生あらば

豊島与志雄




     一

 十一月から病床に横わった光子の容態は、三月になっても殆んど先の見当がつかなかった。三十九度内外の熱が少し静まると、胸の疼痛いたみが来たり、または激しい咳に襲われたりした。咳が少しいいと思うとまた高い熱に悩まされた。また不眠の状態と嗜眠の状態とが交々彼女の単調な病床にやって来た。そしてそれらの変化の背後には、絶えざる食慾不振と衰弱とが在った。凡てが渾沌として先の予想を許さなかった。
 痰の中に糸のように引いた血液が交ってはいないかを、看護婦は一々調べた。そして皆の眼がその眼附をじっと窺った。皆と云ってもその病床に侍っていたのは、彼女の両親とそれから壮助とであった。
 窓に当る西日にしびは白い窓掛に遮られていたが、それでもへやの中を妙に明るくなしていた。そしてその明るみで室の中が一層狭苦しくきたなく見えた。一間いっけんの床の間の上に、中身なかみの空しくなった古めかしい箪笥が一つ据えられて、その横の片隅に薬瓶や病床日誌やらが雑然と置かれてある。六畳の室は病室には少し狭かったのである。箪笥の上にのせられた白い草花の鉢と、瀬戸の円い火鉢の鉄瓶から立ち上る湯気とが、妙に不安な気持ちを伝えた。
 光子は眼を開いてぼんやり天井の板を眺めていた。やつれた頬に顴骨が目立ってきて顔附を変にくずしていたが、その頬にはほんのりと赤みがあり、また小さな子供らしい口元には昔のままの愛くるしさが残っていた。物を言う度に何処か筋肉が足りないように思わせる唇だった。そしてその奥から舌たるい言葉が出た。
「気分はどう?」と壮助はそっと言葉をかけた。
 光子は壮助の方を顧みて淋しい微笑を洩らした。その眼附が「いいわ。」と答えた。
「私ね……、」と云いかけたが光子はふと言葉を切った。それから右手を蒲団の外に出して、「こんなに手がきたなくなったわ。洗ってはいけないの。」
 手の指は透き通ったように蒼白く綺麗にしていたが、長く洗わない手首から上は黒く垢がついていた。生気の無い乾燥した皮膚が爪で掻いたらぼろぼろと落ちそうであった。
「も少しの我慢よ。なおったらすぐに綺麗になるからね。」
 壮助はその手を取ってそっと蒲団の中に入れてやった。その時彼はそれとなく手首の脈にさわることを忘れなかった。軽いそして心持ち早い脈搏が彼の指先に感じらた。
「始終身体が穢いと云っては気にしていますがね……。」
 母はそう云ってまた涙ぐんでいた。
「いくら穢くなっても大丈夫ですよ。」と看護婦がそれに答えた。「綺麗な身体をしている病人はいけないものです。穢くなるほど宜しいですよ。」
「ですけれど……。あたたかい時そっと拭いてやったら如何どうでしょうか。」
「そうですね、も暫く見合した方が宜しいでしょう。」
 光子はいつのまにか眼を閉じて向うを向いていた。その側に看護婦は身をかがめた。
「何か食べませんか。え、ほんの少しだけ。」
「何にも食べたくないの。あとにして頂戴。」
「仕方がありませんね、そんなでは。」
 看護婦は飲み残しの重湯おもゆをまた覗いてみた。それは朝からまだいくらも飲まれてはいなかった。
 病室では凡てが静かに動いていた。そしてその静かな動作や言葉のうちに病人の軽い気息いきが纒わっていた。然しともすると看護婦の直線的な動作が、物馴れた無遠慮なやり方が、その雰囲気を乱し勝ちであった。それがいつも壮助を不快ならめた。然し病人の手当のうちには彼の覗き得ない別な世界があった。彼は手をこまねいてただそばから見ているより外はなかった。
 座を立って次の室に来ると、羽島さん(光子の父)は水滸伝を読んでいた。傍の本箱には、八犬伝や西遊記や春秋左氏伝やそういう種類の和漢の書物がつまっていた。
「如何です?」と彼は眼鏡を外して壮助の顔を窺った。
「少しはいいようですが……。」
「そうですか。……何時も見舞って下すってお差支えではありませんか。」
「なに私の方はいいんです。」
「いや出勤のお身体だからそうお隙でもありますまい。然しあなたが暫くお出でにならないと病人が大変淋しがるものですから。」
 羽島さんはその時何やら少し小首を傾けて考えていたが、「一寸ちょっと」と云って自分から先に立ち上った。
 居間のすぐ横に台所と並んで薄暗い三畳のへやがあった。二人ふたりは火のの無いそのうす寒い室の入口に身を屈めた。片隅には看護婦の着物や持ち物が置いてあった。
「病人が非常に耳が近いものですから。」と羽島さんは云い訳のように云った。
「そうでしょう。そして何か御用ですか。」
「用というほどのことではありませんが、あなたに少し伺ってみようと思っていたことがありますので。」
 羽島さんの云う所は斯うであった――
 医者の薬は少しもその効が見えない。咳に苦しむ時、熱に苦しむ時、不眠に悩む時、その度毎に医者にもそう云うけれど、彼は少しもその方の薬を盛らないらしい。病人のそういう悩みが静まるのはただ自然に衰弱しきってゆく結果らしく思わるる。何時も同じような薬が病人の枕頭には並んでいる。めて見るとどうも胃腸の薬らしい。それに医者は毎度病人の便を取らしてはそれを検査するために届けさせる。どうも腹部に故障があるらしく思われてならない。病人の腹部にさわって見ると、食物が僅かしか通らないのにいつもふくれている。もし果して腹部に大きな疾患があるとすれば、今の呼吸器科の医者よりも誰か胃腸専門の医者にさしたらどうであろう。勿論立会診察は余りやくに立たないと聞いてもいるし、費用の点も大いに違うだろうから、どうかして医者を取り換える法はあるまいか。「それも勿論ただ私の推察だけに止まるんですが、果して腹部に重い病があるとすると心配ですから一応御相談してみたいと思ったのです。」
 重苦おもくるしい圧迫が壮助の頭に上ってきた。もし果して羽島さんの推察の如く腹部に重い疾患があるとすれば、既に肺を結核に冒されている身体は到底助かる見込みはあるまい。それともまた彼自身も恐れていた如く……腸に結核が生じたとするならば、結果は猶更困難であろう。何れにしても運命はじりじりと光子の上に迫って来つつある。
「如何でしょうかな。」と羽島さんは黙って考え込んでいる壮助の上にまた言葉を投げた。
 長く看護に疲れた羽島さんの心には、一寸した考えの向け方が直ちに凶なる予想を事実として決定せしめるだけの切端せっぱつまったものがあった。そしてその考えが壮助にもすぐに感染してきた。
「兎に角私が医者によく聞いてみましょう。」
「どうかお願いします。」
「一体呼吸器の病気は胃腸を丈夫にしなければいけないものですから、胃腸の薬は絶えず取らなければならないでしょうが、然し、ほんとに胃腸に病気が出たとすると……。」
「駄目なものでしょうか。」
「そうですね……然し……。」
 言葉では何にも云えなかった。うち破れない黒い壁が前にあった。じりじりとその壁に向って進んでゆく外に、もう後ろをふり返れなかった。
「それにまた……。」
 と羽島さんは何やら云いかけたが、その時表の方に「御免!」という声が聞えた。そしてまた再び高くくり返された。
 羽島さんは立ち上った。
「いや……それではどうか医者の方をお頼みします。それに依ってまた……。」
 壮助はじっと其処そこに残っていた。表の方からは「鉛筆と紙を」という年若い青年の声が響いた。羽島さんが鉛筆の入った箱を出しているらしい音も聞えた。それは一家を支える僅かな商売だった。
 羽島さん一家は、反対に田舎から都会に逐われて来た人達だった。社会の急激な変化と田舎に於ける収入の困難とは、そして特に地価と金利との急激な高低は、多くの地方人を都会のうちに逐い込んだ。其処には面倒な気兼ねや体面が無かった代りに、更に激しい生活の競争と底の知れない暗闇とが彼等を待っていた。羽島さん一家もそのうちの一つだった。身につけて来た僅かの資本で今の所に文房具店を開き、幸に場所がよかったため相当に客足もついたが、間もなく老母は日光と空気と運動との不足のためにった。その後三年許りの間に、老母の死によって蒙った家政上の欠陥を恢復し、女学校を出た光子の身なりをととのえ、更に此度このたびの彼女の病気に心ゆく手当を施すだけの収入は、勿論得られなかった。中学の英語教師を勤めている遠縁の壮助が、彼等のせめてものたよりとする唯一人だった。
 壮助はぼんやりへやの中を見廻した。そして薄暗い片隅に散らばっている看護婦の所持品がまた彼の視線を引きつけた。
「もう看護婦が来て二月余りになる!」とふと彼は思った。そしてそのことが妙に彼を苛々いらいらさした。眼をつぶるとあの時の光景がはっきり浮んできた。
「年を越したら……。」と云っていた光子の病気は正月を迎えても少しも見直さなかった。或日壮助はまた見舞にやって来ると、光子は大変気分がいいと云っていた。で居間の方で羽島さんと話をしていると、病室の方から「早く!」と云う引き裂くような小母さん(壮助は光子の母をそう呼んでいた)の声が響いた。二人はがばと立ち上って光子の病床にかけつけた。
 光子は床の上に仰向に倒れていた。歯をくいしばり、眼は上眼瞼うわまぶたのうちに引きつけて白眼ばかりが覗いていた。そしてしきりに両手で胸の所を掻きむしるようにしていたが、その手は胸に届いていなかった。胸の中で、ぐぐぐぐと物の鳴る音がした。その息をつめた瞬間が、執拗な生命が自分の上に押しかぶさった物をはねのけようとしている時間が、どれだけ続いたか誰も知らなかった。そして終りに何かぐるっという響きが胸の中に転ると、かっと真紅な血潮が彼女の口から迸り出た。そしてその血潮の中に彼女はぐたりと手を伸した。はーっと長く引いた軽い呼気が彼女の血にまみれた口から出た。
 呼び迎えられた医者は首を傾けた。そして「病院に入れなければ。」と云った。然しそれは如何にしても事情が許さなかった。そして兎も角も[#「兎も角も」は底本では「免も角も」]そのままにして看護婦だけがつけられた。小母おばさんは壮助と羽島さんとのそういう相談を外にして、光子の枕頭でしきりに涙を流していた。
 その時の問題が今再び壮助に返って来た。
「病院に入れなければ……。」
 それで果して効があるか否かは問われなかった。ただそうすることが、ただそうすることのうちにのみ、せめてもの望みがかけられた。壮助は唇をかみしめ乍ら、室の隅をじっとにらんだ。其処には高利貸の古谷の顔が浮んでいた。幾度も執拗にやって来ては僅かの彼の俸給をさえ押えると云って脅かすそのでぶでぶと脂ぎった顔が。
「まだそんな所に居られたのですか。」
 そう云う羽島さんの声に壮助は喫驚した。そして顔を挙げると、羽島さんは急に眼をらした。そして云った。
「飛んだことを申したようです。御心配なさらなくていいです。ほんとに、私が余り気を廻しすぎたんでしょう。いいです、いいですよ。」
 羽島さんは何やら一人ひとり首肯うなずいていた。
 壮助は立って来て、羽島さんの入れた茶を黙って飲んだ。羽島さんは茶をうまく入れることに多大の自信を有していた。

     二

 その夕方医者が診察にやって来た時、壮助は診察の終るのを待って一足先に表に出た。きっぱりした返答を得なければならないと彼は思った。
 羽島さんの云うが如く腹部に大きい疾患が生じたのなら、その方の専門の医者にせる方がいいだろう。然し主治医を取り換えることは道義上、また医者仲間の規約上、殆んど出来ないことだった。要は立会診察をなすか、もしくは入院させるか、二つしかなかった。それはまた後で何とか工夫もつくだろう。ただ今の所恐れずに真実に向ってつき進むの外はない。運命が凡てを決するだろう。そして壮助の前に運命がぴたりと据えられた。
 医者が出て来た時、壮助は一寸物影に身を潜めるように身を引いて、あたりを見廻した。それからつかつかと医者の前に出て来た。
「あの一寸お伺いしたいことがありますが。」
「え何ですか。」と答えて医者は立ち止った。
 壮助はじっと空間を見つめるようにしたが、そのまま医者の家の方へ先に立って歩き出した。医者もその後からついて来た。
 夕暮の色がまだ明るい通りのうちに籠めていた。その中を忙しそうに人が通った。然し誰も彼等二人に注意を向けて行く者はなかった。
「病人の容態のことですが。」と壮助は切り出した。
「はあ。」
「余程険悪でしょうか。」
「そうですね、今の所少しはせんよりもいいかと思いますが……。」
 何でもないその言葉に、壮助は却って裏切られたような感じを得た。そしてもうすぐに問題のうちにつき込んでゆけた。
「何か腹部に故障があるのではありますまいか。」
「故障と云いますと?」
「重い腸の病でも併発したんでは。」
「いやそのことなら御安心なすっていいでしょう。私のた所では余病を併発した徴候はありません。勿論これからのことは分りませんが。唯少し腹部と便の加減がおかしいと思ったことがあったのです。腸が結核菌に冒されるとあの衰弱した身体には余程困難ですから、それを恐れたのです。然し度々便を検査してみましたが、菌は認めません。それに肺の方も左胸に大分浸潤がありますが、この頃痰が余程少くなったのはよい徴候です。然し何しろ年がお若いし、衰弱が甚だしいのに食慾がないのですから、余程注意を要しますよ。それに水気すいきが少しあるようですから。」
「それでは今の所危険だという状態ではないのでしょうか。」
「危険だと云えば危険ですが……。急な変化はあるまいと思います。兎に角も少し食慾をつけなければいけませんね。少し身体が恢復すればまた療法もありますが、何しろ衰弱がひどいですからね。それから熱を出さないようにしなければいけません。熱が出ると病勢も進むし、痰が多くなって衰弱も増すものです。それに心臓を弱らせないようにしなければいけません。」
 壮助は何を信じていいか分らなかった。然し腹部に余病がないことと腸に結核がないこととは確からしかった。其処から光明が湧いて来た。彼は横から医者の顔を仰ぐがようにした。髪を長く伸し短い鬚をやして、下目勝しためがちに物をにらむような癖のあるその年若い医学士に、彼は急に感謝したくなった。そして種々な細かい注意事項を尋ねた。胃腸を丈夫にして食慾を進めることが目下の急であり、滋養物も種々な製薬品よりは直接になまの肉や野菜から搾り取ったものの方がいいという彼の意見にも、壮助は自分の乏しい知識と常識とから首肯出来た。
 二人ふたりは何時のまにか医者の家の前まで来てしまった。壮助は驚いたように急に別れを告げた。
「兎に角一寸病勢を防ぎ止めたのですから、よく注意なさらなければいけません。」と医者は終りに云った。
 一人ひとりになると壮助は急に空に向って飛び上りたくなった。暗い杜絶したものが急に彼の前から取り払われた。凡てがよく、凡てがいいようになるであろう。彼は殆んど駈けるようにして羽島さんの家へ帰って来た。
 狭い裏口の方に廻って其処からはいろうとすると、羽島さんが彼の足音を聞きつけて、すぐにやって来た。然し彼は何とも云わないでただ壮助の顔を見守った。
「心配なことは少しもありません。」
 不用意に投げられたその一言が却って壮助自身を驚かした。彼は一寸息をつめて羽島さんの顔を仰いだが、それから静かに云った。
「腹部にも何処どこにも余病はないそうです。余病が出ると非常に危険だから念のために幾度も便の検査をしたんだそうです。それに胸部の痰もこの頃は非常に少くなっていると云っていました。病勢が一寸防ぎ止められているそうです。これから熱が出ず食慾が増してゆけばもう大丈夫なんです。然し衰弱がひどいから安心は出来ないそうですが、種々くわしく手当を教わって来ました。」
 壮助は腸結核の問題に就いては何にも云わなかった。老人に対しては常になすべき多くの気兼があった。そして咄嗟とっさの間に壮助はそれを忘れなかった。それから彼は医者から聞いた種々な細かな注意を話した。
 羽島さんは黙って聞いていたが、壮助が話し終ると、何とも云えない顔をした。昏迷した表情のうちから静かな湿うるんだ眼が覗いていた。
「ではどうにか助かるかも知れませんね。」
「え?」
 壮助はそう問い返したが、そのままあわてたように眼をらした。何時のまにか彼等の心のうちに根を張っていた光子の死の予感が、あらわに姿を示した。「どうかして助けなければ……。」そう思う心の奥に何時のまにか死の予感が、死の予期が、はいり込んでいた。焦慮や諦めや希望やが其処に戦われた。
「兎に角これからが大切です。」
「そう……。」
 羽島さんは手を挙げて、心持ち禿げ上った顔を撫でた。
 何を悲しみ苦しむことがあろう!
「大丈夫です。」
 壮助はそういう言葉を残して病室の方へ去った。
 光子のそばには看護婦が演芸画報を披いて見ていた。光子の視線はその姿を掠めてじっと壮助の顔の上に据えられた。
 病室の淡い薬の香の籠った温気うんきが、壮助の心をはかないもののうちにさそい込んでいった。彼は苦しくなった。
「お湯に行ってられませんか、私がついていますから。」
「左様ですか。」と答えて看護婦は暫く考えていたが、「では一寸行って参りましょう。」
 看護婦が出て行った後、病室は静かに澱んできた。勝手許で用をしている小母おばさんの物音が間を置いてははっきり聞えるようだった。
 天井を見ていた光子の眼がまたじっと壮助の方に向けられた。病に頬の肉が落ちてからその眼は平素よりも大きくなっていた、そしてその清く澄んだ黒目の輝きがあらわになっていた。
「ねえ津川さん!」
 壮助は自分の名を呼ばれて、畳の上に落していた眼をふと挙げた。
「私これでよくなるんでしょうか。」
「そんなことを考えるからいけないんだよ。よくなることばかり考えなけりゃいけないよ。医者も大変いいと云っていたから。」
 光子は一寸だまっていた。
「ね、私に教えて下さらない?」
「何を?」
「先刻、お父さんと何を話していらしたの。」
 壮助はじっと光子の眼を見返した。その眼には物を詰問きつもんするような輝きがあったが、壮助の視線に逢うとすぐに深い悲しみのうちにけ込んでいった。
「あなたまで私に隠そうとなさるんですもの。」
「いえ何も隠しはしないよ。いつだって何にも隠したことはないでしょう。先刻さっきはね、お父さんが大変心配していらしたから、私が医者にくわしく聞いてあげようと云ったんだよ。そして医者が帰る時一緒に外を歩いて、種々なことを尋ねて来たよ。病気も大変いい方だと医者は云っていたけれど、大変今衰弱してるでしょう。だから早く滋養分を取って元気をつけなければいけないんだよ。今が大切な時なんだからね。」
 光子は別に壮助の言葉をきいているようでもなかった。そして彼が云い終るとまた話を初めに戻した。
「誰も私に何にも知らしてくれないのよ。お父さんは何にも仰言おっしゃらないし、お母さんはあの通り何にも分らないんでしょう。それにお医者様はいつもいいいいと云ったきりで帰ってゆかれるのよ。看護婦さんもただ私にお薬や牛乳を飲ませたり種々な話をするきりで、大事なことは何にも云ってくれないんですもの。私ききたいことが、大事なことが沢山あってよ。それに誰も何にも教えてくれないんですもの。」
「それはね、光ちゃんがききたいようなことは誰にだって分るものじゃないんだよ。自分にだってはっきり何がききたいか分らないんでしょう。けれどね、病気がよくなるとみんなはっきり分ってることなんだよ。だから、ただじっとよくなることばかり考えているといいよ……。私が知ってることは何でも教えてあげるからね。今までだって何にも隠さなかったでしょう。だからききたいことがあったら何でも私にそう仰言おっしゃい、ね。ひとつのことを種々な人から聞くのはいけないよ。私が知ってることは何でも教えてあげますからね。」
「ええ。」と光子は軽く首肯うなずいた。
「隙のある限り度々来てあげますからね。」
「ええ来て頂戴な。……でも済みませんわね。」
 光子は頭をぐたりと枕の上につけて、天井の隅を見つめていた。長く組んだ髪の毛が枕から畳の上に落ちていた。壮助はそれをそっと枕の上に程よく束ねてやった。
「私がお前を愛しているから……。」と壮助は心のうちで云った。――それをはっきり言葉にきいたら、彼女は恐らく喫驚びっくりして泣くだろう。そしてまた晴れやかに微笑むだろう。もう凡てがはっきりしたというような眼付をして壮助を見るだろう。
 然しそれは恐ろしいことに違いない。
 壮助は光子の顔から眼をらして、驚いたようにへやの中を見廻した。何という静かなそして貧しい室だろう。暮れなやんだ明るみが窓の障子に映って、室の中にはいつしかぼんやり電燈がついていた。
 壮助は床の間から※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)のソップのはいってる瓶を取った。
「少し飲んでみない?」
 軽く首肯うなずいた光子の唇に、壮助は瓶の吸口を当ててやった。光子は二口ぐっと飲み込んだが、それきり首を振った。
 壮助は枕頭の布を取って、汁の少したれている光子の口のまわりをいてやった。妙に子供らしい筋肉の足りないように思わるるその口元にも、肉が落ちて皮膚がたるんでいた。
「私よくなったらお願いがあるのよ。」
「ええ云ってごらん。」
「きいて下すって?」
「何でもきいてあげるよ。」
「あのね、人に云ってはいやよ。……よくなったら玉川の鮎が食べたいの。」
 壮助は淋しく微笑ほほえんだ。何時だったか小母さんと三人で玉川に遊んで、鮎の料理を食べたことがあった。光子は少しきり箸をつけなかった。尋ねてみると、「おいしいけれど……。」と云って笑った。
「ええよくなったらまた連れていってあげようね。だからなるたけ元気をつけなければいけないよ。」
 光子はほっと安心したように微笑んだ。
「今に暖くなると、すぐに起きられるようになるんだからね。」
 そして壮助は心のうちで、「よくならなければならない!」と叫んだ。然しそれが妙に苦しかった。たより無い不安が彼の胸の中に流れた。

     三

 壮助は夜の九時頃、ほの暗い裏通りを自分の下宿の方へ向って歩いた。うとうとと眠っている光子の顔が彼の頭の中に刻まれていた。
 ややあって彼はふと足を止めた。「今日が丁度……」と思ってみたが、頭がぼんやりして幾日だかはっきり思い出せなかった。そして妙に苛々いらいらして来た。
 電車通りの方へ足を向けて、其処の交叉点に出ると、夕刊売りの何時もの女が背中に子供をおぶって鈴も鳴らさずぼんやり立っていた。
「おい一枚おくれ、何でもいいから。」
 夕刊を引ったくるようにしてその欄外を見ると、三月六日としてあった。
「やはり今日は三月五日だったのだ!」壮助は二三町新聞を片手に掴んで歩いていたが、それをそのまま其処にうち捨ててしまった。
 綺麗に剃刀をあてていつもてかてか光っている幅の広い脂切った古谷の顔が、壮助の眼の前に浮んだ。そして自分の帰るのを待って火鉢の前に傲然と構え込んでいるその姿を見るような気がした。
 それは去年の九月だった。義理ある叔父が事業の失敗後満洲に渡航する時、壮助は学生時代から卒業後世に出るまで度々世話になった金の一部を返すためと、叔父の新らしい前途を祝する心とのために、うかと高利貸の古谷から百円を借り受けた。その後十二月に光子の病気の費用を助けるため、彼は僅かな俸給を書き入れて無理にまた百円を古谷の許で調えた。凡ては二ヶ月の期限だった。二ヶ月毎に彼は八分の手数料と高利とを元金に加えて書替をしていった。深い脱し得ない網の中に囚えられてゆくことに気附いた時は、最早遅かった。二月の中頃から厳しい督促の矢が彼の許に向けられた。そして三月五日は幾度もの折衝の後の最後の期限だった。然し如何にしても金策の方法を知らなかった彼は、生きてゆくだけの体面を維持しなければならなかった彼は、今日までぐずぐずと日を過したのだった。
 其処そこの街頭にたたずんで、彼は空と地とを透し見た。空には星の光りがあり、通りには軒燈の光りがあった。そして通り過ぎる人々がじろじろ彼の姿を見て行った。凡てに縁遠いような自分の姿がびしく顧みられた。そして面倒くさかった。為すべきこと、在るべきことが、面倒くさかった。
 何時いつの間にか自ら知らずにぼんやり歩き出していると、彼は急に後ろから呼び止められた。川部が其処に急いでやって来た。
「どうしたんだ? いやにぼんやりしてるね。」
 川部の生々した顔と声とに、壮助は初めて夢から呼び覚されたような気がした。そして凡てにぶつかってみようという力が脳裡に閃いた。
何処どこへ行くんだい。」
「家に帰るのさ。」
「そうか。」そう云って川部は彼の顔を覗き込んだ。「では僕も一緒に其処まで歩こう。」
 川部は彼と学校の同級だった。そして其後も可なり親しく交っていた。学校時代からずぼらで勝手な熱ばかり吹いていた彼は、いつの間にかしっかりした新進批評家として前途を文壇から嘱目されるようになっていた。彼の顔には何時も熱のある表情があった。そして何時も何かしら興奮していた。興奮のうちに彼の精神が生々と育っていった。
「おいどうだい、此の頃は。」と川部は云った。
「何が。」
「光子さんの病気さ。」
「ああ少しはいいようだし、医者もいいように云っているが、まださっぱりはっきりしないんだ。」
「なに医者の云うことなんか、あてになるもんか。ただ君の実感が、君が肉眼で見た所が一番本当だよ。」
「そうかも知れない。……然し一体肺結核という病気は癒るものだろうかね。」
「なに癒らないことがあるものか。いくらでもその例がある。然しあの病気の恢復するか否かは恐らく運命だろうね。医学の方でも種々な新薬が出たが、要するにケレオソートかゴヤコール剤にすぎないと云うじゃないか。ツベルクリンの注射だって人の体質に依ると云うじゃないか。あの病気の本当の恢復原因はいつも、日光と空気と滋養物との自然要素に止まるんだ。」
「また例の論法だね。」
「そしてそれが事実なんだ。……然し用心しないと伝染するよ。」
「伝染したっていいさ。」
 川部は一寸壮助の方を顧みた。
「そうか、その決心なら大丈夫だ。そして大いに彼女を愛するがいいんだ。いや愛しなけりゃいけない。もしそれが君の心の必然のそして後悔のない向き方なら、それを生かすことが君自身を生かす道なんだから。」
 壮助は何とも答えなかった。
「一体吾々日本人の生活には実感が欠けていていけないんだ。実感に生きることは猶更欠けているんだ。いつも作り物の衣の中に自分をとらえている。そしてその衣にばかり執着している。中はからだ。どうすることも出来ない穴があいているんだ。その穴を填す道は只裸になるより外の方法はない。裸になればいやでも自分のうちのことが眼について来る、そして其処に眠っている実感が自由な呼吸をするんだ。」
「君の云うことは分っているが、妙な云い方だね。」
「何が妙なもんか。……例えば、直接のいい比喩ひゆが在る。太古の半裸体時代の人間を考えてみ給え。記録が教える所に依れば、また吾々が想像し得る所に依れば、彼等の身体には力が満ち充ちていた。それが、次第に着物をつけ、着物を重ぬるに従って、人間の身体から力が、輝いた力がぬけて来たんだ。そして失った力の跡に大きい空虚くうきょが残されたんだ。空虚や微力はいつも悪徳なんだ。吾々の精神に就いてもそれと全く同一じゃないか。」
「それじゃ裸体らたいに帰るんだね。」
「そうさ。然しまさか裸体で歩けもしないが、兎に角心の衣を捨てることは最も大切なんだ。其処には身体の裸体に於ける如き官憲の干渉はない。そして其処から本当の愛や仕事が生れて来るんだ。」
 或る玩具屋おもちゃやの飾窓の片隅に、小さな羽子板が沢山並べられていた。川部はふとそれに眼を止めた。
「おい一寸。」
 壮助も彼に続いてその前に足を止めた。羽子板には役者の似顔が、赤と白と紫とを重な色調とした絹で造られていた。弁慶や仁木弾正やめ組の辰五郎や野狐三次や、政岡や朝顔などのもあった。それは雛人形の飾り附けの一部をなしていたのがそのままに取り残されているものらしかった。そして今種々な玩具の並べられている所には、恐らく二三日前まで、幾組もの雛人形が、紅絹の段の上に黒塗の枠の中に並べられていたであろう。
「あの小さな羽子板はいいね。いくら位するもんだろう。」
 川部のそう云った言葉が、壮助の気分を急に転換さした。今迄の重苦しい緊張が急にけて、彼は川部の顔を不思議そうに眺めた。
 再び歩き出して暫くしてから彼は川部に云った。
「君少し……二、三十円ばかり暫く融通は出来まいか。」
「なに二、三十円、そんな金が僕のような貧乏人にあるもんか。然し是非なければいけないのか。」
「いや是非という程ではないが……。」
「それなら我慢した方がいいよ。いくらあっても要するに足りないんだから……。」そして川部は一寸言葉を切った。「金というものは、或人にとってはいくらでも無駄にごろごろころがっているものだ。或人にとってはそれは貴い労力の結晶なんだ。また或人にとっては如何なる額の汗を以てしても得られない宝なんだ。其処から多くの誤られたる概念や人生観が生れて来る。貧に甘んずることが一番いいんだ。頭とそして心とを悪くなさないために……。」
「また君の論理癖だね。」
 壮助はそう云って苦笑した。然し苦笑されないものが彼の心を急に脅かして来た。
 兎に角古谷に逢わなければならない。
 壮助は急に川部に別れを告げた。
「どうしたんだ。」
「いや急な用事を思い出したんだから。」
 壮助はもう何にも考えなかった。ただ古谷に逢ってどうにかしなければならないという思いが、彼をぐんぐん下宿の方に引きずった。
 下宿に帰るとお婆さんがすぐに出て来た。
「まあ今迄何処にいらしたのです。」
「何かあったんですか。」
「そら例の古谷さんが早くから来てね、先刻まで待っていたのですよ。お帰りがないから怒っていきましたよ。」
「そうですか。」
 まだ何か云いたそうにしているお婆さんに壮助はただそう云ったまま、黙って自分の室に上っていった。そして火鉢の側にあった客座蒲団を室の隅にほうり出した。
 彼は何かに対して怒鳴りつけたくなった。然し怒りの対象となるべきものは何にもなかった。そして大きい不安が彼の全身を包んだ。凶なる予感が彼の心を苛々さした。その中で彼は物に縛られたようにぼんやり首を垂れて腕を組んだ。

     四

 そのままの気持ちが彼の夢の中に続いた。それから翌日眼が覚めてからも続いた。
 不安な予感で学校に出で、不安な予感で再び学校から帰って来ると、彼の机上には、わざわざ書留にした一通の封書がのっていた。古谷の名前を裏に見た時、壮助は却って或る安堵を覚えた。
 手紙には殆んど脅迫に近い文句が並べてあった。それから八日の晩に来ることが知らしてあった。その時までに一方の方だけ是非都合するように、もし出来なければ、元金だけ、もしくはその半金でもいいとしてあった。然しその時何等の返答なきに於ては、俸給及び家宅の差押をなす旨が言明してあった。五日から更に八日まで三日の猶予を与うるは異常なる親切だそうであった。
 そしてそれは実際壮助にとっては異常なる幸運だと感じられた。彼は古谷が既に差押の手続に及んだもの、もしくはそれを決心したものと信じていた。
「兎に角至急いくらか金を拵えなければならない。」壮助の心は其処に落ちていった。
 壮助は差押を受けることが、自分自身及び自分の生命に直接何等の関係もないことを感じた。然し乍らそれは直ちに自分のパンに関係する問題なることを思った。狭量なる教育社会と狭量なる世間とが彼の前に据えられた。其処に於ては凡てがきちんと、表面上余りにきちんと整っていた。そしてその整然たる網の目の下には大きい闇黒があった。一度その淵に陥ったら、再び浮び上ることは出来ないに違いなかった。彼が陥った為めに、一時網の目はゆらぐであろう。然しまたすぐに以前の整然たる形を取って、その下に陥った者を永久に閉じ籠めるに違いない。壮助は今迄の僅かな経験に於て、その網の目にしっかりとつかまっている人々と、またその下の闇に永久に封じ込まれた多くの人とを見た。
「日本の社会は余りに細かく整いすぎている。生きてゆくのが窮屈な位に……。」壮助はそう思った。然しその理論は結局何の役にも立たなかった。そして彼は其処になぐり倒されたような心を以て光子のことを思った。じっとしてはおれなかった。
 然し彼は如何に記憶の中をあさっても、至急に金の調達を頼むほどの知人を見出さなかった。単に話だけをなし得る人は二、三在った。然し結果は凡そ予想し得られた。そして始めから、また終りに、彼の考えが向けられたのは下宿の老婆であった。
 彼女がいくらか小金を持っていることは下宿してすぐに壮助にも分った。それから彼女自身の口からも、折にふれて洩らされた。やはり家に下宿していたさる大学生に二百円ばかり貸しがあるが、中々返さないので弁護士に頼んである、と彼女は云ったことがあった。「紙幣おさつの十枚位は枕の下にしていないと眠れませんよ。年をとるとただもうお金ですよ。」そして彼女はひひひと笑った……。
 その気味悪い笑い声が聞えるような気がして、壮助はぼんやりした考えからふと醒めて、強く頭を振った。そして我に返ると、病壮にやつれた光子の顔が見えて来た。その顔が淋しく彼に微笑んだ。
 愛の名に於いて為さるることは、如何なる卑下ひげみじめではない!
 壮助はきっと唇をかみしめた。そしてお婆さんの所に下りて行った。
「お婆さん、少しお願いがあるんですが。」
 老婆は縁側の障子の許で針を持っていた。そして壮助を見ると、大きい眼鏡を外して、眼を瞬いた。
「何か御用ですか。まああわてて……。」
 壮助は苦笑した。そしてつっ立っていた身を其処にかがめたが、彼はいきなり用件をぶちまけた。
「金を少し貸していただけませんか。」
 老婆はしげしげと彼の顔を見守った。彼はそれがたまらなくなって言葉を続けた。
「二十円もあればいいんです。一週間ばかりしたら屹度返しますから。」
「何がそう急にお入用ですか。……あの古谷さんの方ですか。」
「そうです。少し入れておかないと困るですから。」
「なにあれはね、いつもああ云うことを云うんですよ。差押でもすると云うんでしょう。例の手ですよ。……いいから私にお任せなさいよ。私が一寸行っていいように云って来てあげましょう。少し、握らしておけばよござんすよ。私にお任せなさいよ。」
「いや僕はもうすっかり払ってしまうつもりです。友達の方に頼んでいるんです。一週間許りしたら出来そうです。然しいくらかすぐに入れないと困るですから。」
「すっかりお払いなさるんですか。」
 老婆はそう云っていぶかしそうに壮助の眼の中を覗き込んだ。
「そうです。」
「まああなたもつまらないことをなさるんですね。」
 彼女は其処そこに在った長い煙管を取りあげて煙草を吸った。その人を馬鹿にしたような態度に壮助は急に苛々いらいらしてきた。
「もうあんな奴のは皆払ってやるんです。だから……今一寸二十円ばかり貸して貰えませんか。」
「さあ私の所に今お金はありませんがね……。」そう云いかけて彼女は何やら考えていたが、「では一寸調べてみましょう。すぐに持って上りますから、お室で待っていて下さい。」
「ええ、お頼みします。」
 壮助はほっとして自分の室に帰った。そして何かぼんやりしていたが、急に彼の眼は本能的に輝いた。――老婆の姿が彼の眼の前に見えて来た。
 ……或晩遅く彼は便所に立った。そして急に水が飲みたくなったので勝手許の方へ行こうとした。縁側の障子を開けると其処は老婆の室だった。彼女はいつも床のわきに屏風を立てて眠っていた。彼はその側を通りすぎようとすると、床の上に坐っている老婆の姿が屏風の影からふと彼の眼に入った。枕頭の淡い豆ランプの光りが五燭の電燈の薄暗い室にぽつりとついていた。それが第一に異様であった。そしてその側で老婆は手に欝金木綿の袋を掴んで、じっと屏風の影から彼の方を窺っていた。白くなりかけた髪の毛と赤黝い額と低い鼻とが一緒になって、その中から小さい鋭い眼がにらんでいた。壮助はそれらを一目に見て取った。そして全身にぞーっと冷水を浴びたような気がした。彼は急いで勝手許に行って水を一杯口にすると、そのまままた駈けるようにして自分の室に帰った。
 その光景が長く彼を悩ました。彼は下宿を変ろうと思ったが、老婆一人ひとり小婢こおんなと同宿人一人との気兼ねなさと、室が日光ひあたりがよくて気に入ったのと、食物たべもののまずい代りに比較的安価なのと、引越の面倒くさいこととのために、そのままになってしまったのであった。そしてその光景もいつしか彼の記憶の中に薄れてしまっていた。
 今その光景が彼の頭の中によみがえって来た。それはかの時とは違った色調を以て浮んでいた。其処には恐怖がなくて或る誘惑があった。壮助は少し左に傾けた首を堅く保ちながら、その光景の中に沈湎していった。
 梯子段に老婆の足音が聞えた時、壮助ははっとして我に返った。自分の眼附が熱しているのを彼は内心に感じた。
「津川さん、これだけきり今ありませんから。」
 そう云って老婆は彼の前に十五円差出した。
「えこれだけで間に合います。確かに。一週間ばかりしたら出来ますから。」
「いえいつでも宜しいですよ。……ですがね、お金が出来てもすぐに払ってはいけませんよ。私にお任せなさい、すっかり払うなんて馬鹿げていますよ。」
「え、その時はお願いするかも知れません。それでは一寸急ぎますから。」
 壮助はそう云って机に向った。自分の方をじろりと見てゆく老婆の視線を背中に感ずるような気がした。
 一人になると、彼は急に泣き出したいような感情がこみ上げて来た。凡てが浅間しくそして腹立たしかった。
 彼は急いで古谷に手紙を書いた。――五日の晩は急用で後れたこと、金は今奔走中だから暫く待ってくれるようにということ、十五円だけ取り敢えず送るから利息の方へ入れてくれるようにということ。
 壮助は手紙と金とを懐にしてそのまま表に飛び出した。郵便局で為替を組んでそれを出すと、初めて一日のことが顧みられた。
 空を仰ぐともはや日脚が西に傾いていた。彼は一寸足を止めて、飢えたる犬のようにあたりをじろりと見廻したが、また急に羽島さんの家の方へ歩き出した。そして心の中で、「光子! 光子!」と叫んだ。眼が湿うるんできた。

     五

 怪しい誘惑がいつしか壮助の心に蜘蛛の糸のようにからみついて来た。机に向っていてもふと気をゆるめると、彼の耳はじっと階下の物音に澄されていた。そして彼の眼の前には老婆の赤黝い顔が浮んだ。彼女は障子の側の火鉢によりかかるようにして坐ったまま、あたりをじろじろ見廻している。その丁度膝に当る畳の下に、夜彼女の枕が置かれる所に、古ぼけた欝金木綿の袋があって、その中に銀行の通帳とまた新らしい紙幣とがはいっている。じっと空間を見つめている壮助の眼は熱くほてってきた。
 それは必ずしも盗みの心持ちではなかった。然し一歩ふみ出せば、そして一度ふみ出したら、もううしろへは引返されそうになかった。
 じっと物のすきを狙っていて其で妙におずおずした老婆の眼を、壮助は自分のまわりに見出した。縁側を通る時、彼女の眼は障子の内からその足音の方へ向けられた。表の格子戸を出入りする時、彼女の眼は彼の懐のうちに投げられた。或時勝手許に通ろうとする時壮助は我知らず老婆のまわりに不安な一瞥を与えた。その時彼女の眼は彼の内心に向けられた。
 老婆の眼が壮助の神経に纒わって来るに従って彼の知覚はまた執拗に老婆の上に注がれた。彼女は室の真中に決して坐らなかった。何時いつも隅の方で、仕事をし食事をした。晩にはわざわざ電気を片隅に引張っていって其処で夕刊を読んだ。それから夜床に就く前に、暫く蒲団の上に坐って何やら胸のうちで考えるのを常とした。その側の箪笥の上には稲荷様の小さな厨子があって、瀬戸の狐が二つ三つ置かれていた。
 彼女は毎朝大抵日が高く昇ってから朝湯に行った。時々午後に何処どこへか出かけて行って夕食前に帰って来た。その留守中、心持ち痩せた悧巧そうな小婢が勝手で働いていた。何か用を拵えて一寸使にやる、そしてその隙に老婆の室に自分が立っている……。
 壮助はふと我に返って、自ら空想の糸をぷつりと絶ち切ると、不安がむらむらと起って来た。何か悪いことが、取返しのつかないことが起りそうであった。
 ふいと表に飛び出すと、空が晴れていた。日が輝いていた。その中に在る自分の孤影が急に涙ぐまるるまで佗びしかった。そして光子の名をまた心の中で呼んだ。
 光子の病気は殆んど同じ所に停滞していた。同じ様な容態の日が明けてはまた暮れた。然し何かが或る動き出そうとする力が、じりじりと迫って来つつあるのを思わせた。それはいい方へか又は悪い方へかは分らなかった。
「もう運に任せる外はありません。」羽島さんの眼付が云った。
「如何でございましょうかしら。」と小母さんの眼付が云った。
 台所の用から衣類の始末まで小母さんは一人でしなければならなかった。そして羽島さんには彼の水滸伝と商売とがあった。貧しい食卓からさえも度々立ってゆかなければならなかった。
「ほんとに何にもございませんで……。」と小母さんは気の毒そうな顔をした。
「いやその方がいいんですよ。御馳走なら、光ちゃんがよくなってから沢山いただきましょう。」
 壮助は屡々夕飯の世話をかけることさえ何となく済まないように思っていた。貧しい食卓が一家の引きつめた経済状態を思わせた。そして……それがまた自分自身を顧みさした、近々のうちに拵えなければならない、そして当のない、多額の金を。
「光子がもし助かるとすれば、皆あなたのお蔭です。」
 羽島さんはそう云って淋しい顔をしながら箸を取り上げた。その言葉に小母さんがじっと眼を伏せている。
 何という卑下ひげであろう、そして其処には亦生活の疲れと長い心労とがあった。然しそれはまた一層濃い色を以て壮助自身のうちに返って来た。彼は羽島さんの姿を、色艶の悪いその顔を、仰ぎ見るようにした、助けを求めるような心で、百円を与えたことをはっきり意識した心で、そして……その返済を求むるような心で。
 壮助は座に堪えられないような気がした。そして病室にはいると、光子が急に大きな眼を開いて彼の顔を見た、そして口元に無心な微笑を漂わした。その側に坐って、彼は顔をそむけて涙をはらはらと落した。
 看護婦が座を立った時、光子は急に壮助の方に顔を向けた。
「津川さん、なぜ泣いたの。」
 壮助は光子の眼をじっと見返した。そして頬の筋肉がぴくぴく震えてくるのを感じた。
「なぜ泣くの。」光子の眼附がまたそう云った。
「光ちゃんがね、早くよくならないからつい悲しくなったのだよ。」
「あたしそんなに悪くはないわ。」
「ですから早く滋養分を取って元気をつけなければね……。」
「ええ、」と光子は頭を軽く動かした。「だから辛抱して食べてるのよ。」
 その時光子は急に起き上ろうとするようであった。壮助はその意味がはっきり分った。で枕頭の瓶をとりあげて見せた。
「これ?」
「ええ。」
 それはソップの瓶であった。中のものはすっかり飲みつくされていた。
「今日はすっかり飲んだわ。……でもそれはおいしくないのよ。」
 壮助は何と答えていいか分らなかった。
「私いつよくなるんでしょうね。もういいような気がするんだけれど……。」
 彼女の眼はただぼんやり開かれていた。そして其処に映っているものは淡い影のような物象だった。悲しみも苦しみも無いような澄んだあらわな光りが漂っていた。
 七時頃に大抵咳が来た。
 かすかな呼吸が乱れて来ると、喉のあたりに長く引いた吸気の痰に妨げらるる音がした。そして殆んど本能的に幾つもの空咳が為された。呼吸の数が不斉になり、頬の赤みが増してくる。そして喉にからまる痰の音が、はっきり聞えるようになる。それが暫くの間続いた。衰弱と長い習慣とのため、別に努力も為されなかった。そしてやがて、ぐっと何かつまったような音がすると、かっと痰が口腔の中に吐き出された。看護婦は小さく切った紙片を彼女の唇にあてて、その痰を彼女の舌の先から拭い取った。
「おひや。」と光子は云った。
 瓶の吸口から冷たい水を二口ばかり吸い取ると、暫らく口のあたりを動かした。そして眼が湿うるんでいた。
 光子はぼんやり其処そこに居る人々を眺めたが、すぐに視線をらしてしまった。そしてそのままの無関心な状態が、彼女をうとうととした眠りに導いた。
 壮助は腕を組んで光子の横顔を眺めていたが、一人取り残されたような自分の心を見出した。じっとして居れないような気持ちが胸先にこみ上げて来た。
 辞し去る時彼は、自分の前に視線を落して羽島さんの顔を見なかった。彼を見る自分の眼附を恐れたのである。
 外に出ると輝いた星としっとりとした空気との春の夜であった。何処かに温気うんきを含んだ静かな大気と軒燈の光りとが、遠くへ人の心を誘った。壮助は誘わるるままに明るい通りを人込みに交って流れていった。そして何等のはっきりした意志もなくとある活動館に入った。
 新派悲劇、泰西活劇、旧劇、そういう写真が彼の前に展開された。そして俗悪なる弁士の声が彼の耳に響いた。群集の頭顱が重り合って並んでいて、温気が館内に立ち罩めていた。凡て卑俗なもの、激情的なもの、混濁のうちに醸される好奇なもの、そんなものが彼の頭をぼんやりさし、彼の頭の中にもやもやとしてほてりを立ち罩めさした。写真の合間にぱっと明るく電気がついて、自分の側に眉の濃い鳥打帽の男や赤い手絡てがらの女やを見出す時、彼は顔を上げ得られないような気持ちに浸っていった。
 人波にもまれて活動小屋から押し出されると、彼はもう凡てが懶くなっていた。それでも何かに追われるように一人でに足が早められた。頭の芯に遠い痛みが在った。
 閉められている宿の戸をそっと開くと、内からお婆さんの大きい声がした。
「かっといて下さいよ。」
 その声をきくと、急に身体の筋肉が引緊ひきしめられた。そして何かが、重い鈍なるものが、彼の眼の前にぴたりと据えられた。其処で凡てがゆきづまっていた。
「どうにでもなるようになるがいい。」と彼は投げ出すように呟いた。然しすぐその後から別な声が囁かれた、「あすという日が来たなら……。」
 然しながら、重苦しい眠りの中には、凶なる夢が彼を待っていた。
 ――広く明るい舞台の上にでも見るような室だった。何処からすともない明るみが一杯に湛えていた。そして其処に妙な男が一人立っていた。姿は何にも見えなかったが、兎に角或る男が立っていることは事実だった。恐らく黒い布で覆面しているであろう。……そして何かが……盗みが今為されようとしていた。男は畳の数を一枚一枚数えていった。がいつまでも畳の数がつきなかった。……
「夢を見てるな」という意識が茲で一寸返ってくる。がそのままでぐいぐいと怪しい力で引きずられる。……彼は何時いつの間にか縁側に立って、じっと障子の中を窺っていた。誰も室には居なかった。すると丁度その時、室の中の畳が一枚自然に持ち上って、その下から財布が出て来た。それは先刻の怪しい男の仕業だった。男は身を屈めて財布の中から紙幣を取り出している。……と老婆がじっと屏風の影から隙を狙っていた。「危い!」と思う途端ばさりと音がしてぱっと血が迸った。……その時彼は室の真中にぼんやり立っていた。老婆が傍に斃れている。室の隅の箪笥の上に稲荷様の狐が並んでいる。……妙に何か考え込まれた。そして今すぐに金を返さなければいけなかった。兎に角出かけなければならない。で足を返すと、向うの隅に老婆の顔がげらげらと笑っていた。ふり返ると、其処にまた老婆の顔がげらげらと笑った。……彼はくるくると室の中を廻り初めた。大きい旋風が起ってその禍の中に巻き込まれた。無数の老婆の顔が急速な廻転をなして彼を取巻いた。彼は眼がくらんできて息がつまり気が遠くなった……。
 はっと息を吐くと、全身汗にぬれていた。腹巻のあたりが気味悪くねとねとしていたので、そっと両手で風を入れた。そしてそれも夢の中のようであった。電燈の光りが漠然と彼の瞳孔に映じた。そして頭はひとりでに働いて、混沌たる夢幻の跡を追った。
 翌朝、朝日の光りを見ると、壮助は急に飛び起きた。台所で顔を洗っていると、お婆さんが声をかけた。
「いつもお早うござんすね。」
 彼は何とも答えなかった。そして冷たい水をむやみと頭に浴びせかけた。それから二階の廊下に出て、新鮮な朝の空気を呼吸した。それは彼の毎朝の僅かな努力だった。
 然し彼の頭の中には、不安と焦慮とが凝り固っていた。そして彼の前には、惰性に引きずられたる単調なる生活の勤めがあった、礼譲の衣に術策を包んだ卑屈なる同僚と、人種と時代とを異にしたような眼附で彼を眺むる生徒とがあった。そして疲労と倦怠とを担って帰って来る彼は、更に老婆の金の誘惑と、渾沌たる光子の容態と、活動の俗悪なる空気とに迎えられた。
 ゆきづまった未来が彼を脅かした。其処そこにはもはや、羽島さんに助けを与えた輝いた力は無かった。貪る眼附を以て彼は自分の周囲を見廻した。そして凶なる陰影に満ちた周囲のうちに、最早一人で立ち得ない自分の心を見た。心のうちには重く濁った雰囲気が澱んでいた。
 壮助は殆んど盲目的に、川部に向って手紙を書いた。結果の如何は問う所でなかった。ただそうすることが自分の勤めででもあるかのように。――手紙の中に彼は今迄の事情を述べて、何処どこからか金の融通が出来る途を紹介してくれるように頼んだ。詳しいことは逢って云うが先ず手紙でとりあえず願う旨を附記した。
 手紙を出してから、彼はもう凡てのことをほうり出したような安易を覚えた。そして光子のもとに急いだ。
 肉の落ちた眼の大きくなった光子の顔を彼はじっと見つめた。光子のあらわな瞳が彼の視線を吸い込んで、謎のようにぼんやり其処に在った。
「あたしもうすっかりいいような気がするわ。」
 と光子は云った。それから何かを探し求めるようなふうで一寸言葉を切ったが、また云った。
「よくなったような気がすると、急に亡くなったお祖母さんのことなんか思い出してよ。」
「よくなったら一緒にお墓詣りをしようね。」
「ええ。」
 然し彼女の表情には、淡い混濁したものがあった。彼はそのうちに、彼女の生命の保証を、生きんとする生命の力の微光を探し求めた。
 枕頭の病床日誌を取ってみると、その中に挾んである熱と脈搏と呼吸との三色の線の交錯が高低をなして続いていた。
「手を見せてごらん。」
「え、なあに?」そう云って光子は蒲団の外に片手を出した。
 壮助はその手首を取ってみた。軽い脈搏が、その中に熱を持っているような血潮の流れが、彼の指頭に感じられた。
「まだきる、生きなければいけない!」彼はそう心の中に呟くと、どうしていいか分らないような感情が一杯こみ上げて来た。そして彼女の掌をじっと握りしめた。その掌がかすかに痙攣するように感ずると、彼は自分の上に据えられているあらわな二つの眼を見た。
 避けられないものが二人の眼の中に在った。魂がじっと向き合っていた。息をつめたようなものがじりじりと迫ってきた。そして壮助は掴み取らるるような引力を自分の眼附のうちに感ずると、はっと我に返った。
 光子は眼をらしてぼんやり空間を見つめていた。凡てが静かで動かなかった。そして壮助ははらはらと涙を落とした。
「どうしたの?」
 そう云って光子の眼がまた彼の方に向けられた。
「…………」
 光子は軽く微笑んだ。ただあるがままの安らかな生命がそのうちに在った。
「彼女に生あらば……、」壮助はそう心の中に叫んだ。「凡てが救わるるであろう。」
 然しながら一瞬間の後には、荒凉たる頽廃の感情が彼を待っていた。息づまり杜絶されたような自分の生活が彼の眼の前に在った。
 運命が、あらゆるものが、何れかへ、転り出さんとしていた。一度動き出したらもう引止めることは出来そうになかった。凡てが険しい分岐点に立っていた。
 夜が暗く、そして凡てのものに不安な予感と鈍い光りとが在った。羽島さんの家政の奥に窺い寄らんとする眼があった。老婆の金を狙っている眼があった。更にまたそれらを担いながら、何物かに引きずられるような重苦しい勤労があった。
 翌日壮助は自分の机にもたれながら、困憊こんぱいのうちにうとうとと眠るともなく夢幻の境を辿っている時、突然川部の来訪に驚かされた。
 川部の興奮したような熱のある顔に接した時、壮助は急に飛び上りたくなった。
「君、あんな手紙を出して許してくれ。」
 壮助はじっと自分の心を押えて、頤をつき出しながら友の顔を見守った。
「いや、実は君が心配してるだろうと思ってやって来たんだ。」
「で?」
「金は出来そうだ。僕が今とりかかっている翻訳の原稿料を本屋から前借しようと思って今日行って来た。主任の者が居ないから確かな所は分らないが、多分出来るだろう。」
 そう云って川部は眼を伏せて何やら考え込んだ。
「…………」
 壮助は言葉では何にも云えなかった。急にぱっと明るい所に出たような気がした。それは一歩前にふみ出されたのであった。凡てのことが顧みられて、はっきり分って来た。
「三百五十円と云ったね。」
「ああ。」
「高利貸の方は一体いくらになっているんだい。」
「借りたのは二百円だが、何やかやで三百円近くになっている。それに此処ここのお婆さんに返すのと、光子の家へも少しは助けたいから。」
「では兎に角三百五十円だけ拵えよう。金なんか、場合に依ってはどうにもならないものだが、またどうにもならない所に融通もきくものだ。……僕が高利貸のうちへ行ってやろう。まけさしてやるんだ。云われるままに取られる奴があるものか。大丈夫だ。そして僕には或る興味もあるんだ。単なる興味で動くのはいけないことだが、そればかりでもないから許してくれ。」
「ああ君のいいように。」
「そして光子さんの病気はどうなんだい。」
「少しはいいようだが……。」
「それはいい。光子さんだけは是非とも助けなけりゃいけない。」
「ああ。」
 その時壮助の心のうちに急に或る悲壮な感激が湧いて来た。
「お蔭で僕のやったことが意義あるものになるんだ。僕は自分に他人を助ける力は無かったんだ。僕は自分の力を知らなかった。そして自ら択んだ重荷の下に倒れようとした。もし倒れたら、凡ては罪悪になったろう。僕は光子の家の家計を助くるを善と信じていた。そして善に対する責任を考えなかったんだ。」
「そうだ、それは恐ろしい言葉だ。然し、君のうちにはそうしなければならないものがあったに違いない。そしてよし倒れても、そうした方がよかったかも知れない。」
「ああそれは……。」
 そして「よかったのだ」と云おうとして壮助の言葉は急に何物かから遮られた。ぶるぶると身内が震えるのを感じた。大きな力が、涙ぐまるるようなものが、胸の中を塞いだ。
 二人ふたりは暫く黙って対坐していた。障子を透して麗かな外光が感じられるようだった。川部はその方を見やったが、急に立ち上った。
「では兎に角安心し給え。」
「もう帰るのか。」
「ああ一寸用があるから。ただ心配してるといけないと思って寄ってみたんだから。」
「それでは、どうか宜しく頼む。君のために助かったんだ。……そして一年ばかりのうちにはどうにかなるだろうから。」
「いやそんなことは気にかけないがいい。……然し、もし出来たら返してくれ、実は書物が出来る時一緒に国の母に送ろうと思っていた金なんだから。」
 川部は妙に悲しそうに眼を伏せた。
「済まないね。」
「なに、いいんだ。お互のことだから。」
 一人ひとりになると壮助はじっと机にもたれたまま涙ぐんだ。ほっと自分の前に途が開けたような気がすると共に、それが、凡ての、運命の動きが、何か大変なことになったような気がした。そしてその重い責の下から、溺れる者が水面に浮び出そうとするようにして、光子のことを思った時、彼の眼からは涙がこぼれた。
「光子、光子、ただお前に生があらば、そして自分に、我等に生があらば、凡てはよくなるであろう!」
 眼を挙げると、障子には淡い日がさしていた。その日影を見守っていると、遠い野が心に見えて来た。……郊外にうちを持とう、光子の病気のために、生命のために、それは、妻という形式ででも、妹という形式ででも、または他人の形式ででも、そんなことはかまわない。只彼女が生きてさえくれたら……。そして自分は働こう。
 壮助は、凡てが光子の生命という一点から発して来たのであることを見た。そして凡てが今またその一点に落ちていった。生命を愛することがそんなにつらいことなのか?……野には樹の梢から、黒い土地から、青い芽が萠え出ている。
 壮助は立ち上った。彼の心には、只一筋の細い糸に縋ってじっと震えているような光子の生が映じた。そしてその露わな眼が大きく静かに開かれていた。「光子!」彼はまた心にそう叫んだ。





底本:「豊島与志雄著作集 第一巻(小説1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」未来社
   1967(昭和42)年6月20日第1刷発行
初出:「文章世界」
   1917(大正6)年4月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:松永正敏
2008年10月14日作成
青空文庫作成ファイル:
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●表記について