人間は大抵平地に住んでいる。それで天とか山とかを仰いで高い所へあこがれる心を、悠久な大昔の野蛮人が既に持っている。高い所に在るものは太陽でも、雲でも、月や星でもすべて美くしいものに感ぜられる。美くしいばかりでなく、気高いもの、偉いもの、神秘なものにさえ感ぜられる。神が天に住んで人間を司配すると考えて宗教が発生したのも、もとは此の高きにあこがれる心からであった。
美くしいものは地上にも沢山にある。園や野の花も美に富んでいる。人工で作った色色の物も美くしい。夜間のネオン・サインのような灯火も美くしく、第一に人間の美男美女が美くしい。それに関らず我我が彼の青空の色に心を引かれたり、秀でた山岳を望んで夏期に登山欲をそそられたりするのは、手近なものよりも、我身に遠い「美」が気高く偉いものとして感ぜられるからである。
実際、高い山などへ登って見ると、空気一つでも新鮮清涼で、地上の生活の俗気と炎熱とが急に一掃されるのを覚える。山上から俯瞰した大地の
併しどんなに高い山へ登っても、天は地上で望んだのと同じに依然として彼方に蒼蒼として高く、殊に山頂の澄徹した空気を透して見る日中の青空、夜間の星空は、地上で仰いだよりも幾倍か美くしく、山頂で観る者の心には天然の天文台に立っているような喜びが感ぜられる。近世の学問が人間を理智的にしたと云い、近世の文化が人間を物質的にしたと云うけれども、こう云う山頂の大観に触れると、人の心は地上生活の束縛から脱して、小さな事や、さもしい欲望などに拘泥せぬ、本然の玲瓏たる心が目を明き、誰れも一種崇高な霊感に打たれずにはいない。昔から釈迦を初め多くの聖者や修道士が山に入って悟る所があったと言うことも首肯される。実際に我我のような平凡人でも、山頂に宿って
夏期に登山する人人は、涼を
と云って山は如何に爽快でも其処に久しくは留まれない。人間はやはり人間が自然よりも余計に恋しい。或る日数以上、山に滞在すると寂しくてならない。山上の視野が
山から帰る心は浄められている。謂ゆる六根清浄である。この清く
私はこのような考えから、毎年夏の半ばに幾日かを山の旅行で費している。今年は幸い九州の友人達から招かれているので別府の奥の由布岳、豊後の久住山、肥後の阿蘇山などを歴訪する予定である。
私が山へ行く心もちは、いつでも天の一部へ引上げられる快さである。
(昭和七・六・一〇)