丘の上

豊島与志雄




 丘の上には、さびれた小さな石の堂があって、七八本の雑木が立並んでいた。前面はただ平野で、部落も木立も少く、農夫の姿も見えない、妙に淋しい畑地だった。遠くに一筋の街道が、白々と横たわっていた。その彼方、暗色に茫とかすんでる先に、帯を引いたような、きらきら光ってる海が見えていた。
 その丘の上の、木立の外れの叢の上に、彼等は腰を下した。枝葉の密なこんもりと茂った白樫が、濃い影を落していてくれた。彼は帽子とステッキとを傍に投り出して、ハンカチで顔を拭いた。汗を拭き去られたその額が、蒼白かった。が彼女の顔は、白樫の葉裏の灰白色の反映を受けてか、更に蒼白かった。眼を伏せて、日傘の柄を膝の上でもてあそんでいた。
 どこにも入道雲の影さえ覗き出していないのが、不思議だと思われるくらいに、空はあくまで晴れ渡って、真夏の日の光が、あたり一面に、そして眼の届く限り一面に、じりじり照りつけていた。淋しい蝉の声が、木立の中に封じこまれていた。乾燥しきった微風が、ゆるく流れていった。
「あああれですね。」
「ええ。」
「いつもあんなですか。」
「晴れた日は大抵光っていますの。そして夜になると、篝火が見えるんですって。」
「漁船の……。」
「ええ。」
「全く妙な景色だ……。」
「どうして。」
「草藪ばかりの、上に七八本の木立があるきりの、平凡な丘と、ただ平らな畑の眺めと、それだけじゃありませんか。それが先の方へいって、地平線のところに、帯のような海がきらきら光ってる……。」
「だからあたし、一飛びにあすこまで飛んでいきたいと、いつもそう思うんですの。」
「だって、時々海へはいりに出かけるんでしょう。」
「………」
「怒ったんですか。」
「………」
「御免なさい。何も……そんなつもりで云ったんじゃないんです。」
「だって、あんまりですもの。」
「然しわたしはそう思うんですよ。ここから見ると、海はあんなに光ってるが、側へ行ってみると、やはりただの平凡な海に過ぎない……。」
「海はそうですけれど……。」
「海とは違うと言うんですか。だけど結局は、やはり同じじゃありませんか。」
「いいえ、違ってよ。」
「じゃあどう違うんでしょう。」
「どうって……それは、行ってみなければ……。」
「そうです。行ってみなければ分らない。ただそれだけの違いです。」
「でも、行ってみたら……。」
「それは案外違ってるかも知れません、また違っていないかも知れません。そして、その分らないところに非常な魅力がある。ただそれだけのことです。」
「………」
「また黙りこんでしまいましたね。それじゃ打明けて云いましょうか。わたしも、そういう魅力に惹かされたことがあるんです。」
「え、あなたが……。」
「そうです。あなたがこちらへ来てから、暫く手紙が来なかったことがありましょう。あの当時です。何もかも嫌になって、淋しくなって、不安になって、そして……あなたのことばかり考え通していました。」
「それから。」
「或る晩、夜更けに、短刀を取出して、その刄先にじっと見入ったことがありました。」
「あら、ほんとう……。そんなことちっとも……。」
「手紙には書けなかったんです。……万一のことがあったらなんて、そんなことを手紙に書くものじゃないんです。」
「だって、あたし、ありのままを書いただけですの。」
「わたしはあれを見て、はっと思って、じっとしておれなくなって、無理に出かけて来たんです。すると……。」
「またそんなこと。……ほんとに嬉しかったんですもの。お目にかかるまでは、どうしても本当だという気がしなくて、何だか夢のように思えたんですの。停車場へ行ってもまだぼんやりしていましたわ。」
「そしてふいに眼がさめたんでしょう。わたしもほんとに嬉しかった。あなたの笑顔を見ると、喫驚するほど嬉しかった。」
「だけど、不平を仰言ったじゃありませんか。」
「冗談ですよ。……あなたが今にも死にそうな顔をしていたら、わたしまで、どうしていいか分らなくなるところでした。」
「じゃあ、あなたも……。」
「え。」
「そうよ、屹度。……ね、そうでしょう。」
「いいえ、嘘です。わたしは今、全く別なものを求めています。何かこう晴々としたもの、飛び上りたいようなものが、一番ほしいんです。昨日、停車場のことを覚えていますか。」
「停車場で……。」
「あなたは、歩廊プラットホームの柱の影に、ぼんやり立っていました。はいってくる列車の方に眼を向けながら、実は何にも見ていないような眼付で、顔をうつ向け加減にして、まるで、人を迎える者のようではなく、野原の中にでも一人でつっ立ってるような風でした。そしてわたしが近づいてゆくまで、人込の中に、同じ姿勢でぼんやりしていたでしょう。わたしはそれを見て、非常に淋しい気持になって、そっと近寄っていって声をかけました。するとあなたは、夢からさめたような風に、一寸の間きょとんとして、それから急に、ぱっと微笑んで、にっこり笑ったじゃありませんか。私は喫驚して、それから急に、嬉しくてたまらなくなったんです。だから、あんなことをしてしまったんです。その……何と云ったらいいんでしょう……やはり、夢から覚めたばかりのぱっとした微笑みというか、魂が飛び上ったような微笑みというか、それが、わたしの心を掴み去ってしまったのです。」
「掴み去るって、そんな……。」
「いいえ、そうです。何だか、真暗な室の中から、明るい日向に出たような、そんな風な感じでした。何もかもが、ぱっと輝り渡ったのです。あなたの中に、というか、わたし達の間に、というか、とにかくどこかに、そうしたぱっと輝くものがあるんです。」
「それもすぐに……。」
「いいえ消えやしません。消やしちゃいけません。」
「それじゃ、どうしたらいいんでしょう。」
「その光を頼りに、待つんです。じっと我慢して待っているんです。……わたしは、昨夜一晩中考えました。」
「でも、もう駄目なんです。何もかも嫌なんですもの。今日だって、いい加減のことを云って、めちゃくちゃに飛び出してきたんですの。」
「そしてお父さんは……。」
「何だか感ずいてるかも知れませんの。でも、もうどうなっても構わないわ。」
「わたしも、あなたのところまでやって来るのに、初めはそのつもりでした。そして……。」
「あなたも……。」
「然し……今日だってわたし達は、町を横ぎってここまで来るのに、人に見付からないように用心したでしょう。」
「ええ、そりゃあ……。だって、町中まちなかで人に見付かるのは嫌ですもの。ここなら、あたし誰に見付かっても構わないわ。父がやって来ようと、あたし逃げやしない……。」
「そうです。町中じゃ嫌だけれど、ここなら平気です。誰が来ようと平気です。……それと同じ気持でした。わたしは汽車の窓から……。」
「………」
「何もかも云ってしまいましょう。家を出る時、あなたの手紙をみな持って出たんです。そして、夜中に、汽車の中で、一つ一つ読み返しては、小さく引裂いて、みんな窓から投げ散らしてきました。」
「………」
「なぜ泣くんです。泣いちゃいけません。……その手紙の切れが、ちらちらと飛んで、闇の中に消えてゆくのを見て、わたしは胸が一杯になって、涙を落しましたが……。」
「………」
「なぜそう泣くんです。……そんなつもりでわたしは云ってるんじゃありません。今はもう別な気持で云ってるんです。」
「………」
「そうでなけりゃ、こんなことをあなたに話しはしません。誤解しちゃいけません。」
「いいえ、嘘、嘘よ。自分で自分をごまかして……。」
「ごまかしてやしません。こんなに笑ってるじゃありませんか。……どうしてそう泣くんです。」
「あたし、嬉しいの。」
「え。」
「やっぱりそうだったわ。」
「いいえ、違うんです。……わたしは何だか、眼の前がぎらぎらしてきて、丁度……この木影から、日の照りつけてる中に出たような気持なんです。泣いちゃいけません。ね、日の光をごらんなさい。眼がくらむように照りつけている……。」

 丘から遠くに見下せる、白々と横たわってる街道の上を、兵隊が通っている。一寸見れば、暗褐色のうねうねとした一列だったが、それが、劒をかずぎ背嚢を荷った兵士の縦列で、ところどころに、隊側についてる将校の剣が、きらりきらりと光っていた。先頭も後尾も分らず、際限もなく引続いて、一寸した木立や村落の間にうねってる街道の上を、静に……蟻の這うように押し動いていた。丁度自働人形の玩具の兵隊のように、どれもみな四角ばった一様な姿勢で、手足を機械的に一様に動かしていた。
 何かしら或る大きな力……機械的な力に、支配されきってるような行列だった。そして恐らく、声一つ立てる者もなく、片足踏み違える者もなく、粛々として永遠に歩き続けてるのに違いない、と思われるような行列だった。それが、ぎらぎらした日の光の中に、くっきりと而も遠く浮出していた。
 と、不思議なことには、列の中の一人が、棒切でも倒すように、前のめりに倒れ伏した。列が少し彎曲して、倒れた一人をよけて進んでいった。列の切れ目らしいところに、黒く一塊になってる一群が、倒れた兵士をとりかこんで、暫く立止って、拾い取って運んでいった。
 そういうことが幾度かくり返された。然し縦列はどこまでも続いてるらしく、次から次へ現われては消えていった。中の一人が倒れても、一寸そこをよけて通るだけで、列は少しも乱れなかった。機械的に永遠に歩き続けることだけが、彼等の全生命のように見えた。
 真夏の光が、凡てを押っ被せていた。

「あら、また一人……。」
「日射病にやられて倒れたのです。」
「死んだんでしょうか。」
「さあ……。」
「ひどいわ。」
「強行軍ですよ。今日のような暑い日を選んで、早朝から出かけるんです。一人二人の犠牲は、全軍のために仕方ありません。どこまでも歩き続けることだけが目的なんでしょう。」
「………」
「どうかしたんですか。」
「………」
「え、どうしたんです。」
「何だか……頭がくらくらとして……。」
「俯向いて、眼をつぶっててごらんなさい。日の照りつけてる中を余り見つめてたせいでしょう。」
「でも……変に……。」
「え。」
「向うの下の方へ、吸いこまれて、今にも落っこっていきそうな……。」
「高いところから見下してるせいですよ。そして余り日が照ってるせいですよ。……ぎらぎらした渦巻に捲きこまれて、ひきずりこまれるような気持でしょう。」
「ええ。」
「大丈夫です。そんなに向うを見てちゃいけません。わたしにつかまって、じっと眼をつぶっててごらんなさい。じきになおります。」
「だって……。」
「高いところへ登ると、そんな気がするものです。わたしの友人がこんなことを話しました。槍が岳か白馬山か、何でも日本アルプスのどの山かですが、その頂上に登って、下の方を見下していると、今まで空にかけてた雲の切れ目から、ぱっと日の光がさしてきた。そして、足下の方が一面にぎらぎらした渦巻になって、それに捲き込まれるような気持で、ふらふらと飛びこんでしまった。幸に谷底まで転げおちないで、二三間滑っただけで済んだそうですが、とても抵抗出来ない気持だと云っていました。」
「………」
「だけど、ここはこんな低い丘ですから、それはただ、あなたの気のせいですよ。わたしがこうしてつかまえてあげてるから、大丈夫です。」
「あら、また一人……。」
「え。……やられたんだな。……強い日の光だから……。」
「どうしたんでしょう。」
「風も無くなったようですね。ここでさえこんなだから、あの街道の上は……。」
「一面にきらきらして……。」
「そんなに見つめちゃいけません。」
「田圃の中にも、どこにも、人の影も、犬一つ見えなくって、あの白い道の上に、兵隊だけだわ。」
「………」
「そして、あんなに海が光ってきた……。」
「………」
「あたし何だか、恐ろしいような……嬉しいような気がして……。」
「………」
「あら、蒼い顔をして……。どうなすったの。」
「いえ、一寸……。」
「え、なあに……。云って頂戴、ね、云って頂戴。」
「………」
「あたし、……。ね、いや、黙ってちゃ。」
「不思議だなあ……。」
「なにが。」
「いろんなことを、一度に思い出したんです。」
「どんなこと。」
「そうだ、いつもぱっとした日の光がさしていました。」
「いやよ、すっかり云って頂戴、ねえ……。」
「わたしは、何度か……死人を見たことがあるんです。それがいつも……。」
「………」
「不思議です。いつも、ぱっと明るい日の光がさしていたんです。」

 初めて死人を見たのは、高等小学校に通ってる時のことだった。家から町の学校へ行くには、松林をぬけて行かなければならなかった。その松林の中で、縊死人があった。
 打晴れた爽かな朝だった。四五人の友と一緒に、学校へ出かける途中、松林をぬけると、その向うの村人が三人五人と、畑をつき切って走っていた。畑には大豆の実が熟していた。
 首縊りがあった……ということを、実際耳にしたのか、直覚的に感じたのか、どちらか分らなかったが、すぐに皆は、学校の道具をがたがた音させながら、畑をつき切って走っていった。
 松林のつきるところに、薄暗く茂った低い雑木林があった。その中に、何のために掘られたのか、水のない深い小溝があって、歯朶や雑草が生いかぶさっていた。その溝の上にさし出てる楠の小枝から、中年の男がぶら下っていた。
 汚い手拭を二本つなぎ合して、それでぶら下っていた。首の骨が折れでもしたように、がっくり頭を垂れていた。肩から胸のあたりが薄べったくなって、腹が妙にふくれ上っていた。膝から下は溝の中に隠れて見えなかった。
 もうだいぶ日がたったものらしかった。変な匂いがしていた。前日の小雨に濡れたまま乾ききらないでいる紺絣の袷が、べっとり身体に絡みついていた。顔の肉が落ちて、土色に硬ばった皮膚の下から、頬骨がつき出ていた。眼が落ち凹んで、閉じた眼瞼のまん中が、眼玉の恰好にまるくふくらんでいた。変に形のくずれた鼻から、かさかさに皺寄ってる唇へかけて、黒血の交った泡の乾いたのがこびりついて、それに山蟻が一杯たかっていた。蝿が一匹どこからか飛んできて、額の横の方にとまって、びくりびくり羽を動かしていたが、またどこかへ飛び去ってしまった。
 灌木の茂みを押し分けて、大勢の人が立並んでいた。時々ひそひそと囁き合っては、またすぐに黙ってしまった。
 だいぶたってから、十人余りの人と一緒に、がやがや話声をさせながら、巡査がやって来た。
 その時初めて気付いたのだが、太陽の光が木立の茂みの隙間から、無数の小さな明るい線となって落ちていた。溝の縁の歯朶や雑草の葉に、露とも云えないほどの湿りがあって、それが妙に光沢のない輝きを帯びていて、そこに落ちた光の線は、ただぼーっと明るいきりだった。が死人の上には、如何にも晴れやかな斑点が印せられていた。茂みを洩れてくる朝日の光が、そのまま金箔のようになって、死体のところどころにぴたりとくっついていた。頭にも顔にも胸にも、ぽつりぽつりと、拭いても取れそうにないほど、その金箔がくいこんでいた。

 中学四年の頃だった。風邪の心地で二三日学校を休んでいたが、初秋のうららかな日脚に誘われて、午前十時頃、家から三丁ばかり裏手の海岸へ散歩に出た。
 穏かな内海、ゆるやかな海岸線、白い[#「白い」は底本では「自い」]砂浜、粗らな松林、それらの上に、澄みきった秋の光が降り濺いでいた。沖は平らに凪ぎながら、砂浜にさーっさっと音を立ててる波打際を、さくりさくりと歩いていった。人の姿も殆んど見えなかった。
 そして五六丁行くと、遙か彼方の汀に、一かたまりの人立がしていた。松林の中から、出たりはいったりしてる者もあった。それが、広い海と長い浜辺とを背景に浮出して、夢のように静かだった。
 近づいて行くに随って、物の様子がはっきりしてきた。何かを真中にして、一群の人々は円く立並んでいた。松林の中から、なお一人二人ずつ出てきて、その円陣に加わっていった。その真中のが、波に打寄せられ引上げられた、水死人だった。
 水死人は波打際から二三尺のところに、仰向に転っていた。濡れた古蓆が一枚上に被せてあった。蓆からはみ出してるのは、額から上の頭部と、膝から下とだけだった。長い髪の毛が、磯に打上げられた海藻のように、毛並を揃えながらうねりくねって、変に赤茶けた色をしていた。膝から下はむき出しで、紫色にふくれ上っていた。押したら風船玉のように破けそうなほど、薄い皮膚が張りきっていた。胴体はまぐろいるか[#「魚+豕」、435-下-13]のように、蓆の下から円っこくふくれ上っていた。
 晴れやかな日の光に、蓆からぽっぽっと湯気が立っていた。何で濡れ蓆を被せたのか不思議だったが、その時それが、丁度大きな魚にでも被せたように、如何にも調和して落付いていた。
 一人二人ずつ人立がふえてゆくきりで、誰もどうしようという考えもないらしく、無関心なぼんやりした眼付で、黙ってうち眺めていた。すぐ側には、軽やかな波がさーっさっと、砂浜に寄せては返していた。そして初秋の澄みきった日の光が、あたり一面を包み込んでいた。青々とした高い空だった。朝凪ぎの静かな大気だった。
 水死人の上の濡れ蓆からは、淡い湯気がゆらゆらと立って、日の光の中に消えていた。

 大学にはいって間もない頃、夏の休暇に、汽車で三時間ばかりのところへ、友人を訪れていって、翌日の午後二時すぎの汽車で帰ってきた。
 車室は込んでいなかった。離れ離れに腰かけてる乗客達は、曇り日の午後の倦さに、皆黙りこんでうとうととしていた。取りとめもないはるかな想い、窓の外を飛びゆく切れ切れの景色、規則的な車輪の響き、而も安らかな静寂……ぽつりぽつりと、降るとも見えぬ雨脚が、窓硝子に長く跡を引いていた。
 汽笛が鳴ったようだった……が空耳かも知れなかった。凡てが妙に落付き払っていた。変だな……と頭の遠い奥で考えてると、汽車は速力をゆるめていた。ごとりと一つ反動をなし止った。
 停車場でも何でもない野の中だった。と不意に、乗客の一人が立上って、窓から頭をつき出して覗いた。それが皆に伝染して、次々に窓から覗き出した。他の車室の窓からも、ずらりと乗室の顔が並んでいた。
 機関車に近いところから、車掌と火夫とが二人降りてきた。列車の下を覗きこみながら、だんだん後部へやって来た。轢死人……という無音の声が、どこからともなく皆の心に伝わってきた。
 車掌と火夫とは、やがて立止った。そして一寸何か囁き合った。すると火夫は、いきなり列車の下に屈み込んで、両手を差伸したかと思うまに、ずるずると大きなものを引張り出した。……白足袋をはいた小さな足、それから、真白な二本の脛、真白な腿、それから、黒っぽい着物のよれよれに纒いついて臀部、それから……腰部でぶつりと切れていた。四五寸ほどにゅっとつき出た背骨を中心に、肉とも布ともつかないものが渦のようによれ捩れて、真赤な血に染んでいた。火夫はそれを無雑作に線路の横の草地に放り出した。
 反対の側の窓から覗いてみると、ずっと後部の方に、真黒なものが転っていた。髪を乱した女の頭だった。南瓜のようにごろりと投り出されていた。他には何にも見えなかった。
 車掌と火夫とは機関車の方へ戻っていって、列車に乗りこんだ。汽笛が一つ鳴った。汽車は進行しだした。乗客は陰鬱な顔で黙りこんでいた。向うの小川の土手に、六七人の農夫が佇んで、じっとこちらを眺めていた。雨は止んで、かすかな風が稲田の面を吹いていた。
 それから、二つ三つ停車場を通り過ぎるうちに、曇り日の淡い日の光が、次第に強くなってきて、やがてぎらぎらした直射になった。小雨の後の強烈な光線だった。車室の外は、眼がくらむほどの真昼だった。
 頭の中に刻まれてる轢死人の死体が、そのぎらぎらした日の光の中に浮出してきた。捩切られた腰部の真赤な切口、真白な完全な円っこい両脚、白足袋をはいた綺麗な足先、それから、ごろりと転ってる髪を乱した頭、それらが宛も宙に浮いてるかのように、まざまざに見えてきた。余りに明るい日の光だった。死体の断片を包みこんで、ただ一面に光り輝いていた。

「わたしは、暗いところでばかり……薄暗がりの中でばかり、物を考える癖がついていた。それで、死人と云えばみな、曇った日か雨のしょぼ降る日か……陰欝な空気の中にしか考えられなかったのですが、実は……。」
「日射病で倒れる兵隊と同じだと仰言るんでしょう。」
「ええ、そうです。……あなたは死人を見たことがありますか。」
「いいえ。」
「一度も。」
「ええ。」
「それじゃ私の話がよく分らないでしょう。」
「………」
「あなたは笑っていますね。」
「いいえ。」
「だって……。」
「あたし、変なことを思い出して……。」
「どんなことです。」
「あなたから、来るって手紙が参った晩でした。あたし嬉しいのか悲しいのか分らなくなって、じっとしておられなくなって、何でも手当次第に物を投り出したいような……変な気持になってしまったの。見ると、電燈のまわりに、沢山虫が飛んできてるでしょう。それをあたし、電燈の笠の中に……深い笠ですのよ……その中に紙で封じこめてやったの。甲虫こがねむしや小さな蛾や羽の長い蚊なんかでしたが、それが、笠の中でぶんぶん飛び廻るのを見て、あたし夢中になって……。」
「殺してしまったんですか。」
「独りでに死んでしまったんですの。死ぬまで封じこめてやったんですの。」
「あなたが。」
「ええ。ぞっとするような……もう夢中だったんですもの。」
「………」
「妹が見て、喫驚していました。だけどあたし、ただ……あなたがいらっしゃる、あなたがいらっしゃる……とそのことだけに一心になっていて、そのうちに、電燈の笠の中は熱くなって、一生懸命に飛び廻ってた虫が、ぱたりぱたりと紙の上に落ちて死んでしまったんですの。」
「電気の光にやられたんですね。」
「そうでしょうか。」
「余り光が強すぎると死ぬんです。人間だって、太陽を三十分も見つめてると、昏倒して死んでしまうそうです。」
「では、あたし……。」
「やってみますか。」
「………」
「あ、……そのあなたの笑顔がわたしは好きです。じっとして……。」
「何だか嬉しいんですの……心から……。」
「………」
「ねえ、あなたは決心していらしたんでしょう。」
「………」
「こちらにいらっしゃる前に……。」
「万一の場合の用意はしていました。」
「万一の場合って……。」
「あなたの手紙にあったじゃありませんか。」
「あたし、あの時はほんとに思いつめていたんですの。」
「今は……。」
「今も。」
「今も……。」
「ええ。だけど……嬉しいんですの。どうしたらいいか……。」
「じゃあ……わたしが……。」
「………」
「わたしは短刀を持って来たんです。それを……あなたに上げましょう。」
「短刀。」
「ええ。遅く何度も取出して眺めたものです。けれど、もうあんなものは……。」
「あたし、頂いておくわ。本当に下さるの。」
「上げましょう。」
「嬉しい。」
「どうします。」
「大事にしまっておくの。」
「屹度……。」
「………」
「また笑っていますね。どうしたんです。」
「どうもしませんわ。」
「だって……。」
「しっかりつかまえてて頂戴。あたし何だか、変な気持になったの。夢でもみてるような……。」
「………」
「あら、いつのまにか兵隊が。」
「もう通ってしまったんでしょう。そして何もかも……。」
「何もかもって。」
「わたしも夢をみてるような気持がします。そして……死んだ後のような……。」
「………」
「丁度こんなでした、友人が死んだ時も……。」

 その友人は、急性腎臓炎で、十日ばかり病院にはいっていたが、経過がよくなく、遂に心臓麻痺で死んだのだった。
 前日から容態が険悪だったので、その晩見舞に行って、夜通しついていてやった。病室には、郷里から出て来た母親と伯父と、看護婦きりだった。
 尿毒症の昏睡状態から、暫く軽い狂燥状態が続いて、それから夜中の三時頃、心臓麻痺でやられてしまった。
 伯父は夜明けに出かけていった。後の三人は病室の片隅に黙然と坐り続けていた。涙を流しつくした後の、呆然とした顔付だった。
 拭き清められて白い布に被われた死体は、寝台の真中に横臥していた。胸部も腹部も薄べったくなって、空気のぬけたゴム枕のように見えた。がじっと見ていると、今にもその胸のあたりがふくらんできて、ほーっと息をつきそうに思えた。いや現に、かすかに息をしているようだった。
 苦しいだろう……というような気持で立っていって、顔の白布を一寸取りのけてやった。瞬間に、凡てがしいんとなって、死体は薄べったく静まり返った。眼が落ち凹み、鼻が尖り、唇が歯にくっついて閉じていた。すっかり色艶を失った顔全体に、何だか蜘蛛の[#「蜘蛛の」は底本では「蛛蜘の」]糸ででも出来てるような、あるかなきかの半透明な膜が被さっていた。額に手をやると、骨のしんまで伝わってくる底知れぬ冷さだった。
 けれども、顔に白布を被せて、少し遠退いて眺めていると、やはり、死体は今にもほーっと息をしかかってるかのように見えた。母親もじっとその方を眺めていた。
 そして長い時間がたっていった。何かをしきりに考えているようなまた何にも考えていないような、忘我の気持に落ちこんでいった。それからふと気がつくと、いつのまにか、東の窓掛の隙間から、赤々とした光がさしていた。見るまにそれが輝かしい光線となって、室の中を横ざまに流れた。
 嘗て見たこともない赤い晴々とした光線だった。それが、陰気にむすぼれ淀んだ病室内の空間に、くっきりと浮出して、東の窓掛の隙間から西の壁の面へ、横ざまに流れていた。その下の暗がりに、死体は静に横たわっていた。もう息をしそうにもなく、固くこわばってしまっていた。
 全く死んでしまったのだった。死んで消えてしまったのだった。其処に横たわってるのは、もう彼ではなく、ただ骨と肉との冷たい物質だった。その上の空間に、一筋の朝日の光だけが、如何にも晴れやかに輝かしく、くっきりと浮出していた。
 窓掛を開くと、ぱっと朝日の照ってる爽かな明るみだった。

「なぜ泣くんです。」
「………」
「泣いちゃいけません。笑って下さい……。あなたには、笑顔が一番ふさわしい……。」
「そして、あなたにも……。」
「え、本当ですか。」
「ええ。」
「わたしはこの通り微笑んでいます。」
「あたしも。」
「笑いましょう……。いつまでも微笑み続けましょう。ね、二人で……。」
「あたし……何だか……眼がくらむような……。」
「余り日が照ってるからです。余りぎらぎらした光が強過ぎるからです。けれど……ね、いいでしょう。」
「ええ、どんなことがあっても……。」
「どんなことがあっても……。」
「あたし、いつも笑ってるわ。」
「そうです。」
「あら、あなたは、涙ぐんで……。」
「いいえ、何でもないんです。嬉しいんです。」
「もう何にも考えないの。」
「そして……ただ一つだけ……。」
「ええ、一つだけ、ただ一つだけよ。」
「………」
「ねえ、歩きましょう。あたし、じっとしてると、何だか恐い気がしてきたの。日向を歩くの……丘の上をぐるぐる歩き廻るの。」
 じりじりと真夏の日が照りつけていた。どこを見ても、眼が眩むほどぎらぎらしていた。遠くに海が光っていた。





底本:「豊島与志雄著作集 第二巻(小説2[#「2」はローマ数字、1-13-22])」未来社
   1965(昭和40)年12月15日第1刷発行
初出:「女性」
   1925(大正14)年9月
入力:tatsuki
校正:門田裕志、小林繁雄
2007年11月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について