都会の幽気

豊島与志雄




 都会には、都会特有の一種の幽気がある。暴風雨の時など、何処ともなく吹き払われ打ち消されて、殆ど姿を見せないけれども、空気が凪いで澱んでいる時には、殊に昼間よりは夜に多く、ぼんやりと物影に立現れたり、ふらふらと小路を彷徨したりする。
 幽気があるのは、必ずしも都会に限ったものではない。田舎には田舎の幽気があり、山林田野には山林田野の幽気がある。然しそれらの幽気はみな、人間離れのした怪異味を有するものであるが、ただ都会の幽気だけは、どこまでも人間的であり、人間の匂いを持っている。
 幽気であって幽鬼でない以上、それは勿論、形あるが如くなきが如く、音も立てず口も利かず、ただそれと感じられるばかりで、朦朧と浮游しているのであるが、一度それに触れると、人は慄然として、怪しい蠱毒が全身に泌み渡るのを覚ゆる。
 この幽気はどこから生じたのであろうか? 恐らくは、大都会の無数の人間の息吹きが、心の願望が、肉体の匂いが、凝り集って朧ろな命に蘇えったものであろう。実際この都会には、余りに無数の人間が群居している。如何なる小路の奥にも、人の足に踏まれなかった一隅の地面もない。如何なる奥まった壁の面にも、人の眼に見られなかった一片の亀裂もない。吾々の胸に吸われ肌に触れる空気は、幾度か人の胸に吸われ肌に触れたものである。其他この都会の中のあらゆるものが、人間に接触し人間の気を帯びている。そして、劇場や寄席や活動写真館などの中に、むれ臭い濛気がこめると同じように、都会の中にも、人間の息吹きが凝って一つの濛気となり、至る所に立罩めている。而もその濛気の中には、或る時或る瞬間の種々雑多な姿や意欲や匂いなどが、数限りもなく印刻せられる。或る小路の角には、若い男が恋人を待って佇んだだろう。或る暗がりには、盗人が息をこらして潜んだだろう。或る電柱の影には、刑事が非常線を張っただろう。或る軒の下には、病める乞食が一夜を明しただろう。或る街路の舗石の上には、自動車に轢き殺された子供の死体が横たわっただろう。或る尖った石塊には、帰り後れた泥酔の人が躓いただろう。或る静かな裏通りには、若い夫婦が手を取り合って散歩しただろう。或る垣根には、肺を病む老人が血を吐いただろう。或る門口には、恵みを受けた放浪者が感謝の涙に咽んだだろう。或る木影には、糊口に窮した失業者が悲憤の拳を握りしめただろう。或る十字街には、争闘者の短刀が閃いただろう。或る石塀には、高笑いをする狂人が唾液を吐きかけただろう。其他数えきれないほどのことを、或る時或る瞬間に或る場所で人は為しただろう。それらのものがみな、この都会の濛気の中に跡を止める。そしてそれが、渦巻き相寄り相集って、さまざまな幽気に凝結し、朧な命を得て浮游する。暴風雨などに逢えば、何処ともなく吹き払われるけれども、静かに空気が淀んで濛気が凝ってくると、ぼんやりとそこいらに立現れ、ふらふらとそこいらを彷徨する。明るい真昼の光りに照らさるれば、いつしか解けて無くなるけれども、薄ら寒く日が蔭ったり、夜の闇が落ちてきたり、すると、また茫と現れてくる。
 その頃私は、晩になると外に出かけて、夜遅くならなければ帰って来られないような習慣……というより寧ろ気分に、陥ってしまっていた。恋に破れて凡てのものの意義を見失い、何をしてもつまらなく、昼間はまだよかったが、夜になると下宿の一室にじっとしてることが出来ずに、家庭を持ってる友人の家や撞球場や碁会所や、または怪しげな旗亭など、兎に角何処かで賑やかな時間を過して、十二時が過ぎなければ、云い換れば、すぐに眠るより外はない時間にならなければ、下宿へ帰ってゆく気になれなかったのである。時には二時三時頃になることも珍しくなかった。
 所が或る夜、変なものに……いや変な気持に出逢ったのである。友人の家で遅くまで花合せをやって、もう一時半頃だったろう、遠くもない下宿の方へ歩いて帰りかけた。空がぼんやり曇った静かな夜で、重く澱んでる凉しい夜気が、まだ勝負のほてりの残ってる頬に、心地よく流れていった。帽子を目深に被り、両手をマントの隠しにつっ込み、ふらふらと足を運びながら、頭の中には、花札のまん円い赤い月や、傘をさした小野道風の姿や、「あかよろし」と書いてある短冊などが、ちらちらと映っていた。それを一つ一つ心で送迎して、何にも気を留めず眼をやらずに、通り馴れた途筋を、電車通りから淋しい横町へ切れ込んでいった。それからまた右へ曲って、一方が広い邸宅の石塀になってる処へさしかかり、菊の盃と短冊とを敵にさらわれて手にカスが残った忌々しさなどを、ぼんやり思い起しているうちに、ふと、後から誰かついて来るような気配を私は感じた。感じたのはその瞬間であるが、実は暫らく前から私について来たらしい気配だった。この夜更けに……と思って何気なく振向くと、其処には誰もいないで、点々と軒燈の光りの浮いてる淋しい通りが、突き当りまで茫とした薄闇を湛えていた。
 それから暫らくすると、また誰かが私の後をつけてくるような気配がした。振返って見ると誰もいない。そんなことを二三度繰返してるうちに、私は変に身内が薄ら寒くなってきた。そしてすたすたと足を早めたが、やはりすたすたと同じ早さで……といって足音も声もなく、ただその気配だけが風のように、私の後からついてくる。馬鹿馬鹿しいと思ったが、思うほど妙に気にかかって、もう後ろを振向くこともしかねて、益々足を早めていった。そして下宿の前まで来てほっとすると、その気配も何処かへ消え失せてしまった。私は何だか変な気持で、寝静まってるひっそりした通りを透し見て、それから、いつも引寄せたばかりで締りのしてない硝子戸を、少し慌て気味に引開け、身を入れると落付いて静かに閉め、中に垂れている白布をまくってはいった。すると真正面に、停車場で見るような大きな掛時計が、いつもの通りゆるやかに振子を振っていた。それを見て私は、先程からの怪しい気持を払い落してしまった。
 然るに、そういうことが何度も起るようになった。明るい電車通りなんかでは、さすがに一度もなかったが、淋しい裏通りを夜更けに歩いていると、何時何処でともなく、誰かが自分の後からついて来るような気配を、ふっと気付くのだった。振返ってみると誰もいない。真直に歩いていると、また誰かが風のようについて来る。殊に雨のしとしと降る晩なぞは、其奴が雨傘の中にはいって来て、すぐ側に後髪のあたりにくっついて来る。ぞーっとする気持を無理に抑えて、煙草に火でもつけると、もう何処かへ消えて無くなってしまう。
 そのうちに、私は次第にそれに馴れてきて、いろんな理由を推測し初めた。よく考えてみると、私がそれに出逢うのは、何か或る一つのことに熱中した後で、さまざまの雑念が消え失せ、思いが一つの点に集中して、疲れながらもじっと落付いている、我を忘れた而も敏感な状態に在る時だった。それで、空気の静かに淀んでいる夜更けの通りを、ふらふらと歩いてゆくと、丁度船の通った後の海上に船足の波が立つと同じく、私の後に空気の波が立って、それを私は誰かの気配だと感じたのだろう。……そう思うと、私はいくらか馬鹿馬鹿しいような安堵を覚えて、余りそれを気にすまいと努め、また実際大して気にもかからなかった。またやって来たな……というくらいの気持でいることが出来た。
 所が、その気配の方が段々進歩してきた、と云えば変だが、段々はっきりした形を取ってきた。
 或る夜一時頃、私は電車から降りて下宿へ帰っていった。その時私は可成り酔っていた。四五人の友人と馬鹿げた遊びをして、その帰りにまた珈琲店へ立寄ったので、和洋酒混合の雑然とした酔い方をして、頭の中が呆けたように茫っとなって、ただ眼だけに意識の力が集っているという状態だった。それと見て飛び乗った赤電車の中の、粗らな乗客の総毛立ったような顔や、じっと考え込んでいるらしい冷たい顔や、一方にかたまって居眠りしてる四五人の車掌の顔や、天井から下ってる宣伝ビラの赤文字や、窓硝子についている仄白い汚点など、弱々しい薄赤い電燈の光りに輝らされたさまざまの、深夜にふさわしい事物が、頭の奥に残っていて、それでもまだ何か足りない、今に何かやってくる……といったような気持が、寂然とした裏通りを透して見てる眼に集っていた。それに自ら気付いた時私は、また例のものがついて来るぞと思った。途端に、何か人の顔らしいものが、横手の暗がりから私の方を覗き込んできた。おや! と思って眼をやると、もうそれらしいものは消え失せて、垣根の上から覗き出している樫の一枝が、黒々とした影を落してるばかりだった。嚇かすなよ! という気持で四五歩進むと、此度は向うの軒下に、なにやら茫っとした人影が佇んでいる。でも私は、酔ってはいたしそんなことに馴れてもいたので、例の奴が先廻りをしたなというくらいの考えで、平気で歩いて行って、ひょいと見ると、其処には何にもなくて、六七尺ばかりの上の軒下に女中部屋らしい小窓がついていて、この夜更けに雨戸も閉めなく、木格子の中の煤けた障子の紙に、淡く電燈の光りがさしていた。私は一寸足を止めて眺めやった。すると全く思いがけなく、鬢の毛を少しほつらした女の頭が、障子にすーっと影を落して、またすーっと消えた。消えた瞬間に私はぞっと身震いをした。怪しい幻覚が私を囚えた。薄穢い豊満な肉体をしている女中が、そこの障子に姿を写すのを待受けて、一人の色情狂が佇んでいる。それが私自身の姿に乗り移ってきた。私は堪らなく忌わしい怪しい心乱れがして、つと其処を離れて歩き出した。暫くして或る電柱の影から、何とはなしに振返ってみると、先刻の窓からはただ茫とした淡い明るみがさしてるきりで、其処には何の姿も見えなかったが、そうして電柱の影から覗いてる自分自身と、同じ場所に同じ姿で、何かを待伏せしている刑事の影が現われてきて、しきりに私へ乗り移ろうとし初めた。私は喫驚して歩き出した。すると今度は、私と同じように酔っ払って帰り後れた愚かな男の影が、私の身にぴったりとくっついてきた。
 私はもう歩くことも立止ることも出来なくなった。同じ場所を同じ時刻に同じような姿をして、嘗て歩いたろう人影や嘗て佇んだろう人影が、何処からともなく飛び出してきて、私にぴったりくっつこうとする。ただ茫とした捉え難い影で、いずれも、同じようでありながら全然異っている。
 そうして私は、下宿までの僅か四五町の裏通りの中に、一々数えきれないほどの人影を、というより寧ろ、人の気を見た。石塀の先端、差し出てる植込の枝下、垣根のほとり、門口の廂の下、電柱の立ってる三つ辻、溝の横の標石の上、往来に面してる窓際、其他凡そ人の身を置き得るあらゆる場所に、歯をくいしばった者、何かを見つめてる者、眉根をきっと寄せてる者、白い歯並をむき出して笑ってる者、髪を振乱してる者、其他嘗ていろんな人がしたろういろんな姿が、それと定かに表情は分らないが、ただ気配でそういう風に感ぜられる、茫とした幽気となって、宙に浮いたように佇んでいて、通りかかる私の方へ、ふらふらと寄って来て、私の身体へぴったりくっつこうとした。私は走ることも立止ることも出来ず、重い足を無理やりに運ばせながら、叫ぼうとしても声は出ず、殆んど息もつけないで、ただ空の方を見あげたが、空は黒ずんで星影一つなく、遙の彼方に繁華な街路の灯が、不気味な薄赤い色を濁った大気に映していた。おう何という広々とした都会だろう! 何という不気味な混濁した都会だろう! 無数の人がうようよと重なり合って、種々雑多な行為を繰返して、何と息苦しく大気を濁らしてることだろう! そして今凡ての人が自分自身の巣の中に眠ってるこの夜中に、嘗てそれらの人の為した姿が、形体を離れた影の気となって、何と無数に迷い出してることだろう!
 私は漸くにして下宿の前まで辿りつき、硝子戸を引開けて垂布をくぐって、慴え惑った眼付をほっとした気持ちで定めると、例の大きな掛時計が、悠長に長い振子を振っていた。それを見ると、もう自分の城廓の中に戻ったという気がして、安堵の吐息をつくことが出来た。
 それまでは、まだよかったが……。或る日私は、妙に肌寒い薄曇りの午後三時半頃、朝からの球突に疲れて、懐手をしながら帰って来た。下宿まで二三十間ばかりの処へ来ると、その自分の下宿の門口に、ぼんやりつっ立ってる若い男の姿が見えた。変な奴だな、と私が思うと同時に、向うでも私の方に気付いたのか、ふらりと門口を離れて、私の方へ歩いてきた。そして一二分の後に、私はその男と擦れ違ったが……ぞっと身体中が寒くなった。不思議なことには、その男の顔付も服装も何一つ私の眼には留っていず、その足音一つ私の耳にはいっていないで、まるで風のような男だと、擦れ違う瞬間に気付いたので、すぐ振向いて眺めたが、その男の姿は何処にもなく、人影一つ見えない静かな通りが、午後の薄明るみを白々と湛えて、向うの角まで一目に見渡された。私は吃驚して、その気持がまだ静まらないままに足を早めて、下宿の玄関に飛び込むと、途端に、真正面の大時計が、一つぼーんと半時を打った。そのままで、女中一人出迎えず、いつものおかみさんの顔も見えず、家の中は空家のようにがらんとしていた。変だなと思って佇んだ時、先刻の男の姿がいつのまにか、恐らく擦れ違った時からであろう、私にぴったりとくっついてるのが感じられた。私はぶるっと身震いをして、自分の室に駆け上った。
 そのことが、昼間だけに一層私の気にかかった。昼間から彼奴が玄関まで飛び込んでくる以上は、夜になったらどんなことになるか分らないと、私はもうすっかり慴えきって、それからはなるべく自分の室に閉じ籠ることにした。気のせいだの空気の流れだのと、そんな理屈では安心がなりかねた。後からついてくる気配だけならまだよいが、いろんな姿が影のように四方に浮き出して、私の方へ飛びついてくるのは、どう考えても合点がゆかなかった。私自身の気のせいではなく、そういう煙のような奴等が、そこいらにふらふらと存在してるに違いなかった。
 私は室の中に閉じ籠って、これからどうしたらよいかしらと、夢のようなことを考えながら、昼間も曇った日はなるべく外に出ないことにし、夜分はなるべく早く床につくことにし、友人達を電話で呼び寄せては、碁や将棋をやったり花合せをしたりして、出来るだけ面白く時間をつぶそうとした。所が一人になるとふっと、魔がさすように気が滅入って、何となく電燈の光も淡くなってゆき、室の隅々に濛とした気が立罩めて、馬鹿馬鹿しい不安に襲われることがあった。そういう時私は、一生懸命机にかじりついて、面白そうな書物を読み耽った。物語の興味に惹かされて、一時間も読み続けてるうちに、一寸心に疲れた弛みが出来ると、しきりに右手の斜め上の方が気になり出した。其処に何やらぼんやりしたものがぶら下っている。宙に浮いてだらりと下っている。ふと顔を挙げて見ると、其処には何にもなくて、障子の上の鴨居よりは一尺ばかり高く、床の間の落掛おとしがけが、白々とした柾目を見せてるばかりだった。天井板や柱や鴨居など、室の中の他の木口よりは比較的新しく見える、その落掛の木目から眼を滑らして、床の間の呉竹の軸物を眺め、次にまた書物の文字に見入ったが、暫くするとまたしても、右手の上の方が気になり初めた。其処に何やらぼんやり下っている。見ると何にも眼にはつかない。
 そういうことを繰返してるうちに、私は妙に自分の室へも落付くことが出来なくなった。その上怪しい夢をみた。――形態の知れぬ物象が入り乱れた中から、次第に一の姿がはっきり浮び出してきた。頭髪の有様も顔も表情も着物の縞柄も、何一つはっきり見分けられはしなかったが、明かにそれは一人の若い学生だった。床の間の上に机を置き、その上に乗り背伸びをして、落掛の上の所の壁に、鉄の火箸でぐりぐりと穴をあけている。変なことをする奴だなと思って見てると、彼はやがて指先くらいの大きさの穴をあけてしまい、何処から取出してきたか、二尺余りの麻縄を穴に通し、落掛のすぐ下で輪に結び、その中に首を差入れた。危い! と思う途端に、彼はぽんと机を蹴飛ばして、そこにぶらりと下ってしまった。びくりとも動かないで、死骸になって吊されている。それが不思議にも私自身だった。いや俺じゃあないと思いながらも、やはり私自身だった。しまった! と声に出たかどうか知らないが、力限りに叫ぶ拍子に、私はふっと眼を覚した。見廻すと、覆いをした電燈の薄暗い光に照されてる室は、いつもの室と何の変りもなく、床の間にはやはり呉竹の軸が掛っており、上の落掛は白々と柾目を見せていた。その平素通りな有様が、却て妙に心をそそって、私は頭から布団を被ってしまった。長く寝つかれなくて、布団の中で幾度も寝返りをした。
 翌朝遅く、朝日の光がぱっとさしてる頃に、私は眼を覚して起上った。夢のことはもう遠くへ置き忘れて、平気で朝食を済してから、晴々とした日の光がさしてるうちにと思って、気の向く方へ出歩いてみた。一寸球を突いて、午後は賑やかな大通を歩き廻り、帰りに友人の家へ寄って碁を始め、夕食の馳走にまでなったが、帰り途のことが気になり出して、まだ暮れて間もない慌しい街路を、怪しい幽気にも出逢わず、無事に下宿の室まで帰ってきた。そこでほっとして煙草を吹かしたが、私は飛び上らんばかりに驚いた。
 煙草の煙がふうわりと立昇って、ゆらゆらと消えてゆくあたりに、あるかなきかの濛気が、人の姿となって、床の間の落掛から下っている。びっくりして見上げるはずみに、昨夜の夢をまざまざと思い起した。そして気がついてみると、自分の倚ってる机も火鉢の火箸も、夢の中の机や火鉢とそっくり同じものだった。ただ麻縄がないだけだったが、それも窓の外の手摺に雨曝しとなって掛ってるのを、いつか見たような気がし初めてきた。わざわざ雨戸を開けて見定めるだけの勇気も、もう私には出なかった。それどころではなかった。頭の上の落掛からぶらりと死体が下ってきた。眼をやると消え失せるが、一寸でも眼を離すとまた下ってくる。私は怪しい気持になって、比較的新しい落掛をいつまでも見つめていた。するといつのまにか自分がふらふらと立上って、其処の壁に穴をあけ、麻縄で輪を拵え、机を踏台にしてぶら下る……と思っただけでぞっとして、それが却て一種の衝動となり、蜘蛛の糸ででも縛られるように、身動きが出来なくなった。少しでも身を動かしたら、私はそこにぶら下るかも知れない……と思うせいか、もうぼんやりと落掛の所から、人の下ってる無惨な姿が見えてくる。
 私は堪らなくなって、いきなり室から飛び出て、階段を駆け下りていったが、さてどうしようかと思い惑ってると、おかみさんのでっぷりした没表情な顔付が、玄関わきの障子の腰硝子から覗いていた。私はその方へ歩み寄って、前後の考えもなく尋ねかけた。
「あの室は……私の室は……何か変なことがありはしませんか。」
 私の様子が変っていたせいか、お上さんはいつになく顔色を変えた。
「え、何かありましたか。」
「どうもおかしいんです。私の気のせいかも知れませんが……。」
「気のせいですよ、屹度。あれから一度も変ったことはないんですから。」
 調子が何だか落付かないのと、「あれから」というふと洩れた一語とが、私を其処に立竦ましてしまった。何かあったんだな、と思うと我慢しかねて、いきなりぶちまけてやった。
「実は……若い男の姿が、床の間の上からぶら下るんです。」
「え、本当ですか!」
 お上さんは息をのんで堅くなった。私も同じように堅くなった。そして暫く見合っていると、お上さんはほっと溜息をついて、私を室の中に招き入れて、誰にも口外してくれるなと頼みながら、ひそひそと話してきかしたのである。
 丁度五年前のやはり今時分、あの室で年若い学生が縊死を遂げた。大変勉強家のおとなしい静かな男だったが、高等学校の入学試験に失敗をして、この下宿から一年間予備校に通っていたが、翌年また失敗をして少し気が変になり、そこへまた不運なことには、この下宿にいた年増な女中からいつしか誘惑され、その女中が姙娠したことを知って、初心な気弱さの余り世を悲観して、遂に死を決したものらしい。故郷の両親へ宛てた遺書が一通見出されたけれど、ただ先立つ不孝を詫たばかりで、事情は少しも書いてなかった。その男が、床の間の上に机を踏台として、壁に火箸で穴をあけ、麻縄でぶら下って、私が夢に見た通りの死に方をしたのだった。それから半年ばかりの間、室は釘付にして誰も入れないことにしてあったが、何等変ったこともない上に、それでは却て人の注意を惹くものだから、落掛の木を新しく取り代え壁を塗り直して、やはり座敷に使うこととなった。私がはいる前に、二人ほどその室を借りた者があったけれど、何の怪しいことも起らなかったそうである。
 話を聞くと、私はもう一刻もその室に戻ってゆくことが出来なかった。話を聞いてから夢をみるのなら兎に角、聞かない前に事実そっくりの夢をみたのだし、その幻がまざまざと見えたのだから、気の迷いとばかりはいえなかった。私は誰にも口外しないとお上さんに約束して、その代り他の室へ移して貰った。所が生憎、今空いてるただ一つの室は、階下の階段の奥の四畳半きりで、日当りが悪く陰気くさくて薄穢なかった。然しそんなことに躊躇してはいられなかった。明日から大倹約をしなければならないと、冗談のように女中達へ云いながら、心ではびくびくしながら、私はその晩すぐに荷物を運び移して貰った。そして一通りざっと片付けておいて、それでももう十二時近くなって、狭苦しい思いで床にはいった。眼が冴えて眠れなかった。どうしても落付けなかった。誰も知らないが、また知っていても知らない顔をしてるが、あの室にだってあんな恐ろしいことがあったとすれば、この室にだってどんなことがあったかも知れない……などと考えてくると、益々眼が冴えていった。
 そして私は、またいろんな幻を見た。嘗てこの室で起ったろうさまざまなことが、次から次へと現われてきた。貧しい肺病やみの学生が、血反吐ちへどをはいてのたうち廻っていた。酒に酔った不良性の男が、美しい女中を引張り込んで獣慾を遂げていた。凶器を手にした盗人が、窓の戸をこじあけて覗き込んでいた。其他さまざまの人の姿が、湿気を帯びた黴臭い室の空気の中に、茫とした気配に浮出して、四方から私の方を覗き込んでき、私の身体にとっつこうとする。私は首と手足とを縮こめて、蒲団の中に円くなり、もう寝返りをするのも恐ろしくて、じっと夜明けを待ちながら、自分の呼気で自分を中毒さして眠ろうと努めた。
 そして翌日になったが、いつまでも日の光がさして来なかった。陰欝などんよりとした曇り日らしい明るみが、窓の雨戸の隙間から忍び込んでいたけれど、いつまで待っても同じ茫とした明るみだった。私は思い切って起き上ってみた。驚いたことにはもう十時を過ぎていた。顔を洗って冷たい食事を済したが、北に窓がついてるきりの室の中には、隅々に薄暗い影が漂っていて、何かぼんやりつっ立ってるような気配だった。私はじっとしてることが出来ずに、何処という当もなく、外出しかけた。お上さんが玄関へ出て来て、どうでしたかというような眼付を見せたが、私は眼を外らして答えないで、ぷいと表に飛び出した。
 雲ともいえない靄みたいなものが、空低く一面に蔽い被さっていて、空気が重くどんよりと淀んでいた。寂しい裏通りのそこいらの影から、彼奴らがふらふらと浮び出てくるのに、最もふさわしい天気だった。私は薄ら寒いおののきを身内に感じながら、何処へ行こうかと思い惑った。
 こんな時には、酒でも飲んで気を紛らすのが一番よかった。然しそれには時間も早かったし、また恐ろしい記憶が頭に蘇ってきた。彼奴らにつけられ初めてから或る晩、私は虚勢を張るために深酒をのんで、一二度行ったことのある円窓の家へ、ひょっこりはいっていった。そして見知らぬ女と寝ていると、嘗ていろんな男がこの女を相手にしたろうことが、右や左に影絵のように浮き出してきて、私はぞっと震え上り、いきなり女の喉首をしめつけたい衝動に駆られ、それに気がつくと更に恐ろしくなって、夜中の二時半頃其処を逃げ出したことがあった。とても再びそんな所へ行く気にはなれなかった。それかといって、撞球場や碁会所や友人の家などへ行ったところで、どうせ僅かな時間を費すだけで、夜にでもなったら、一体何処へ行って身を休めたらいいのか?……私は何処かへ行くことも家へ戻ることも出来なかった。
 おう、何という大きな都会だろう! 何という無数の人間だろう! 空は低く垂れ、空気は塵芥に濁り、むっとするほどの人いきれが立罩め、その中を人々は平気な顔をして、あちらこちらに蠢めいているけれども、この息若しい濛気の中に、昔から今まで至る場所で至る瞬間に為された、何かの一念に凝った人の姿が、数限りもなく跡を止め、それが渦巻き相寄り相集まって、茫とした幽気となり、仄かな陰惨な命に蘇って、今日のようにどんよりした昼や夜には、そこいらにぼんやりと立現れ、ふらふらと彷徨し始めるのだ。そして一体何をするつもりなのか? 私は知っている。通りかかる生きた人間にぴったりくっついて、その身体に乗り移ろうとするのだ。そして多くの人々が、其奴らの餌食となって、其奴らの意のままに操られ、其奴らが懐いてる一念に凝って、其奴らが嘗てした同じ行いを知らず識らずに繰返し、自分の自由にならないのだ。おう何という魔物のような都会だろう!
 そして私は、薄曇りの真昼中、往来の真中に、どうすることも出来ないで、惘然として立ちつくした。





底本:「豊島与志雄著作集 第二巻(小説2[#「2」はローマ数字、1-13-22])」未来社
   1965(昭和40)年12月15日第1刷発行
初出:「サンデー毎日」
   1924(大正13)年1月
入力:tatsuki
校正:門田裕志、小林繁雄
2007年8月22日作成
青空文庫作成ファイル:
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●表記について