恩人

豊島与志雄




 年毎に彼の身体に悪影響を伝える初春の季節が過ぎ去った後、彼はまた静かなる書斎の生活をはじめた、去ってゆく時の足跡をじっと見守っているような心地をし乍ら。木蓮の花が散って、燕が飛び廻るのを見守っては、只悠久なるものの影をのみ追った。然しその影の淡々あわあわしいのを彼の心が見た。
 前日からの風が夜のうちに止んで、朗らかな朝日の影が次第に移っていった。その時女中が一封の信書を彼の書斎に届けた。裏を返すと彼の心は一瞬の間緊縮された。手紙は京都の若い叔父からであった。彼は暫く眼を空間に定めて、それから封を切ってみた。断片的な簡短なる文句が続いている。
一度御地の旧物を訪わんと存候えど、閑暇――閑暇はあり乍ら心臆して未だその期を得ざるままに日を暮し候。その後出京の念漸く成りて本夕出発、明日は多分御面接を得ることと存候。御新棲の有様も伺いたくと存候えば……。
それから又こんな文句もあった。
但し此度は微行びこうに候、微行とは誇言なれど、此度の出京は君等の外誰も知る者なしとの意に候。然しそは特別の用件あるが故には候わず。ただ一泊の訪問なるを予め御報申さんが為に候……。
 其処を彼はくり返して読んでみた。そして手紙はこう結んであった。
突然のことにて御喫驚も有之らんかなれどそれも面白かる可しと存候。此の手紙は今日午前投函する筈なれば、小生の到着前に御手に届くことと存候。自身は今夕夜行にて出発する筈に候。但し本日の夕陽に明日の快晴を思わするものあらばとの条件を附加し候、さらば。
 彼の心に不可解なものがかもされた。それで幾度もくり返し読んでは、叔父の本意を探らんとした。然し彼の眼に留ったものは以上の文句に過ぎなかった。彼はまた丁寧に手紙を巻き納めて、それから卓を離れてソファアの上に身を投げた。
 愛妻を失って憂愁の生活をしている痩せた叔父の姿が彼の頭に映った。それからたえ子を恋した叔父、彼とたえ子との恋を聞いて二人の間を纒めてくれた叔父、間もなく自ら京都に職を求めて去った叔父、好める植物の研究に余暇を捧げて、老婢と佗びしい暮しをしている叔父、――過ぎ去った二年の歳月が、彼の前にそういう別々の叔父の姿を幾つも見せてくれた。遠い絵巻物をでも見るような落ち着いた心地で彼はそれを見た。然し今、書信の往復も間遠になった折のこの突然の来意の手紙が、彼の心に妙な悲壮な気の暗示を与えた。叔父はまだたえ子の姿を心の奥に秘めているのではないだろうか、と彼は思った。
 然し彼が見たのは何故? との問題ではなかった。どうにかしなければならない、とそう思った。そして彼の前に広い空間が拡がった。その中に叔父が居る、彼自身が居る、そして妻のたえ子が居る。
 彼は立ち上って、手紙を持ったまま妻の室に行った。彼女は手娯てなぐさみの刺繍をやっていた。夫の姿を見てその顔を見守った。その眼が「何か御用?」とこう云った。
 彼は妻の傍に坐って黙って手紙を差出した。
「これを読んでごらん。」
 彼女は手紙を受け取って裏を返してみた時、顔を上げて彼の眼をじっと見た。それから事もなげに中を披いて読み下した。
「ほんとでしょうか。」と彼女は云った。
「だって昨日の夕日は綺麗だったじゃないか。」
「では今日被入るのね。」
「ああもうすぐ御出でになるかも知れないよ。」
「そうね。」
 彼は妻の顔を見つめてやった。何だか自分と関係もない他処よその女を見ているような気がした。お前は誰だときいてみたいようにも思った。そしてこう云った。
「叔父さんからお前の処へ別に手紙はなかったかい。」
「いいえ何にも。」
 その時彼は過去のことを思い出した。まだ彼とたえ子との間を知らなかった時、叔父はたえ子へ二つの手紙を書いた。その後で二人の間を纒めてやった時、彼女からその手紙を返して貰って、それを彼の前に差出した。「君が見てもいいんだ。」と叔父は云った。然し彼はそれをひらかないで、二人して灰にしてしまった。彼は前にたえ子の手からそれを見せて貰ったことをとうとう隠してしまったのである。
「お前からも叔父さんに手紙を書いたことはないんだね。」と彼は云った。
「ええありませんわ。なぜ?」
「ああそれでいいんだよ。」
「え?」と云って彼女は彼の顔色かおいろを窺った。そしてこうつけ加えた。「あなた何か変なことを考えては被居らなくって?」
「何にも考えてなんか居ないよ。……叔父さんは俺達の恩人なんだね。」
「ええそうよ。たんと御馳走してあげましょうね。」
 そして二人はわけもなく微笑んでしまった。
「ほんとに御心持ちのいいようにしてあげなくてはいけないよ。」暫くして斯う彼は云った。

 叔父の来着を女中が彼の許に報じたのは十一時頃であった。
 彼は立ち上って、窓から青い空をすかし見た。一寸眉をそびやかして大きい呼吸をしてみた。心の底の或る堅くなっている思いをじっと押えつけるようにして。それから客間に入った。妻が叔父を其処に案内したばかりの所であった。
「大分お待ちしていました。」と彼は云った。
「こちらへは九時に着いたんだが、暫く郊外を歩き廻っていたのだから遅くなってすまなかったね。」
 彼は叔父の顔を見守った。以前何処かやさしい女らしい所のあった顔が、瞑想的に引きしまっているのを彼は見た。そして何か見馴れない表情のあるのを発見して不思議相に見つめていた。
「なぜそう黙って僕の顔を見ているんだい?」と叔父が云った。
 その時彼は初めて短く鼻髭をのばしてあるのに気附いた。それで微笑んでこう云った。
「何処か見馴れない所があると思いましたら、髭をお伸しなすったんですね。」
「おやそうでしたのね。私も何だか変だと思っていましたの。」とたえ子が云った。
「ああこれか」と云って叔父は苦笑した。「今気が附いたのか、君達も随分呑気だね。」
 叔父は問われるままに京都の種々な話をした。旧御所の中の編笠をかぶってお化粧した掃除女の群や、清水きよみずの茶店を守っている八十幾歳の老婆の昔語りや、円山公園の夜桜、それから大原女おはらめの話、また嵯峨野の奥の古刹から、進んでは僧庵や尼僧の生活まで。そしてこうつけ加えた。
「一体彼等の、特に尼僧の生活には矛盾があるようだね。彼等は静かな勤行ごんぎょうの生活のうちに、過去のなつかしい思い出を深く深く掘ってゆく。その思い出が親しくなり美しくなるに従って、それを寂滅為楽の途に進むことと思っているらしいんだ。そして遂には前に進むことを知らないで、過去へ過去へと全く向き返ってしまって退くばかりなんだね。」
「それではタイムというものを全く征服してしまったのではないでしょうか。」
「そうも云えるだろうが、また反対に時に征服されたんだとも云えるだろうね。」
 彼は叔父の語る所に先刻から何かの強い意志の籠っていることを感じていた。それで煙草をすすめてみた。
「僕はすっかり煙草はしてしまったよ。」こう云って彼は淋しい微笑を顔に漂わした。
「お身体からだでも悪くて被居るのですか。」とたえ子が尋ねた。二人共叔父が時々軽いせきをしているのに気附いていた。
 叔父の語る所によると、彼は大分前から肺を侵されているとのことである。自分では時々肩のりを感ずる位だけど、医者の言によれば右肺に大分浸潤しんじゅんがあるらしい、そして激変を憂うるとのことである。
「それでは会社の方もお止めなすったら。」
「なに、人間は何かしていないと淋しいからね。」と彼は云った。それから急に調子を低くして、「実は旅も医者の方から禁ぜられているんだけれど、悪くなる前に一度君達にも逢いたいと思ったものだからね。」
 凡てのことがはっきり分って来たように彼には思えた。憐れむのでも同情するのでもなく、ただじっと叔父の心を見つめているような心地で、彼はその顔の淋しい陰影を見守った。
「それでは四、五日ゆっくり休んでいらっしたらいいでしょう。」
「いや後でまた医者に叱られるといやだからね。」そして叔父は他愛なく笑った。「それに種々な雑務もひかえているんだから。」
「ではあの父が居た室が今あのままになっていますから、お嫌でなかったらゆっくりと疲れをお休めなすったらいいでしょう。」
「ああそれは結構だね。然し別に病人というんではないから、どうかかまわないでおいてくれ。その方が自由でいいからね。」
 それで彼は妻と一緒に、もと父が居た部屋を清めて、窓際に柔かなソファアを据えたり、卓子テーブルの上に美しい水菓子を並べたりした。叔父は黙って窓から庭の植込みを見ていた。
「あの木は暫く見ないうちに随分大きくなったもんだね。」と云って青々とした芽を出している梧桐あおぎりを指した。
「何よりも梧桐が一番早く伸びますよ。」
「そうだね。」と云って叔父はやはりじっと庭を見ていた。

 午後になって薄い雲が空を蔽うた。淡い日光が物の輪廓を朧ろにぼかして、物影に青白い明るみを澱ました。彼は一人書斎に退いて、何処から来るとも分らないような雀の囀りを聞いていた。「やはり少し汽車に疲れたようだ。」とそう云った叔父は、あの室で毛布にくるまり乍ら白日まひる微睡まどろみをソファアの上に貪っているらしい、と彼は思った。その白い毛布の中のやつれた顔の影像が、遠い昔の人を見るような果敢なさで彼の心に迫った。
 彼は初め叔父を見た時から何かがしきりに感染して来るような気がしていた。その漠然としたものが次第にある中心を定めて凝結して来た。其処に先刻叔父が話した尼僧の生活と云ったようなものがあるように思えた。只一人離れてじっと何か淡々しいものに浸り乍ら眼を見開いていたい、というふうな感情が彼の心に甘えていた。
 叔父は勿論只単にたえ子のために来たのでもない、と彼は思った。また単に彼自身のために来たのでもない。彼とたえ子との間に醸される雰囲気に身を浸して、過去の思い出に今一度ヒロイックな美しい感銘を与えんとて来たのであろう。然し叔父は後で却ってそれを後悔するようにならないであろうか? 何故なぜなら、彼はじっと眼を瞑ってみた。何故なら、彼もたえ子も二人共探るような眼で叔父の心を見つめているではないか。叔父はそれに気が附くであろう。否もうそれを知っているかも知れない。そして?……
 彼は自分の心をみなから離れた遠い所に置いて、其処から今一度病める叔父とたえ子と彼自身と三人鼎坐している情景シインをふり返ってみた。すると自分一人が其処から遠く遠く離れて行くような気がした。
 彼は立ち上って室の前の廊下に出て、窓を開き乍ら下の庭面に眼をやった。曇り空の明るみが庭一面に澱んで、そよともしない新緑の樹々の間を奥深く見せていた。冬のような日の光りだと彼は思った。そして萠え出たペンペン草の長い茎を見守っていた。
 その時木立の間に叔父の姿を見出して、後は我知らず身を引いた。それから又そっと覗いてみた。叔父は学校から帰って来た末の妹の葉子ようこと何やら話し乍ら歩いている。少し俯向き加減に懐手をし乍らゆっくりと歩いている。葉子が何やら時々くすくすと笑っているらしい。彼はその影の無い痩せた姿を痛ましそうに見守っていた。
「あら兄さんが!」そう云った妹の声に彼は駭然とした。同時に叔父が黙って彼の方を見上げた。彼はしいて顔面の筋肉をゆるめてこう云った。
「お眠りになれませんでしたか。」
「ああ何だかね……でも昼寝より歩いている方がいいようだ。」
「こちらへいらっしゃいませんか。」
「そう、君の書斎を拝見しようかね。」
「あたしも行ってよくって?」とその時葉子が大きい声をした。
「そうね、まあお前は来ない方がいいようだね。」
「意地わる根性!」と葉子は睨むような眼附をした。「いいわ、ねえさんに云いつけるから。」
 間もなく叔父はその高い姿を彼の書斎に現わした。彼は室の中に椅子を据えて其処にしょうじた。何処か心の底に堅くなったもののあるのを自らにもおし隠すようにして。
「此の頃は何か研究でもやってるのか。」と叔父が云った。
「研究という程のこともないんですが、少しずつ書物を読んでいます。」
 叔父は書棚にぎっしりつまった洋書や和書を見廻わして、それから壁に懸っている二三の額縁がくぶちを見守った。その一つにダヴィンチの「最後の晩餐」の大きな模写があった。彼の好みで塗らせた草色の壁の反射のうちに、キリストの胸のあたりが仄かな紫の色を帯びて光っていた。
「君は聖書を読んだことがあるだろう。」と突然叔父は尋ねた。
「ええ、ずっと前に。」
「どうだった?」
「どうって、そうですね、旧約の或る部分や約翰ヨハネ伝などには大部面白い所があったように記憶しています。叔父さんはあんなものをお読みになるんですか。」
「僕の知人に熱心な信者が居てね、是非読んでみろって勧めるから、少しばかり見たんだが、さっぱり面白くないね。」
「ええそれはそうでしょう。」
「何が?」
「いえ、叔父さんには植物の研究の方が面白いでしょうと思って……。」
「面白いね。」
 それから叔父は種々な地衣科植物についてその微妙な作用を話して聞かせた。西嵯峨野に近来妙な苔が発生して、其処には凡ての雑草が枯れつくして、只車前草おんばこばかりが繁茂する、そしてその苔は車前草の下葉を地面に吸い附けて、地面と葉との間の狭い空間に生息する。その葉が枯れると又新らしい葉を吸い附けるんだそうである。そして叔父はこう結んだ。「自然のものの意志を微細に研究すると、又別な世界が開けるようだね。」
「叔父さんのは素人アマトウルの研究だから一層興味が深いんでしょう。」
「そうだね。でも僕は凡てのことに余り素人すぎるんではないかと思うよ。」
「そうでもないんでしょうけれど……。」と云いかけて彼は口をつぐんだ。妙にうち解け難いものがちらと感じられたので。そしてこう云ってみた。「メェテルリンクにランテリジャンス・デ・フルウル――花の知能、という面白い書物がありますよ。英訳がありますから読んでごらんなすったら。」
「そうか。」と云ったまま叔父はそれを深く尋ねようともしなかった。
 沈黙が続いた。そして二人の間に重苦しいものが置かれた。彼は耳を澄して何かをじっと聞きとろうとするような心地で居た。昼の光りが次第に移って淡くなるのが見えるように思えてきた。二人共離ればなれに居て、それで同じものを別々の眼で見守っているような心持ちが、はっきりと彼の心に映った。その時叔父が突然こう云った。
「あまり急にやって来たんで、少し驚かしたのではないかね。」
「いいえ、朝のうちにお手紙を戴きましたから。それでもお手紙を拝見しました時は、少し意外でしたけれど。」
「何しろ僕も急に思い立ったんだからね。実は身体からだの方も気にかかっていたし、此機をのがしてはまた来られそうもないと思ったものだから。」
「そんなにお悪いのですか。」
「自分では分らないが、何しろ医者がひどく云うんだからね。」
 彼は叔父の顔を見守った。そしてその眼に何か云い出しかねているような思いの潜んでいるのを見た。
「お手紙にあったことは本当ですか。」
「偽りは少しも書かなかったつもりだが。」
「特別の御用件が無いというのも。」
「そうだ。只一寸君達に逢ってみたいということの外はね。」
「お出でなすって何か御不満はありませんでしたか。」
「君は何時もそんな風に物を考えるからいけないんだ。僕の心はよく君に分っている筈だ。そして君の心も僕には分っているつもりだ。……叔父が甥の家をたずねたからって何も不思議はないだろう。それでいいんだ。」
「ええ、ですけれど、私は何だか客をとりもつことを知らないものですから、御退屈ではないかしらと思って……。」
「なにその方が気がおけなくていいんだ。」そう云って叔父は快活そうに笑った。
 それで彼も漸く心が落ち着けたように思った。これだけ云ってしまえばもう何にも云うことは残っていないような気がした。それで画集などを開いて見せた。
「裸体画が大分多いようだね。」
「ええ。」と云って彼は微笑んだ。
 その時ピアノの音が響いて来た。叔父は一寸耳を傾けて聞いているようだった。彼は叔父がよくたえ子のかなでるのを喜んできいたことを思い出した。それでこう云った。
「あちらへお出でになりませんか。」
「そうだね。」と云って叔父は一寸躊躇した。
 それは丁度たえ子と葉子と二人でピアノの側に立ち乍ら何やら笑い興じている所であった。二人共喫驚したように眼を見開いて彼等を見守った。
「叔父さんのために何か弾いてごらん。」と彼は妻に云った。
「もうすっかり忘れてしまったんですもの。」
「うそよ!」と葉子が云った。「弾かないって法はないわ。」
 それで皆笑ってしまった。そしてたえ子は指を鍵盤に置いた。彼女は特にベエトオヴェンのソナタ第二部のうちから天真ナイブテなものを選んだ。
 彼は始め彼女の側からかすかに見える白い指先の走るのを見守った。それから静かなる旋律メロディのうちにひたすらに身を浸さんとした。然し彼は知らず識らずに叔父の方へ注意を引かれた。叔父は彼女の肩のあたりを見守っていたが、それから視線を移してじっと上眼に壁の中間に懸っている風景画に眼をすえた。彼女は何処かいた調子があった。最も自然に無邪気インノオセントなるべき諧調のうちに含まれるハアトを披瀝した宗教的気分が、かすかな指の狂いに乱さるる所が往々にしてあった。それを知ってか知らないでか、叔父はやはりじっと風景画に眼を据えていた。一つのソナタを終えて続け様に、も一つのソナタに進んだ時、叔父の顔にかすかな痙攣が見えた。それが彼の心にある特殊の苦悶を伝えた。彼は音楽の曲も、殆んど耳にははいらないで、大きい樫の木立が並んだ画面に見入った。そして叔父のそれを見つめている心持ちが分って来たような気がした。画面から来る崇高なる感じと、叔父に対する悲壮なる感じとの合間合間に、高尚なそして無邪気な恍惚エクスタシイのソナタの旋律が※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)まる。それが魅せられたような苦悩の形をとって彼の心を飜弄した。
 と突然、騒然たる楽の音がして、妻はピアノを離れ、彼の傍の長椅子に身を投げた。
「何だか指が思うように動きませんので。」と彼女は云った。
 彼は彼女の敏感に驚いた。そして早くしてくれたことを心のうちで感謝しながら、そっと彼女の指先を握りしめた。まだじっと画面を見つめていた叔父が眼をそらしてこう云った。
「久しぶりで音楽をきくと妙な気がするもんだね、何だか過ぎ去った時というものが逆にもどるようで。」
ねえさん、も一ついて頂戴な。」と葉子がせがんだ。
「お前弾いてごらんよ。もう大分お上手になったんだろう。」と彼が云った。
「うそよ。」と葉子は黙ってしまった。
 妙な興奮したような沈黙が続いた。何時の間にかついた電燈の淡い光りが、彼等の思いをちぎれちぎれに遠い空間へ運んでいった。
「叔父さん、」と彼が口を開いた。「京都あちらでも度々音楽をお聞きになりますか。」
「いや、第一、機会が少いし、それにわざわざ出かけて行って聞く程の勇気もないからね。」
 それから彼等はすぐ夕食の膳についた。叔父は極めて少食であった。
 その晩四人で集って、トランプを弄んだり、雑談をしたりして十時近くまで遊んだ。叔父が時々咳をするので、「もうお休みなすったらいいでしょう、」と彼は云った。
「そうだね。」と叔父は低い返事をした。
「叔父さんが一番負けね。」とトランプを片附けていた葉子が残りおしそうにして云った。
 叔父が立って行った時、「見ておあげよ。」と彼は妻に云って、それから縁側に出てみた。
 庭の樹影がかさかさと揺いだので後は耳を澄すと、あたりが寂然と静まり返った。その沈黙のうちに、何かが物影からじっと彼の方へ窺い寄ろうとしているのを感じた。それで縁側を歩き廻って、自分にも分らない妙に興奮した考えを振り落そうとするように肩を引きしめてみたりした。丁度柱時計が十時を打って、その空粗ラッフな響きが室の中に鳴り渡った。それを静寂な夜が四方から押えつけている。彼は廃墟の跡を訪うような気分に包まれて、今一度遠い昔の世をふり返ってみるような心地で、我知らず長い間立ち尽していた。
 その時廊下の向うに足音がした。たえ子であった。彼女は薄明るみの中をすかし見て、夫の姿を認むるや否や殆んど駈けるようにして彼の許に身を寄せた。
 彼女の眼が光っていた。彼は薄明りにその意味をよむことが出来なかった。それでそっと妻の肩に手を置いて、こう云った。
「叔父さんは?」
「おやすみなすったでしょう。」
 肩に置いた手にその低い声が震えるように感ぜられた。彼は今一度妻の顔を凝視した。
「叔父さんは何とも仰言らなかったのかい。」
「いいえ。」そして彼女は一寸息を休めた。「ただ、すっかり以前と様子が変ったねってそう仰言って、私の顔をじいっと見つめていらしったの。私はそれから何か仰言るのかと思って黙っていましたら、何時までたっても何とも仰言らないのですもの。それで顔を上げると、叔父さんは窓越しに外の方を見ていらっしたの。だから私、おやすみなさいませと云って出て来ました。でも……私何だか妙な気がしましたの。」
「それっきり?」
「ええ。」
 悲愴パセティックな震動が彼の心に伝わった。意味の分らないヴェールがふわりと下りて来て、その中に自分というものが朧ろ朧ろになってゆくような気がした。そして何か別の透徹したものが彼の頭に入って来た。
「お前は臆病だね。」
「え?」と彼女は顔を上げて彼の眼を見守った。
「そんな時にはそっと額にキスしてあげるものだよ。」
「いやですよ、いやですよ!」
 彼はもたれかかってくる妻を両手のうちに強く抱きしめた。それでいい、それでいい、と彼は心の中でくり返した。よし過去に於てたえ子が叔父を愛したと仮定し、そして今告別のキスを与えたとするならば、彼は尚一層悲痛に彼女を愛するであろう。然しそれは長く彼の心にある陰影を投じないであろうか? それでいい! と彼はも一度心に叫んだ。
ねえさん! 嫂さん。」と向うの室で葉子の呼ぶ声がした。
「行っておいでよ。」と彼は妻の身体を押しのけるようにした。
 彼女は夫の顔を今一度仰ぎ見て、それから黙って去った。
 一人になると、彼は今したことをじっと見守っていたも一つの自分というものが返って来たような気がした。それで室から紙巻煙草を取って来てそれに火をつけ乍ら、庭に下りた。
 午後に曇った空はまた何時の間にか美しく晴れ渡っていた。月の無い暗い空に星が燦然と輝いて、久遠の進路コオスを大なる弧を画きつつ辿っていた。地上の深い静寂の上に今天体の悠久なる律動が力一杯に徐々と押し移っているのである。彼は空を仰ぎ、そしてまた陰深たる木立の奥をすかして見た。心の中にたち乱れた情緒が息を潜めて、大きい円い力となって彼の胸を中から緊縮した。解き難い或るものが、そしてただ緊張し霊感する或るものが其処にあった。不可見の或るもの不可知の或るものが、彼の周囲をとりかこんで、それが無際限に連る。心霊の孤独と多元的宇宙の相互の愛とが、殆んど何等の矛盾なしに彼の心に感ぜられた。空と地とに啓示せられるいざないのままに彼は身を任せて、何物をもうち忘れ、只ふらふらと歩き廻った。
 その時向うにちらつく火影を認めて彼は凝乎と立ち止った。それは叔父の室であった。叔父は窓をうち開いて黙然もくねんと外を見ていた。彼は忍び足に近寄って、その顔を見つめた。叔父は地面に眼をすえて、だらりと両手を窓に置いている。背後から電灯の光を受けた顔が仄白く浮んで、石にでもなりそうに思われる程じっと動かないでいる。その時叔父は片手を上げて頸を支えた。彼は余りに激しく見つめていた自分の視線に懼然として、一寸樹影に身を引いて、それから低く呼んだ。
「叔父さん!」
 叔父は物におびえたように飛び立って窓から少し退いた。そして声した方をすかし見た。
「まだ起きていらしたんですか。」
「ああ。」と叔父は漸々安心したらしく答えた。「何だか少し外気に触れたいと思ってね。……君一人なのか。」
「ええ。ちとお歩きになりませんか。」
「そう、僕もそんなことを思っていた所だ。」
 こう云って叔父は窓を閉じた。
 彼は樹の幹に身をもたせて空を仰いだ。障壁がとれて直接に叔父の心と見合せたような気がした。そして北斗星の尾を延長してその線に当る星々を一つ一つ見つめながら、大空に一直線の視線を画いた。
「何処へ行くんだ。」と間もなくやって来た叔父が尋ねた。
「そうですね……。」と彼は漠然と答えた。
 それでも二人は言い合したように庭の奥の方へ歩き出した。
 彼は父母の遺産をついでこの広い邸宅を守ってから、花壇や狭い畑地を壊して、大木を選んでむやみと植え込ませた。遠くより見れば殆んど森のようになった屋敷も、時々植木屋の手が入るので、その中にふみ込むと矗々と並び立った木立の下影には案外広濶な空地が開けていた。二人共沈黙のうちにその中を歩き廻った。
 梢からちらちらと洩れる星影を頼りにほの暗い中を歩いていると、彼は傍に立っている者の叔父であることを殆んどうち忘れた。彼は其処に只一人の人間を見た、病に寿命を縮められた人を、昔の恋人たりし人妻の家に遙々訪れて来た人を、そしてまた自分の敬愛する一人の畏友を。
「あなたは、」と彼は云った。「御病気なすってから何か人生観というようなものがお変りにはなりませんでしたか。」
「そう、むずかしいことは分らないが、物の見方というようなものは変化したようだね。」
「どんな風になんです?」
「何でも僕は先へ先へと考えすぎたようだね。所が病気をしてからは過去を振り返ってみるようになったような気がするよ。それがほかの事物を見る時にまで伝染して来たようだ。まあ云ってみれば、植物を研究するんでも発生的の方面をばかり見ようとする傾向が嵩じてきたようだ。保守なんだね。」
「中年にはいられようとするせいもあるでしょう。」
「そうだね。病気と云っても僕のはまだ自分でそう悪くは感じないんだから。」
「私なんかも、少し身体の加減がよくない時には妙に引き込み思案になりますが、平素はあまり先へ先へと急ぎすぎて、何にも掴まないうちに凡てを通り越すんじゃないかとよく思います。」
「それでいいんだろう。」と一寸叔父は言葉をとぎらして、また言葉をついだ。「君の家へ来てから特に僕はそう思うよ、君の生活と僕の生活とが余りにかけへだっているというようなことをね。何しろ君の家には若い者ばかりなんだからね。」
「何かお気を悪くなさるようなことはありませんでしたか。」
「君もよほど神経過敏の方だね。」と叔父は笑った。
「でも何だかあてはずれたというような御不満がありませんでしたか。」
「少しは……そう云えばそんな感じもあるね。」
「あなたは私達の恩人だと思っていますから……。」
「僕はもうそんなことは考えてなんぞ居ないよ。」と突然叔父が遮った。
「いえ、私はいつかほんとに心から叔父さんに感謝したいと思っていました。そしてまた、叔父さんの生活が非常に崇高なもののように思えますので、いつかゆっくり御話がしてみたいと思っていたのです。」
「君達はあれからずっと幸福なんだろうね。」
「ええ。そして私はまたある意味で叔父さんも幸福でしょうと……幸福であらるるようにと祈っていました。」
「幸福と云えば僕はやはり幸福だよ。誤った出立をしなかったと思うからね。」
「ええ。然し……。」と云って彼は口を噤んだ。今の叔父が出立を誤らなかったというのは。その先を考えて彼はじっと眼を伏せた。
「何だ?」
「いえ、私もそうですが、叔父さんもお弱いようですね。」
「そう、自分でそんな風に考える時もあるよ。」
 それきり二人は黙ってしまった。彼は我知らず一人ではかないものの方へと思いを馳せた。人性の底を流るる情操が如何なる形式のものであろうと、それをいたわろうとする所に常に残る痛々しい感情などを。
 叔父は暫く沈黙のうちに彼と並んで歩いていたが、急に足を止めた。
「どうかなすったのですか。」
「なに少し寒けがするようだから。」
「ああ、あまり長く外に居すぎたようですね。お身体に障るといけませんから。」
「いや、そんなでもないんだが……。でも今夜はお互にはっきりした話が出来て大変愉快だった。」
 家にはいって電気の光りで見ると、叔父の頬が堅く引きしまっているのに彼は気附いた。そして心持ち青白くなっているのを。彼はその冷たそうな顔を暫く見守っていたが、やがて丁寧に頭を下げた。
御悠ごゆっくりとお休みなすって下さい。」
 そして彼は叔父がドアをしめた音を暫く其処に佇んで聞いていた。

 朝寝の習慣がついてしまっていたので、翌朝彼が起き上ったのはやはり太陽が高く上った後であった。そよそよと風に揺ぐ新緑の葉の一つ一つに日光が輝いて、そして雀の群が楽しい叫び声で呼び交していた。
「叔父さんは?」と彼は女中にきいた。
「早くから、野原に出て来ると仰言いまして御出かけになりました。」
 彼は庭に出て新鮮な空気を吸い、そして室に帰って叔父を待った。昨夜のことが夢のようにかすんでゆくのを、っかけるようにして心のうちに回想してみた。追憶がやさしい形を取って、現在の自己と何等交渉のないような朧ろなものを見せてくれた。その中に北斗星が明瞭はっきりと光り輝いて彼の頭に映じた。
 其処に叔父が何処か晴々とした顔をして帰って来た。凡てを忘れたもののようにして、そして長い間の親しみを持ったもののようにして。
「よく御眠りになりましたか。」
「ああ。今朝は大変気持ちがいいね。」こう云って親しい笑顔えがおを見せてくれた。
 朝ともひるともつかぬ食事をしてから、叔父は三時五十分のでつと云い出した。せめて葉子が帰ってくるまで、と云って皆でとめた。そして彼とたえ子と叔父と三人で客間の方へ坐って、他愛ない世間話などをした。然し会話は往々とぎれ勝ちであった。沈黙が襲ってくると、彼等は急いで何かの話題を探した。三人共皆、心のおけないような安らかさにあり乍ら、沈黙が新らしい何物かを齎すことを恐れたので。
 彼はそういう対座が非常に疲労を来すものであることを感じた。そして沈黙の合間合間に頭を抬げようとする反撥の感情があるのに気附いていた。叔父が強く自分の心を押えつけているような努力の跡をも見た。それが身体に障りはしないかとも気づかった。
「昨日から僅か一日だが、大変長い間のことのように思えるね。」と叔父は思い出したように云った。
「ええ、私も何だか長く滞留なすっていらっしたような気がします。」
「それではこれからまた新らしく京都あちらに赴任するつもりで出かけるかね。」
「そうです、何時も新らしい気分で生きてゆくと張り合いがあるような気がしますね。」
「然しやはり生活は何時も同じだからね。」そう云って叔父は苦笑した。
 葉子が帰って来た時、彼はほっと助かったというような気がした。
「今日お帰りなさるの? まあ!」と云って葉子は眼をみはった。
 何にもすることが無かったので、三人は気が進まなかったけれど、葉子がすすめるままにトランプを又はじめた。ふだを切り乍ら葉子はこんなことを云った。
口惜くやしくてお帰りになれないように、叔父さんをたんと負かしてあげるわ。」
 西に傾いた日影の移ってゆくのが眼に見えるように早く感じられた。頼り無いような気分が室の中に漲って、三人共、それに浸り乍ら、過ぎ去って行くものの影をじっと見守っているような心地で居た。只葉子ばかりはひたすら骨牌に身を入れた。
 叔父は七時の列車を取ることにきめた。晩餐の時に彼は葡萄酒をすすめた。叔父も心地よく二三杯のみ干した。
 停車場にみんなして出かける時、彼は妻の顔を見守った。彼女は媚びるような眼附をして彼の眼を見返した。それから彼は妙に落ち着かない気持ちで外に出た。叔父が今一度家の方をふり返って見た時、彼は空を仰いで昼から夜に移りゆく蒼空の暮色を眺めた。
 新橋には早や多くの旅客が込んでいた。去る者の躁忙あわただしさと送る者の頼り無さと、それからかもされる一種の淡い哀愁のみが彼の心を満した。彼は多くの人の群から自分を遠くに置いて、落ち着いた気分で、騒々しさの底を流れる「寂寥」に思い耽った。
「大分込みますね。」
「ああ。でもじきに寝台車の方がくからね。」
 叔父は列車の窓から、外に立っている彼とたえ子とを順々に見守った。そして眼をそらして向うに立っている大勢の見送人の上を眺めた。
 彼は窓際に歩み寄った。
「此の次には御悠ごゆっくりいらっして下さい。」
「君も一度は京都にやって来給え。」
「ええ是非一度は行ってみようと思って居ます。」
「なるべく早い方がいいね。」と叔父は云った。そして睫毛がちらと動いた。
「御大事に。」と列車が動き出した時彼は云った。そして頭を下げた。
 叔父は黙って皆に答礼した後、すぐに窓をしめてしまった。
 ぞろぞろと足を返して行く見送り人の間に彼等は立って、青白く光るレールに沿って眼を走せ乍ら、去り行く列車の影を見送った。





底本:「豊島与志雄著作集 第一巻(小説1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」未来社
   1967(昭和42)年6月20日第1刷発行
初出:「帝国文学」
   1914(大正3)年5月
入力:tatsuki
校正:松永正敏
2008年10月8日作成
青空文庫作成ファイル:
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