童貞

豊島与志雄




 ぼんやりしていた心地を、ふいに、見覚えのある町角から呼び醒されて、慌てて乗合自動車から飛び降りた。それから機械的に家の方へ急いだ。
 胸の中が……身体中が、変にむず痒くって、息がつけなかった。頬辺から鼻のあたりに、こな白粉の香がこびりついていて、掌で……それからハンケチで、いくら拭いても取れなかった。拭けば拭くほど、ぷーんと匂ってきた。
 嬉しいようで、なさけないようで、ほーっと息を吐くと、その息の根が震えた。
 晴れてるのか曇ってるのか、底知れぬ茫とした空だった。……が、宵闇に浮び出てる軒燈の灯が、きらきらと、珍らしくて美しかった。
 よその家へでも迷い込むような気持で、静に自家の玄関へはいった。誰も出迎える者がない……よかった、と思うとたんに、女中が立ってくる気配がした。それが却ってきっかけとなって、つかつかと茶の間へはいっていった。
「まあー、朝から出たっきり、どこへ行っていました。」
「井上君のところで遅くなって……。」
「そう、御飯は。」
「済みました。」
「やはり井上さんのお宅で……。それならいいけれど、こんどからは、御飯はどうするかちゃんと云っておかなければ困りますよ。あなたのために随分待ちましたよ。」
 それっきりだった。……母は何にも感づいてはいないんだな。
 だが……天井からぶら下ってる電燈、茶箪笥や長火鉢、父の読み捨ての夕刊、それを丹念に読んでる母……昔からその通りで、そしてこれからも永遠に……。畜生、何もかも……。
「お母さん、」
「え。」
 夕刊から振向いた母の眼が、嘗て見識らぬ愚鈍な者の眼付だった。
「僕は今日、素敵なものを見たんです。自動車と荷車と衝突して……。」
「そして。」
「正面からぶつかったんです。すると……荷車を引いた男の眼玉が、ぽんぽんと二つ共とび出しちゃって……。」
「え、何ですって。」
「夕刊に出てませんか。」
「夕刊にですか。」
 その隙に、煙草を一本袂から探って、すぱすぱやってみたが、気のせいか、頬辺にやはり白粉の香がくっついていて、どうにも困った。
 向うの室から、放笑しそうなのをじっとこらえた顔付で――眼付で、お千代が見ていた。そのぽっちりした赤い頬辺に、飛んでいってかじりついてやったら……母の眼の前で。
 母の頸筋が、生え際が、薄ら寒そうに細そりとしていた。
 何だかぎくりとした。その拍子に、トトントントン、トトントントン……指先で火鉢の縁をやけに叩いてやった。
 なぜ皆黙ってるんだ。
「ダンスでも習いたいな……。」
 トトントントン、トトントントン……。
「まあー、どうしたんですよ、口の中でぶつぶつ云って、そして……。」
 トトントントン……。顔が一寸挙げられなかった。
「僕は……ダンスを習いたいんだけれど……。」
 擦り寄ってきて、肩のあたりと腿のあたりとの厚ぼったい重みで、焦れったそうにトントンとやった、彼女の肉のはずみが、今ふいに蘇ってきて、とても抵抗出来なかった。指先から次には身体中で、トトントントン、トトントントン……。胸の底がほてってきて、息苦しかった。
「おかしな人ですね。どうかしたんですか。」
 今迄見たこともないような、赤の他人の眼付で母が覗きこんでくる…とはっきり意識したが、それが見返せなかった。
「少し酒を飲ませられちゃって……。」
「お酒を。」
「そして急いで帰ってきたもんだから、汗をかいちゃって……。」
 出まかせに云い出したのが実は本当で、身体中がねとねとして気味悪かった。
「それでは……あの、お湯にでもはいったら……。」
「お湯がわいてるんですか。……すぐにはいろう。」
「今加減を見せますよ。」
 母が女中を呼ぶのを待たないで、もう帯を解きかけながら、湯殿の方へ馳け出していった。

 首筋まで全身をぐったりと湯に任せ、後頭部を浴槽ゆぶねの縁にもたせかけて、もーっとした湯気の中から、ぼんやりした電燈の目玉を眺めていた。
 何にも考えることが出来なかった。身体の節々に力がなかった。はずみをつけて動いていた気分が静まり淀んで、それから、疲れきったのろい渦を巻き初めた。それに引き込まれて気を失いそうだった。
 きりきりと金物の軋るような音が……ごーっと暴風の吹き過ぎるような音が……どこか遠くでしていた。
「……お加減は……。」
 はっと我に返って立上った。湯をじゃぶじゃぶやった。――誰が加減なんか悪いものか。
「あの……お加減は如何でございますか。」
 戸の外からお千代の声がはっきりしてきた。湯の加減だったのか。……丁度ぬる加減でよかったが、然し、頭がふらふらしていた。
「丁度いいよ。」
 元気よく答えてやったけれど、それだけで、身を動すのも大儀だった。
「床をとっといて下さい、すぐに寝るんだから。」
 誰にともなく大きな声で云っておいて、湯殿から飛び出しかけた。が、……茶の間をぬけて寝室の方へ行くのには、母の前を通らなければならなかった。着物を抱えて真裸のままで母の前を……。
 そんなこといつだって平気だったんだが……。
 ふと、咽せ返るような追想に、足が竦んでしまった。
 意気地なしめ、なあに……。
 擽ったいような気持で、歯をぎりっと一つやって、猛然と突き進んでいった。
「もう寝むんですか。」
「ええ、頭痛がするんです。」
 云いすてて、柱時計の方を見上げながらのっそりと、それでも九時半頃だと見て取っただけで、裸のまま母の前を通りすぎてやった。が次には小走りになった。
 大急ぎに寝間着をひっかけて、頭まで布団の中にもぐり込んだ。
 とっぷりと水底に沈んだような、落付くところへ落付いた感じだった。そしてそれがなぜか、全身無気力に投げ出されたまま竦んでしまって、身動きが出来なかった。
 一度……或は二度……母が様子を見に来たようだった。が黙っていた……というより、本当にはっきりとは意識しなかった。
 二重眼瞼ふたえまぶちの眼がちらちらと動いていた。それが時々じっと真正面から覗きこんできた。
 胸の奥がきりきり痛んでいた。
「あたし、あなたが好きになった。……ね……ねえ……。」
 感情に抵抗してみるつもりだったのが、その「つもり」のために、却って自分の方から落ち込んでいった。
「あたし、何だか顔見られるのが嫌なのよ。」
 畜生……と思って黙ってると、顔が真向になってきた。
「何を考えてるの。」
「困った。……君が好きになりそうだ。」
「そう、嘘にせよ嬉しいわ。」
 二重眼瞼の眼が、瞬くたびに微笑んでいた。それが、なりそうどころではなく、本当に可愛くて好きになった。
 どうしたらいいか分らなかった。
 すぐそこに近々と微笑んでる眼が、いつまでも消えなかった。
 それが、夢にも……うつつにも……朝まで続いた。他の一切はどうなったって構わない。その眼だけが……。
 八重という名前の下に、「さん」をつけ、「ちゃん」をつけ、「子」をつけ、更にまた、「子」に「さん」や「ちゃん」をつけ……あらゆる名前で呼んでみた。そして最後に、八重子……。ちらちらとする眼が微笑んでいた。

 母が二三度起しに来た。上の空で返事をして、やはり頭から布団にもぐりこんでいた。温気に息苦しくなると、頭を覗き出して眼をつぶった。
 我慢出来なくなって起き上った。もう十一時を過ぎていた。
「加減でも悪いんですか。」
「何ともありません。」
 冷たい水で顔を洗った。悲壮な気持だった。……母なんか、家なんか、何もかも、どうとでもなってしまえ。……そのくせ、誰の顔も真正面には見られなかった。むっつりと黙りこくっていてやった。
「御飯はひるに一緒に食べます。」
 食う気もなかったが、そう云っておいて一寸外に出てみた。
 晴れてはいるが淡い日の光だった。それでも強すぎた。桜の枝に蕾が赤くふくらんでいた。垣根の下に、青い草の葉が三つ四つ、冬を越したのか――そんな筈はないが、もう萠え出したのか――それもおかしいが、力なく首垂れていた。
 薄暗い悲壮な気持にとざされて、胸がしきりに痛んだ。
 広い通りに出て、そこのレストーランにはいった。
「定食。……それから、日本酒を一本くれ給い。」
 うっとりと思いつめた気持のために、装わずして大人おとなの態度になっていた。
 片隅に三人の客があった。そちらに背を向けて、白い壁と睥めっこをした。花瓶の半開きの桃の花が、淋しげに淡々としていた。
 ゆっくり酒を飲むつもりだったが、料理の皿が次から次へ早く廻されてきた。
 気の利かないボーイだな。……何とか云ってやろうと思ったが、変に顔を見られる気がして云い出せなかった。それでも、料理はうまかった。チップを奮発してやった。
 一人で……あの家に行って、名差しをすれば、彼女は来てくれる筈だった。……そこへ、大きな地震でも来て、がらがらっとなって、二人だけ生き残って逃げ出す……。
 馬鹿な……。だが、何もかもひっくり返ってしまえ、濛々となってしまえ。
 日の光が恐れられた。……暗く、天地晦冥になってしまえ。
 胸が切なくしめつけられて、きりきり痛んだ。二重眼瞼の眼がちらちらして、目近に微笑んでいた。
 電車や自動車や自転車が、素張らしい勢で走っていたけれど、みな、宙を飛ぶようにふわふわしていた。着飾った女共が、どいつもこいつも醜かった。通り過ぎる男共は、馬鹿げた顔をしていた。……だがそんな奴、俺は天下に一人も用はないんだ。
 痛む胸に彼女の眼付を秘めて、一心に想い耽って、当もなく歩き続けた。
 犬の仔が幾匹も面白そうにふざけていた。

 決心をきめて、眼を据えながら家に帰ってきた。母の出よう一つでは、こちらにも覚悟がある、と思っていた。
 ところが……口元に笑みを浮べて、やさしい眼付で迎えられた。
「気分はどうなんです。」
「何でもありません。」
 不機嫌にぶっきら棒に答えたつもりだったが……。
「どうしたんです。面白そうに……にこにこした顔をして……。」
 びっくりして、きょとんと首を傾げてみた。
「何か嬉しいことでもあるんですか。」
 張りつめていた気が弛んで、その拍子に、ふいに、飛び上りたいほど嬉しくなった。
「愉快なことがあるんですよ、お母さん。」
 とんとんと歩き廻ってやった。それが自分でも変で、ゆっくり考えなければいけないと思いながら、何にも考えられなかった。計画してたことだけがすらすらと口から出た。
「めっけ物をしたんです。素敵な書物があるんです、古本屋に。……二十円下さい、すぐに……。」
「二十円ですって……。」
「ええ、それは大変安くなってるんです。早く買わないと、他にも買手がついてるんです。是非いる本なんです。」
「そんなに急いだって……。」
「いえ、急ぐんです。……買いたいなあ。」
 堪らないような風をして、室の中をとんとんと歩き廻ってやった。
「そんなにほしいものなら、お父さんに話してあげましょう。」
「え、お父さんに……。」
 しまった……。父の存在をすっかり無視していたが、丁度父が家にいる日だった。……だが……まあいいや。
 やけ糞に落付いてきて、火鉢の側に屈み込んだ。ぼんやりして、淋しかった。
 そこへ、父がわざわざ書斎から出て来た。
 困った、困った……という気で縮こまっていると、父は仕事疲れらしい伸びをしてから、煙草を吸い初めた。
「欲しい書物があるそうだが、どんな書物だい。」
 びくりとしたが、神妙そうに云ってやった。
「英語の本です。中世紀の風俗を調べたもので、素敵な※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)絵が沢山はいっています。ロンドンで出たんですが、絶版になってるから、注文してもないんですって。それが古本屋に出てるんです。」
「うむ……。」
 父は煙草の煙と息とを一緒に含み込んだ。そして咽せ返りもしないで、悠暢に落付いていた。
「それは面白そうだね。……じゃあ買ってくるがいい。買ってきたらすぐに見せてごらん。」
「ええ。」
 母は立上って金を出してきてくれた。
 新らしい十円札二枚だった。受取ってから冷りとした。それをてれ隠しに、両手で紙幣を引張って、ぱんぱんとやって見た。いい音だった。
「何をしているんですよ。破けるじゃありませんか。」
「ははは。」と父は人の善い少し馬鹿げた笑い方をした。「実際紙幣の紙は玩具おもちゃにでもしてみたいくらいいい紙だよ。いくら他で真似ようとしても、決して出来ないんだそうだ。」
 云いながら、少し禿げかかった額でのっそり立上った。そして近眼鏡の奥に眼を一つぎろりとさして、それから向うへ出て行った。
 何だか身が縮こまってきた。……父は感づいているのじゃないかしら。うっかりは出来ないぞ。いつまでもじっとして、黙りこくっていた。
「早く行ってきたらいいでしょう。……あ、そうそう、御飯を食べてからにしますか。」[#「しますか。」」は底本では「しますか。」]
「ええ。」

 洋食を食べてから余りたたない腹へ、無理に茶漬を一二杯つめこんだ。
 母も一緒に、干物ひものの匂いを立てながら、つつましく食事をし初めた。牛乳だけを飲んだ父は、散歩代りに庭を歩いていた。
「こんど井上さんがいらしたら、昨日の御礼に御馳走をしてあげなければいけませんよ。」
 そんなことを云いかける母の側から、ぷいと箸を捨てて立ち上った。が、さて、変に身の置きどころがなかった。
 縁側に立ってると、庭の植込の影に父の姿が見えた。
「お父さん、そとに何か用はありませんか。」
 一寸機嫌をとるつもりで云ったんだが、父は別に怒ってる風も……疑ってる風もなかった。
「上野はどうだい。……もう咲いたかな。」
 庭の隅から伸び拡がってる、低い桜の枝の下を、父は浅黒い顔で歩いていた。
「まだでしょう。」
「そうかな……。兎に角この……桜の咲きかける時分が一番眠いものだが、お前も休みだからって朝寝をしないで、しっかり勉強しなくちゃいけないよ。」
 だが……調子も穏かだし、こちらを向いてもいなかった。
 あまいものだ……。親馬鹿……子馬鹿……。
 ぴょんと飛びはねて、母のところへ戻ってきた。母はまだ飯を食っていた。
「行ってきますよ。」
 云い捨てて表へ飛び出した。
 後顧の憂いなし。……書物は売れちゃったと云えばいい。
 明るく静かだった。何もかも晴れ晴れとしていた。けれど……不思議に気持がぼやけてしまった。何もはっきり浮んでこなかった。
 前日から、長い長い時間がたったようだった。
「嘘、嘘、初めてじゃない。」とあの女は云ったっけ。
 なるほど、初めてじゃない……かも知れない、と思うほどつまらなかった。
 くそ、面白くもない。
 二重眼瞼のちらちらした眼付が、何処を探しても見つからなかった。余り晴れ晴れとしていた。
 それでもやっぱり……事実は事実だ。
 往来の石ころを、下駄の先で蹴飛して歩いた。ころころとよく転った。
 そんなもんだ。そんなものだ、童貞なんて。大切でも何でもないただ円い玉、どこへ転ってゆこうと平気だ。どぶの中へでも、青空へでも、勝手に転ってゆけ……。
 こつん……こつん……と、下駄の先に当る石ころの音が気持よかった。
 昨日俺を連れ出した井上のとこへ行って、どんなもんだい……とこっちから云ってやったら……。或は父と母との前に何もかもぶちまけて……。第一父母なんてものが可笑しかった。
 懐手の先で探ってみると、すべすべした紙幣がたしかにはいっていた。……大事に使わなくっちゃ。
 あなたが好きになったって……馬鹿にしてやがる。
 然し……どうしていいか分らなかった。余りに晴れ晴れとしたのびやかさだった。どこかへ……まん円いものが転っていって見えなくなっていた。涙が出そうなほどすがすがしい胸心地だった。
 どうしたら……畜生……。しきりに石ころを蹴飛してやった。





底本:「豊島与志雄著作集 第二巻(小説2[#「2」はローマ数字、1-13-22])」未来社
   1965(昭和40)年12月15日第1刷発行
初出:「中央公論」
   1925(大正14)年4月
入力:tatsuki
校正:門田裕志、小林繁雄
2007年11月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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●表記について