年毎に彼の身体に悪影響を伝える初春の季節が過ぎ去った後、彼はまた静かなる書斎の生活をはじめた、去ってゆく時の足跡をじっと見守っているような心地をし乍ら。木蓮の花が散って、燕が飛び廻るのを見守っては、只悠久なるものの影をのみ追った。然しその影の
前日からの風が夜のうちに止んで、朗らかな朝日の影が次第に移っていった。その時女中が一封の信書を彼の書斎に届けた。裏を返すと彼の心は一瞬の間緊縮された。手紙は京都の若い叔父からであった。彼は暫く眼を空間に定めて、それから封を切ってみた。断片的な簡短なる文句が続いている。
一度御地の旧物を訪わんと存候えど、閑暇――閑暇はあり乍ら心臆して未だその期を得ざるままに日を暮し候。その後出京の念漸く成りて本夕出発、明日は多分御面接を得ることと存候。御新棲の有様も伺いたくと存候えば……。
それから又こんな文句もあった。
但し此度は微行 に候、微行とは誇言なれど、此度の出京は君等の外誰も知る者なしとの意に候。然しそは特別の用件あるが故には候わず。ただ一泊の訪問なるを予め御報申さんが為に候……。
其処を彼はくり返して読んでみた。そして手紙はこう結んであった。
突然のことにて御喫驚も有之らんかなれどそれも面白かる可しと存候。此の手紙は今日午前投函する筈なれば、小生の到着前に御手に届くことと存候。自身は今夕夜行にて出発する筈に候。但し本日の夕陽に明日の快晴を思わするものあらばとの条件を附加し候、さらば。
彼の心に不可解なものが愛妻を失って憂愁の生活をしている痩せた叔父の姿が彼の頭に映った。それからたえ子を恋した叔父、彼とたえ子との恋を聞いて二人の間を纒めてくれた叔父、間もなく自ら京都に職を求めて去った叔父、好める植物の研究に余暇を捧げて、老婢と佗びしい暮しをしている叔父、――過ぎ去った二年の歳月が、彼の前にそういう別々の叔父の姿を幾つも見せてくれた。遠い絵巻物をでも見るような落ち着いた心地で彼はそれを見た。然し今、書信の往復も間遠になった折のこの突然の来意の手紙が、彼の心に妙な悲壮な気の暗示を与えた。叔父はまだたえ子の姿を心の奥に秘めているのではないだろうか、と彼は思った。
然し彼が見たのは何故? との問題ではなかった。どうにかしなければならない、とそう思った。そして彼の前に広い空間が拡がった。その中に叔父が居る、彼自身が居る、そして妻のたえ子が居る。
彼は立ち上って、手紙を持ったまま妻の室に行った。彼女は
彼は妻の傍に坐って黙って手紙を差出した。
「これを読んでごらん。」
彼女は手紙を受け取って裏を返してみた時、顔を上げて彼の眼をじっと見た。それから事もなげに中を披いて読み下した。
「ほんとでしょうか。」と彼女は云った。
「だって昨日の夕日は綺麗だったじゃないか。」
「では今日被入るのね。」
「ああもうすぐ御出でになるかも知れないよ。」
「そうね。」
彼は妻の顔を見つめてやった。何だか自分と関係もない
「叔父さんからお前の処へ別に手紙はなかったかい。」
「いいえ何にも。」
その時彼は過去のことを思い出した。まだ彼とたえ子との間を知らなかった時、叔父はたえ子へ二つの手紙を書いた。その後で二人の間を纒めてやった時、彼女からその手紙を返して貰って、それを彼の前に差出した。「君が見てもいいんだ。」と叔父は云った。然し彼はそれを
「お前からも叔父さんに手紙を書いたことはないんだね。」と彼は云った。
「ええありませんわ。なぜ?」
「ああそれでいいんだよ。」
「え?」と云って彼女は彼の
「何にも考えてなんか居ないよ。……叔父さんは俺達の恩人なんだね。」
「ええそうよ。たんと御馳走してあげましょうね。」
そして二人はわけもなく微笑んでしまった。
「ほんとに御心持ちのいいようにしてあげなくてはいけないよ。」暫くして斯う彼は云った。
叔父の来着を女中が彼の許に報じたのは十一時頃であった。
彼は立ち上って、窓から青い空をすかし見た。一寸眉を
「大分お待ちしていました。」と彼は云った。
「こちらへは九時に着いたんだが、暫く郊外を歩き廻っていたのだから遅くなってすまなかったね。」
彼は叔父の顔を見守った。以前何処かやさしい女らしい所のあった顔が、瞑想的に引きしまっているのを彼は見た。そして何か見馴れない表情のあるのを発見して不思議相に見つめていた。
「なぜそう黙って僕の顔を見ているんだい?」と叔父が云った。
その時彼は初めて短く鼻髭を
「何処か見馴れない所があると思いましたら、髭をお伸しなすったんですね。」
「おやそうでしたのね。私も何だか変だと思っていましたの。」とたえ子が云った。
「ああこれか」と云って叔父は苦笑した。「今気が附いたのか、君達も随分呑気だね。」
叔父は問われるままに京都の種々な話をした。旧御所の中の編笠をかぶってお化粧した掃除女の群や、
「一体彼等の、特に尼僧の生活には矛盾があるようだね。彼等は静かな
「それでは
「そうも云えるだろうが、また反対に時に征服されたんだとも云えるだろうね。」
彼は叔父の語る所に先刻から何かの強い意志の籠っていることを感じていた。それで煙草をすすめてみた。
「僕はすっかり煙草は
「お
叔父の語る所によると、彼は大分前から肺を侵されているとのことである。自分では時々肩の
「それでは会社の方もお止めなすったら。」
「なに、人間は何かしていないと淋しいからね。」と彼は云った。それから急に調子を低くして、「実は旅も医者の方から禁ぜられているんだけれど、悪くなる前に一度君達にも逢いたいと思ったものだからね。」
凡てのことがはっきり分って来たように彼には思えた。憐れむのでも同情するのでもなく、ただじっと叔父の心を見つめているような心地で、彼はその顔の淋しい陰影を見守った。
「それでは四、五日ゆっくり休んでいらっしたらいいでしょう。」
「いや後でまた医者に叱られるといやだからね。」そして叔父は他愛なく笑った。「それに種々な雑務もひかえているんだから。」
「ではあの父が居た室が今あのままになっていますから、お嫌でなかったらゆっくりと疲れをお休めなすったらいいでしょう。」
「ああそれは結構だね。然し別に病人というんではないから、どうかかまわないでおいてくれ。その方が自由でいいからね。」
それで彼は妻と一緒に、もと父が居た部屋を清めて、窓際に柔かなソファアを据えたり、
「あの木は暫く見ないうちに随分大きくなったもんだね。」と云って青々とした芽を出している
「何よりも梧桐が一番早く伸びますよ。」
「そうだね。」と云って叔父はやはりじっと庭を見ていた。
午後になって薄い雲が空を蔽うた。淡い日光が物の輪廓を朧ろに
彼は初め叔父を見た時から何かがしきりに感染して来るような気がしていた。その漠然としたものが次第にある中心を定めて凝結して来た。其処に先刻叔父が話した尼僧の生活と云ったようなものがあるように思えた。只一人離れてじっと何か淡々しいものに浸り乍ら眼を見開いていたい、というふうな感情が彼の心に甘えていた。
叔父は勿論只単にたえ子のために来たのでもない、と彼は思った。また単に彼自身のために来たのでもない。彼とたえ子との間に醸される雰囲気に身を浸して、過去の思い出に今一度ヒロイックな美しい感銘を与えんとて来たのであろう。然し叔父は後で却ってそれを後悔するようにならないであろうか?
彼は自分の心を
彼は立ち上って室の前の廊下に出て、窓を開き乍ら下の庭面に眼をやった。曇り空の明るみが庭一面に澱んで、そよともしない新緑の樹々の間を奥深く見せていた。冬のような日の光りだと彼は思った。そして萠え出たペンペン草の長い茎を見守っていた。
その時木立の間に叔父の姿を見出して、後は我知らず身を引いた。それから又そっと覗いてみた。叔父は学校から帰って来た末の妹の
「あら兄さんが!」そう云った妹の声に彼は駭然とした。同時に叔父が黙って彼の方を見上げた。彼はしいて顔面の筋肉を
「お眠りになれませんでしたか。」
「ああ何だかね……でも昼寝より歩いている方がいいようだ。」
「こちらへいらっしゃいませんか。」
「そう、君の書斎を拝見しようかね。」
「あたしも行ってよくって?」とその時葉子が大きい声をした。
「そうね、まあお前は来ない方がいいようだね。」
「意地わる根性!」と葉子は睨むような眼附をした。「いいわ、
間もなく叔父はその高い姿を彼の書斎に現わした。彼は室の中に椅子を据えて其処に
「此の頃は何か研究でもやってるのか。」と叔父が云った。
「研究という程のこともないんですが、少しずつ書物を読んでいます。」
叔父は書棚にぎっしりつまった洋書や和書を見廻わして、それから壁に懸っている二三の
「君は聖書を読んだことがあるだろう。」と突然叔父は尋ねた。
「ええ、ずっと前に。」
「どうだった?」
「どうって、そうですね、旧約の或る部分や
「僕の知人に熱心な信者が居てね、是非読んでみろって勧めるから、少しばかり見たんだが、さっぱり面白くないね。」
「ええそれはそうでしょう。」
「何が?」
「いえ、叔父さんには植物の研究の方が面白いでしょうと思って……。」
「面白いね。」
それから叔父は種々な地衣科植物についてその微妙な作用を話して聞かせた。西嵯峨野に近来妙な苔が発生して、其処には凡ての雑草が枯れつくして、只
「叔父さんのは
「そうだね。でも僕は凡てのことに余り素人すぎるんではないかと思うよ。」
「そうでもないんでしょうけれど……。」と云いかけて彼は口を
「そうか。」と云ったまま叔父はそれを深く尋ねようともしなかった。
沈黙が続いた。そして二人の間に重苦しいものが置かれた。彼は耳を澄して何かをじっと聞きとろうとするような心地で居た。昼の光りが次第に移って淡くなるのが見えるように思えてきた。二人共離ればなれに居て、それで同じものを別々の眼で見守っているような心持ちが、はっきりと彼の心に映った。その時叔父が突然こう云った。
「あまり急にやって来たんで、少し驚かしたのではないかね。」
「いいえ、朝のうちにお手紙を戴きましたから。それでもお手紙を拝見しました時は、少し意外でしたけれど。」
「何しろ僕も急に思い立ったんだからね。実は
「そんなにお悪いのですか。」
「自分では分らないが、何しろ医者がひどく云うんだからね。」
彼は叔父の顔を見守った。そしてその眼に何か云い出しかねているような思いの潜んでいるのを見た。
「お手紙にあったことは本当ですか。」
「偽りは少しも書かなかったつもりだが。」
「特別の御用件が無いというのも。」
「そうだ。只一寸君達に逢ってみたいということの外はね。」
「お出でなすって何か御不満はありませんでしたか。」
「君は何時もそんな風に物を考えるからいけないんだ。僕の心はよく君に分っている筈だ。そして君の心も僕には分っているつもりだ。……叔父が甥の家を
「ええ、ですけれど、私は何だか客をとりもつことを知らないものですから、御退屈ではないかしらと思って……。」
「なにその方が気がおけなくていいんだ。」そう云って叔父は快活そうに笑った。
それで彼も漸く心が落ち着けたように思った。これだけ云ってしまえばもう何にも云うことは残っていないような気がした。それで画集などを開いて見せた。
「裸体画が大分多いようだね。」
「ええ。」と云って彼は微笑んだ。
その時ピアノの音が響いて来た。叔父は一寸耳を傾けて聞いているようだった。彼は叔父がよくたえ子の
「あちらへお出でになりませんか。」
「そうだね。」と云って叔父は一寸躊躇した。
それは丁度たえ子と葉子と二人でピアノの側に立ち乍ら何やら笑い興じている所であった。二人共喫驚したように眼を見開いて彼等を見守った。
「叔父さんのために何か弾いてごらん。」と彼は妻に云った。
「もうすっかり忘れてしまったんですもの。」
「うそよ!」と葉子が云った。「弾かないって法はないわ。」
それで皆笑ってしまった。そしてたえ子は指を鍵盤に置いた。彼女は特にベエトオヴェンのソナタ第二部のうちから
彼は始め彼女の側からかすかに見える白い指先の走るのを見守った。それから静かなる
と突然、騒然たる楽の音がして、妻はピアノを離れ、彼の傍の長椅子に身を投げた。
「何だか指が思うように動きませんので。」と彼女は云った。
彼は彼女の敏感に驚いた。そして早く
「久しぶりで音楽をきくと妙な気がするもんだね、何だか過ぎ去った時というものが逆にもどるようで。」
「
「お前弾いてごらんよ。もう大分お上手になったんだろう。」と彼が云った。
「うそよ。」と葉子は黙ってしまった。
妙な興奮したような沈黙が続いた。何時の間にかついた電燈の淡い光りが、彼等の思いをちぎれちぎれに遠い空間へ運んでいった。
「叔父さん、」と彼が口を開いた。「
「いや、第一、機会が少いし、それにわざわざ出かけて行って聞く程の勇気もないからね。」
それから彼等はすぐ夕食の膳についた。叔父は極めて少食であった。
その晩四人で集って、トランプを弄んだり、雑談をしたりして十時近くまで遊んだ。叔父が時々咳をするので、「もうお休みなすったらいいでしょう、」と彼は云った。
「そうだね。」と叔父は低い返事をした。
「叔父さんが一番負けね。」とトランプを片附けていた葉子が残りおしそうにして云った。
叔父が立って行った時、「見ておあげよ。」と彼は妻に云って、それから縁側に出てみた。
庭の樹影がかさかさと揺いだので後は耳を澄すと、あたりが寂然と静まり返った。その沈黙のうちに、何かが物影からじっと彼の方へ窺い寄ろうとしているのを感じた。それで縁側を歩き廻って、自分にも分らない妙に興奮した考えを振り落そうとするように肩を引きしめてみたりした。丁度柱時計が十時を打って、その
その時廊下の向うに足音がした。たえ子であった。彼女は薄明るみの中をすかし見て、夫の姿を認むるや否や殆んど駈けるようにして彼の許に身を寄せた。
彼女の眼が光っていた。彼は薄明りにその意味をよむことが出来なかった。それでそっと妻の肩に手を置いて、こう云った。
「叔父さんは?」
「おやすみなすったでしょう。」
肩に置いた手にその低い声が震えるように感ぜられた。彼は今一度妻の顔を凝視した。
「叔父さんは何とも仰言らなかったのかい。」
「いいえ。」そして彼女は一寸息を休めた。「ただ、すっかり以前と様子が変ったねってそう仰言って、私の顔をじいっと見つめていらしったの。私はそれから何か仰言るのかと思って黙っていましたら、何時までたっても何とも仰言らないのですもの。それで顔を上げると、叔父さんは窓越しに外の方を見ていらっしたの。だから私、おやすみなさいませと云って出て来ました。でも……私何だか妙な気がしましたの。」
「それっきり?」
「ええ。」
「お前は臆病だね。」
「え?」と彼女は顔を上げて彼の眼を見守った。
「そんな時にはそっと額にキスしてあげるものだよ。」
「いやですよ、いやですよ!」
彼は
「
「行っておいでよ。」と彼は妻の身体を押しのけるようにした。
彼女は夫の顔を今一度仰ぎ見て、それから黙って去った。
一人になると、彼は今したことをじっと見守っていたも一つの自分というものが返って来たような気がした。それで室から紙巻煙草を取って来てそれに火をつけ乍ら、庭に下りた。
午後に曇った空はまた何時の間にか美しく晴れ渡っていた。月の無い暗い空に星が燦然と輝いて、久遠の
その時向うにちらつく火影を認めて彼は凝乎と立ち止った。それは叔父の室であった。叔父は窓をうち開いて
「叔父さん!」
叔父は物に
「まだ起きていらしたんですか。」
「ああ。」と叔父は漸々安心したらしく答えた。「何だか少し外気に触れたいと思ってね。……君一人なのか。」
「ええ。ちとお歩きになりませんか。」
「そう、僕もそんなことを思っていた所だ。」
こう云って叔父は窓を閉じた。
彼は樹の幹に身をもたせて空を仰いだ。障壁がとれて直接に叔父の心と見合せたような気がした。そして北斗星の尾を延長してその線に当る星々を一つ一つ見つめながら、大空に一直線の視線を画いた。
「何処へ行くんだ。」と間もなくやって来た叔父が尋ねた。
「そうですね……。」と彼は漠然と答えた。
それでも二人は言い合したように庭の奥の方へ歩き出した。
彼は父母の遺産をついでこの広い邸宅を守ってから、花壇や狭い畑地を壊して、大木を選んでむやみと植え込ませた。遠くより見れば殆んど森のようになった屋敷も、時々植木屋の手が入るので、その中にふみ込むと矗々と並び立った木立の下影には案外広濶な空地が開けていた。二人共沈黙のうちにその中を歩き廻った。
梢からちらちらと洩れる星影を頼りにほの暗い中を歩いていると、彼は傍に立っている者の叔父であることを殆んどうち忘れた。彼は其処に只一人の人間を見た、病に寿命を縮められた人を、昔の恋人たりし人妻の家に遙々訪れて来た人を、そしてまた自分の敬愛する一人の畏友を。
「あなたは、」と彼は云った。「御病気なすってから何か人生観というようなものがお変りにはなりませんでしたか。」
「そう、むずかしいことは分らないが、物の見方というようなものは変化したようだね。」
「どんな風になんです?」
「何でも僕は先へ先へと考えすぎたようだね。所が病気をしてからは過去を振り返ってみるようになったような気がするよ。それが
「中年に
「そうだね。病気と云っても僕のはまだ自分でそう悪くは感じないんだから。」
「私なんかも、少し身体の加減がよくない時には妙に引き込み思案になりますが、平素はあまり先へ先へと急ぎすぎて、何にも掴まないうちに凡てを通り越すんじゃないかとよく思います。」
「それでいいんだろう。」と一寸叔父は言葉をとぎらして、また言葉をついだ。「君の家へ来てから特に僕はそう思うよ、君の生活と僕の生活とが余りにかけ
「何かお気を悪くなさるようなことはありませんでしたか。」
「君もよほど神経過敏の方だね。」と叔父は笑った。
「でも何だか
「少しは……そう云えばそんな感じもあるね。」
「あなたは私達の恩人だと思っていますから……。」
「僕はもうそんなことは考えてなんぞ居ないよ。」と突然叔父が遮った。
「いえ、私はいつかほんとに心から叔父さんに感謝したいと思っていました。そしてまた、叔父さんの生活が非常に崇高なもののように思えますので、いつかゆっくり御話がしてみたいと思っていたのです。」
「君達はあれからずっと幸福なんだろうね。」
「ええ。そして私はまたある意味で叔父さんも幸福でしょうと……幸福であらるるようにと祈っていました。」
「幸福と云えば僕はやはり幸福だよ。誤った出立をしなかったと思うからね。」
「ええ。然し……。」と云って彼は口を噤んだ。今の叔父が出立を誤らなかったというのは。その先を考えて彼はじっと眼を伏せた。
「何だ?」
「いえ、私もそうですが、叔父さんもお弱いようですね。」
「そう、自分でそんな風に考える時もあるよ。」
それきり二人は黙ってしまった。彼は我知らず一人で
叔父は暫く沈黙のうちに彼と並んで歩いていたが、急に足を止めた。
「どうかなすったのですか。」
「なに少し寒けがするようだから。」
「ああ、あまり長く外に居すぎたようですね。お身体に障るといけませんから。」
「いや、そんなでもないんだが……。でも今夜はお互にはっきりした話が出来て大変愉快だった。」
家に
「
そして彼は叔父が
朝寝の習慣がついてしまっていたので、翌朝彼が起き上ったのはやはり太陽が高く上った後であった。そよそよと風に揺ぐ新緑の葉の一つ一つに日光が輝いて、そして雀の群が楽しい叫び声で呼び交していた。
「叔父さんは?」と彼は女中にきいた。
「早くから、野原に出て来ると仰言いまして御出かけになりました。」
彼は庭に出て新鮮な空気を吸い、そして室に帰って叔父を待った。昨夜のことが夢のようにかすんでゆくのを、
其処に叔父が何処か晴々とした顔をして帰って来た。凡てを忘れたもののようにして、そして長い間の親しみを持ったもののようにして。
「よく御眠りになりましたか。」
「ああ。今朝は大変気持ちがいいね。」こう云って親しい
朝とも
彼はそういう対座が非常に疲労を来すものであることを感じた。そして沈黙の合間合間に頭を抬げようとする反撥の感情があるのに気附いていた。叔父が強く自分の心を押えつけているような努力の跡をも見た。それが身体に障りはしないかとも気づかった。
「昨日から僅か一日だが、大変長い間のことのように思えるね。」と叔父は思い出したように云った。
「ええ、私も何だか長く滞留なすっていらっしたような気がします。」
「それではこれからまた新らしく
「そうです、何時も新らしい気分で生きてゆくと張り合いがあるような気がしますね。」
「然しやはり生活は何時も同じだからね。」そう云って叔父は苦笑した。
葉子が帰って来た時、彼はほっと助かったというような気がした。
「今日お帰りなさるの? まあ!」と云って葉子は眼をみはった。
何にもすることが無かったので、三人は気が進まなかったけれど、葉子がすすめるままにトランプを又はじめた。
「
西に傾いた日影の移ってゆくのが眼に見えるように早く感じられた。頼り無いような気分が室の中に漲って、三人共、それに浸り乍ら、過ぎ去って行くものの影をじっと見守っているような心地で居た。只葉子ばかりはひたすら骨牌に身を入れた。
叔父は七時の列車を取ることにきめた。晩餐の時に彼は葡萄酒をすすめた。叔父も心地よく二三杯のみ干した。
停車場に
新橋には早や多くの旅客が込んでいた。去る者の
「大分込みますね。」
「ああ。でもじきに寝台車の方が
叔父は列車の窓から、外に立っている彼とたえ子とを順々に見守った。そして眼をそらして向うに立っている大勢の見送人の上を眺めた。
彼は窓際に歩み寄った。
「此の次には
「君も一度は京都にやって来給え。」
「ええ是非一度は行ってみようと思って居ます。」
「なるべく早い方がいいね。」と叔父は云った。そして睫毛がちらと動いた。
「御大事に。」と列車が動き出した時彼は云った。そして頭を下げた。
叔父は黙って皆に答礼した後、すぐに窓をしめてしまった。
ぞろぞろと足を返して行く見送り人の間に彼等は立って、青白く光るレールに沿って眼を走せ乍ら、去り行く列車の影を見送った。