ジーキル博士とハイド氏の怪事件

THE STRANGE CASE OF DR. JEKYLL AND MR. HYDE

スティーヴンスン Stevenson Robert Louis

佐々木直次郎訳




キャサリン・ディ・マットスに

          ―――――――――――――――

神が結んだきずなは解かぬがよい。
わたしたちはやはりあのヒースと風の子でありたい。
ふるさと遠く離れていても、おお、あれもまたあなたとわたしのためだ。
エニシダが、かの北国きたぐにに美しく咲き匂うのは。
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戸口の話


 弁護士のアッタスン氏は、いかつい顔をした男で、微笑なぞ決して浮かべたことがなかった。話をする時は冷ややかで、口数も少なく、話下手だった。感情はあまり外に出さなかった。やせていて、背が高く、そっけなくて、陰気だが、それでいて何となく人好きのするところがあった。気らくな会合などでは、とくに口に合った酒が出たりすると、何かしらとても優しいものが彼の眼から輝いた。実際、それは彼の話の中には決して出て来ないものであった。が、食後の顔の無言のシンボルであるその眼にあらわれ、また、ふだんの行いの中には、もっとたびたび、もっとはっきり、あらわれたのであった。彼は自分に対しては厳格で、自分ひとりの時にはジン酒を飲んで、葡萄酒をがまんした。芝居好きなのに、二十年ものあいだ劇場の入口をくぐったこともなかった。しかし他人にはえらく寛大で、人が元気にまかせて遊びまわるのを、さも羨ましげに、驚嘆することもあった。そして、彼らがどんな窮境に陥っている場合でも、とがめるよりは助けることを好んだ。「わたしはカインの主義*が好きだよ、」と、彼はよくこんな妙な言い方をするのだった。「兄弟が自分勝手に落ちぶれてゆくのを見ているだけさ。」こんな工合だから、堕落してゆく人たちには最後まで立派な知人となり、最後までよい感化を与える者となるような立場にたつことは、よくあった。そして、そういう人々に対しても、彼らが彼の事務所へ出入りしている限り、ちっともその態度を変えなかった。
 もちろん、こういう芸当はアッタスン氏にとっては何でもないことであった。というのは、なにしろ感情をあらわさない男だったし、その友人関係でさえも同じような人のよい寛大さに基づいているらしかったので。ただ偶然にできた出来合いの友人だけで満足しているのは内気な人間の特徴であるが、この弁護士の場合もそうであった。彼の友人といえば、血縁の者か、でなければずうっと永い間の知り合いであった。彼の愛情は、常春藤きずたのように、時と共に成長したものであって、相手が友人として適当だというわけではなかった。彼の遠縁で、有名な粋人であるリチャード・エンフィールド氏との友情も、むろんそうして出来たものだった。この二人がお互いに何を認めることができたのか、あるいはどんな共通の話題を見出すことができたのかということは、多くの人々にとって解きがたい難問であった。日曜日に二人が散歩しているのに出会った人たちの話によると、二人は口も利かず、ひどくつまらなさそうな顔付きをしていて、誰か知人の姿を見るといかにもほっとしたように声をかけるのが常だということであった。そのくせ、その二人はこの日曜の散歩をとても大事にして、毎週の一番の大切なものと考え、それを欠かさずに楽しむためには、いろんな遊びをとりやめたばかりではなく、しなければならぬ用事までもふり捨てたのであった。
 そんな散歩をしていたある時のこと、二人がなにげなくロンドンのにぎやかな区域の横町を通りかかったことがあった。その横町はせまくて、まあ閑静な方だったが、それでも日曜以外の日には商売が繁盛していた。そこに住んでいる商人たちはみんな景気がよさそうであった。そして、みんなは競ってその上にも景気をよくしようと思い、儲けのあまりを惜しげもなく使って店を飾り立てた。だから、店々は、まるでにこやかな女売子の行列のように、客を招くような様子で道の両側にたち並んでいた。日曜日には、いつもの華やかな美しさも蔽われ、人通りも少なかったが、それでもその横町は、くすんだその付近とくらべると、森の中の火事のように照り映えていた。それに鎧戸は塗り換えたばかりだし、真鍮の標札は十分に磨き立ててあるし、街全体の調子がさっぱりしていて派手なので、すぐに通行人の眼をひき、喜ばせた。
 東へ向って行って左手の、一つの街かどから二軒目のところに、路地の入口があって、街並はくぎられていた。そしてちょうどそこに、気味の悪い一枚の建物が切妻きりづまを街路に突き出していた。その建物は二階建で、一階に戸口が一つあるだけ、二階は色のあせた壁だけで、窓は一つもなく、どこを見ても永いことよごれ放題にしてあった跡があった。ベルもノッカーも取付けてない入口の戸は、いたんで変色していた。浮浪人はそのひっこんだ戸口へのそりのそりと入り込んで戸の鏡板でマッチを擦り、子供たちは踏段の上で店を張って遊び、学校の生徒は繰形くりがたでナイフの切味をためしたりした。そしてもう三十年近くの間、誰ひとり出て来て、そういう勝手な客たちを追い払ったり、彼らの荒した跡を修繕したりする者もなかった。
 エンフィールド氏と弁護士とは横町のその反対側を歩いていたが、路地の入口の真向いまでやって来ると、エンフィールド氏がステッキを上げて指した。
「あの戸口に気がついたことがありますか?」と彼は尋ねた。そして、相手がうなずくと、彼は言い足した、「あの戸口を見ると僕は妙な話を思い出すのです。」
「なるほど!」とアッタスン氏は言ったが、ちょっと声の調子が変っていた。「で、それはどんなことなのかね?」
「ええ、それはこうなんです、」とエンフィールド氏が答えた。「僕はある遠いところから家へ帰る途中でした。暗い冬の朝の三時頃のことです。その途中は、街灯のほかには全く何一つ見えないところでした。どの通りもどの通りも、人はみんな寝ているし、――どの通りもどの通りも、みんな何かの行列を待っているように明りがついていて、そのくせ教会のようにがらんとしているし、――で、とうとう僕は、人がじいっと聴き耳を立てて巡査の姿でも現われればいいと頻りに思い始める、あの気持になってきました。と突然、二人の人影が見えたのです。一人は小柄な男で、足ばやに東の方へばたばた歩いてゆく。もう一人は八つか九つくらいの女の子で、十字路を一所懸命に走ってきた。で、その二人は当然かどのところでぶっつかってしまいました。するとそのとき恐ろしいことが起こったのですよ。というのは、その男が子供の体を平気で踏みつけて、子供が地べたで泣き叫んでいるのをそのままにして行ってしまうのです。聞いただけでは何でもないようですが、見ていては地獄のようなことでした。それは人間の仕業じゃない。憎らしい鬼か何かのような仕業でした。僕はこら待てっと叫んで、駆け出して行き、その男の襟をひっ掴んで、元のところまで連れ戻ったのですが、そこには泣き叫んでいる子供の周りにもう人だかりがしていました。その男はまるで平然としていて何の手向いもしませんでしたが、ただ僕を一目ぎろりと見た眼付きの気持の悪さときたら、僕は駆足をした時のようにびっしょり汗が出たくらいです。出て来た人たちは女の子の家の者で、間もなく医者もやって来ました。子供はさっきその医者を呼びに行ったのでしたがね。ところで、医者の話では、子供は大したこともなく、ただおびえたのだということでした。で、あなたはこれでこの話はすんだと思ったかも知れません。ところが一つ妙なことがあったのです。僕は例の男を一目見た時からむかつくほど嫌いでした。子供の家の者もやはりそうだったが、それはもちろん当然のことでしょう。だが、僕の驚いたのは医者の場合だったのです。その男は世間なみの平凡な医者で、特に年寄りでも若者でもなく、特別の変った様子もしてもいず、ひどいエディンバラ訛りがあって、嚢笛ふくろぶえのように鈍感な男でした。それがねえ、その男もやはり僕たちほかの者みんなと同じなんです。僕のつかまえている男を見るたびに、そのお医者はそいつを殺してでもやりたい気持になって胸がむかむかして真っ蒼になるのが、僕にはわかったのです。僕が心の中で思っていることが医者にわかったように、医者が心の中で思っていることも僕にはわかりました。でも、殺すなんてできることじゃなし、我々はその次のできるだけのことをしてやりました。我々はその男に言ってやったのです。我々はその事を世間に公表して、君の名前がロンドンの端から端までも鼻つまみになるようにしてやることができるし、またそうしてやるつもりだ。もし君に友人なり信用なりがあるなら、我々は必ずそれをなくさせてやる、とね。そして、我々は猛烈にまくし立てている間じゅう、女たちをできるだけそいつに寄せつけないようにしていました。何しろ女たちは夜叉みたいに猛り立っていたのでね。あんなに憎らしそうな顔の集まっているのを僕は今までに一度も見たことがありません。しかも、あいつはその真ん中に突っ立って、むっとした、せせら笑うような冷ややかな態度をして、――びくついてもいることは僕にはわかったが、――しかし、ねえ、全くサタンのように平気で押し通しているんですよ。奴はこう言ったものです。『もし君たちがこの事を利用しようというのなら、もちろん僕はどうにも仕方がない。紳士なら誰だっていざこざは避けたいのだからね、』とね。『金額を言い給え、』と奴は言いました。で、我々は子供の家の者のために奴から百ポンドせびり取ることにしました。奴は明らかにいやだと頑張りたかったらしいのですが、我々みんなの様子には何となく危害でも加えそうな気勢があったので、とうとう折れてでました。次はその金を受け取ることですが、奴がどこへ我々を連れて行ったと思います? なんと、それがあの戸口のところなんですよ。――鍵をすっと取り出して、中へ入り、やがて、金貨でかれこれ十ポンドばかりと、残額をクーツ銀行宛の小切手にしたのとを持って出て来たんです。その小切手は持参人払いに振出したもので、ある名前が署名してありました。その名前がこの話の要点の一つなんですが、その名前は言えません。が、それはともかく世間によく知られていて、新聞なぞにもよくでる名前なんです。金額は大したものです。が、その署名は、それが偽筆でさえなければ、それ以上の額だって支払うことのできるものでした。僕はその男にずけずけといってやりました。どうも何もかも疑わしいようだ。まともな世間じゃあ、朝の四時なんて時刻に穴蔵みたいなところへ入って行って、百ポンドにも近い大金を他人の小切手で持って出て来る者なんてないよ、とね。けれどもそいつは全く平気の平ざでせせら笑っているのです。『安心し給え。僕は銀行が開くまで君たちと一緒にいて、その小切手を自分で現金に替えてやるから、』と言うのです。そこで我々はみんなで出かけました。医者と、子供の父親と、そいつと、僕とですね。そして僕の部屋で夜明けまで過ごし、翌日、朝食をすますと、連れ立って銀行へ行きました。僕は自分で例の小切手を差出して、どうもこれは偽造だと思うが、と言ったのです。ところがそんなことはちっともないのさ。その小切手は本物だったのです。」
「ちぇっ!」とアッタスン氏が言った。
「あなたも僕と同感なんですね、」とエンフィールド氏が言った。「そうですよ、ひどい話です。何しろそいつは誰一人として相手にならないような奴で、実に憎らしい男なんですからね。それから、その小切手を振出した人というのは紳士の典型とも言ってもいい人だし、それに有名でもあるし、しかももっと困ったことには、いわゆる慈善家連中の一人なんです。これはきっと、ゆすりでしょうね。立派な人間が若い時の道楽か何かを種にされて目の玉の飛び出るほどの額をねだり取られているのでしょうよ。だから、ゆすりの家と僕はあの家のことを言っているのです。でも、それだけではとてもすべてを説明したことになんかなりはしないんですがねえ、」と彼は言い足した。そしてそう言い終ると物思いに沈んでしまった。
 と、その物思いから、彼はアッタスン氏のだしぬけの質問で呼びさまされた。「で君は、小切手の振出人がそこに住んでいるかどうかは知らないんだね?」
「いそうなところじゃないですか?」とエンフィールド氏は答えた。「しかし、僕は偶然その人の住所を心に留めておきました。その人は何とかいう広辻スクエアに住んでいるのです。」
「で君は、人に尋ねてみたことがないのだね――その戸口の家のことを?」とアッタスン氏が言った。
「ええ、ありませんよ。ちょっと遠慮したんです、」という返事だった。「もともと僕は人のことを詮索するのが嫌いなんです。そういうことは何だか最後の審判みたいでね。何か詮索を始めるとしますね。それは石を転がすようなものですよ。こちらは丘の頂上にじっと坐っている。すると石の方はどんどん転がって行って、ほかの石を幾つも転がす。そして、まるで思いもよらぬどこかの人のよいお爺さんが自分のとこの裏庭で石に頭を打たれて死に、そのためにその家族の者は名前を変えなければならなくなったりしますからね。いいや、僕はね、これを自分の主義にしているのですよ。物事が変に思われれば思われるだけ、それだけ益々詮索しない、というのをね。」
「それはなかなかよい主義だ、」と弁護士が言った。
「だが僕は自分だけであの場所を調べてみました、」とエンフィールド氏が言い続けた。「どうもあすこは人の住んでいる家とはとても思えませんね。ほかに戸口はなし、あの戸口へも、例の事件の男が極くたまに出入りするほかは、誰一人として出入りする者がないのです。路地側の二階には窓が三つあるが、階下したには一つもない。窓はいつも閉めてあるが、しかし奇麗になっています。それから、煙突が一本あって、大抵煙が出ていること。だから、誰かがあすこに住んでいるには違いありません。でもそれも大して確かなことじゃあないんです。何しろあの路地のあたりは建物がぎっしり建て込んでいて、どこが家の区切かよくわからないんですから。」
 二人はまた暫くは黙ったまま歩いていった。それから「エンフィールド君、」とアッタスン氏が言った。「君のその主義はよい主義だよ。」
「ええ、僕もそう思っています、」とエンフィールドが答えた。
「が、それにしても、」と弁護士は言葉を続けた。「ききたいことが一つある。わたしは子供を踏みつけたその男の名前をききたいのだが。」
「そうですね、」とエンフィールド氏が言った。「それは言っても別に差支えないでしょうね。そいつはハイドという名前でしたよ。」
「ふむ、」とアッタスン氏が言った。「その男は見たところどんなような男かね?」
「そいつの人相を言うのはたやすくないですよ。その様子にはどこか変なところがありましてね。何だか不愉快な、何だかとても憎らしいところが。僕はこれまでにあんなにいやな人間を見たことがありませんが、それでいてそれがなぜかよくわからないのです。あの男はどこか不具に違いない。不具という感じを強く人に与えるのです。もっとも、どこがそうかということは僕にもはっきり言えませんがね。とても異様な顔付きでしたが、それでいて何一つ並はずれなところを挙げることも実際できないのです。いやまったく、僕にはとても説明がつかない。僕にはあの男の人相を言えません。といって覚えていない訳じゃあないのですよ。なぜってこの今でも僕はあの男を思い浮かべることができるんですから。」
 アッタスン氏はまた黙って少し歩いていったが、たしかに何か考え込んでいた。とうとう「その男が鍵を使ったというのは確かなんだね?」と彼は尋ねた。
「一体あなたは……」とエンフィールドは我を忘れるくらい驚いて言いかけた。
「うん、わかっているよ、」とアッタスンが言った。「こう言っちゃ変に思われるに違いないがね。実は、わたしがもう一方の人の名前をきかないのは、わたしがとうにそれを知っているからなのだ。ねえ、リチャード、君の話はひしひしとこたえたんだよ。もし今の話にどこか不正確な点があったら、訂正なさった方がいい。」
「そんならそうと言って下さればいいのに、」と相手はちょっと不機嫌な様子で答えた。「しかし、僕は学者的にと言ってもいいくらいに正確に話したのです。そいつは鍵を持っていました。それどころか、今でも持っていますよ。一週間とたたない前、彼がそれを使っているのを僕は見たのです。」
 アッタスン氏は深い溜息をついたが、一言もいわなかった。すると若者の方がつづけてまた言いだした。「何も言うものではないという教訓をまた一つ得ましたよ、」と彼は言った。「自分のおしゃべりが恥ずかしくなりました。このことはもう二度とは触れないという約束をしようじゃありませんか。」
「よろしいとも、」と弁護士は言った。「約束しよう、リチャード。」

ハイド氏の捜索


 その晩、アッタスン氏は暗い気分で自分のひとり住居へ帰って来て、食欲もなしに夕食の卓についた。いつも日曜などには、食事がすむと、炉の傍らに腰を下ろして、何か難かしい神学の書物を一冊机の上にのせて読み、近くの教会の時計が十二時を打つと、厳粛に感謝して床につくのが、習慣であった。しかし、この夜の彼は、食卓がかたづけられると直ぐ、蝋燭を取り上げて、自分の事務室へ入って行った。そこで金庫を開けて、その一番奥から、封筒にジーキル博士遺言書と書いてある書類を取り出すと、眉をくもらせながら腰を下ろしてその内容を熟読した。遺言書は全文のすべてが本人自筆のものであった。というのは、アッタスン氏は、出来上ったそれを保管してはいるけれども、それを作るには少しの助力をも拒んだからである。その遺言書は、医学博士、民法学博士、法学博士、王立科学協会会員等なるヘンリー・ジーキル死亡の場合には、彼の一切の所有財産は、彼の「友人にして恩人なるエドワード・ハイド」の手に渡るべきことを規定しているばかりではなく、ジーキル博士の「三カ月以上に亙る失踪、または理由不明の不在」の場合には、前記エドワード・ハイドは直ちに前記ヘンリー・ジーキルの跡をつぎ、博士の家人に少額の支払いをする以外には何らの負担も義務も負わなくともよいことを規定していた。この証書はこれまで永い間、弁護士の不愉快のたねであった。それは、弁護士として、また人生の穏健な慣習的な方面の愛好者としての彼を不快にさせたのであった。彼にとっては突飛なことは不心得なことであった。しかし、今までは、彼の憤慨をつのらせたのは、彼がそのハイド氏なる人間については何も知らないためであった。それが今や急に一変して、その人間のことを知っているためとなったのだ。その名前だけ知っていて、それ以上のことを何も知らなかった時でさえ、それはもう十分不都合であった。その名前がかずかずのいやらしい属性をつけ始めるようになっては、ますます不都合となった。そして、それまで永いあいだ彼の眼を遮っていた変りやすい朦朧たる霧の中から、突如として、悪魔の姿がはっきりと躍りでたのである。
「これはきちがい沙汰だと思っていた、」と、彼はそのいやな書類を金庫の元の場所にしまいながら言った。「ところが今度はどうもこれは何かけしからぬことではないかという気がしてきたぞ。」
 そう言うと彼は蝋燭を吹き消し、外套を着て、あの医学の牙城といわれるキャヴェンディッシュ広辻スクエアの方へと出かけた。そこには、彼の友人である著名なラニョン博士が邸宅を構えていて、群れ集まる患者に接していたのだ。「誰か知っている者があるとすれば、それはラニョンだろう、」と彼は考えたのである。
 しかつめらしい召使頭が彼を見知っていて、喜んで迎えた。彼は少しも待たされず、玄関から直ぐに食堂へ案内されると、そこにはラニョン博士がひとりで葡萄酒を飲んでいた。元気で、健康で、快活な、赭ら顔の紳士で、もしゃもしゃした髪の毛はまだそういう歳でもないのに白く、動作は大げさでてきぱきしていた。アッタスン氏を見ると、椅子から跳び立って、両手を差出して歓迎した。この愛想のよさは、この人の癖で、ちょっと芝居じみて見えたが、しかし真心から出ているのであった。というのも、この二人は古くからの友達で、小学校から大学までの同窓であったし、お互いに十分自尊心があると同時に相手を尊敬し、そして、必ずしもそうとは限らぬものだが、お互いに交際することをとても楽しみにしている人たちであったから。
 ちょっとした雑談のあとで、弁護士はひどく気にかかっている、例のいやな問題の方へ話を向けて行った。
「ねえ、ラニョン、君と僕とはヘンリー・ジーキルの一番古くからの友達だったね?」と彼は言った。
「その友達もお互いにもっと若かったらね、」とラニョン博士がくすくす笑って言った。「しかし君の言う通りだろうと思う。が、それがどうかしたの? 僕は近ごろとんと彼に会わないよ。」
「なるほど!」とアッタスンが言った。「君たちは共通の関心で結ばれているものと僕は思ってたのだが。」
「そうだったのさ、」という返事だった。「しかし、もう十年以上も前から、ヘンリー・ジーキルはあまり突飛になってきたんで、僕にはたまらなくなったのだ。彼は変になりかけてきたのだ、精神が変にね。勿論僕はいわゆる昔のよしみで今でも彼のことを気にかけてはいるが、このごろはずっとあの男にめったに会ったことがない。あんな非科学的なでたらめばかり言われては、」と博士はとつぜん顔を真っ赤にして言いたした。「デーモンとピシアス*だって仲が悪くなるよ。」
 このちょっとした憤慨はかえってアッタスン氏を幾らか安心させた。「二人は何か学問上のことで意見が違っただけなんだな、」と彼は考えた。そして、もともと学問的熱情などを持っていない(財産譲渡証書作成のことだけは別であるが)男なので、「ただそれだけのことさ!」とつけ加えさえした。彼はしばらく友人の気がしずまるのを待って、尋ねようと思ってきた例の問題に近づいた。「君は彼が世話している――ハイドという男に会ったことがあるかね?」と彼は訊いた。
「ハイド?」とラニョンがきき返した。「いいや。そんな男は聞いたことがない。これまでにね。」
 弁護士が大きな暗い寝床に持ち帰った知識はそれだけであった。その寝床で彼が寝つかれずにしきりに寝返りを打っているうちに、真夜中も過ぎてだんだんと明け方に近くなった。まっくら闇の中で考え悩み、いろいろな疑問に取巻かれて、思いまどった彼にとっては、くるしい一夜であった。
 アッタスン氏の住居のすぐ近くにある教会の鐘が六時を打った。それでもまだ彼はその問題を考えつづけていた。これまで、その問題は彼の知的方面だけに関していたのであった。ところが今では彼の想像力もそれに加わるようになった、というよりも、それのとりこになってしまった。そして彼がカーテンをおろした部屋のまっくらな夜の闇の中で、横になって輾転反側していると、エンフィールド氏から聞いた話が、一連の幻灯の絵巻物となって彼の心の前を通っていった。夜の都会を一面に照らしている街灯が現われる。次にどんどん足ばやに歩いてゆく一人の男の姿。つぎに医者のところから駆けもどってくる子供の姿。それからその二人がぶつかり、人間の姿をした悪鬼が踏み倒して、その泣き叫ぶのを気にもかけずに通り過ぎてゆく。それからまた、豪奢な邸宅の一室が見える。そこには彼の友人が眠っていて、夢を見ながら微笑している。するとその部屋のドアが開かれ、ベッドのカーテンがさっと引きのけられ、眠っている友人が呼び起こされる。そして、見よ! その傍らに一人の男が立っている。その男は権力を与えられているので、そんな真夜中でも、友人は起き上ってその命令をきかなければならないのだ。この二つの場面に現われる男の姿が、夜どおし弁護士の心につきまとった。そして、いつでも彼がうとうと眠りかけさえすると、寝静まっている家々にその姿が一そう忍びやかにすうっと入って来たり、または街灯のともった都会の広い迷路をその姿が一そう速く、目まいがするほどにも速く駆けまわり、街かどという街かどで女の子を踏みつぶして、泣き叫ぶままにして行ったりするのが、見えるのであった。それなのに、その男には彼が見覚えられる顔というものがなかった。夢のなかでさえ、その男には顔がなく、あったにしても、見ようとすると眼の前で溶けてしまうのであった。こんな訳で、弁護土の心の中に、ほんとうのハイド氏の顔を見たいという異常に強い、まるで法外な好奇心がわきおこって、ずんずん大きくなって来たのである。もしただの一度だけでもその男を見ることができたなら、大抵の不思議の事柄というものがよく調べてみればそうであるように、この不思議もはっきりして恐らくすっかりなくなってしまうだろう、と彼は考えた。友人の奇妙なこのみ、または束縛(どちらに言ってもいいが)に対する理由、またあの遺言書の驚くべき文句に対する理由までも、わかるかも知れない。それに、少なくとも、それは見ておいて損のない顔であるだろう。慈悲心を持たない人間の顔であり、それを見ただけで、あの安っぽく感動しないエンフィールドの心に、忘れられない憎悪の念をおこさせたような顔であるから。
 その時からだった、アッタスン氏が商店の並んでいる例の横町にある例の戸口のあたりへ始終行くことになったのは。執務時間前の朝でも、事務が忙しくて暇が少ないひる時でも、霧のかかった都会の月光に照らされている夜でも、昼となく、夜となく人通りの少ない時でも多い時でも、弁護士の姿は、その定めの見張場に見出された。
「彼がハイド氏なら、おれはシーク氏になってやろう*」と彼は考えていた。
 そしてとうとう彼の忍耐は報いられた。からりと晴れわたったある夜のこと、空気は霜を結ぶくらい寒く、街路は舞踏室のゆかのように奇麗で、街灯は、それを揺がす風もないので、光と影の模様をくっきりと描いていた。商店の閉ざされる十時になると、その横町はひどく淋しくなり、四方八方からロンドンの低いうなるような音が聞こえてはくるが、大へん静かになった。小さなもの音でも遠くまで聞こえた。道路のどちら側でも、家々の中から洩れて来るもの音がはっきりと聞きとれた。そして通行人の近づいて来る足音は、その当人よりもずっと前からわかった。アッタスン氏は、その見張場へ来てから数分たったころ、あの変な軽やかな足音が近づいて来るのに気がついた。毎夜見張りをしているうちに、彼は、たった一人の人間の足音でも、その人間がまだずっと遠くにいるうちに、市中の騒々しいどよめきから、突然にはっきりと聞こえてくるあの奇妙な感じに、もうとっくに慣れていた。しかし、この時ほど彼の注意が鋭くひきつけられたことは前には一度もなかった。それで、今度こそはどうもそうらしいという強い迷信的な予感を抱いて、彼は路地の入口へ身をひそめた。
 足音はずんずん近づいて来て、街の角を曲ると急に一そう大きくなった。弁護士は、入口からうかがうと、自分の相手にしなければならぬ人間の風態が直ぐにわかった。小男で、じみな服装をしていて、そんなに遠くから見てさえも、その男の顔付きは、どういうものか、弁護士にはひどく気に食わなかった。しかし、その男は近道をするために道路をよぎって、まっすぐに戸口の方へやって来た。そして歩きながら、わが家へ近づく人のようにポケットから鍵を取り出した。
 アッタスン氏は進みでて、通り過ぎようとするその男の肩にちょっと手を触れた。「ハイドさん、ですね?」
 ハイド氏ははっと息を吸いこみながらたじろいだ。しかし彼の恐れはほんの一瞬間だった。そして彼は弁護士をまとには見なかったが、大へん落着いて答えた、「それはわたしの名前です。何の御用ですか?」
「あなたがお入りになろうとするところをお見かけしたものですから、」と弁護士は答えた。「私はジーキル博士の旧友で、――ゴーント街のアッタスンという者ですが、――あなたは私の名前をお聞きになったことがあるに違いない。で、ちょうどいいところでお会いしたから、通して頂けるかも知れないと思ったのです。」
「あなたはジーキル博士には会えますまい。留守ですから、」とハイド氏は鍵の孔の塵をぷっと吹きながら答えた。それから今度は突然、しかし、やはり顔を上げずに、「どうしてわたしをご存じでしたか?」と尋ねた。
「あなたに、」とアッタスン氏が言った。「お願いがあるんですが?」
「どうぞ、」と相手は答えた。「どんなことです?」
「あなたのお顔を見せて頂けませんか?」と弁護士が尋ねた。
 ハイド氏はためらっているようであった。が、やがて、何か急に思いついたように、挑みかかるような様子で向きなおった。そして二人は数秒の間じっと互いに睨み合った。「もうこれでまたお目にかかってもわかるでしょう、」とアッタスン氏が言った。「こうしておけば何かの役に立つかも知れません。」
「そうです、」とハイド氏が答えた。「我々はお会いしてよかった。それから、ついでに、わたしの住所も知っておかれたらよいでしょう。」そうして彼はソホーのある街の番地を知らせた。
「おや!」とアッタスン氏は心の中で考えた、「この男もあの遺言書のことを考えていたのか知らん?」しかし彼は自分の気持を外へださずに、ただその住所がわかったという返事に低い声を出しただけだった。
「で、今度は、」と相手が言った。「どうしてあなたはわたしをご存じだったのです?」
「これこれこういう人だと聞いていたから、」という答えだった。
「誰から?」
「わたしたちには共通の友人がある、」とアッタスン氏が言った。
「共通の友人!」と少し嗄れ声でハイド氏がきき返した。「それは誰です?」
「例えば、ジーキル、」と弁護士が答えた。
「あの男がそんなことを言ったことなんかないですよ、」とハイド氏はかっと怒って叫んだ。「君が嘘をつこうとは思わなかった。」
「まあまあ、」とアッタスン氏が言った、「それはおだやかな言い方ではないね。」
 相手は大きく唸ったが、それが獰猛な笑いになった。そして次の瞬間には、驚くべき速さで、戸口の錠をはずして、家の中へ姿を消してしまった。
 弁護士は、ハイド氏にとり残されると、不安の化身のように、しばらく突っ立っていた。それからのろのろと街をのぼり始めたが[#「始めたが」は底本では「殆めたが」]、一二歩ごとに立ちどまり、途方に暮れている人のように額に手をあてた。彼が歩きながらこんなに考え込んでいる問題は、難題の部類に入る問題だった。ハイド氏は色が蒼くて小男だったし、どこと言って奇形なところはないが不具という印象を与えるし、不愉快な笑い方をするし、弁護士に対して臆病と大胆との混った一種凶悪な態度で振舞ったし、しゃがれた、囁くような、幾らかとぎれとぎれな声でものを言った。――これらすべての点は彼にとって不利であったが、しかし、これらをみんな一緒にしても、アッタスン氏がハイド氏に抱いた、これまで経験したことのない憎悪、嫌厭、恐怖を説明することができなかった。「ほかにまだ何かあるに違いない、」と、この困惑した紳士は言った。「何と言ってよいかわからんが、何かそれ以上のものが確かにあるのだ。ほんとに、あの男はどうも人間らしくないようだな! 何か穴居人のようなところがあると言おうか? それとも、あの昔話のフェル博士の*ようなものだろうか? それともまた、忌わしい霊魂から出る光が、あのように肉体から泌み出て、その肉体の形を変えたものなのだろうか? どうもそうらしいようだ。なぜなら、ああ気の毒なハリー・ジーキル、もしわたしがこれまで人間の顔に悪魔の相を見たことがあるとすれば、それは君の新しい友人のあの顔だ!」
 その横町の角を曲ると、古風な立派な家の集まった一郭があったが、今では大部分はその高い身分からおちぶれて、一階ずつに、また部屋部屋に区切って、地図版画師や、建築師や、いかがわしい代言人や、インチキ企業家など、あるゆる身分階級の人々に貸してあった。しかし、角から二軒目の家だけが、今でもやはり、そのままそっくり一人の人が居住していた。玄関のあかり窓を除いて、今は闇に包まれてはいるけれども、いかにも富裕らしい趣きのあるその家の戸口のところで、アッタスン氏は立ち止って戸をたたいた。身装みなりのよい中年過ぎの召使が戸を開いた。
「ジーキル博士はお宅かね、プール?」と弁護士が尋ねた。
「見て参りましょう、アッタスンさま、」とプールは言いながら、客を、大きな、天井の低い、気持のよい広間に通した。そこは、ゆかに板石がしいてあり、かっかと燃える、むき出しの炉で(田舎の屋敷風に)暖められ、樫の高価な用箪笥が備えつけてあった。「ここの暖炉のそばでお待ち下さいますか、旦那さま? それとも食堂に明りをつけてさしあげましょうか?」
「ここで結構、有難う、」と弁護士は言って、その高い炉囲いに近づいて、それに凭れかかった。今、彼がひとり取り残されたこの広間は、彼の友人の博士の得意にしている気に入りの部屋であった。そしてアッタスン自身もいつもは、そこをロンドンじゅうで一番居心地のよい部屋だと言っていた。しかし今夜は、彼は気味が悪くてならなかった。ハイドの顔が彼の記憶に重苦しくのしかかっていた。彼は(彼には滅多にないことだが)人生が厭わしく感じられた。そして、気が滅入っているので、彼は、磨き立ててある用箪笥に映るちらちらする炉火の光や、天井に不安そうに動く影にも、凶事の前兆を見るような気がした。やがてプールが戻って来て、ジーキル博士が外出しているということを知らせた時、自分がほっとしたのを彼は恥ずかしく思った。
「わたしはハイドさんがあの元の解剖室の戸口から入るのを見たのだがね、プール、」と彼は言った。「ジーキル博士が不在の時に、そんなことをしても差支えはないのかね?」
「差支えなどございませんとも、アッタスンさま、」とその召使が答えた。「ハイドさんは鍵をお持ちなんですから。」
「おまえの御主人はあの若い人を大そう信用しておられるようだな、プール、」とアッタスンが物思いに沈みながら言葉を続けた。
「はい、旦那さま、全く信用しておいででございます、」とプールが言った。「私どもはみんなあの方のおっしゃる通りにしろと言いつけられております。」
「わたしはハイドさんと一緒になったことがないと思うが?」とアッタスンが尋ねた。
「ええ、ええ、おありではございませんとも、旦那さま。あの方は一度もここで御食事をなさいません、」とその召使頭が答えた。「実際、私どもはお屋敷のこちらの方であの方を滅多にお見かけしないのです。たいていは実験室の方から出入りなさいますから。」
「では、さようなら、プール。」
「おやすみなさいまし、アッタスンさま。」
 こうして弁護士はひどく重苦しい心を抱いて家路についた。「気の毒なハリー・ジーキル、」と彼は考えた、「彼が苦しい羽目に陥っているのでなかろうかと気になってならない! 彼は若いときには放蕩をした。いかにも、それはずっと以前のことには違いない。だが、神さまの法律には、時効法なんてものはないのだからな。そうだ、そうに違いない。何かの昔の罪という亡霊か、何かの隠してある不名誉な行ないという癌なのだ。記憶が過ちを忘れてしまい、自分を愛する心が罪を許してしまってから何年もたってから、罰というものは跛をひきながらやって来るものだ。」そして、この考えに嚇かされた弁護士は、しばらく自分自身の過去を考えて、ひょっとして何かの旧悪がびっくり箱のように、いきなり明るみに跳び出してきはしまいかと思って、記憶の隅々までも探ってみた。彼の過去はまず過失のない方だった。彼よりも少ない懸念をもって自分の生涯をふり返ることのできる人は少なかった。それでも彼は自分のなした多くのよくないことを思うと恥ずかしさに堪えなかったが、また、自分が今にもしようとして止めた多くのことを思うと、再び元気づいて厳粛な感謝の念を抱くのであった。それからまた、彼は前の問題にもどって、希望の閃きを心に描いた。「あのハイドという若者もよく調べてみたら、」と彼は思った。「やはり秘密を持っているに違いない。あの男の顔付きから考えれば、さぞ暗い凶悪な秘密をな。それに比べれば可哀そうなジーキルの一番悪い秘密だってお日さまの光みたいなものだろう。このままにうっちゃっておく訳にはゆかない。あんな奴が盗人のようにハリーの枕許へ忍びよることを考えるとぞっとする。可哀そうなハリー、目をさました時にはどんなに怖いだろう! それにまた危険だ。というのは、あのハイドの奴が例の遺言書のあることを感づいたなら、奴は財産を相続するのを待ちかねるようになるかも知れんからな。そうだ、わしは一肌ぬいでやらなければならん、――もしジーキルがわたしにそうさせてさえくれるなら、」と彼は言い足した。「もしジーキルがわたしにそうさせてさえくれるならだ。」するともう一度、彼の心の眼の前に透し絵のようにはっきりと、あの遺言書の奇怪な文句が見えたのである。

ジーキル博士は全く安らかであった


 それから二週間ほどたつと、大へん好都合にも、博士は五六人の親しい旧友を招いて、いつもの楽しい晩餐会を催した。みんな聡明な、名声ある人々であり、みんなよい酒の味のわかる連中であった。そしてアッタスン氏は、ほかの人々が帰ってしまった後までも自分で居残るように仕向けた。これは何も初めてのことではなく、それまでに何十回もあったことであった。アッタスンは、好かれるところでは、非常に好かれた。彼を招いた人たちは気さくな連中やおしゃべりな連中がとっくに家へ帰ってしまってからも、この無愛想な弁護士をひき留めておくことを好んだ。彼らは、思い切り陽気にはしゃいだ後に、しばらくこの控え目な客と向い合って坐り、この男の貴い沈黙によって淋しさに慣れるようにし、自分の心を冷静に落着かせることを好んだのである。このしきたりには、ジーキル博士も例外ではなかった。で、いま彼が炉をへだてて坐っていると、――大柄な、体の格好のよい、鬚のない五十ばかりの男で、かくれ遊びも多少あるかも知れないが、いかにも才能があり親切そうな人である――その顔付きから見ても彼がアッタスン氏に対して心からの温かい愛情を抱いていることがわかった。
「僕は君に話したいと思っていたのだがね、ジーキル、」とアッタスン氏が切り出した。「君のあの遺言書のことを君は覚えているだろうね?」
 この話題が気に入らぬことは、細かに注意して見る人にはすぐに察しられたであろう。が、博士は快活に受け流した。「気の毒だね、アッタスン、」と彼が言った。「こんな依頼人を持って君は不幸だね。僕の遺言書で、君が困っているほど困っている人間ってのは見たことがないよ。もっとも、あの頑迷な衒学者のラニョンが、彼のいわゆる僕の科学的異端で困っているがね。いや、彼がいい男だということは知ってるさ、――そんなに顔をしかめなくたっていいよ、なかなか立派な男で、僕も彼にはもっと会いたいといつも思っているんだ。しかしそれでもやはり頑迷な衒学者さ。無学な、やかましい衒学者さ。あのラニョンくらい僕を失望させた人間はなかったよ。」
「僕が、あれにはどうしても賛成できないということを、君は知っている筈だ、」とアッタスンは、その新しい話題をあっさり無視して言葉を続けた。
「僕の遺言書のことか? うん、たしかに、覚えている、」とちょっと鋭い調子で博士が言った。「君は僕にそう言ったことがあるよ。」
「では、もう一度そう言うよ、」と弁護士は続けた。「僕はハイドという若者のことが多少わかってきたのでね。」
 ジーキル博士の大きな、立派な顔は唇までも真っ蒼になり、眼のあたりには険しい色があらわれた。「僕はそれ以上聞きたくないのだ、」と彼が言った。「それは我々が言わないことに約束したことだと思うがね。」
「僕の聞いたのは怪しからんことなのだ、」とアッタスンが言った。
「それにしたって同じことだ。君には僕の立場がわからないんだよ、」と博士は何となく辻褄の合わぬような様子で答えた。「僕は苦しい立場にいるんだよ、アッタスン。僕の立場は大変妙な――大変妙な立場なんだ。それは話したってどうにもならないような事情なんだ。」
「ジーキル、」とアッタスンが言った。「君は僕を知っているはずだ。僕は信頼して貰ってもよい人間だ。そのことを内証ですっかりうち明けてくれ給え。そうすれば僕はきっと君をそれから救ってあげられると思うのだ。」
「ねえ、アッタスン、」と博士が言った。「君は実に親切だ。君は全く親切だ。何と言ってお礼を言っていいかわからない。僕は君を十分に信じている。僕はどんな人間よりも君を信頼したいのだ。いや、どっちかと言えば、自分自身よりも君を信頼したいのだ。しかし、全くのところ、あれは君の想像しているようなことじゃないんだよ。そんなにひどいことではないのだ。で、ただ君を安心させるだけのために、一つのことを言ってあげよう。僕はそうしようと思う時にはいつでも、ハイド氏と手を切ることができるのだ。そのことを僕は誓うよ。君には幾重にも感謝する。それから、ちょっと一言ひとことだけ付け加えておきたいんだがね、アッタスン。きっと君はそれを悪くはとらないだろうと思うんだが。それは、このことは一身上の事柄なのだから、どうかうっちゃっておいて貰いたい、ということなんだ。」
 アッタスンは炉火を見ながらしばらく考えていた。
「君の言うことが至極もっともだということは疑わないよ、」とついに彼は言って、立ち上った。
「それはそうとして、我々がこの件に触れたからには、そして触れるのももうこれっきりにしたいものだが、」と博士は続けた。「君に解って貰いたい事が一つあるのだ。僕は可哀そうなハイドのことをほんとうに非常に気にかけているのだ。君があの男に会ったことは僕は知っている。彼が僕にそう言ったから。で彼が不作法なことをしはしなかったかと僕は気遣っている。しかし僕は、実際、心からあの若者のことをひどく、とてもひどく気にかけているんだ。それで、もし僕が死んだら、ねえ、アッタスン。君が彼を我慢してやって彼の権利を彼のために取ってやると、僕に約束してほしいのだがね。もし君がすべてを知ったなら、そうしてくれるだろうと思うのだ。そして、君がその約束をしてくれるなら、僕の心から重荷が下りるのだが。」
「僕はあの男をいつか好きになれそうな風をすることはできないね、」と弁護士が言った。
「僕はそんなことを頼んでいるんじゃないよ、」とジーキルは相手の腕に手をかけながら懇願した。「僕はただ正当な取扱いを頼んでいるだけなんだ。僕がもうこの世にいなくなった時に、僕のために彼の助けになってやって貰いたいと頼んでいるだけなんだよ。」
 アッタスンは抑えきれない溜息をもらした。「よろしい。約束する、」と彼は言った。

カルー殺害事件


 それから一年近くたった一八――年十月のこと、ロンドン市民は非常に凶暴な犯罪によってうち驚かされ、しかもその被害者の身分が高かったので一そう世間の注意をひいた。そのいきさつは簡単なものではあったが、しかし驚くべきものであった。テムズ河から遠くないある家にひとり住まいをしている女中が、十一時ごろ二階へ寝に行った。夜なか過ぎには霧が全市に立ちこめたが、夜のふけぬうちは雲一つなく、女中のいる家の窓から見下ろす小路は、皎々と満月に照らされていた。彼女はロマンティックな性質だったらしく、窓の直ぐ下に置いてあった自分の箱に腰を下ろして、夢のような物思いに耽り始めたのである。その時ほど(と彼女は、その晩の見聞きしたことを物語るたびにいって涙を流しながら言うのだったが)彼女があらゆる人々と睦まじく感じたこともなく、世間のことを親しみを以て考えたこともなかった。そうして腰をかけている時に、彼女は一人の気品のある白髪の老紳士がその小路をこちらへ近づいて来るのに気がついた。するとまた、この紳士の方へ、ごく小柄な紳士がもう一人やって来たが、これには彼女を初めあまり気にとめなかった。その二人が話を交すことができるところまで(それはちょうど女中の眼の下であった)来たとき、老紳士の方がお辞儀をして、大そう立派なていねいな態度で相手に話しかけた。話をしていることは大して重大なこととは思えなかった。実際、彼が指さしをしていることから察すると、ただ道を尋ねているだけのようにも時々は見えた。しかし、月が、話している人の顔を照らしていて、娘はその顔を眺めるのがたのしかった。その顔はいかにも悪意のない、古風で親切な気質を表わしているように思われたが、しかしまた、正しい理由のある自己満足からくる何となく高ぶったところもあった。そして彼女の眼がもう一人の方にうつると、彼女は、それが、いつか一度自分の主人を訪ねて来たことがあり、自分が嫌な気持のしたハイド氏という男であることがわかって、びっくりした。その男は片手に重いステッキを持っていて、それをいじっていた。が、彼は一言も答えず、じれったくてたまらない様子で聴いているようであった。それから突然、彼はかっと怒り出して、足をどんどん踏みつけ、ステッキを振り回し、まるで狂人のように(女中の言ったところによれば)あばれた。老紳士は、大へん驚いたような、またちょっと感情を害したような様子で、一歩退いた。それを見るとハイド氏はすっかり自制力を失って、老紳士を地面に殴りたおした。そして次の瞬間には、猿のような凶暴さで、被害者を足で踏みにじり、続けさまに打ちのめしたので、骨は音を立てて砕け、体は路上に跳ねとばされた。その光景ともの音の怖ろしさに、女中は気を失ってしまった。
 彼女が我に返って警官を呼びに行った時は二時であった。殺害者はとっくに行ってしまっていた。が、被害者はめちゃくちゃに傷つけられて小路の真ん中に横たわっていた。凶行に用いたステッキは何かの珍しい、大そう丈夫で堅い木のものであったが、あの凶暴で残忍な力を揮ったために真二つに折れていた。そして折れた半分は近くの溝のなかに転げこんでいた。――片方の半分はきっと殺害者が持ち去ったのであろう。財布が一つと金時計一つ、被害者の身に着いていた。が名刺も書類もなく、ただ、封をして切手を貼った封筒が一つあり、彼は恐らくそれを郵便箱へ入れに行くところであったのだろうが、それにはアッタスン氏の住所と名前とが書いてあった。
 この封筒は翌朝、弁護士がまだ寝床を離れぬうちに、彼のところへとどけられた。彼はそれを見、事情をきくと直ぐ、厳粛な顔をして言い出した。「その死体を見た上でなければ何とも申し上げ兼ねます、」と彼は言った。「これは容易ならぬことかも知れません。身支度をする間どうか待って頂きたい。」そしてやはり同じ重々しい顔付きで、急いで朝食をすまし、死体が運ばれている警察署へ馬車を走らせた。その死体のある小室へ入るや否や、彼はうなずいた。「そうです、」と彼は言った。「僕はこの人を知っています。お気の毒ながらこれはダンヴァーズ・カルー卿です。」
「えっ、そりゃほんとうですか?」と警官が大きな声で言った。そして次の瞬間には彼の眼は職業的功名心で輝いた。「これは大変な騒ぎになるだろう、」と彼は言った。「で、あなたにも狂人を捕える助力をして頂けると思いますが。」そして彼は女中の目撃したことを簡単に話し、折れたステッキを示した。
 アッタスン氏はハイドの名を聞いただけでもう心がひるんでいた。がステッキが前に置かれると、もう疑うことができなかった。折れていたんではいるけれども、それは何年も前に彼自身がヘンリー・ジーキルに贈ったステッキであることがわかったのだ。
「そのハイド氏というのは小柄な男ですか?」と彼は尋ねた。
「並外れて小柄で、並外れて人相が悪い、とその女中が言っているのです、」と警官が言った。
 アッタスン氏は思案した。それからやがて顔を上げて言った、「僕の馬車で一緒にお出でになれば、その男の家へお連れできると思います。」
 この時分には朝の九時頃になっていて、この季節になってから初めての霧が立ちこめていた。大きなチョコレート色の棺衣かんおおいのような霧が空一面に垂れ下っていた。しかし風が絶えず、この戦陣を張った水蒸気を、攻めて追い散らしていた。だから、馬車が街から街へとゆらゆら進んでゆく時に、アッタスン氏は、薄明りが濃く淡く驚くほどさまざまな色合いを示しているのを見た。あるところでは夕方遅くのように暗いかと思えば、またあるところでは、大火事か何かの明りのように、濃いもの凄い褐色の輝きがあった。また、あるところでは、一時、霧がすっかり散って、やせ細った一条の日光が渦巻く雲の間からちらりと射し込んでくるのであった。こういう刻々に変ってゆく閃光の下で見る陰気なソホーの区域は、泥だらけの路や、だらしない通行人や、これまでずっと消したことがないのか、それとも、またも襲って来る陰気な暗さにそなえて新たに火を点けたのか、それらの街灯などと共に、弁護士の眼には、悪夢のなかで見るどこかの都会の一地域のように見えた。その上、彼の心に浮かぶ考えも至って憂欝な色を帯びていた。そして、彼が自分の同乗者をちらりと見る時に、正しい人をも時としておそうことのある、法律と、法律の執行者とに対するあの恐怖を、かすかに感じたのであった。
 馬車が言いつけた番地の前に停った時、霧が少しはれて、くすんだ街や、けばけばしく飾り立てた酒場や、低級なフランス式料理店や、三文雑誌や安サラダを売る店や、あちこちの家の戸口にむれ集まっているぼろ服を着たたくさんの子供たちや、朝酒を飲みに鍵を手にして出てきたいろんな国々の大ぜいの女たちなどが、彼の眼に映った。それから次の瞬間には、黄土のように茶色の霧が再びそのあたりに下りて、彼をその野卑な周囲からさえぎってしまった。そこがヘンリー・ジーキルのお気に入りの男、正貨二十五万ポンドの相続者である人物の住居なのであった。
 象牙のような色の顔をした銀髪の老婦人が入口の戸を開けた。猫をかぶって愛想よくした悪相な顔をしていた。しかし客に対するふるまいは立派だった。彼女は言った。さようでございます、こちらはハイドさんのお宅です。けれども唯今御不在です。昨晩は大そうおそくお戻りでしたが、一時間とたたないうちにまたお出掛けになりました。それは別に珍しいことではありません。あの方はふだんから大変不規則な習慣でして、よくお留守になさいます。現に、昨日お帰りになりましたのもかれこれ二月振りでした、と。
「じゃよろしい、僕たちはあの人の部屋を見たいのだ、」と弁護士が言った。そしてその女がそれはできませんと言いかけると、「この方がどなただかおまえさんに言っておく方がよかろう、」と言い添えた。「これはロンドン警視庁のニューカメン警視さんだ。」
 憎ったらしい喜びの色がさっとその女の顔に現われた。「ああ! あの人は挙げられたんですね!」と彼女は言った。「何をしたのでしょう?」
 アッタスン氏と警視とはちらりと眼を見合わせた。「あの男はあまり人に受けのいい人物ではないようですな、」と警視が言った。「ではね、お婆さん、僕とこのお方にちょいとそこらを見せて貰いたい。」
 その老婦人さえいなければ空家であるその家全体の中で、ハイド氏はたった二室しか使っていなかったが、その二室は贅沢によい趣味で家具を備えつけてあった。戸棚には葡萄酒が一ぱい入っていたし、食器類は銀製だし、テーブルかけも高雅だった。壁には立派な絵が懸っていたが、それは(アッタスンの推測では)なかなかの美術鑑識家であるヘンリー・ジーキルからの贈物であろう。絨毯は幾重にもなった厚いもので、色合いも気持のいいものであった。しかし、この時には、最近にあわててひっかき回したらしい形跡がいろいろあった。衣服はポケットを裏返しにしたままゆかのあたりに散らばっていたし、錠の下りるひきだしは開けっ放しになっていたし、炉床には、たくさんの書類を焼いたらしく、黒い灰が山になっていた。その燃え屑の中から、警視は燃え残った緑色の小切手帳の端っこを掘り出した。例のステッキの片方の半分もドアのうしろから見つけ出された。これで彼の嫌疑が確かになったので、警視は喜ばしいと言った。銀行へ行ってみると、数千ポンドの金がその殺人犯人の預金になっていることがわかったので、彼はすっかり満足した。
「もう大丈夫ですよ、」と彼はアッタスン氏に言った。「つかまえたも同然です。奴はよっぽどあわてたに違いありません。でなけりゃ、ステッキを置き忘れたり、とりわけ、小切手帳を焼いたりなんかしなかったでしょう。だって、金はあの男にとっては命ほどに大事なものなんですからね。もう銀行で奴を待っていて、犯人逮捕のビラを出しさえすればいいという訳です。」
 しかし、このビラを出すということは、そうたやすくできることではなかった。なぜなら、ハイド氏には懇意な人がほとんどおらず、――例の家政婦でさえ彼には二度会っただけであったし、彼の家族はどこを探しても見当らなかったし、彼は写真をとったこともなかったし、彼の人相を言うことのできる少数の人々も、世間普通の観察者がそうであるように、言うことが各々ひどく違っていた。ただ一つの点でだけ、彼らの言うことは一致していた。それは、その逃亡者が彼を目撃した人たちに言うに言われぬ不具という妙に深い印象を与えたということであった。

手紙の出来事


 アッタスン氏がジーキル博士の家の戸口へやっと辿り着いたのは、その日の午後おそくであった。彼はすぐプールに案内されて、台所の傍らを下り、もと庭園であった裏庭をよぎって、実験室とも解剖室ともどっちにも言われている建物へつれて行かれた。博士はこの家をある有名な外科医の相続人から買いとったのであるが、彼自身の趣味は解剖よりもむしろ化学の方だったので、庭園の奥にあるこの一棟の建物の使いみちを変えたのだった。弁護士が彼の友人の邸宅のこの部分に通されたのは初めてであった。で、彼は窓のないくすんだその建物を物珍しそうにじろじろ眺め、階段式になった解剖講堂を通りぬける時にはいやな奇妙な感じであたりを見回した。そこはもとは熱心な学生が一ぱいに詰めかけたものであるが、今ではもの淋しくひっそりしていて、テーブルの上には化学器械が積まれ、ゆかには編みかごが転がり、荷造り用の藁が散らばっており、明りは霧のかかっている円天井からぼんやりと射しこんでいた。その講堂のもっと先に階段があって、それを上ると赤い粗羅紗を張ったドアのところへ来た。そしてこのドアを通って、アッタスン氏はやっと博士の書斎へ迎え入れられた。それは広い部屋で、周囲に硝子戸棚が取りつけられ、いろいろの物の中でも一つの姿見鏡と一つの事務用のテーブルとが備えつけてあり、鉄格子のついた三つの埃だらけの窓が例の路地に面して開いていた。火が炉のなかで燃えていた。ランプが一つ炉棚の上にともして置いてあった。家のなかまでも霧が深く立ちこめ始めたからである。そして、その炉に近く、ジーキル博士がひどく元気のなさそうな顔をして腰かけていた。彼は客を迎えるために立ちあがりもせず、ただ冷たい片手をさし出して、歓待の挨拶をしたが、その声はいつもと変っていた。
「ところで、」とアッタスン氏は、プールが出て行くと直ぐに言った、「君はあの事件のことを聞いたろうね?」
 博士は身ぶるいした。「広辻スクエアのところで大声で言っていたよ、」と彼は言った。「僕はそれを食堂にいて聞いた。」
一言ひとことだけ言っておくがね、」と弁護士が言った。「カルーは僕の依頼人だったが、君もやはりそうだ。で、僕は自分のしていることを知っておきたいのだ。君はまさかあの男をかくまうような馬鹿げたことはしないだろうね?」
「アッタスン、僕は神に誓って、」と博士は大声で言った。「神に誓って、もう二度とあの男には会わないつもりだよ。僕は名誉にかけて君に言うが、僕はもうこの世ではあの男と縁を切ったのだ。すっかりすんでしまったのだ。それにまた実際あの男の方でも僕の助力を必要としないのだ。あの男のことは君よりも僕の方がよく知っている。あの男は大丈夫なんだ。全く大丈夫なんだ。よく聞いてくれ給え、あの男はもうこれっきり、決して人の噂になることはないだろうよ。」
 弁護士はむずかしい顔をして聴いていた。彼は友人の熱病に罹っているような態度が気に入らなかった。「君はあの男のことには大分自信があるようだが、」と彼が言った。「君のために、どうか君の言う通りであるようにと思うよ。もし裁判にでもなろうものなら、君の名前が出るかも知れんからね。」
「僕はあの男のことには十分自信があるんだ、」とジーキルが答えた。「誰にもうち明けることはできないが、僕には確かに根拠があるんだ。しかし君に助言をして貰えるかも知れないことが一つあるんだがね。僕はそのう――僕は手紙を一通受け取ったのだが、それを警察へ見せたものかどうか迷っているのだ。僕はそれを君の手に任せたいんだよ、アッタスン。君ならきっとうまく判断してくれるだろう。僕は君を非常に信頼しているのだから。」
「その手紙からあの男が見つかるかも知れんと君は心配しているのだね?」と弁護士は尋ねた。
「いや、そうじゃない、」と相手が答えた。「ハイドがどうなろうと僕は別に気にかけちゃいないのだ。僕はあの男とはすっかり縁を切ったのだから。僕はこの忌わしい事件のために自分の評判が幾らか危険に曝されていることを考えていたのだ。」
 アッタスンは暫くの間考え込んだ。彼は友人の利己的なのに[#「利己的なのに」は底本では「利己発なのに」]驚いたが、しかしまたそれで安心もした。「では、」と彼はやっと言った。「その手紙を見せて貰おうか。」
 その手紙は妙な直立体で書いてあって、「エドワード・ハイド」と署名してあった。それには、筆者わたくしは、恩人ジーキル博士から永い間絶大な恩恵を受けながら、それに対して誠に申し訳ない報いをしてきたが、博士はもう私の身の安全については少しも心配される必要がない、私には確実に信頼できる逃亡の手段があるから、という意味のことをごく簡単に書いてあった。弁護士はこの手紙を見て非常に喜んだ。それでみると二人の親交は彼の予想していたよりは美しいもののように思われた。それで彼は今まである疑惑を抱いていたのをすまなく思った。
「この封筒があるかね?」と彼は尋ねた。
「焼いてしまったのだ、つい何の気もなしにね、」とジーキルが答えた。「でもそれには消印はなかったよ。その手紙は手渡しされたのだ。」
「僕にこれを預けて一晩考えさせてくれないか?」とアッタスンが尋ねた。
「君に何もかもそっくり僕のかわりに判断して貰いたいのだ、」というのがその返事であった。「僕は自分に信頼を失ってしまったのだ。」
「では、考えてみよう、」と弁護士が答えた。「ところでもう一言ひとこときくがね。君の遺言書にあの失踪のことについて書かせたのはハイドだったのだね?」
 博士は急に気が遠くなりそうな様子であった。彼は口を堅く閉じてうなずいた。
「そうだろうと思っていた、」とアッタスンが言った。「彼は君を殺すつもりだったのだ。君は危いところを助かったのだよ。」
「僕はそれよりはもっとずっと重大な経験をしたのだ、」と博士は重々しい口調で答えた。「僕はある教訓を得たのだ、――おお、アッタスン、何という教訓を僕は得たことだろう!」そう言って彼はちょっとの間、両手で顔をおおうた。
 帰りがけに、弁護士は立ち止まって一言二言プールと言葉を交した。「ときに、今日手紙が届けられたそうだが、その使いの者はどんな人間だったかね?」と彼は言った。しかしプールは郵便で来たほかには何一つ来なかったときっぱり断言した。「そしてそれも通知状のようなものばかりでした、」と彼は言いそえた。
 この知らせは帰ってゆく客の不安をまた新たにした。きっとあの手紙は実験室の戸口から渡されたのだろう。あるいは、実際、あの書斎で書かれたのかも知れない。そして、もしそうだとすれば、それは違った判断をしなければならぬし、一そう慎重に取扱わねばならない。彼が歩いてゆくと、新聞売子は道ばたで声をからしながら叫んでいた。「号外。国会議員惨殺事件。」それは彼の依頼人である一人の知人の弔辞のようであった。そして、彼はもう一人の依頼人である友人の名誉がこの事件の渦中に巻きこまれはしまいかと思って、ある気がかりを抑えることができなかった。彼が決めなければならぬことは、少なくとも、細心の注意を要することであった。そして、ふだんは人に頼らないたちではあったが、彼は他人の助言がほしいと思うようになってきた。それも直接に聞くわけにはゆかなかった。が、うまく釣り出すことはできるかも知れないと彼は思った。
 間もなく、彼は、自分の家の炉の一方に、主任事務員のゲスト氏と向い合って、腰を下ろしていた。二人の間には、炉からちょうどよい距離のところに、地下室に永いあいだ日の目を見ずに貯えてあった特別に古い葡萄酒が一罎おいてあった。霧はなおも霞んだ市の上に翼をひろげて眠っていて、街灯は紅玉のようにかすかに輝いていた。そしてその低く深く垂れこめた息詰るような霧の中を、都会の交通機関が相変らず強風のような音を立てて大通りを通っていた。しかし室の中は炉火の光で気持がよかった。罎の中の葡萄酒の酸はとっくの昔に溶解してしまって、その紫色は、年代を経てやわらかになっていた。ちょうど窓の色硝子の色が年月とともに冴えてくるように。そして丘の中腹の葡萄畑に照った暑い秋の午後の日光が、今にも葡萄酒の中からとき放されて、ロンドンの霧を消散させようとしているかのようであった。だんだんと弁護士は気分がやわらいできた。彼はゲスト氏には誰よりも秘密にしておくことが少なかった。そして思わぬ秘密までもうち明けないとは限らないのであった。ゲストはたびたび用事で博士のところへ行ったことがあるし、プールをも知っていた。彼はハイド氏があの家と心やすくしていることを聞いていないはずはあるまい。彼なら結論をひき出せるかも知れない。とすれば、あの不可解な謎をとく手紙を彼に見せてもよくはないだろうか? それに、ことに、ゲストは手跡の熱心な研究家だし鑑定家だから、手紙を見せられても、それを当然な親切なことと考えるだろうから。その上、その事務員は助言をすることのできる男で、ああいう奇妙な書面を読んでなんとか意見をもらさぬことはないだろう。そうすればその意見によってアッタスン氏は今後の方針をきめられるかも知れない。
「ダンヴァーズ卿のはお気の毒な事件だね、」と彼は言った。
「全くさようでございます。ずいぶん世間の同情をひいております、」とゲストと[#「ゲストと」はママ]答えた。「犯人はもちろん気違いでございましょうね。」
「そのことについて君の意見を聞きたいのだがね、」とアッタスンが答えた。「僕はここにその犯人の書いた書面を持っているのだ。これはここだけの話だよ。僕はそれをどうしたらいいかよくわからないのだからね。何にしても厄介なことなんだ。だが、これだ。全く君のお手の物さ。殺人犯の自筆だよ。」
 ゲストの眼は輝いた。そして彼は直ぐに腰を下ろして、それを熱心に調べた。「いいえ、」と彼は言った、「気違いじゃありませんな。けどれも妙な筆跡ですね。」
「それにどう考えてみてもその書き手も大へん妙な男なんだ、」と弁護士が言い足した。
 ちょうどその時、召使が一通の手紙を持って入ってきた。
「それはジーキル博士からのでございますか?」と事務員は訊いた。「見覚えのある手だと思いました。何か内証のもので、アッタスンさん?」
「ただ晩餐の招待状だよ。どうして? これを見たいのかい?」
「はあ、ちょっと。有難うございます。」そして事務員はその二枚の紙片を並べて、しきりにその内容を見比べた。「有難うございました、」と彼はようやくその両方とも返しながら言った。「大へん興味のある筆跡です。」
 話がとぎれた。その間アッタスン氏は心のなかで悶えていた。「どうして[#「「どうして」は底本では「」どうして」]君はそれを比べたのかね、ゲスト?」と彼は突然きいた。
「さようで、」と事務員が答えた、「少し不思議な類似点がございますので。その二つの手跡は多くの点で同一なんです。ただ字の傾斜が違っているだけで。」
「ちょいとおかしいな、」とアッタスンが言った。
「おっしゃる通り、ちょいとおかしいのです、」とゲストが答えた。
「僕はこの手紙のことは人には言いたくないのだからね、わかったね、」と主人が言った。
「はい。承知いたしました、」と事務員が言った。
 そして、その夜アッタスン氏は自分一人になるとすぐに、その手紙を自分の金庫の中にしまいこみ、それから後はそこから出さなかった。「何ということだ!」と彼は考えた。「ヘンリー・ジーキルが殺人犯のために偽手紙を書くなんて!」そう思うと、彼の血は血管の中で冷たくなるような気がした。

ラニョン博士の変事


 時が流れた。ダンヴァーズ卿の死は公衆に対する危害として世間の憤慨をかったので、数千ポンドの懸賞金がかけられた。しかしハイド氏は、まるで初めから存在しなかった人のように、警察の視界から消え失せてしまった。なるほど、彼の過去のことが大分明るみへ出された。そのどれもみな評判のよくないものであった。その男の冷酷で凶暴な残忍さのこと、その下劣な生活のこと、その奇妙な仲間たちのこと、これまでずっと周囲から憎悪の眼で見られていたこと、などについていろんな噂が出てきた。しかし、彼の現在の居どころについては、ささやき一つ聞こえなかった。あの殺害の朝ソホーの家を立ち去った時から、彼は全く姿を消してしまった。そして、時がたつにつれて、だんだんにアッタスン氏はあの烈しい驚きから回復し始め、前よりは心がおちついてきた。ダンヴァーズ卿の死は、彼の考え方によれば、ハイド氏の失踪によって十分に償われたのであった。あの悪い影響を及ぼす人間がいなくなったので、ジーキル博士には新しい生活が始った。彼は孤独の生活から出て、再び友人たちと交際をするようになり、もう一度彼らの心やすい客人ともなり招待者ともなった。そして、彼は今まではずっと慈善行為で知られていたが、今では宗教心でもそれに劣らず有名になった。彼は忙しく活動し、多く戸外に出て、善行をつんだ。彼の顔は、社会に奉仕をしていることを内心意識しているかのように、明るく晴れやかになったように見えた。そして二カ月以上の間、博士は平和であった。
 一月の八日、アッタスンは博士の家へ、数人の客と共に晩餐に招かれた。ラニョンもその席にいた。そして主人の顔は、その三人が離れられない友人であった昔のように、二人を代る代る眺めていたのであった。ところが十二日と、そしてまた十四日に、弁護士は玄関ばらいを食わされた。「博士はお引きこもりでございまして、どなたにもお会いになりません、」とプールが言った。十五日に彼はまた訪ねてみたが、また断わられた。彼はここ二カ月間というもの、殆ど毎日のようにその友人に会いつけていたので、博士がこのように孤独の生活へ返ったことは、ひどく気になった。五日目の晩に彼はゲストを招いて一しょに食事をし、六日目の晩には、ラニョン博士のところへ出かけた。
 そこではどうやら面会を拒絶されはしなかった。が、入ってみると、博士の様子が変っているのにぎょっとした。彼の顔には死の宣告がはっきりと書いてあった。あの赤らんだ顔をした元気そうな男が蒼白くなっていた。肉は落ち、目に見えて前よりは頭が禿げ年をとっていた。しかしながら、弁護士の注意をひいたのは、急激な肉体的衰弱のそういう徴候よりも、むしろ、何か心の深い恐怖を示しているらしい眼付きや挙動であった。博士が死を怖れるということはありそうではなかった。しかしアッタスンにはそうではなかろうかと思われてならなかった。「そうだ、この男は医者だから、自分の容態や、自分の余命が幾らもないことを知っているに違いない。そしてそれを知っていることが彼には堪えられないのだ、」と彼は考えた。しかし、アッタスンが彼の顔色の悪いことを言ったとき、ラニョンは自分はもうやがて命のない人間だと非常にしっかりした態度で断言した。
「僕はひどいショックを受けたのだ、」と彼が言った。「そしてとても回復できないだろう。もうあと何週間かという問題だ。考えてみると、人生は楽しかった。僕は人生が好きだった。そうだよ、君、いつも人生が好きだった。だが、我々がすべてを知り尽したなら、死んでしまいたくなるだろう、と時々は思うことがあるよ。」
「ジーキルも病気なんだ、」とアッタスンが言った。「君はあれから会ったかね?」
 ラニョンの顔付きは変った。そして彼は震える片手を上げた。「僕はジーキル博士にはもう会いたくもないしあの男のことを聞きたくもない、」と彼は大きなきっぱりしない声で言った。「あの男とはすっかり縁を切ったのだ。だから、僕が死んだものと思っている人間のことはどうか一切言わないで貰いたい。」
「困ったな、」とアッタスンが言った。それからかなり黙っていて から、「僕に何かできないかね?」と尋ねた。「我々三人はずいぶん古くからの友達だよ、ラニョン。もう生きている間にほかにこんな友達は出来ないだろう。」
「どうにもできないのだ、」とラニョンが答えた。「あの男自身に訊いてくれ給え。」
「あの男は会おうとしないのだ、」と弁護士が言った。
「それは不思議じゃないよ、」という返事だった。「僕が死んだ後、いつかはね、アッタスン、君はあるいはこのことの是非を知るようになるかもしれない。今は話す訳にはゆかないのだ。で、それはそうとして、もし君がそこに腰掛けてほかのことを僕と話すことができるなら、どうかゆっくりしていってくれ給え。しかし、もしその厭な話題に触れずにおくことができないなら、後生だから帰ってくれ給え。僕はそれには我慢ができないのだから。」
 家に帰るとすぐ、アッタスンは腰を下ろしてジーキルに手紙を書き、自分を家に入れぬことに苦情を言い、ラニョンとのこの不幸な絶交の原因を尋ねてやった。すると翌日長い返事がきたが、それにはときどき非常に悲痛な言葉が並べられ、ところどころ意味がはっきりしないところもあった。ラニョンとの仲違いはどうにもできないものであった。「彼は我々の旧友を責めはしない、」とジーキルは書いていた。「しかし二人が二度と会ってはならぬという彼の意見には同感だ。私はこれからは極端な隠遁生活を送るつもりだ。もし私の家の扉が君に対してさえちょいちょい閉ざされることがあっても、君は驚いてはならないし、また私の友情を疑ってもならない。君は私に私自身の暗い路を行かせなければならない。私は何とも言いようのない懲罰と危険とを身に負うている。もし私が罪人つみびとかしらであるならば、私はまた苦しむ者のかしらでもあるのだ。この世がこんなに恐ろしい苦悩と恐怖とを容れる余地があるとは考えられなかった。この運命を軽減するためには、アッタスンよ、君はただ一つの事しかなし得ない。それは私の沈黙を尊重してくれることなのだ。」アッタスンはびっくりした。ハイドの暗い影が取りのけられて、博士はもとの仕事と親交とに立ち帰っていたのだ。ほんの一週間前には、ゆくすえは楽しい名誉ある老年を迎えることのできそうな、あらゆる望みで微笑していたのであった。ところが今は忽ちのうちに、友情も、心の平和も、彼の生涯の全行路も破滅させられたのだ。これほどの大きな思いがけない変化は狂気としか思えなかった。しかし、ラニョンの態度や言葉を考えてみると、それには何かもっと深いわけがあるに違いなかった。
 一週間後にラニョン博士は病床につき、二週間とたたないうちに死んでしまった。大へん悲しんだ葬式のすんだ日の晩、アッタスンは自分の事務室のドアに錠を下ろし、陰欝な蝋燭の光の傍らに腰をかけて、死んだ友の手跡で宛名を書かれその封印で封された一通の封書を取り出して前においた。
親展。J・G・アッタスンの手にのみ開封さるべし、彼が先立ちて死する場合は読まれずして破棄さるべきこと、」とそれにはそうはっきりと上書うわがきしてあった。そして弁護士はその内容を見るのを恐れた。「わたしは今日一人の友人を葬った。これを見たためにもう一人の友人を失うようなことにでもなったらどうしよう?」と彼は考えた。しかし、彼はすぐにこの恐れを不忠実だと反省して、封を破った。中にはもう一通の封書があって、同じように封緘し、表には「ヘンリー・ジーキル博士の死亡乃至は失踪まで開封せられざること、」と記されてあった。アッタスンは自分の眼を信ずることができなかった。そうだ、失踪とある。ここにもまた、彼がもうずっと前にその筆者に返してしまったあの気違いじみた遺言書のなかにあったように、失踪ということとヘンリー・ジーキルの名前とが結びつけられているのだ。しかし、あの遺言書では、その考えはハイドという男の陰険な入れ知恵から出ていたのであった。それは全く余りにも明白な怖ろしい目論もくろみ[#「目論もくろみを」はママ]もってそこに※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)入されたのだ。ところが、ラニョンの字で書かれたとなると、それはどういうことを意味するのだろう? 禁止をやぶってすぐさまこの不思議なことの底まで探ってみたいという強い好奇心がおこった。しかし職業上の名誉と亡き友に対する信義とは、その被委託者にとって峻厳な義務であった。で、その包みは彼の私用金庫の一番奥にそのままにしておかれた。
 好奇心を抑えることと、それに打ち勝つこととは、別のことである。その日からのち、アッタスンが彼の生き残っている友人との交際を、前と同じように熱望したかどうかは、疑わしい。彼はその友人のことを好意をもって考えた。しかし、彼の思いは不安で恐ろしいものだった。いかにも彼は訪ねには行った。が面会を断わられて却ってほっとしたかも知れない。おそらく、心の中では、すき好んで自分をとじこめている人の家の中へ通されて、気心の知れない隠遁者と向いあって話すよりも、広々とした都会の空気と音響とに取巻かれて、戸口の段のところでプールと話している方がよいと思ったかも知れない。実際、プールも大して愉快な知らせを持合わせなかった。博士はこの頃では前よりも一そう実験室の上の書斎に閉じこもり、時々はそこで眠ることさえあったらしい。彼は元気もなく、大へん無口になり、読書もしなかった。何か心にかかることがあるらしかった。アッタスンはいつもいつもこういう変らぬ報告を聞かされるので、だんだんと訪問するのを少なくするようになった。

窓際の出来事


 ある日曜日、アッタスン氏がエンフィールド氏と一緒にいつもの散歩をしているときに、偶然またあの横町を通りかかった。そして、例の戸口の前へやって来ると、二人とも立ち止ってその戸口をじっと眺めた。
「まあ、あの話もどうやらけりがつきましたね、」とエンフィールドが言った。「我々はもう二度とハイド氏に会うことはないでしょう。」
「そうでありたいものだ、」とアッタスンが言った。「僕が一度あの男に会って、君と同じように嫌悪を感じたということは、いつか君に話したかね?」
「あの男に会って嫌悪を感じないということは、まずありませんよ、」とエンフィールドが答えた。
「それはそうと、ここがジーキル博士の家の裏口だということを知らなかったなんて、僕も何て馬鹿だろうとあなたはお思いなったでしょうね! 僕がそのことを知ったとしても、それは幾らかあなた御自身のせいだったのですよ。」
「じゃあ君はわかったのだね?」とアッタスンが言った。「だがそれなら、この路地へ入って行って窓のところをちょっと見て来てもよかろう。実を言うと、僕は気の毒なジーキルのことが気がかりなのだ。で、たとい家の外へでも、友達が来ているということが、あの男のためになるような気がするのだ。」
 その路地は大そう涼しくて少し湿っぽく、頭上の高い空はまだ夕焼けで明るいのに、もうはや黄昏の色が濃かった。あの三つの窓の真ん中の窓は半分開いていた。そして、その窓ぎわ近くに腰をかけて、佗しい囚人か何かのように限りなく悲しそうな顔付きで風にあたっているジーキル博士を、アッタスンはみつけた。
「やあ! ジーキル!」と彼は叫んだ。「君はよくなったのだね。」
「僕はどうも元気がなくてね、アッタスン、」と博士は陰気に答えた。「どうも元気がないのだ。有難いことには、これも永いことではあるまい。」
「君はあんまり家の中にばかりい過ぎるんだ、」と弁護士が言った。「外へ出て、エンフィールド君や僕のように血液の循環をよくしなければいけない。(これは僕の従弟いとこで、――エンフィールド君だ、――ジーキル博士だよ。)さあ来給え。帽子を持ってきて[#「持ってきて」は底本では「持っきて」]、僕たちと一緒に元気よく散歩し給え。」
「御親切はまことに有難い、」と相手は溜息をつくような声で言った。「僕もそうしたいのは山々なんだ。が、いや、いや、いや、それはとてもできないのだ。僕にはできないんだ。しかし実際、アッタスン、よく来てくれたね。全く非常に嬉しいことだ。僕は君とエンフィールド君に上って貰いたいのだが、しかし、こんなところでどうもね。」
「なあに、それなら、」と弁護士は愛想よく言った、「僕たちがこのままにしていて、ここから君と話をすることにすれば一番いい。」
「それはちょうど僕がお願いしようと思っていたことだよ、」と博士は微笑しながら答えた。けれどもその言葉が言い終るか終らないうちに、その微笑はさっと彼の顔から消えてしまい、目もあてられぬような恐怖と絶望の表情に変ったので、窓下にいる二人は血までも凍るような気がした。窓がすぐにぴしゃりと下ろされたので、二人はそれをほんのちらりと一目見ただけであった。しかしその一目で十分だった。彼らは一言も言わずにひき返してその路地を出た。やはり無言のままで彼らはあの横町をよぎった。そして日曜日でさえ相変らずいくらか賑わっている近くの大通りへ出て来てから初めて、アッタスン氏はやっと振りかえって連れの顔を見た。彼らは二人とも真っ蒼だった。そして、眼にも同じような恐怖の色があった。
「ああ困ったことになった! 困ったことになった!」とアッタスン氏が言った。
 しかしエンフィールド氏はひどく真面目な顔をしてただ頷いただけであった。そしてまただまって歩き続けた。

最後の夜


 アッタスン氏がある夜、夕食のあとで炉ばたに腰かけていると、プールが訪ねてきて驚かされた。
「おやおや、プール、どうしてここへやって来たのだい?」と彼は大声で言った。それからプールをもう一度見て、「どうかしたのかい?」と言いたした、「博士がお悪いのか。」
「アッタスンさま、」とその男が言った。「どうも少し変なのでございます。」
「そこへお掛け。そしてまあこの葡萄酒を一杯飲むのだ、」と弁護士が言った。「さあ、ゆっくりしておまえの言いたいことをはっきり言っておくれ。」
「あなたさまは博士の習慣をご存じでいらっしゃいますね、」とプールが答えた。「博士がよくとじこもっておしまいになることも。ところが、また書斎にとじこもられたのでございます。私にはあれが気にかかるのですよ、――ほんとうに気にかかるのでございます。アッタスンさま、私は心配なのでございます。」
「ねえ、おまえ、」と弁護士が言った。「隠さずに言ってくれ。何がおまえに心配なのだ?」
「私は一週間ばかり前からずっと心配して参りました、」とプールは頑固に相手の質問をそらして答えた。「そしてもうとても我慢ができません。」
 その男の様子はその言葉がほんとうであることをちゃんと証拠立てていた。彼の挙動は一そう悪くなった。そして、初めに自分の恐怖を知らせた時のほかは、弁護士の顔を一度もまともに見なかった。今でさえ、まだ口もつけない葡萄酒のコップを膝の上に置いたまま掛けていて、その眼はゆかの一隅にむけられていた。「私にはもうとても我慢ができません、」と彼はまた言った。
「さあさあ、」と弁護士が言った、「おまえの言うことには何かもっともな理由があるということはわたしにはわかるよ、プール。何かひどく不都合なことがあるということはわかる。それがどんなことだかわたしに言ってみて御覧。」
「人殺しか何かがあったのだと私は思います、」とプールはしわがれた声で言った。
「人殺しだと!」と弁護士は、非常に驚いて、それで幾らか腹立たしくなって、叫んだ。「どんな人殺しなんだ? この男は何のことを言っているのだ?」
「私にはどうも申し上げられません、」という返事であった。「私と御一緒にお出で下すって御自身で見て頂けないでしょうか?」
 アッタスン氏はそれに答えるかわりに、ただ立ち上って帽子と外套とを手に取った。しかし、彼はその召使頭の顔に大きな安堵の色が現われたのを見て不思議に思った。また、彼がついてこようとして葡萄酒を下に置いたとき、それにはまだ口がつけてないのを見て、それも不思議に思った。
 その夜は、風の強い、寒い、いかにもその季節らしい、三月の夜であった。蒼白い月が風に吹きかえされたかのように仰向きになって懸っていて、まるで透きとおった寒冷紗のような薄雲うすぐもが一つ空を飛んでいた。風のために話をすることも出来ず、顔には赤い斑が出来た。おまけに、風に吹き払われてしまったように街路にはいつになく人通りがなかった。アッタスン氏はロンドンのこの部分がこんなに人気ひとけのないのは、これまでに見たことがないと思ったくらいだった。彼は人通りがあればいいがと思った。人間に会って触ってみたいという、これほどに烈しい欲望を感じたことは、これまで一度もなかった。どんなに払いのけようと努めても、何か禍いがおこってきそうな強い予感をひしひしと感じないではいられなかったからである。広辻スクエアのところまでやってくると、そこは一面に風と埃とが舞っていて、庭園の細い樹々は柵にぶっつかっていた。途中ずっと一二歩先に立って歩いてきたプールは、ここへくると、道の真ん中に立ち止り、身をきるような寒さなのに、帽子を脱いで、赤いハンケチで額を拭いた。けれども、急いで歩いてきたには違いないが、彼が拭ったのは急いだための汗ではなく、何か喉を締めつけられるような苦悩の脂汗だった。なぜなら、彼の顔は蒼白であったし、口をきいた時にはその声はかすれてとぎれがちであったから。
「さあ、旦那さま、」と彼が言った。「参りました。どうか神さま、何も変ったことがございませんように。」
「アーメン、プール、」と弁護士が言った。
 そこで召使頭はひどく用心深いやり方で戸をたたいた。戸は鎖のついたまま少し開かれて、内から誰かの声が尋ねた、「あんたかね、プールさん?」
「大丈夫だよ、」とプールが言った。「戸を開けてくれ。」
 二人が入ってみると、広間はあかあかと灯火をつけてあった。炉火も盛んに焚きつけてあった。そしてその炉のあたりに、家中の召使が、男も女も、羊の群れのようにごたごたとより集まっていた。アッタスン氏の姿を見ると、女中が急にヒステリックなすすり泣きを始めたし、料理女は「あら有難い! アッタスンさまだわ、」と叫びながら、まるで彼に抱きつこうとでもするように走り出てきた。
「なんだ、どうしたのだ? みんなこんなところにいるのか?」と弁護士は気むずかしく言った。「大そう不しだらで、大そう不体裁だ。御主人が見られたら機嫌を悪くなさるぞ。」
「みんな怖がっているのでして、」とプールが言った。
 黙ってひっそりしてしまい、誰一人としていいわけする者もなかった。ただ例の女中だけが声を高くして、今では大きな声を出して泣き出した。
「静かにするんだ!」とプールが彼女に言ったが、その口調の烈しさは彼自身の神経も乱れていることを示していた。そして実際、その娘が急に泣き声を張りあげた時には、皆ぎょっとして、恐ろしいものでも待っているような顔つきで奥のドアの方を振り向いたのだった。「さあ、」と召使頭は言葉を続けて、ナイフ研ぎボーイに言った。「蝋燭を一本渡してくれ。わたしたちはすぐに片づけてしまおう。」それから彼はアッタスン氏について来るように頼み、裏庭の方へ案内した。
「さて、旦那さま、」と彼が言った。「なるべくお静かにお出で下さいまし。あなたさまに先方の言うことを聞いて頂きたいのでして、先方には、あなたさまのおられることを聞かれたくはないのですから。で、よろしいですか、旦那さま、もしひょっとしてあなたさまに入れと申しましてもお入りになってはいけませんよ。」
 アッタスン氏は、こういう思いがけないことになったので、びくっとして、倒れんばかりになった。けれども、勇気をふるい起こして、その召使頭について実験室の建物の中へ入り、編みかごだの罎だののがらくたの転がっている外科の階段講堂を通りぬけて、あの階段の下まで来た。ここへ来るとプールはアッタスン氏に、一方の側に立って耳を澄ましているようにと合図をし、そして自分は蝋燭を下に置き、はっきりとわかるような非常な決心をして、階段を上り、書斎のドアの赤い粗羅紗を少しぶるぶるした手でとんとんたたいた。
「旦那さま、アッタスンさまがお目にかかりたいとおっしゃってお出ででございますが、」と彼は声をかけ、そう言いながらも、弁護士によく聴いているようにともう一度はげしく合図した。
 ドアの内から声が答えた。「誰にもお目にかかれないと言ってくれ、」とその声は不平そうに言った。
「はい、畏りました、」とプールは何だか得意そうな調子で言った。そして蝋燭を取り上げると、アッタスン氏を導いて引返し、裏庭を通って大きな台所へ入った。そこには火は消えていて、甲虫がゆかの上に跳んでいた。
「旦那さま、」と彼はアッタスン氏の眼を見ながら言った。「あれが私の主人の声でしたでしょうか?」
「声がひどく変ったようだな、」と弁護士は真っ蒼になりながらも相手を見返して答えた。
「変ったですって? まあ、さよう、私もそう思います、」とその召使頭が言った。「二十年もあの方のお屋敷に奉公しておりながら、その御主人のお声を聞き違えるなんてことがございましょうか? いいや、旦那さま。御主人は殺されたんです。神さまの御名を呼んでわめいておられるのを私たちが聞きました八日前に、殺されたのでございます。御主人の代りに誰があすこに入っているのか、またその者がなぜあすこに残っているのかということは、神さまに叫ぶような恐ろしいことなのですよ、アッタスンさま!」
「それはずいぶん妙な話だな、プール。それはむしろ突飛な話だよ、なあ、おまえ、」とアッタスン氏は指を噛みながら言った。「仮りにおまえの推測どおりだとしても、ジーキル博士がそのう――そうだ、殺されたとしてもだ、その殺害者が一たい何のためにそこに残っているだろうか? そんなことはどうも辻褄が合わんな。理屈に合わないよ。」
「まあ、アッタスンさま、あなたさまを納得させるのはなかなか厄介ですが、でもそのうち納得させてあげましょう、」とプールが言った。「この一週間というものは(あなたさまも知って頂きたい)その人間だか、何だか、とにかくあの書斎の中にいる者が、夜となく昼となく、何かある薬をほしがってわめいているのでございます。そしてそれが気に入るのが手に入れられないのです。紙っきれに御自分の注文を書いて、それを階段の上に投げ出しておくというのが、時々あの方の、というのは御主人のことですが――癖でした。この週はそればっかりだったのです。ただ紙ばかり出してあって、ドアは閉めっきりで、食事さえそこに出しておくと誰も見ていない時にこっそりと持ち込む、といった風なんで。でね、旦那さま、毎日毎日、いや、一日に二度も三度も、注文や小言が出まして、私はロンドンじゅうの薬問屋を駆けずり回されているのでございます。私が薬品を持って帰る度ごとに、いつもきまって、これは純粋の品ではないから返して来いという紙と、別の店への注文が出るのでした。その薬が、何のためですか、旦那さま、とてもひどく入用なようでございます。」
「その紙というのをおまえはどれか持っているかね?」とアッタスン氏が尋ねた。
 プールはポケットの中を探って一枚の皺くちゃになった手紙を手渡した。それを弁護士は蝋燭の近くに身をこごめて注意深くしらべた。その内容はこうなっていた。「ジーキル博士はモー商会に申し入れます。モー商会の今度の見本は不純品でJ博士の目下の目的には全く役には立ちません。一八――年にJ博士はM商会からかなり多量を購入したことがあります。どうか最も念入りに注意して探しだし、同じ品質の物が多少でも残っていましたなら、それをすぐにJ博士の所に送って下さい。費用は問題でありません。J博士にとってこの薬品はこの上もなく重要なものなのです。」ここまでは手紙はすこぶる落着いて書いてあったが、ここでペンが急に走り書きになって、筆者の感情が抑え切れなくなっていた。「後生だから、私にあの前の品を少し見つけてくれ、」と付け加えてあった。
「これは妙な手紙だ、」とアッタスン氏が言った。それから、きつく「どうしておまえはこれを開けたのだね?」と言った。
「モー商会の男が大変に腹を立てましてね、旦那さま、それをまるで紙屑のように私に投げ返したのでございます、」とプールが答えた。
「これはたしかに博士の筆跡ではないか?」と弁護士が言葉を続けた。
「私もそうらしいと思いました、」と召使はすこしむっつりして言った。それから声の調子を変えて「けれども筆跡なぞ何でしょう?」と言った。「私はあの人を見たんですもの!」
「あの人を見たと?」アッタスン氏はきき返した。「それで?」
「それなんですよ!」とプールが言った。「それはこういう訳なのでございます。私は庭から階段講堂へいきなり入ったことがありました。すると、あの人がその薬かそれとも何かを探しにこっそり出て来ていたらしいのです、といいますのは、書斎のドアが開いていまして、あの人がその室のずっと向うの端で編みかごの間をしきりに探していたからで。私が入って参りますと顔を上げ、何か叫び声のような声を立てて、二階の書斎へ駆け込んでしまいました。私があの人を見たのはほんの一分間くらいのものでしたが、私はぞっとして髪の毛が頭に突っ立ちました。ねえ、旦那さま、もしあれが私の主人でしたなら、なぜ顔に覆面なんぞをしていたのでしょう? もし私の主人でしたなら、なぜ鼠のような叫び声なぞを立てて、逃げて行ったのでしょう? 私はあの方にずいぶん永らく御奉公しております。それに……」とその男はここで言葉を切って、片手で顔をこすった。
「これは何もかも非常に妙なことばかりだ、」とアッタスン氏が言った。「しかしどうやら僕にはわかりかけたような気がする。おまえの御主人はな、プール、きっと、病人を非常に苦しめて、顔かたちも変えるというあの病気の一種に罹られたのだ。そのために、多分、声が変っているのだろうと思う。そのために覆面をしたり友人を避けたりしているのだろう。そのためにその薬をしきりに探して、その薬で、可哀そうに、あの男はどうにか回復しようという望みを持っているのだろう、――どうかその望みがかなえばいいが! これが僕の解釈だ。ずいぶん痛ましいことだがなあ、――プール、考えてもぞっとするようなことだ。しかしこう考えればはっきりわかって自然だし、ちゃんと辻褄が合って、いろんな途方もない恐れを抱くこともいらなくなるよ。」
「旦那さま、」と召使頭は顔色を斑な紫色に変えながら言った、「あの者は私の主人ではございませんでした。ほんとでございます。私の主人は――」とここで彼はあたりを見回して、それから声をひそめて言い出した――「背の高い立派な体格のかたですが、その男はずいぶん小男でございました。」アッタスンは抗議しようとした。「まあ、旦那さま、」とプールが大声で言った。「あなたは私が二十年も奉公していて自分の主人がわからないとお思いになるのですか? 御主人の頭が書斎のドアのところでどの辺まで来るか、これまでずっと毎朝毎朝そこで見ていながら、それがわからないとお思いになるのですか? いいえ、旦那さま、覆面をしていたあの者は決してジーキル博士ではございませんでした、――何者だったかということは神さまだけがご存じです、決してジーキル博士ではございませんでしたよ。で、人殺しがあったのだということは私は心から信じているのです。」
「プール、」と弁護士が答えた。「おまえがそう言うなら、確かめるのが僕の義務になってくる。僕はおまえの御主人の気を悪くしたくないのは山々だし、この手紙を見ると御主人はまだ確かに生きておられるようで大変迷うのだが、私はあのドアを押し開けて入るのを自分の義務と考えよう。」
「ああ、アッタスンさま、それはごもっともです!」と召使頭が叫んだ。
「ところで第二の問題だが、」とアッタスンが言葉を続けた。「誰がそれをすることにするかね?」
「なあに、旦那さまと私で、」という臆しない返答だった。
「よく言ってくれた、」と弁護士が答えた。「で、どんなことになろうと、きっとおまえに迷惑はかけないようにしてやろう。」
「階段講堂に斧が一梃ございます、」とプールは続けて言った。「それから旦那さまは台所の火掻きを御自分でお持ち下さいまし。」
 弁護士はその不細工な、しかし重い道具を手に取って、振り動かしてみた。「おまえはね、プール、」と彼は顔を上げて言った。「おまえと僕とは多少危険なところへ入ろうとしているのだということを知っているかね?」
「さようでございますとも、旦那さま、」と召使頭が答えた。
「ではな、我々は包み隠しをしない方がよい、」と相手が言った。「我々は二人とも心に思っていることをみんなまだ口に出して言っていないのだ。すっかりうち明けて話すとしようじゃないか。そのおまえの見たという覆面をした男だが、おまえはその男に見覚えがあったかね?」
「さようでございますね、何しろそれは大へん素速く逃げて行きましたし、そいつはひどく体を折り曲げておりましたので、そのことははっきり申し上げることはできません、」という返事であった。「けれども、それはハイドさんではなかったか? と旦那さまがおっしゃるおつもりなら、――そうですね、さよう、そうだったと私は思いますんで! 体の大きさも大体同じくらいですし、素ばしこくて身軽な様子も同じでしてねえ。それに、ほかの誰が実験室の戸口から中へ入ることができましょう? あの人殺しの時にもあの人はやっぱり鍵を持っていたということは、旦那さまもお忘れではございませんでしょう? でもそれだけじゃありません。アッタスンさま、あなたさまがいつかあのハイドさんにお会いになったことがおありかどうか私は存じませんが?」
「うん、僕は一度あの男と話したことがある、」と弁護士が言った。
「それなら、あなたさまも私どもみんなと同じように、あのお方には何となく変なところが――何となく人をぎょっとさせるところが――あったということをご存じに違いありません。それを何と言ったらいいか、こう言うよりほかには、私にはよくわからないのですが、――骨の髄までも何だかぞっとするようなところですね。」
「僕も実はおまえの言うような気持がしたよ、」とアッタスン氏が言った。
「全くさようですよ、旦那さま、」とプールが答えた。「ところで、その猿のような覆面をした者が薬の間から跳び出して書斎の中へ駆けこみました時に、その感じが氷のようにぞっと私の背骨を通ったのでございます。おお、そんなことは証拠にゃならないということは知っていますよ、アッタスンさま。それっくらいのことは私もちゃんと存じております。しかし人には感じというものがございます。で、あれがハイドさんだったということは、私は聖書にかけても誓いますよ!」
「なるほど、なるほど、」と弁護士が言った。「僕もどうもそうじゃないかと思う。あの二人の関係から、よくないことが出来たのだろう、――よくないことが起こるにきまっていたのだ。なるほど、全く、おまえの言う通りだと思う。気の毒にハリーは殺されたのだと僕も思う。そして彼を殺害した者は(何のためだか、神さまだけしかご存じではないが)まだその被害者の部屋に潜んでいるのだと思う。よし、我々は復讐をしてやろう。ブラッドショーを呼んでくれ。」
 その馬丁は呼ばれて真っ蒼になってびくびくしながらやってきた。
「しっかりするんだ、ブラッドショー、」と弁護士が言った。「こういうどっちつかずの有様がお前たちみんなを怖がらせているんだよ。だが今我々はこんな有様にけりをつけようと思っているのだ。ここにいるプールと僕とがこれから書斎へ押し入るつもりだ。もしみんながよければ、僕が一切の責任を負うてやる。その間、何かへまをしたり、犯人が裏口から逃げ出したりするといけないから、おまえとあのナイフ研ぎのボーイとは丈夫な棒を一本ずつ持って、角をまわって、実験室の戸口のところで張番をしていなければならない、おまえたちがその部署につくまで、我々は十分間待つとしよう。」
 ブラッドショーが立去ると、弁護士は自分の懐中時計を見た。「さあ、プール、我々も部署につこう、」と彼は言って、火掻きを小脇に抱えて、先に立って裏庭へ出た。風に吹かれて飛ぶ雲がちょうど月をおおっていて、そのときは真っ暗であった。建物にかこまれて深い井戸のようになっている裏庭には、ときどき隙間風が吹き込んできて、蝋燭の光を二人の足もとへあちこちと揺り動かした。やがて彼らは風の当らない階段講堂へ入ると、黙ったまま腰を下ろして待った。ロンドンのどよめきは重々しく四方から聞こえていた。しかしあたりは静かで、ただ書斎の床をあちこちと歩き回っている足音だけがきこえていた。
「ああして一日中歩いているのですよ、」とプールが囁いた。「いいえ、昼間ばかりか、夜も大抵はああなのでございます。ただ薬屋から新しい見本が参りました時だけ、ちょっとやむのです。ああ、あんなにまで落着けないのは良心が咎めるからですよ! ああ、旦那さま、あの一歩一歩に人殺しをして流した血があるんですよ! だがもう一度聴いてごらんなさいまし、もう少し近くへ寄って、――ようく耳を澄ましてごらんなさいまし、アッタスンさま。あれが博士の足音でございましょうか?」
 その足音は、非常にゆっくり歩いていたにも拘らず、威勢のよい調子の、軽やかな奇妙なものであった。ヘンリー・ジーキルの重々しい軋むような足取りとは全く違っていた。アッタスンは溜息をついた。「ほかに何も変ったことはないかね?」と彼は尋ねた。
 プールはうなずいた。「一度、」と彼が言った。「一度私はあれが泣いているのを聞きました!」
「泣いていた? それはどうした訳で?」と弁護士は急に恐怖の寒気を覚えながら言った。
「女か、それとも地獄へ堕ちた亡者みたいに泣いておりました、」と召使頭が言った。「それを聞いて戻って来ますと、それが心に残って、私までも泣きたくなるくらいでした。」
 しかしその時、約束の十分も終りかけていた。プールは積み重ねてある荷造り用の藁の下から斧を引き出した。蝋燭は、攻撃にかかる二人を照らすために、一番近くのテーブルの上に置かれた。そして二人は、夜の静けさの中を、あの根気強い足首がやはり往ったり来たり、往ったり来たりしているところへと、息を殺してちかよって行った。
「ジーキル、」とアッタスンが大声で呼んだ、「僕は君に会いたいのだ。」彼はちょっと言葉を切った。が何の返事もなかった。「僕は君にはっきり警告するが、我々は疑いを起こしたのだ。それでわたしは君に会わなければならんし、また会うつもりだ、」と彼は言葉を続けた。「もし正当な手段で会えなければ、非常手段ででも、――もし君の同意がなければ、暴力を用いてでもだ」
「アッタスン、」とさっきの声が言った、「後生だから、ゆるしてくれ!」
「ああ、あれはジーキルの声じゃない、――ハイドの声だ!」とアッタスンが叫んだ。「ドアを打ち破れ、プール。」
 プールは斧を肩の上にふり上げた。打ち下ろすと建物がゆれ動き、赤い粗羅紗を張ったドアは錠と蝶番とに当って跳ね返った。まるで動物的な恐ろしい叫び声が書斎から響きわたった。斧が再びふり上げられ、再び鏡板ががあんと音を立て枠板が跳ね返った。こうして四度打ち下ろされたが、木は堅かったし、取付けの器具は丈夫に出来ていた。それで五度目になってやっと、錠がばらばらに打ち砕け、ドアの壊れたのが内側の絨毯の上に倒れた。
 攻めかかった二人は、自分たちのやった乱暴と、その後の静けさとにぞっとして、ちょっと後へ下って覗きこんだ。彼らの眼の前には、静かなランプの光に照らされた書斎があった。暖炉には気持のよい火がぱちぱち音を立てて真っ赤に燃えていた。湯沸しは低い調子で歌を歌っていた。ひきだしが一つ二つ開いていたし、事務用のテーブルの上には書類がきちんと並べてあった。炉の近くには、茶道具があって茶を入れる用意がされていた。もしこの室に、薬品の一杯入っていた硝子張りの戸棚さえなかったなら、その夜ロンドン中でも一番静かな室とも、また一番平凡な室とも言えたろう。
 室のちょうど真ん中に、ひどく※(「てへん+丑」、第4水準2-12-93)じ曲ってまだぴくぴく動いている一人の男の体が横たわっていた。二人は爪先を立てて近寄り、それを仰向きにすると、見えたのはエドワード・ハイドの顔であった。彼は、自分には大分大き過ぎる、博士の着るくらいの大きさの衣服を着ていた。顔面神経はまだ生きているもののように動いていた。が生命は全くなくなっていた。そして、片手に持っている割れた薬びんと、空中に漂っている苦扁桃水の強い臭いとによって、アッタスンはそこに倒れているのが自殺者の死体であることを知った。
「我々は来るのが遅過ぎた、救うにしても罰するにしてもだ、」とアッタスンはいかめしい口調で言った。「ハイドは死んでしまった。あとはもうおまえの御主人の死体を探し出すことだけだ。」
 その建物の大部分は、階段講堂と、書斎とで占められていた。階段講堂は殆ど一階全部をふさぎ、上から明りを取ってあったし、書斎は二階の一方の端にあって、あの路地に面していた。階段講堂と例の横町の戸口とは廊下でつながり、その戸口と書斎とは別にもう一つの階段で通じていた。そのほかには暗い物置が二つ三つと、広い穴蔵が一つあった。今二人はこれをみんな綿密に調べた。物置はどれも一目見ればよかった。というのは、どれもみんな空っぽだったし、どれもみんな戸から埃が落ちてくるのを見ても、永いこと開けずにおいてあったことがわかったからである。穴蔵は、ほとんどがジーキルの前に住んでいた外科医時代からのものである、壊れかけたがらくた物で一杯になっていた。けれども、戸を開けただけで、幾年も入口を閉ざしていたまるで莚のような蜘蛛の巣が落ちてきたので、それ以上搜してみても何にもならないことを知らされた。生きているにしろ死んでいるにしろ、どこにもヘンリー・ジーキルのあとかたもなかった。
 プールは廊下の板石を踏んでみた。「あの方はここに埋められておいでになるに違いありません、」と彼はその音に耳を傾けながら言った。
「それとも逃げたのかも知れない、」とアッタスンは言い、そして横町の戸口を調べに行った。戸には錠が下りていた。そしてすぐ傍らの板石の上に、二人はとっくに錆びている鍵を見つけた。
「これは使えるようには見えないな、」と弁護士が言った。
「使えるですって!」とプールは鸚鵡返しに言った。「壊れているではございませんか、旦那さま? まるで人が踏みつけでもしたように。」
「ああ、ああ、」とアッタスンは言葉を続けた。「それに、折れたところまで錆びている。」二人はぎょっとしてお互いに顔を見合わせた。「これは僕にはわからないよ、プール、」と弁護士が言った。「書斎へ引返すとしようじゃないか。」
 二人は黙々として階段を上り、そしてなおも、ちょいちょい死体を恐ろしそうにちらりと見ながら、書斎の中にある物を前よりももっと綿密に調べにかかった。一つのテーブルには、化学上の仕事をしていた形跡があり、いろいろの分量の白い塩のようなものが幾つも硝子皿に盛ってあって、その不幸な男が実験をしようとしているところを妨げられたかのようであった。
「あれは私がいつも持って参りましたのと同じ薬でございます、」とプールが言った。ちょうど彼がそう言った時に、湯沸しがびっくりするような音を立てて煮えこぼれた。
 それで二人は炉辺へ行った。そこには安楽椅子が心地よさそうに引き寄せてあり、茶道具が椅子に掛ける人の肱のところに用意してあって、砂糖までも茶碗の中に入れてあった。書棚には本が何冊もあって、一冊は茶道具の傍らに開けたままになっていた。それがジーキルがかねて幾度も激賞したことのある信仰についての書物で、それに彼自身の手跡で、神への驚くべき不敬の言葉が書き込んであるのを見て、アッタスンは非常に驚いた。
 それから、二人がその部屋を調べているうちに、姿見鏡のところへやって来て、思わずぞっとして鏡の奥をのぞき込んだ。しかし、鏡のむき工合で、ただ、天井にちらちらしている薔薇色の光と、戸棚の硝子戸に幾つにもなって映っているきらきら光る炉火と、屈んでのぞき込んでいる自分たちの蒼ざめた恐ろしげな顔とのほかには、何も映って見えなかった。
「この鏡はいろいろ不思議なことを映したのでございますよ、旦那さま、」とプールが囁いた。
「それに、こんな鏡があるということが確かに何よりも不思議だよ、」と同じ調子で弁護士が言った。「なぜって言えば、一たい何だってジーキルは、」――彼はその言葉にぎょっとして止めたが、やがてその気の弱さに打ち勝って、「一たい何だってジーキルはこんなものが必要だったのだろう?」と言った。
「全くさようでございますねえ!」とプールが言った。
 次に彼らは事務用テーブルの方へ行った。その机の上には、きちんと並べた書類の中に、一通の大きな封筒が一番上にあって、それには博士の筆跡でアッタスン氏の名が書いてあった。弁護士がそれを開封すると、数通の封入書が床に落ちた。第一のは遺言書で、六カ月前に彼が返したのと同一のあの奇妙な条件で作られ、博士の死亡の場合には遺言状となり、失踪の場合には財産贈与証書となるものであった。しかし、エドワード・ハイドという名の代りにゲーブリエル・ジョン・アッタスンという名が書いてあるのを見て、弁護士は言うに言われぬほど驚いた。彼はプールを見、それからまたその証書を見、最後に絨毯の上に横たわっている犯罪者の死体を見た。「頭がぐらぐらする、」と彼が言った。「この男はこのあいだじゅうずっとどうかしていたのだ。この男が僕を好く訳がない。自分の名前を僕の名前に書き換えられているのを見て非常に怒ったはずだ。それだのにこの証書を破り棄てていないのだからね。」
 彼は第二の書類を取り上げた。それは博士の筆跡の簡単な手紙で、一番上に日付が書いてあった。「おや、プール!」と弁護士は叫んだ。「博士は生きていたのだ、今日ここにいたのだ。そんな暫くの間に殺されてしまうはずがない、まだ生きているに違いない、逃げたに違いないよ! とすると、なぜ逃げたんだろう? 逃げたとすると、我々はこの自殺を発表してもよいだろうか? うむ、我々は慎重にならねばならん。うっかりすると、おまえの御主人を何か恐ろしい災難の中へ巻き込むようなことになるかも知れないぞ。」
「どうしてそれをお読みにならないんですか、旦那さま?」とプールが尋ねた。
「恐ろしいからだ、」と弁護士は重々しい口調で答えた。「どうか恐ろしがる理由なぞがありませんように!」そう言うと彼はその手紙を眼のところへ持って行って、次のように読んだ。――
「親愛なるアッタスン。――この手紙が君の手に入る時には私は失踪しているでしょう。どういう事情によってかは私には予想することはできないが、しかし、私の直覚と、私の言い表わしようのない境遇のすべての事情とは、もう終りが確実で、しかも間近いということを私に告げるのです。その時には、行って、先ずラニョンが君の手に渡すと私に予告していた手記を読んでいただきたい。そして、もし君がもっとよく知りたいと思うならば、私の告白を読んで下さい。
君の価値なき不幸なる友、
ヘンリー・ジーキル。」

「もう一つ封書があったね?」とアッタスンが尋ねた。
「ここにございます、旦那さま、」とプールが言って、数カ所で封じてあるかなりの包みを彼の手に渡した。
 弁護士はそれをポケットに入れた。「僕はこの書類については一切しゃべらぬつもりだ。おまえの御主人が逃げられたにしても死んでおられたにしても、我々は少なくともあの人の評判を傷つけぬようにすることができるのだ。今は十時だ。僕は家へ帰って落着いてこの記録を読まなければならん。しかし十二時前には戻ってくる。それから警察へ届けることにしよう。」
 二人は階段講堂のドアに錠を下ろして、外へ出た。そしてアッタスンは、広間の暖炉のあたりに集まっている召使たちをもう一度あとに残して、今こそこの謎をいよいよ明らかにするであろう二つの手記を読むために、自分の事務所へとぼとぼと帰っていった。

ラニョン博士の手記


 今から四日前の一月九日に、私は夕方の配達で書留の手紙を一通うけ取ったが、それには私の同僚であって、古い同窓であるヘンリー・ジーキルの手跡で宛名が書いてあった。私は非常に驚いた。なぜなら、我々はふだん手紙をやりとりする習慣はまるでなかったし、実は、私はその前夜、彼と会って、彼と一しょに食事をしたのだし、我々の交際では書留などという固苦しい形式をとるようなことは、何一つ考えられなかったからである。その内容となるとますます私は驚かされた。その手紙にはこう書いてあったからである。――

「一八――年十二月十日。
 親愛なるラニョン君、――君は私の最も古くからの友人の一人なのです。そして、我々は科学上の問題では時によって意見の違ったこともあったかも知れないが、我々の友情がとぎれたことは少なくとも私の方では思い出すことができないのです。もし君が私に向って『ジーキル、私の生命も、私の名誉も、私の理性も君だけを力にしているのです』と言ったなら、私が君を助けるために自分の財産も、自分の左腕もみな犠牲にしようとしなかった日は、一日だってなかったでしょう。ところが、ラニョン君、今こそ、私の生命も、私の名誉も、私の理性もすべて君の心まかせなのです。もし君が今夜、私の言うとおりにしてくれなければ、私は破滅するだけです。こんな前置きを並べると、君は、引きうけたなら何か不名誉になるようなことを、私が君に頼もうとしているのだと想像なさるかも知れないが、それは君自身で判断して下さい。
 私は、君に今夜だけは他のあらゆる用事を延期して貰いたいのです、――さよう、もし君が国王の枕頭に招かれたとしてもです。そして、君の馬車がいま戸口にいなければ、辻馬車を雇って下さい。そして、参考のためにこの手紙をもって、まっすぐに私の家へ馬車を走らせて貰いたいのです。私の召使頭のプールにはいいつけてあります。彼は錠前屋と一しょに君の来るのを待っているでしょう。それから私の書斎のドアをこじ開けることになっているのです。そして、君はひとりで入って行って、左手の硝子張りの戸棚(E文字の)を、もし鍵がかかっていたら錠を壊して開け、上から四番目の、あるいは(同じことだが)下から三番目のひきだしを、その中身をすべてそのままに、抜き出して下さい。私はひどい心痛のために君に指図を誤りはしないかと、病的な不安を感じています。しかし、たとえ私の言葉が間違っているにしても、君はその中身でそのひきだしを知ることができましょう。散薬と、一つの薬びんと一冊の手帳とが入っているのです。そのひきだしをそっくりそのままキャヴェンディッシュ広辻スクエアに持って帰って頂きたいのです。
 これがお願いの第一の部分ですが、今度は第二の部分です。君がこの手紙を読んですぐ出掛けてくれるなら、夜の十二時よりずっと前に戻れるでしょう。が、それだけの時間の余裕を残しておくことにしましょう。それは、避けることも予想することもできないような障害を気づかうからばかりでなく、君の召使たちが寝てしまった時刻が、それから後にすることになっていることに都合がよいからです。それで、十二時に、君はひとりで君の診察室にいて、私の代理で訪ねて行く男を、君自身で家の中へ通し、君が私の書斎から持ってきたひきだしをその男に渡して下さい。それだけすれば、君は君の役目を果してしまう訳で、私は心から感謝いたします。もし君がどうしても説明が聞きたければ、それから五分間もたてば、これらの手筈が大へん重要なものであること、その手筈がいかにも奇異なものと思われるかもしれないが、それを一つでもはぶいたならば、私が死ぬか私の理性が破滅するかして、君の良心が苦しめられることになるだろうということが、君に理解されるようになるでしょう。
 君がこの願いを軽んずるようなことはしないだろうと確信してはいますが、万一にもそんなことがありはしまいかと思っただけでも、私は心が沈み手が震えるのです。どうか今、私のことを考えてみて下さい。ある妙なところにいて、どんな空想もとどかないほどの暗い苦痛に悩んでいるのです。しかも、もし君がちゃんと私の頼みをきいてくれさえするならば、私の苦しみは一息ひといきのように過ぎ去るだろうということを、よく知っているのです。どうか私の頼みをきいていただきたい、親愛なるラニョン君よ、そして私を救って下さい。
君の友人なる
H・J

 追伸。これをはや封じてしまってから、また新しい恐怖が私の心に起こりました。郵便局の都合で私の思う通りにならず、この手紙が明朝まで君の手に届かないということも、ないともかぎりません。その場合には、ラニョン君、明日中の君に最も都合のよい時に、私の頼んだ用事をして下さい。そして、夜の十二時にもう一度私の使いの者を待って下さい。が、その時はもう遅過ぎるかも知れません。そしてもしその夜が何事もなく過ぎれば、君はもうヘンリー・ジーキルに会うことはないものと思って下さい。」

 この手紙を読んで、私は私の同僚が気が違ったのだと思いこんでしまった。しかし、そのことが疑いの余地がないということが証明されるまでは、私は彼の頼んだ通りにしてやらなければならないと思った。このごたごたしたことを理解しなければしないだけ、私はそれの重要さを判断することができない訳だし、こんなにまで書いてきた願いを捨てて置いたなら重大な責任を負わなければならないことになる。そこで私はテーブルから立ち上って、貸馬車に乗り、まっすぐにジーキルの家へ走らせた。召使頭は私の着くのを待っていた。彼も私のと同じ書留郵便で指図の手紙を受け取り、すぐに錠前屋と大工とを呼びにやったのだった。我々がまだ話しているうちにその職人たちがやって来た。それで我々は一緒に、もとデンマン博士の外科の講堂だった建物へと入って行った。ジーキルの私室へ入るには(君も無論知っているように)そこからが一番便利である。ドアはごく丈夫で、錠は上等のものであった。もし無理に開けようとすれば、なかなか厄介だろうし、ひどく破損させなければなるまいと、大工は言った。それに錠前屋も殆どあきらめかかった。しかしこの錠前屋の方は器用な男だったので、二時間もやってみたところ、ドアは開いた。Eという記号のついている戸棚の錠を開け、そのひきだしを取り出して、それに藁を一杯に詰め、敷布に包んで、それをキャヴェンディッシュ広辻スクエアへ持ち帰って来た。
 家へ帰ってから私はその中身を調べにかかった。散薬はかなり手際よく包んであったが、調剤師のやるようなきちんとしたのではなかったので、ジーキルの手製のものであることは明らかであった。その包みの一つを開けて見ると、白色の純粋な結晶塩のように思われるものが入っていた。次に薬びんに注意すると、それには血のように赤い液体が半分ばかり入っていた。とても嗅覚を刺激する液体で、燐と何かの揮発性のエーテルとが含まれているように、私には思われた。その他の成分は私に考えつかなかった。帳面というのは普通の練習帳で、日づけが続けて記してある以外には殆ど何も書いてなかった。この日づけは幾年もの間にわたっていたが、しかし、私はその記入がかれこれ一年ほど前のところでばったりと止まっているのに気がついた。ところどころに簡単な言葉が日づけに書きこんであって、大抵はほんの一語に過ぎなかった。総計数百の記入の中で「二倍」というのがたぶん六回ほどあったろう。また、そのリストのごく初めの方に、幾つもの感嘆符号を付けた「全くの失敗※[#感嘆符三つ、77-3]」というのが一回あった。このすべてのことは、私の好奇心を刺激しはしたが、はっきりしたことはまるで解らなかった。ここに、何かのチンキの入った薬びんと、何かの塩剤の入った紙包みと、何ら実際の役に立たなかった(残念ながらジーキルの研究の多くのものと同様に)ところの一連の実験の記録とがある。私の家にこういう品物のあることが、一体どうして私の気まぐれな同僚の名誉なり、正気なり、生命なりに影響するというのだろうか? 彼の使いの者が私のところへ来ることができるならば、なぜその者は彼のところへは行けないのだろうか? それには何かの差しつかえがあるとしたところで、なぜその紳士は私によって密かに迎え入れられなければならないのか? 私は考えれば考えるほど、相手が脳病患者であると確信するようになった。それで私は召使たちを寝させてしまったが、正当防衛ができるようにと一梃の古い連発銃に弾をこめた。
 十二時の鐘がロンドンの空に鳴りわたるかわたらないに、ノッカーが戸口のところでごく静かにこつ、こつと耳を立てた。それにこたえて私が自分で行って見ると、一人の小男が玄関の円柱によりかかって屈んでいた。
「ジーキル博士のところから来たのですか?」と私は尋ねた。
 その男は気詰りそうな身振りで「そうです、」と言った。そして私が中へ入れと言うと、その男は振り返って広辻スクエアの闇の方をちらりと探るように見てから、私の言うことを聞いた。そう遠くないところに一人の巡査が角灯を照らしながらやって来た。それを見ると、私の訪問者はぎょっとして一そう急いで入ったように私には思われた。
 こういう一々のしぐさは、実際のところ、私に不快の感を与えた。それで、彼について診察室の明るい光のところへ行くまで、私は絶えず自分の武器に手をかけるようにしていた。診察室へ来ると、やっと、その男をはっきりと見ることが出来た。私はそれまで一度もその男を見たことがなかった。それだけは確かだった。前にも言ったように、その男は小男であった。その上、私に強い印象を与えたのは、ぞっとするような彼の顔つきと、非常な筋肉の活動力と、ちょっと見ても非常に虚弱な体質との異常な結合と、それから――最後に、と言っても前のに劣らないのだが――彼の近くにいると何となく妙な不安を感ずることであった。これは悪寒の初期の症状に幾らか似ていて、脈搏のひどい衰えが伴った。その時は、私はそれを何かある特異質の個人的な嫌悪のためだと考え、ただその徴候のひどいのを不審に思っただけだったが、その後、その原因が人間の本性にもっとずっと深く存在して、憎悪の原理よりももっと崇高な、何かの原則によるものだと信ずるようになったのである。
 この男は(入って来た最初の瞬間から、厭らしい好奇心とでも呼ぶよりほかには言いようのない気持を私に起こさせたのであるが)、普通の人が着ていたなら、とてもおかしいような風に衣服を着ていた。というのは、彼の衣服は、服地こそ贅沢でじみなものではあったが、どの部分の寸法もみな彼には恐ろしく大き過ぎて、――ズボンは脚にだぶだぶぶら下り、地面に引きずらぬように巻くり上げてあるし、上衣の腰のところは臀の下まで来ているし、カラーは肩の上にぶざまに拡がっているのだ。ところが不思議なことには、この滑稽な服装を見ても、私は笑う気になるどころではなかった。いや、むしろ、いま私とむき合っている人間の本質そのものには何か病的な、普通でないところが――何か強い印象を与える、不思議な、胸を悪くするようなところが――あるので、この鮮やかな不釣合はそれと調和し、それを強めるだけのように思われた。だから、その男の性質や性格に対する私の興味に、更にその男の素姓、その生活、その財産や、社会における身分などを知りたいという好奇心までも加えられたのであった。
 こういう観察は、それを書き記すにはずいぶん長くなったが、ほんの数秒の間にしたことであった。私の訪問者は、実際、陰気な興奮に燃えていた。
「あれを持って来てくれましたか?」と彼は叫んだ。「あれを持って来てくれましたか?」そして彼はじれったくてたまらなくて、手を私の腕にかけて私を揺すぶろうとしさえした。
 私は彼に触られると血が凍るような感じがして、彼をおし除けた。「まあ、君、」と私は言った、「わたしはまだ君とお近付きになってはいないということを君は忘れておられる。どうか、お掛けなさい。」そして私は彼に手本を示して自分のいつもの座席に腰を下ろし、患者に対する自分のいつもの態度をできるだけ装ったが、時刻も遅かったし、先入主もああいう風であったし、その訪問者に対する恐怖感もあったので、十分いつものような態度はとれなかった。
「どうも失礼いたしました、ラニョン博士、」と彼は大へん丁寧に答えた。「あなたのおっしゃることはいかにももっともです。気がせいていたものですから、つい無作法をいたしました。わたしはあなたの御同僚のヘンリー・ジーキル博士の依頼で、ちょっと重大な用事でこちらへ参ったのです。で、きっと……」と彼はちょっと言葉を切って、片手を自分の喉にあてた。そして、その落着いた態度にも拘らず、病的興奮の発作の起ころうとするのを抑えているのが私にはわかった。――「きっとひきだしが……」
 しかし、この時、私はその訪問者の不安な気持が気の毒になり、またたぶん自分自身の好奇心がだんだん高まってくるのをいくらか満足させたくなった。
「そこにありますよ、」と私は言って、例のひきだしを指さした。そこにはそれがまだ敷布におおわれたままテーブルのうしろのゆかの上にあった。
 彼はそれに跳びかかった。それからちょっと立ち上り、片手を胸にあてた。顎がひきつって歯がぎしぎし軋るのが聞こえた。顔は見るももの凄くなったので、私は彼が死にはしまいか、また気が狂いはしまいかと驚いたほどであった。
「まあ、気を落着けなさい、」と私は言った。
 彼は私に恐ろしい微笑を向けた。そして捨鉢の決心を固めたかのように、敷布を引き除けた。その中身を見ると、彼はひどく安心したらしく、大きなしゃくりあげるような声を出したので、私はびっくりして坐ったまま身動きもできなくなった。次の瞬間には、もうよほど落ちついた声になって、「メートル・グラスがありますか?」と彼は尋ねた。
 私はやっとのことで座席から立ち上り、彼の求めるものを渡してやった。
 彼はにっこり頷いて礼を言い、あの赤色のチンキを数滴、分量をはかって入れ、それに一包みの散薬を加えた。最初は赤味を帯びた色であったこの混合物は、結晶塩が溶けるにつれて、色が鮮やかになり、ぶつぶつと音を立てて泡立ち、少量の水蒸気を発散しだした。と同時に、その沸騰が止んで、その化合物は暗紫色にかわり、それがまた前よりは少しずつ薄い緑色に色があせていった。こういう変化を鋭い目で見つめていた私の訪問者は、にやりと笑って、メートル・グラスをテーブルの上に置き、それから振り向いて、探るような様子で私を見た。
「ところで今度は、」と彼が言った、「残っていることを片づけるとしましょう。君は知りたいですか? 君は教わりたいですか? 君は私にこのグラスを手に持ってこれきり何も話をせずにこの家から出て行かせるつもりですか? それとも好奇心が強くて聞かずにはいられないのですか? よく考えてから返事して下さい。君の決める通りにしますから。君の決め方によって、君を前のままに残しておいて上げよう。前よりも富むのでもなく前よりも知識があるのでもなくしておいて上げよう。死ぬような苦しみをしている人間に尽力をしてやったという意識が一種の精神上の富と見なされるのでなければですがね。それともまた、もし君がその方を望むならば、知識の新しい領域や、名声や権力をうる新しい大道を、たちどころに、ここで、この部屋で、君の前にひろげてみせて上げよう。魔王の不信仰をも揺るがせるような奇怪なものを見せて、君の眼を眩ませて上げよう。」
「君、」と私は、冷静さをほんとうには持っているどころではなかったが、強いてそれを装って言った、「君は謎のようなことを言われる。わたしが君の言葉を大して信用しないで聞いていると言っても君はたぶん不思議にも思われはしないだろう。しかし、わたしも訳のわからぬ御用をここまでして深入りしたんですから、おしまいまで見せて貰うことにしましょう。」
「よろしい、」とその訪問者が答えた。「ラニョン君、君は自分の誓ったことを覚えているでしょうな。これからのことは我々の職業上秘密を守るべきことなのです。さあ、君は永いあいだ実にかた意地な唯物的な見方にとらわれてきたが、そして霊妙な薬の効能を否定して、自分の目上の者たちを嘲笑してきたが、――これを見給え!」
 彼はメートル・グラスを口にあてると、ぐっと一息に呑み下した。すると叫び声をたてて、ひょろひょろとよろめき、テーブルを掴まえてしっかとしがみついたまま、血走った眼でじっと見つめ、口を開けて喘いだ。見ているうちに変化が起こったように私は思った。――彼は膨れるように見え、――彼の顔は急に黒くなり、目鼻立ちが融けて変ったように思われ、――そして次の瞬間には、私は跳び立って壁に凭れかかり、その怪物から自分の身を護ろうと腕を上げ、心は恐怖で一ぱいになった。
「おお、これは!」と私は叫び、そして二度も三度も「おお、これは!」とくり返した。それは、私の眼の前に――色蒼ざめてぶるぶる震え、半ば気を失い、死から蘇った人のように手で前方を探りながら――ヘンリー・ジーキルが立っていたからである!
 それから一時間ばかりの間に彼が私に物語ったことは、私はとても書く気になれない。私は確かに見、確かに聞いたのであり、私の心はそのために病んだ。しかしながら、そのとき見たことが私の眼から消えてしまった今、そのことを信ずるかと自分に尋ねてみると、私は答えることができない。私の生命は根こそぎ揺り動かされている。睡眠は私を見棄ててしまった。最も烈しい恐怖が昼も夜も絶えず私の傍を離れない。私は自分の余命が幾らもなく、自分が死ななければならないことを感ずる。しかも私は信じられぬままで死ぬであろう。あの男が悔悟の戻さえ流しながら私にうち明けた悖徳行為については、思い出してもぞっとする。私は一つのことだけ言っておこう、アッタスン、そしてそれだけで(もし君がそれを信ずる気になれれば)十分であるだろう。その夜、私の家へ忍び込んで来たかの人間は、ジーキル自身の告白によれば、ハイドという名で知られ、カルーの殺害者として全国の隅々までも搜索されている男なのであった。
ヘースティー・ラニョン。

この事件に関するヘンリー・ジーキルの委しい陳述書


 私は一八――年に大財産の相続者として生まれた。その上すぐれた才能を恵まれ、生まれつき勤勉な性質で、わが同胞の賢明な人や善良な人を尊敬することを好んだ。だから、誰にでも想像されるように、名誉ある、すばらしい将来を十分に保証されていた。だが、実のところ、私の一ばん悪い欠点は抑えることのできない快楽癖だった。それは、多くの人たちを楽しませもしたが、また、気位が高くて世間の前では人並以上にえらそうな顔をしていたいという私のわがままな欲望とは、折合い難いものであった。そのために、私は自分の遊楽を人に隠すようになり、分別のある年頃になって、自分の周りを見回し、世間での自分の栄達と地位とに注意するようになると、私はもはや深い二重生活をしていたのであった。私がやったような不品行は、かえって世間に言いふらした人も多いだろう。しかし、私は、自分の立てた高い見地から、それをまるで病的と言ってもよいほどの羞恥の念をもって眺め、また隠したのである。だから、私をこんな人間に作りあげ、また、人間の性質を二つの要素に分けている善と悪との領域を、私の場合にあっては、大部分の人の場合よりも一そう深い溝をもって切り放したのは、私の欠点が特別に下劣であるためよりも、むしろ私の理想を追う心が厳しすぎたためであった。それで私は、宗教の根元に横たわり、最も多くの苦悩の源泉の一つであるところの、あの苛酷な人生の掟について深く執拗に考えない訳にはゆかなかった。私はひどい二重人格者ではあったが、決して偽善者ではなかった。私の善悪両方面とも、いずれも飽くまで真剣であった。私は、学問の進歩のために、または人間の悲しみや苦しみを救うために公然と努力している時も、自制をすてて恥ずべき行ないにひたっている時も、同じように私自身であった。そして、偶然にも、私の科学上の研究の方向がもっぱら神秘的なものと超絶的なものの方へ向っていたので、それがこの両面の絶え間のない闘争という意識に反応して、それに強い光明を投げたのである。こうして、私の知性の両方面、道徳的方面と知的方面とから、一日一日と、私はあの真理、つまり人はほんとうは一つのものではなく、ほんとうは二つのものであるという真理に、着々と次第に近づいてゆき、それの部分的発見によって私はこのような恐ろしい破滅を招く運命となったのである。私が二つのものであると言うのは、私自身の知識の程度がその点以上には進んでいないからである。今後この同じ方面である人々は私の後に続き、ある人々は私を追い越すであろう。それで私は、人間というものはさまざまの互いに調和しない独立の住民からなる単なる一団体として結局は知られるようになるだろう、ということを思い切って予言しておこう。私はと言えば、自分の生活の性質から一方の方向に、ただもう一方の方向だけにまっしぐらに進んだ。私が、人間はもともと完全に二重性のものであることを認めるようになったのは、その道徳的方面でだった。しかも私自身の意識の分野の中で互いに争っている二つの性質のどちらかが自分であるとはっきり言えるのは、ただ自分が根本的にはその両方であるからである、ということを知った。だから、私の科学的の発見の進行がそういう奇跡の可能性を少しも暗示しない前から、私はもう、愛する白日夢として、この二要素の分離という着想を好んで考えるようになっていた。私はこう思った。もしその各々の要素を別々の個体に宿らせることさえできたなら、人生はあらゆる耐えられないものから救われるであろう。正しくない要素は、自分と双生児の一方である正しい要素のすべての志望や悔恨から解放されて、自分の欲するままの道を行くことができるであろうし、正しい方は、自分の喜びとする善事を行ない、縁もないこの悪の手によって恥辱や悔悟にさらされることなしに、安心して堅実に向上の路を歩むことができるであろう、と。この互いに調和しない二つの薪たばがこのように一しょにくくりつけられているということ――意識という苦しみの胎の内でこの両極の双生児が絶えず争っていなければならないということが、人類の禍いであったのだ。では、どうしてこの二つを分離させようか?
 私がここまで考えてきた時、前に言ったように、実験室のテーブルからその問題に側面光が射しかけたのである。私は、我々がそれに包まれて歩いているこの見たところいかにも頑丈なような肉体というものが、極めて不安な実体のないようなもの、霧のようなはかないものであることを、今までに述べられたよりももっと深く了解するようになった。ちょうど風が天幕小屋の幕を、吹き飛ばすように、ある作因がその肉体という衣服をゆり動かして引きはぐ力を持っているということを、私は発見した。二つの正しい理由から、私は自分自身の告白のうち、この科学的方面へは深く入らないことにする。第一は、我々の人生の運命と重荷とは永久に人間の肩に結びつけられていて、それを投げ棄てようとすれば、それは却って一そう不思議な一そう恐ろしい圧力で我々に戻って来るだけだということを、私は悟ったからである。第二は、私の記録が十分に明らかにするであろうが、ああ、なんと、私の発見は不完全であったからである。だから、次のことだけを記すことにしよう。つまり、私は、私の生まれながらの肉体が、私の心霊を構成しているある力から発する精気と光輝とに過ぎない、ということを認めたばかりではなく、ついに苦心して調合したある薬によって、それらの力をその最高位からおしのけて、私の霊魂の劣等な要素の表われであって、その刻印が押されているために、やはり私にとって生来のものであるところの、第二の形体と容貌とを以て、それに代えることに成功したのであった。
 私はこの理論を試験するまでには永い間ためらった。それが命懸けであることを私はちゃんと知っていた。なぜなら、そのように強力で、個性の城塞までも揺り動かすほどの薬は、ほんのちょっとでも飲み過ぎたり、服薬の時が少しでも違ったら、私が変化させようとするその実体のない肉体をすっかり抹殺してしまうかも知れないからである。しかし、そのように深遠で非凡な発見の誘惑は、ついに、危懼の念に打ち勝ってしまった。私はずっと前からチンキの方は調剤してあったので、すぐに、ある薬問屋からある特別の塩剤をたくさんに買いこんだ。それは、私の実験によって、最後の必要な成分であることがわかっていたものである。こうして、ある呪うべき夜遅く、私はそれらの薬品を調合し、それらが硝子器の中で一しょに煮え立ち、煙を上げるのを見つめ、その沸騰がしずまったとき、勇気をふるい起こしてその薬液を飲みほした。
 つぎに非常に激しい苦痛がおこった。骨が挽かれるような苦しみ、恐ろしい吐き気、生まれる時か死ぬ時よりもつよい精神の恐怖。やがてこれらの苦悶は急にしずまって、私はまるで大病から回復したみたいに我にかえった。私の感覚は何となく妙で、何とも言いようなく清新で、また、その清新さそのもののために信じられないほど甘美であった。私は体がこれまでよりも若々しく、軽く、幸福であるように感じ、心のうちには、たけだけしく向う見ずな気持と、空想の中を水車をまわす流れのように奔流する混乱した肉感的な幻影の流れと、義務の束縛からの解放と、未知の、しかし潔白ではない精神の自由とを意識した。私は、この新しい生命を呼吸するとすぐに、自分がこれまでよりも邪悪で、しかも十倍も邪悪で、自分の本来の悪に奴隷として売られたものであることを知った。そして、そう考えることが、葡萄酒のように私の心を引締め喜ばせた。私はこういう感覚の新鮮さに狂喜して両手を差し伸ばした。そうしていると、ふと、自分の身長が短くなっていることに気がついた。
 その時分には、私の室には鏡がなかった。今これを書いている時に私の傍らにあるものは、全くこういう身体の変化を見るために、後になってここへ持って来たものなのである。ともかく、夜はよほど更けていて、――まだ真暗ではあったけれども、やがてもう夜も明けようとしていた。私の家の者たちはぐっすり熟睡していた。で、私は、希望と成功とで得意になっていたので、その新しい姿のままで自分の寝室まで行こうと決心した。私が裏庭をよぎって行くとき、一晩中眠らずに見張りをしている星座も、今までにまだ見たことのないような種類の最初の生物である私を、いぶかりながら見下ろしていたことであろう。自分自身の家の中を他人となって、私は廊下をこっそりと通った。そして自分の室へやってきて、初めてエドワード・ハイドの姿を見たのであった。
 私は、ここでは、自分が知っていることではなく、どうもそうであるらしいと自分の想像したことを、理論だけで話さなければならない。私がいま具体性を与えた自分の本性の悪の面は、私がたった今すてたばかりの善の方面ほどに強くもなく発育してもいなかった。また、私のこれまでの生活は結局十分の九までは努力と徳行と抑制との生活であったから、その悪の方は、善の方よりも使われることがずっと少なく、消粍されることもずっと少なかったのである。だから、エドワード・ハイドがヘンリー・ジーキルよりもずっと小さく、弱く、若かったのだろうと、私は思うのだ。ちょうど善が一方の顔に輝いているように、もう一方の顔には悪がはっきりと明らかに書かれていた。その上、悪(それは人間の死を来たす方面であると私はやはり信ぜざるを得ないのであるが)はその身体にも不具と衰退との痕をとめていた。それなのに、鏡の中にその醜い姿を眺めた時、私はなんの嫌悪も感じないで、むしろ跳び上るような歓びを感じた。これもまた私自身なのだ。それは自然で人間らしく思われた。私の眼には、それは、私がこれまで自分の顔と言い慣れてきたあの不完全などっちともつかぬ顔よりも、一そう生き生きした心の映像を示していたし、一そうはっきりして単純であるように見えた。そしてここまでは確かに私の考えは正しかった。私は、自分がエドワード・ハイドの外貌をつけている時には、誰でも初めて私に近づく者は必ず明白な肉体の不安を感じないではいられない、ということに気がついた。これは、私が思うのでは、我々が出あう人間はすべて善と悪との混りあったものであるが、エドワード・ハイドだけは、人類全体の中でただ一人、純粋な悪であったからであろう。
 私は鏡のところにほんのちょっとの間しかぐずぐずしていなかった。まだ第二の決定的の実験をやってみなければならないのだ。自分がもう回復ができないほどに自分の本体を失ってしまって、もはや自分の家ではないこの家から、夜の明けないうちに逃げ出さなければならないかどうかを、確かめることがまだ残っているのだ。それで、急いで書斎へもどると、私はもう一度あの薬を調合して飲み、もう一度解体の苦痛を感じ、もう一度ヘンリー・ジーキルの性格と身長と容貌とをもって我にかえった。
 その夜、私は運命の十字路に来ていたのだ。もし私がもっと崇高な精神で自分の発見に近づいたのであったら、もし私が高邁な、あるいは敬虔な向上心に支配されている時にあの実験を敢行したのであったなら、すべては違った結果になったに相違ないし、あの死と生との苦しみから私は悪魔ではなくて天使として出て来たであろう。その薬には何も差別的な作用がなかった。悪魔のようにするのでも神のようにするのでもなかった。その薬はただ私の気質が閉じこめられている獄舎の戸を震い動かすだけであった。すると、あのフィリッパイの囚人のように*、内にいたものが走り出るのであった。その時には私の徳性は眠っていて、野心のためにずっと目を覚ましていた私の悪が、すばしこく迅速にその機会をとらえたのだ。そして跳び出して来たのがエドワード・ハイドであった。だから、私はいまでは二つの外貌と二つの性格を持ってはいたけれど、一方はぜんぜん悪であって、もう一方はやはり昔のままのヘンリー・ジーキルで、その矯正や改善はとても見込みがないと私がとうに知っているあの不調和な混合体なのであった。こうして悪い方へとばかり向っていったのである。
 その頃でさえ、私は研究生活の味気なさに対する自分の嫌悪の念にまだうち勝っていなかった。私はやはり時々遊びたい気分になるのであった。そして私の遊楽は(控え目に言っても)体面にかかわるものであったし、私は世間にも十分有名で、大へん尊敬されていただけでなく、初老の年齢になりかけていたので、私の生活のこの矛盾は日ごとにいやになっていった。私の新しい力が私を誘惑して、とうとう私をその奴隷としてしまったのは、この方面においてであった。私はあの一杯の薬を飲みさえすれば、高名な教授の肉体をすぐに脱ぎすてて、厚い外套のようにエドワード・ハイドの肉体を着けることができるのだ。そう考えると私は微笑した。その考えはその時には滑稽なように私には思われた。そして私は極めて注意ぶかく自分の準備をととのえた。私はハイドがのちに警察に跡をつけられたあのソホーの家を手に入れて家具を備えつけ、無口で横着なのをよく承知のうえであの女を家政婦として雇った。一方、自分の召使人どもに、ハイド氏という人(その人相を私は言った)は広辻スクエアの私の家では思い通りに勝手なことをしてもよいのだということを知らせた。そして、間違いをさけるために、自分の第二の人格になって、訪問までして自分を彼らによく見せておいた。つぎに私は君があれほど反対したあの遺言書を作った。これは、もしジーキル博士としての自分に何事が起こっても、私が金銭上の損失をうけずにエドワード・ハイドの身になれるようにするためであった。そして、このようにあらゆる方面で用心堅固にしたつもりで、私は自分の立場のその奇妙な免疫性を利用しにかかったのである。
 暴漢を雇ってそれに自分の罪悪を行なわせ、自分の身体や名声は安全にかばった人たちがこれまでにはあった。ところが、自分の遊楽のためにそんなことをしたのはこれまでには私が初めてであったのだ。快い名望の重荷を負うて、社会の中でこんなにせっせと働きながら、たちまち小学生のように、そんな借り物を脱ぎすてて、自由の海へまっさかさまに跳びこむことのできたのは、私が初めてであったのだ。しかも私は、あの見通しのできないマントを着ているので、その安全は完全なものであった。そのことを考えてみ給え、――私という人間は存在しもしないのだ! 私はただ自分の実験室の戸口の中へ逃げ込んで、いつでも用意してある薬を調合してのみ下すのに、ほんの一秒か二秒をかけさえすれば、彼が何をしてこようと、エドワード・ハイドは鏡に吹きかけた息の曇りのように消えてしまうのだ。そして彼のかわりに、ヘンリー・ジーキルが、嫌疑を笑うことのできる人間として、静かにくつろいで、研究室で真夜中の灯火をかき立てているのだ。
 私が姿を変えて求めようとあせった遊楽は、前にも言ったように、体面にかかわるものであった。私はこれよりひどい言葉は使いたくない。しかしエドワード・ハイドの手にかかると、その遊楽は間もなく恐ろしいものの方へと変っていった。そうした出遊びから帰ってきたとき、私はときどき自分の身代りのやる悪行につくづく一種の驚きを感ずることがあった。私が自分の霊魂の中から呼び出して、ただその思いのままに振舞うために出してやったこの小悪魔は、生まれつき悪質邪悪なものであった。彼のすること考えることはみな自己が中心で、少しでも他人を苦しめて獣のような貪欲さで快楽をむさぼり、石で出来た人間のように無慈悲であった。ヘンリー・ジーキルはときどきエドワード・ハイドの行為に対して愕然とすることがあった。しかし、こういう立場は普通の法則からは離れていたので、うまく良心の手を弛めていた。罪のあるのは、要するに、ハイドであり、ハイドだけであった。ジーキルは少しも変りがなかった。彼が目覚めれば、見たところ少しも損われていない元の善良な性質に返るのであった。彼は、それができる場合には、ハイドのした悪事を急いで償おうとさえした。こうして彼の良心は眠っていたのであった。
 私がこんな風にして見過ごしにしていた悪行(というのは今でも私は自分でそれを行なったとは認めがたいからであるが)については、くわしく記すつもりはない。私はただ懲罰が自分に近づいてきた前知らせと、それが一歩一歩せまってきた順序とを指摘するだけに止めるつもりである。私は一つの事件に出会ったがそれは何も大したことにもならなかったからちょっと書いておくだけにしよう。ある子供に対する私の残酷な行為が一人の通行人をひどく憤らせた。その人が君の親戚の人であることを私は先日知ったのだが。医者とその子供の家族とがその人に加わったので一時は自分の生命も危険ではないかと心配した。そして結局、彼らの極めて当然な憤慨をなだめるために、エドワード・ハイドは彼らをあの戸口のところまで連れて行き、ヘンリー・ジーキルの名前で振出した小切手で彼らに支払ってやらなければならなかった。しかしこういう危険はたやすく将来から取りのぞかれた。それはエドワード・ハイド自身の名儀で新しく別の銀行に預金したからである。そして、私の手跡を後へ傾斜させて私の分身の署名の書体にすることにすると、私はもう災厄の手のとどかぬところにいるのだと思った。
 ダンヴァーズ卿の殺害事件から二カ月ばかり前、私はいつもの遊興に出かけ、夜が更けてから帰って来たが、翌日寝床の中で目が覚めると少し変な感じがした。自分の周りを見回したが駄目だった。広辻スクエアの自分の室の上品な家具や天井を高くした作りを眺めたが駄目だつた。寝台のカーテンの模様やマホガニー材の寝台の意匠をそれと認めても駄目だった。自分は自分のいるところにいるのではない、自分は自分の目を覚ましたように見えるところで目を覚ましたのではなくて、いつもエドワード・ハイドの体になって眠る習慣になっているあのソホーの小さい室で目を覚ましたのだ、とやはり何かが主張し続けるのだ。私はひとりで微笑し、いつもの心理学的方法で、ゆっくりとこの錯覚の諸要素を調べ始めたが、そうしながらも、時々また心地よい朝のまどろみへ陥るのであった。こんなことをしているうちに、目が幾分はっきり覚めている時、眼がふと私の手に止まった。ところで、ヘンリー・ジーキルの手は(君もときどき見たように)形も大きさも職業にふさわしいものだった。大きくて、しっかりして、白く、奇麗なのだ。ところが、いま私が夜具に半ばくるまりながら、ロンドン中部の朝の黄ろい光の中に、十分はっきりと見た手は、痩せて、筋張って、指の節が太く、色が蒼黒くて、薄黒い毛がもじゃもじゃ生えていた。それはエドワード・ハイドの手であった。
 私はあまりの驚きですっかり茫然としてしまって、その手を三十秒近くもじっと見つめていたらしかった。それから、シムバルを打ち合わせる音のように突如として私の胸の中に恐怖が湧きおこった。私は寝床から跳び出して鏡のところへ走って行った。鏡に映った姿を見ると、私はぞっとして血が凍ったような気がした。そうだ、私はヘンリー・ジーキルで寝につき、エドワード・ハイドで目が覚めたのだ。これはどう説明したらよいだろうか? と私は自分に尋ねた。それから、また恐怖のために跳び上りながら、――これはどうして元どおりにしたらよいだろうか? と尋ねた。朝もだいぶ遅くなっていた。召使たちは起きている。私の薬はみな書斎にある、――私がそのとき愕然として突っ立っているところからは、二つの階段を下り、裏手の廊下を通りぬけ、露天の中庭をよぎり、解剖学の階段講堂を通って行く、遠い道程だ。なるほど、顔をおおうて行くことはできるかも知れない。しかし、身長の変化を隠すことができないとすれば、それが何の役に立とう? そのとき、召使たちが私の第二の自我であるハイドの出入りするのに前から慣れていることが思い浮かぶと、たまらないほど嬉しくなって安心した。さっそく私は私自身の身丈の衣服をできるだけうまく身に着けた。そしてすばやく家の中を通りぬけたが、ブラッドショーがそんな時刻にそんな妙な服装をしているハイド氏を見ると眼を円くしてあとしざりした。それから十分もたつと、ジーキル博士は自分の姿にもどっていて、暗い顔色をしながら、朝食を食べるような振りをして着席していた。
 食欲はとても少ししかなかった。この説明しがたい出来ごと、今までの経験がこのように転倒したことは、壁にあらわれたあのバビロニアの指*のように、私の受くべき審判の文字を綴っているように思われた。そして、私は、これまでよりも真剣に、自分の二重存在の結果や可能性について考え始めた。私が形態化する力を持っている私のあの分身は、近ごろでは非常に体を使っていたし滋養を与えられて発育していた。このごろは、エドワード・ハイドの身体が身長を増し、以前よりは血液が豊富になったかのように、私には思われた。そして、もしこんなことがずっと続くならば、自分の本性の平衡が永久に失われてしまい、任意に変身する力が失われ、エドワード・ハイドの性格が自分の性格になってしまって、とりかえしがつかなくなるかも知れないという危険に、私は気がつき始めた。あの薬の効力はいつも一様に現われるという訳ではなかった。私の経歴のごく初めのころ一度、薬がぜんぜん利かなかったことがあった。そのときから、私は一度ならず量を二倍にしなければならなかったし、一度などは、ほんとうに命がけで量を三倍にしなければならなかった。そして、たまにあるこういう不確実性が、これまでの私の満足な気持に唯一の暗い影を投げていたのであった。ところが、いま、その朝の出来ごとに照らして考えると、はじめ困難なのはジーキルの体を脱ぎすてることであったのに、近ごろはその困難はだんだん明確にその反対の方に移っているということを、認めるようになった。そんな訳で、すべてのことが次のようなことを示しているように思われた。つまり、私は少しずつ自分の本来の善い方の自我を失って、少しずつ自分の第二の悪い方の自我と合体されつつあるということである。
 この二者のうち、今こそ私はどちらかを選ばなければならぬのだと感じた。私の二つの本性は記憶力を共通にしているが、他のすべての能力は両者の間に非常に不平等に分れていた。ジーキル(混合物であるところの)は、時には非常に過敏な懸念をもって、時には貪るような興味を以て、ハイドの快楽や冒険を計画し、それを一しょにやった。けれどもハイドはジーキルには無関心であった。もしかすると、山賊が追跡を免れるために身をかくす洞穴を憶えていると同じくらいにしか彼を憶えていなかった。ジーキルは父親以上の関心をもち、ハイドは息子以上に無関心であった。私の運命をジーキルと共にすることは、永い間私をこっそり満足させ、近ごろでは耽溺するようになっていたあのいろいろの欲望を思い切ることであった。ハイドと運命を共にすることは、数多の利益や抱負を思い切り、一ぺんに、しかも永久に、人から軽蔑され友だちもなくなることであった。この両方を交換することは割が合わないように見えるかも知れない。しかし、まだもう一つ秤にかけて考えなければならないことがあった。というのは、ジーキルの方は禁欲の火の中にあってひどく苦しんでいるのに、ハイドの方は自分が失ったすべてを意識さえもしていない、ということであった。私の事情は不思議なものではあったが、こんな問題は、人間のように古くて、ありふれたものなのだ。これと大たい同じの動機や恐怖が、誘惑されて震えおののいている罪人つみびとのために運命のサイコロを投じたのである。そして私の場合には、大多数の人々の場合と同様に、自分の善い方を選びはしたが、それを固守する力が足りないことがわかったのである。
 そうだ、私は、友人たちに取りかこまれて立派な希望を抱いてはいる、中年過ぎの不満な博士の方を択び、ハイドの変装で私が享楽した自由や、若さや、軽い足取りや、躍るような鼓動や、秘密の快楽に、きっぱりと別れを告げたのだ。私はこの選択をしたけれども、それにはたぶん無意識のうちに幾らかの保留を残しておいたのであろう。なぜなら、私はソホーの家を引払おうともしなかったし、またエドワード・ハイドの衣服を放棄しようともせず、それをやはり書斎に用意しておいたからである。しかし、二カ月の間は、私はその決心に忠実であった。二カ月の間は、私は、それまでになかったほど謹厳な生活を送り、その報償として良心にほめられた。けれどう[#「けれどう」はママ]、時がたつにしたがってとうとう私の恐怖はその生々しさがだんだん失われるようになり、良心の賞讃もあたりまえのことのようになってきた。私は、自由を求めてもがいているハイドのそれのような苦悶と切望とに悩まされ始めた。そして、とうとう、道徳心の衰えている時に、もう一度あの変身薬を調合して飲んだのである。
 大酒家が自分の悪習について自分で理屈をつけるとき、彼がその獣のような肉体的無感覚のためにおかす危険のことを、五百度に一度でも気にかけることがあろうとは、私は思わない。私もまた自分の立場を永いこと考えてはいたけれども、エドワード・ハイドの主要な性格であるところの、完全な道徳的の無感覚と、いつでも悪を行おうとする狂暴性とを、十分に考えてみたことがなかった。けれども、私が罰せられたのは、そういう性格によってであったのだ。私の悪魔は久しく閉じこめられていたのだが、それが唸りながら出てきた。私は、その薬を飲んだ時でさえ、これまでよりも一そう放縦な一そう猛烈な、悪をなそうとしていることを意識した。私の不幸な被害者のていねいな言葉を聞いていた時にあの激しいいらだたしさを私の心の中に起こさせたのは、きっと、それであったに違いない。神さまの前でも、私は少なくとも次のことはちゃんと言い切れる。道徳的に健全な人間ならあんなちょっとしたことに腹を立ててああいう罪を犯すはずがないと。また、私は病気の子供が玩具を壊すと同じくらいの理性のない気持でなぐったのだと。しかし、人間の中の最悪の者でさえもそれによっていろいろの誘惑の中をある程度しっかりして歩み続けるところの、あの平衡を保つ本能をすべて、私は自分から捨てていたのである。それで私の場合には、どんなにちょっとにせよ誘惑されることは、それに負けることなのであった。
 たちまち地獄の悪霊が私のうちに目ざめて荒れくるった。歓びに有頂天になりながら、私はあの抵抗もしない体をさんざんに殴りつけ、殴るたびに喜びを味わった。そして疲れて来はじめるとようやく、その無我夢中の発作の最中に、突然ひやりと恐怖の戦慄に胸を打たれた。霧がはれた。私は自分が死罪になることを知った。そして、悪の欲望がみたされ、刺激され、生の愛着がぎりぎりまでおびやかされたので、歓ぶと同時に恐れおののきながら、その暴行の場所から逃げ出した。私はソホーの家に駆けつけ、念に念を入れるために、自分の書類を焼きすてた。それから外へ出て、街灯に照らされている街々を、やはり二つに分裂した無我夢中の心もちで通ってゆき、自分の犯した罪を小気味よく思い、これから先の別の罪をいろいろと気軽に企みながらも、また一方では絶えず足をはやめ復讐者の足音が聞こえはしないかと自分のうしろに絶えず耳を澄ましていた。ハイドはあの薬を調合しながら歌を口ずさみ、それを飲む時にはかの死者のために乾盃した。引き裂くような変身の苦痛がまだ終らぬうちに、ヘンリー・ジーキルは、感謝と悔恨との涙を流しながら、ひざまずいて神に向って指を組合わせた手を挙げていた。放縦のヴェールは頭から足の先まで引きさかれ、私は自分の全生涯を見た。父の手に引かれて歩いていた子供の頃から、自分の職業生活の克己的な労苦を思いうかべ、最後には、まるで夢のような気持で、その晩のあの呪わしい惨事をいくどもいくども思い出したのであった。私は声をあげて泣きたいくらいであった。私は涙をながし神に祈りながら、自分の記憶にあつまって自分を責めるかずかずの恐ろしい光景や物音を抑えつけようとした。それでもやはり、その祈りの間から、私の罪悪の醜い顔が私の心の中をじっと睨みつけるのであった。この悔恨の烈しさがだんだんに消えかかると、それに続いて喜びの情がおこった。私の行状の問題は解決したのだ。これから後はもうハイドになることができないのだ。否でも応でも、私は今では自分の存在の善い方に限られたのだ。そして、おお、それを考えると私はどんなに喜んだろう! どれほど喜んでつつましやかな気持で、私は自然の生活の拘束を新しく受け入れたことだろう! どれほど心から思い切って、これまであんなにちょいちょい出入りしていた戸口の錠を下ろし、その鍵を踵の下に踏みにじったことだろう!
 翌日、その殺人を見下ろしていた者があったこと、ハイドがその犯罪をしたのだということが世間に知れわたっていること、またその被害者が世に重んぜられている人であったこと、などの報道がされた。それは単に犯罪ではなく、悲惨な愚かな行為であったのだ。私はそれを知ると喜んだと思う。私は、自分の善い方の衝動が処刑台を恐れる心によって、このように支えられ護られていることを、喜んだと思う。ジーキルはいまや私の逃遁のがれまちで*あった。ハイドがちょっとでも顔をだそうものならば、彼を捕えて殺すために、すべての人々の手が挙げられるであろう。
 私はこれからの行為によって過去をつぐなおうと決心した。そして、この決心がいくらかの善を生んだということを、偽りなく言うことができる。昨年の終りの数カ月の間、どんなに熱心に私が人の苦しみを救うために骨折ったかは、君も知っている通りである。他人のために多くのことをし、自分も平穏に、ほとんど幸福に日を過ごしたということは、君も知っている通りである。そしてまた、私がこの潔白な慈善生活に倦きたと言うのはほんとうではない。それどころか、私は一日一日と一そう完全にその生活を楽しむようになったと思う。しかし、私はやはりあの意志の二重性に呪われていた。そして、悔悟の最初のするどい切先が鈍ると、永いあいだ勝手気ままにされていて、つい近ごろになって鎖で繋がれてしまった、私の下等な方面が、自由をもとめて唸りはじめた。と言っても、私がハイドを復活させようなどと夢にも思ったのではない。そんなことは思っただけでも私は気がふれるほど驚いたであろう。いや、私がもう一度自分の良心を弄ぶように誘惑されたのは、私自身のそのままの体でであった。私がとうとう誘惑の攻撃に負けてしまったのは、ありきたりの密かな罪人つみびととしてであったのだ。
 すべてのものには終りがくる。どんなに大きな桝目でも遂には一ぱいになる。そして、私が自分の悪い心にちょっとの間でも従ったことは、とうとう私の心の平衡を破ってしまったのである。それでも私はそれに気がつかなかった。その堕落は、私が、私の発見をまだしなかった昔へ返るようにきわめて自然なことに思われた。美しく晴れた一月のある日のことであった。足の下は霜がとけていて湿っていたが、空には一片の雲もなかった。リージェント公園では冬の鳥の囀りがいたるところにきこえ、春の匂いが甘くただよっていた。私は日向ひなたでベンチに腰をかけていた。私のうちの獣性は過去の歓楽を思い出して舌なめずりをしていた。精神的方面は、あとになって悔やむことをわかっていながら、まだ動く気にならずに、うつらうつらしていた。結局、私は自分が隣人たちと同じなのだと考えた。それから、自分を他の人々と比べ、自分が慈善をして活動していることと、他人が冷酷に無頓着でなまけていることを比べて、微笑した。すると、そういう自惚れたことを思っている最中に、とつぜん気分が悪くなって、怖ろしい嘔き気ととても烈しい身ぶるいとにおそわれた。それがなくなると、私は気を失った。やがて、その失神も続いてしずまると、私は自分の考え方にある変化が起こり、一そう大胆になって、危険をみくびり、義務の束縛が解かれたのに気がつきはじめた。私は下を見た。私の衣服は縮まった手足にだらりと垂れさがり、膝の上に載っている手は筋張って毛だらけだった。私はまたもやエドワード・ハイドになっているのだ。一瞬前までは私は確かにすべての人の尊敬を受けて、富み、愛されていたし、――家の食堂には私のために食事の支度がしてあった。ところが今は、私は、狩り立てられていて、家もなく、あらゆる人々からのお尋ね者で、世間に知れわたった人殺しで、絞首台へ送られる人間なのであった。
 私の理性はぐらついた。が、すっかりなくなりはしなかった。私がこれまで何度も気がついていることであるが、私が第二の性格になっている時には、私のいろいろの機能はきわめて鋭くなり、元気は一そう弾力性をもってくるように思われた。そういうわけで、ジーキルなら多分まいってしまうような場合でも、ハイドはその時の急場をしのぐことができるのであった。例の薬は、書斎の戸棚の一つの中にあった。どうしたらそれを手に入れられるだろうか? それが(※(「需+頁」、第3水準1-94-6)こめかみを両手で押しつけながら)私の解きにかかった問題であった。実験室の戸口は私が閉めてしまった。もし私が住居の方から入ろうとすれば、私の召使たちは私(ハイド)を絞首台に引渡そうとするだろう。私は人手を借りなければならないことを知って、ラニョンのことを思った。どうしたら彼のもとへ行けるだろうか? どうして彼を説きつけることができようか? 私が街路で捕えられることを免れたとしても、どうして私は彼の前まで行けるだろうか? また、どうして未知の不愉快な訪問者である私が、あの有名な医者を説きふせて、彼の同僚であるジーキル博士の研究室をさがさせることができようか? その時、私は自分のいままでの特質の中で、ただ一つの部分だけがそのまま、自分に残っていることを思い出した。私は自分自身の手跡で字を書くことができるのだ。そして、一度このぱっと燃えあがる閃きを認めると、私のとるべき道は端から端まで照らしだされた。
 そこで、私はできるだけよく服装をととのえ、通りすがりの貸馬車を呼んで、自分が何気なくその名を憶えていたポートランド街のあるホテルに走らせた。私の姿(それは、その衣服がどんな悲惨な運命を包んでいたにしても、実際ずいぶん滑稽なものであった)を見ると、馭者はふき出してしまった。私は烈しく怒って馭者にむかって歯ぎしりをした。すると彼の笑いは消えた。――これは彼にとっては仕合わせであったが、――私にとっては尚一そう仕合わせであった。なぜなら、もう少しのところで私はきっと彼を馭者台から引きずり下ろしたに違いないからだ。旅館へ入る時に、私はもの凄い顔つきであたりを睨みまわしたので、給仕人たちは震えあがった。彼らは私の目の前では顔を見かわしもしなかった。ただぺこぺこして私の言いつけに従い、私を私室へ案内して、手紙を書くにいる物をもってきた。生命が危険になっている時のハイドは、私にとっては初めて経験するものであった。烈しい怒りにふるえ、人を苦しめたくてたまらなくて、人殺しをやりかねないほど興奮しているのだ。それでもその男はぬけ目がなかった。非常な意志の努力で怒りを抑え、一通はラニョンに、一通はプールに宛てた、二通の重要な手紙を書きあげ、それが投函されたという実証を受けとりたいために、それを書留にするようにという指図を与えて出した。
 そのあとで、彼は一日中旅館の私室の暖炉にむかって、爪を噛みながら腰かけていた。その室にひとりっきりで、恐怖におびやかされながら食事もしたが、給仕は彼の眼の前ではっきりとびくびくしていた。で、すっかり夜になってしまうと、彼はそこを出て、閉めきった辻馬車の片隅に身をおいて、ロンドンの街路をあちこちと乗りまわした。彼、と私は言う、――私、とはどうにも言うことができないのだ。その地獄の子には人間らしいところは少しもなかった。彼のなかに住んでいるのは恐怖と憎悪だけであった。そして、とうとう、彼は馭者が変に思いはじめたような気がしたので、馬車を捨てて、例の体に合わない衣服を着て人目につく姿のまま、夜の人通りの中へ思いきって歩いて行ったが、その時、この二つの下等な激情は彼のうちに嵐のように荒れ狂っていた。彼は恐怖に駆られて、べちゃくちゃひとりごとを言いながら、人通りの少ない往来をこそこそと通り、まだ夜の十二時までに何分あるかと数えては、足ばやに歩いた。一度などは、一人の女が、マッチを一箱買ってくれというらしく、彼に話しかけた。彼はその女の顔を殴りつけたので、女は逃げていった。
 私がラニョンの家で本当の自分に返ったとき、その旧友の恐怖を見て、多分いくらか心を動かされたかも知れない。が、私は覚えていない。とにかく、その恐怖なぞは、私がそれまでの数時間のことを思い出す時の恐怖に比べれば、大海の一滴に過ぎなかった。私には一つの変化がおこっていた。私を苦しめたのは、もう絞首台の恐怖ではなかった。それはただ、ハイドに変ることの恐れであった。私はラニョンの非難をなかば夢心地で聞いていた。自分の家へ帰って床についたのもなかば夢心地であった。私はその日の疲れの後なのでぐっすりと深く眠ったので、私を悩ますあの悪夢でさえその眠りを破ることができなかった。翌朝、目を覚ましてみると、気力もなく、弱っていたが、しかし気分はさわやかになっていた。私は自分のうちに眠っている獣性をなおも憎み恐れていて、もちろん、前日のあの恐ろしい危険を忘れてはいなかった。だが、私はもう一度家にいるのだ。自分自身の家にいて、自分の薬のすぐ近くにいるのだ。そして、危険をのがれたことに対する感謝がほとんど希望の輝きにも劣らないくらいに、心の中で強く輝いていた。
 朝食のあとで、冷たい空気を気もちよく吸いながら、中庭をゆったりと歩いていると、またもや俄かに変身の先触れであるあの言うに言われぬ感じにおそわれた。そして書斎に逃げこむか逃げこまないかに、私はいま一度ハイドの激情で怒りふるえているのであった。この時にはもとの自分に返るためには二倍の分量の薬が要った。が、悲しいことには! それから六時間後、陰気に炉の火を眺めながら腰かけている時に、例の苦痛がもどってきて、また薬を用いなければならなかった。手みじかに言えば、その日から後は、私がジーキルの姿になっていることができるのは、体操をするような非常な努力によってか、薬の効きめのある間だけのように思われたのであった。昼となく夜となく始終、私はあの変身の前知らせの身ぶるいにおそわれるのであった。ことに、私が眠るか、または椅子にかけたままちょっとうとうとしてさえ、目をさました時には必ずハイドになっていた。この絶えずさし迫っている運命に圧迫され、また実際、人間には不可能と思われるほどの不眠におちいって、私は、自分自身の姿をしていても、興奮のために消耗し尽された人間になり、身も心も力なく衰えて、ただもう自分の分身に対する恐怖という一つの思いだけに心を奪われていた。しかし、眠った時とか、薬の効能が消えてしまった時とかには、私はいきなり、なんの手数もかけずに(なぜなら変身の苦痛は日毎に少なくなってきていたので)、恐怖の幻影に充ちた空想と、理由のない憎悪で沸きたつ心と、荒れくるう生命力とを容れるにしてはそう強くもなさそうな体との持主になってしまうのであった。ハイドのいろいろの能力はジーキルが衰弱するのと並行してますます強くなってくるように思われた。そして、確かにいまやこの二人を仲違いさせている憎悪は両方とも同じように強いものであった。ジーキルの場合には、それは生命の本能からくるものだった。彼は今では、意識現象のある部分を自分と共有していて、自分と死を共にしなければならないその人間が、完全に不具であることを、さとっていた。そして、この共同所有というきずなはそれだけでも彼の悩みのもっとも深刻なものであったが、そのほかに、彼はハイドを、生命力は強いにしても、どこか地獄の鬼のようなところばかりではなく、何となく無機物らしいところのあるものと、考えた。その地獄の粘土が叫んだり声を立てたりするように思われること、その定まった形のない土塊つちくれが身振りをしたり罪を犯したりすること、死んだ無形のものが生命の働きをうばうということ、これはいかにも恐ろしいことであった。また、その反逆的な恐ろしいものが妻よりも身近に、眼よりもぴったりと彼に結びつけられて、彼の肉体のなかに閉じこめられ、そのなかでそれが呟くのが聞こえ、生まれ出ようともがいているのが感じられ、いつでも弱っている時や、安心して眠っている時には、彼にうち勝って、彼の生命を奪ってしまうということも、恐ろしいことであった。ハイドのジーキルに対する憎悪は、それとは違った種類のものであった。彼の絞首台への恐怖はいつも彼を駆りたてて一時的に自殺させ、一個の人間ではなくてジーキルの一部であるという従属的地位に返らせた。しかし、彼はそんなことをしなければならぬのを嫌い、ジーキルが近ごろ元気がなくなっているのを嫌い、自分自身が嫌われているのを怒った。そのために彼はよく私に猿のような悪戯をし、私の書物のページに私自身の手跡で涜神の文句をなぐり書きしたり、手紙を焼きすてたり、私の父の肖像画を破ったりした。そして実際、彼が死を恐れなかったなら、彼は私を巻きぞえにして死滅させるために、とっくに自殺をしていたであろう。しかし、彼の生に対する愛情は驚くほどのものであった。私はもう一歩進んで言おう。彼のことを思っただけでも胸が悪くなりぞっとする私でも、この卑劣で熱烈な愛着を思いだすとき、また自殺によって彼をきり放すことのできる私の力をどんなに彼が恐れているかを知るとき、彼をあわれむ気持が私の心のうちにおこるのであった。
 このうえ長くこの記述を続けることは、無駄であるし、またその時間も全くない。ただ、これほどの苦しみを受けたものは、まだこれまでにだれ一人もない、というだけにしておこう。それでも、こういう苦しみにさえ、習慣が――決してそれを軽くしたわけではないが――一種の心の無感覚、一種の絶望的な諦めをもってきた。そして、この懲罰は、いま私に振りかかっている最後の災難がなかったならば、まだまだ何年も続いたことであろう。ところが、その災難は私自身の顔や性質を私から永久に切りはなしてしまったのである。私の塩剤の貯えは、はじめの実験以来一度も新しく買い入れたことがなかったが、それがだんだんと少なくなってきた。私は新しいのを取りよせ、薬を調合した。すると沸騰がおこって、第一回の変色はあったが、二回目の変色がおこらなかった。私はそれを飲んだが、それは効きめがなかった。私がどんなにロンドンじゅうをさがし回らせたか、君はプールから聞けばわかるであろう。それも無駄であった。それで、私は、自分の最初に手に入れたのが不純であって、あの薬に効験を与えたのは、その未知の不純性であったのだと、今では確信している。
 それからざっと一週間たった。そして私はいま、あの前の散薬の最後の分の効力によってこの陳述書を書き終ろうとしているのである。だから、ヘンリー・ジーキルが自分自身の考えを考え自分自身の顔(今はなんとひどく変ったことであろう!)を鏡の中に見ることができるのは、奇跡でも起こらないかぎり、これが最後である。それに、この手記を書き終えるのにあまり永く手間どってはならないのだ。なぜなら、この手記がこれまで破られなかったとすれば、それは非常な用心と非常な幸運とが結合したためであった。これを書いている最中に変身の苦しみが私をおそうようなことがあれば、ハイドはこれをずたずたに引き裂いてしまうだろう。しかし、もし私がこれを片づけてしまってから幾らか時間がたっていたなら、彼の驚くべき利己主義と刹那主義とは、多分、その猿のような悪意のいたずらから、今一度これを救うであろう。それに、実際、我々二人に迫っている最後の運命は、とっくに彼を変え、彼をおし潰してしまった。今から半時間もたてば、私は再び、そして永久に、あの憎み嫌われる人間に変っているであろうが、そのときには、私が椅子に腰かけてどんなに震えて泣いているか、または、どんなに耳をすまして極度に張りつめた恐怖のために無我夢中になって、この室(この世での私の最後の避難所)をあちこちと歩きながら、自分を脅かすすべての物音に聴き耳を立てているかということを、私は知っているのだ。ハイドは処刑台上で死ぬだろうか? それとも最後の瞬間になって逃れるだけの勇気があるだろうか? それは神さまだけがご存じである。私はどちらでもかまわない。これが私の臨終の時なのだ。そしてこれから先におこることは私以外の者に関することなのだ。だから、ここで私がペンをおいてこの告白を封緘しようとするとき、私はあの不幸なヘンリー・ジーキルの生涯を終らせるのである。
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七頁 カインの主義 カインはアダムの長子で、弟アベルを殺した男。旧約聖書創世記第四章第八―九節に「彼等野におりける時、カインその弟アベルに起ちかかりて、これを殺せり。エホバ、カインに言いたまいけるは、汝の弟アベルはいずこにおるや、彼言う、我知らず、我あに我が弟の守者まもりてならんや、」とあるので、ここにアッタスンが「カインの主義」と言ったのは、知っていて知らぬ振りをすることを意味したのである。
一九頁 デーモンとピシアス 二人とも古代ギリシアの人で、その友情の厚いので有名であったので、「デーモンとピシアス」という語は、漢語における管鮑の交、刎頸の友、莫逆の友即ち親友を意味すること、「ジーキルとハイド」が二重性格を意味するようなものである。
二一頁 彼がハイド氏なら…… ハイドという名は「隠れるハイド」という語と発音が同じであり、シークは「探す」という意味である。「ハイド・アンド・シーク」は隠れんぼを意味するので、その洒落である。
二五頁 フェル博士 別に理由がなくて人に嫌われたという人物。
八九頁 あのフィリッパイの囚人のように フィリッパイは昔のマケドニアの都市、聖書のピリピであって、この「フィリッパイの囚人」はパウロとシラスとをさす。使徒パウロとシラスとがフィリッパイに伝道に赴き、その地で投獄せられた。「夜半ごろパウロとシラスと祈りて神を賛美するを囚人ら聞きいたるに、俄かに大いなる地震おこりて、牢舎の基ふるい動き、その戸たちどころに皆ひらけ、すべての囚人の縲絏なわめとけたり、」と新約聖書使徒行伝第十六章第二十五―六節に記されているところから、言った文句である。
九四頁 壁にあらわれたあのバビロニアの指 昔バビロンの王ペルシャザルが酒宴を開いている最中に、人の手の指があらわれて、王宮の壁に解し難い形の文字を書いた。王は大いに恐れて、バビロンの知者どもにそれを解き明かさしめようとしたが、皆読むことができなかった。ダニエルが召されて、その文字を読み、王の治世の終りと国の分裂とを示すのであると言った。その予言はその後間もなく実現された。旧約聖書ダニエル書第五章に記されている故事である。
九九頁 逃遁の邑 古代ユダヤで誤って人を殺した者を庇護した町である。旧約聖書民数紀略第三十五章、ヨシュア記第二十章などに記されている。
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解説


「ジーキル博士とハイド氏」は、単に固有名詞としてのみならず、二重性格を意味する普通名詞としても亦、普く世界中に知られているくらいに、有名な小説である。原作の標題は“The Strange Case of Dr. Jekyll and Mr. Hyde”(「ジーキル博士とハイド氏の怪事件」)であって、ロバート・ルーイス・スティーヴンスン(一八五〇―一八九四)の一八八五年の作、翌一八八六年一月に初めて出版されたものである。
 この作の創作過程については、既に種々の伝説が存在している。とにかく、「新アラビア夜話」及び「宝島」の出版によって初めて文学的名声を得たスティーヴンスンが肺患に悩みながらヨーロッパ大陸からイギリスに帰り、イングランド南海岸の保養地ボーンマスに父から買って貰ってスケリヴォーと名づけた家に病を養っている間、詩集「子供の詩の園」、長編小説「オットー王」などの脱稿の後、一八八五年、金の必要に迫られて、何か速く書き上げることのできそうな小説を頻りに考えている時に、或る夜見たによって、この二重人格の物語を思い付いたのだという。その夢に関しても諸説があるが、彼が夢みたのは、恐らく、彼自身の言っているように、一人の男が戸棚の中に押しこめられている時に薬を飲んで他の人間に変ったという場面だけくらいのものであって、他は目覚めている時に構想されたのである。彼は友人との合作戯曲「執事僧ブローディー」、短篇小説「マーカイム」など類似の題目を過去において幾度か扱っており、人間の二重性を主題とした物語を書くことを以前から意図していたのであった。最初の草稿は烈しい勢で忽ち書き上げられた。それを彼の妻が読み、寓話であるべきものが幾分平凡な物語になっていて、寓意が明らかにされていないと非難した。彼はその非難を認めて、異った見地から新たに書き直すことにし、完全な改作ができないことを恐れて最初の原稿を焼き棄て、再び白熱の興奮の中に約三万語の作を僅か三日間で書き上げたと言われている。尤も推敲と完成にはその後約一カ月を要したという。ともかく、スティーヴンスン自身の言葉によればこの書が「考察され、書かれ、書き直され、再び書き直され、印刷された」のが「十週間以内」であったというのは、真実であろう。
 こうしてこの作は一八八五年の秋の末頃には既にロンドンのロングマンズ、グリーン社から単行本として出版される準備が出来ていたが、出版社の営業上の理由から延期され、翌八六年の一月中旬に発行された。最初は別に顧みられなかったが、「タイムズ紙」に紹介の一文が出るに至って世の注目を惹き、他の批評が続々と現われ、またセントポール大会堂でその道徳的寓意モラルが説教の材料とされるに及んで、各地の教会の牧師も好んでこの作を引用し、世評は益々高まり、この書は大いに読まれて、一伝記者に従えばバイロン卿の如く「スケリヴォーの病隠遁者も一朝目覚めて自己の名高きを知った」のである。かくしてスティーヴンスンはこの一小編によって作家としての名声を完全に確立するに至った。この二年前に彼の出世作「宝島」の出現が世に迎えられた時もそれの最初の出版から一年間に売られた部数は約五千に過ぎなかったが、「ジーキル博士とハイド氏の怪事件」は数カ月にして五万部を売り、更に大西洋を越えてアメリカにおいてもポーに比されて直ちに歓迎された。そして今日においては、前述の如く、全世界において「ジーキル博士とハイド氏」または「ジーキルとハイド」と言えば二重人格を意味するくらいに一般的となっているのである。
 作そのものについては茲に解説しない。エドガー・アラン・ポーの「ウィリヤム・ウィルスン」、オスカー・ワイルドの「ドーリアン・グレーの肖像画」などと共に、この種の文学としては世界的古典となっているが、それらとの比較も読者にとって興味ある題目であるだろう。

 この翻訳は訳者所蔵の一八八六年ロングマンズ、グリーン社発行の初版本に拠ってなした。この書は同年発行の後の版を蔵しておられる市河博士の折紙付きで、その見返しの裏に鉛筆で書き込んであるように、今日ではあるいは“first edition, scarce”(初版、稀覯」)の書の部類の片隅に入るかも知れない。薄茶色のクロース表紙の本である。しかし、後に改版の際に多少改訂された個所は、大体その訂正を採った。
 訳文中に傍点を付してある部分は、原文において強調の意味を以て斜体活字イタリックで印刷されている語であり、圏点を付してあるのは、同じく強調の意味で頭文字だけで印刷されている語である。
 ジーキル(またはジェキルとも発音されるか)のジにヂを用いないのは、ディの音がわが国ではラオの如く屡々ヂと発音され且つ書かれるので、それと区別するためである。エドワド、リチャド等の発音はわが国における従来の慣用に従った。
 訳文中の数個の語句について巻末に簡単な注を付したが、注は一々読まれなくても差支えない。
 尚、この原作が献ぜられているキャサリン・ディ・マットス夫人は作者の従妹であって、献詩のヒースの生い茂り風吹き荒ぶ北国は彼等の故郷スコットランドをさすのである。
   一九四〇年十一月
佐々木直次郎





底本:「ジーキル博士とハイド氏」新潮文庫、新潮社
   1950(昭和25)年11月25日発行
   1962(昭和37)年8月10日24刷
※「捜」と「搜」の混在は、底本通りです。
入力:kompass
校正:松永正敏
2007年2月16日作成
2011年4月29日修正
青空文庫作成ファイル:
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感嘆符三つ    77-3


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