月明

豊島与志雄





 ふんどし一つきりの裸体の漁夫が、井端で、大漁のあじを干物に割いていた。
 海水帽の広い縁で、馬車馬の目隠しのように雨の頬を包んで、先に立ってすたすた歩いていた姉が、真直を向いたまま晴れやかな声で、
「今日は。」
 と声をかけると、漁夫も仕事の手元から眼を離さずに、尻上りの調子で、
「今日は。」
 姉の後に続いていた俊子が、これも海水帽の縁の中で、くすりと笑った。その拍子に、海水着一枚の背中の肉が擽ったいような震えをしたのを、彼は後ろからちらりと見た。
 姉ははふいに振り返った。
「何を笑ってるの。」
「だって、あんまり挨拶がお上手だから。」
「そう。」
 遠いような近いような海の音があたりを包んで、晩夏の日がじりじり照りつけていた。
「この辺はそれは質朴だから、」とややあって姉は思い出したように、「誰に逢っても今日はと挨拶をするのよ」
「ほんとにいい処ね。私すっかり身体もよくなったような気がするわ。」
 姉は勝ちほこったように、も一度後ろを振り向いて俊子の顔を見た。俊子が軽く肺炎を病んで、適当な避暑地を物色していたので、彼等姉弟と伯母――と云ってももう五十の上を越した――と三人で避暑することになっていた、この上総の海岸へと姉が誘った時、停車場から一里半もある辺鄙な土地ではあるけれどと云われて、俊子は一寸躊躇したのではあったが……来てみると、辺鄙なのが却ってよかったのだ。東京から入り込んだ客は、彼等を除いて、その部落に六七人とは数えられなかった。
「気兼ねする大勢の避暑客がないのが、一番いいわね。」
「その代り、静夫みたいな悪戯者いたずらものが居るから、気をおつけなさい。」
「あいた!」
 四五歩後れてぼんやりしてる所へ、自分の名前がふと耳についたので、何を云ってるのかと思って足を早めたはずみに、叢に踏み込んだ蹠を何かでちくりと刺された。彼は飛び上って足を抱えた。
「どうしたの、頓狂な声を出して。」
 掌で砂を払い落して蹠をしらべたが、もう何処が痛いのか分らないくらいに、何の傷跡も残ってはいなかった。
「蟹でも踏みつけたのかと思ったが、何でもなかった。」
 それでも、俊子が気懸りそうな眼付でじっと見てくれたのが、彼には嬉しかった。その嬉しさを、他人にも自分にも押し隠すようにして、馳け出してやった。


 川の干潟や陸には、甲羅の赤い小蟹が沢山居た。その蟹が殆んど居なくなった川口で、水にはいるのであった。広漠たる太洋に面した浜では、荒波が危険で泳げなかった。
「も少しこちらへいらっしゃいよ、泳ぎを教えてあげるから。」
 膝までしかない所に坐って、手先でじゃぶじゃぶやってる俊子へ、姉は川の真中から呼びかけた。満潮にさえならなければ、何処でも背のたつ浅い川だったけれど、俊子は決して中程まではやって来なかった。
「教えてあげるは大きいや、」と彼は引取って云った、「自分でよく泳げもしないくせに。」
「何を云ってるの。じゃあ泳ぎっくらをしましょうか。」
「しよう。」
 せいぜい二十間ぐらいしか泳げない姉だったが、いつまでも後からのこのこついて来た。よく見ると泳ぐふりをして歩いてるのであった。彼は少し速力をゆるめて、姉が近づいた頃合を見計って、いきなり水にもぐった。足を捉えて引きずり込んでやるつもりだった。が……その足が見当らなかった。暫くしてひょいと水から首を出してみた。姉は早くもそれと察して、俊子の方へ逃げ出していた。彼は追っかけていった。姉は漸く俊子の側まで逃げのびると、俊子の腕につかまって、息を切らしながらも笑っていた。
 俊子と一緒では仕方がなかった。それでも癪だったので、水をぶっかけてやった。
 日の光りの中にぱっと水抹しぶきが立って、その下から、
「お止しなさいよ……そんなこと……卑怯よ。」
 それが、姉の声だか俊子の声だか分らなかった。また水をぶっかけようとすると、二人は岸の方へ逃げていった。
「もうあなたと一緒には水にはいらない。」
 顔に浴びせられた水を掌で拭きながら、姉は怒った風をした。
「だってあなたの方が悪いわよ。」
 と俊子は云って、まだ笑ってる眼付で彼の方をちらと見た。
 彼は大きな赤貝の殼を拾って、川の方へ力一杯に投げた。その真白いのが空高くくるくると廻って、水の上にぽちゃりと落ちた。
 なだらかな砂地がこころよく温まっていた。
 海の岸まで行って、其処に身を投げ出した。
 一色の青のうちに平らに見える海が、一町ばかりの沖の方から大きな波に高まって、やがて白い波頭をふり立てながらざざざざと寄せてくるかと思うまに、頂辺てっぺんからどっと崩れて捲き返した。それが無数に連って、松林と砂丘との真直な九十九里ヶ浜を、眼の届く限り遠くまで……末は茫とした水煙のうちに霞んでいた。耳を澄すと、ごーという地響きに似た音だった。その合間に、ごく近くに、さらさらと軽やかな音とも云えない音がする。風に吹かれた金砂が、日の光りに粉のように輝いて、浜辺を一面に走っているのであった。濡れた海水着が、いつのまにかそれを一杯浴びていた。
「そんな強い風でもないのに、ひどい砂ね。」
 独語ひとりごった姉の言葉に、俊子は沖の方を見ながら答えた。
「だって可なり強いんでしょう、あんなに波が立ってるから。」
「それは外海の波ですもの、風がなくても高いわよ。」
 だが、一処、妙に波が低くて白く捲き返さない場所が、すぐ向うに見えていた。
「あら、あすこはどうしたんでしょう。」
 俊子ばかりでなく、姉もまだそれを知らなかった。
「あすこで泳ぐと面白いんですよ。」
 そう云って彼は眼を円くしてみせた。
「どうして。」
「一里ぐらい沖まで持って行かれちまうんです。」
「え、沖へ?」
「潮の加減で引力が強いんです。それに乗ったが最期、沖へ流されるより外ありません。普通に、みおと云ってますが、漁夫達でさえ恐れてるくらいです。そんなのが方々にあるから、この海ではうっかり泳げません。毎年死ぬ人があるんですよ。」
「本当?」
 姉が吃驚びっくりした顔をして彼の方へ向き直った。
「本当ですとも。もっと面白いことがありますよ。地引網じびきにね、時々大きなふかさめがかかってくることがあるんです。するとその腹の中から、人間の頭がよく出てくるんですって。」
「まあ、いやだこと!」
 その叫びにも無頓着かのように、俊子はやはりじっと沖の方を見続けていた。
「もう帰りましょうよ。何だか気味が悪いから。」
 広い砂浜には、太陽の光りがじかに照りつけてるきりで、誰の姿も見えなかった。彼方に数隻の漁船が、置き忘られたように静まり返っていた。
「海を見てると、何だか引き込まれるような気がするものね。」
 俊子はそう云って、初めて我に返ったらしく立ち上った。


 気味が悪いと云いながらも、姉は地引網を引張ってやるのが好きだった。
 朝早くから十時頃まで、波がさほど高くない時、海岸の方々でそれが行われていた。
「立って見てねえで、手伝ってくれたらよかんべえ。」
 そういう囁きが耳にはいってから、姉はいつも着物の裾をからげて、逞しい男女の間に交って、地引網の綱につかまった。一生懸命に引張ってはいるのだが、つかまってるのと大差なさそうだった。彼も時々綱を引いてみた。沖に引かれる力の強さを手に感じて、ともすると足がよろけそうだった。ただ俊子は、少しも手出しをしなかった。
 鯵や梭魚かますの類が、少い時は桶四五杯多い時には三四十杯も取れた。特殊な魚だけを別により分けて、残ったのを桶一杯ずつ砂の上に積み上げた。買手が大勢来て待っていた。
「手伝った東京もんに、これをくれてやるべえ。」
 幅利きらしい男が大きな太刀魚をぽんと投ってくれた。
「有難うよ。また手伝うべえ。」
 姉はおかしな調子で云い捨てて、まだぴんぴんしてる太刀魚を、しっぽでぶら下げながら飛んでいった。
「豪勢威勢のええあまっちょだなあ。」
 地引が上ると漁夫達は皆機嫌がよかった。姉も機嫌がよかった。
「どう?」彼女は俊子の前に手の魚を振ってみせた。「私が海にはいってつかまえたのと同じことよ。」
「そうね。」
 苦笑とも揶揄ともつかない俊子の言葉に、姉は一寸意気込んでみせた。
「私は海で鍛えた真黒な人達の間に交って、その生活を味うのが好きよ。あなたはもっと元気にならなくては、折角海に来た甲斐がないわよ。松原を歩いたり海岸をぶらついたりするきりでは、つまらないじゃないの。」
「私には、馴れないせいか、自然の方が面白いような気がするわ。」
「どうして。」
「どうしてって、云ってみれば、海には海の大きな霊といったようなものが感じられるから。」
「また例のロマンチックが初ったのね。」
「そうじゃないわよ。私此処に来てはじめて、海には海の霊があることを、どうしても否定出来ない気がしてきたのよ。……静夫さんはどう思って?」
 彼は何と答えてよいか分らなかった。が兎に角、彼女の言葉をじっと聞いてると妙に不安になった。
「そんなことを云ってた漁夫があります。」
「そんなら、」と俊子は姉の方を向いた、「私の方が漁夫の生活によっぽどよく触れてるわけじゃなくって。」
「駄目よ、あなたのはみんな空想だから。」
「そうかしら。」
 振り返ると、海は波頭に朝日の光りを受けて、沖遠くぎらぎら輝いていた。その輝きが無くなる頃から、海鳴の音が更に高まってくるのだった。


 俊子の所謂海の霊を、彼女が最もよく感ずるらしいのは、夕方から夜にかけてであった。
 彼等が借りてる別荘とも百姓家ともつかない家は、その部落と松林との境に在った。
「早く御飯にして散歩に参りましょう。」
 明るいうちに夕食をして、大儀だからという伯母と女中とを残して、若い者だけで散歩に出た。
 松林の裾を廻って、薩摩芋の畑の間を少し辿ると、川の岸に出る。橋を渡った向うが低い堤防をなしていて、その向うに青々とした水田が、はるか海岸の砂丘まで連る。
 華かな残照が西の空に残っていた。海を渡り稲田の上を渡ってくる風が、昼間の暑気を吹き払って、遠い夕靄のうちに流れ迄んで[#「流れ迄んで」はママ]ゆく。その風の反対に、所々に川柳の茂みを持った堤防を海の方へ、三人は楽しげに語りながら下っていった。ゆるやかな川の面に落ちていた三つの淡い長影が、茫と水の色に融かし込まれる頃になると、話はいつのまにか途絶えていた。姉は歌を歌い出した。俊子がそれに和した。ダニューブ河の歌やローレライの歌がくり返された。古臭い歌だなと思っていた彼も、いつしかその調子を覚えてしまった。ただ口に出しては歌わなかった。
 海岸へ出る頃には、黄昏たそがれの明るみが月の光りに代りかけていた。茫と青白く光る海岸線が、魔物のような波音をのせて遠く続いていた。
「いつまでも歩きたいような晩ね。」
「ええ……でも、沖の方を見ると何だか恐いようね。」
 薄ら明りに変に大きく見える手を伸べて、姉がさし示した沖合は、ただ一面の黒に塗られて、淡く射す月の光りと波音とを、底知れぬ深みへ吸い取っているようだった。
「だけど、沖に出てみると案外恐ろしくないかも知れないわ。丁度、墓地は外から見ると恐いけれど、中にはいると何となく賑やかだというじゃないの。海も墓地と同じようなものじゃないかしら。」
「そんなら私なお恐いわ。幽霊船でも出て来たら、あなたどうして?」
「そうね……。」
 暗い海を背景にして仄白く浮出している俊子の顔が、一寸揺れたかと思うと、低いおどけた声で、
「ばアーと云ってやるわ。」
 それが変に不気味だった。
「いやな人!」
 投げ出すように云った姉の言葉のすぐ後を、彼は横合から続けた。
「この沖にも幽霊船が出ることがあるんですって。」
「嘘!」と云った姉の声は少し慴えていた。
「嘘ではありません。船の姿が見えないのに櫓の音が聞えたり、真黒な帆前船がすーっと側を滑りぬけたりすることが、よくあるんだそうです。」
「それは、風の工合で遠い櫓の音が聞えたり、本当の船をそんな風に感じたりするんだわ。」
「所が変なんです。或る時沖に釣に出た船が、夜になって戻って来たことがあるんです。その漁夫達の話ですが、薄暗くなって帰りかけると、いくら櫓を押しても船がなかなか進まなかったんですって。それでも一生懸命に漕いでると、不思議なことには、一町ばかり離れた後ろの方から、やはりせっせと漕いでくる船があるんです。櫓の音も掛声もしないのに、船の姿や人の影だけがありありと見えていて、その上、近寄りもしなければ遠ざかりもしないで、いつも同じはやさでついて来ます。少し気味悪くなってきたので、漁夫達は力のあらん限り漕ぎまくって、漸う岸まで戻ってきて、ほっと後ろを振り返ると、今まで同じ速さでついてきていたその船が、何処へ行ったか消え失せてしまってるんです。その時はほんとにぞーっとしたと云っていました。」
 まあーと云ったように、姉は眼をきょとんとさし口を開いて、彼の顔を見守った。
「そんなこともありそうですわ。」と俊子は静かな声で云う、「海には一つの霊がないとしても、何かのいろんな霊が籠ってるに違いないわ。」
 波の音がその声を、上からどーっと押っ被せてしまった。が、その波音の中にまた何か変な気配がした。上を仰いで見ると、一羽の黒い鳥が低く飛び過ぎた。
 彼はぎょっとした。思わず俊子の方へ身を寄せると、俊子は眼と口元とで軽く微笑んでみせた。その顔が怪しく美しかった。彼は胸の中でぎくりとした。度を失ってまごついてると、俊子は瞬間に眼を外らして、腕につかまってきた姉の方へ云っていた。
「臆病な方ね。鳥じゃないの。」
「だって、私何かと思ったわ。生きたものならちっとも恐かないけれど、怪しい変なものは大嫌い。」
「私はまた、おばけならちっとも恐かないけれど、人間が一番恐いわ、何をされるか分らないから。」
 月の光りが急に明るくなってきて、広い砂浜が蒼白く輝らし出された。


 彼は朝早く起きるのが好きだった。鶏の声が聞えて東の空が白む頃から、何物にも遮られない、仄白い――而も澄み切った朝明りとなった。ここ荒海の岸辺では、夜と昼との境をなす朝霧は、一度夜が明けてから後に初めて、森や部落のまわりに立ち罩めるのだった。黎明の頃は大気が澄みきっていた。日出前に東の空へきまって出てくる黒雲の縁が、黄や紅に彩られて、それがじかに朝明りの中へ反射した。魂の底まで浄められるような曙だった。
「姉さん起きなさいよ。日の出を見に行きましょうよ。」
 二三度ゆすぶられて、姉は漸う眼をこすりながら起き上った。まだ一度も、海から太陽の出る所を見たことがなかった。
「そりゃ何とも云えねえぞうー。見た者でなきゃあ分んねえ。」
 水瓜すいかを売りにくる婆さんがそう云った。だが、日出時の東の水平線は大抵雲に閉されていた。
「晴れてるの。」と姉は尋ねた。
「ええ。」
 曖昧な調子の返辞だったが、それでも姉は起き上ってきた。
 これが例の二葉より香しというあの木かしらと怪しんだ、大きな旃檀せんだんの木の下に転ってる、木の切株の上にあがって、更に爪先で伸びあがって、東の空を透しみたが、まだ黝ずんでる大空の色と見分け難いほどのものが、低く横ざまに流れていた。
「あれは雲じゃないの。」
「さあー……。」
 横飛びに飛んで、向うの無花果の木の低い枝につかまり、ぴょんと跳ねて葉の間から覗くと、黒雲の下がすっと切れて、紅をぼかした銀色に輝いていた。
「大丈夫ですよ、下が切れてるから。」
 海鳴の音がいつもよりはっきり聞えていた。地引網の喇叭が響いてきた。たとい日の出が見られなくとも、損にはならなかった。それにもうどうせ起き上ったのだから。
「俊子さんも起してくるわ。待っていらっしゃい。」
 彼が深呼吸をしてる間に、日に焼けた姉の浅黒い顔と俊子の蒼いほど白い顔とが、ふわりと飛んできた。
 草の葉末にたまった露を踏んで、粗らな松林の裾をぬけると、その向うがすぐ海だった。松の間から東の空がちらちらと見えていた。
「あら、あんなに雲がかけてるわ。」
 僅かな雲だと思ったのが、暫くの間に東の空を蔽い隠して、なお次第に拡がりそうだった。
「仕方ないから地引網の綱でも引くんですね。朝っぱらから景気がいいですよ。」
 砂丘の上に、蟻のような人影が見えていた。
「知らないわ。……こんなに早くから人を起しといて!」
 つんと澄してすたすた足を早める後から、俊子は落付いた声で注意した。
「でも、ほかで見られないような変な朝ね。」
 東の空の大きな黒雲の影に包まれて、めしいたようなだだ白い明るみが遠くまで一様に澄み切っていた。
 真先に歩いていた彼は、俄に足を止めた。松林のつきる処に四五本の雑木があって、その下枝のあたりに、白いものが真円く浮出してゆらりと動いた……と思ったのは瞬間で、よく見るとだらりと垂れ下っていた。
 ぞーっと身体が悚んだ。が、引き止めた息が保ちきれなくなった間際に、ほっとした。木の枝に提灯がかかってるのだった。
「どうしたの。」
 黙って歩き出すと、此度は喫驚した調子の声で、
「蛇でも居たの。」
 彼はやはり黙って頭を振った。何だか白茶けた気持ちになった。ぼんやり眼を挙げて眺めると、提灯は白張りの無紋だった[#「無紋だった」は底本では「無絞だった」]。それが一寸変だった。
「あら、静夫さんは蛇がお嫌い?」
 わざと不思議がったようなしなをした声だった。
「ええ、可笑しいほど嫌いなのよ。」と真中に居る姉が答えた。
「そう。私はどちらかというと好きな方よ。」
「蛇が!」
「ええ。もとは嫌いだったけれど、だんだん好きになるような気がするわ。一番いやなのは蚯蚓、ぬらぬらしてるから。」
 蚯蚓がいやで釣が出来ない自分のことを思い出して、彼はふと振り返ってみた。
 俊子はもう眼を地面に落して、其処に匐ってる蚯蚓の上を飛び越していた。その顔が、気のせいか、提灯と同じような白さに見えた。


 晴れた日には、地引網を見たり、水にはいったり、散歩をしたり、松林の中に迷い込んだり、畑の薩摩芋を盗みに行ったり、遊ぶことはいくらもあったが、雨の日は退屈で仕方がなかった。雨と云えば大抵風雨だった。
 南寄りの東に海を受けてる土地だったが、海鳴の音は多く南か北かに聞き做された。南で鳴れば不漁、北で鳴れば大漁、としてあるその海鳴が、風雨の晩は南にも北にも聞えた。その響きに包まれて、雨と風との音がざあーと雨戸にぶつかってきた。
「あれ、今時分どうしたんでしょう?」
 耳を澄すと、なるほど地引網の時と同じ様な喇叭の音が、遠くかすかに伝わってきた。
「船上げですよ。」
「船上げってなあに?」
「波が高いから、漁夫りょうし達を集めて船をずっと陸の方へ引上げるんです。姉さんはそんなことも知らないんですか、つうぶってるくせに。」
 やりこめられたことも知らないで、姉はただ不安そうに眼を見張った。
「そんなに波が高いかしら。……いやな音ね、難破船でもありそうな。」
「あるかも知れませんよ。」
 ランプの光りが妙に薄暗く思われた。
「今にこのランプの光りが暗くなってくると、海坊主がのっそりとはいって来るかも知れません。」
「馬鹿なことを仰言い。海坊主なんていうものが居るものですか。」
「居りますとも、現に見た者があるんです。」彼は口をつんと尖らしてじっと姉の顔を見つめた。「夜遅く漁から帰ってきますとね、俄に海が荒れ出して、それを乗りきってゆくうちに、人間の形をした真円い山が向うに聳えているんです。然し一日のうちにそんな山が出来るわけはありません。こいつ怪しい奴だなというので、船頭達は力一杯櫓を押しながら[#「押しながら」は底本では「押しなから」]その真中目がけて船を乗りかけたものです。すると、山の中を船がすーっと抜けた、山は後ろにやはり聳えてるんです。船頭達は胆をつぶして、なおえっさえっさ漕いで行くと、何処からともなく温い風が吹いてきて、眼も口も鼻もないノッペラボーが船の舳に手をかけて、ぬっと伸び上って、それから……恐いかあー……。」
「何ですね、変な声を出して?」と伯母が横合から笑いながら口を入れた、「それは姐妃のお百の海坊主じゃありませんか。」
「伯母さん知ってるんですか。そんなら話すんじゃなかった。」
 姉はほっとした様子で、それでもなお気味悪そうな色を浮べて、姉の方を睥んだ。
「おどかそうたって駄目よ。化物なんか居るものかと云ってた癖に、化物贔屓の俊子さんがいらっしたものだから、すっかりかぶれちゃって、つまらない話をしてるのね。」
「あら私が化物贔屓だなんて……。」
 とは云っても、俊子は眼付で笑っていた。
 それきりあたりがしいんとしてきたのを、姉は突然大きな声で、「さあ、先刻の続きをやりましょう。」
 船上げの喇叭に中断せられたトランプが、また初められた。
 云い出した姉へ、彼は美事にスペートのクインをつけてやった。そこへまた姉は、俊子からスペートの五を背負い込ませられた。
「いいわ、覚えていらっしゃい。分ってるわよ、化物同志で私をねらってるのね。」
 俊子は彼と眼を合わして、くすりと笑った。口元に指で押したような凹みが寄って、ちらと瞬いた睫毛が、鳥の翼みたいな影を眼の中に落した。
 ハートの切札の時に勝つようにと、彼は何がなしそんなことを心に念じた。
 けれど、そういう遊びのうちにもともすると、真暗な夜が忍び込んできた。風はいつのまにか止んで、しとしととした霖雨を思わせる雨音だった。それがなお戸外の夜の暗さを偲ばせた。此処に来て初めて、鼻をつままれても分らない闇夜を知ったという、その暗闇が室の隅々から覗いていた。
明日あしたも海が荒れそうですね。」
 南に廻った海鳴の音をじっと聞いていた伯母が、トランプの方をそっちのけにして云った。が誰も返辞をしなかったので、伯母は一旦噤んだ口をまた開いた。
「もう二三日で九月ですね。」
 滅多に海へも行かない伯母は、早くから退屈して東京へ帰りたがっていたが、俊子のためにというので、皆と共に八月一杯滞在することになっていた。その八月がもう二三日きりとなってるのだった。
「あと僅かだから、うんと遊びましょうよ。私徹夜しても構わないわ。」
 だが、そういう姉の声も、昼間からの遊びに疲れはてていた。
「負けると猶更止められなくなるんですってね。」
「あら、あなたの方が負けが込んでるじゃないの。」
「そうかしら。」
 点取りの表を覗き込んだ俊子の細そりした頸筋が、彼の眼の前に滑らかな皮膚を差伸べた。


 明日東京へ帰るという日は、朝から綺麗に晴れていた。これを最後だというので、地引網にゆき、海岸をぶらつき、水にはいり、また松林の中を歩いた。春には松露しょうろが沢山取れるという松林の中には、所々に名もない箪が出てるきりだったが、その代りに、尾長おながと俗に呼ばれてる白と黒と灰と三色の美しい鳥が沢山居た。巣立ったばかりの雛が枝から枝へと危っかしく飛び移っていた。
 彼はその雛の小さいのを一つ、松から揺り落して家の庭に持って来た。持っては来たが、さてどうしていいか分らなかった。
「あら、なあに?」
 張りのある澄んだ俊子の声が響いたかと思うと、此度はやはり彼女の喉にかかったゆるやかな声が、
「まあ、可愛いいんですね。」
 飯粒を持って来てくれてやったが、食べようともしなかった。地面に置かれるときょとんとした眼付をしてじっとしてるのに、掌に取られると小さな羽をばたばたやった。
「可哀そうですわ。助けておやりなさいな。」
「ええ。」
 と答えて行こうとすると、後ろから、彼の方へ呼びかけるのでもなくまた独語でもなく、何気ない調子で、
「もう今日きりね。晩にまた海へ出てみましょうか、屹度月が綺麗ですわ。」
 振り向いてみると、彼女は顔の下半分で微笑んでいた。が、じっとこちらを見てる黒目がちの眼が、変に熱く鋭く感ぜられた。
 彼はやはり場を失った眼を俄に伏せて、松林の方へ馳けていった。
 その日見た――初めてのようにしみじみと而もひそかに見て取った彼女の姿が、頭の奥にこびりついていた。――地引網が上ってくるのを、まじろぎもしないで見つめてる立ち姿が、肩がしなやかにこけて、臀から股のあたりにむっちりとみがはいっていた。――水から出て海岸の砂に寝そべりながら、赤く日に焼けた上膊から剥がれる薄い皮を、しなやかな指先でそっとつまんで引張りながら、
「こんなに皮がむけてきたわ、もう一人前ね。」……だが、濡れた海水着がぴったりとくっついてる痩せた胸には、姉のに比べると余りに小さな、ぽっつりとした乳房が淋しかった。――湯から出てお化粧をしてる所を覗くと、「見ちゃいやよ。」と云いながら、なお平気で彼の眼の前に曝してる半裸体の、他が日に焼けてるせいか、海水着のあとが殊にくっきりと白くてこまやかだった。――縁側からぶら下げてる足指の子供々々した爪の恰好に、梨をかじりながら見とれていると、その足がぬっと前へ出たので喫驚した……が、瞬間に立ち上った彼女は、ぼんやり見上げた彼の眼へちらと微笑みかけた。その顔が、眼ばかり大きくて真白だった。
 強く握りしめていた掌の小鳥に彼はふと気がついて、それを低い松の小枝に放してやった。ばたばたと羽ばたきをして小刻みにちょっとあたりを見廻して、それから一枝ずつ、高い梢の方へ飛び上っていった。ごーっと鳴る松風の音がその後を蔽いかくした。
 頼りない淋しい夕方だった。
「なぜかは知らねど心迷い、むかしの伝説つたえのいとど身にしむ……。」
 いつのまにか聞き覚えた歌の節が、一人でに口から出ようとするのを、彼はじっと抑えつけた。彼女の歌を歌うのが、心のうちに憚られるような気持ちだった。
 見えないほどの空高くに、松の梢越しのまだ夕明りの空に、星が一つきらめいてるらしかった。「恋せよ、恋せよ!」と何かが囁く。「恋すな、恋すな!」とまた囁く。
 それに耳を澄すと、「凡て空なり!」初秋の風の音がごーっと鳴っていた。


「今じきにいくから、遠くへ行かないで待ってて頂戴。」
 こまこました道具を明日の出発のために片附けていた姉は、そう云いながらもやはりゆっくり構え込んでいた。はいりきれないほどの品物をどうにかつめ込もうと、バスケットの側にいつまでもくっついてる伯母の方は、姉よりも更に気長だった。
「ほんとにいい月よ。」
 俊子の言葉をきっかけに、彼もぷいと外に飛び出した。
 東の空に出たばかりの月は、松林に距てられて見えなかったけれど、ランプの光りの薄暗い家の中よりは、もっと明るいぱっとした夜だった。物の影が長く地を匐ってる上を、二人は黙って海の方へ歩いていった。
 踏み込むと冷りとする叢の中で、虫がしきりに鳴いていた。それへ月の光りがくっきりと落ちている処で、二人はふと足を止めて、姉が来るのを待った。
「私何だか明日帰るのだという気はしませんわ。静夫さんは?」
 明日帰ることばかりではなかった。此処に来たことが、今こうしていることまで凡てが、夢のように思われた。黙ってると、波の音が遠くに聞えだしてきた。
「海は実際いいですね。」
「ええ、ほんとに!」
 と俊子がすぐに応じてくれたけれど、変に気まずく思われた自分の言葉の調子が、まだ彼の頭から去らなかった。つと横を向いて、大事に持ってきたABCに火をつけた。
「いい匂いの煙草ですわね。私も吸ってみようかしら。」
 彼が黙って差出したのを、彼女は笑いながら一本取ったが、
「ああ、これは駄目。吸口がないから。」
 戻されるのを受取る拍子に、息がつまるような甘っぽい化粧の香りが、ぷんと彼の鼻にきた。
 姉はいつまでも来なかった。
「海まで行ってみましょうか。」
 その顔を何気なく見上げると、白々と月の光りに輝らされた中に、底光る黒目と赤い唇とが、まざまざと浮出して見えた。
 彼は身体が堅くなるのを覚えた。静かな夜、月の光りの中に、彼女と二人で立ってることが、息苦しくて不安だった。余りに目近く彼女の側に居ることが、しみじみと胸にこたえて、身の動きが取れなかった。それを、黙ったまま歌も歌わないで、彼から追っつかれるのを待つかのように、ゆっくりと足を運んでる彼女の後ろ姿が、ぐいぐい引きつけていった。黒い髪のはじから覗いてる耳朶の下に、四五筋のほつれ毛がそよいでいた。
 松林の影にはいった時、波音が俄に高く聞えてきた。足下の草は露に濡れていたが、松の梢はかさかさ乾いていそうな夜だった。
 暫く行くと、その向うの左手に、四五本の雑木が、こんもり蹲っていた。彼ははっとしたが、足を止めるまもなく、先日の提灯はもう無くなってることを知って安堵した。
 と同時に、ぱっと明るくなった。薄暗い海を背景にして、なだらかな砂浜が浮き上っていた。見渡す限り広々として何もない、冴え返った月の光りが、降り濺ぐように一面に落ちている。波の音が消えて、しいんとした蒼白い明るさだった。透明な深い水底ででもあるかのよう……円い月がぎらぎら輝いて見えた。
 彼は足を早めて俊子に追い縋ろうとした。途端に、鉛色の月の光りが彼女の髪をすっと滑り落ちて、振り向いたその顔が、真白な歯並と真黒な瞳とを投げ出して、にっこと微笑んだ。瞬くまも許さない咄嗟だった。
 ぞっとした。ぶるぶると身体が震えた……とまでは覚えていたが、あとはただしいんとなった。
「静夫さん!」
 胸にしみ通るような細い声が聞えたので、彼はふと眼を見開いた。嵩高な女神の端正さを持った俊子の上半身が、降り濺ぐ月の光りの中に浮んでいた。……と思うと、心持ち左に傾いたその顔が、ぼやぼやとくずれた。
 彼女の腕の中に在る自分自身を、彼は全身で感じた。細かな震えが背筋を流れて、歔欷と涙とがこみ上げてきた。……が、
「どうしたの。」
 彼女の声は澄みきって響いた。
 それでまたぞっとした。いきなりその腕を払いのけて、砂浜の上を駆け出した。後から彼女が追っかけてきた。息がつけなかった。砂の上にどっかと坐って、眼をつぶった。
「静夫さん!」
 柔かな手を肩に感じた時、彼は初めて我に返った心地がした。眼を開いてみると、それはいつもの俊子だった。
 見開いた眼が濡んでるようだった。高い鼻のために淋しく見える頬が、血の気を失って、真蒼だった。きっと結んでる口が少し開いて、やさしい含み声で、
「何に慴えたの!」
 云ってしまって彼女はほっと息をした。
 彼はぼんやり立ち上った。
「恐いことを思い出して……。」
 とでたらめに云い出したのを、彼女からじっと覗き込まれて、先が云えなくなった。頭の奥がしいんとして、胸が高く動悸していた。二人共黙り込んで、沖を眺めやった。時の歩みが止ったような時間だった。
 そこへ、姉がこちらを何やら呼びかけながら、向うの松影から駆けてきた。
 彼は初めて、俊子の眼をじっと見入った。それに応えて彼女の眼付が首肯うなずいた。瞬間に彼女はくるりと向き直って姉を迎えた。
 岸に近い波音を、月の光りが上から押っ被せていた。が、海は沖の方でも鳴っていた。


 東京に帰ると、海岸よりむし暑くはあったが、それでも秋がしみじみと感ぜられた。避暑地気分がなくなったせいばかりではなく、朝は冷かな霧が罩め、晩には凡てのものがしんと冴えていた。姉弟と女中と三人住みの小さな家にはわりに広すぎる庭に、しきりに鳴いている虫の声が、金属性の震えを帯びていた。
 それが彼には妙に淋しかった。
 が、そればかりではなく、実際不思議な淋しさだった。
 帰京の日は、旅の慌しさに何にも感じなかったけれど、翌日から、海鳴の音が時折耳にはっきり蘇ってきた。おかしいなと思うと、冴え返った月が見えてきた。月ならば東京にも輝ってると思い返したが、それがまた変にぎらぎらと生々しい月で、その下に広い砂浜がうち開けて、誰かが向うを向いてじっと佇んでいる。俊子だ……と気がつくと、頭がぼーとした。胸が切なかった。やけに身体を揺ってみた。
「静ちゃん、何してるの、震えるような恰好をして。」
 姉がこちらを見ていた。
「頭が妙に重苦しいから。」
 それで身体を揺るって奴もないものだけれど、姉は追求して来なかった。それをいいことにして彼は毎日、頭が重苦しいと云っては家に引籠っていた。
 月の光りを浴びて砂浜に佇んでる姿は、夜になると殊にはっきりしてきた。海水着一枚の半裸体で――月夜にしては変だけれどそれがしっくり調和していた――いつまでもじいっと、向うを向いたまま立っていた。……それを、力一杯に而もそーっとこちらへねじ向けてやると、真白な顔が、滝のような月の光りを浴びて、その底からにっこり微笑んだ。
 彼はぞっとした。……が、危く喉から出かかってる声を抑えるまがあった。電燈の光りが静まり返っていた。雨のように繁く虫の声が聞えてきた。外には月が冴えてるに違いなかった。
「いやな人!……何でそんなに私の方をじっと見つめてるの。」
 雑誌をぱたりと畳に伏せて、姉は身を起しながら向き直った。
「何でもありません。」
 とまではよかったが……。
 夜遅く、彼はふと眼を覚した。蚊帳の上の天井の所に、ぼんやりした円い明るみがあった。それが白張の提灯で、室の中がぼーっとしている。いやにひっそりしてるな、と感じた瞬間に、月の光りと変って、磁石のような執拗さで、円いのへ引きつけられてしまった。身動きが出来なくて眼を据えると、それが俊子の顔だった。真黒な瞳と真白な歯とでにっと笑った。かと思うまに、細そりした指先がその上を掠めて、円いのがゆらゆらと揺いで、ふっと消えた。しいんとなった。
 一寸間があった……のは、夢とも現ともつかなかったからで、本当に眼覚めると、ぞっと総毛立って、手足の先まで冷りとした。
 そのまま暫くじっとしていたが、それが、俄に恐ろしくなって、いきなり飛び起きた。咄嗟に隣りの室へ飛び込んだ。
「姉さん、姉さん!」
 釣手を引き切られて落ちてきた蚊帳の下から、漸く匐い出して来た姉は、彼の様子を見てはっと身を退いた。それを構わず、彼は腕に縋りついていった。
「姉さん!」
 息がつけないのを、むりに云い進んだ。
「恐いから、こつちへ寝かして下さい。」
 姉も慴えていた。何とも云わないで、隣の室から彼の布団をずるずる引張ってきた。耳を澄しながら、間の襖をそっと閉めた。
「蚊帳をつっちゃいけません。」
 云い捨てて彼は布団を頭から被った。
 蚊帳を片付けていた姉は、俄にそれを向うへ投り出して、布団の中にもぐり込んだ。夜着の下から、震える手先を伸して彼の方へ縋りついてきた。


 彼はどうしてもその理由を云わなかった、云えなかった。
 毎晩、姉と同じ室に床を並べて、蚊やり線香をたいて寝た。けれども、夜中に時々うなされた。昼間も遠くに幻が浮んでくることがあった。
「自分でも分らないのなら、せめてお医者にて貰ったらどう? ね、そうなさいよ。」
 不気味な不安さを覚え出してる姉の手前、それをも拒むわけにはゆかなかった。無駄だと知りつつ医者を迎えた。行きたくなかったので来て貰った。何を問われても、変な夢をみるというきり黙っていた。強度の神経衰弱という名目の下に、何だか甘っぽい水薬が与えられた。
「ふん。」
 鼻の先で嘲って、室の中をぐるぐる歩き廻った。それが自分でもおかしくなって、くすりと忍笑いをしていると、姉が向うの室からじっと様子を窺っていた。
「ばアー。」と冗談におどかしてやろうとしたが、それが何だか真剣になりそうな気がして、自分でも恐ろしくなった。足が悚んで動かなかった。
 けれど、姉の方が妙に悚んでいた。蒼ざめた顔をして、頬の筋肉をぴくぴく震わしていた。
 彼は黙ってその前を通りすぎた。
「何処へ行くの。」
 帽子を取ってる時に、後ろから呼ばれた。
「一寸散歩にいってきます。」
「今日はお止しなさいよ。」そして次に哀願の調子で、「行かないで頂戴よ、つねやも居ないし、私一人だから。」
つねは何処へ行ったんです。」
「一寸其処まで。」
 帽子をまた釘にかけて、黙って自分の室へ戻ってゆき、縁側に腰をかけて、足をぶらぶらやってると、彼は急に淋しくて堪らなくなった。
「なぜかは知らねど心迷い、むかしの……。」
 ふと口に出てきた歌を、何度も何度も低くくり返した。俊子が何処かに立ってるような気がした。
 薄曇りの佗びしい夕方だった。かさかさと枯葉の音がする。それが胸にしみ渡った。耳を澄していると、静に表の格子を開く音がした。それから一寸間を置いて、喘ぐような声で、
「急いで来たものだから息が切れて。」
「御免なさい、ふいにお呼びして。」
「いいえ。そんなにお悪いの。」
「それがねえ……、」
 とだけ聞えた。
 玄関でひそひそ話してるのは、姉と俊子だった。
 彼は我を忘れて立ち上った。頭がかっとして胸騒ぎがした。まごまごしてる所を、玄関から上ってくる俊子とばったり眼を見合った。どうにも出来なかった。頭を垂れて、其処に坐った。熱い塊りが胸の底からこみ上げてくるのをじっとこらえた。
 俊子はつかつかとやって来た。
「御病気ですってね。ちっとも存じなかったものですから……。」
 それを姉が側から引取った。
「いえ、病気というほどのことじゃないのよ。神経衰弱ですって。」
「そう。」
 一寸まごついた其場しのぎの返事をして、姉と意味ありげな目配せを交した後に、また彼の方へ向いて、
「海は頭に余りよくありませんのよ。私も帰ってから四五日の間は、何だかぼんやりしていましたわ。」
 それらの様子が変だった。が、青っぽい羽二重の帯を胸高にしめ、上からお召の羽織を背抜き加減に引っかけて、その紐を胸に小さくきっと結え、無雑作に分けた髪を耳の上で一つねじって低めに束ね、細い頸筋を差しのべて、心持ち眉根を寄せながら、睫毛の長い澄みきった眼で彼の方を窺ってるのは、やはり以前から見馴れた俊子だった。
「おかしいぞ、」と思う心が眼に籠って、彼女の顔をじっと眺めた。眼を外らしたのを、更にまじまじと眺めてやった。
「どうしたのよ、黙ってばかりいて。」
 その方へ眼をやると、姉もまた顔を外らした。
「どうしたんです。」とこちらから尋ねてやりたいくらいだった。が、それから彼女達が、学校――二人は女子大学の同窓だった――へは十五日頃からで大丈夫だ、というようなことを話し出したのを聞いてると、少し分りかけてきたような気がした。
「今日は幾日です。」
「八日よ。」
 姉の言葉と一緒に、鼻の高い痩せ形の真白い顔がこちらへ向けられたのを見て、彼は妙にぎくりとした。頭の中がまたもやもやとしてきた。

十一


 無理に姉へねだって夕食の時少しばかり飲んだ酒のために、彼は身体がぐったりしてしまった。寝転んでると、自分でもおかしいほど眠くなった。姉と俊子との話を音楽のように聞きながら、いつのまにか眠ったらしい。
 眼を覚すと、室の中には誰も居なかった。電灯の光りが余り明るすぎた。寝返りをしてみた――いつのまにか枕をして褞袍を着ていた。
「静ちゃん、眼がさめたの。」
 わざと返辞をしなかった。
 暫くすると、また次の室から前より低い声で、
「俊子さんもいらっしゃるから、トランプでもしませんか。」
 それでも黙っていた。俊子が帰ろうともしないで落付いてることが、食後姉と物影でひそひそ話していたことが、頭の底で気にかかっていた。
 あたりがしいんとした。
 長い時間がたったようだった。……
「そんなでもないじゃないの。」
「あなたは夜中のことを知らないからよ。」
「毎晩なの。」
「いいえ、一晩置きくらい。」
「そう。不思議ねえ。」
「親戚に精神病の人は居ないかって聞かれた時は、私どうしようかと思ったわ。」
「だって、あれくらいならまだ大丈夫よ。伯母さんやなんかに相談して大袈裟になると、却って神経を苛立たせはしないかしら。」
「それもそうね。」
「も少しそっとしておいて様子を見た方が……。」
 ……それで分った。彼はもう我慢が出来ない気がした。口惜しかった。いきなり起き上って、次の室に飛び込んだ。
 色を失った二つの顔が並んでいた。
「姉さんは、人を気狂い扱いにしてるんですね。」
 見上げてる二つの顔が瞬きもしなかった。
「私は気がれてやしません。」
 怒鳴りつけると、胸がすーっとした。同時に全身の力がぬけてしまった。其処に身を投げ出して泣いた。
 肩の上に手が二つ置かれた。やさしい息が耳のすぐ側に感ぜられた。待ってみたけれど、何とも云ってくれなかった。堪らなく淋しくなった。
「云います。みんな云っちまいます。……俊子さんはみんな知ってる筈です。あの晩から、あの海に出た晩から……。」
 彼は何を云ってるのか自分でも分からなかった。それでもむちゃくちゃに云い続けた。云ってしまうと、頭の中がからっぽになった。ひょいと顔を挙げると、大きく見開いた姉の眼がすぐ前にあった。姉の手につかまって、俊子が歯をくいしばっていた。
 そのままじっとしていた。三人共石のようになって身動きさえしなかった。
 空っぽになった彼の頭に、ぽつり、ぽつりと、正しい記憶が蘇ってきた。眼の前がはっきりしてきた。
「俊子さんを想ってるのじゃありません。」
 吐き出すように云ったが、その言葉が自分の胸に返ってきて、顔が真赤になった。それをごまかして立ち上った。……が、どうしていいか分らなかった。右足でとんと跳ねて、つんと伸した左足の踵で、ぐるりと廻った。二度廻ってから云った。
「もう何ともありません。」
 頭の中がはっきりしてきた。余りはっきりしたので、それが一寸変だった。も一度左足の踵で廻った。
 俊子がはらはらと涙を落した。
 彼はふーっと息をした。頭の中がしっかりしているのを感じた。
 静かだった。虫の声が雨のように繁く聞えてきた。外には月が冴えていそうな夜だった。





底本:「豊島与志雄著作集 第一巻(小説※())」未来社
   1967(昭和42)年6月20日第1刷発行
初出:「新小説」
   1921(大正10)年11月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:松永正敏
2008年10月19日作成
2011年11月24日修正
青空文庫作成ファイル:
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