土地

豊島与志雄




 鬱陶しい梅雨の季節が過ぎ去ると、焼くがような太陽の光が、じりじりと野や山に照りつけ初めた。畑の麦の穂は黄色く干乾び、稲田の水はどんよりとぬるみ、小川には小魚こうおが藻草の影に潜んだ。そして地面からまた水面から、軽い陽炎かげろうがゆらゆらと立昇るのを、蒸し暑い乾いた大気は呑み込んで、重くのろのろと、何処へともなく押し移ってゆき、遠い連山の峰からは、積み重り渦巻き脹れ上る入道雲が、むくむくと頭をもたげてきた。
 重苦しい真昼の静寂が大地を蔽っていた。埃で白い街道の上には行人こうじんの姿も見えなかった。街道は村落の間をぬけて、平野の上を真直に続いていた。一方が水田に他方が畑になっていて、流れのゆるやかな水の深い小川の石橋を越すと、所々に小松や灌木の生えた荒地の中に分け入り、それから野の彼方に消えている。
 荒地の中には、まばらな小松や灌木の間に、低い荊棘いばらや茅草が茂っていて、小さな花がぽつりと咲いていたりする。その片隅で、平助は鍬の柄を杖に腰を伸して立上った。
「夕立が来なけりゃええがなあ。」
 独語のように呟かれたその声を小耳にはさんで、音吉は鶴嘴を投り出して立上った。
「なあに来るがええよ。凉しくなってええ。一降りざあーっと来なくちゃあ、暑くてとてもやりきんねえ。」
 額の汗を前腕の袖で拭きながら、彼は親父の方をじろりと見やった。
「仕事が後れるじゃねえか。」
「少しくれえ後れたって何でもねえや。こんなに広い荒地だもの。身体でも痛めちゃあつまんねえ。」
「若えくせして、意気地のねえことを云うんじゃねえよ。」
「それでも、一体いってえいつになったらこれが済むことか、分りもしねえからな。」
「仕事のあるうちがええんだ。」
「だがこんな仕事つまんねえな。」
「何がつまんねえ? このままにしておきゃあ、何の役にも立たねえ荒地だ。それをこうしてひれえてみねえ、一段歩に何俵という米が出来るじゃねえか。」
「それがおいらの地所だったらなあ!」
「地所は旦那のものでも、仕事はおいらのものだ。よく考えてみねえ、後々まで残る立派な仕事だ。」
 音吉は何とも答えないで、荒地の広さを目分量ではかっていた。平助は眼を外らして、遠く山々の頂に覗いている入道雲を、その山壌さんじょうに立昇る一筋の煙を、また広々とした平野の上を、遙に眺めやった。ぎらぎらとした光が一面に漲っていた。彼は眩しそうに眼を瞬いた。

 荒地は野田の旦那の所有だった。
 一昨年の暮、長く腹膜を病んでたおてつが死んでからは、平助の一家は益々困窮のうちに陥った。二十歳になる二女のおかねと、十八歳になる一人息子の音吉とがいたけれど、おてつが炭坑から連れ戻ってきた孫のおみつが手足まといになるし、おてつの長い病気のために借金は嵩んでいるしするので、平助は先の見込を一寸取失って、陰鬱な気持に沈み込み、大きくつき出たおてつの腹と、水気のために美しく脹らんだその足とを、いつまでも頭の中に思い浮べていた。
「おらが死んだら野田の旦那様にお縋り申すがええ。」
 嫁入りして炭坑に行く前、野田の家に女中をしていたおてつは、死ぬ間際にそう云った。その言葉が平助にとっては唯一の力だった。
 そして実際、野田の旦那はいろいろ平助一家の面倒をみてやった。昨年の春頃から、荒地の開墾を平助の手にゆだねた。平助は蘇ったように元気を取直した。度重った借金はそのまま据え置いて、荒地を一段歩開墾する毎に、三十円の金を手にすることが出来るのだった。
 それからもう一年と何ヶ月かになる。
「おらが眼をつぶるまで、この仕事はおいらのものだ。」
 平助と音吉とは毎日、鍬と鶴嘴とを肩にして荒地にやって来た。仕事は容易でなかった。以前森だったので、至る所に大木の切株があって、それが地下深く根を張っており、小松や灌木が生い茂り、雑草が高く伸びていた。それでも、灌漑の便がよかったので、開拓さえすれば、そのまま水田になることが出来た。荒地の片隅に、草木の根や石塊の塚が次第に大きくなるにつれて、拓かれた水田も次第に広くなっていった。昨年から拓かれた分には、もう稲苗なえが青々と植っていた。
 平助は、自分の手で開墾された土地が、水に浸され馬に鋤かれ、村の娘達の唄声につれて稲苗が※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)されるのを、にこにこした輝かしい顔付で眺めた。
「地所は旦那のものでも、おいらがそれをひれえたんだ。」
 其処に彼と彼の一人息子との、激しい労働と生活とがあった。大地の黒い土が健かであると共に、彼等の力も健かだった。
「だが、こんな仕事つまんねえなあ。」
 音吉がそう云い出したのは、村のおたかが遠い町の製糸工場へ行ってからだった。
「おめえ、そんなこと云って、旦那にすむと思うか。」と平助は云った。
「それでもね、町せえ行きゃあ、うんと金が儲からあ。おらが町でこれくれえ働きゃあ、お父つあんなざあ寝ててええだ。」
「馬鹿云うねえ。他処せえ行って、稼ぎためて戻って来る者あ一人もありゃしねえ。みんな遊びばかり覚えやがって、極道者になるがじょうじゃねえか。」
 平助の頭に殊に深く刻みつけられてるのは、死んだおてつのことだった。嫁入って間もなく、良人と共に山向うの炭坑へ行ったが、少し小金がたまると、良人は酒と賭博とに深入りし、何処の者とも知れない茶屋女に引っかかって、その女と一緒に出奔してしまい、おてつは幼い娘を連れて、乞食のような風で舞い戻って来たのだった。それからまた、村の誰彼のことも平助の胸に浮んだ。生活が困難になるにつれて、村の若い者は毎年二三人は屹度遠くへ流れ出した。町の工場へ行く者もあれば、遠く山を越えて炭坑へ行く者もあった。そして多くは、服装なりばかりは立派だが懐中は無一文で、漂然と村へ帰って来て、また何時しか遠くへ去ってしまうのだった。そういうことが村の若者の心に、惰気と不安定とを知らず識らず齎していた。
「おいらが若え時分には、みんな地面にかじりついていたものだ。」と平助は考えた。
「みんな立派な服装なりで戻って来るじゃねえか。」と音吉は云った。
「そんなこと云っておめえ、旦那にすむと思うか。」と平助は繰返した。
「すむもすまねえもねえや。おらあおらが力で稼いでるだ。旦那なんざあ、旨え物あ食ってのらくらしてさ、ただじゃあ一文だっておいらに呉れゃあしねえ。」
「その代り人一倍心配もしてござるだ。何もねえ方が気楽でええとよく仰言るじゃねえか。」
「そんなこたあ勝手な云い草だあ。」ぶつりと云い切って音吉は父の顔をじっと見た。「なあ、兎も角おら一人でええから、暫く町せえやってくんねえか。」
「いやいけねえ。」と平助は強く頭を振った。
 二人は暫し無言のまま、太陽の炎熱の中に立ちつくした。やがて音吉はほっと溜息をつくと、自棄に鶴嘴の柄を握りしめて、木の根といわず草叢といわず、大きな土塊を起していった。平助はその後を鍬でうないながら、草木の根を土から選り分けて、それを荒地の[#「荒地の」は底本では「荒町の」]片隅へ運んで、小高い塚を築いていった。
 そして彼等の太い息と汗の匂いと、胸の底の思いまでが、蒸し暑い大気に包み込まれてしまった。何処かで鳴いてる蝉の声が、じりじり照りつける日の光と融け合って、大地の上に重くのしかかっていた。

 太陽が西に傾いて、蒸し暑い大気の密度がゆるみ、土の匂いがほのかに漂いだす頃になると、平助と音吉とは別々な感じで、その一日の労働を味わった。平助は益々仕事に身を入れ、音吉はぼんやり考え込んだ。
 遠い山陰に夕靄の色が湛え初めると、音吉は鶴嘴を投出して草の上に坐った。
「もう戻ろうよ。」
 声をかけられても平助は鍬を離さなかった。
「なまけちゃいけねえ。日を見てみい、まだ照ってるじゃねえか。おいらが若え時分にはな、日がへえって寺の鐘が鳴るまじゃあ、仕事を止めなかったもんだ。坊様がなんで鐘をつかさるか、お前は知るめえ。野良に出てるみんなの者に、もう戻るがええと知らして下さるためだ。」
「だが今日はもううんと働えたじゃねえか。」
「働えた上にも働かなくちゃあ、生き甲斐がねえ。」
 音吉は口を噤んで、西の山に傾いた赤い太陽を仰いだ。それから眉根を寄せ、両膝の上に頭を垂れて、じっと考え込んでしまった。
「頭痛でもするんか。」
 音吉は喫驚したように顔を挙げたが、それをまた膝頭の上に伏せて、思い込んだ調子で云い出した。
「なあ、おらを暫く町せえやってくんねえか。」
「まだそんなこと考えてるんか、昨晩あんなに云ってきかせたになあ……。お前、一体町せえ行って何するつもりだ。」
「製糸工場で人を傭うだとよ。おら其処で暫く稼えで、金がたまったらじき戻って来るだ。」
 平助は彼を上からじっと見下した。
「おたかがそんなことお前に云って寄来しただろう。」
 音吉は顔を挙げたが、すぐに眼を外らして、遠い山の方を見やった。
「おたかじゃねえよ。」
「嘘云うねえ。おらにはちゃっと分ってるだ。おたかが工場に行く時から、お前は約束しただろう。……あいつ、まだお前を引張ろうというんだな。太えあまっちょだ。あんな者にかかり合っちゃあ、お前のためになんねえぞ。」
「おら何もおたかをどうってんじゃねえが……。」
「馬鹿云うねえ。もう村の者あみんな知ってるだぞ。おら一人知らねえとでも思ってるんか。……なあお前、出来たこたあ仕方がねえが、町せえ行ったなあ仕合せだ、あんな図々しい女っちょなんざあ、これきりふっつり思い切ってしまうがええだ。他に立派な娘っ子が、村にいくらもいるだ。」
「おらおたかのことどうこうって云うんじゃねえよ。町せえ行って少し儲けて来てえばかりだ。」
「だがの、お前が行っちまったら、後はどうなるだ。男手はおら一人きりじゃねえか。よく考えてみろ。」
「じきに戻ってくるだ。うんと稼ぎためての、お前にも楽させるだ。」
「おら楽なんぞしたくねえ。天道様にすまねえだ。……お前も本当に身を入れて働えてみろ。この荒地はおいらが手で拓くだと思ってみろ。これくれえ立派な仕事はねえ。」
「どうあっても町せえやってくんねえのか。」
「昨晩云って聞かせた通りだ。まあ働けるだけ働くだ。そのうちにはな、おらがお前にええ嫁めっけてやるだ。辛棒しろよ。早まっちゃいけねえ。」
「おら嫁なんか貰わねえよ。」
 平助はじっとその顔を見つめた。
「お前何だな……おたかから手紙を貰っただろう。」
 音吉はただ頭を振った。
「隠してるな。……だがまあええや。うんと働えてみろ。働えてるうちには気が変ってくるだ。」
 音吉はもう何とも云わなかった。やがて力なく立上って、ただ機械的に鶴嘴を振い初めた。
 太陽が西の山の端に沈んで、遠くに入相の鐘が鳴り出すと、平助はすぐに仕事を切上げた。そして二人は荒地の側の小川で、鍬と鶴嘴とを洗った。それから泥のついた手足を洗い、最後に汗にまみれた顔を洗った。水の中には白い藻の花が咲いていた。
 音吉はその藻の花にじっと見入った。平助は空を仰いで天気模様を見た。それから音吉の方へ向いて云った。
「余り一つことをくよくよ考え込むもんじゃねえよ。」
 彼等が家へ帰ってゆく頃には、夕暮の薄靄が野の上を蔽うていた。村落のまわりには夕炊ゆうげの煙がたなびいて、西の空は赤く夕映に彩られていた。帰り後れた二三の鳥が、ねぐらを求めて空を飛んでいた。遠くに牛の鳴く声が長く響いて、そのまま静に日が暮れていった。
 そして翌日になると、輝かしい朝日の光を受けて、晴々とした平助の顔と打沈んだ音吉の顔とが、また荒地の上に見出された。

 朝の四時頃である。
 東の空がほのぼのと白んできて、重く垂れていた靄が静に流れ出した。山蔭や森蔭にはまだ夜の気を湛えながら、爽かな明るみが地平の彼方から覗き出し、それにつれて星の光が薄らぎ、微風が野の上を渡っていった。そしてしっとりと露の下りた草木の葉が、瑞々しい青い匂いを空中に散じていた。
 音吉は足早に村を出て、街道を進んでいった。新らしい紺飛白こんがすりの単衣に白縮緬の兵児帯を巻きつけ、麦稈帽に駒下駄をはいていた。
 彼は東の空を仰ぎ見た。輝き出した黎明の色と消えかかった星の光とを見ると、不安そうに後ろを振返り見た。と西の空には、まだ幾つも星が輝いていた。彼は淋しい笑顔をして、また足を早めた。
 荒地の側を通る時、掘り返し積み捨てられた草木の塚を、灌木の茂みの彼方に認めて、彼はふと足を休めた。それからやがて、ふらふらと荒地の中に歩み入った。草葉の露が彼の紺足袋を濡らし、着物の裾を濡らした。野をつき切るとすぐに、昨日まで彼と彼の父とが開墾してきた地面があった。夜のうちに湿気を受けた土地は、健かな黒々とした肌を展べて、茅草の長い葉が青々と蘇って、真直にすいすいと出ていた。
 音吉は懐手のまま其処に佇んで、暫くじっと考え込んだ。朝靄が地面に低く匐い流れて、稲田のほのかな匂いが漂っていた。村落の森はまだ夜気に黝んでいたが、何処からともなく小鳥の声が響いてきた。
 小鳥の声の合間に、遠く口笛の音がした。音吉は我に返って耳を澄した。口笛の音はすぐ近くに響いた。目籠をかついで街道をやってくる専次の姿が見えた。
 音吉は我知らず、両の拳を握りしめ眼を見据えたが、すぐに苦笑を洩らして、荒地を横切って街道の上に出た。そして専次を待ち受けた。
 専次は喫驚した眼を見開いて、音吉の姿をじろじろ見廻した。
「早えな。」と音吉は声をかけた。
「草刈りに出ただ……。一体お前はそんな服装なりして………。」
「これから町せえ行くだ。」
 そして音吉は相手の顔色を窺った。
「ああそうか。」と云いながら専次は眼で笑った。「おたかんとけえ行くんだろう。知ってるだとも。大丈夫誰にも云やしねえよ。……早う行けよ。」
「誰にも云わねえか。」
「云やしねえったら。……おらもなあ、そのうち逃げ出そうと思ってるだ。こんなとけえ愚図ついてちゃつまんねえや。その時は頼むぞ。……だが早う行けよ。めっかると面倒だぞ。」
「よし。」
 音吉はすたすたと街道を進み出した。歩きながら懐の財布に手を触れてみた。向うの雑木林の彼方には、一筋の軽便鉄道が走っていた。
 専次は其処に佇んで、音吉の姿が雑木林の中に見えなくなるまで見送っていた。それからほっと溜息をついたが、急に思い出したように、路端の草の上に手洟をかんだ。

 その日は、そしてなお数日の間は、平助の姿が荒地に見られなかった。
 雨のない暑い日が続いた。太陽が沈むと、西の空は紅く夕映の色に染められた。夜が明けると、強い朗かな朝日の光が大地の上に照った。そして昼間は、陽炎が野から立昇り、水田の水が湯のように温んだ。午後になると大抵、どちらかの山の峰から、恐ろしい入道雲が覗き出した。そして大きく頭をもたげて、中空を襲いかけるうちに、ゆるやかに横倒しに散らばって、絹糸の風になびくがようにたなびいて、いつしか紺青の空の奥深く消え失せていった。
 そして或る日、遂に雷雨がやって来た。北の山の端からむくむくと脹れだしてきた雲は、見るまに恐ろしい勢で空を蔽うた。銀糸で縁取った白い綿のようなのが、真黒な渦巻きに変って、忽ちのうちに太陽を包み込み、やがて一陣の涼風が平野の上を渡って、大粒の雨がぽつりぽつりと落ちてきた。地平線まで黒い影に鎖される頃から、篠つくような驟雨が襲ってきて、電光と雷鳴とがその間をれ狂った。
 野や森や村落や、凡てのものが息を潜めて、雷雨の暴威の下に黙り返った。麦畑や稲田の上には、風につれてさっと雨の飛沫が立った。濁水が四方から川へ落ち込んで、満々と渦巻き流れた。そして空から地上へと、蒼白い電光が横ざまに滑り落ちて、長く尾を引きながら轟き渡った。
 それが一時間ばかり続くと、何処からともなくただ白い明るみがさしてきて、大地の胸がほっと息をつき初めた。いつしか雷は止み、雨は霽れ、太陽の光が輝いた。空には雲雀の声が聞え、樹梢には蝉が鳴き立った。凡てが清く輝かしかった。木も草もその一つ一つの葉末に、水滴が美しく光っていた。
 その時、村を出て街道をやってくる平助の姿が見えた。驟雨に洗い出された道路の砂利の上を、少し腰を曲げ加減にゆっくり歩いてきた。
 彼は荒地の中にはいって行き、開墾されてる地面の側に佇んだ。尻端折った着物の下から覗いてる両脛が、妙にひょろひょろと細く、肩のあたりが頑丈に角張っていた。やがて彼は其処に下駄をぬぎ捨てて、開墾地の中に踏み込んだ。柔い黒い土地の上には、雨に叩かれて飛び出てる小石が幾つもあった。彼はそれを一々拾い上げては、草木の根の小高い塚の方へ投げやった。土をふるい落されて幾日も日に輝らされたその草木は、堆く積まれたまま枯れかかっていた。
 平助はふと物に慴えたように立上って、あたりをぐるりと見廻した。湿った大地に強い日の光が照りつけていて、水蒸気が静に立昇っていた。田にも畑にも街道にも、人影一つ見えなかった。村落の森はひっそりと静まり返っていた。
 平助は暫くぼんやり立っていたが、また腰を屈めて小石を拾い初めた。そして大凡見えるだけの小石が無くなると、ぬぎ捨てておいた下駄を片手にさげ、片手を前帯の間につっ込みながら、真直に村の方へ帰っていった。

 翌日朝早くから、また平助の姿が荒地の上に見え初めた。彼は自分で鶴嘴を使いまた鍬を使った。おかねが時々鎌を下げてやって来た。背の高い灌木や大きな木の切株を自家の薪に、美しい草を野田の旦那の馬の飼葉に、自分で刈って運んでいった。
「お父つぁん、おらにも鍬を執らしてくれよ。」と彼女は云った。
「お前は日傭稼ぎをした方がええだ。」
「だっておらあ、お父つぁんの側で働きてえだもの。」
 彼女は甘えるような眼付で父の顔を見上げた。然し平助は見向きもしなかった。
「いやいけねえよ。こんな仕事は女っ子のするこっちゃねえや。」
「じゃあお前一人ですっかりやるつもりだか。」
「そうだ、おら一人でやるだ。音の馬鹿が逃げ出しちまやあ、もうおら一人の仕事だ。」
「ほんとにやれるけえ。……無理しちゃいけねえがなあ。」
「おらの仕事だもの、おらがするだ。」
 おかね[#「 おかねは」は底本では「おかねは」]それきり諦めて、頼まれればいつでも日傭稼ぎに出かけていった。ただ晩飯は向うで食って来ないで、早めに戻って父とおみつと三人一緒に食べた。その上彼女は、日傭稼ぎに出ても、合間を見ては父の側にやって来ることが出来た。
 丁度稲田の初番しょての草取りの時期になっていた。村の者達は幾人か連れ立って、手甲脚絆のいでたちで稲田へ出かけてきた。平助が去年から拓いた稲田にも、そういう人達が野田の旦那に傭われてやって来た。
「この荒地は肥えてると見えるな。稲がしげりきってるだ。平助どんの骨折り甲斐だけあらあな。」
「なあに、みんなしてよく肥してくれるからだ。」と平助は答えた。
「いや地体が肥えてなきゃあ、こうした稲の色は出ねえよ。」
「色だけじゃ仕様がねえ。」
「いやそうでねえよ。初作はつざくとは思えねえくれえだ。これで二年三年となりゃあ、立派な一等田だ。」
 そうかも知れねえ、と平助は思った。仕事に疲れると鍬の柄を杖に佇みながら、喜ばしげな眼付で稲田を見やった。実際その開墾地の稲田は、稲の株の張り方は遅かったけれど、伸びがよくて黒ずんだ勢のいい青さを呈していた。その間を賑かに、草取りの達人の日笠が竝んで進んでいった。その中にはおかねも交っていた。見覚えの[#「おかねも交っていた。見覚えの」は底本では「おかねも交っていた。見覚えの」]彼女の笠が他の人達から後れやしないかと、平助は時々伸び上って眺めた。然しおかねは男にも負けない働き者だった。
 男達が一寸煙草を一服する間に、彼女は急いで父の所へやって来た。
「お父つぁん、疲れやしねえか。」
「なあにおらあこの年まで鍛えた身体だ。それよかお前こそ若えから、ゆっくりやるがええぞ。」
「ああゆっくりやってるだ。」
「じゃあええから、早う向うに行けよ。」
 平助は彼女を来るとすぐに追いやってから、俄に荒々しい眼付で荒地の上を見廻した。
「おらが生きてるうちに、この荒地を拓えてやるだ。」
 そして彼は力強く鍬の柄を握りしめた。

 稲田の初番の草取りが終ると、急に荒地の附近には人の姿が見えなくなった。畑の麦はもう刈り取られ、田の稲は伸び伸びと育っていた。村の人々は何処へか、他の処へその労働を移していた。ただ平助だけは、毎日同じ荒地を開墾し続けた。初め彼の強情を笑っていた人も、やがてそれを驚歎し初めた。野田の旦那も幾度か、他の村人と合同してはと勧めてみた。然し平助は一人でやると云い張った。彼の仕事はもう彼独自ひとりの生活となっていた。
「地所は旦那のものでも、仕事はおらがものだ。」
 そして彼は殆んど一日も休まなかった。朝早くから元気よく鍬と鶴嘴とをかついでやって来た。そして寺の入相いりあいの鐘が鳴るまでは戻って行かなかった。音吉が出奔してから変った点は、日に焼けた額の皺が目立って深くなったことと、口元に何となく粗暴な影が漂ってきたこととだけだった。
 街道には時々遍路者の姿が見えた。大抵二三人連れ立って、互に話をするでもなく傍見もしないで、路の埃を軽く立てながら通り過ぎていった。平助はいつも、その後姿を見えなくなるまで見送った。然し村人の誰彼が時折り通りかかるのに対しては、彼は余り愛相がよくなかった。
「精がでるなあ。」
 そういう挨拶に対して、彼はただ「ああ」と気の無い返辞をして、すぐに向うを向いてしまった。
 然しその頃から、平助はよく孫娘のおみつを荒地へ来さした。
 おみつはもう隣村の小学校に通っていた。夏休みの間中は、庄吉の家へ生れっ児の子守にいっていたが、九月に学校が始まってからは、午後はすっかり隙だった。学校から帰って来ると、誰もいない開け放しの自分の家に飛び込んで、一人で勝手に食事をして、その朝おかねが拵えておいた弁当と渋茶の土瓶とを、平助の所へ持って来た。平助は自分で弁当を持って出ないで、おみつがそれを届けてくれるのを楽しみにした。そして夕方まで彼女を荒地に引止めておくことが多かった。
 野田の旦那の長男の健太郎が、都の専門学校から夏の休暇に帰省した時、おみつは綺麗な麦稈帽子を貰った。平助はそれを大事にしまっておいて、彼女が学校に行く時も被らせなかった。が不意にそれを取出して、弁当を届ける時には被って来いと云いつけた。着物も顔も手足も黒く汚れているのに対して、その新らしい麦稈帽子だけが、黄色がかった白色にぱっと冴えていた。
 荒地の中には、白や赤や黄の小さな花が方々に咲いていた。稲田の畔道には、紫雲英れんげそうの返り咲きもあった。小川の中や稲田の水口には、小さな魚が群れていた。おみつは古蚊帳の切端で作って貰った手網で、それらの小魚をしゃくったり、野の中で花を摘み集めたり、蝉の脱殻を探し廻ったりした。
 おみつが余り遠くへ行くと、平助は伸び上って呼んだ。
みつう、みつう。」
 何度も呼ばれてから漸くおみつは戻って来た。
「余り遠くに行くでねえぞ。虫に螫されたり怪我したりするといけねえからな。おらが近くで遊ぶんだ。」
「お父つぁんは仕事ばかりしてるから、おらつまんねえもの。」
「よしよし、あとで大きい鮒をとってやるだ。」
 然し彼はなかなか仕事の手を休ませようとはしなかった。おみつは遊び疲れ、退屈に疲れると、彼が掘り起した草木の根を運んで、少し手伝おうとした。
「お前がそんなことするんじゃねえ。」と平助は叱りつけた。「あっちで遊んでろ。」
 おみつはどうしていいか分らないで、顔を脹らましながら、荒野の中に一本聳えてる榎の木影に屈んだ。やがては其処に寝そべって、いつしかうとうとと眠った。
 平助はやって来て、彼女の寝顔にそっと麦稈帽子をかけてやり、きょとんとした顔付で、また仕事の方へ戻った。

 朝日の光が静に照っている時、平助は荒地の上に屈んで、昨日から幾度も見た音吉の手紙をまた読み返した。それには、家を逃げ出した詫びやら、製糸工場の有様やら、町のさまざまな娯楽のことなどが、平仮名ばかりで書いてあった。少し金を送れるようになるまで手紙を書かないつもりだったが、その金の目当もほぼついたから……、とそんなことも書き添えてあった。
「うめえこと云っておらをごまかそうとしてやがる。……畜生、何で許すもんか。」と平助は口の中で呟いた。それでも彼は手紙を、大事そうに襯衣シャツの隠しにしまった。
 その半日、彼はいつもより力強く働いた。額から流るる汗を泥にまみれた手の甲で払った。
「おらが力でやってみるだ!」
 そして満足そうに煙草を一二服吸った。それからまた音吉の手紙を取出して、一通り読み返したが、忌々しそうに眉根をしかめながら、それでもやはり大事そうに襯衣の隠しにしまった。
 そのまま彼はじっと考え込んだが、暫くすると急に立上った。街道を越した向うの方に、里芋の畑が見えていた。彼は其処まで行って、大きな芋の葉を一枚取って来た。榎の木影に穴を掘って、水をくみ入れた芋の葉をその中に据えた。それから稲田の水口を見て廻った。鮒の子が幾つも泳いでいた。抜足してそっとはいり込んで、水草の影に隠れたのを押えようとすると、指の下からするりと逃げてしまった。幾度も失敗した後に、可なり大きなのを一匹捕えることが出来た。それを両の掌の中に持ちながら、榎の下まで馳けてきて、芋の葉の水の中に放った。そしてまた出かけていった。
 鮒の子三匹と鯰の子一匹とで、平助は満足した。芋の葉にとろりとたまった水の中で、それらの小魚が泳ぎ廻るのを、彼は珍らしそうに眺め入った。それから立上って太陽を仰いでみた。おみつがやって来るにはまだ早かった。彼は芋の葉の上に木の枝を被せて、開墾しかけた処へ戻っていった。
 熱い大気が重くのろのろと流れていた。蝉の声と小鳥の鳴声とがぱったり止んでしまうような、蒸し蒸しする静かな瞬間があった。それでも、拓き残されてる荒地には、草木が茂り虫が飛び小さな花が咲いており、去年から開墾された水田には、水がぬるみ稲が青々と育っており、開拓されたばかりの地面は、黒々とした肌から陽炎を立てていた。そして南の山の峰からは、むくむくとした入道雲の白い頭が、もう少しばかり覗き出していた。
 平助は其処に佇んで、それらのものを一目に見やった。眼の中がぎらぎらしてくると、二つ三つ瞬きをして、白い街道の上を村の入口まで透し見た。おみつの綺麗な麦稈帽子も、また誰の姿も見えなかった。
 土壌の匂いが彼の肌に染み込んできた。真上からじかに太陽の光が照りつけていた。彼はしゅっと掌に唾液を吐きかけて、鶴嘴の柄を力強く握りしめた。





底本:「豊島与志雄著作集 第二巻(小説2[#「2」はローマ数字、1-13-22])」未来社
   1965(昭和40)年12月15日第1刷発行
初出:「青年」
   1924(大正13)年4月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:門田裕志、小林繁雄
2007年8月22日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について