「渡りかね、」は底本では「渡りかね、」」]
泣いてゐるとは
誰れが知ろ、
まだ薄雪の消えぬ峰。
×
つうちで象をつうくつた
[#「つうくつた」は底本では「つくつた」]、
大きな象が目に立つた、
象の祭がさあかえた、
象が
俄かに
吼えだした、
吼えたら象がこおわれた。
×
まぜ合はすのは目ぶんりやう、
その振るときのたのしさう。
かつくてえるのことでない、
わたしの知つたことでない、
若い手で振る無産党。
×
鳥を追ふとて
安壽姫、
母に
逢ひたや、ほおやらほ。
わたしも
逢ひたや、
猶ひと目、
載せて帰らぬ遠い夢、
どこにゐるやら、
真赤な帆。
×
鳥屋が
百舌を飼はぬこと、
そのひと声に
百鳥が
おそれて
唖に変ること、
それに加へて、あの人が
なぜか
折折だまること。
×
逆しに植ゑた戯れに
あかい芽をふく
杖がある。
指を触れたか触れぬ
間に
石から
虹が舞ひあがる。
寝てゐた
豹の目が光る。
×
われにつれなき
今日の時、
花を摘み摘み
行き去りぬ。
唯だやさしきは
明日の時、
われに
著せんと、光る
衣
千とせをかけて手に編みぬ。
×
がらすを通し雪が積む、
こころの
桟に雪が積む、
透いて見えるは枯れすすき、
うすい
紅梅、やぶつばき、
青いかなしい雪が積む。
×
はやりを追へば切りがない、
合言葉をばけいべつせい。
よくも
揃うた赤インキ、
ろしあまがひの
左書き、
先づは
二三日あたらしい。
×
うぐひす、そなたも雪の中、
うぐひす、そなたも悲しいか。
春の寒さに
音が細る、
こころ余れど身が
凍る。
うぐひす、そなたも雪の中。
×
あまりに明るい、奥までも
開けはなちたるがらんだう、
つばめの
出入によけれども
ないしよに
逢ふになんとせう、
闇夜も風が身に
沁まう。
×
摘め、摘め、
誰れも春の
薔薇、
今日の盛りの
紅い
薔薇、
今日に
倦いたら
明日の
薔薇、
とがるつぼみの青い
薔薇、
摘め、摘め、
誰れも春の
薔薇。
×
己が痛さを知らぬ虫、
折れた
脚をも
食むであろ。
人の言葉を持たぬ牛、
云はずに死ぬることであろ。
ああ虫で無し、牛でなし。
×
夢にをりをり蛇を
斬る、
蛇に巻かれて我が力
為ようこと無しに蛇を
斬る。
それも苦しい夢か知ら、
人が心で人を
斬る。
×
身を
云ふに過ぐ、
外を見よ、
黙黙として我等あり、
我が痛さより痛きなり。
他を見るに過ぐ、目を閉ぢよ、
乏しきものは
己れなり。
×
論ずるをんな糸
採らず、
みちびく男たがやさず、
大学を出ていと
賢し、
言葉は多し、手は白し、
之れを
耻ぢずば
何を
耻づ。
×
人に哀れを
乞ひて
後、
涙を流す我が命。
うら
耻かしと知りながら、
すべて貧しい身すぎから。
ああ
我れとても人の
中。
×
浪のひかりか、月の出か、
寝覚を
照す、窓の中。
遠いところで
鴨が
啼き、
心に
透る、海の秋。
宿は岬の松の
岡。
×
十国峠、名を聞いて
高い所に来たと知る。
世離れたれば、人を見て
路を譲らぬ牛もある。
海に
真赤な日が落ちる。
×
すべての人を思ふより、
唯だ
一人には
背くなり。
いと
寂しきも我が心、
いと楽しきも我が心。
すべての人を思ふより。
×
雲雀は揚がる、
麦生から。
わたしの歌は涙から。
空の
雲雀もさびしかろ、
はてなく青いあの
虚ろ、
ともに
已まれぬ歌ながら。
×
鏡の
間より
出づるとき、
今朝の心ぞやはらかき。
鏡の
間には
塵も無し、
あとに静かに映れかし、
鸚哥の色の
紅つばき。
×
そこにありしは
唯だ二日、
十和田の水が
其の秋の
呼吸を
猶する、夢の中。
痩せて
此頃おもざしの
青ざめゆくも水ゆゑか。
×
つと休らへば素直なり、
藤のもとなる低き
椅子。
花を
透して日のひかり
うす紫の
陰影を
着す。
物みな
今日は身に
与す。
×
海の
颶風は遠慮無し、
船を吹くこと矢の
如し。
わたしの船の上がるとき、
かなたの船は横を向き、
つひに別れて西ひがし。
×
笛にして吹く麦の茎、
よくなる時は裂ける時。
恋の
脆さも麦の笛、
思ひつめたる心ゆゑ
よく鳴る時は裂ける時。
×
地獄の底の火に触れた、
薔薇に
埋まる
床に寝た、
金の
獅子にも乗り
馴れた、
天に
中する日も
飽いた、
己が歌にも聞き
恍れた。
×
春風の
把る
彩の筆
すべての物の上を
撫で、
光と色に
尽す派手。
ことに優れてめでたきは
牡丹の花と人の
袖。
×
涙に
濡れて火が燃えぬ。
今日の言葉に
気息がせぬ、
絵筆を
把れど色が出ぬ、
わたしの窓に鳥が
来ぬ、
空には白い月が死ぬ。
×
あの
白鳥も近く来る、
すべての花も目を見はる、
青い柳も手を伸べる。
君を迎へて春の
園
路の砂にも歌がある。
×
大空ならば指ささん、
立つ波ならば
濡れてみん、
咲く花ならば手に摘まん。
心ばかりは
形無し、
偽りとても
如何にせん。
×
人わが
門を乗りて
行く、
やがて消え去る、森の奥。
今日も南の風が吹く。
馬に乗る身は
厭はぬか、
野を白くする砂の中。
×
鳥の心を君知るや、
巣は雨ふりて冷ゆるとも
雛を素直に育てばや、
育てし
雛を吹く風も
塵も無き日に放たばや。
×
牡丹のうへに
牡丹ちり、
真赤に燃えて重なれば、
いよいよ青し、庭の芝。
ああ散ることも光なり、
かくの
如くに派手なれば。
[#「なれば。」は底本では「なれば、」]
×
閨にて聞けば
[#「聞けば」は底本では「聞けは」]朝の雨
半は
現実、なかば夢。
やはらかに降る、花に降る、
わが髪に降る、草に降る、
うす桃色の糸の雨。
×
赤い
椿の散る
軒に
埃のつもる
臼と
杵、
莚に干すは
何の種。
少し離れて
垣越しに
帆柱ばかり見える船。
×
三たび曲つて
上る
路、
曲り目ごとに
木立より
青い
入江の見える
路、
椿に歌ふ山の鳥
花踏みちらす
苔の
路。
[#ここで段組み終わり]
[#改丁]
[#ここからページの左右中央]
[#改丁]
[#ここから2段組み]
明日よ、
明日よ、
そなたはわたしの前にあつて
まだ踏まぬ未来の
不可思議の
路である。
どんなに苦しい日にも、わたしは
そなたに
憬れて
励み、
どんなに
楽い日にも、わたしは
そなたを望んで踊りあがる。
明日よ、
明日よ、
死と
飢とに追はれて歩くわたしは
たびたびそなたに失望する。
そなたがやがて平凡な
今日に変り、
灰色をした
昨日になつてゆくのを
いつも、いつもわたしは恨んで居る。
そなたこそ人を釣る
好い
香の
餌だ、
光に似た煙だと
咀ふことさへある。
けれど、わたしはそなたを頼んで、
祭の前夜の子供のやうに
「
明日よ、
明日よ」と歌ふ。
わたしの前には
まだまだ新しい無限の
明日がある。
よしや、そなたが涙を、
悔を、愛を、
名を、歓楽を、
何を持つて来ようとも
[#「来ようとも」は底本では「来やうとも」]、
そなたこそ
今日のわたしを引く力である。
わが
敬する画家よ、
願くは、我がために、
一枚の像を
描きたまへ。
バツクには
唯だ深夜の空、
無智と死と疑惑との色なる黒に、
深き悲痛の
脂色を交ぜたまへ。
髪みだせる裸の女、
そは青ざめし肉塊とのみや見えん。
じつと身ゆるぎもせず
坐りて、
尽きぬ涙を手に受けつつ傾く。
前なる目に見えぬ
無底の
淵を
覗く
姿勢。
目は疲れてあり、
泣く前に、余りに現実を見たるため。
口は堅く
緊りぬ、
未だ
一たびも言はず歌はざる
其れの
如く。
わが
敬する画家よ、
若し
此像の女に、
明日と
云ふ日のありと知らば、
トワルの
何れかに
黄金の目の光る
一羽の
梟を添へ
給へ。
されど、そは君が意に任せん、わが知らぬことなり。
さて画家よ、
彩料には
わが好むパステルを用ひたまへ、
剥落と
褪色とは
恐らく
此像の女の運命なるべければ。
晶子、ヅアラツストラを
一日一夜に読み終り、
その
暁、ほつれし髪を
掻上げて
呟きぬ、
「
辞の過ぎたるかな」と。
しかも、晶子の
動悸は
羅を
透して
慄へ、
その全身の汗は
産の
夜の
如くなりき。
さて
十日経たり。
晶子は青ざめて胃弱の人の
如く、
この
十日、
良人と多く語らず、
我子等を
抱かず。
晶子の
幻に見るは、ヅアラツストラの
黒き巨像の上げたる右の手なり。
茜と
云ふ草の葉を
搾れば
臙脂はいつでも
採れるとばかり
わたしは
今日まで思つてゐた。
鉱物からも、虫からも
立派な
臙脂は
採れるのに。
そんな事はどうでもよい、
わたしは大事の大事を忘れてた、
夢からも、
わたしのよく見る夢からも、
こんなに
真赤な
臙脂の
採れるのを。
アウギユスト、アウギユスト、
わたしの
五歳になるアウギユスト、
おまへこそは「真実」の典型。
おまへが両手を拡げて
自然にする身振の一つでも、
わたしは、どうして、
わたしの言葉に訳すことが出来よう。
わたしは
唯だ
ほれぼれと
其れを眺めるだけですよ、
喜んで目を見張るだけですよ。
アウギユスト、アウギユスト、
母の粗末な芸術なんかが
ああ、
何にならう。
私はおまへに
由つて知ることが出来た。
真実の彫刻を、
真実の歌を、
真実の音楽を、
そして真実の愛を。
おまへは一瞬ごとに
神変不思議を示し、
玲瓏円転として踊り廻る。
硝子の
外のあけぼのは
青白き
繭のここち……
今
一すぢ
仄かに
音せぬ
枝珊瑚の光を引きて、
わが
産室の壁を
匍ふものあり。
と見れば、
嬉し、
初冬のかよわなる
日の
蝶の
出づるなり。
[#「出づるなり。」は底本では「出づるなり、」]
ここに在るは、
八たび死より逃れて
還れる女――
青ざめし女われと、
生れて
五日目なる
我が
藪椿の堅き
蕾なす娘エレンヌと
一瓶の
薔薇と、
さて初恋の
如く
含羞める
うす桃色の日の
蝶と……
静かに
清清しき
曙かな。
尊くなつかしき日よ、われは今、
戦ひに傷つきたる者の
如く
疲れて低く横たはりぬ。
されど、わが新しき感激は
拝日教徒の信の
如し、
わがさしのぶる
諸手を受けよ、
日よ、
曙の
女王よ。
日よ、君にも
夜と冬の悩みあり、
千万年の昔より幾億たび、
死の苦に
堪へて若返る
天つ焔の力の
雄雄しきかな。
われは
猶君に従はん、
わが生きて返れるは
纔に
八たびのみ
纔に
八たび絶叫と、血と、
死の
闇とを超えしのみ。
ああ颱風、
初秋の野を越えて
都を襲ふ颱風、
汝こそ
逞しき
大馬の
群なれ。
黄銅の
背、
鉄の
脚、
黄金の
蹄、
眼に遠き太陽を掛け、
鬣に銀を散らしぬ。
火の
鼻息に
水晶の雨を吹き、
暴く斜めに、
駆歩す、
駆歩す。
ああ
抑へがたき
天の
大馬の
群よ、
怒れるや、
戯れて遊ぶや。
大樹は
逃れんとして、
地中の足を挙げ、
骨を
挫き、手を折る。
空には飛ぶ鳥も無し。
人は
怖れて戸を
鎖せど、
世を裂く
蹄の音に
屋根は崩れ、
家は船よりも揺れぬ。
ああ颱風、
人は
汝によりて、
今こそ
覚むれ、
気不精と
沮喪とより。
こころよきかな、全身は
巨大なる
象牙の
喇叭のここちして、
颱風と共に
嘶く。
おお十一月、
冬が始まる。
冬よ、冬よ、
わたしはそなたを
讃へる。
弱い者と
怠け者とには
もとより
辛い季節。
しかし、四季の中に、
どうしてそなたを欠くことが出来よう。
健かな者と
勇敢な者とが
試めされる季節、
否、みづから
試めす季節。
おお冬よ、
そなたの灰色の空は
人を
圧しる。
けれども、常に心の曇らぬ人は
その空の
陰鬱に
克つて、
そなたの贈る
沍寒[#ルビの「ごかん」は底本では「ごうかん」]と、霜と、
雪と、北風とのなかに、
常に晴やかな太陽を望み、
春の
香を
嗅ぎ、
夏の光を感じることが出来る。
青春を引立てる季節、
ほんたうに血を流す
活動の季節、
意力を
鞭打つ季節、
幻想を醗酵する季節、
冬よ、そなたの前に、
一人の
厭人主義者も無ければ、
一人の
卑怯者も無い、
人は皆、十二の偉勲を建てた
ヘルクレスの子孫のやうに見える。
わたしは更に冬を
讃へる。
まあ
何と
云ふ
優しい、なつかしい
他の一面を
冬よ、そなたの持つてゐることぞ。
その永い、しめやかな
夜。……
榾を
焚く田舎の
囲炉裏……
都会のサロンの
煖炉……
おお家庭の季節、
夜会の季節
会話の、読書の、
音楽の、劇の、
踊の、
愛の、鑑賞の、哲学の季節、
乳呑児のために
罎の牛乳の腐らぬ季節、
小さいセエヴルの
杯で
夜会服の
貴女も飲むリキユルの季節。
とり
分き日本では
寒念仏の、
臘八坐禅の、
夜業の、
寒稽古の、
砧の、
香の、
茶の湯の季節、
紫の二枚
襲に
唐織の帯の落着く季節、
梅もどきの、
寒菊の、
茶の花の、
寒牡丹の季節、
寺寺の鐘の
冴える季節、
おお厳粛な一面の
裏面に、
心憎きまで、
物の哀れさを知りぬいた冬よ、
楽んで
溺れぬ季節、
感性と理性との調和した季節。
そなたは万物の無尽蔵、
ああ、わたしは冬の不思議を直視した。
嬉しや、今、
その冬が始まる、始まる。
収穫の
後の田に
落穂を拾ふ女、
日の出前に霜を踏んで
工場に急ぐ男、
兄弟よ、とにかく私達は働かう、
一層働かう、
冬の日の汗する快さは
わたし達無産者の
景福である。
おお十一月、
冬が始まる。
友の
額のうへに
刷毛の硬さもて
逆立つ黒髪、
その先すこしく渦巻き、
中に人差指ほど
過ちて絵具の――
ブラン・ダルジヤンの
附きしかと……
また見直せば
遠山の
襞に
雪
一筋降れるかと。
然れども
友は童顔、
いつまでも若き日の
如く
物言へば
頬の
染み、
目は
微笑みて、
いつまでも童顔、
年四十となり
給へども。
年四十となり
給へども、
若き人、
みづみづしき人、
初秋の陽光を全身に受けて、
人生の
真紅の
木の実
そのものと見ゆる人。
友は
何処に
行く、
猶も
猶も高きへ、広きへ、
胸張りて、踏みしめて
行く。
われはその足音に聞き
入り、
その
行方を見守る。
科学者にして詩人、
他に幾倍する友の欲の
重りかに華やげるかな。
同じ世に生れて
相知れること二十年、
友の見る世界の片端に
我も
曾て触れにき。
さは
云へど、今はわれ
今はわれ
漸くに
寂し。
譬ふれば
我心は
薄墨いろの桜、
唯だ時として
雛罌粟の夢を見るのみ。
羨まし、
友は童顔、
いつまでも童顔、
今日逢へば、いみじき
気高ささへも添ひ
給へる。
金糸雀の
雛を飼ふよりは
我子を飼ふぞおもしろき。
雛の
初毛はみすぼらし、
おぼつかなしや、
足取も。
盥のなかに
湯浴みする
よき肉づきの生みの
児の
白き裸を見るときは、
母の心を引立たす。
手足も、胴も、
面ざしも
汝を飼ふ親に似たるこそ、
かの異類なる
金糸雀の
雛にまさりて親しけれ。
かくて、いつしか親の
如、
物を思はれ、物
云はん。
詩人、
琴弾、医師、学者、
王、将軍にならずとも、
大船の
火夫、いさなとり、
乃至活字を拾ふとも、
我は
我子をはぐくまん、
金糸雀の
雛を飼ふよりは。
(一九〇一年作)
いとしき、いとしき
我子等よ、
世に生れしは
禍か、
誰か
之を「
否」と
云はん。
されど、また君達は知れかし、
之がために、我等――親も、子も――
一切の因襲を超えて、
自由と愛に生き
得ることを、
みづからの力に
由りて、
新らしき世界を始め
得ることを。
いとしき、いとしき
我子等よ、
世に生れしは幸ひか、
誰か
之を「
否」と
云はん。
いとしき、いとしき
我子等よ、
今、君達のために、
この母は告げん。
君達は知れかし、
我等の
家に誇るべき祖先なきを、
私有する一尺の土地も無きを、
遊惰の日を送る
財も無きを。
君達はまた知れかし、
我等――親も子も――
行手には悲痛の森、
寂寞の
路、
その避けがたきことを。
人の身にして
己が
児を
愛することは
天地の
成しのままなる心なり。
けものも、鳥も、物
云はぬ
木さへ、草さへ、おのづから
雛と
種とをはぐくみぬ。
児等に
食ません欲なくば
人はおほかた
怠らん。
児等の栄えを思はずば
人は
其身を慎まじ。
児の
美くしさ素直さに
すべての親は
浄まりぬ。
さても悲しや、今の世は
働く
能を持ちながら、
職に離るる親多し。
いとしき心余れども
児を養はんこと
難し。
如何にすべきぞ、人に問ふ。
正月を、わたしは
元日から
月末まで
大なまけになまけてゐる。
勿論遊ぶことは骨が折れぬ、
けれど、
外から思ふほど
決して、決して、おもしろくはない。
わたしはあの
鼠色の雲だ、
晴れた空に
重苦しく
停つて、
陰鬱な心を見せて居る雲だ。
わたしは
断えず動きたい、
何かをしたい、
さうでなければ、この
家の
大勢が皆飢ゑねばならぬ。
わたしはいらいらする。
それでゐて
何も手に
附かない、
人知れず廻る
なまけぐせの
毒酒に
ああ、わたしは
中てられた。
今日こそは
何かしようと思ふばかりで、
わたしは毎日
つくねんと原稿
紙を見詰めてゐる。
もう、わたしの上に
春の日は
射さないのか、
春の鳥は
啼かないのか。
わたしの
内の火は消えたか。
あのじつと涙を
呑むやうな
鼠色の雲よ、
そなたも泣きたかろ、泣きたかろ。
正月は
唯だ
徒らに
経つて
行く。
おお、寒い風が吹く。
皆さん、
もう
夜明前ですよ。
お
互に大切なことは
「気を
附け」の
一語。
まだ見えて居ます、
われわれの上に
大きな黒い手。
唯だ片手ながら、
空に
聳えて動かず、
その指は
じつと「死」を
[#「「死」を」は底本では「「死」と」]指してゐます。
石で
圧されたやうに
我我の
呼吸は苦しい。
けれど、皆さん、
我我は目が覚めてゐます。
今こそはつきりとした心で
見ることが出来ます、
太陽の
在所を。
また知ることが出来ます、
華やかな朝の近づくことを。
大きな黒い手、
それは
弥が上に黒い。
その指は
猶
じつと「死」を指して居ます。
われわれの上に。
わが絵師よ、
わが像を
描き
給はんとならば、
願くば、ただ写したまへ、
わが
瞳のみを、ただ一つ。
宇宙の中心が
太陽の火にある
如く、
われを端的に語る星は、
瞳にこそあれ。
おお、愛欲の
焔、
陶酔の
虹、
直観の電光、
芸術本能の噴水。
わが絵師よ、
紺青をもて塗り
潰ぶしたる布に、
ただ一つ、写したまへ、
わが
金色の
瞳を。
大錯誤の時が来た、
赤い
恐怖の時が来た、
野蛮が
濶い
羽を伸し、
文明人が一斉に
食人族の
仮面を
被る。
ひとり世界を敵とする、
日耳曼人の大胆さ、
健気さ、しかし
此様な
悪の力の
偏重が
調節されずに
已まれよか。
いまは戦ふ時である、
戦嫌ひのわたしさへ
今日此頃は気が
昂る。
世界の霊と身と骨が
一度に
呻く時が来た。
大陣痛の時が来た、
生みの悩みの時が来た。
荒い
血汐の洗礼で、
世界は更に新しい
知らぬ命を生むであろ。
其れがすべての人類に
真の平和を持ち
来す
精神でなくて
何んであろ。
どんな犠牲を払う
[#「払う」はママ]ても
いまは戦ふ時である。
歌はどうして作る。
じつと
観、
じつと愛し、
じつと抱きしめて作る。
何を。
「真実」を。
「真実」は
何処に在る。
最も近くに在る。
いつも自分と
一所に、
この目の
観る
下、
この心の愛する前、
わが両手の中に。
「真実」は
美くしい人魚、
跳ね
且つ踊る、
ぴちぴちと踊る。
わが両手の中で、
わが感激の涙に
濡れながら。
疑ふ人は来て見よ、
わが両手の中の人魚は
自然の海を出たまま、
一つ一つの
鱗が
大理石[#ルビの「おほりせき」はママ]の
純白のうへに
薔薇の花の反射を持つてゐる。
みんな
何かを持つてゐる、
みんな
何かを持つてゐる。
後ろから来る女の
一列、
みんな
何かを持つてゐる。
一人は右の手の上に
小さな
青玉の宝塔。
一人は
薔薇と
睡蓮の
ふくいくと香る花束。
一人は左の
腋に
革表紙の
金字の書物。
一人は肩の上に地球儀。
一人は両手に大きな
竪琴。
わたしには
何んにも無い
わたしには
何んにも無い。
身一つで踊るより
外に
わたしには
何んにも無い。
押しやれども、
またしても
膝に
上る黒猫。
生きた
天鵝絨よ、
憎からぬ黒猫の手ざはり。
ねむたげな黒猫の目、
その奥から射る野性の力。
どうした
機会[#ルビの「はずみ」は底本では「はみ」]やら、をりをり、
緑金に光るわが
膝の黒猫。
競馬の馬の打勝たんとする鋭さならで
曲馬の馬は我を
棄てし
服従の
素速き気転なり。
曲馬の馬の
痩せたるは、
競馬の馬の
逞しく
美くしき
優形と異なりぬ。
常に
飢じきが
為め。
競馬の馬もいと
稀に
鞭を受く。
されど
寧ろ求めて
鞭打たれ、その刺戟に
跳る。
曲馬の馬の
爛れて
癒ゆる
間なき
打傷と
何れぞ。
競馬の馬と、
曲馬の馬と、
偶ま
市の
大通に
行き会ひし時、
競馬の馬はその同族の堕落を見て涙ぐみぬ。
曲馬の馬は泣くべき
暇も無し、
慳貪なる
黒奴の
曲馬師は
広告のため、楽隊の
囃しに
伴れて彼を
歩ませぬ……
手風琴が鳴る……
そんなに、そんなに、
驢馬が
啼くやうな、
鉄葉が
慄へるやうな、
歯が浮くやうな、
厭な
手風琴を鳴らさないで下さい。
鳴らさないで下さい、
そんなに
仰山な
手風琴を、
近所
合壁から
邪慳に。
あれ、柱の
割目にも、
電灯の
球の中にも、
天井にも、卓の
抽出にも、
手風琴の波が流れ込む。
だれた
手風琴、
しよざいなさの
手風琴、
しみつたれた
手風琴、
からさわぎの
手風琴、
鼻風邪を引いた
手風琴、
中風症の
手風琴……
いろんな
手風琴を鳴らさないで下さい、
わたしには
此夜中に、
じつと耳を澄まして
聞かねばならぬ声がある……
[#「……」は底本では「‥‥」]
聞きたい聞きたい声がある……
遠い星あかりのやうな声、
金髪の
一筋のやうな声、
水晶質の細い声……
手風琴を鳴らさないで下さい。
わたしに
還らうとするあの
幽かな声が
乱される……紛れる……
途切れる……
掻き消される……
ああどうしよう……また逃げて行つてしまつた……
「
手風琴を鳴らすな」と
思ひ切つて
怒鳴つて見たが、
わたしにはもう声が無い、
有るのは真剣な
態度ばかり……
手風琴が鳴る……
煩さく鳴る……
柱も、電灯も、
天井も、卓も、
瓶の花も、
手風琴に合せて踊つてゐる……
さうだ、こんな
処に待つて居ず
駆け出さう、あの
闇の方へ。
……さて、わたしの声が
彷徨つてゐるのは
森か、
荒野か、海のはてか……
ああ、どなたでも教へて下さい、
わたしの大事な
貴い声の
在処を。
「我」とは
何か、
斯く問へば
物みな急に
後込し、
あたりは白く静まりぬ。
いとよし、答ふる声なくば
みづから
内に
事問はん。
「我」とは
何か、
斯く問へば
愛、
憎、
喜、
怒と名のりつつ
四人の女あらはれぬ。
また
智と
信と名のりつつ
二人の男あらはれぬ。
われは
其等をうち眺め、
しばらくありてつぶやきぬ。
「心の中のもののけよ、
そは皆われに映りたる
世と他人との姿なり。
知らんとするは、ほだされず
模ねず、
雑らず、従はぬ、
初生本来の我なるを、
消えよ」と
云へば、
諸声に
泣き、
憤り、
罵りぬ。
今こそわれは
冷かに
いとよく我を
見得るなれ。
「我」とは
何か、答へぬも
まことあはれや、
唖にして、
踊を知れる肉なれば。
たそがれどきか、
明方か、
わたしの泣くは決まり無し。
蛋白石色[#「蛋白石色」は底本では「胥白石色」]のあの空が
ふつと渦巻く海に見え、
波間に
[#「波間に」は底本では「波問に」]もがく白い手の
老けたサツフオオ、死にきれぬ
若い心のサツフオオを
ありあり眺めて共に泣く。
また
虻が
啼く昼さがり、
金の
箔おく
連翹と、
銀と
翡翠の
象篏の
丁子の花の
香のなかで、
※[#「執/れんが」、U+24360、66-下-13]い吐息をほつと
吐く
若い
吉三の前髪を
わたしの指は
撫でながら、
そよ風のやうに泣いてゐる。
榛名山の一角に、
段また段を成して、
羅馬時代の
野外劇場[#ルビの「アンフイテアトル」は底本では「アンフイテトアル」]の
如く、
斜めに刻み
附けられた
桟敷
形の
伊香保の街。
屋根の上に屋根、
部屋の上に部屋、
すべてが温泉
宿である。
そして、
榛の若葉の光が
柔かい緑で
街全体を
濡してゐる。
街を縦に貫く
本道は
雑多の店に
縁どられて、
長い長い石の階段を作り、
伊香保神社の前にまで、
Hの字を無数に積み上げて、
殊更に建築家と絵師とを喜ばせる。
木魂は声の霊、
如何に
微かなる声をも
早く感じ、早く知る。
常に時に先だつ彼女は
また常に若し。
近き世の
木魂は
市の中、
大路の
並木の
蔭に
佇み、
常に耳を澄まして聞く。
新しき生活の
諧音の
如何に生じ、
如何に移るべきかを。
木魂は
稀にも
肉身を示さず、
人の
狎れて
驚かざらんことを
怖る。
唯だ
折折に
叫び
且つ笑ふのみ。
小高い丘の上へ、
何かを叫ぼうとして、
後から、
後からと
駆け登つて
行く人。
丘の下には
多勢の人間が眠つてゐる。
もう、
夜では無い、
太陽は
中天に近づいてゐる。
登つて
行く人、
行く人が
丘の上に顔を出し、
胸を張り、両手を拡げて、
「兄弟よ」と呼ばはる時、
さつと
血煙がその胸から立つ、
そして
直ぐ
其人は後ろに倒れる。
陰険な
狙撃の矢に
中つたのである。
次の人も、また次の人も、
みんな丘の上で同じ様に倒れる。
丘の下には
眠つてゐる人ばかりで無い、
目を
覚した
人人の中から
丘に登る予言者と
その予言者を殺す反逆者とが現れる。
多勢の人間は
何も知らずにゐる。
もう、
夜では無い、
太陽は
中天に近づいて光つてゐる。
詩は実感の彫刻、
行と
行、
節と
節との
間に
陰影がある。
細部を包む
陰影は
奥行、
それの深さに比例して、
自然の肉の片はしが
くつきりと
行の
表に浮き上がれ。
わたしの詩は粘土細工、
実感の彫刻は
材料に
由りません。
省け、省け、
一線も
余計なものを加へまい。
自然の肉の片はしが
くつきりと
行の
表に浮き上がれ。
宇宙から生れて
宇宙のなかにゐる私が、
どうしてか、
その宇宙から離れてゐる。
だから、私は
寂しい、
あなたと居ても
寂しい。
けれど、また、
折折、
私は宇宙に
還つて、
私が宇宙か、
宇宙が私か、
解らなくなる。
その時、私の心臓が宇宙の心臓、
その時、私の目が宇宙の目、
その時、私が泣くと、
万事を忘れて泣くと、
屹度雨が降る。
でも、
今日の私は
寂しい、
その宇宙から離れてゐる。
あなたと居ても
寂しい。
ひともとの
冬枯の
円葉柳は
野の上に
ゴシツク風の塔を立て、
その
下に
野を越えて
白く光るは
遠からぬ
都の街の屋根と壁。
ここまでは
振返り
都ぞ見ゆる。
後ろ髪
引かるる思ひ
為ぬは無し。
さて一歩、
つれなくも
円葉柳を
離るれば、
誰も帰らぬ旅の人。
わが髪は
又もほつるる。
朝ゆふに
なほざりならず
櫛とれど。
ああ、
誰か
髪
美くしく
一すぢも
乱さぬことを忘るべき。
ほつるるは
髪の
性なり、
やがて又
抑へがたなき思ひなり。
わが知れる
一柱の神の
御名を
讃へまつる。
あはれ欠けざることなき「孤独
清貧」の
御霊、
ぐれんどうの
命よ。
ぐれんどうの
命にも
著け
給ふ
衣あり。
よれよれの
皺の波、
酒染の雲、
煙草の
焼痕の
霰模様。
もとより
痩せに
痩せ
給へば
衣を
透して
乾物の
如く骨だちぬ。
背丈の高きは冬の
老木のむきだしなるが
如し。
ぐれんどうの
命の
顳は音楽なり、
断えず不思議なる
何事かを弾きぬ。
どす黒く青き筋肉の蛇の
節廻し………
わが知れる芸術家の集りて、
女と酒とのある
処、
ぐれんどうの
命必ず
暴風の
如く
来りて
罵り
給ふ。
何処より
来給ふや、知り
難し、
一所不住の神なり、
きちがひ
茄子の夢の
如く過ぎ
給ふ神なり。
ぐれんどうの
命の
御言葉の荒さよ。
人皆その
眷属の
如くないがしろに呼ばれながら、
猶この神と笑ひ興ずることを喜びぬ。
あれ、あれ、あれ、
後から
後からとのし掛つて、
ぐいぐいと
喉元を締める
凡俗の
生の圧迫………
心は
気息を
次ぐ
間も無く、
どうすればいいかと
唯だ右へ左へうろうろ………
もう
是れが癖になつた心は、
大やうな、
初心な、
時には
迂濶らしくも見えた
あの
好いたらしい様子を
丸で失ひ、
氷のやうに
冴えた
細身の
刄先を
苛苛と
ふだんに
尖らす冷たさ。
そして心は見て見ぬ
振……
凡俗の
生の圧迫に
思ひきりぶつ
突かつて、
思ひきり
撥ねとばされ、
ばつたり
圧しへされた
これ、この無残な
蛙を――
わたしの青白い肉を。
けれど
蛙は死なない、
びくびくと
顫ひつづけ、
次の
刹那に
もう
直ぐ前へ一歩、一歩、
裂けてはみだした
膓を
両手で抱きかかへて跳ぶ、跳ぶ。
そして
此の人間の
蛙からは血が
滴れる。
でも
猶心は見て見ぬ
振……
泣かうにも涙が切れた、
叫ぼうにも声が立たぬ。
乾いた心の唇をじつと
噛みしめ、
黙つて
唯だうろうろと
くのは
人形だ、人形だ、
苦痛の
弾機の上に乗つた人形だ。
被眼布したる女にて我がありしを、
その
被眼布は
却りて
我れに
奇しき光を導き、
よく物を
透して見せつるを、
我が
行く
方に
淡紅き、白き、
とりどりの石の柱ありて
倚りしを、
花束と、
没薬と、
黄金の枝の果物と、
我が
水鏡する
青玉の泉と、
また我に
接吻けて
羽羽たく
白鳥と、
其等みな我の
傍を離れざりしを。
ああ、我が
被眼布は落ちぬ。
天地は
忽ちに
状変り、
うすぐらき中に我は立つ。
こは既に日の
入りはてしか、
夜のまだ明けざるか、
はた、とこしへに光なく、音なく、
望なく、
楽みなく、
唯だ大いなる
陰影のたなびく国なるか。
否とよ、思へば、
これや我が目の
俄かにも
盲ひしならめ。
古き世界は古きままに、
日は
真赤なる空を渡り、
花は緑の枝に咲きみだれ、
人は皆春のさかりに、
鳥のごとく歌ひ
交し、
うま酒は
盃より
滴れど、
われ
一人そを見ざるにやあらん。
否とよ、また思へば、幸ひは
かの
肉色の
被眼布にこそありけれ、
いでや再びそれを結ばん。
われは
戦く身を
屈めて
闇の底に冷たき手をさし伸ぶ。
あな、悲し、わが
推しあての手探りに、
肉色の
被眼布は触るる
由も無し。
とゆき、かくゆき、さまよへる
此処は
何処ぞ、
かき曇りたる我が目にも
其れと知るは、
永き
夜の土を
一際黒く
圧す
静かに
寂しき
扁柏の森の
蔭なるらし。
頼む男のありながら
添はれずと
云ふ君を見て、
一所に泣くは
易けれど、
泣いて添はれる
由も無し。
何なぐさめて
云はんにも
甲斐なき
明日の見通され、
それと知る身は
本意なくも
うち
黙すこそ苦しけれ。
片おもひとて恋は恋、
ひとり光れる
宝玉を
君が
抱きて
悶ゆるも
人の
羨む
幸ながら、
海をよく知る船長は
早くも
暴風を
避くと
云ひ、
賢き人は涙もて
身を
浄むるを知ると
云ふ。
君は
何れを
択ぶらん、
かく問ふことも我はせず、
うち
黙すこそ苦しけれ。
君は
何れを
択ぶらん。
ああ、弟よ、君を泣く、
君死にたまふことなかれ。
末に生れし君なれば
親のなさけは
勝りしも、
親は
刄をにぎらせて
人を殺せと教へしや、
人を殺して死ねよとて
廿四までを育てしや。
堺の街のあきびとの
老舗を誇るあるじにて、
親の名を継ぐ君なれば、
君死にたまふことなかれ。
旅順の城はほろぶとも、
ほろびずとても、
何事ぞ、
君は知らじな、あきびとの
家の習ひに無きことを。
君死にたまふことなかれ。
すめらみことは、戦ひに
おほみづからは
出でまさね
[#「出でまさね」は底本では「出でませね」]、
互に人の血を流し、
獣の
道に死ねよとは、
死ぬるを人の
誉れとは、
おほみこころの深ければ、
もとより
如何で
思されん。
ああ、弟よ、戦ひに
君死にたまふことなかれ。
過ぎにし秋を
父君に
おくれたまへる
母君は、
歎きのなかに、いたましく、
我子を
召され、
家を
守り、
安しと聞ける
大御代も
母の
白髪は増さりゆく。
暖簾のかげに伏して泣く
あえかに若き
新妻を
君忘るるや、思へるや。
十月も添はで別れたる
少女ごころを思ひみよ。
この世ひとりの君ならで
ああまた
誰を頼むべき。
君死にたまふことなかれ。
うれしや、うれしや、
梅蘭芳
今夜、世界は
(ほんに、まあ、
華美な
唐画の世界、)
真赤な、
真赤な
石竹の色をして
匂ひます。
おお、あなた故に、
梅蘭芳、
あなたの
美くしい
楊貴妃ゆゑに、
梅蘭芳、
愛に
焦れた女ごころが
この不思議な
芳しい酒となり、
世界を
浸して流れます。
梅蘭芳、
あなたも
酔つてゐる、
あなたの
楊貴妃も
酔つてゐる、
世界も
酔つてゐる、
わたしも
酔つてゐる、
むしやうに高いソプラノの
支那の
鼓弓も
酔つてゐる。
うれしや、うれしや、
梅蘭芳。
これは不思議な
家の絵だ、
家では無くて塔の絵だ。
見上げる限り、
頑丈に
五階重ねた鉄づくり。
入口からは機関車が
煙を吐いて首を出し、
二階の上の
露台には
大起重機が据ゑてある。
また、三階の正面は
大きな窓が
向日葵の
花で
一ぱい飾られて、
そこに
誰やら
一人ゐる。
四階の窓の横からは
長い
梯子が地に届き、
五階は更に最大の
望遠鏡が天に向く。
塔の
尖端には
黄金の旗、
「平和」の文字が
靡いてる。
そして、
此絵を
描いたのは
小さい、優しい
京之介。
秋の
嵐が
荒れだして、
どの街の木も
横倒し。
屋根の
瓦も、
破風板も、
剥がれて紙のやうに飛ぶ。
おお、この
荒れに、どの屋根で、
何に打たれて
傷したか、
可愛いい
一羽のしら
鳩が
前の通りへ落ちて来た。
それと見るより
八歳になる、
小さい、優しい、
京之介、
嵐の中に駆け寄つて、
じつと両手で抱き上げた。
傷した
鳩は背が少し
うす桃色に
染んでゐる。
それを眺めた
京之介、
もう
一ぱいに目がうるむ。
鳩を
供れよと、
口口に
腕白どもが呼ばはれど、
大人のやうに
沈著いて、
頭を振つた
京之介。
Ai (
愛)の
頭字、片仮名と
アルハベツトの書き
初め、
わたしの好きな
Aの字を
いろいろに見て歌ひましよ。
飾り
気の無い
Aの字は
掘立小屋の
入り
口、
奥に見えるは
板敷か、
茣蓙か、
囲炉裏か、
飯台か。
小さくて
繊弱な
Aの字は
遠い岬に灯台を
ほつそりとして一つ立て、
それを
繞るは白い
浪。
いつも優しい
Aの字は
象牙の
琴柱、その
傍に
目には見えぬが、
好い
節を
幻の手が弾いてゐる。
いつも明るい
Aの字は
白水晶の
三稜鏡に
七つの
羽の
美くしい
光の鳥をじつと抱く。
元気に満ちた
Aの字は
広い
沙漠の砂を踏み
さつく、さつくと
大足に、
あちらを向いて急ぐ人。
つんとすました
Aの字は
オリンプ
山の
頂に
槍に代へたる
銀白の
鵞ペンの
尖を立ててゐる。
時にさびしい
Aの字は
半身だけを窓に出し、
肱をば突いて空を見る
三角
頭巾の尼すがた。
しかも
威のある
Aの字は
埃及の野の朝ゆふに
雲の
間の日を浴びて
はるかに光る
金字塔[#ルビの「ピラミツド」は底本では「ピラミツト」]。
そして
折折Aの字は
道化役者のピエロオの
赤い
尖つた帽となり、
わたしの前に踊り出す。
蟻よ、
蟻よ、
黒い
沢山の
蟻よ、
お前さん達の行列を見ると、
8、
8、
8、
8、
8、
8、
8、
8……
幾万と並んだ
8の字の生きた鎖が動く。
蟻よ、
蟻よ、
そんなに並んで
何処へ
行く。
行軍か、
運動会か、
二千メエトル競走か、
それとも遠いブラジルへ
移住して
行く一隊か。
蟻よ、
蟻よ、
繊弱な体で
なんと
云ふ
活撥なことだ。
全身を太陽に
暴露して、
疲れもせず、
怠けもせず、
さつさ、さつさと進んで
行く。
蟻よ、
蟻よ、
お前さん達はみんな
可愛いい、元気な
8の字少年隊。
行くがよい、
行くがよい、
8、
8、
8、
8、
8、
8、
8、
8………
[#「………」は底本では「‥‥‥」]
[#ここで段組み終わり]
[#改丁]
[#ここからページの左右中央]
[#改丁]
[#ここから2段組み]
一本のコスモスが笑つてゐる。
その上に、どつしりと
太陽が腰を掛けてゐる。
そして、きやしやなコスモスの花が
なぜか、少しも
撓まない、
その太陽の重味に。
百姓の
爺さんの、
汚れた、
硬い、
節くれだつた手、
ちよいと見ると、
褐色の、
朝鮮
人蔘の
燻製のやうな手、
おお、
之がほんたうの労働の手、
これがほんたうの
祈祷の手。
二枚ある
著物なら
一枚脱ぐのは
易い。
知れきつた道理を言はないで下さい。
今ここに有るのは一枚も一枚、
十人の
人数に対して一枚、
結局、どうしたら
好いのでせう。
小さな
硯で
朱を
擦る時、
ふと、
巴里の霧の中の
珊瑚紅の日が一点
わたしの書斎の
帷[#ルビの「とばり」は底本では「とぼり」]に
浮び、
それがまた、
梅蘭芳の
楊貴妃の
酔つた
目附に変つて
行く。
思はぬで無し、
知らぬで無し、
云はぬでも無し、
唯だ
其れの仲間に
入らぬのは、
余りに事の
手荒なれば、
歌ふ心に遠ければ。
わたしは小さな
を
幾つも幾つも
抑へることが好きですわ。
わたしの手のなかで、
なんと
云ふ、いきいきした
この虫達の反抗力でせう。
まるで
BASTILLE の
破獄ですわ。
蚊よ、そなたの前で、
人間の
臆病心は
拡大鏡となり、
また拡声器ともなる。
吸血鬼の幻影、
鬼女の
歎声。
火に来ては死に、
火に来ては死ぬ。
愚鈍な虫の本能よ。
同じ
火刑の試練を
幾万年くり返す
積りか。
蛾と、さうして人間の女。
水浅葱の朝顔の花、
それを見る
刹那に、
美くしい地中海が目に見えて、
わたしは
平野丸に乗つてゐる。
それから、ボチセリイの
派手な
イナスの誕生が前に現れる。
罷り出ましたは、夏の
夜の
虫の一座の
立て者で御座る。
歌ふことは致しませねど、
態度を御覧下されえ。
人間の学者批評家にも
わたしのやうな諸君がゐらせられる。
男性の専制以上に
残忍を極める女性の専制。
蟷螂の
雌は
その
雄を食べてしまふ。
種を
殖やす
外に
恋愛を知らない
蟷螂。
もう、玉虫の
一対を
綺麗な手箱に飼ふ娘もありません。
青磁色の流行が
廃れたよりも
寂しい事ですね。
今の娘に感激の無いのは、
玉虫に毒があるよりも
いたましい事ですね。
漸くに
我れ今は
寂し、
独り在るは
寂し、
薔薇を
嗅げども
寂し、
君と語れども
寂し、
筆
執りて書けども
寂し、
高く歌へば更に
寂し。
落葉して人目に
附きぬ、
わが庭の高き
木末に
小鳥の巣一つ懸かれり。
飛び去りて鳥の影無し、
小鳥の巣、霜の置くのみ、
小鳥の巣、日の
照すのみ。
我が
藤子九つながら、
小学の級長ながら、
夜更けては独り
目覚めて
寝台より親を呼ぶなり。
「お
蒲団がまた落ちました。」
我が
藤子風引くなかれ。
[#ここで段組み終わり]
[#改丁]
[#ここからページの左右中央]
[#改丁]
[#ここから2段組み]
暗い
梯子を
上るとき
女の
脚は
顫へてた。
四角な卓に
椅子一つ、
側の小さな
書棚には
手ずれた赤い布表紙
金字の本が光つてた。
こんな屋根裏に
室借する
男ごころのおもしろさ。
女を
椅子に掛けさせて、
「驚いたでせう」と言ひながら、
男は葉巻に火を
点けた。
舞うて疲れた女なら、
男の肩に手を掛けて、
汗と
香油の
熱る
頬を
男の胸に
附けよもの。
男の
注いだペパミント
[#「ペパミント」は底本では「ペハミント」]
男の手から飲まうもの。
わたしは舞も知りません。
わたしは男も知りません。
ひとりぼつちで片隅に。――
いえ、いえ、あなたも知りません。
寒水石のてえぶるに
薄い
硝子の花の鉢。
櫂の
形のしやぼてんの
真赤な花に目をやれば、
来る日で無いと知りながら
来る日のやうに待つ心。
無地の
御納戸、うすい
衣、
台湾竹のきやしやな
椅子。
恋をする身は待つがよい、
待つて涙の落ちるほど。
わたしの
孤蝶先生は、
いついつ見ても若い
方、
いついつ見てもきやしやな
方、
品のいい
方、静かな
方。
古い細身の
槍のよに。
わたしの
孤蝶先生は、
ものおやさしい、
清んだ
音の
乙の調子で話す
方、
ふらんす、ろしあの小説を
わたしの
為めに話す
方。
わたしの
孤蝶先生は、
それで
何処やら暗い
方、
はしやぐやうでも
滅入る
方、
舞妓の顔がをりをりに、
扇の
蔭となるやうに。
堺の街の妙国寺、
その門前の
庖丁屋の
浅葱納簾の
間から
光る
刄物のかなしさか。
御寺の庭の塀の
内、
鳥の尾のよにやはらかな
青い芽をふく
蘇鉄をば
立つて見上げたかなしさか。
御堂の前の
十の墓、
仏蘭西船に
斬り
入つた
重い
科ゆゑ死んだ人、
その
思出のかなしさか。
いいえ、それではありませぬ。
生れ故郷に
来は
来たが、
親の無い身は巡礼の
さびしい気持になりました。
「わたしは死ぬ気」とつい言つて、
その驚いた、青ざめた、
慄へた男を見た日から、
わたしは死ぬ気が無くなつた。
まことを
云へば
其日から
わたしの世界を知りました。
いつも男はおどおどと
わたしの言葉に答へかね、
いつも男は
酔つた
振。
あの見え
透いた
酔つた
振。
「あなた、初めの約束の
塔から手を取つて跳びませう。」
場末の
寄席のさびしさは
夏の
夜ながら秋げしき。
枯れた
蓬の
細茎を
風の吹くよな
三味線に
曲弾の
音のはらはらと
螽斯の雨が降りかかる。
寄席の手前の
枳殻垣、
わたしは
一人、
灯の暗い、
狭い湯殿で湯をつかひ、
髪を洗へば
夜が更ける。
こきむらさきの
杜若
採ろと
水際につくばんで
濡れた
袂をしぼる身は、
ふと
小娘の気に返る。
男の机に
倚り掛り、
男の
遣ふペンを
執り、
男のするよに字を書けば、
また初恋の気に返る。
逗子の旅からはるばると
浜なでしこをありがたう。
髪に挿せとのことながら、
避暑地の浜の遊びをば
知らぬわたしが挿したなら、
真黒に焦げて枯れませう。
ゆるい斜面をほろほろと
踏めば崩れる砂山に、
水著すがたの
脛白と
なでしこを摘む楽しさは
女のわたしの知らぬこと。
浜なでしこをありがたう。
むかしの恋の気の長さ、
のんべんくだりと日を重ね、
互にくどくど
云ひ
交す。
当世の恋のはげしさよ、
常は
素知らぬ
振ながら、
刹那に胸の張りつめて
しやうも、やうも無い日には、
マグネシユウムを
焚くやうに、
機関の湯気の漏るやうに、
悲鳴を上げて身もだえて
あの
白鳥が死ぬやうに。
いたましく、いたましく、
流行の
風に
三人まで
我児ぞ病める。
梅霖の雨しとどと降るに、汗流れ、
こんこんと、苦しき
喉に
咳するよ。
兄なるは身を焼く
※[#「執/れんが」、U+24360、100-上-6]に父を呼び、
泣きむづかるを、その父が
抱きすかして、売薬の
安知歇林を飲ませども、
咳しつつ、
半ゑづきぬ
[#「ゑづきぬ」は底本では「えづきぬ」]。
あはれ、
此夜のむし暑さ、
氷ぶくろを取りかへて、
団扇とり
児等を
扇げば、
蚊帳ごしに蚊のむれぞ鳴く。
如何に若き男、
ダイヤの
玉を百持てこ。
空手しながら
採り
得べき
物とや思ふ、あはれ愚かに。
たをやめの、たをやめの
紅きくちびる。
男こそ慰めはあれ、
おほぎみの
側にも在りぬ、
みいくさに
出でても
行きぬ、
酒ほがひ、
夜通し遊び、
腹
立ちて
罵りかはす。
男こそ慰めはあれ、
少女らに
己が名を
告り、
厭きぬれば
棄てて
惜まず。
わが見るは人の身なれば、
死の夢を、
沙漠のなかの
青ざめし月のごとくに。
また見るは、女にしあれば
消し
難き世のなかの夢。
名工のきたへし刀
一尺に満たぬ短き、
するどさを我は思ひぬ。
あるときは
異国人の
三角の
尖あるメスを
われ
得まく
切に願ひぬ。
いと憎き男の胸に
利き
白刄あてなん
刹那、
たらたらと
我袖にさへ
指にさへ散るべき、
紅き
血を思ひ、
我れほくそ
笑み、
こころよく身さへ
慄ふよ。
その時か、にくき男の
云ひがたき心
宥さめ。
しかは
云へ、突かんとすなる
その胸に、
夜としなれば、
額よせて、いとうら
安の
夢に
入る人も我なり。
男はた、いとしとばかり
その胸に
我れかき
抱き、
眠ること
未だ忘れず。
その胸を
今日は
仮さずと
たはぶれに
云ふことあらば、
我れ
如何に
佗しからまし。
鴨頭草のあはれに
哀しきかな、
わが
袖のごとく
濡れがちに、
濃き空色の
上目しぬ、
文月の朝の
木のもとの
板井のほとり。
はかなかる花にはあれど、
月見草、
ふるさとの野を思ひ
出で、
わが母のこと思ひ
出で、
初恋の日を思ひ
出で、
指にはさみぬ、
月見草。
われはをみな、
それゆゑに
ものを思ふ。
にしき、こがね、
女御、
后、
すべて
得ばや。
ひとり眠る
わびしさは
をとこ知らじ。
黒きひとみ、
ながき髪、
しじに
濡れぬ。
恋し、恋し、
はらだたし、
ねたし、悲し。
ひがむ
気短かな
鵯鳥は
木末の雪を揺りこぼし、
枝から枝へ、
甲高に
凍てつく冬の笛を吹く。
それを聞く
わたしの心も裂けるよに。
それでも
木蔭の
下枝には
あれ、もう、愛らしい
鶯が
雪解の水の
小ながれに
軽く
反打つ身を映し、
ちちと
啼く、ちちと
啼く。
その
小啼は低くても、
春ですわね、春ですわね。
わが歌の仮名文字よ、
あはれ、ほつほつ、
止所なく乱れ散る涙のしづく。
誰かまた手に結び
玉とは
愛でん、
みにくくも乱れ散る涙のしづく。
あはれ、この文字、我が
夫な読みそ、
君ぬらさじと
堰きとむる
しがらみの
句切の
淀に
青き
愁の
水渋いざよふ。
みなしごの
十二のをとめ、
きのふより
我家に来て、
四つになる子の
守をしぬ。
筆と紙、子守は持ちて、
筋を引き、
環をゑがきて、
箪笥てふ物を教へぬ。
我子らは
箪笥を知らず、
不思議なる絵ぞと思へる。
あこがれまし、
いざなはれまし、
あはれ、
寂しき、
寂しき
此日を。
だまされまし、
賺されまし、
よしや、よしや、
見殺しに人のするとも。
わかき男は来るたびに
よき
金口の
煙草のむ。
そのよき香り、新しき
愁のごとくやはらかに、
煙と共にただよひぬ。
わかき男は知らざらん、
君が来るたび、人知れず、
我が
怖るるも、喜ぶも、
唯だその手なる
煙草のみ。
素焼の
壺にらちもなく
投げては挿せど、
百合の花、
ひとり
秀でて、清らかな
雪のひかりと白さとを
貴な
金紗の
匂はしい
エルに隠す
面ざしは、
二十歳ばかりのつつましい
そして
気高い、やさがたの
侯爵夫人にもたとへよう。
とり合せたる
金蓮花、
麝香なでしこ、
鈴蘭は
そぞろがはしく手を伸べて、
宝玉函の
蓋をあけ、
黄金の
腕環や紫の
斑入の
玉の耳かざり、
真珠の
頸環、どの花も
※[#「執/れんが」、U+24360、106-上-6]い吐息を投げながら、
華奢と
匂ひを
競ひげに、
まばゆいばかり差出せど
あはれ、
其等の
楽欲と、
世の常の美を
軽く見て、
わが
侯爵夫人、なにごとを
いと深げにも、静かにも
思ひつづけて
微笑むか。
花の秘密は知り
難い、
けれど、
百合をば見てゐると、
わたしの心は
涯もなく
拡がつて
行く、伸びて
行く。
我れと
我身を抱くやうに
世界の人をひしと抱き、
※[#「執/れんが」、U+24360、106-下-5]と、涙と、まごころの
中に
一所に
融け合つて
生きたいやうな、清らかな
愛の心になつて
行く。
[#ここで段組み終わり]
[#改丁]
[#ここからページの左右中央]
[#改丁]
[#ここから2段組み]
人は暑い昼に釣る、
わたしは涼しい
夜に釣る。
流れさうで流れぬ糸が面白い、
水だけが流れる。
わたしの
釣鈎に
餌は
要らない、
わたしは
唯だ月を釣る。
唯だ
一人ある日よりも、
大勢とゐる席で、
わが姿、しよんぼりと
細りやつるる。
平生は湯のやうに
沸く涙も
かう
云ふ日には凍るやらん。
立枠模様の
水浅葱、はでな
単衣を
著たれども、
わが姿、人にまじればうら
寂しや。
わが
家の八月の日の午後、
庭の
盥に子供らの飼ふ
緋目高は
生湯の水に浮き上がり、
琺瑯色の日光に
焼釘の
頭を並べて
呼吸をする。
その上にモザイク
形の影を
落す
静かに大きな金網。
木の葉は皆あぶら汗に光り、
隣の肥えた白い猫は
木の根に眠つたまま死ぬやらん。
わがする
幅広の帯こそ
大蛇なれ、
じりじりと、じりじりと巻きしむる。
夜あけ
方に降つた夕立が
庭に流した白い砂、
こなひだ見て来た
岩代の
摺上川が
想はれる。
砂に
埋れて顔を出す
濡れた黄いろの
月見草、
あれ、あの花が憎いほど
わたしの心をさし
覗き、
思ひなしかは知らねども、
やつれた私を引き立たす。
過ぎこし
方を思へば
空わたる月のごとく、
流るる星のごとくなりき。
行方知らぬ身をば歎かじ、
わが道は
明日も
弧を
描かん、
踊りつつ
往かん、
曳くひかり、水色の長き
裳の
如くならん。
芸術はわれを
此処にまで導きぬ、
今[#ルビの「こん」はママ]こそ
云はめ、
われ、芸術を
彼処に伴ひ
行かん、
より真実に、より光ある
処へと。
われは
軛となりて
挽かれ、
駿足の馬となりて
挽き、
車となりてわれを運ぶ。
わが名は「真実」なれども
「力」と呼ぶこそすべてなれ。
まはれ、まはれ、
走馬灯。
走馬灯は幾たびまはればとて、
曲もなき同じふやけし馬の絵なれど、
猶まはれ、まはれ、
まはらぬは
寂しきを。
桂氏の馬は
西園寺氏の馬に
今こそまはりゆくなれ、まはれ、まはれ。
女、
三越の売出しに
行きて、
寄切の前にのみ
一日ありき。
帰りきて、かくと
云へば、
男は独り
棋盤に向ひて
五目並べの
稽古してありしと
云ふ。
(
零と
零とを重ねたる
今日の日の
空しさよ。)
さて男は疲れて
黙し、また語らず、
女も
終に買物を語らざりき。
その買ひて帰れるは
纔に
高浪織の帯の
片側に過ぎざれど。
それは細き
麦稈、
しやぼん玉を吹くによけれど、
竿とはしがたし、
まして、まして柱とは。
されど、
麦稈も束として火を
附くれば
ゆゆしくも
家を焼く。
わがをさな
児は賢し、
束とはせず、しやぼん玉を吹いて
行くよ。
一切を要す、
われは
憧るる
霊なり。
物をしみな
為そ、
若し
齎す物の
猶ありとならば。――
初めに取れる
果実は
年経れど
紅し、
われこそ物を損ぜずして
愛づるすべを知るなれ。
「常に
杖に
倚りて
行く者は
その
杖を失ひし時、
自らをも失はん。
われは我にて
行かばや」と、われ語る。
友は笑ひて、さて
云ひぬ、
「な
偽りそ、
つとばかり涙さしぐむ君ならずや、
恋人の名を耳にするにも。」
古き物の
猶権威ある世なりければ
彼は日本の女にて東の隅にありき。
また
彼は精錬せられざりしかば
猶鉱のままなりき。
みづからを
白金の
質と知りながら……
物を書きさし、思ひさし、
広東蜜柑をむいたれば、
藍と
鬱金に染まる
爪。
江戸の昔の
廣重の
名所づくしの絵を刷つた
版師の指は
斯うもあらうか。
藍と
鬱金に染まる
爪。
堅苦しく、うはべの
律義のみを喜ぶ国、
しかも、かるはずみなる移り
気の国、
支那人ほどの根気なくて、浅く利己主義なる国、
亜米利加の富なくて、
亜米利加化する国、
疑惑と
戦慄とを感ぜざる国、
男みな背を
屈めて宿命論者となりゆく国、
めでたく、うら
安く、
万万歳の国。
髪かき上ぐる手ざはりが
何やら温泉
場にゐるやうな
軽い気分にわたしをする。
この
間に手紙を書きませう、
朝の書斎は
凍れども、
「君を思ふ」と
巴里宛に。
女は在る限り
粗けづりの明治の女ばかり。
唯だ
一人あの若い詩人がゐて
今日の会は引き立つ。
永井
荷風の書くやうな
おちついた、抒情詩的な物言ひ、
また
歌麿の版画の
「上の息子」の身のこなし。
わが
小さい娘の髪を
撫でるとき、
なにか知ら、生れ故郷が
懐はれる。
母がこと、亡き姉のこと、伯母がこと、
あれや、
其れ、とりとめもない事ながら、
片時は
黄金の雨が降りかかる。
三月の昼のひかり、
わが書斎に
匍ふ
藤むらさき。
そのなかに
光の顔の白、
七瀬の帯の赤、
机に掛けた布の
脂色、
みな
生生と温かに……
されど
唯だ
壺の
彼岸桜と
わが姿とのみは淡く寒し。
君の久しく留守なれば
静物の
如く我も在るらん。
障子あくれば薄明り、
しづかに暮れるたそがれに、
をりをりまじる薄雪は
錫箔よりもたよりなし。
ほつれた髪にとりすがり、
わたしの顔をさし
覗く
雪のこころの
寂しさよ。
しづくとなつて
融けてゆく
雪のこころもさうであらう、
まして、わたしは
何んとすべきぞ。
衣桁の帯からこぼれる
艶めいた昼の光の
肉色。
その下に黒猫は
目覚めて、
あれ、思ふぞんぶんに伸びをする。
世界は今、黒猫の
所有になる。
打つ
真似をすれば、
尾を立てて
後しざる黒猫、
まんまろく、かはゆく……
けれど、わたしの手は
錫箔のやうに薄く冷たく
閃めいた。
おお、
厭な手よ。
ちぎれちぎれの雲見れば、
風ある空もむしやくしやと
むか
腹立てて泣きたいか。
さう
云ふ
間にも、粒なみだ、
泣いて心が直るよに、
春の日の
入り、
紅さした
よい目元から降りかかる。
濡らせ、
濡らせ、
我髪濡らせ、通り雨。
二夜三夜こそ
円寝もよろし。
君なき
閨へ
入ろとせず、
椅子ある居間の月あかり、
黄ざくら色の
衣を
著て、
つつましやかなうたた
臥し。
まだ見る夢はありながら、
うらなく
明くる春のみじか
夜。
散りがたの赤むらさきの
牡丹の花、
青磁の
大鉢のなかに
幽かにそよぐ。
侠なるむだづかひの終りに
早くも迫る苦しき日の
怖れを
回避する心もち……
ええ、よし、それもよし。
女、女、
女は王よりもよろづ
贅沢に、
世界の香料と、貴金属と、宝石と、
花と、
絹布とは女こそ
使用ふなれ。
女の心臓のかよわなる血の
花弁の
旋律は
ベエトオフエンの音楽のどの傑作にも
勝り、
湯殿に
隠りて素肌のまま足の
爪切る時すら、
女の誇りに
印度の仏も知らぬほくそゑみあり。
言ひ寄る男をつれなく過ぐす自由も
女に許されたる楽しき特権にして、
相手の男の相場に負けて破産する日も、
女は
猶恋の
小唄を
口吟みて男ごころを
和ぐ。
たとへ
放火殺人の
大罪にて監獄に
入るとも、
男の
如く
二分刈とならず、黒髪は墓のあなたまで
浪打ちぬ。
婦人運動を排する
諸声の
如何に高ければとて、
女は
何時までも新しきゲエテ、カント、ニウトンを生み、
人間は
永久うらわかき母の慈愛に育ちゆく。
女、女、日本の女よ、
いざ
諸共に
自らを知らん。
黄と、
紅と、みどり、
生な色どり……
粉細工のやうなチユウリツプの花よ、葉よ。
それを
活ける白い磁の鉢、
きやしやな女の手、
た、た、た、た、と
注す水のおと。
ああ、なんと
生生した昼であろ。
粉細工のやうなチユウリツプの花よ、葉よ。
皐月なかばの晴れた日に、
気早い
蝉が一つ
啼き、
何とて
啼いたか知らねども、
森の若葉はその日から
火を吐くやうな息をする。
君の心は知らねども……
崖の上なる教会の
古びた壁の
脂の色、
常に静かでよいけれど、
高い
庇の陰にある
円い
小窓の
摺硝子、
誰やら
一人うるみ目に
空を見上げて泣くやうな、
それが
寂しく気にかかる。
台所の
閾に腰すゑた
古洋服の
酔つぱらひ、
そつとしてお置きよ、あのままに。
ものもらひとは
勿体ない、
髪の乱れも、
蒼い目も、
ボウドレエルに似てるわね。
つやなき髪に、
焼鏝を
誰が
当てよとは
云はねども、
はずみ心に縮らせば、
焼けてほろほろ
膝に散り、
半うしなふ前髪の
くちをし、悲し、あぢきなし。
あはれと思へ、
三十路へて
猶人
恋ふる女の身。
浜の日の出の空見れば、
あかね木綿の幕を張り、
静かな海に敷きつめた
廣重の絵の水あさぎ。
(それもわたしの思ひなし)
あちらを向いた黒い島。
青き
夜なり。
九段の坂を
上り詰めて
振返りつつ
見下ろすことの
嬉しや。
消え残る屋根の雪の色に
近き
家家は
石造の心地し、
神田、日本橋、
遠き
街街の
灯のかげは
緑金と、銀と、
紅玉の
星の海を作れり。
電車の
轢り………
飯田町駅の汽笛………
ふと、われは涙ぐみぬ、
高きモンマルトルの
段をなせる
路を
行きて、
君を眺めし
夕の
巴里を思ひ
出でつれば。
あわただしい
師走、
今年の
師走
一箇月三十一日は
外のこと、
わたしの心の
暦では、
わづか
五六日で暮れて
行く。
すべてを
為さし、思ひさし、
なんにも
云はぬ女にて、
する、する、すると幕になる。
騒音と
塵の都、
乱民と
賤民の都、
静思の
暇なくて
多弁の世となりぬ。
舌と筆の暴力は
腕の
其れに劣らず。
ここにして勝たんとせば
唯だ
吠えよ、大声に
吠えよ、
さて
猛く続けよ。
卑しきを忘れし男、
醜きを
耻ぢざる女、
げに君達の名は
強者なり。
[#ここで段組み終わり]
[#改丁]
[#ここからページの左右中央]
[#改丁]
[#ここから2段組み]
わたしは
今日病んでゐる、
生理的に病んでゐる。
わたしは黙つて目を
開いて
産前の
床に横になつてゐる。
なぜだらう、わたしは
度度死ぬ目に遭つてゐながら、
痛みと、血と、叫びに慣れて居ながら、
制しきれない不安と恐怖とに
慄へてゐる。
若いお医者がわたしを慰めて、
生むことの
幸福を述べて下された。
そんな事ならわたしの方が余計に知つてゐる。
それが今なんの役に立たう。
知識も現実で無い、
経験も過去のものである。
みんな黙つて居て下さい、
みんな傍観者の位置を越えずに居て下さい。
わたしは
唯だ
一人、
天にも地にも
唯だ
一人、
じつと唇を
噛みしめて
わたし自身の不可抗力を待ちませう。
生むことは、現に
わたしの内から
爆ぜる
唯だ一つの真実創造、
もう是非の
隙も無い。
今、第一の陣痛……
太陽は
俄かに青白くなり、
世界は
冷やかに
鎮まる。
さうして、わたしは
唯だ
一人………
二歳になる
可愛いいアウギユストよ、
おまへのために書いて置く、
おまへが
今日はじめて
おまへの母の
頬を打つたことを。
それはおまへの命の
自ら勝たうとする力が――
純粋な征服の力が
怒りの
形と
痙攣の
発作とになつて
電火のやうに
閃いたのだよ。
おまへは
何も意識して居なかつたであらう、
そして
直ぐに忘れてしまつたであらう、
けれど母は驚いた、
またしみじみと
嬉しかつた。
おまへは、
他日、
一人の男として、
昂然とみづから立つことが出来る、
清く
雄雄しく立つことが出来る、
また思ひ切り人と自然を愛することが出来る、
(征服の中枢は愛である、)
また疑惑と、苦痛と、死と、
嫉妬と、卑劣と、
嘲罵と、
圧制と、
曲学と、因襲と、
暴富と、
人爵とに
打克つことが出来る。
それだ、その純粋な一撃だ、
それがおまへの生涯の全部だ。
わたしはおまへの
掌が
獅子の
児のやうに打つた
鋭い一撃の痛さの
下で
かう
云ふ
白金の予感を覚えて
嬉しかつた。
そして同時に、おまへと共通の力が
母自身にも
潜んでゐるのを感じて、
わたしはおまへの打つた
頬も
打たない
頬までも
※[#「執/れんが」、U+24360、127-上-12]くなつた。
おまへは
何も意識して居なかつたであらう、
そして
直ぐに忘れてしまつたであらう。
けれど、おまへが大人になつて、
思想する時にも、働く時にも、
恋する時にも、戦ふ時にも、
これを取り出してお読み。
二歳になる
可愛いいアウギユストよ、
おまへのために書いて置く、
おまへが
今日はじめて
おまへの母の
頬を打つたことを。
猶かはいいアウギユストよ、
おまへは母の
胎に居て
欧羅巴を
観てあるいたんだよ。
母と
一所にしたその旅の記憶を
おまへの成人するにつれて
おまへの叡智が思ひ出すであらう。
ミケル・アンゼロやロダンのしたことも、
ナポレオンやパスツウルのしたことも、
それだ、その純粋な一撃だ、
その
猛猛しい
恍惚の一撃だ。
[#「一撃だ。」は底本では「一撃だ、」]
(一九一四年十一月二十日)
さあ、
一所に、
我家の日曜の朝の御飯。
(顔を洗うた親子
八人、)
みんなが二つのちやぶ台を囲みませう、
みんなが洗ひ立ての白い
胸布を当てませう。
独り赤さんのアウギユストだけは
おとなしく母さんの
膝の横に
坐るのねえ。
お早う、
お早う、
それ、アウギユストもお辞儀をしますよ、お早う、
何時もの
二斤の
仏蘭西麺包に
今日はバタとジヤムもある、
三合の
牛乳もある、
珍しい青
豌豆の御飯に、
参州味噌の
蜆汁、
うづら豆、
それから
新漬の
蕪菁もある。
みんな好きな物を勝手におあがり、
ゆつくりとおあがり、
たくさんにおあがり。
朝の御飯は
贅沢に食べる、
午の御飯は
肥えるやうに食べる、
夜の御飯は
楽みに食べる、
それは
全く
他人のこと。
我家の様な
家の御飯はね、
三度が三度、
父さんや母さんは働く
為に食べる、
子供のあなた達は、よく遊び、
よく大きくなり、よく歌ひ、
よく学校へ
行き、本を読み、
よく物を知るやうに食べる。
ゆつくりおあがり、
たくさんにおあがり。
せめて日曜の朝だけは
父さんや母さんも人並に
ゆつくりみんなと食べませう。
お茶を飲んだら元気よく
日曜学校へお
行き、
みんなでお
行き。
さあ、
一所に、
我家の日曜の朝の御飯。
いいえ、いいえ、現代の
生活と芸術に、
どうして肉ばかりでゐられよう、
単純な、
盲目な、
そしてヒステリツクな、
肉ばかりでゐられよう。
五感が
七感に
殖える、
いや、
五十感、百感にも
殖える。
理性と、本能と、
真と、夢と、徳とが手を
繋ぐ。
すべてが細かに
実が
入つて、
すべてが
千千に
入りまじり、
突風と火の中に
すべてが急に
角を
描く。
芸も、思想も、戦争も、
国も、個人も、宗教も、
恋も、政治も、労働も、
すべてが幾何学的に
合されて、
神秘な
踊を
断えず舞ふ
大建築に変り
行く。
ほんに、じつとしてはゐられぬ、
わたしも全身を投げ出して、
踊ろ、踊ろ。
踊つて
止まぬ殿堂の
白と赤との
大理石の
人像柱の一本に
諸手を挙げて加はらう。
阿片が
燻る……
発動機が
爆ぜる……
楽が裂ける……
わが
出でんとする城の鉄の門に
斯くこそ
記るされたれ。
その字の色は
真紅、
恐らくは
先きに突破せし人の
みづから指を
咬める血ならん。
「生くることの権利と、
其のための一切の必要。」
われは
戦慄し
且つ
躊躇らひしが、
やがて
微笑みて
頷きぬ。
さて、すべて身に
著けし物を脱ぎて
われを
逐ひ
来りし
人人に投げ与へ、
われは
玲瓏たる身一つにて
逃れ
出でぬ。
されど一歩して
ほつと
呼吸をつきし時、
あはれ目に
入るは
万里
一白の雪の
広野……
われは自由を得たれども、
わが所有は、この
刹那、
否、
永劫[#ルビの「えいごふ」は底本では「えいがふ」]に、
この
繊弱き身一つの
外に無かりき。
われは再び
戦慄したれども、
唯だ
一途に雪の上を進みぬ。
三日の
後
われは大いなる三つの
岐路に
出でたり。
ニイチエの過ぎたる
路、
トルストイの過ぎたる
路、
ドストイエフスキイの過ぎたる
路、
われは
其の
何れをも
択びかねて、
沈黙と
逡巡の中に、
暫く
此処に
停まりつつあり。
わが上の太陽は青白く、
冬の風
四方に吹きすさぶ……
両手にて
抱かんとし、
手の先にて
掴まんとする我等よ、
我等は
過ちつつあり。
手を揚げて、我等の
抱けるは
空の
空、
我等の
掴みたるは
非我。
唯だ我等を疲れしめて、
すべて
滑り、
すべて
逃れ去る。
いでや手の代りに
全身を拡げよ、
我等の所有は
此内にこそあれ。
我を
以て我を
抱けよ。
我を
以て我を
掴め、
我に
勝る真実は無し。
友よ、今ここに
我世の心を言はん。
我は常に
行き
著かで
途の
半にある
如し、
また常に重きを負ひて
喘ぐ人の
如し、
また
寂しきことは
年長けし
石婦の
如し。
さて百千の段ある坂を
我はひた登りに登る。
わが世の力となるは
後ろより
苛む苦痛なり。
われは
愧づ、
静かなる日送りを。
そは怠惰と不純とを編める
灰色の
大網にして、
黄金の時を
捕へんとしながら、
獲る所は疑惑と
悔のみ。
我が
諸手は常に高く張り、
我が目は常に見上げ、
我が口は常に呼び、
我が足は常に急ぐ。
されど、友よ、
ああ、かの太陽は遠し。
霧の
籠めた、
太洋の離れ島、
此島の街はまだ寝てゐる。
どの
茅屋の戸の
透間からも
まだ
夜の明りが日本酒
色を
洩してゐる。
たまたま赤んぼの
啼く声はするけれど、
大人は皆たわいもない
[#「たわいもない」は底本では「たはいもない」]夢に
耽つてゐる。
突然、入港の号砲を
轟かせて
わたし達は
夜中に
此処へ
著いた。
さうして時計を見ると、今、
陸の諸国でもう
朝飯の済んだ
頃だ、
わたし達はまだホテルが
見附からない。
まだ兄弟の
誰れにも
遇はない。
年ぢゆう
[#「年ぢゆう」は底本では「年ぢう」]旅してゐるわたし達は
世界を一つの公園と見てゐる。
さうして、自由に航海しながら、
なつかしい生れ故郷の
此島へ帰つて来た。
島の人間は奇怪な侵入者、
不思議な
放浪者[#ルビの「バガボンド」は底本では「バカホンド」]だと
罵らう。
わたし達は彼等を
覚さねばならない、
彼等を
生の力に
溢れさせねばならない。
よその街でするやうに、
飛行機と
露西亜バレエの調子で
彼等と
一所に踊らねばならない、
此島もわたし達の公園の一部である。
何かためらふ、内気なる
わが
繊弱なるたましひよ、
幼児のごと
慄きて
な言ひそ、死をば避けましと。
正しきに
就け、たましひよ、
戦へ、戦へ、みづからの
しあはせのため、悔ゆるなく、
恨むことなく、勇みあれ。
飽くこと知らぬ口にこそ
世の苦しみも甘からめ。
わがたましひよ、立ち上がり、
生に勝たんと叫べかし。
わが
暫く立ちて
沈吟せしは
三筋ある
岐れ
路の
中程なりき。
一つの
路は
崎嶇たる
石山の
巓に
攀ぢ登り、
一つの
路は暗き大野の
扁柏の森の奥に迷ひ、
一つの
路は河に沿ひて
平沙の上を
滑り
行けり。
われは
幾度か引返さんとしぬ、
来し
方の道には
人間三月の花開き、
紫の
霞、
金色の太陽、
甘き花の
香、
柔かきそよ風、
われは
唯だ幸ひの中に
酔ひしかば。
されど今は
行かん、
かの高き
石山の
彼方、
あはれ
其処にこそ
猶我を生かす
路はあらめ。
わが願ふは
最早安息にあらず、
夢にあらず、
思出にあらず、
よしや、足に血は流るとも、
一歩一歩、真実へ近づかん。
ああ森の巨人、
千年の
大樹よ、
わたしはそなたの前に
一人のつつましい自然崇拝教徒である。
そなたはダビデ王のやうに
勇ましい
拳を上げて
地上の
赦しがたい
何んの悪を打たうとするのか。
また、そなたはアトラス王が
世界を背中に負つてゐるやうに、
かの青空と太陽とを
両手で支へようとするのか。
そしてまた、そなたは
どうやら、心の奥で、
常に悩み、
常にじつと忍んでゐる。
それがわたしに
解る、
そなたの
鬱蒼たる
枝葉が
休む
間無しに汗を流し、
休む
間無しに
戦くので。
さう思つてそなたを仰ぐと、
希臘闘士の胴のやうな
そなたの
逞しい幹が
全世界の苦痛の重さを
唯だひとりで背負つて、
永遠の中に立つてゐるやうに見える。
或時、風と戦つては
そなたの
梢は波のやうに
逆立ち、
荒海の
響を立てて
勝利の歌を揚げ、
また
或時、積む雪に
圧されながらも
そなたの目は日光の前に赤く笑つてゐる。
千年の
大樹よ、
蜉蝣の命を持つ人間のわたしが
どんなにそなたに
由つて
元気づけられることぞ。
わたしはそなたの
蔭を踏んで思ひ、
そなたの幹を
撫でて歌つてゐる。
ああ、願はくは、死後にも、
わたしはそなたの
根方に葬られて、
そなたの清らかな
樹液と
隠れた
※[#「執/れんが」、U+24360、137-下-2]い涙とを吸ひながら、
更にわたしの地下の
飽くこと知らぬ愛情を続けたい。
なつかしい
大樹よ、
もう、そなたは森の中に居ない、
常にわたしの
魂の上に
爽やかな広い
蔭を投げてゐる。
森の
木蔭は日に遠く、
早く涼しくなるままに、
繊弱く低き
下草は
葉末の色の
褪せ
初めぬ。
われは雑草、しかれども
猶わが欲を
煽らまし、
もろ手を
延べて遠ざかる
夏の光を追ひなまし。
死なじ、飽くまで生きんとて、
みづから
恃むたましひは
かの
大樹にもゆづらじな、
われは雑草、しかれども。
踊、
踊、
桃と桜の
咲いたる庭で、
これも花かや、紫に
円く輪を
描く子供の
踊。
踊、
踊、
天をさし上げ、
地を踏みしめて、
みんな
凛凛しい身の構へ、
物に
怖れぬ男の
踊。
踊、
踊、
身をば斜めに
袂をかざし、
振れば
逆らふ
風も無い、
派手に優しい女の
踊。
踊、
踊、
鍬を
執る
振、
糸引く姿、
そして世の中いつまでも
円く輪を
描く子供の
踊。
「働く
外は無いよ、」
「こんなに働いてゐるよ、僕達は、」
威勢のいい声が
頻りに
聞える。
わたしは
其声を
目当に近寄つた。
薄暗い砂の上に寝そべつて、
煙草の煙を吹きながら、
五六人の男が
[#「男が」は底本では「男か」]
おなじやうなことを言つてゐる。
わたしもしよざいが無いので、
「まつたくですね」と声を掛けた。
すると、学生らしい
一人が
「君は感心な働き者だ、
女で居ながら、」
斯うわたしに言つた。
わたしはまだ働いたことも無いが、
褒められた
嬉しさに
「お仲間よ」と言ひ返した。
けれども、目を挙げると、
その人達の
塊の向うに、
夜の色を一層濃くして、
まつ
黒黒と
大勢の人間が
坐つてゐる。
みんな黙つて
俯向き、
一秒の
間も休まず、
力いつぱい、せつせと、
大きな網を編んでゐる。
三十女の心は
陰影も、
煙も、
音も無い火の
塊、
夕焼の空に
一輪
真赤な太陽、
唯だじつと
徹して燃えてゐる。
わが愛欲は限り無し、
今日のためより
明日のため、
香油をぞ塗る、更に塗る。
知るや、知らずや、恋人よ、
この楽しさを告げんとて
わが唇を君に寄す。
今夜の空は血を流し、
そして
俄かに気の触れた
嵐が長い笛を吹き、
海になびいた
藻のやうに
断えずゆらめく木の上を、
海月のやうに青ざめた
月がよろよろ泳ぎゆく。
真昼のなかに
夜が来た。
空を
行く日は青ざめて
氷のやうに冷えてゐる。
わたしの心を通るのは
黒黒とした
蝶のむれ。
新たに
活けた
薔薇ながら
古い香りを立ててゐる。
初めて聞いた言葉にも
昨日の声がまじつてる。
真実心を見せたまへ。
ほんに
寂しい時が来た、
驚くことが無くなつた。
薄くらがりに青ざめて、
しよんぼり独り手を重ね、
恋の歌にも身が
入らぬ。
あはれ、やうやく
我心、
怖るることを知り
初めぬ、
たそがれ時の近づくに。
否とは
云へど、
我心、
あはれ、やうやくうら寒し。
山の動く日きたる、
かく
云へど、人これを信ぜじ。
山はしばらく眠りしのみ、
その昔、彼等みな火に燃えて動きしを。
されど、そは信ぜずともよし、
人よ、ああ、
唯だこれを信ぜよ、
すべて眠りし女、
今ぞ
目覚めて動くなる。
一人称にてのみ物書かばや、
我は
寂しき片隅の女ぞ。
一人称にてのみ物書かばや、
我は、我は。
額にも、肩にも、
わが髪ぞほつるる。
しほたれて
湯滝に打たるる心もち……
ほつとつく
溜息は火の
如く
且つ狂ほし。
かかること知らぬ男、
我を
褒め、やがてまた
譏るらん。
われは
愛づ、新しき
薄手の白磁の鉢を。
水もこれに
湛ふれば涙と流れ、
花もこれに投げ
入るれば火とぞ燃ゆる。
恐るるは
粗忽なる男の手に砕けんこと、
素焼の土器よりも更に
脆く、かよわく……
青く、
且つ白く、
剃刀の
刄のこころよきかな。
暑き草いきれにきりぎりす
啼き、
ハモニカを近所の下宿にて吹くは
憂たて
[#「憂たて」は底本では「憂れた」]けれども、
我が油じみし
櫛笥の底をかき探れば、
陸奥紙に包みし細身の
剃刀こそ
出づるなれ。
にがきか、からきか、
煙草の味。
煙草の味は
云ひがたし。
甘きぞと
云はば、
粗忽者、
蜜、砂糖の
類と思はん。
我は
近頃煙草を
喫み習へど、
喫むことを人に秘めぬ。
蔭口に、男に似ると
云はるるはよし、
唯だ恐る、かの
粗忽者こそ世に多けれ。
「
鞭を忘るな」と
ヅアラツストラは
云ひけり。
「女こそ牛なれ、羊なれ。」
附け足して我ぞ
云はまし、
「野に
放てよ」
わが祖母の母は我が知らぬ人なれども、
すべてに
華奢を好みしとよ。
水晶の
珠数にも
倦き、
珊瑚の
珠数にも
倦き、
この
青玉の
珠数を
爪繰りしとよ。
我はこの
青玉の
珠数を解きほぐして、
貧しさに与ふべき
玩具なきまま、
一つ一つ我が
子等の手にぞ置くなる。
わが歌の短ければ、
言葉を省くと人思へり。
わが歌に省くべきもの無し、
また
何を
附け足さん。
わが心は
魚ならねば
鰓を持たず、
唯だ一息にこそ歌ふなれ。
すいつちよよ、すいつちよよ、
初秋の
小さき
篳篥を吹くすいつちよよ、
その声に青き
蚊帳は更に青し。
すいつちよよ、なぜに声をば途切らすぞ、
初秋の
夜の
蚊帳は
錫箔の
如く冷たきを……
すいつちよよ、すいつちよよ。
あぶら
蝉の、じじ、じじと
啼くは
アルボオス
石鹸の泡なり、
慳貪なる
商人の
方形に
開く
大口なり、
手掴みの二銭銅貨なり、
いつの世もざらにある芸術の批評なり。
夏の
夜のどしやぶりの雨……
わが
家は
泥田の底となるらん。
柱みな草の
如くに
撓み、
それを伝ふ雨漏りの水は蛇の
如し。
寝汗の
香……哀れなる弱き子の歯ぎしり……
青き
蚊帳は
蛙の
喉の
如くに
膨れ、
肩なる髪は
眼子菜のやうに
戦ぐ。
このなかに青白き
我顔こそ
芥に流れて寄れる
月見草の
蕊なれ。
相共にその
自らの力を試さぬ人と
行かじ、
彼等の心には
隙あり、油断あり。
よしもなき事ども――
善悪と
云ふ事どもを思へるよ。
過去はたとひ青き、
酸き、
充たざる、
如何にありしとも、
今は甘きか、
匂はしきか、
今は舌を刺す力あるか、無きか、
君よ、今の役に立たぬ
果実を摘むなかれ。
商人らの催せる
饗宴に、
我の
一人まじれるは奇異ならん、
我の周囲は目にて満ちぬ。
商人らよ、
晩餐を振舞へるは君達なれど、
我の食らふは
猶我の舌の
味ふなり。
さて、
商人らよ、
おのおの、その最近の仕事に
就いて誇りかに語れ、
我はさる事をも聴くを喜ぶ。
かの歯車は
断間なく動けり、
静かなるまでいと
忙しく動けり、
彼れに
空しき言葉無し、
彼れのなかに一切を刻むやらん。
すべて異性の手より受取るは、
温かく、やさしく、
匂はしく、派手に、
胸の血の
奇しくもときめくよ。
女のみありて、
女の手より女の手へ渡る物のうら
寂しく、
冷たく、力なく、
かの
茶人の
間に受渡す言葉の
如く
寒くいぢけて、
質素[#ルビの「ぢみ」は底本では「じみ」]なるかな。
このゆゑに我は女の味方ならず、
このゆゑに我は裏切らぬ男を嫌ふ。
かの
袴のみけばけばしくて
寂しげなる女のむれよ、
かの傷もたぬ紳士よ。
わが心は油よ、
より多く火をば好めど、
水に
附き流るるも是非なや。
鞣さざる
象皮の
如く、
受精せざる
蛋の
如く、
胎を
出でて早くも
老いし顔する
駱駝の子の
如く、
目を過ぐるもの、
凡そこの
三種を
出でず。
彼等は
此国の一流の
人人なり。
白蟻の
仔虫こそいたましけれ、
職虫の勝手なる刺激に
由り、
兵虫とも、生殖虫とも、
職虫とも、
即ち変へらるるなり。
職虫の勝手なる、無残なる刺激は
陋劣にも
食物をもてす。
さてまた、
其等各種の虫の多きに過ぐれば
職虫はやがて刺し殺して食らふとよ。
[#ここで段組み終わり]
[#改丁]
[#ここからページの左右中央]
[#改丁]
[#ここから2段組み]
今、
暁の
太陽の会釈に、
金色の笑ひ
天の
隅隅に降り注ぐ。
彼れは
目覚めたり、
光る
鶴嘴
幅びろき胸、
うしろに
靡く
空色の髪、
わが青年は
悠揚として立ち上がる。
裸体なる
彼れが
冒険の旅は
太陽のみ知りて、
空より見て
羨めり。
青年の
行手には、
蒼茫たる
無辺の大地、
その上に、
遥かに長く
濃き紫の一線
縦に、前へ、
路の
如く横たはるは、
唯だ、
彼れの歩み
行く
孤独の影のみ。
今、
暁の
太陽のみ
光の手を伸べて
彼れを見送る。
おお
大地震と猛火、
その急激な襲来にも
我我は
堪へた。
一難また一難、
何んでも
来よ、
それを踏み越えて
行く用意が
しかと
何時でもある。
大自然のあきめくら、
見くびつてくれるな、
人間には備はつてゐる、
刹那に永遠を見通す目、
それから、上下左右へ
即座に方向転移の出来る
飛躍自在の
魂。
おお
此の
魂である、
鋼の質を持つた
種子、
火の中からでも芽をふくものは。
おお
此の
魂である、
天の日、
太洋の
浪、
それと共に若やかに
燃え上がり躍り上がるのは。
我我は「無用」を破壊して進む。
見よ、大自然の暴威も
時に我我の助手を勤める。
我我は「必要」を創造して進む。
見よ、
溌溂たる素朴と
未曾有[#ルビの「みぞう」は底本では「みそうう」]の喜びの
精神と様式とが前に現れる。
誰も
昨日に
囚はれるな、
我我の生活のみづみづしい絵を
塗りの
剥げた額縁に
入れるな。
手は
断えず
一から図を引け、
トタンと
荒木の柱との
間に、
汗と破格の歌とを
以て
かんかんと
槌の音を響かせよ。
法外な幻想に、
愛と、真実と、労働と、
科学とを織り交ぜよ。
古臭い優美と泣虫とを捨てよ、
歴史的哲学と、資本主義と、
性別と、階級別とを超えた所に、
我我は皆自己を試さう。
新しく生きる者に
日は常に
元日、
時は常に春。
百の
禍も
何ぞ、
千の
戦で勝たう。
おお
窓毎に裸の太陽、
軒毎に雪の解けるしづく。
今、一千九百十九年の
最初の太陽が昇る。
美くしいパステルの
粉絵具に似た、
浅緑と
淡黄と
菫いろとの
透きとほりつつ降り注ぐ
静かなる
暁の光の中、
東の空の一端に、
天をつんざく
珊瑚紅の
熔岩――
新しい世界の噴火……
わたしは
此時、
新しい目を
逸さうとして、
思はずも見た、
おお、
彼処にある、
巨大なダンテの
半面像が、
巍然として、天の
半に。
それはバルジエロの壁に
描かれた
青い
冠に赤い
上衣、
細面に
凛凛しい
上目づかひの
若き日の詩人と同じ姿である。
あれ、あれ、「新生」のダンテが
その
優しく
気高い顔を
一ぱいに
紅くして
微笑む。
人人よ、戦後の第一年に、
わたしと同じ不思議が見たくば、
いざ
仰げ、共に、
朱に染まる
今朝の富士を。
石垣の上に
細路、
そして、また、上に石垣、
磯の潮で
千年の「時」が
磨減らした
大きな
円石を
層層と積み重ねた石垣。
どの石垣の
間からも
椿の木が
生えてゐる。
琅のやうな白い幹、
青銅のやうに光る葉、
小柄な
支那の
貴女が
笑つた口のやうな
紅い花。
石垣の崩れた
処には
山の
切崖が
煉瓦色の肌を出し、
下には海に沈んだ
円石が
浅瀬の水を
透して
亀の甲のやうに並んでゐる。
沖の
初島の方から
折折に風が吹く。
その度に、近い所で
小さい
浪頭がさつと立ち、
石垣の
椿が身を
揺つて
落ちた花がぼたりと水に浮く。
正月
元日、
里ずまひ、
喜びありて眺むれば、
まだ
木枯はをりをりに
向ひの丘を過ぎながら
高い
鼓弓を鳴らせども、
軒端の日ざし温かに、
ちらり、ほらりと梅が咲く。
上には晴れた空の色、
濃いお
納戸の
支那繻子に、
光、光と
云ふ文字を
銀糸で置いた
繍の
袖、
春が
著て来た
上衣をば
枝に掛けたか、
打香り、
ちらり、ほらりと梅が咲く。
薄暗がりの地平に
大火の祭。
空が焦げる、
海が燃える。
珊瑚紅から
黄金の光へ、
眩ゆくも変りゆく
焔の舞。
曙の
雲間から
子供らしい
円い
頬を
真赤に染めて笑ふ
地上の山山。
今、
焔は
一揺れし、
世界に降らす
金粉。
不死鳥の
羽羽たきだ。
太陽が現れる。
春が来た。
せまい庭にも日があたり、
張物板の
紅絹のきれ、
立つ
陽炎も身をそそる。
春が来た。
亜鉛の屋根に、ちよちよと、
妻に
焦れてまんまろな
ふくら
雀もよい
形。
春が来た。
遠い旅路の
良人から
使に来たか、見に来たか、
わたしを泣かせに
唯だ来たか。
春が来た。
朝の
汁にきりきざむ
蕗の
薹にも春が来た、
青いうれしい春が来た。
春よ春、
街に来てゐる春よ春、
横顔さへもなぜ見せぬ。
春よ春、
うす
衣すらもはおらずに
二月の肌を
惜むのか。
早く
注せ、
あの
大川に紫を、
其処の並木にうすべにを。
春よ春、
そなたの肌のぬくもりを
微風として
軒に置け。
その手には
屹度、
蜜の
香、
薔薇の夢、
乳のやうなる雨の糸。
想ふさへ
好しや、そなたの贈り物、
そして恋する赤い時。
春よ春、
おお、横顔をちらと見た。
緑の雪が散りかかる。
わが前に梅の花、
淡き緑を
注したる白、
ルイ
十四世の白、
上には
瑠璃色の
支那絹の空、
目も
遥に。
わが前に梅の花、
心は今、
白金の巣に
香に
酔ふ小鳥、
ほれぼれと、
一節、
高音に歌はまほし。
わが前に梅の花、
心は更に、
空想の中なる、
羅馬を
見下す丘の上の、
大理石の
柱廊[#ルビの「ちゆうらう」は底本では「ちうらう」]に
片手を掛けたり。
おお、ひと枝の
花屋の荷のうへの
紅梅の花、
薄暗い長屋の隅で
ポウブルな母と娘が
つぎ
貼りした障子の中の
冬の
明りに、
うつむいて言葉すくなく、
わづかな
帛片と
糊と、
鋏と、木の枝と、
青ざめた指とを用ひて、
手細工に造つた花と
云はうか。
いぢらしい花よ、
涙と人工との
羽二重の
赤玉を
綴つた花よ、
わたしは悲しい程そなたを好く。
なぜと
云ふなら、
そなたの中に私がある、
私の中にそなたがある。
そなたと私とは
厳寒と
北風とに
曝されて、
あの
三月に先だち、
怖る
怖る笑つてゐる。
空は
瑠璃いろ、雨のあと、
並木の柳、まんまろく
なびく新芽の浅みどり。
すこし離れて見るときは、
散歩の
路の
少女らが
深深とさす
日傘か。
蔭に立寄り見る時は、
絵のなかに舞ふ
鳳凰の
雲より垂れた
錦尾か。
空は
瑠璃いろ、雨のあと、
並木の柳、その枝を
引けば
翡翠の露が散る。
牛込見附の青い色、
わけて柳のさばき
髪、
それが映つた
濠の水。
柳の
蔭のしつとりと
黒く
濡れたる朝じめり。
垂れた柳とすれすれに
白い
護謨輪の
馳せ去れば、
あとに
我児の靴のおと。
黄いろな電車を
遣りすごし、
見上げた高い
神楽坂、
何やら
軽く、人ごみに
気おくれのする快さ。
我児の手からすと離れ、
風船
玉が飛んでゆく、
軒から
軒へ
揚りゆく。
柳の青む
頃ながら、
二月の風は
殺気だち、
都の街の
其処ここに
砂の
毒瓦斯、砂の灰、
砂の地雷を噴き上げる。
よろよろとして、
濠端に
山高帽を
抑へたる
洋服づれの逃げ足の
操人形に似る
可笑しさを、
外目に笑ふひまも無く、
さと
我顔に吹きつくる
痛き
飛礫に目ふさげば、
軽き
眩暈に身は
傾ぎ、
思はずにじむ涙さへ
砂の音して、あぢきなし。
二月の風の憎きかな、
乱るる
裾は手に取れど、
髪も
袂も
鍋鶴の
灰色したる心地して、
砂の
煙に
羽羽たきぬ。
にはかに人の胸を打つ
高い
音じめの
弥生かな、
支那の
鼓弓の
弥生かな。
かぼそい靴を
爪立てて
くるりと
旋る
弥生かな、
露西亜バレエの
弥生かな。
薔薇に並んだチユウリツプ、
黄金[#ルビの「きん」は底本では「ん」]」と白との
弥生かな、
ルイ
十四世の
弥生かな。
ああ、今やつと目の
醒めた
はればれとせぬ、薄い黄の
メランコリツクの太陽よ、
霜、氷、雪、北風の
諒闇の日は過ぎたのに、
永く見詰めて
寝通した
暗い
一間を脱け出して、
柳並木の
河岸通り
塗り替へられた水色の
きやしやな
露椅子に腰を掛け、
白い
諸手を
細杖の
銀の
把手に置きながら、
風を
怖れて
外套の
淡い焦茶の襟を立て、
病あがりの青ざめた
顔を
埋めて下を向く
若い男の太陽よ。
しかし早くも、
美くしい
うすくれなゐの
微笑は
太陽の
頬にさつと照り、
掩ひ切れざる喜びの
底ぢからある
目差は
金の光をちらと射る。
あたりを見れば、桃さくら、
エリオトロオプ、チユウリツプ、
小町娘を
選りぬいた
花の踊りの幾むれが
春の歌をば
口口に
細い
腕をさしのべて、
ああ太陽よ、新しく
そなたを祝ふ朝が来た。
もとより若い太陽に
春は途中の
駅なれば、
いざ
此処にして胸を張り
全身の血を香らせて
花と青葉を呼吸せよ、
いざ
魂をすこやかに
はた清くして、
晶液の
滴る水に身を洗へ。
やがて、そなたの
行先は
すべての溝が毒に
沸き、
すべての街が悪に燃え、
腐れた
匂ひ、
※[#「執/れんが」、U+24360、165-上-4]い
気息、
雨と洪水、
黴と汗、
蠕虫[#ルビの「うじ」は底本では「うぢ」]、バクテリヤ、泥と人、
其等の物の
入りまじり、
濁り、泡立ち、
咽せ返る
夏の都を越えながら、
汚れず、病まず、
悲まず、
信と勇気の
象形に
細身の剣と
百合を取り、
ああ太陽よ、
悠揚と
秋の野山に分け
入れよ、
其処にそなたの唇は
黄金の
果実に飽くであろ。
雑草こそは賢けれ、
野にも街にも人の踏む
路を残して青むなり。
雑草こそは正しけれ、
如何なる
窪も
平かに
円く
埋めて青むなり。
雑草こそは
情あれ、
獣のひづめ、鳥の
脚、
すべてを載せて青むなり。
雑草こそは
尊けれ、
雨の降る日も、晴れし日も、
微笑みながら青むなり。
すくすく伸びた
枝毎に
円くふくらむ
好い
蕾。
若い
健気な創造の
力に満ちた桃の花。
この世紀から改まる
女ごころの
譬にも
私は引かう、華やかに
この
美くしい桃の花。
ひと目見るなり、太陽も、
風も、空気も、人の
頬も、
さつと
真赤に
酔はされる
愛と
匂ひの桃の花。
女の
明日の
※情[#「執/れんが」、U+24360、166-下-6]が
世をば平和にする
如く、
今日の世界を
三月の
絶頂に置く桃の花。
ああ
三月のそよかぜ、
蜜と、
香と、日光とに
そのたをやかな身を浸して、
春の舞台に登るそよかぜ。
そなたこそ若き日の初恋の
あまき心を歌ふ序曲なれ。
たよたよとして
微触かなれども、
いと長きその喜びは既に
溢る。
また、そなたこそ美しきジユリエツトの
ロメオに投げし燃ゆる目なれ。
また、フランチエスカとパウロとの
[#「パウロとの」は底本では「バウロとの」]
額寄せて心
酔ひつつ読みし
書なれ。
ああ
三月のそよかぜ、
今、そなたの第一の
微笑みに、
人も、花も、
胡蝶も、
わなわなと胸踊る、胸踊る。
花の中なる京をんな、
薄花ざくら眺むれば、
女ごころに晴れがまし。
女同士とおもへども、
女同士の気安さの
中に
何やら晴れがまし。
春の遊びを
愛づる君、
知り
給へるや、この花の
分けていみじき
一時を。
日は今西に移り
行き、
知り
給へるや、
木がくれて、
青味を帯びしひと時を。
日は今西に移り
行き、
静かに
霞む春の昼、
花は泣かねど人ぞ泣く。
赤くぼかした八重ざくら、
その
蔭ゆけば、ほんのりと、
歌舞伎芝居に見るやうな
江戸の
明りが顔にさし、
ひと枝折れば、むすめ
気の、
おもはゆながら、
絃につれ、
何か
一さし舞ひたけれ。
さてまた
小雨ふりつづき、
目を泣き
脹らす八重ざくら、
その散りがたの
艶めけば、
豊國の絵にあるやうな、
繻子の黒味の落ちついた
昔の帯をきゆうと締め、
身もしなやかに眺めばや。
工場の窓で
今日聞くは
慣れぬ
稼ぎの
涙雨、
弥生と
云へど、
美くしい
柳の枝に降りもせず、
煉瓦の塀や、煙突や、
トタンの屋根に
濡れかかり、
煤と煙を
溶きながら、
石炭
殻に
沁んでゆく。
雨はいぢらし、思ひ出す、
こんな雨にも思ひ出す、
母がこと、また姉がこと、
そして
門田のれんげ草。
賓客[#ルビの「まらうど」は底本では「まろうど」]よ、
いざ
入りたまへ、
否、しばし待ちたまへ、
その
入口の
閾に。
知りたまふや、
賓客よ、
ここに
我心は
幸運の
俄かに
来れる
如く、
いみじくも惑へるなり。
なつかしき人、
今、われに
これを得させたまへり、
一抱へのかずかずの
薔薇。
如何にすべきぞ、
この
堆き
めでたき
薔薇を、
両手に余る
薔薇を。
この花束のままに
[#「花束のままに」は底本では「花束のまにまに」]
太き
壺にや
活けん、
とりどりに
小さき
瓶にや
分たん。
先づ、
何はあれ、
この
薄黄なる
大輪を
賓客よ、
君が
掌に置かん。
花に足る喜びは、
美くしきアントニオを載せて
羅馬を
船出せし
クレオパトラも知らじ。
まして、
風流の
大守、
十二の
金印を
佩びて、
楊州に
下る
楽みは
言ふべくも無し。
いざ
入りたまへ、
今日こそ我が仮の
家も、
賓客よ、君を迎へて、
飽かず飽かず語らまほしけれ。
×
一つの
薔薇の
瓶は
梅原さんの
寝たる女の絵の前に置かん。
一つの
薔薇の
瓶は
ロダンの写真と
並べて置かん。
一つの
薔薇の
瓶は
君と我との
間の卓に置かん。
さてまた二つの
薔薇の
瓶は
子供達の
部屋部屋に分けて置かん。
あとの一つの
瓶は
何処にか置くべき。
化粧の
間にか、
あの粗末なる鏡に
影映らば
花のためにいとほし。
若き
藻風の君の
来たまはん時のために、
客間の卓の
葉巻の箱に添へて置かん。
×
今日、わが
家には
どの
室にも
薔薇あり。
我等は生きぬ、
香味と、色と、
春と、愛と、
光との中に。
なつかしき
博士夫人、
その
花園の
薔薇を、
朝露の中に摘みて、
かくこそ豊かに
贈りたまひつれ。
どの
室にも
薔薇あり。
同じ都に住みつつ、
我は
未だその君を
まのあたり見ざれど、
匂はしき
御心の程は知りぬ、
何時も、
何時も、
花を摘みて
賜へば。
×
われは宵より
暁がたまで
書斎にありき。
物書くに筆躍りて
狂ほしくはずむ心は
※病[#「執/れんが」、U+24360、172-下-7]の人に似たりき。
振返れば、
隅なる書架の上に、
博士夫人の
賜へる
焔の色の
薔薇ありき。
思はずも、我は
手を伸べて叫びぬ、
「おお、我が待ちし
七つの太陽は
其処に」と。
×
今朝、わが
家の
どの
室の
薔薇も、
皆、唇なり。
春の唇、
本能の唇、
恋人の唇、
詩人の唇、
皆、
微笑める唇なり、
皆、歌へる唇なり。
×
あはれ、
何たる、
若やかに、
好色好色しき
微風ならん。
青磁の
瓶の
蔭に
宵より忍び居て、
この
暁、
大輪の
薔薇の
仄かに落ちし
真赤なる
一片の
下に、
あへなくも
圧されて、
息を
香に代へぬ。
×
瓶毎に
わが
侍き
護る
宝玉の
如き
めでたき
薔薇、
天つ日の
如き
盛りの
薔薇、
恋知らぬ
天童の
如き
清らなる
薔薇、
これらの花よ、
人間の身の
われ知りぬ、
及び
難しと。
此処に
われに親しきは、
肉身の深き底より
已むに
已まれず
燃えあがる
※情[#「執/れんが」、U+24360、174-上-12]の
其れにひとしき
紅き
薔薇、
はた、
逸早く
愁を知るや、
青ざめて、
月の光に似たる
薔薇、
深き疑惑に沈み
入る
烏羽玉の黒き
薔薇。
×
薔薇がこぼれる。
ほろりと、秋の真昼、
緑の四角な
瓶から
卓の上へ静かにこぼれる。
泡のやうな
塊、
月の光のやうな線、
ラフワエルの
花神の絵の
肉色。
つつましやかな
薔薇は
散る日にも悲しみを秘めて、
修道院の壁に
凭る
尼達のやうには青ざめず、
清く
貴やかな処女の
高い、温かい
寂しさと、
みづから
抑へかねた
妙香の
金色をした
雰囲気との中に、
わたしの書斎を浸してゐる。
×
まあ華やかな、
けだかい、燃え輝いた、
咲きの盛りの
五月の
薔薇。
どうして来てくれたの、
このみすぼらしい部屋へ、
この
疵だらけの
卓の上へ、
薔薇よ、そなたは
どんな
貴女の飾りにも、
どんな美しい恋人の贈物にも、
ふさはしい最上の花である。
もう若さの去つた、
そして平凡な月並の苦労をしてゐる、
哀れな
忙しい私が
どうして、そなたの友であらう。
人間の
花季は短い、
そなたを見て、私は
今ひしひしと
是れを感じる。
でも、
薔薇よ、
私は窓掛を引いて、
そなたを
陰影の中に置く。
それは、あの太陽に
そなたを奪はせないためだ、
猶、自分を守るやうに、
そなたを守りたいためだ。
おお、
真赤なる神秘の花、
天啓の花、
牡丹。
ひとり地上にありて
かの太陽の心を知れる花、
牡丹。
愛の花、
※[#「執/れんが」、U+24360、176-上-8]の花、
幻想の花、
焔の花、
牡丹。
コンテツス・ド・ノワイユを、
ルノワアルを、
梅蘭芳を、
梅原
龍三郎を連想する花、
牡丹。
おお、そなたは、また、
宇宙の不思議に
酔へる哲人の
大歓喜を示す
記号、
牡丹。
また詩人が常に建つる
※情[#「執/れんが」、U+24360、176-下-5]の
宝楼の
柱頭[#ルビの「ちゆうとう」は底本では「ちうとう」]を飾る火焔模様、
牡丹。
また、青春の
秘経の奥に
愛と栄華を保証する
運命の
黄金の
大印、
牡丹。
おお、そなたは、また、
新しき思想が我に差出す
甘き
接吻の唇、
牡丹。
我は狂ほしき
眩暈の中に
そを受けぬ、そを吸ひぬ、
※[#「執/れんが」、U+24360、177-上-1]き、
※[#「執/れんが」、U+24360、177-上-1]きヒユウマニズムの唇、
牡丹。
おお、今こそ目を閉ぢて見る我が奥に、
そなたは我が愛、我が心臓、
我が
真赤なる心の花、
牡丹。
初夏が来た、
初夏は
髪をきれいに
梳き分けた
十六七の美少年。
さくら色した
肉附に、
ようも似合うた
詰襟の
みどりの
上衣、しろづぼん。
初夏が来た、
初夏は
青い
焔を
沸き立たす
南の海の精であろ。
きやしやな前歯に麦の茎
ちよいと
噛み切り吹く笛も
つつみ
難ない火の調子。
初夏が来た、
初夏は
ほそいづぼんに、赤い靴、
杖を振り振り駆けて来た。
そよろと
匂ふ
追風に、
枳殻の若芽、けしの花、
青梅の実も身をゆする。
初夏が来た、
初夏は
五行ばかりの新しい
恋の
小唄をくちずさみ、
女の
呼吸のする窓へ、
物を思へど、
蒼白い
百合の
陰翳をば投げに来た。
おお、暑い夏、今年の夏、
ほんとうに夏らしい夏、
不足の言ひやうのない夏、
太陽のむき出しな
心臓の
皷動に調子を合せて、
万物が一斉に
うんと
力み返り、
肺
一ぱいの息を太くつき
たらたらと汗を流し、
芽と共に花を、
花と共に香りを、
愛と共に歌を、
歌と共に踊りを、
内から投げ出さずにゐられない夏、
金色に光る夏、
真紅に炎上する夏、
火の
粉を
振撒く夏、
機関銃で掃射する夏、
沸騰する
焼酎の夏、
乱舞する
獅子頭の夏、
かう
云ふ夏のあるために
万物は目を
覚し、
天地初生の元気を復活し、
救はれる、救はれる、
沈滞と怠慢とから、
安易と
姑息とから、
小さな
怨嗟から、
見苦い自己忘却から、
サンチマンタルから、
無用の論議から……
おお、密雲の近づく中の
霹靂の
一音、
それが
振鈴だ、
見よ、今、
赫灼たる夏の
女王の登場。
ああ、
五月、
そなたは、
美くしい
季節の
処女
太陽の花嫁。
そなたの
為めに、
野は
躑躅を、
水は
杜若を、
森は
藤を
捧げる。
微風も、
蜜蜂も、
はた
杜鵑も、
唯だそなたを
讃めて歌ふ。
五月よ、そなたの
桃色の
微笑は
木蔭の
薔薇の
花の上にもある。
五月は
好い月、花の月、
芽の月、
香の月、
色の月、
ポプラ、マロニエ、プラタアヌ、
つつじ、
芍薬、
藤、
蘇枋、
リラ、チユウリツプ、
罌粟の月、
女の服のかろがろと
薄くなる月、恋の月、
巻冠に矢を背負ひ、
葵をかざす
京人が
馬競べする
祭月、
巴里の街の
少女等が
花の祭に
美くしい
貴な
女王を選ぶ月、
わたしのことを
云ふならば
シベリアを
行き、
独逸行き、
君を慕うてはるばると
その
巴里まで
著いた月、
菖蒲の
太刀と
幟とで
去年うまれた
四男目の
アウギユストをば祝ふ月、
狭い書斎の窓ごしに
明るい空と
棕櫚の木が
馬来の島を
想はせる
微風の月、青い月、
プラチナ
色の雲の月、
蜜蜂の月、
蝶の月、
蟻も
蛾となり、
金糸雀も
卵を
抱く
生の月、
何やら物に
誘られる
官能の月、肉の月、
ヴウヴレエ酒の、香料の、
踊の、
楽の、歌の月、
わたしを中に
万物が
堅く抱きしめ、
縺れ合ひ、
呻き、くちづけ、汗をかく
太陽の月、
青海の、
森の、
公園の、噴水の、
庭の、
屋前の、
離亭の月、
やれ来た、
五月、
麦藁で
細い
薄手の
硝杯から
レモン
水をば吸ふやうな
あまい
眩暈を投げに来た。
四月の
末に街
行けば、
気ちがひじみた風が吹く。
砂と、
汐気と、泥の
香と、
温気を混ぜた
南風。
細柄の日傘わが手から
気球のやうに逃げよとし、
髪や、
袂や、
裾まはり
羽ばたくやうに舞ひ
揚る。
人も、車も、牛、馬も
同じ
路踏む都とて、
電車、自転車、監獄車、
自動車づれの
狼藉さ
[#「狼藉さ」は底本では「狼籍さ」]。
鼻息荒く
吼えながら、
人を侮り、
脅かし、
浮足
立たせ、
周章てさせ、
逃げ惑はせて、あはや今、
踏みにじらんと追ひ迫り、
さて、その
刹那、
冷かに、
からかふやうに、勝つたよに、
見返りもせず去つて
行く。
そして神田の四つ
辻に、
下駄を切らして
俯向いた
わたしの顔を憎らしく
覗いて遊ぶ
南風。
おお、海が高まる、高まる。
若い、やさしい
五月の胸、
群青色の海が高まる。
金岡の
金泥の厚さ、
光悦の線の太さ、
寫樂の神経のきびきびしさ、
其等を一つに
融かして
音楽のやうに海が高まる。
さうして、その先に
美しい海の
乳首と見える
まんまるい一点の
紅い帆。
それを中心に
今、海は一段と緊張し、
高まる、高まる、高まる。
おお、若い命が高まる。
わたしと
一所に海が高まる。
今年も
五月、チユウリツプ、
見る目まばゆくぱつと咲く、
猩猩緋に咲く、
黄金に咲く、
紅と白とをまぜて咲く、
人に構はず派手に咲く。
今日も冷たく降る雨は
白く尽きざる涙にて、
世界を
掩ふ
梅雨空は
重たき
繻子の
喪の
掛布。
空は空とて悲しきか、
かなしみ多き
我胸も
墨と銀との泣き
交す
ゆふべの色に変る頃。
庭に
繁れる雑草も
見る人によりあはれなり、
心に
上る
雑念も
一一見れば捨てがたし。
あはれなり、捨てがたし、
捨てがたし、あはれなり。
うすずみ色の
梅雨空に、
屋根の上から、ふわふわと
たんぽぽの穂が
[#「穂が」は底本では「穂か」]白く散る。
※[#「執/れんが」、U+24360、184-下-2]と笑ひを失つた
老いた世界の
肌皮が
枯れて
剥がれて落ちるのか。
たんぽぽの穂の散るままに、
ちらと
滑稽けた
骸骨が
前に踊つて消えて
行く。
何か心の無かるべき。
ほつと
気息をばつきながら
思ひあまりて散るならん、
梅雨[#ルビの「つゆ」は底本では「づゆ」]の
晴間の屋根の草。
一むら立てる屋根の草、
何んの草とも知らざりき。
梅雨の
晴間に見上ぐれば、
綿より
脆く、
白髪より
細く、はかなく、
折折に
たんぽぽの穂がふわと散る。
ああ、さみだれよ、
昨日まで、
そなたを憎いと思つてた。
魔障の雲がはびこつて
地を
亡ぼそと降るやうに。
もし、さみだれが世に絶えて
唯だ乾く日のつづきなば、
都も、山も、花園も、
サハラの
沙となるであろ。
恋を命とする身には
涙の添ひてうらがなし。
空を恋路にたとへなば、
そのさみだれはため涙。
降れ、しとしとと、しとしとと、
赤をまじへた、温かい
黒の中から、さみだれよ、
網形に引け、銀の糸。
ああ、さみだれよ、そなたのみ、
わが名も骨も朽ちる日に、
埋れた墓を洗ひ出し、
涙の手もて
拭ふのは。
隅田川、
隅田川、
いつ見ても
土の色して
かき濁り、
黙して
流る。
今は
我身に
引きくらべ、
土より出たる
隅田川、
隅田川、
ひとしく悲し。
行く人は
悪を離れず、
行く水は
土を離れず。
隅田川、
隅田川。
あはれ、日の出、
山山は
酔へる
如く、
みな喜びに身を
揺りて、
黄金と
朱の
笑まひを
交し、
海と
云ふ海は皆、
虹よりも
眩ゆき
黄金と五彩の橋を
浮べて、
「日よ、
先づ
此処より過ぎたまへ」とさし招き、
さて、日の
脚に口づけんとす。
あはれ、日の出、
万象は
一瞬にして、奇蹟の
如く
すべて変れり。
大寺の屋根に
鳩のむれは
羽羽たき、
裏街に眠りし
運河のどす
黒き水にも
銀と
珊瑚のゆるき波を揚げて、
早くも動く船あり。
人、いづこにか
静かに怠りて在り
得べき。
あはれ、日の出、
神神しき日の出、
われもまた
かの
喬木の
如く、
光明赫灼のなかに、
高く二つの手を
開きて、
新しき日を
抱かまし。
虞美人草の散るままに、
淫れた風も肩先を
深く
斬られて血を浴びる。
虞美人草の散るままに、
畑は火焔の
渠となり、
入日の海へ流れゆく。
虞美人草も、わが恋も、
ああ、散るままに散るままに、
散るままにこそまばゆけれ。
この
草原に、
誰であろ、
波斯の布の花模様、
真赤な
刺繍を置いたのは。
いえ、いえ、これは太陽が
土を
浄めて世に降らす
点、点、点、点、不思議の火。
いえ、いえ、これは「
水無月」が
真夏の愛を地に送る
※[#「執/れんが」、U+24360、188-下-11]いくちづけ、燃ゆる
星眸。
いえ、いえ、これは人同志
恋に
焦れた心臓の
象形に咲く
罌粟の花。
おお、
罌粟の花、
罌粟の花、
わたしのやうに
一心に
思ひつめたる
罌粟の花。
河からさつと風が吹く。
風に吹かれて、さわさわと
大きく
靡く原の
蘆。
蘆の
間を縫ふ
路の
何処かで人の話しごゑ、
そして近づく馬の
。
小高い
岡に突き当り
路は左へ
一廻り。
私は
岡へ
駈け上がる。
下を通るは、馬の背に
男のやうな帽を
被た
亜米利加婦人の
二人づれ。
緑を伸べた地平には、
遠い
工場の煙突が
赤い点をば一つ置く。
ああ夏が来た。この昼の
若葉を
透す日の色は
ほんに酒ならペパミント、
黄金と緑を振り注ぎ、
広く障子を
開けたれば、
子供のやうな
微風が
衣桁に掛けた
友染の
長い
襦袢に戯れる。
ああ夏が来た。こんな日は
君もどんなに恋しかろ、
巴里の広場、街並木、
珈琲店の
[#「珈琲店の」は底本では「琲珈店の」]前庭、
Boi の池。
私も筆の手を止めて、
晴れた
Seine の
濃紫
今その水が目に
浮び、
じつと涙に
濡れました。
ああ夏が来た、夏が来た。
二人の画家とつれだつて、
君と私が
Amian の
塔を
観たのも夏である。
二度と
行かれる国で無し、
私に帽をさし出した
お寺の前の
乞食らに
物を
遣らずになぜ来たか。
庭いちめんにこころよく
すくすく
繁る雑草よ、
弥生の花に飽いた目は
ほれぼれとして
其れに向く。
人の気づかぬ草ながら、
十三塔を高く立て
風の吹くたび舞ふもある。
女らしくも手を伸ばし、
誰れを追ふのか、
抱くのか、
上目づかひに泣くもある。
五月のすゑの
外光に
汗の
香のする全身を
香炉としつつ
焚くもある。
名をすら知らぬ草ながら、
葉の
形見れば限り無し、
さかづきの
形、とんぼ
形、
のこぎりの
形、
楯の
形、
ペン
尖の
形、針の
形。
また葉の色も限り無し、
青梅の色、
鶸茶色、
[#「鶸茶色、」は底本では「鶸茶色」]
緑青の色、空の色、
それに
裏葉の海の色。
青玉色に
透きとほり、
地にへばりつく
或る葉には
緑を帯びた
仏蘭西の
牡蠣の
薄身を思ひ出し、
なまあたたかい
曇天に
細かな砂の灰が降り、
南の風に
草原が
のろい
廻渦を立てる日は、
六坪ばかりの庭ながら
紅海沖が目に
浮ぶ。
洗濯物を入れたまま
大きな
盥が庭を流れ、
地が
俄かに二三
尺も低くなつたやうに
姫向日葵の
鬱金の花の
尖だけが見え、
ごむ
手毬がついと縁の下から出て、
潜水服を
著たお
伽噺の怪物の
顧眄をしながら
腐つた
紅いダリアの花に取り
縋る。
五六枚しめた雨戸の
間間から
覗く家族の顔は
どれも
栗毛の馬の顔である。
雨はますます白い
刄のやうに横に降る。
わたしは
颶風にほぐれる
裾を片手に
抑へて、
泡立つて
行く濁流を胸がすく程じつと眺める。
膝ぼしまで水に
漬つた郵便配達夫を
人の木が歩いて来たのだと見ると、
濡れた足の
儘廊下で
跳り狂ふ子供等は
真鯉の子のやうにも思はれた。
ときどき不安と
驚奇との気分の中で、
今日の雨のやうに、
物の評価の
顛倒るのは面白い。
青いすいつちよよ、
青い
蚊帳に来て
啼く青いすいつちよよ、
青いすいつちよの心では
恋せぬ昔の私と思ふらん、
寂しい
寂しい私と思ふらん。
思へば
和泉の国にて聞いたその声も
今聞く声も変り無し、
きさくな、
世づかぬ小娘の青いすいつちよよ。
[#1行アキは底本ではなし]青いすいつちよよ、
青いすいつちよは、なぜ
啼きさして
黙るぞ。
わたしの
外に聞き慣れぬ男の
気息に
羞らふか、
やつれの見えるわたしの
頬、
ほつれたるわたしの髪をじつと見て、
虫の心も
咽んだか。
青いすいつちよよ、
何も
歎くな、驚くな、
わたしはすべて
幸福だ、
いざ、
今日此頃を語らはん、
来てとまれ、
わたしの左の白い
腕を
借すほどに。
おお
美くしい勝浦、
山が緑の
優しい両手を伸ばした中に、
海と街とを抱いてゐる。
此処へ来ると、
人間も、船も、鳥も、
青空に掛る
円い雲も、
すべてが平和な子供になる。
太洋で荒れる波も、
この浜の砂の上では、
柔かな
鳴海絞りの
袂を
軽く拡げて戯れる。
それは山に姿を
仮りて
静かに抱く者があるからだ。
おお
美くしい勝浦、
此処に私は「愛」を見た。
木の
間の泉の
夜となる
哀しさ、
静けき若葉の身ぶるひ、夜霧の白い息。
木の
間の泉の
夜となる
哀しさ、
微風なげけば、花の
香ぬれつつ
身悶えぬ。
木の
間の泉の
夜となる
哀しさ、
黄金のさし
櫛、
月姫うるみて
彷徨へり。
木の
間の泉の
夜となる
哀しさ、
笛、笛、笛、笛、我等も
哀しき笛を吹く。
草の上に
更に高く、
唯だ
一もと、
二尺ばかり伸びて出た草。
かよわい、薄い、
細長い四五
片の葉が
朝涼の中に垂れて
描く
女らしい曲線。
優しい草よ、
はかなげな草よ、
全身に
青玉の
質を持ちながら、
七月の初めに
もう秋を感じてゐる。
青い
仄かな悲哀、
おお、草よ、
これがそなたのすべてか。
蛇よ、そなたを見る時、
わたしは二元論者になる。
美と醜と
二つの分裂が
宇宙に
並存するのを見る。
蛇よ、そなたを思ふ時、
わたしの愛の
一辺が
解る。
わたしの愛はまだ絶対のもので無い。
蛮人と、偽善者と、
盗賊と、
奸商と、
平俗な詩人とを
恕すわたしも、
蛇よ、そなたばかりは
わたしの目の
外に置きたい。
木の
蔭になつた、
青暗い
わたしの書斎のなかへ、
午後になると、
いろんな
蜻蛉が止まりに来る。
天井の隅や
額のふちで、
かさこそと
銀の
響の
羽ざはり……
わたしは
俯向いて
物を書きながら、
心のなかで
かう
呟く、
其処には恋に疲れた天使達、
此処には恋に疲れた女
一人。
夏、
真赤な裸をした夏、
おまへは
何と
云ふ強い力で
わたしを
圧へつけるのか。
おまへに抵抗するために、
わたしは今、
冬から春の
間に
貯めた
命の力を強く強く使はされる。
夏、おまへは現実の中の
※[#「執/れんが」、U+24360、197-上-4]し切つた意志だ。
わたしはおまへに負けない、
わたしはおまへを
取入れよう、
おまへに
騎つて
行かう、
太陽の
使、
真昼の霊、
涙と影を踏みにじる
力者。
夏、おまへに
由つてわたしは今、
特別な
昂奮が
偉大な
情※[#「執/れんが」、U+24360、197-上-12]と
怖しい直覚とを
以て
わたしの
脈管に流れるのを感じる。
なんと
云ふ
神神しい感興、
おお、
※[#「執/れんが」、U+24360、197-下-2]した砂を踏んで
行かう。
わたしは生きる、
力一ぱい、
汗を
拭き
拭き、ペンを手にして。
今、宇宙の
生気が
わたしに十分感電してゐる。
わたしは法悦に有頂天にならうとする。
雲が
一片あの空から
覗いてゐる。
雲よ、おまへも放たれてゐる仲間か。
よい夏だ、
夏がわたしと
一所に燃え上がる。
海が急に
膨れ上がり、
起ち上がり、
前脚を上げた
千匹の
大馬になつて
まつしぐらに
押寄せる。
一刹那、背を
乾してゐた
岩と
云ふ岩が
身構へをする
隙も無く、
だ、だ、だ、だ、ど、どおん、
海は岩の上に倒れかかる。
磯は
忽ち一面、
銀の溶液で
掩はれる。
やがて
其れが
滑り落ちる時、
真珠を飾つた
雪白の絹で
さつと
撫でられぬ岩も無い。
一つの
紫色をした岩の上には、
波の中の
月桂樹――
緑の
昆布が一つ
捧げられる。
飛沫と爆音との
彼方に、
海はまた
遠退いて
行く。
手紙が山田温泉から
著いた。
どんなに涼しい朝、
山風に吹かれながら、
紙の
端を左の手で
抑へ
抑へして書かれたか。
この
快闊な手紙、
涙には
濡れて
来ずとも、
信濃の山の雲のしづくが
そつと落ち掛つたことであらう。
涼しい風、そよ風、
折折あまえるやうに
[#「あまえるやうに」は底本では「あまへるやうに」]
窓から
入る風。
風の中の
美くしい
女怪、
わたしの髪にじやれ、
わたしの机の紙を
翻へし、
わたしの汗を乾かし、
わたしの気分を
浅瀬の
若鮎のやうに、
溌溂と
跳ね
反らせる風。
九月
一日、地震の記念日、
ああ東京、横浜、
相模、伊豆、安房の
各地に生き残つた者の心に、
どうして、のんきらしく、
あの日を振返る余裕があらう。
私達は
誰も、
誰も、
あの日のつづきにゐる。
まだまだ致命的な、
大きな恐怖のなかに、
刻一刻ふるへてゐる。
激震の急襲、
それは決して過ぎ去りはしない、
次の
刹那に来る、
明日に、
明後日に来る。
私達は油断なく
其れに身構へる。
喪から
喪へ、
地獄から地獄へ、
心の上のおごそかな事実、
ああこの不安をどうしよう、
笑ふことも出来ない、
紛らすことも出来ない、
理詰で無くすることも出来ない。
若しも
誰かが
大平楽な
[#「大平楽な」はママ]気分になつて、
もう
一年たつた
今日、
あのやうなカタストロフは無いと
云ふなら、
それこそ迷信家を
以て呼ばう。
さう
云ふ迷信家のためにだけ、
有ることの許される
九月
一日、地震の記念日。
今年も
取出して掛ける、
地震の夏の古い
簾。
あの時、皆が逃げ出したあとに
この
簾は掛かつてゐた。
誰れがおまへを気にしよう
[#「気にしよう」は底本では「気にしやう」]、
置き
去りにされ、
家と
一所に揺れ、
風下の火事の
煙を浴びながら。
もし私の
家も焼けてゐたら、
簾よ、おまへが
第一の犠牲となつたであらう。
三日目に
家に
入つた私が
蘇生の喜びに胸を躍らせ、
さらさらと
簾を巻いて、
二階から見上げた空の
大きさ、青さ、みづみづしさ。
簾は古く
汚れてゐる、
その糸は切れかけてゐる。
でも、なつかしい
簾よ、
共に
災厄をのがれた
簾よ、
おまへを手づから巻くたびに、
新しい感謝が
四年前の九月のやうに
沸く。
おまへも私も生きてゐる。
虫干の日に現れたる
女の帽のかずかず、
欧羅巴の旅にて
わが
被たりしもの。
おお、一千九百十二年の
巴里の
流行。
リボンと、花と、
羽飾りとは
褪せたれど、
思出は
古酒の
如く甘し。
埃と
黴を
透して
是等の帽の上に
セエヌの水の
匂ひ、
サン・クルウの森の
雫、
ハイド・パアクの霧、
ミユンヘンの霜、
維納の雨、
アムステルダムの
入日の色、
さては、また、
バガテルの
薔薇の
香、
仏蘭西座の人いきれ、
猶残れるや、残らぬや、
思出は
古酒の
如く甘し。
アウギユスト・ロダンは
この帽の
下にて
我手に口づけ、
ラパン・アジルに
集る
新しき詩人と画家の
群は
この帽を
被たる我を
中央に据ゑて歌ひき。
別れの握手の
後、
猶一たびこの帽を
擡げて、
優雅なる詩人レニエの姿を
我こそ振返りしか。
ああ、すべて
十とせの
前、
思出は
古酒の
如く甘し。
今夜、わたしの心に詩がある。
簗の上で
跳ねる
銀の
魚のやうに。
桃色の薄雲の中を
奔る
まん
円い月のやうに。
風と露とに
揺れる
細い緑の
若竹のやうに。
今夜、私の心に詩がある。
私はじつと
其詩を
抑へる。
魚はいよいよ
跳ねる。
月はいよいよ
奔る。
竹はいよいよ
揺れる。
苦しい
此時、
楽しい
此時。
夕立の風
軒の
簾を動かし、
部屋の
内暗くなりて
片時涼しければ、
我は物を書きさし、
空を見上げて、雨を聴きぬ。
書きさせる紙の上に
何時しか
来りし
蜂一つ。
よき姿の
蜂よ、
腰の細さ糸に似て、
身に塗れる
金は
何の花粉よりか成れる。
好し、我が文字の上を
蜂の
匍ふに任せん。
わが
匂ひなき歌は
素枯れし花に等し、
せめて
弥生の
名残を求めて
蜂の
匍ふに任せん。
おお咲いた、ダリヤの花が咲いた、
明るい
朱に、紫に、
冴えた
黄金に。
破れた障子をすつかりお
開け、
思ひがけない
幸福が来たやうに。
黒ずんだ緑に、灰がかつた青、
陰気な
常盤木ばかりが立て込んで
春と
云ふ日を知らなんだ庭へ、
永い冬から
一足飛びに夏が来た。
それも遅れて七月に。
まあ、うれしい、
ダリヤよ、
わたしは思はず両手をおまへに差延べる。
この
開いて
尖つた白い指を
何と見る、ダリヤよ。
しかし、もう、わたしの目には
ダリヤもない、指もない、
唯だ光と、
※[#「執/れんが」、U+24360、205-上-3]と、
匂ひと、
楽欲とに
眩暈して
慄へた
わたしの心の花の
象があるばかり。
どこかの屋根へ早くから
群れて
集り、かあ、かあと
啼いた
鴉に目が覚めて、
透して見れば
蚊帳ごしに
もう戸の
外は
白んでる。
細い雨戸を
開けたれば、
脹れぼつたいやうな
目遣ひの
鴨頭草の花咲きみだれ、
荒れた庭とも
云ふばかり
しつとり青い露がおく。
日本の夏の朝らしい
このひと時の涼しさは、
人まで、身まで、骨までも
水晶質となるやうに、
しみじみ清く
濡れとほる。
[#1行アキは底本ではなし]厨へ行つて水道の
栓をねぢれば、たた、たたと
思ひ余つた胸のよに、
バケツへ落ちて盛り上がる
心丈夫な水音も、
わたしの立つた板敷へ
裏口の戸の
間から
新聞くばりがばつさりと
投げこんで
行く物音も、
薄暗がりにここちよや。
蝉が
啼く。
燻るよに、じじと一つ、
わたしの
家の
桐の木に。
その
音につれて、そこ、かしこ、
蝉、
蝉、
蝉、
蝉、
いろんな
蝉が
啼き出した。
わたしの
家の
蝉の
音が
最初の口火、
いま山の手の
番町の
どの庭、どの木、どの屋根も
七月の
真赤な吐息の火に
焦げる。
枝にも、葉にも、
瓦にも、
軒にも、戸にも、
簾にも、
流れるやうな
朱を
注した
光のなかで
蝉が
啼く。
無駄と知らずに、根気よく、
砂を
握んでずらす
蝉。
鍋の油を煮たぎらし、
呪ひごとする悪の
蝉。
重い
苦患に
身悶えて、
鉄の鎖をゆする
蝉。
悟りめかして、しゆ、しゆ、しゆ、しゆと
水晶の
珠数を鳴らす
蝉。
思ひ出しては
一しきり
泣きじやくりする恋の
蝉。
蝉、
蝉、
蝉、
蝉、
※[#「執/れんが」、U+24360、207-下-1]い真夏の日もすがら、
蝉の
音は
啼き
止んで、また
啼き次ぐ。
さて
誰が知ろ、
啼かず、叫ばず、ただひとり
蔭にかくれて、
微かにも
羽ばたきをする
雌の
蝉。
朝露のおくままに、
天地は
サフイイルと、
青玉と
真珠を盛つたギヤマンの
室。
朝の日の昇るまま、
天地は
黄金と、しろがねと
珊瑚をまぜたモザイクの壁。
その中に歌ふトレモロ――秋の
初風。
初秋は
来ぬ、
白麻の
明るき
蚊帳に
臥しながら、
夜の更けゆけば水色の
麻の
軽きを襟近く
打被くまで涼しかり。
上の
我子は
二人づれ
大人の
如く遠く
行き、
夏の休みを
陸奥の
山辺の友の
家に居て
今朝うれしくも帰りきぬ。
休みのはてに
己が子と
別るる
鄙の親達は
夏の尽くるや惜しからん、
都に住めるしあはせは
秋の立つにも身に知らる。
貧しけれども、わが
家の
今日の
夕食の楽しさよ、
黒川郡の
山辺にて
我子の
採れる
百合の根を
我子と共にあぢはへば。
世界はいと静かに
涼しき
夜の
帳に
睡り、
黄金の
魚一つ
その差延べし手に光りぬ、
初秋の月。
紫水晶の海は
黒き
大地に並び夢みて、
一つの波は
彼方より
柔かき
節奏に
その上を
馳せ
来る。
波は次第に高まる、
麦の
畝の風に
逆ふ
如く。
さて長き
磯の上に
拡がり、拡がる、
しろがねの
網として。
波は
幾度もくり返し
奇しき光の
魚を抱かんとす。
されど
網を知らで、
常に高く
彼処に光りぬ、
初秋の月。
誇りかな春に比べて、
優しい、優しい秋。
目に見えない
刷毛を
秋は手にして、
日蔭の土、
風に吹かれる雲、
街の並木、
茅の葉、
葛の
蔓、
雑草の花にも、
一つ一つ似合はしい
好い色を
択んで、
まんべんなく、
細細と、
みんなを
彩つて
行く。
御覧よ、
その
畑に並んだ、
小鳥の
脚よりも
繊弱な
蕎麦の茎にも、
夕焼の空のやうな
美くしい
臙脂紫……
これが秋です。
優しい、優しい秋。
少し冷たく、
匂はしく、
清く、はかなく、たよたよと、
コスモスの花、高く咲く。
秋の心を知る花か、
うすももいろに高く咲く。
初秋の日の砂の上に
ひろき葉一つ、はかなくも
薄黄を帯びし灰色の
影をば
曳きて落ち
来る。
あはれ傷つく鳥ならば
血に
染みつつも叫ばまし、
秋に
堪へざる
落葉こそ
反古にひとしき
音すなれ。
秋は
薄手の
杯か、
ちんからりんと
杯洗に触れて沈むよな虫が
啼く。
秋は妹の
日傘か、
きやしやな
翡翠の
柄の
把手、
明るい
黄色の日があたる。
さて、また、秋は
廿二三の
今様づくり、
青みを帯びたお
納戸の
著丈すらりと、
白茶地に
金糸の多い
色紙形、
唐織の帯も
眩く、
園遊会の片隅のいたや
楓の
蔭を
行き、
少し伏目に、まつ白な菊の花壇をじつと見る。
それから後ろのわたしと顔を見合せて、
「まあ、いい所で」と走り寄り、
「どうしてそんなにお
痩せだ」と、
十歳の時、別れた姉のやうな
口振は、
優しい、優しい秋だこと。
葡萄いろの秋の空を
仰[#ルビの「あふ」は底本では「おほ」]げば、
初めて
斯かるみづみづしき空を見たる心地す。
われ
今日まで
何をしてありけん、
厨と書斎に
在りしことの
寂しきを知らざりしかな。
わが心
今更の
如く解かれたるを感ず。
葡萄色の秋の空は露にうるほふ、
斯かる日にあはれ田舎へ
行かまし。
そこにて掘りたての里芋を煮る
吊鍋の湯気を
嗅ぎ、
そこにて
尻尾ふる
百舌の
甲高なる叫びを聞き、
そこにて
刈稲を積みて帰る牛と馬とを眺め、
そこにて
鳥兜と
野菊と赤き
蓼とを摘まばや。
葡萄いろの秋の空はまた田舎の朝によろし。
砂川の板橋の上に片われ
月しろく残り、
「
川魚御料理」の
家は
未だ寝たれど、
百姓屋の
軒毎に立つる
朝食の煙は
街道の
丈高き
欅の並木に迷ひ、
籾する
石臼の音、近所
隣にごろごろとゆるぎ
初むれば、
「とつちやん
[#「とつちやん」は底本では「とつちんや」]」と
小き
末娘に呼ばれて、
門先の井戸の
許に
鎌磨ぐ
老爺もあり。
かかる時、たとへば渋谷の道玄坂の
如く、
突きあたりて曲る、
行手の見えざる広き坂を、
今結びし
藁鞋の
紐の
切目すがすがしく、
男も女も
脚絆して
足早に
上りゆく旅姿こそをかしからめ。
葡萄いろの秋の空の、されど又さびしきよ。
われを
父母ありし
故郷の
幼心に返し、
恋知らぬ素直なる
処女の
如くにし、
中六番町の庭の
無花果の
[#「無花果の」は底本では「無果花の」]木の
下、
手を組みて
云ひ知らぬ
淡き
愁に立たしめぬ、
おそらくは
此朝の
無花果のしづくよ、すべて涙ならん。
けたたましく
私を
喚んだ
百舌は
何処か。
私は筆を
擱いて
門を出た。
思はず五六
町を歩いて、
今丘の上に来た。
見渡す野のはてに
青く晴れた山、
日を
薄桃色に受けた山、
白い雲から抜け出して
更に天を望む山。
今朝の空はコバルトに
少し白を交ぜて
濡れ、
その下の
稲田は
黄金の
総で
埋まり、
何処にも広がる太陽の笑顔。
そよ風も
悦びを
堪へかね、
その静かな
足取を
急に踊りの
振に換へて、
またしても
円く大きく
芒の原を
滑べる。
縦横の
路は
幾すぢの銀を野に引き、
或ものは森の
彼方に隠れ、
或ものは近き村の口から
荷馬車と共に出て来る。
ああ野は秋の
最中、
胸
一ぱいに空気を吸へば、
人を清く
健[#ルビの「すこ」は底本では「すこや」]やかにする
黒土の
香、草の
香、
穀物の
香、水の
香。
私はじつと
其等の
香の中に
浸る。
またやがて
浸ると
云はう、
爽やかに美しい大自然の
悠久の中に。
此の
小さい私の感激を
人の言葉に代へて
云ふ者は、
私の
側に立つて
紅い涙を
著けたやうな
ひとむらの
犬蓼の花。
十一月の海の上を通る
快い
朝方の風がある。
それに乗つて海峡を越える
無数の桃色の帆、
金色の帆、
皆、朝日を
一ぱいに受けてゐる。
わたしはたつた
一人
浜の
草原に
蹲踞んで、
翡翠色の海峡に
あとから、あとからと
浮出して来る
船の帆の
花片に眺め
入る。
わたしの周囲には、
草が
狐色の
毛氈を拡げ、
中には、
灌木の
銀の綿帽子を
著けた
杪や
牡丹色の茎が光る。
後ろの方では、
何処の街の
工場か、
遠い所で
一しきり、
甘えるやうな汽笛の
音が
長い金属の線を空に引く。
秋の盛りの
美くしや、
の葉さへ小さなる
黄金の
印をあまた
佩び、
野葡萄さへも
瑠璃を掛く。
[#「掛く。」は底本では「掛く」]
百舌も
鶸[#ルビの「ひは」は底本では「ひよ」]も肥えまさり、
里の
雀も鳥らしく
晴れたる空に群れて飛び、
蜂も
巣毎に子の歌ふ。
小豆色する房垂れて
鶏頭高く咲く庭に、
一しきり
射す日の入りも
涙ぐむまで身に
沁みぬ。
朝顔の花うらやまし、
秋もやうやく更けゆくに、
真垣を越えて、
丈高き
梢にさへも
攀ぢゆくよ。
朝顔の花、人ならば
匂ふ盛りの久しきを
世や憎みなん、それゆゑに
思はぬ恥も受けつべし。
朝顔の花、めでたくも
百千の色のさかづきに
夏より秋を
注ぎながら、
飽くこと知らで日にぞ
酔ふ。
路は
一すぢ、並木路、
赤い
入日が
斜に
射し、
点、点、点、点、
朱の
斑……
桜のもみぢ、
柿もみぢ、
点描派の絵が燃える。
路は
一すぢ、さんらんと
彩色硝子に
照された
廊を踏むよな
酔ごこち、
そして
心からしみじみと
涙ぐましい気にもなる。
路は
一すぢ、ひとり
行く
わたしのためにあの空も
心中立[#ルビの「しんぢゆうだて」は底本では「しんぢうだて」]に毒を飲み、
臨終のきはにさし伸べる
赤い
入日の唇か。
路は
一すぢ、この先に
サツフオオの住む
家があろ。
其処には雪が降つて居よ。
出て
行ことして今一度
泣くサツフオオが目に見える。
路は
一すぢ、秋の
路、
物の盛りの尽きる
路、
おお
美くしや、急ぐまい、
点、点、点、点、しばらくは
わたしの髪も
朱の
斑……
狭い書斎の電灯よ、
紐で縛られ、さかさまに
吊り下げられた電灯よ、
わたしと共に十二時を
越してますます目が
冴える
不眠症なる電灯よ。
わたしの
夜の太陽よ、
たつた一つの電灯よ、
わたしの暗い心から
吐息と共に込み上げる
思想の水を導いて
机にてらす電灯よ。
そなたの顔も青白い、
わたしの顔も青白い。
地下室に似る沈黙に、
気は張り詰めて居ながらも、
ちらと
戦く電灯よ、
わたしも
稀に身をゆする。
夜は冷たく更けてゆく。
何とも知らぬ不安さよ、
近づく朝を
怖れるか、
才の終りを予知するか、
女ごころと電灯と
じつと
寂しく聴き
入れば、
死を隠したる片隅の
陰気な
蔭のくらがりに、
柱時計の意地わるが
人の仕事と命とに
差引つけて、こつ、こつと
算盤を
弾く
球の
音。
壺には、
萎みゆくままに、
取換へない
白茶色の
薔薇の花。
その横の
廉物の
仏蘭西皿に
腐りゆく
林檎と
華櫚の
果。
其等の花と
果実から
ほのかに、ほのかに立ち昇る
佳き
香の音楽、
わたしは
是れを聴くことが好きだ。
盛りの花のみを
愛でた
青春の日と
事変り、
わたしは今、
命の秋の
身も世もあらぬ
寂しさに、
深刻の愛と
頽唐の美と
其等に半死の心臓を
温ためながら、
常に真珠の涙を待つてゐる。
昨日も
今日も曇つてゐる
銀灰色の空、冷たい空、
雲の
彼方では
もう
霰の用意が出来て居よう
[#「居よう」は底本では「居やう」]。
どの木も涙つぽく、
たより無げに、
黄なる葉を
疎らに
余して、
小心に静まりかへつてゐる。
みんな敗残の人のやうだ。
小鳥までが
臆病に、
過敏になつて、
ちよいとした
風にも、あたふたと、
うら
枯れた茂みへ
潜り込む。
ああ十一月、
季節の
喪だ、
冬の墓地の白い門が目に
浮ぶ。
公園の噴水よ、
せめてお前でも歌へばいいのに、
狐色の
落葉の沈んだ池へ
さかさまに大理石の身を投げて、
お前が第一に感激を無くしてゐる。
十一月の灰色の
くもり
玻璃の空のもと、
唸りを立てて、
荒らかに、
ばさり、ばさりと
鞭を振る
あはれ
木枯、
汝がままに、
緑青の
蝶、
紅き
羽、
琥珀と銀の貝の
殻、
黄なる
文反古、
錆びし
櫛、
とばかり見えて、はらはらと
木の葉は
脆く飛びかひぬ。
あはれ、今はた、
木の
間には
四月五月の花も無し、
若き緑の枝も無し、
香も夢も無し、
微風の
囁くあまき声も無し。
かの楽しげに歌ひつる
小鳥のむれは
何処ぞや。
鳥は
啼けども、刺す
如き
百舌と
鵯鳥、しからずば
枝を踏み折る
山鴉。
諸木は
何を思へるや、
銀杏、
木蓮、
朴、
楓、
かの
男木も、その
女木も
痩せて骨だつ全身を
冬に
晒してをののきぬ。
やがて
小暗き
夜は
来ん、
しぐるる雲はここ過ぎて
白き涙を落すべし、
月はさびしく青ざめて
森の
廃墟を
照さまし。
されど
諸木は死なじかし。
また若返る春のため
新しき芽と
蕾とを
老いざる枝に秘めながら、
されど
諸木は死なじかし。
ほろほろと……また、かさこそと……
おち
葉……おち
葉……
夜もすがら……
庇をすべり……戸に
縋り……
土に
頽るる
音聞けば……
脆き廃物……薄き
滓……
錆びし
鍋銭……焼けし
金箔……
渋色の
反古……
檀の灰……
さては女のさだ過ぎて
歎く
雑歌の
断章……
うら
悲しくも
行毎に
「死」の韻を押す
断章……
空は紫
その
下に
真黒なる
一列の冬の並木……
かなたには青物の
畑海の
如く、
午前の日、霜に光れり。
われらが前を過ぎ去りし
農夫とその荷車とは
畑中の
路の
涯に
今、
脂色の点となりぬ。
物をな
云ひそ、君よ、
味ひたまへ、この
刹那、
二人を
浸す神妙の
黙の
趣……
白がちのコバルトの
うす寒き
師走の
夜、
書斎の隅なる
セエヴルの鉢より
幾つかのくわりんの
果は
身動げり。
あはれ
百合よりも甘し、
鈴蘭よりも清し、
あはれ白き羽二重の
如く
軽し、
黄金の針の
如く痛し、
熟したるくわりんの
果のかをり。
くわりんの
果に迫るは
つれなき風、からき
夜寒、
あざ笑ふ電灯のひかり、
いづこぞや、かの四月の太陽は、
かの七月の露は。
されど、今、くわりんの
果には
苦痛と自負と入りまじり、
空しく腐らじとする
その
心の
堪へ
力は
黄なる
蛋白石の
[#「蛋白石の」は底本では「胥白石の」]肌を汗ばませぬ。
ああ、くわりんの
果は
冬と風とにも
亡されず、
心と、肉と、
晶液と、
内なる
尊き物皆を
香として
永劫[#ルビの「えいごふ」は底本では「えいがふ」]の
間にたなびき
行く。
雪が
止んだ、
太陽が笑顔を見せる。
庭に
積つた雪は
硝子越しに
ほんのりと
薔薇色をして、
綿のやうに温かい。
小作りな女の、
年よりは若く見える、
髷を小さく
結つた、
品の
好い
[#「好い」は底本では「如い」]お
祖母さんは、
古風な
糸車の前で
黙つて
紡いでゐる。
太陽が部屋へ
入つて、
お
祖母さんの左の手に
そつと唇を触れる。
お
祖母さんは
何時の
間にか
美くしい
薔薇色の雪を
黙つて
紡いでゐる。
ああ憎き冬よ、
わが
家のために、冬は
恐怖なり、
咀ひなり、
闖入者なり、
虐殺なり、
喪なり。
街街の柳の葉を
揺り落して、
錆びたる銅線の
如く枝のみを
慄はしめ、
園の菊を
枝炭の
如く
灰白ませ、
家畜の
蹄を霜の上にのめらしめて、
ああ
猶飽くことを知らざるや、冬よ。
冬は更に人間を襲ひて、
先づわが
家に
来りぬ。
冬は風となりて戸を
穿ち、
縁よりせり出し、
霜となりて畳に
潜めり。
冬はインフルエンザとなり、
喘息となり、
気管支炎となり、
肺炎となりて、
親と子と
八人を責め
苛む。
わが
家は飢ゑと死に
隣し、
寒さと、
※[#「執/れんが」、U+24360、225-下-11]と、
咳と、
※[#「執/れんが」、U+24360、225-下-12]の
香と、汗と、
吸入の蒸気と、
呻吟と、叫びと、
悶絶と、
啖と、薬と、涙とに
満てり。
かくて
十日……
猶癒えず
ああ
我心は狂はんとす、
短劔を
執りて、
ただ一撃に刺さばや、
憎き、憎き冬よ、その背を。
冬枯の
裾野に
ひともと
しら
樺の木は光る。
その葉は落ち
尽して、
白き
生身を
女性の
如く
師走の風に
曝し、
何を祈るや、独り
双手を空に張る。
日は今、
遥かに低き
うす紫の
遠山に沈み去り、
その
余光の中に、
しら
樺の木は
悲しき殉教者の血を、
その胸より、
たらたらと
落葉の上に流す。
夜が明けた。
風も、大気も、
鉛色の空も、
野も、水も
みな
気息を殺してゐる。
唯だ見るのは
地上一尺の大雪……
それが
畝畝の直線を
すつかり隠して、
いろんな三角の
形を
大川に沿うた
歪形な
畑に盛り上げ、
光を受けた部分は
板硝子のやうに反射し、
蔭になつた所は
粗悪な
洋紙を
撒きちらしたやうに
鈍く
艶を消してゐる。
そして
所所に
幾つかの
不格好な
胴像が
どれも
痛痛しく
手を失ひ、
脚を断たれて、
真白な胸に
黒い血をにじませながら立つてゐる。
それは枝を払はれたまま、
じつと、いきんで、
死なずに春を待つてゐる
太い
櫟の幹である。
たとへば私達のやうな者である。
鴉、
鴉、
雪の上の
鴉、
近い処に
一羽、
少し離れて十四五
羽。
鴉、
鴉、
雪の上の
鴉、
半紙の上に黒く
大人が書いた字のやうだ。
鴉、
鴉、
雪の上の
鴉、
「かあ」と
一羽が
啼けば
寂しく「かあ」と皆が
啼く。
鴉、
鴉、
雪の上の
鴉、
餌が無いのでじいつと
動きもせねば飛びもせぬ。
[#ここで段組み終わり]
[#改丁]
[#ここからページの左右中央]
[#改丁]
[#ここから2段組み]
退船の
銅鑼いま鳴り渡り、
見送の
人人君を囲めり。
君は
忙しげに
人人と手を握る。
われは泣かんとはづむ心の
毬を
辛くも
抑へ、
人人の中を
脱けて
小走りに、
うしろの
甲板に
隠るれば、
波より
射返す白きひかり墓の
如し。
この二三分………四五分の
寂しさ、
われ
一人のけ者の
如し、
君と
人人とのみ笑ひさざめく。
恐らく遠く
行く旅の身は君ならで、
この
寂しき、
寂しき我ならん。
退船の
銅鑼又ひびく。
残刻に、されどまた痛快に、
わが
一人とり残されし冷たき心を
苛むその
銅鑼……
込み合へる
人人に促され、押され、慰められ、
我は力なき
毬の
如く、ふらふらと船を
下る。
乗り移りし
小蒸汽より見上ぐれば、
今更に
※田丸[#「執/れんが」、U+24360、231-下-7]の
船梯子の高さよ。
ああ君と我とは早くも千里
万里の差………
わが
小蒸汽は
堪へかねし
如く
終に
啜り泣くに………
一声、
二声………
千百の悲鳴をほつと吐息に換へ、
「ああなつかしや」と心細きわが
魂の、
臨終の念の
如くに
打洩す
※[#「執/れんが」、U+24360、232-上-1]き涙の
白金の
幾滴………
君が船は無言のままに港を
出づ。
船と船、
人人は叫びかはせど、
かなたに立てる君と
此処に
坐れる我とは、
静かに、静かに、二つの石像の
如く別れゆく……
(一九一一年十一月十一日神戸にて)
わが
夫の君海に
浮びて去りしより、
わが見る
夜毎の夢、また、すべて海に
浮ぶ。
或夜は黒きわたつみの上、
片手に乱るる
裾をおさへて、素足のまま、
君が
大船の
舳先に立ち、
白き
蝋燭の銀の光を高くさしかざせば、
滴る
蝋のしづく涙と共に散りて、
黄なる
睡蓮の花となり、又しろき
鱗の
魚となりぬ。
かかる夢見しは覚めたる
後も
清清し。
[#1行アキは底本ではなし]されど、又、かなしきは
或夜の夢なりき。
君が
大船の窓の火ややに消えゆき、
唯だ一つ残れる最後の薄き光に、
われ
外より
硝子ごしにさし
覗けば、
われならぬ
面やつれせしわが影既に
内にありて、
あはれ君が
棺の前にさめざめと泣き伏すなり。
「われをも
内に
入れ
給へ」と叫べど、
外は波風の音おどろしく、
内はうらうへに鉛の
如く静かに重く冷たし。
泣けるわが影は
氷の
如く、
霞の
如く、
透きとほる影の身なれば、
わが声を聴かぬにやあらん。
われは胸も裂くるばかり
苛立ち、
扉の
方より
馳せ
入らんと、
三たび
五たび
甲板の上を
繞れど、
皆堅く
鎖して
入るべき口も無し。
もとの
硝子窓に寄りて足ずりする時、
第三のわが影、
艫の
方の渦巻く
浪にまじり、
青白く長き手に
抜手きつて泳ぎつつ、
「は、は、は、は、そは皆物好きなるわが
夫の君のわれを
試めす戯れぞ」と笑ひき。
覚めて
後、我はその第三の我を憎みて、
日ひと
日腹だちぬ。
良人の留守の
一人寝に、
わたしは
何を
著て寝よう。
日本の女のすべて
著る
じみな
寝間著はみすぼらし、
非人の姿「死」の下絵、
わが子の前もけすさまじ。
わたしは
矢張ちりめんの
夜明の色の
茜染、
長襦袢をば選びましよ。
重い
狭霧がしつとりと
花に降るよな肌ざはり、
女に生れたしあはせも
これを
著るたび思はれる。
斜に
裾曳く
長襦袢、
つい解けかかる襟もとを
軽く合せるその時は、
何のあてなくあこがれて
若さに
逸るたましひを
じつと
抑へる心もち。
それに、わたしの好きなのは、
白蝋の
灯にてらされた
夢見ごころの
長襦袢、
この
匂はしい明りゆゑ、
君なき
閨もみじろげば
息づむまでに
艶かし。
児等が寝すがた、今一度、
見まはしながら
灯をば消し、
寒い二月の
床のうへ、
こぼれる
脛を
裾に巻き、
つつましやかに足曲げて、
夜著を
被けば、
可笑しくも
君を
見初めたその
頃の
娘ごころに帰りゆく。
旅の
良人も、今ごろは
巴里の宿のまどろみに、
極楽鳥の姿する
わたしを夢に見てゐるか。
わたしはあまりに気が
滅入る。
なんの自分を案じましよ、
君を恋しと思ひ過ぎ、
引き立ち過ぎて気が
滅入る。
「初恋の日は帰らず」と、
わたしの恋の琴の
緒に
その弾き歌は用が無い。
昔にまさる燃える
気息。
昔にまさるため涙。
人目をつつむ苦しさに、
鳴りを沈めた琴の
絃、
じつと
哀しく張り詰める。
巴里の
大路を
行く君は
わたしの
外に在るとても、
わたしは君の
外に無い、
君の
外には世さへ無い。
君よ、わたしの
遣瀬なさ、
三月待つ
間に身が細り、
四月の
今日は狂ひ
死に
するかとばかり気が
滅入る。
人並ならぬ恋すれば、
人並ならぬ物おもひ。
其れもわたしの
幸福と
思ひ返せど気が
滅入る。
昨日の恋は朝の恋、
またのどかなる昼の恋。
今日する恋は狂ほしい
真赤な
入日の
一さかり。
とは思へども気が
滅入る。
若しもそのまま旅に居て
君帰らずばなんとせう。
わたしは
矢張気が
滅入る。
久しき留守に
倚りかかる
君が手なれの竹の
椅子。
とる針よりも、糸よりも、
女ごころのかぼそさよ。
膝になびいた
一ひらの
江戸紫に置く
繍は、
ひまなく恋に燃える血の
真赤な胸の
罌粟の花。
花に添ひたる海の色、
ふかみどりなる
罌粟の葉は、
君が越えたる
浪形に
流れて落ちるわが涙。
さは
云へ、女のたのしみは、
わが
繍ふ
罌粟の「夢」にさへ
花をば揺する風に似て、
君が
気息こそ
通ふなれ。
いざ、
天の日は我がために
金の車をきしらせよ。
颶風の
羽は東より
いざ、こころよく我を追へ。
黄泉の底まで、泣きながら、
頼む男を尋ねたる
その昔にもえや劣る。
女の恋のせつなさよ。
晶子や物に狂ふらん、
燃ゆる我が火を抱きながら、
天がけりゆく、西へ
行く、
巴里の君へ
逢ひに
行く。
(一九一二年五月作)
あはれならずや、その
雛を
荒巌の上の巣に
遺し、
恋しき
兄鷹を尋ねんと、
颶風の空に
下りながら、
雛の
啼く
音にためらへる
若き
女鷹の
若しあらば。――
それは
窶れて遠く
行く
今日の門出の我が心。
いとしき
児らよ、ゆるせかし、
しばし待てかし、若き日を
猶夢を見るこの母は
汝が父をこそ頼むなれ。
巴里に
著いた三日目に
大きい
真赤な
芍薬を
帽の飾りに
附けました。
こんな事して身の
末が
どうなるやらと言ひながら。
土から
俄かに
孵化して出た
蛾のやうに、
わたしは突然、
地下電車から地上へ
匐ひ上がる。
大きな
凱旋門がまんなかに立つてゐる。
それを
繞つて
マロニエの並木が明るい緑を盛上げ、
そして人間と、自動車と、乗合馬車と、
乗合自動車との点と
塊が
命ある物の
整然とした混乱と
自主独立の進行とを、
断間無しに
八方の街から繰出し、
此処を
縦横[#ルビの「じゆうわう」は底本では「じうわう」]に縫つて、
断間無しに
八方の街へ繰込んでゐる。
おお、
此処は偉大なエトワアルの広場……
わたしは思はずじつと立ち
竦む。
わたしは思つた、――
これで自分は
此処へ二度来る。
この前来た時は
いろんな車に
轢き殺され
相で、
怖くて、
広場を横断する勇気が無かつた。
そして
輻になつた
路を一つ一つ越えて、
モンソオ公園へ
行く
路の
アヴニウ・ウツスの
入口を
見附ける
為めに、
広場の円の端を
長い間ぐるぐると
歩るいてゐた。
どうした気持のせいでか、
アヴニウ・ウツスの
入口を
見附け
損つたので、
凱旋門を中心に
二度も三度も広場の円の端を
馬鹿らしく
歩るき廻つてゐるのであつた。
けれど
今日は用意がある。
わたしは地図を研究して来てゐる。
今日わたしの
行くのは
バルザツク
街の
裁縫師の
家だ。
バルザツク
街へ出るには、
この広場を前へ
真直に横断すればいいのである。
わたしは
斯う思つたが、
併し、
真直に広場を横断するには
縦横に
絶間無く
馳せちがふ
速度の速い、いろんな車が
怖くてならぬ。
広場へ出るが最期
二三歩で
轢き倒されて傷をするか、
轢き殺されてしまふかするであらう……
この時、わたしに、突然、
何とも言ひやうのない
叡智と威力とが
内から
湧いて、
わたしの全身を生きた鋼鉄の人にした。
そして
日傘と
嚢とを
提げたわたしは
決然として、馬車、自動車、
乗合馬車、乗合自動車の渦の中を
真直に横ぎり、
あわてず、走らず、
逡巡せずに進んだ。
それは
仏蘭西の男女の
歩るくが
如くに
歩るいたのであつた。
そして、わたしは、
わたしが
斯うして
悠悠と
歩るけば、
速度の
疾いいろんな
怖ろしい車が
却つて、わたしの左右に
わたしを愛して
停まるものであることを知つた。
わたしは新しい喜悦に胸を
跳らせながら、
斜めにバルザツク
街へ
入つて行つた。
そして
裁縫師の
家では
午後二時の約束通り、
わたしの
繻子のロオヴの
仮縫を終つて
若い主人夫婦がわたしを待つてゐた。
ルウヴル
宮[#ルビの「きゆう」は底本では「きう」]の正面も、
中庭にある桃色の
凱旋門もやはらかに
紫がかつて暮れてゆく。
花壇の花もほのぼのと
赤と白とが薄くなり、
並んで通る恋人も
ひと組ひと組暮れてゆく。
君とわたしも石段に
腰掛けながら暮れてゆく。
ルサイユの
宮の
大理石の
階を
降り、
後庭の六月の
花と、
香と、光の
間を過ぎて
われ
等三人の日本人は
広大なる森の中に
入りぬ。
二百年を経たる
の
大樹は
明るき緑の
天幕を空に張り、
その
下に紫の
苔生ひて、
物古りし石の卓一つ
匐ふ
蔦の
黄緑の若葉と
薄赤き
蔓とに
埋まれり。
二人の男は石の卓に
肘つきて
苔の上に横たはり、
われは
上衣を脱ぎて
の根がたに
蹲踞りぬ。
快き静けさよ、かなたの
梢に小鳥の
高音……
近き
涼風の中に
立麝香草の香り……
わが心は
宮の
中に見たる
ルイ王とナポレオン皇帝との
華麗と
豪奢とに
酔ひつつあり。
后達の寝室の
清清しき白と
金色……
モリエエルの演じたる
宮廷劇場の静かな
猩猩緋……
されど、楽しきわが夢は覚めぬ。
目まぐるしき過去の世紀は
かの
王后の栄華と共に亡びぬ。
わが目に映るは今
脆き人間の
外に立てる
の大樹と石の卓とばかり。
ああ、われは
寂し、
わが追ひつつありしは
人間の短命の
生なりき。
いでや、森よ、
われは千年の森の心を得て、
悠悠と人間の街に帰るよしもがな。
さあ、あなた、
磯へ出ませう、
夜通[#ルビの「やどほ」はママ]し涙に
濡れた
気高い、清い目を
世界が今
開けました。
おお、夏の
暁、
この
暁の大地の美しいこと、
天使の見る夢よりも、
聖母の肌よりも。
海峡には、ほのぼのと
白い
透綾の霧が降つて居ます。
そして
其処の、近い、
黒い暗礁の
疎らに出た岩の上に
鷺が五六
羽、
首を
羽の下に
入れて、
脚を浅い水に
浸けて、
じつとまだ眠つてゐます。
彼等を驚かさないやうに、
水際の砂の上を、そつと、
素足で
歩るいて
行きませう。
まあ、
神神しいほど、
涼しい風だこと……
世界の初めにエデンの園で
若いイヴの髪を吹いたのも
此風でせう。
ここにも常に若い
みづみづしい愛の世界があるのに、
なぜ、わたし達は自由に
裸のままで吹かれて
行かないのでせう。
けれど、また、風に吹かれて、
帆のやうに
袂の揚がる快さには
日本の
著物の
幸福が思はれます。
御覧なさい、
わたし達の歩みに合せて、
もう海が踊り始めました。
緑玉の
女衣に
水晶と
黄金の
笹縁……
浮き上がりつつ、沈みつつ、
沈みつつ、浮き上がりつつ……
そして、その拡がつた長い
裾が
わたし達の素足と
縺れ合ひ、
そしてまた、ざぶるうん、ざぶるうんと
間を置いて海の
鐃が鳴らされます。
あら、
鷺が皆立つて
行きます、
俄かに
紅鷺のやうに赤く染まつて……
日が昇るのですね、
霧の中から。
秋の歌はそよろと響く
白楊と
毛欅の森の奥に。
かの歌を聞きつつ、我等は
しづかに語らめ、しづかに。
褪めたる
朱か、
剥がれたる
黄金か、
風無くて
木の葉は散りぬ、
な払ひそ、よしや、
衣にとまるとも。
それもまた
木の葉の
如く、
かろやかに一つ白き
蝶
舞ひて
降れば、
尖りたる
赤むらさきの草ぞゆするる。
眠れ、眠れ、疲れたる
春夏の
踊子よ、
蝶よ。
かぼそき
路を
行きつつ、
猶我等は
しづかに語らめ、しづかに。
おお、
此処に、岩に隠れて
ころころと鳴る泉あり、
水の歌ふは我等が
為めならん、
君よ、今は語りたまふな。
たそがれの
路、
森の中に
一すぢ、
呪はれた
路、
薄白き
路、
靄の奥へ影となり遠ざかる、
あはれ死にゆく
路。
うち沈みて静かな
路。
ひともと
[#「ひともと」は底本では「もともと」]何んの木であらう、
その枯れた裸の
腕を挙げ、
小暗きかなしみの中に、
心疲れた
路を見送る。
たそがれの
路の別れに、
樺の木と
榛の森は気が
狂れたらし、
あれ、
谺響が返す
幽かな吐息……
幽かな冷たい、調子はづれの高笑ひ……
また
幽かな
啜り泣き……
蛋白石色の
珠数珠の実の
頸飾を草の上に
留め、
薄墨色の音せぬ古池を
繞りて、
靄の奥へ影となりて遠ざかる、
あはれ、たそがれの森の
路……
(一九一二年巴里にて)
水に
渇えた
白緑の
ひろい
麦生を、すと
斜に
翔る
燕のあわてもの、
何の
使に急ぐのか、
よろこびあまる身のこなし。
続いて、さつと、またさつと、
生あたたかい
南風
ロアルを越して吹く
度に、
白楊の
樹がさわさわと
待つてゐたよに身を
揺る。
河底にゐた
家鴨らは
岸へ
上つて、アカシヤの
蔭にがやがや
啼きわめき、
燕は遠く去つたのか、
もう
麦畑に影も無い。
それは皆皆よい知らせ、
暫くの
間に風は
止み、
雨が降る、降る、ほそぼそと
金の糸やら絹の糸
[#「絹の糸」は底本では「絹糸の」]、
真珠の糸の雨が降る。
嬉しや、これが
仏蘭西の
雨にわたしの
濡れ
初め。
軽い
婦人服に、きやしやな靴、
ツウルの
野辺の
雛罌粟の
赤い
小路を君と
行き。
濡れよとままよ、
濡れたらば、
わたしの帽のチウリツプ
いつそ色をば増しませう、
増さずば捨てて、代りには
野にある花を摘んで挿そ。
そして昔のカテドラル
あの
下蔭で休みましよ。
雨が降る、降る、ほそぼそと
金の糸やら、絹の糸、
真珠の糸の雨が降る。
(ロアルは仏蘭西南部の[#「南部の」は底本では「南都の」]河なり)
ほんにセエヌ川よ、いつ見ても
灰がかりたる浅みどり……
陰影に隠れたうすものか、
泣いた
夜明の黒髪か。
いいえ、セエヌ川は泣きませぬ。
橋から
覗くわたしこそ
旅にやつれたわたしこそ……
あれ、じつと、
紅玉の涙のにじむこと……
船にも岸にも
灯がともる。
セエヌ川よ、
やつばりそなたも泣いてゐる、
女ごころのセエヌ川……
大輪に咲く
仏蘭西の
芍薬こそは
真赤なれ。
枕にひと
夜置きたれば
わが乱れ髪夢にして
みづからを焼く火となりぬ。
真赤な土が照り返す
だらだら
坂の
二側に、
アカシヤの
樹のつづく
路。
あれ、あの森の右の
方、
飴色をした屋根と屋根、
あの
間から
群青を
ちらと
抹つたセエヌ川……
[#1行アキは底本ではなし]涼しい風が吹いて来る、
マロニエの
香と水の
香と。
これが日本の
畑なら
青い「ぎいす」が鳴くであろ。
黄ばんだ麦と
雛罌粟と、
黄金に交ぜたる
朱の赤さ。
誰が
挽き捨てた荷車か、
眠い目をして、
路ばたに
じつと立ちたる馬の影。
「
MAITRE RODIN の別荘は。」
問ふ
二人より、
側に立つ
KIMONO 姿のわたしをば
不思議と見入る
田舎人。
「メエトル・ロダンの別荘は
ただ
真直に
行きなさい、
木の
間から、その庭の
風見車が見えませう。」
巴里から来た
三人の
胸は
俄かにときめいた。
アカシヤの
樹のつづく
路。
空をかき
裂く
羽の音……
今日も飛行機が
漕いで来る。
巴里の上を
一すぢに、
モンマルトルへ
漕いで来る。
ちよいと望遠鏡をわたしにも……
一人は女です……笑つてる……
アカシアの枝が邪魔になる……
[#1行アキは底本ではなし]何処へ
行くのか知らねども、
毎日飛べば大空の
青い眺めも
寂しかろ。
かき消えて
行く飛行機の
夏の
日中の
羽の音……
あれ、あれ、通る、飛行機が、
今日も
巴里をすぢかひに、
風切る音をふるはせて、
身軽なこなし、
高高と
羽をひろげたよい
形。
オペラ
眼鏡を目にあてて、
空を踏まへた
胆太の
若い
乗手を見上ぐれば、
少し
捻つた機体から
きらと反射の
金が散る。
若い
乗手のいさましさ、
後ろを見捨て、死を忘れ。
片時やまぬ新らしい
力となつて飛んで
行く、
前へ、未来へ、ましぐらに。
閾を内へ
跨ぐとき、
墓窟の口を踏むやうな
暗い
怖えが身に迫る。
煙草のけぶり、人いきれ、
酒類の
匂ひ、
灯の
明り、
黒と桃色、黄と青と……
あれ、はたはたと手の音が
きもの姿に帽を
著た
わたしを迎へて
爆ぜ裂ける。
鬼のむれかと
想はれる
人の
塊、そこ、かしこ。
もやもや曇る狭い
室。
×
淡い
眩暈のするままに
君が
腕を軽く取り、
物
珍らしくさし
覗く
知らぬ
人等に会釈して、
扇で
半ば
頬を隠し、
わたしは
其処に掛けてゐた。
ボウドレエルに似た像が
荒い
苦悶を食ひしばり、
手を後ろ
手に縛られて
煤びた壁に
吊された、
その足もとの横長い
粗木づくりの腰掛に。
「この
酒鋪の名物は、
四百年へた
古家の
きたないことと、
剽軽な
[#「剽軽な」は底本では「飄軽な」]
また正直なあの
老爺、
それにお客は漫画家と
若い詩人に限ること。」
こんな話を友はする。
×
濶い
股衣の
大股に
老爺は寄つて、
三人の
日本の客の手を取つた。
伸びるがままに乱れたる
髪も
頬髭も
灰白み、
赤い
上被、青い服、
それも
汚れて裂けたまま。
太い目元に
皺の寄る
屈托のない笑顔して、
盛高の
頬と鼻先の
林檎色した
美くしさ。
老爺の手から、前の卓、
わたしの
小さい
杯に
注がれた酒はムウドンの
丘の上から
初秋の
セエヌの水を見るやうな
濃い紫を
湛へてる。
×
「聴け、我が
子等」と客達を
叱るやうなる叫びごゑ。
老爺はやをら
中央の
麦稈椅子に掛けながら、
マンドリンをば
膝にして、
「皆さん、今夜は珍しい
日本の詩人をもてなして、
ルレエヌをば歌ひましよ。」
老爺の声の
止まぬ
間に
拍手の音が降りかかる
[#「かかる」は底本では「かがる」]。
赤い毛をした、
痩形の、
モデル女も泳ぐよに
一人の画家の
膝を
下り、
口笛を吹く、手を挙げる。
驟雨は過ぎ
行く、
巴里を越えて、
ブロオニユの森のあたりへ。
今、かなたに、
樺色と灰色の空の
板硝子を裂く
雷の音、
青玉の
電の
瀑。
猶見ゆ、
遠山の
尖の
如く
聳だつ
薄墨のオペラの屋根の上、
霧の奥に、
猩猩緋と
黄金の
光の
女服を脱ぎ放ち、
裸となりて雨を浴ぶる
夏の
女皇の
仄白き八月の太陽。
猶、
濡れわたる街の並木の
アカシヤとブラタアヌは
汗と
塵埃と
※[#「執/れんが」、U+24360、254-下-7]を洗はれて、
その喜びに手を振り、
頭を返し踊るもあり。
カツフエのテラスに花咲く
万寿菊と
薔薇は
斜に吹く
涼風の拍子に乗りて
そぞろがはしく
ワルツを舞はんとするもあり。
猶、そのいみじき
灌奠の
余沫は
枝より、屋根より、
はらはらと降らせぬ、
水晶の粒を、
銀の粒を、真珠の粒を。
驟雨は過ぎ
行く、
爽やかに、こころよく。
それを見送るは
祭の列の
如く楽し。
わがある
七階の
家も、
わが住む三階の窓より見ゆる
近き
四方の
家家も、
窓毎に光を受けし人の顔、
顔毎に
朱の
笑まひ……
テアトル・フランセエズ
[#「フランセエズ」は底本では「フランセエエ」]の二階目の、
紅い
天鵞絨を張りつめた
看棚の中に
唯だ
二人
君と並べば、いそいそと
跳る心のおもしろや。
もう
幕開の鈴が鳴る。
第一列のバルコンに、
肌の
透き照る薄ごろも、
白い
孔雀を見るやうに
銀を散らした
裳を
曳いて、
駝鳥の
羽のしろ扇、
胸に
一りん白い
薔薇、
しろいづくめの
三人は
マネが
描くよな美人づれ、
望遠鏡の
銃が
四方から
みな
其処へ向くめでたさよ。
また三階の右側に、
うす桃色のコルサアジユ、
金の
繍ある
裳を
著けた
華美な姿の
小女が
ほそい首筋、きやしやな腕、
指環の星の光る手で
少し伏目に物を読み、
折折あとを振返る
人待顔の
美くしさ。
あら
厭、前のバルコンへ、
厚いくちびる、白い目の
アラビヤらしい
黒奴が
襟も
腕も指さきも
きらきら光る、おなじよな
黒い女を
伴れて来た。
どしん、どしんと三度程
舞台を
叩く音がして、
しづかに
揚る
黄金の幕。
よごれた
上衣、古づぼん、
血に
染むやうな赤ちよつき、
コツペが書いた詩の中の
人を殺した
老鍛冶が
法官達の居ならんだ
前に引かれる痛ましさ、
足の運びもよろよろと……
おお、ムネ・シユリイ、見るからに
老優の芸の偉大さよ。
九月の初め、ミユンヘンは
早くも秋の更けゆくか、
モツアルト
街、日は
射せど
ホテルの朝のつめたさよ。
青き出窓の
欄干に
匍ひかぶされる
蔦の葉は
朱と
紅と
黄金を染め
照れども朝のつめたさよ。
鏡の前に立ちながら
諸手に締むるコルセツト、
ちひさき銀のボタンにも
しみじみ朝のつめたさよ。
ああ重苦しく、赤
黒く、
高く、
濶く、奥深い
穹窿[#ルビの「きゆうりゆう」は底本では「きうりゆう」]の、
神秘な人工の威圧と、
沸沸と
迸る
銀白の蒸気と、
爆ぜる火と、
哮える鉄と
[#「鉄と」は底本では「鉄ど」]、
人間の
動悸、汗の
香、
および靴音とに、
絶えず
窒息り、
絶えず
戦慄する
伯林の
厳かなる大停車
場。
ああ
此処なんだ、世界の人類が
静止の代りに活動を、
善の代りに力を、
弛緩の代りに緊張を、
平和の代りに苦闘を、
涙の代りに
生血を、
信仰の代りに実行を、
自ら探し求めて
出入りする、
現代の偉大な、新しい
生命を主とする
本寺は。
此処に大きなプラツトフオオムが
地中海の沿岸のやうに横たはり、
その下に波打つ幾線の鉄の縄が
世界の
隅隅までを
繋ぎ合せ、
それに
断えず
手繰り寄せられて、
汽車は
此処へ三分間
毎に東西南北より
著し、
また三分間
毎に東西南北へ
此処を出て
行く。
此処に世界のあらゆる
目覚めた
人人は、
髪の黒いのも、赤いのも、
目の
碧いのも、黄いろいのも。
みんな乗りはづすまい、
降りはぐれまいと気を配り、
固より発車を
報せる
鈴も無ければ、
みんな自分で
検べて大切な自分の「
時」を知つてゐる。
どんな危険も、どんな冒険も
此処にある。
どんな
鋭音も、どんな騒音も
此処にある、
どんな期待も、どんな
昂奮も、どんな
痙攣も、
どんな
接吻も、どんな
告別も
此処にある。
どんな異国の珍しい酒、果物、
煙草、香料、
麻、
絹布、毛織物、
また書物、新聞、美術品、郵便物も
此処にある。
此処では
何もかも全身の
気息のつまるやうな、
全身の
筋のはちきれるやうな、
全身の血の蒸発するやうな、
鋭い、
忙しい、
白※[#「執/れんが」、U+24360、259-下-1]の肉感の歓びに満ちてゐる。
どうして少しの
隙や猶予があらう、
あつけらかんと眺めてゐる休息があらう、
乗り遅れたからと
云つて
誰が気の毒がらう。
此処では皆の人が
唯だ自分の
行先ばかりを考へる。
此処へ
出入りする
人人は
男も女も皆選ばれて来た
優者の
風があり、
額がしつとりと汗ばんで、
光を
睨み返すやうな
目附をして、
口は歌ふ前のやうにきゆつと
緊り、
肩と胸が張つて、
腰から足の先までは
きやしやな、しかも堅固な植物の幹が
歩るいてゐるやうである。
みんなの神経は
苛苛としてゐるけれど、
みんなの意志は
悠揚として、
鉄の軸のやうに正しく動いてゐる。
みんながどの
刹那をも
空しくせずに
ほんとうに生きてる人達だ、ほんとうに動いてゐる人達だ。
あれ、
巨象[#ルビの「マンモス」は底本では「モンマス」]のやうな大機関車を
先きにして、
どの汽車よりも大きな
地響を立てて、
ウラジホストツクからブリユツセルまでを、
十二日間で突破する、
ノオル・デキスプレスの最大急行列車が
入つて来た。
怖ろしい威厳を持つた機関車は
今、世界の
凡ての機関車を圧倒するやうにして
駐つた。
ああ、わたしも
是れに乗つて来たんだ、
ああ、またわたしも
是れに乗つて
行くんだ。
秋の日が――
旅人の身につまされやすい
秋の日が
夕となり、
薄むらさきに
煙つた街の
高い
家と
家との
間に、
今、太陽が
万年青の
果のやうに
真紅に
しつとりと
濡れて落ちて
行く。
反対な
側の屋根の上には、
港の船の帆ばしらが
どれも
色硝子の棒を立て並べ、
そのなかに港の波が
幻惑の
彩色を
打混ぜて
ぎらぎらとモネの絵のやうに光る。
よく見ると、その波の
半は
無数の帆ばしらの
尖から
翻へる
[#「翻へる」は底本では「翻へる。」]
細長い
藍色の旗である。
あなた、窓へ来て御覧なさい、
手紙を書くのは
後にしませう、
まあ、この
和蘭陀の海の
美くしい
入日。
わたし達は、まだ幸ひに若くて、
かうして、アムステルダムのホテルの
五階の窓に顔を並べて、
この
佳い
入日を眺めてゐるのですね。
と
云つて、
明日わたし達が
此処を立つてしまつたら、
復と
此の港が見られませうか。
あれ、
直ぐ窓の下の通りに、
猩猩緋の
上衣を黒の上に
著た
一隊の男の
児の行列、
何と
云ふ
可愛いい
小学の制服なんでせう。
ああ、東京の子供達は
どうしてゐるでせう。
黒く大いなる起重機
我が五階の前に立ち
塞がり、
その下に
数町離れて
沖に掛かれる汽船の
灯
黄菊の花を並ぶ。
税関の
彼方、
桟橋に寄る
浪のたぶたぶと
折折に鳴りて白し。
いづこの酒場の窓よりぞ、
ギタルに合はする
船人の
唄
秋の
夜風に
混り、
波止場に沿ふ散歩道は
落葉したる
木立の幹に
海の反射淡く残りぬ。
うら寒し、はるばる
来つる
アムステルダムの
一夜。
知らざりしかな、
昨日まで、
わが
悲みをわが物と。
あまりに君にかかはりて。
君の
笑む日をまのあたり
巴里の街に見る
我れの
あはれ
何とて
寂しきか。
君が心は
躍れども、
わが
※[#「執/れんが」、U+24360、262-下-10]かりし火は
濡れて、
自らを泣く時のきぬ。
わが聞く
楽はしほたれぬ、
わが見る
薔薇はうす
白し、
わが
執る酒は酢に似たり。
ああ、わが心
已む
間なく、
東の空にとどめこし
我子の上に帰りゆく。
君は
何かを読みながら、
マロニエの
樹の
染み出した
斜な
径を、花の
香の
濡れて
呼吸つく
方へ去り、
わたしは
毛欅の大木の
しだれた枝に日を避けて、
五色の糸を巻いたよな
円い花壇を左にし、
少しはなれた紫の
木立と、青い水のよに
ひろがる芝を前にして、
絵具の箱を
開けた時、
おお、
雀、
雀、
一つ寄り、
二つ寄り、
はら、はら、はらと、
十、
二十、数知れず、
きやしやな
黄色の
椅子の前、
わたしへ向いて寄る
雀。
それ、お食べ、
それ、お食べ、
今日もわたしは用意して、
麺麭とお米を持つて来た。
それ、お食べ、
雀、
雀、
雀たち、
聖母の前の
鳩のよに、
素直なかはいい
雀たち。
わたしは国に居た時に、
朝起きても筆、
夜が更けても筆、
祭も、日曜も、
春秋も、
休む
間無しに筆とつて、
小鳥に
餌をば
遣るやうな
気安い時を持たなんだ。
おお、
美くしく
円い背と
小い頭とくちばしが
わたしへ向いて並ぶこと。
見れば
何れも子のやうな、
わたしの忘れぬ子のやうな……
わたしは
小声で呼びませう、
それ
光さん、
かはいい
七ちやん、
秀さん、
麟坊さん、
八峰[#ルビの「やつを」は底本では「やつ」]さん……
あれ、まあ挙げた手に
怖れ、
逃げる一つのあの
雀、
お前は里に居た
為めに
親になじまぬ
佐保ちやんか。
わたしは
何か
云つてゐた、
気が
狂ふので無いか知ら……
どうして気安いことがあろ、
ああ、気に掛る、気に掛る、
子供の事が又しても……
せはしい日本の日送りも
心ならずに
執る筆も、
身の衰へも、わが髪の
早く落ちるも皆子ゆゑ。
子供を忘れ、身を忘れ、
こんな
旅寝を、はるばると
思ひ立つたは
何ゆゑか。
子をば
育む大切な
母のわたしの時間から、
雀に
餌をばやる暇を
偸みに来たは
何ゆゑか。
うつかりと君が言葉に
絆されて………
いいえ、いいえ、
みんなわたしの心から………
あれ、
雀が飛んでしまつた。
それはあなたのせゐでした
[#「せゐでした」は底本では「せいでした」]。
みんな、みんな、
雀が飛んでしまひました。
あなた、わたしは
何うしても
先に日本へ帰ります。
もう、もう絵なんか
描きません。
雀、
雀、
モンソオ公園の
雀、
そなたに
餌をも
遣りません。
[#ここで段組み終わり]
[#改丁]
[#ここからページの左右中央]
[#改丁]
[#ここから2段組み]
我手の花は人
染めず、
みづからの
香と、おのが色。
さはれ、盛りの
短かさよ、
夕を待たで
萎れゆく。
我手の花は
誰れ知らん、
入日の
後に見る
如き
うすくれなゐを
頬に残し、
淡き
香をもて
呼吸[#ルビの「いき」は底本では「い」]すれど。
我手の花は
萎れゆく……
いと
小やかにつつましき
わが
魂の花なれば
萎れゆくまますべなきか。
藤とつつじの咲きつづく
四月五月に知り
初めて、
わたしは絶えず
此処へ来る。
森の
木蔭を
細やかに
曲つて昇る赤い
路。
わたしは
此処で花の
香に
恋の吐息の
噴くを聞き、
広い青葉の
翻るのに
若い男のさし伸べる
優しい腕の線を見た。
わたしは
此処で鳥の
音が
胸の拍子に合ふを知り、
花のしづくを美しい
蝶と
一所に浴びながら、
甘い
木の実を口にした。
今はあらはな冬である。
霜と、
落葉と、
木枯と、
爛れた傷を見るやうに
一すぢ残る赤い
路……
わたしは
此処へ泣きに来る。
「砂を
掴んで、日もすがら
砂の塔をば建てる人
惜しくはないか
[#「ないか」は底本では「ないが」]、
其時が、
さては
無益な
其労が。
しかも両手で
掴めども、
指のひまから砂が
洩る、
する、する、すると砂が
洩る、
軽く、悲しく、砂が
洩る。
寄せて、
抑へて、積み上げて、
抱へた手をば放す時、
砂から出来た砂の塔
直ぐに崩れて砂になる。」
砂の塔をば建てる人
これに答へて
呟くは、
「時が惜しくて砂を積む、
命が惜しくて砂を積む。」
空の
嵐よ、呼ぶ
勿れ、
山を傾け、野を砕き、
所定めず
行くことは
地に住むわれに
堪へ
難し。
野の花の
香よ、呼ぶ
勿れ、
若し花の
香となるならば
われは
刹那を香らせて
やがて跡なく消えはてん。
木の
間の鳥よ、呼ぶ
勿れ、
汝れは
固より
羽ありて
枝より枝に遊びつつ、
花より花に歌ふなり。
すべての物よ、呼ぶ
勿れ、
われは変らぬ
囁きを
乏しき声にくり返し
初恋の巣にとどまりぬ。
善しや、
悪しやを言ふ人の
稀にあるこそ
嬉しけれ、
ものかずならで隅にある
わが歌のため、
我れのため。
いざ知りたまへ、わが歌は
泣くに代へたるうす笑ひ、
灰に
著せたる
色硝子、
死に隣りたる
踊なり。
また知りたまへ、この
我れは
春と夏とに
行き
逢はで、
秋の光を早く吸ひ、
月のごとくに青ざめぬ。
真黒な
夜の海で
わたしは
一人釣つてゐる。
空には
嵐が
吼え、
四方には渦が鳴る。
細い
竿の割に
可なり
沢山に釣れた。
小さな船の
中七分通り
光る、光る、
銀白の
魚が。
けれど、
鉤を離すと、
直ぐ、
どの
魚もみんな
死つてしまふ。
わたしの釣らうとするのは
こんなんぢやない、決して。
わたしは知つてゐる、わたしの船が
だんだんと沖へ流れてゆくことを、
そして海がだんだんと
深く
険しくなつてゆくことを。
そして、わたしの
欲しいと思ふ
不思議な命の
魚は
どうやら、わたしの糸のとどかない
底の底を泳いでゐる。
わたしは
夜明までに
是非とも
其魚が釣りたい。
もう糸では
間に合はぬ、
わたしは身を
跳らして
掴まう。
あれ、見知らぬ船が通る……
わたしは
慄く……
もしや、あの船が
先きに
底の人魚を釣つたのぢやないか。
ああ我等は貧し。
貧しきは
身に
病ある人の
如く、
隠れし罪ある人の
如く、
また遠く
流浪する人の
如く、
常に
怖え、
常に
安からず、
常に
心寒し。
また、貧しきは
常に身を
卑くし、
常に力を売り、
常に他人と物の
駄獣および器械となり、
常に
僻み、
常に
呟く。
常に
苦み、
常に疲れ、
常に死に隣りし、
常に
耻と、恨みと、
常に不眠と
飢と、
常にさもしき欲と、
常に
劇しき労働と、
常に涙とを繰返す。
ああ我等、
是れを突破する日は
何時ぞ、
恐らくは
生のあなた、
死の時ならでは……
されど我等は
唯だ
行く、
この灰色の
一路を。
こんな日がある。
厭な日だ。
わたしは
唯だ一つの物として
地上に置かれてあるばかり、
何んの力もない、
何んの自由もない、
何んの思想もない。
なんだか
云つてみたく、
なんだか動いてみたいと感じながら、
鳥の居ない
籠のやうに
わたしは
全く
空虚である。
あの希望はどうした、
あの
思出はどうした。
手持
不沙汰でゐるわたしを
人は
呑気らしくも見て取らう、
また
好いやうに解釈して
浮世ばなれがしたとも
云ふであろ、
口の
悪るい、
噂の好きな人達は
衰へたとも伝へよう。
何んとでも言へ……とは思つてみるが、
それではわたしの気が済まぬ。
をりをりに気が
附くと、
屋外には
嵐……
戸が
寒相にわななき、
垣と
軒がきしめく……
どこかで
幽かに鳴る
二点警鐘……
子供等を寝かせたのは
もう
昨日のことのやうである。
狭い書斎の
灯の
下で
良人は黙つて物を読み、
わたしも黙つて筆を
執る。
きり……きり……きり……きり……
何かしら、
冴えた低い音が、
ふと
聞えて
途切れた……
きり……きり……きり……きり……
あら、また
途切れた……
嵐の音にも紛れず、
直ぐ私の後ろでするやうに、
今したあの音は、
臆病な、低い、そして真剣な音だ……
命のある者の立てる快い音だ……
或る直覚が私に
閃く……鋼鉄質の
其音……
私は小さな声で
云つた、
「あなた、
何か音がしますのね」
良人は黙つてうなづいた。
其時また、きり……きり……きり……きり……
「追つて
遣らう、
今夜なんか
這入[#ルビの「はひ」は底本では「はい」]られては、
こちらから謝らなければならない」
と
云つて、
良人は、
笑ひながら立ち上がつた。
私は筆を
止めずにゐる。
私には今の、
嵐の中で戸を切る、
臆病な、低い、そして真剣な音が
自分の仕事の伴奏のやうに、
[#「やうに、」は底本では「やうに。」]
ぴつたりと合つて快い。
もう女中も寝たらしく、
良人は次の
間で、
みづから
燐寸を擦つて、
そして
手燭と
木太刀とを
提げて、
廊下へ出て行つた。
間も無く、ちり、りんと鈴が鳴つて、
門の
潜り戸が
幽かに
開いた。
「逃げたのだ、泥坊が」と、
私は初めてはつきり
嵐の中の泥坊に気が
附いた。
私達の
財嚢には、今夜、
小さな銀貨一枚しか無い。
私は私達の貧乏の惨めさよりも、
一人の知らぬ男の無駄骨を気の毒に思ふ。
きり……きり……きり……きり……と
云ふ音がまだ耳にある。
小猫、小猫、かはいい小猫、
坐れば
小く、まんまろく、
歩けばほつそりと、
美くしい、
真つ白な小猫、
生れて
二月たたぬ
間に
孤蝶様のお宅から
わたしのうちへ来た小猫。
子供達が皆寝て、
夜が更けた。
一人わたしが蚊に食はれ
書斎で黙つて物を書けば、
小猫よ、おまへは
寂しいか、
わたしの後ろに身を擦り寄せて
小娘のやうな声で
啼く。
こんな時、
先の
主人はお優しく
そつとおまへを
膝に載せ
どんなにお
撫でになつたことであろ。
けれど、小猫よ、
わたしはおまへを抱く
間がない、
わたしは今夜
もうあと十枚書かねばならんのよ。
夜がますます更けて、
午前二時の上野の鐘が
幽かに鳴る。
そして、
何にじやれるのか、
小猫の首の鈴が
次の
間で鳴つてゐる。
今は
(私は正しく書いて置く、)
一千九百十六年一月十日の
午前二時
四十二分。
そして
此時から
十七分前に、
一つの不意な事件が
私を前後不覚に
くつくつと笑はせた。
宵の八時に
子供達を皆寝かせてから、
良人と私はいつもの通り、
全く黙つて書斎に居た。
一人は書物に見入つて
折折そつと辞書を引き、
一人は
締切に遅れた
雑誌の原稿を書いて居た。
毎夜の習はし……
飯田町を発した大貨物列車が
崖上の
中古な
借家を
船のやうに
揺盪つて通つた。
この器械的地震に対して
私達の反応は鈍い、
唯だぼんやり
もう午前二時になつたと感じた
外は。
それから
間も無くである。
庭に向いて机を据ゑた私と
雨戸を中に一尺の距離もない
直ぐ鼻の先の
外で、
突然、一つの
嚔が破裂した、
「泥坊の
嚔だ、」
刹那にかう直感した私は
思はずくつくつと笑つた。
「
何んだね」と
良人が
振向いた時、
其不可抗力の声に気まり悪く、
あわてて口を
抑へて、
そつと垣の向うへ逃げた者がある。
「泥坊が
嚔をしたんですわ、」
大洋の底のやうな六時間の沈黙が破れて、
二人の緊張が笑ひに
融けた。
こんなに
滑稽な偶然と見える必然が世界にある。
川原[#ルビの「かはら」は底本では「かははら」]の底の底の
価なき
砂の身なれば人
採らず、
風の吹く日は
塵となり
雨の降る日は泥となり、
人、牛、馬の踏むままに
圧しひしがれて世にありぬ。
稀に
川原のそこ、かしこ、
れんげ、たんぽぽ、
月見草、
ひるがほ、野菊、
白百合の
むらむらと咲く日もあれど、
流れて寄れる種なれば
やがて流れて跡も無し。
ここの
家の
名前人は
総領の甚六がなつてゐる。
欲ばかり
勝つて
思ひやりの欠けてゐる兄だ。
不意に、隣の
家へ押しかけて、
庇ひ手のない
老人の
半身不随の亭主に、
「きさまの持つてゐる
目ぼしい地所や
家蔵を
寄越せ。
おらは不断おめえに恩を掛けてゐる。
おらが居ねえもんなら、
おめえの財産なんか
遠の昔に
近所から
分け
取りにされて居たんだ。
その
恩返しをしろ」と
云つた。
なんぼよいよいでも、
隣の
爺には、
性根がある。
あるだけの智慧をしぼつて
甚六の言ひ
掛りを
拒んだ。
押問答が長引いて、
二人の声が段段と荒くなつた。
文句に詰つた甚六が
得意な最後の手を出して、
拳を振上げ
相になつた時、
大勢の甚六の兄弟が
がやがやと寄つて来た。
「腰が
弱ゑいなあ、兄貴、」
「
脅しが足りねえなあ、兄貴、」
「もつと相手をいぢめねえ、」
「なぜ、いきなり
刄物を突き
附けねえんだ、」
「文句なんか
要らねえ、腕づくだ、腕づくだ、」
こんなことを
口口に
云つて、
兄を
罵る兄弟ばかりである、
兄を励ます兄弟ばかりである。
ほんとに兄を思ふ心から、
なぜ無法な言ひ
掛りなんかしたんだと
兄の最初の発言を
咎める兄弟とては
一人も居なかつた。
おお、
怖ろしい
此処の
家の
名前人と家族。
ああ、
此国の
怖るべく
且つ醜き
議会の心理を知らずして
衆議院の建物を見上ぐる
勿れ。
禍なるかな、
此処に
入る者は
悉く
変性す。
たとへば悪貨の多き国に
入れば
大英国の金貨も
七日にて
鑢に削り取られ
其正しき目方を減ずる
如く、
一たび
此門を
跨げば
良心と、徳と、
理性との平衝を失はずして
人は
此処に在り
難し。
見よ、
此処は最も無智なる、
最も
敗徳[#「敗徳」はママ]なる、
はた最も卑劣無作法なる
野人本位を
以て
人の価値を
最も粗悪に平均する
処なり。
此処に在る者は
民衆を代表せずして
私党を
樹て、
人類の愛を思はずして
動物的利己を計り、
公論の代りに
私語と怒号と
罵声とを交換す。
此処にして彼等の勝つは
固より正義にも、
聡明にも、
大胆にも、雄弁にもあらず、
唯だ彼等
互に
阿附し、模倣し、
妥協し、屈従して、
政権と
黄金とを
荷ふ
多数の
駄獣と
みづから
変性するにあり。
彼等を選挙したるは
誰か、
彼等を寛容しつつあるは
誰か。
此国の憲法は
彼等を
逐ふ力無し、
まして選挙権なき
われわれ大多数の
貧しき平民の力にては……
かくしつつ、
年毎に、
われわれの正義と愛、
われわれの血と汗、
われわれの自由と幸福は
最も
臭く醜き
彼等
駄獣の
群に
寝藁の
如く踏みにじらる……
米の
値の
例なくも
昂りければ、
わが貧しき
十人の家族は麦を食らふ。
わが子らは麦を嫌ひて
「お米の御飯を」と叫べり。
麦を
粟に、また
小豆に改むれど、
猶わが子らは「お米の御飯を」と叫べり。
わが子らを
何と
叱らん、
わかき母も心には米を好めば。
「部下の遺族をして
窮する者無からしめ
給はんことを。
わが念頭に掛かるもの
是れのみ」と、
佐久間大尉の遺書を思ひて、
今更にこころ
咽ばるる。
わたしは貧しき生れ、
小学を出て、今年十八。
田舎の局に雇はれ、
一日に
五ヶ
村を受持ち、
集配をして身は疲れ、
暮れて帰れば、母と子と
さびしい
膳のさし向ひ、
蜆の汁で、そそくさと
済ませば、
何の話も無い。
たのしみは湯へ
行くこと。
湯で聞けば、百姓の兄さ、
皆読んで来て
善くする、
大衆文学の
噂。
わたしは
唯だ知つてゐる、
その
円本を配る重さ。
湯が両方の足に
沁む。
垢と土とで
濁された
底でしばらく
其れを
揉む。
ああ
此足が
明日もまた
桑の
間の
路を踏む。
この月も
二十日になる。
すこしの
楽も無い、
もう大きな雑誌が来る。
やりきれない、やりきれない、
休めば日給が引かれる。
小説家がうらやましい、
菊池
寛も人なれ、
こんな稼業は知るまい。
わたしは人の端くれ、
一日八十銭の集配。
バビロン人の築きたる
雲間の塔は笑ふべし、
それにまさりて
呪はしき
巨大の塔は
此処にあり。
千億の石を積み上げて、
横は世界を巻きて
展び、
劔を植ゑし
頂は
空わたる日を
遮りぬ。
何する壁ぞ、その内に
今日を
劃りて、人のため、
ひろびろしたる
明日の日の
目路に
入るをば防ぎたり。
壁の
下には万年の
小暗き
蔭の
重なれば、
病むが
如くに青ざめて
人は力を失ひぬ。
曇りたる目の
見難さに
行く
方知らず泣くもあり、
羊の
如く押し合ひて
血を流しつつ死ぬもあり。
ああ人皆よ、
何ゆゑに
古代の壁を
出でざるや、
永久の苦痛に泣きながら
猶その壁を頼めるや。
をりをり強き人ありて
怒りて鉄の
槌を振り、
つれなき壁の
一隅を
崩さんとして
穿てども、
衆を
協せし
[#「協せし」は底本では「恊せし」]凡夫等は
彼れを
捕へて
撲ち殺し、
穿ちし壁をさかしらに
太き石もて
繕ろひぬ。
さは
云へ壁を築きしは
もとより
世世の
凡夫なり、
稀に
出で
来る天才の
至上の智慧に及ばんや。
時なり、今ぞ飛行機と
大重砲の世は
来る。
見よ、
真先に、日の
方へ、
「生きよ」と叫び飛ぶ
群を。
遠い遠い
処へ来て、
わたしは今へんな街を見てゐる。
へんな街だ、兵隊が居ない、
戦争をしようにも隣の国がない。
大学教授が消防夫を兼ねてゐる。
医者が薬価を取らず、
あべこべに、病気に応じて、
保養中の
入費にと
国立銀行の小切手を
呉れる。
悪事を探訪する新聞記者が居ない、
てんで悪事が無いからなんだ。
大臣は居ても
官省が無い、
大臣は
畑へ出てゐる、
工場へ勤めてゐる、
牧場に働いてゐる、
小説を作つてゐる、絵を描いてゐる。
中には掃除車の
御者をしてゐる者もある。
女は皆余計なおめかしをしない、
瀟洒とした清い美を保つて、
おしやべりをしない、
愚痴と生意気を
云はない、
そして男と同じ職を
執つてゐる。
特に裁判官は女の名誉職である。
勿論裁判所は民事も刑事も無い、
専ら賞勲の公平を
司つて、
弁護士には臨時に批評家がなる。
併し
長長と無用な弁を
振ひはしない、
大抵は黙つてゐる、
稀に口を出しても簡潔である。
それは裁決を受ける功労者の自白が率直だからだ、
[#「だからだ、」は底本では「だからだ」]
同時に裁決する女が
聡明だからだ。
また
此街には高利貸がない、
寺がない、教会がない、
探偵がない、
十種以上の雑誌がない、
書生芝居がない、
そのくせ、内閣会議も、
結婚披露も、葬式も、
文学会も、絵の会も、
教育会も、国会も、
音楽会も、
踊も、
勿論名優の芝居も、
幾つかある大国立劇場で催してゐる。
全くへんな街だ、
わたしの自慢の東京と
大ちがひの街だ。
遠い遠い
処へ来て
わたしは今へんな街を見てゐる。
大百貨店の
売出しは
どの女の心をも
誘惑る、
祭よりも
祝よりも
誘惑る。
一生涯、異性に心引かれぬ女はある、
子を生まうとしない女はある、
芝居を、音楽を、
茶を、小説を、歌を好まぬ女はある。
凡そ
何処にあらう、
三越と
白木屋の
売出しと聞いて、
胸を
跳らさない女が、
俄かに誇大妄想家とならない女が。……
その
刹那、女は皆、
(たとへ
半反のモスリンを買ふため、
躊躇して、
見切場に
半日を
費す身分の女とても、)
その気分は
貴女である、
人の中の
孔雀である。
わたしは
此の華やかな気分を好く。
早く神を
撥無したわたしも、
美の前には、つつましい
永久の信者である。
けれども、
近頃、
わたしに大きな不安と
深い恐怖とが感ぜられる。
わたしの興奮は
直ぐに覚め、
わたしの
狂※[#「執/れんが」、U+24360、290-上-13]は
直ぐに冷えて
行く。
一瞬の
後に、わたしは
屹度、
「
馬鹿な
亜弗利加の
僭王よ」
かう
云つて、わたし自身を
叱り、
さうして赤面し、
はげしく良心的に
苦む。
大百貨店の
閾を
跨ぐ女に
掠奪者でない女があらうか。
掠奪者、この名は
怖ろしい、
しかし、この名に値する生活を
実行して
愧ぢぬ者は、
ああ、世界無数の女ではないか。
(その女の
一人にわたしがゐる。)
女は父の、兄の、弟の、
良人の、あらゆる男子の、
知識と
情※[#「執/れんが」、U+24360、290-下-14]と血と汗とを集めた
労働の結果である財力を奪つて
我物の
如くに振舞つてゐる。
一掛の
廉半襟を買ふ
金とても
女自身の正当な所有では無い。
女が呉服屋へ、化粧品屋へ、
貴金属商へ支払ふ
あの
莫大な額の
金は
すべて男子から搾取するのである。
女よ、
(その女の
一人にわたしがゐる、)
無智、無能、無反省なお前に
男子からそんなに法外な報酬を受ける
立派な理由が
何処にあるか。
お前は娘として
その華麗な服装に匹敵する
どんなに
気高い愛を持ち、
どんなに
聡明な思想を持つて、
世界の青年男子に尊敬され
得るか。
お前は妻として
どれだけ
良人の職業を理解し、
どれだけ
其れを助成したか。
お前は
良人の
伴侶として
対等に
何の問題を語り
得るか。
お前は一日の
糧を買ふ
代をさへ
自分の勤労で
酬いられた事があるか。
お前は母として
自分の子供に
何を教へたか。
お前からでなくては与へられない程の
立派な精神的な
何物かを
少しでも自分の子供に吹き込んだか。
お前は第一母たる真の責任を知つてゐるか。
ああ、わたしは
是れを考へる、
さうして
戦慄する。
憎むべく、
咀ふべく、
憐むべく、
愧づべき女よ、わたし自身よ、
女は掠奪者、その
遊惰性と
依頼性とのために、
父、兄弟、
良人の力を盗み、
可愛いい
我子の肉をさへ
食むのである。
わたしは
三越や
白木屋の中の
華やかな光景を好く。
わたしは不安も恐怖も無しに
再び「美」の神を愛したいと願ふ。
しかし、それは勇気を要する。
わたしは男に
依る寄生状態から脱して、
わたしの
魂と両手を
わたし自身の血で
浄めた
後である。
わたしは
先づ働かう、
わたしは一切の女に裏切る、
わたしは掠奪者の名から
脱れよう。
女よ、わたし自身よ、
お前は
一村、一市、一国の文化に
直接なにの貢献があるか。
大百貨店の
売出しに
お前は特権ある者の
如く、
その
矮い、
蒼白なからだを、
最上最貴の
有勲者として飾らうとする。
ああ、男の法外な寛容、
ああ、女の法外な
僭越。
(一九一八年作)
ああ、ああ、どうなつて
行くのでせう、
智慧も工夫も尽きました。
それが
僅かなおあしでありながら、
融通の
附かないと
云ふことが
こんなに大きく私達を
苦めます。
正しく受取る物が
本屋の不景気から受取れずに、
幾月も苦しい
遣繰や
恥を忘れた借りを重ねて、
ああ、たうとう
行きづまりました。
人は私達の
表面を見て、
くらしむきが
下手だと
云ふでせう。
もちろん、
下手に違ひありません、
でも、これ以上に働くことが
私達に出来るでせうか。
また働きに対する報酬の
齟齬を
これ以下に忍ばねばならないと
云ふことが
怖ろしい
禍でないでせうか。
少なくとも、私達の大勢の家族が
避け得られることでせうか。
今日は
勿論家賃を払ひませなんだ、
その
外の払ひには
二月まへ、
三月まへからの借りが
義理わるく
溜つてゐるのです。
それを延ばす言葉も
今までは当てがあつて
云つたことが
已むを得ず
嘘になつたのでした。
しかし、
今日こそは、
嘘になると知つて
嘘を
云ひました。
どうして、ほんたうの事が
云はれませう。
何も知らない子供達は
今日の天長節を喜んでゐました。
中にも
光は
明日の自分の誕生日を
毎年のやうに、気持よく、
弟や妹達と祝ふ
積りでゐます。
子供達のみづみづしい顔を
二つのちやぶ台の
四方に見ながら、
ああ、私達ふたおやは
冷たい
夕飯を頂きました。
もう私達は
顛覆するでせう、
隠して来たぼろを出すでせう、
体裁を
云つてゐられないでせう、
ほんたうに親子拾何人が
餓ゑるでせう。
全くです、私達を
再び立て直す日が来ました。
耻と、自殺と、狂気とにすれすれになつて、
私達を試みる
赤裸裸の、
極寒の、
氷のなかの日が来ました。
(一九一七年十二月作)
真珠の貝は常に泣く。
人こそ知らね、
大海は
風吹かぬ日も
浪立てば、
浪に揺られて貝の身の
処さだめず伏しまろび、
千尋の底に常に泣く。
まして、たまたま目に見えぬ
小さき砂の貝に
入り
浪に揺らるる
度ごとに
敏く
優しき身を刺せば、
避くる
由なき苦しさに
貝は
悶えて常に泣く。
忍びて泣けど、
折折に
涙は身よりにじみ
出で、
貝に
籠れる一点の
小さき砂をうるほせば、
清く切なきその涙
はかなき砂を
掩ひつつ、
日ごとに
玉と変れども、
貝は
転びて常に泣く。
東に昇る「あけぼの」は
その
温き
薔薇色を、
夜行く月は水色を、
虹は不思議の輝きを、
ともに空より投げかけて、
砂は真珠となりゆけど、
それとも知らず、貝の身は
浪に揺られて常に泣く。
島の沖なる
群青の
とろりとしたる海の色、
ゆるいうねりが
間を置いて
大きな
梭を振る
度に
釣船一つ、まろまろと
盥のやうに高くなり、
また傾きて低くなり、
空と水とに浮き遊ぶ。
君と住む身も
此れに似て
ひろびろとした愛なれば、
悲しきことも
嬉しきも
唯だ永き日の波ぞかし。
あはれ、快きは夏なり。
万年の
酒男太陽は
一時にその
酒倉を
開けて、
光と、
※[#「執/れんが」、U+24360、297-上-1]と、
芳香と、
七色との、
巨大なる
罎の前に
人を引く。
あはれ、快きは夏なり。
人皆ギリシヤの
古の
如く
うすき
衣[#ルビの「きぬ」は底本では「ぎぬ」]を
著け、
はた生れながらの
裸となりて、
飽くまでも、湯の
如く、
光明歓喜の酒を浴ぶ。
あはれ、快きは夏なり。
人皆太陽に
酔へる時、
忽ち前に裂くるは
夕立のシトロン。
さて
夜となれば、
金属質の
涼風と
水晶の月、夢を
揺る。
ああ
五月、我等の世界は
太陽と、花と、麦の穂と、
瑠璃の空とをもて飾られ、
空気は
酒室の
呼吸の
如く甘く、
光は
孔雀の
羽の
如く
緑金なり。
ああ
五月、万物は一新す、
竹の子も地を破り、
どくだみの花も
蝶を呼び、
蜂も卵を産む。
かかる時に、母の胎を
出でて
清く勇ましき
初声を揚ぐる
児、
抱寝して、
其児に
初めて人間のマナを飲まする母、
はげしき
※愛[#「執/れんが」、U+24360、298-上-7]の中に手を
執る
婚莚の
夜の若き
二人、
若葉に露の置く
如く
額に汗して、
桑を摘み、麻を織る
里人、
共に
何たる
景福の
人人ぞ。
たとひ
此日、欧洲の戦場に立ちて、
鉄と火の前に、
大悪非道の犠牲とならん勇士も、
また無料宿泊所の壁に
凭りて
明日の
朝飯の
代を持たぬ無職者も、
ああ
五月、
此月に
遇へることは
如何に力満ちたる実感の
生ならまし。
とある一つの
抽斗を開きて、
旅の記念の絵葉書をまさぐれば、
その下より
巴里の新聞に包みたる
色褪せし花束は現れぬ。
おお、ロダン先生の庭の
薔薇のいろいろ……
我等
二人はその日を
如何で忘れん、
白髪まじれる金髪の老
貴女、
濶き
梔花色の
上衣を
被りたる、
けだかくも
優しきロダン夫人は、
みづから庭に
下りて、
露おく中に摘みたまひ、
我をかき
抱きつつ
是れを取らせ
給ひき。
花束よ、
尊く、なつかしき花束よ、
其日の幸ひは
猶我等が心に新しきを、
纔に三年の時は
無残にも、
汝を
埃及のミイラに巻ける
五千年
前の朽ちし布の
すさまじき茶褐色に等しからしむ。
われは
良人を呼びて、
曾て
其日の
帰路、
夫人が我等を載せて送らせ
給ひし
ロダン先生の馬車の上にて、
今
一人の友と
三人
感激の中に
嗅ぎ合ひし
如く、
額を寄せて
嗅がんとすれば、
花は
臨終の人の歎く
如く、
つと
仄かなる
香を立てながら、
二人の手の上に
さながら焦げたる紙の
如く、
あはれ、悲し、
ほろほろと砕け散りぬ。
おお、われは
斯かる時、
必ず
冷やかにあり
難し、
我等が歓楽も今は
此花と共に
空しくやなるらん。
許したまへ、
涙を
拭ふを。
良人は
云ひぬ、
「わが庭の
薔薇の
下に
この花の灰を
撒けよ、
日本の土が
是に
由りて
浄まるは
印度の古き仏の
牙を
教徒の
齎せるに
勝らん。」
暑し、暑し、
曇りたる日の
温気は
油障子の中にある
如し。
狭き書斎に
陳べたる
十鉢の朝顔の花は
早くも我に先立ちて
※[#「執/れんが」、U+24360、300-下-4]を感じ、
友禅の
小切の
濡れて
撓める
如く、
また、書きさして裂きて
丸めし
或時の恋の
反古の
如く、
はかなく、いたましく、
みすぼらしく
打萎れぬ。
暑し、暑し、
机の
蔭よりは
小く憎き吸血魔
藪蚊こそ現れて、
膝を、足を、刺し初む。
されど、アウギユストは元気にて
彼方の縁に水鉄砲を
弄り、
健はすやすやと
枕蚊帳の中に眠れり。
この
隙に、君よ、
筆を
擱きて、
浴びたまはずや、水を。
たた、たたと落つる
水道の水は細けれど、
その
水音に、
昨日、
ふと我は
偲びき、
サン・クルウの森の噴水。
わたしの庭の「かくれみの」
常緑樹ながらいたましや、
時も時とて、
茱萸[#ルビの「ぐみ」は底本では「ぐ」]にさへ、
枳殻にさへ花の咲く
夏の初めにいたましや、
みどりの枝のそこかしこ、
たまたまひと
葉二葉づつ
日毎に目立つ濃い
鬱金、
若い
白髪を見るやうに
染めて落ちるがいたましや。
わたしの庭の「かくれみの、」
見れば泣かれる「かくれみの。」
西洋
蝋燭の大理石よりも白きを
硝子の鉢に
燃し、
夜更くるまで
黒檀の卓に物書けば
幸福多きかな。
あはれこの
梔花色の明りこそ
咲く花の
如き命を包む想像の
狭霧なれ。
これを思へば昼は詩人の
領ならず、
天つ日は詩人の光ならず、
蓋し
阿弗利加を
沙漠にしたる
悪しき
※[#「執/れんが」、U+24360、302-上-7]の
気息のみ。
うれしきは夢と幻惑と暗示とに富める
白蝋の明り。
この明りの中に五感と頭脳とを越え、
全身をもて
嗅ぎ、触れ、知る
刹那――
一切と個性とのいみじき調和、
理想の実現せらるる
刹那は
来り、
ニイチエの「
夜の歌」の中なる「
総ての泉」の
如く、
わが歌は
盛高になみなみと
迸る。
とん、とん、とんと足拍子、
洞を踏むよな足拍子、
つい
嬉しさに、秋の日の
長い廊下を走つたが、
何処をどう
行き、どう探し、
何うして
採つたか覚えねど、
わたしの
袂に
入つてた
きちがひ
茄子と笑ひ
茸。
わたしは夢を見てゐるか、
もう気ちがひになつたのか、
あれ、あれ、世界が火になつた。
何処かで人の笑ふ声。
九官鳥はいつの
間に
誰が教へて覚えたか、
わたしの名をばはつきりと
優しい声で「花子さん。」
「
何か御用」と問うたれば、
九官鳥の憎らしや、
聞かぬ
振して、
間を置いて、
「ちりん、ちりん」と
電鈴の
真似。
「もう知らない」と
行きかけて
わたしが
云へば、後ろから、
九官鳥のおどけ者、
「困る、困る」と高い声。
花子の庭の
薔薇の花、
花子の植ゑた
薔薇なれば
ほんによう似た花が咲く。
色は花子の
頬の色に、
花は花子のくちびるに、
ほんによう似た
薔薇の花。
花子の庭の
薔薇の花、
花が
可愛いと、太陽も
黄金の油を
振撒けば、
花が
可愛いと、そよ風も
人目に見えぬ
波形の
薄い
透綾を
著せに来る。
側で花子の歌ふ日は
薔薇も香りの
気息をして
花子のやうな声を出し、
側で花子の踊る日は
薔薇もそよろと身を
揺り
花子のやうな
振をする。
そして花子の留守の日は
涙をためた目を伏せて、
じつと
俯向く
薔薇の花。
花の心のしをらしや、
それも花子に生き写し。
花子の庭の
薔薇の花。
雪がしとしと降つてきた。
玩具の
熊を抱きながら、
小さい花子は縁に出た。
山に生れた
熊の子は
雪の降るのが好きであろ、
雪を見せよと縁に出た。
熊は冷たい雪よりも、
抱いた花子の温かい
優しい胸を喜んだ。
そして、花子の手の中で、
玩具の
熊はひと寝入り。
雪はますます降り
積る。
汗の流れる七月は
蜻蛉も夏の
休暇か。
街の子供と同じよに
避暑地の浜の砂に来て
群れつつ薄い
袖を振る。
小さい花子が昼顔の
花を摘まうと手を出せば、
これをも白い花と見て
蜻蛉が一つ指先へ
ついと気軽に降りて来た。
思はぬ事の
嬉しさに
花子の胸は
轟いた。
今
美くしい
羽のある
小さい天使がじつとして
花子の指に止まつてる。
鴨頭草の花、手に載せて
見れば涼しい空色の
花の
瞳がさし
覗く、
わたしの胸の
寂しさを。
鴨頭草の花、空色の
花の
瞳のうるむのは、
暗い心を見
透して、
わたしのために歎くのか。
鴨頭草の花、しばらくは
手にした花を捨てかねる。
土となるべき友ながら、
我も
惜めば花も惜し。
鴨頭草の花、
夜となれば、
ほんにそなたは星の花、
わたしの指を枝として
しづかに銀の火を
点す。
われは在り、片隅に。
或時は眠げにて、
或時は病める
如く、
或時は苦笑を忍びながら、
或時は鉄の
枷の
わが足にある
如く、
或時は飢ゑて
みづからの指を
嘗めつつ、
或時は涙の
壺を
覗き、
或時は
青玉の
古き
磬を打ち、
或時は臨終の
白鳥を見守り、
或時は指を挙げて
空に歌を書きつつ………
寂し、いと
寂し、
われはあり、片隅に。
上野の鐘が鳴る。
午前三時、
しんしんと更けわたる
十一月の初めの
或夜に、
東京の街の
矮い屋根を越えて、
上野の鐘が鳴る。
この声だ、
日本人の心の声は。
この声を聞くと
日本人の心は皆おちつく、
皆静かになる、
皆
自力を
麻痺して
他力の信徒に変る。
上野の鐘が鳴る。
わたしは今、ちよいと
痙攣的な反抗が込み上げる。
けれど、わたしの内にある
祖先の血の弱さよ、はかなさよ、
明方の霜の置く
木の箱の
家の中で、
わたしは鐘の声を聞きながら、
じつと
滅入つて
筆の手を休める。
上野の鐘が鳴る。
門に立つのは
うその苦学生、
うその廃兵、
うその主義者、志士、
馬車、自動車に乗るのは
うその紳士、大臣、
うその貴婦人、レディイ、
それから、新聞を見れば
うその裁判、
うその結婚、
さうして、うその教育。
浮世
小路は
繁けれど、
ついぞ
真に
行き
遇はぬ。
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今年畏くも御即位の大典を挙げさせ給ふ拾一月の一日に、此集の校正を終りぬ。読み返し行くに、愧かしきことのみ多き心の跡なれば、昭らかに和らぎたる新た代の御光の下には、ひときは出だし苦しき心地ぞする。晶子
晶子詩篇全集 終