古井戸

豊島与志雄




      一

 初めは相当に拵えられたものらしいが、長く人の手がはいらないで、大小さまざまの植込が生い茂ってる、二十坪ばかりの薄暗い庭だった。その奥の、隣家との境の板塀寄りに、円い自然石が据っていた。
「今時、これほどの庭でもついてる借家はなかなかございませんよ。それですから、家は古くて汚いんですけれど、辛棒して住っておりますの。」
「そうですね。手を入れないで茂るに任してあるところが却って……。それに、あの奥の円い石が一寸面白いですね。」
 そんな風に、彼は主婦の房子と話したことがあった。
 その円い自然石の側に、梅雨の頃、いつとはなしに、軽い地崩れがして穴があき、それが次第に大きくなっていって、流れこむ雨水をどくどくと、底知れぬ深みへ吸い込んでるようだった。
「片山さん……こんな大きな穴が……。いつ出来たのでしょう。」
 梅雨あけの爽かな朝日を受けて、房子が箒片手に、こちらを振向いていた。
「今気がつかれたんですか。呑気ですね。」
 縁側から庭下駄をつっかけて、彼はわざわざやって行った。
 が、よく見ると、石の側にぱくりと口を開いて、斜めに深くおりていってる穴は、広さはさほどでもないが、何だか大きな洞窟の一部分とでもいうような、測り知られぬ感じを持っていた。その上、穴の口から大きく半円を描いて、二筋三筋断続した地割れがしていた。
土竜もぐらのせいでしょうか。」
「さあ、土竜にしちゃあ……。」
「では……。」
「何だかえたいの知れない穴ですね。」
「ええ、気味の悪い……。これからせっせと塵芥ごみを掃きこんで、埋めてやりましょう。」
 然し、彼女が時折掃き込む塵芥では、なかなか埋まりそうもなかった。一時口が塞ったかと思うと、次の降雨の後には、またぱくりと口を開いていた。
 彼は何故ともなく、その穴と穴の上の自然石とに、注意を惹かれていった。
 二抱えほどの、ただ円っこい普通の石だったが、木石の配置上そこに据えられたものではなく、掘り出されたのか転ってきたのかをそのまま投ってあるような、不自然な位置を占めていた。その石から一二尺離れて、半円形に断続の地割れがして、その一端に、一尺足らずの細長い穴が、斜めに深く、横広がりにあいていた。棒を突込むと、柔かな泥の感じでずるずるはいりこんで、それから先は石の壁のような固いものにつき当った。穴の周囲を足で踏むと、石との間の地面だけが、五寸ばかり崩れ凹んだ。石の下深く、大きな洞窟にでもなってるかのようだった。
「片山さん、何してるの。」
 或る時、娘の光子が、家の中から見付けてやって来た。
「あら。」
 大きくなった穴と彼の顔とを、じろじろ見比べていたが、俄に真面目な顔付になった。
「そんなことをすると、お父さんに叱られるわよ。」
「え、どうして。」
「危いんですって。」
「なぜ。」
「なぜだか……この辺で悪戯いたずらをしちゃいけないって、お父さんがそう仰言ったの。」
「じゃあ、この石の下に何かあるの。」
「知らないわ。」
 光子は実際何にも知らないらしかった。
 彼は棒を投げすてて、首を傾げた。

      二

 ――或るところで、古金銀貨幣、時価約三千円ほどのものを、庭の隅から掘り出した。維新当時、壺に納めて埋めてあったものらしい。
 そういう新聞記事を、彼は二階の室に寝そべって、心の中で繰り返していた。馬鹿馬鹿しいが、それだけにまた空想を誘われた。
 ふと、半身を起して眺めると、檜葉や椿の茂みごしに、庭の奥の穴のところに、人影が動いていた。彼が幾度かなしたと同じように、棒切で穴の底をつついてみたり、穴のまわりを踏んでみたりしている。それが、主人の松木庄作だった。
 ははあ………という気持と、太い奴だ……という気持とで、彼はのっそり立上って、階下の縁側へ降りていった。
 庭の植込の影から、松木は陰欝な顔付でやって来た。朝早くから何処へともなく出かけて行き、夜分になって帰って来て、訳の分らない書類と睥めっこをしてる、いつもの通りの顔付だった。
「今日はお出かけじゃないんですか。」
「ええ。」
 ぶっきら棒な返事だけで、縁側に来て腰をかけた。
「何でしょう、あの向うの穴は。」
「さあー、土竜か何か……。」
 事もなげに答えて、彼の顔をじろりと見た。が暫くすると、ふいに口を開いた。
「あの分だと、上の石がめり込んでしまうかも知れません。」
「いい石ですね。」
「何に使ったものですか……惜しい石ですよ。あれくらい大きな、自然に円みのある石は、なかなか安かありません。惜しいものです。」
 そしてまた彼の顔をじろりと見た。その眼付が、いつぞや、格安の売物だが知人に買手はないだろうかと、住宅の図面を二三枚彼に見せた時のそれと、同じように底光りがしていた。
「じゃあ、わきにどけたらどうでしょう。」
 彼もちらと松木の顔を見返した。
「二人で動かせますかね。」
「大丈夫です、あれくらいの石なら……。」
 石が問題じゃない、後が見物みものだ、と思って、彼は勢よく跣足で飛び下りた。
 鉄棒、荒縄、鍬そんなものが用意された。
 石は半ば土に埋ってるように見えたが、案外底が平らで、実は地面にのっかってるだけだった。深く掘る必要はなかった。然し、鉄棒をてこにして押し動かそうとすると、そこの地面が崩れ落ちたり、足がめいり込んだりして、一寸困難だった。がそれが却って仕合せで、荒縄を下から通すことが出来て、二人で運び動かせた。
 ほっと息をついて、見ると、思いもよらない大きな穴が、宛も陥没地のような風に、縁に一尺ばかりの断層を見せて、そこに口を開いていた。
「一体何でしょう、ここは……。」
 彼はちらと松木の顔を見やった。
「池でも埋めた跡ですかな。」
 松木はそっぽを向いて、額の汗を拭いていた。
「それにしても……。」
 方々を力足で踏んで見ると、陥没の範囲が次第に大きくなっていった。
「掘ってみましょうか。」
「さあーうっかり手をつけて……。」
「なあに、御自分の庭じゃありませんか。金魚池でも掘るつもりにすりゃあ……。」
 松木はじろりと彼の顔を見た。
「なるほど、金魚池……。」一寸間を置いてから早口に云い初めた。「光子が金魚が好きでしてね。随分買ってやったものですが、何しろ硝子の容物いれものでしょう、じきに死んでしまうので、それきり一切金魚は止めましたが、ここに池を掘ってやりゃあ、そんなこともありますまい。なに訳はありませんよ。私一人で充分です。この通りもう崩れかかってる地面ですからね。……だが、まあ立合ってみて下さい。もし白骨でも出て来ると、厄介ですから……。実際えたいの知れない穴で……あなたが立合っていて下されば安心です。」
 縁側の方へ小走りに馳けていって、着物を脱ぎすてて、褌一つきりになって戻って来た。
 彼は鉄棒を持って、移し動かした石に腰をかけていた。
 松木は穴の中に踏みこんで、その縁から次第に掘り拡げていった。案外隆々とした筋肉の上に、茂みを洩れてくる日の光が、明るく躍りはねた。発掘は容易らしく、上層の固い地面以外は、みな柔かな黒土で、膝頭ほどの深さになっても同じような土ばかりだった。穴はどこへいったか、掘り荒されて分らなかったが、やがて、がちりと鍬の先に音がして、小石交りの層となった。
「ほう、これは……。」
 汗にまみれて、鍬の柄を杖につっ立った松木の眼は、異様に光っていた。
「いやに小石がつめてありますね。」
 彼も思わず眼を光らして覗き込んだ。
「そしていやに固まってるんで……。」
 小石の層に添って、松木は益々掘り進んでいった。それが次第に円く、径四五尺の円となった。周囲はみな小石がつまって固く、中だけ新らしい黒土で柔かだった。それを膝頭の上まで掘り下げた時、松木は穴から飛び出して、暫く首をひねって考えた。
「これは……何ですよ、屹度、古井戸の跡ですよ。」
「え、古井戸。」
 彼も立上って穴を覗いた。
「古井戸を埋めた跡です。」
 云われてみれば、全くそれに違いないらしかった。
「じゃあ、いくら掘っても駄目ですね。」
「駄目です。」
 うっかり云って顔を見合った。瞬間に、松木はひどく兇悪な表情をしたが、次にはアハハと高笑いをした。
「古井戸の上に金魚池を掘ろうとしたところで、とても……。」
 駄目だ、とはさすがに云いかねたものか、ぷつりと口を噤んで、それから急に腹立ったらしく、掘り起した黒土を元通り直しにかかった。
 土がすっかり元に直るまで、松木は一休みもしなかった。朝日の光を受けてる、その脂ぎった体力のよさを、彼は皮肉な眼で眺めていたが、何故だか、自分自身も一寸気持が納まりかねた。
 掘り返されたためか、土の不足も見せないで、地面は平らになった。
「ついでに一寸手伝って頂きましょうか。」
 松木はいきなりそう云い被せて、彼に手伝わせながら、円い自然石を庭の程よいところに据えた。それから更に不機嫌そうに、裏口の方へ行ってしまった。
 松木が手足を洗って銭湯へ出かけた後まで、彼は縁側に腰掛けて、ぼんやり煙草を吹かしていた。
 そこへ、房子がやって来た。
「あの穴は、何だかお分りになりましたの。」
「え、松木さんは何とも仰言らなかったんですか。」
「ええ、宅はいつでも、何にも聞かしてはくれませんし、わたしも別段……。」
「へえー。不思議ですね。」
 どこが不思議だというような面持で、彼女はまた尋ねた。
「そして、あの穴は……。」
「古井戸を埋めた跡だそうです。」
「古井戸、」と一寸眼を見開いた。「そう分れば、安心ですわ。」
「安心ですって。」
「ええ、わたしはまた、お墓の跡ででもあると困ると思って……。」
 善良そうな眼で庭の方を透し見ていた。
 ククク……と彼は突然笑い出した。
「あら、何を笑っていらっしゃるの。」
 千三せんみつや……と云っても、万に三つも当るかどうか分らない松木が、宝を掘出しそこねて腹を立てたことと、何にも知らないでいる細君が、古井戸の跡と聞いて安心したこととが、変に対照をなして、納まりかねてた彼の気持を落付かした。
 彼はまた、ククク……と独笑いをした。

      三

 ふうわりと土を被せた古井戸の跡は、降雨の度に少しずつ凹みながらも、もう穴を開くようなことはなかった。そして円い自然石だけが、荒れた庭の真中に、得意然と構えていた。
 彼はいつしか、古井戸のことを忘れかけた。ところが、その秋の或る夜、怪しい夢をみた。
 ――何処だか分らない、或る床の高い縁側に腰掛けていた。前は広々とした庭で、築山や植込の模様から配石の工合まで、昔の大名の屋敷を思わせるものがあった。その庭の真中に、井戸があった。おや、と思って見たとたんに、井戸の真上に、車巻の枠の上に、若い女が腰掛けている。着物は分らなかったが、高島田に結った綺麗な女で、彼の方を見てにこにこ笑っている。お転婆な女だなと思って、彼は二口三口からかいかけた。何と云ったのか文句は覚えていないが、女がなおにこにこしているので、次第にひどい悪口を云い初めた。するうち、女は俄にきりっと眉を逆立てて、「何を!」と男のような声で怒鳴りつけて、井戸枠からするすると下りて、真直にやって来る。彼は逃げようとしたが、どうしても身体が動かない。もう女は眼の前にやって来て、彼の着物の襟を掴んで、締めつけ初めた。馬鹿に大きな力で、大磐石にでも押えつけられたようで、いくら※(「足へん+宛」、第3水準1-92-36)いても、身動きさえも出来なかった。女はなおも襟元をしめつけながら、ぐいぐいと押してくる。彼は縁側の柱に押しつけられ、息がつまり、身体がひしゃげ、苦しさにむーとこらえた、とたんに、ほーとして眼が覚めた。
 身体中にねっとり脂汗をかいて、手足が痺れていた。がそれよりも更に不思議なのは、夢に見た光景が一々、覘眼鏡のぞきめがねででも見るように、実物以上の透き通った明瞭さで、まざまざと頭の中に残っていた。庭の有様、車井戸、井戸枠に腰掛けてる高島田の女、その女がすーっと下りてきて襟を締めつけたこと、それが一々、陰影のない明るさで浮び上っていた。ただ、庭以外のことと、女の首から下とだけは、何にも分らなかった。
 彼は怪しくぞーと寒けがして、起上って電燈をつけた。室中がぱっと明るくなったが、その光の届かないどこか奥深い暗闇の中に、庭や車井戸や女のことが、くっきりと浮出していて消えなかった。
 それでも彼は、家の人達を呼び起すのも不甲斐ないと、不気味なのをじっと我慢して、とうとうその夜を明かしてしまった。
 いつもと違った、余りにはっきりしてるその夢が、長く彼の頭につきまとった。庭の古井戸と結びつけて考えたりしたけれど、自分でも馬鹿馬鹿しくなって、誰にも話さなかったが、やはり頭の底に始終気掛りなものが出来て、それからは電燈をつけたまま寝ることにした。
 それが、忘れるともなく薄らいでいった、年を越して春のこと、彼は二三の友人と芝居を観に出かけた。番組の中に皿屋敷があった。その一幕を見て、彼はまた夢のことをはっきり思い浮べた。
 まではまだよかったが、幕間に酒を飲みながら、話は皿屋敷の故実から、昔の大名の行跡にまで及んでいった。その時、友人の一人が、変な話を彼に聞かした。
「……そんなら、丁度君の下宿のあたりだよ。あの辺に、昔或る旗本の屋敷があってね、それがまた癇癖の強い乱暴な男だったらしい。或る時、子供を守りして一人の女中が庭で遊んでいた。そしてどうしたはずみか、その子供が、庭井戸の中に落っこって死んでしまった。あの皿屋敷の井戸のようなやつで、昔の広い庭にはよくあったものだ。さあ主人の立腹ったらない。女を縛り上げて、井戸の側に引き立てて、お前がこの中に子供を落したんだな、お前が落したんだな……と云いながら、女の頭をむりやりに井戸の中にさしつけて、責めさいなんだ揚句、抜打にすぱーりと、その首を井戸の中に切り落した。それからは、その井戸に何か変異があるとか、僕の祖母が、僕がまだ小さい時、詳しく話してきかしたものだが、そんな他愛ない話は、祖母が死ぬと、一緒に忘れてしまった。然しとにかく、召使を手討にするなんか、昔の大名は平気だったらしいね。」
 彼はぎくりと胸にこたえて、暫く友人の顔を見守っていた。
「その、何とか云う旗本の屋敷は、僕の下宿のあたりにあったのかい。」
「さあ、うろ覚えなんだが、祖母の話ではたしか、町名や番地など、どうもそうらしいよ。……何だい、変な顔をするじゃないか。何か出るのかい。」
「出やしないが……。」
「ははは、出たらお慰みだ。皿屋敷なんかより、その方が本物で面白いわけだがね。」
 一笑に付されてしまって、彼は夢のことを云い出しそびれた。
 然しそれがひどく気にかかった。後の芝居は見る気もなくぼんやり眼をやってるだけで、しきりに夢のことや友人の話が考えめぐらされた。話を聞いてから夢にみることは、世にありそうだが、話をきかない前にそれと符合する夢をみることは、滅多にあるものではない。その上、いやにはっきりした不気味な夢だった。ばかりでなく、掘り返した古井戸の跡や、あの変な自然石など、考えれば考えるほど、怪しい糸がもつれていった。
 そして、その晩も、翌日も、変梃な気持で過した。庭の方を見ると、円い自然石が、植込の茂みの葉裏のせいか、茫と青白く光ってるようだった。そして古井戸の跡は、一面に四五寸ほども落ち凹んで、もう苔生して、くっきりと円い形を現わしていた。
「何をぼんやり考えこんでいらっしゃるの。」
 そう云って縁側に屈みこんでる彼の方を、房子が覗きこんできた。
 その、眼の光の鈍い善良な顔付を見て、彼はふと、凡てを彼女に打明けてみる気になった。
「まあー。」
 呑気そうな彼女の顔が一寸固くなった。
「ですが、何処のことだかよく分らない昔話と、ただ一度の夢とだけですから、或は気のせいかも知れません。」
「けれど、そう云えば、あの石だって何だか変ですわね。……どうしてあんな石を、庭の真中に据える気になったのでしょう。」
「いえ、あの石だけなら、面白いじゃありませんか。……いや屹度、気のせいかも知れません。こんな話は誰にも内緒にしといて下さい。うっかり話して、人の笑い草になっちゃつまりませんから。」
「ええ、それはもう、どなたにも話しはしませんけれど……。」
「変な時に、お菊の芝居なんか、とんだものを見たものです。」
 そう云って、彼は初めて苦笑した。実際、彼女に打明けてしまったので、胸が晴れたような気持だった。

      四

 それから二週間ばかりたった午後、一人の男が階下に訪れてきた。松木が不在だったので、房子が暫く応対をしていたが、やがて二人は庭に出て、古井戸のあたりで立話を初めた。黒っぽい銘仙の着流しに、古縮緬の兵児帯をまきつけた、ひょろ長い半白の老人だった。
 彼は二階で書物を読んでいたが、古井戸の辺の話声に、何だか気掛りになってきて、それとなく様子を見に降りていった。すると、縁側に腰掛けてた老人につかまった。
 老人は家作の差配人だということが、話の調子で彼にも分った。初めは何気なく彼に言葉をかけておいて、つまらないことで彼を引止めてから、遠廻しに徐々と、古井戸の方へ話を向けていった。その側で房子が、何だか落付かない様子で、しきりに彼へ目配せをしたが、彼はその意を察しかねて、いい加減の返辞をしているうちに、ふと、意外なことが老人の口から洩らされた。娘の光子が、屡々悪夢にうなされるというのだった。
「え、何ですって、光子さんがうなされるんですか。」
 彼の喫驚した言葉に、房子ははっとして顔を伏せてしまったが、老人は切れの長い眼で、彼の顔色をじろりじろり窺い初めた。
「いえ、なあに、古井戸の跡だときいて、一寸夢をごらんなすったまでのことで、子供にはありがちのことですからなあ、御心配にも及びませんと、私から今もそう奥さんに申上げてるような次第で……。」
「そうです、何でもないことでしょう。そう云やあ実は、私でさえ変な夢を見たことがあるくらいですから。」
「ほう……してみますと何か、やはりその、古井戸のことで……。」
「ええ、馬鹿げた夢です。」
 そこで彼は、房子や老人に安心させるつもりで、夢の話をごくあっさりとしてきかした。友人の昔話なんかは勿論語らなかった。
 房子は始終黙っていたが、老人は次第に膝をのり出して、首を傾げ初めた。そして彼が話し終ってから、暫くして結論めいた調子で云った。
「なるほど、世の中には理外の理ということもありますからな、何とか一つ考えてみませんければ……。」
「いえ、考えて気にするから夢もみるんです。気にさえしなけりゃ、古井戸の跡なんか、どこにだってあることですし……。」
「云ってみればまあそんなものですが、奥さんも御心配でしょうし、なるべくその……世間にぱっとしない方がお互の為ですからな。」
 話の調子が、初めとはまるで反対になっていた。その上、房子は始終下を向いて、時々ちらと彼の方へ目配せをした。彼は腑に落ちかねて、二階へ退いていった。
 階段を上ろうとすると、茶の間の片隅に、光子がぼんやり坐っていた。彼はそれを二階へ連れて上った。
「今聞いたんですが、何か、古井戸の夢をみるんですか。」
 光子は彼の顔をじっと眺めて黙っていた。
「なぜ私に隠していたんです。え、どんな夢をみるんです。云ってごらん。え、どんな夢。」
 光子は頭を振った。
「ねえ、黙ってては分らないから、本当のことを云ってごらんなさい。……え、どうしたの。」
 光子は慴えたような顔をして、低い声で云った。
「夢なんか見ないの。」
「え、見ない。だって、お母さんは、光子さんが夢でうなされるって……。」
 光子は一寸、呆けたような眼付を空に据えたが、いきなり彼の肩に飛びついてきて、囁くような調子で云い初めた。
「夢なんかみないのよ。でもね、お父さんが、恐い夢をみると云わなけりゃいけないって……。嫌だと云うと、ひどく叱られたの。それであたし、一生懸命に云ってやったわ。恐い夢をみて、ちっとも眠られないって。するとあの爺さんが、じっとあたしの顔を見たの。あたし喫驚して、いろいろ恐い夢の話を、一生懸命に、教った通り話したの。恐い夢の話を聞いて、その通りに思いこまなけりゃいけないって、そうお父さんに云われたから、あたし、夢にみたんだ、夢にみたんだって、しょっちゅう考えてたのよ。すると、何だか、本当にみたような気もするの。あたし恐いわ。」
 彼女は眼をぎらぎら光らしていた。
「どんな夢です。」
 それは馬鹿馬鹿しい夢だった。広い綺麗な庭の中に車井戸があったり、庭の古井戸の跡に赤ん坊の泣声がしたり、女の首がどこからか転ってきたり、其他いろんなことだった。然しどれもみな、彼が友人から聞いた昔話に基いてるものであることは、明かに見て取られた。
「そして、お母さんは……。」
「お母さんはね、あたしが叱られて泣いてると、お父さんと喧嘩をして、ひどく打たれたのよ。それからちっとも、あたしの味方をしてくれないの。」
「そして、夢をみたことは本当なんですね。」
「ええないの。………だけど、恐いわ。」
 彼は光子を抱きしめた。
「私がこれからついてあげるから、もう夢の話なんか考えちゃいけません。ねえ、忘れてしまうんですよ。誰が何と聞いても、知らないと云って、忘れてしまうんですよ。」
 光子は彼の肩にすがりついていたが、しまいに泣き出してしまった。
「泣くんじゃありません。」
 そう云いながら彼は、眉根を寄せ額に手をあてて、深く考えこんだ。

      五

 六七人の井戸掘人夫がやって来て、庭の奥の古井戸の跡を、また元通り掘り初めた。
 彼は一人憤慨しながら、その気持を誰に持って行きようもなかった。松木に向って何とも云えなかったし、また房子に対しても、光子が後で叱られはすまいかという恐れから、つきこんだ話をするわけにはいかなかった。
 そして彼は、折を見てはそれとなく房子の口から、大体の事情を探り出した。万事が凡て、松木の考えから出たもので、その計画通りになったものらしかった。松木は房子から、彼の夢の話と昔話とを聞き知って、一狂言仕組んで、差配に談判した。それにうかと差配はのせられてしまった。彼の素直な夢の話までが、却って反対の意味に役立つことになった。そして結局、怪談を内緒にするという条件で、家賃を向う六箇月の間多少減じて貰い、その上古井戸を掘り返して貰うということになったものらしかった。
 彼は時々庭に下りていって、埋められた黒い土が掘り出され運び去られるのを、不思議な気持で眺めやった。
 差配の老人も時々見廻って来た。
「あの円い石が井戸跡にのこっていたんですが……どうしたのでしょう。」
 云ってしまってから彼は、俄かにはっと気が咎めた。然し老人は、何にも気付かないらしく、庭の真中の石の方を見やって答えた。
「それもやはり、埋めていけない井戸を埋めたので、そんなことをしたものでしょうな。ですが、元通り掘ってしまえば、そんな石も必要がなくなるわけでして、へへへ、もう安心ですよ。……大体この、一度埋めたのをまた掘り返すというのは、法にないことだそうですが、初め埋めたのが悪いというので、却って法に戻すんだと云いましてな……。」
 井戸は前の差配の折、十年ばかり前に、古び廃れてるのを埋めたものだそうだった。
 そして新たに拵え直されたものは、昔通りの車井戸だった。
 掘り初める時にやって来たという神官が、再び白衣でやって来て、井戸に向って祈祷をした。榊の枝を飾った簡単な供物机を据え、御幣を打振って祈祷の文句を唱えながら、塩と神酒とを交る代る、幾度も井戸の中に振撒いた。
 いつもの通り陰欝な没表情な額をもってる、日焼けのした浅黒い松木の顔を、彼は遠くから睥みつけてやった。そして井戸には近寄らなかった。
 井戸はいろんなことに利用され初めた。ビールや西瓜や其他さまざまのものを吊して冷す、大きな笊が用意されたし、水は庭の撒水に使われた。松木は毎朝井戸水で顔を洗った。
 松木は昼間不意に帰ってきて、背中の汗を井戸水で拭いて、また何処へともなく飛び出してゆくことがあった。その姿を二階の縁側から認めると、彼は慌てて障子の影に隠れた。
 大きな楓の木影が、ちらちらと日光の斑点を交えて落ちてる、新らしい井戸端で、胴のでっぷりした足の短い、猿股一つの松木の身体が冷かな井戸水を含んだ手拭で、きゅっきゅっと拭かれてるのを、檜葉の植込越しに見ると、彼は云い知れぬ憤慨の念を覚えた。松木の脂ぎった汗が、楓の木影や新らしい井戸端を汚すもののように思えたばかりでなく、考えたくないいろんなことが、一時に頭へ上ってきた。
 然し彼はどうすることも出来なかった。松木の裸体を避けて、障子の影で一人憤慨した。
 ただ彼が多少心嬉しかったことには、光子は少しも井戸に近寄らないで、一人離れて考えこんでることが多かった。よく二階に上ってきて、彼の側に黙ってついていることがあった。彼はそうして彼女と二人で、話も遊びもしないで、ぼんやりしてることが好きになった。

      六

 光子は次第に痩せ細ってゆくようだった。殊に顔色が目立って蒼ざめ、額から頬へかけた皮膚が総毛立ったようになり、眼が黒ずんで変に光っていた。時折、動物園や植物園なんかに連れ出しても、余り喜ばなかった。
 彼は心配して、加減でも悪いのかと度々尋ねた。然し彼女は黙って頭を振るばかりだった。
「どこも何ともないわ。」
 しまいにそう云って、淡い微笑を浮べた。
 そういう光子の様子に、房子も心配し初めたらしかった。そして或る時、どうも光子が夜中によく起きるらしいと、不思議そうに彼へ話した。
 彼は驚いた。そしてなおよく尋ねたが、房子の話は更に要領を得なかった。夜中に、ひょいと布団の上に坐ることがあるけれど、それも夢中にするのらしく、またおとなしく寝てしまうのだと、ただそれだけのことだった。
「わたしがいくら聞いても、何とも云いませから、あなたから聞きただして頂けませんでしょうか。」
「そうですね……。」
 彼は曖昧な返辞をしたが、しきりに気掛りになってきた。然し光子にいくら聞いても、はっきりした答は得られなかった。
 ところが、雨のしとしと降る或る夕方、光子は彼を階下の縁側でふいにつかまえた。
「あたし恐いわ。」
「え、何が。」
「あすこが開いてるから。」
 彼女の指さす方を見ると縁側の、欄間の板に二三寸隙間が出来ていた。
「寝てると、夜中にあすこから、外が見えるの。」
 彼は初めてそれと悟って、房子から木片を探し出して貰って、欄間の隙間を塞いでやった。
「これでいいでしょう。」
「ええ。」
 首肯いた光子を、彼は二階に連れて行って、ゆっくりいろんなことを尋ね初めた。光子はぽつりぽつり話してきかした。やはり、夜中に変な夢をみるのだそうだった。
「何だか、井戸の辺から、真黒なものがやって来るようなの。」
 夢というのはそれきりらしかったが、その夢をみると、いつまでも眠れないそうだった。
「なぜお母さんにそう云わないんですか。」
「だって……。」
「そんな時には、お母さんを起すんですよ。」
「だって……叱られるんですもの。」
「叱られたことがあるんですか。」
「ええ、お父さんに。」
「どうして……。」
「あたし夢をみて、それから眠られなくなって、布団の上に坐ってると、お父さんがふいに起き上って、恐い目で睥みなすったの。夢をみて眠られないからって云うと、もう夢なんかみなくってもいいから、さっさっと寝ておしまいって……こんどからそんなことをすると、ひどい目に逢わしてやるって……。それであたしびっくりして、布団の中に頭からもぐりこんでしまったの。」
「お父さんがそんなことを云われたんですか。」
「ええ。だからあたし、いくら夢をみて眠られないでも、じっと我慢してるの。」
「どうしてまた、早く私に云わなかったんです。いくら聞いても隠してばかりいて……。これから何でも云うんですよ。」
「ええ。だって……。」
「なあに……。」
「お父さんが……。」
「何か仰言ったんですか。」
「ええ、あの、こないだ、お爺さんに云ったでしょう、恐い夢をみるって、嘘をついて……。あのことをあたしが云いつけたって、恐って[#「恐って」はママ]いらしたの。そして、これから片山さんに何か云いつけたら、ひどい目に逢わせるって……。」
「でも、私に饒舌ったと、お父さんに云ったんですか。」
「いいえ。」
「じゃあ、お母さんに……。」
「いいえ、誰にも云やしないわ。」
「それじゃあ、どうしてお父さんに分ったんだろう。私も云やしないし……。」
「何でも分るのよ。」
「え、なぜ。」
「なぜだか、何でも分るの。だからあたし、恐いわ。」
 光子は眼を据えて、縋りつくように彼の顔を見入ってきた。彼は唇をかみしめた。
「これから、何でも私が引受けてあげます、ね。みな打ち明けるんですよ。そして、お父さんに叱られるようなことがあったら、私のところへ逃げていらっしゃい。」
「そんなことをして……。」
「構やしません。あんなひどい……。」
 彼は変に不気味な気持と憤ろしい気持とを同時に感じた。
 それをじっと我慢して、いろいろ光子を慰めてやってから、階下に降りてゆくと、房子が茶の間で針仕事をしていた。その善良な鈍感な顔を見て、彼はいきなりきめつけてやった。
「光子さんはやはり、恐い夢をみて夜眠れないんです。それを今迄放っとくなんて、余りひどいじゃありませんか。」
「まあー、夢をみて眠れないのですって……。」
「そうです。それもあなた達が、差配をだますために、嘘を本当のように云わせようとしたからです。」
 房子は彼の激しい調子に、きょとんとした顔付で呟いた。
「わたしは止めたんですが、宅が強いて云うものですから……。」
「松木さんがどんなことを云われようと、あなたは母親じゃありませんか。あくまでも庇ってやるのが本当です。」
「ですけれど……。」
「一体あなたは、余り人が善すぎるからいけないんです。松木さんがどんな考え方をして、どんなことをされてるか、あなたは御存じないのですか。」
「あの通り、何にも聞かしてはくれませんので……。」
「聞こうともなさらないんでしょう。」
「聞いたところが、わたしには何にも分りませんし、男の仕事に女が口を出すものではないと云われますと……。」
「よくそれであなたは、不安じゃないんですね。」
「わたし、こんな性分なものですから……。」
「それでも、光子さんが可愛くはないんですか。」
「ええ、それはもう……。」
「じゃあ、せめて光子さんのことだけなりと、もっとしっかりなさらなくっちゃ……。」
「自分でもそう思いますけれど……。」
「現に光子さんがどんな気持でいるか、お分りですか。」
「だからあなたに……。」
「聞いて貰うと仰言るんですか、自分の娘のことを……。」
 そんな風に、彼は房子を云いこめてるうちに次第に気持が白けてしまって、口を噤んだ。馬鹿馬鹿しいのか腹が立つのか、自分でも分らなかった。そこへ暫くしてから、房子はふいに云った。
「わたしはもう、長年のことで、諦めておりますの。」
 溜息と共に彼女がふいに涙ぐんだので、彼は茫然としてしまった。

      七

 何という変な人達ばかりの集まりだろう、と彼は考えた。そしてその考えはいつも、松木に対する憤りに落ちていった。
 然し彼は、松木に対してだけは、面と向うと、少しも物が云えなかった。庭の穴を掘り返してみた時以来、彼は碌々松木と話をしたこともなかった。そして影でただじりじりするだけだった。
 松木は[#「 松木は」は底本では「松木は」]相変らず千三せんみつの仕事に、一日中馳け廻ってるらしかった。夜帰ってくると、茶の間でいつまでも煙草を吹かしたり、奥の座敷で書類と睥めっこをしたりして、家族の者とも余り口を利かずに黙っていた。
 彼も時々それと対抗するような気で、蚊に刺されるのを我慢しいしい、階下の茶の間にじっと坐ってることがあった。
 意識の全部が松木の方へねじ向けられて、じりじり苛ら立っていった。
 二十万とか五十万とか、いつも十万のつく金額ばかりを口にしてる松木、困ってくると細君の着物まで質に持って行く松木、十二三歳の自分の娘に危い狂言をさしてまで、差配を瞞着してしまった松木、細君を頭から押し伏せて、馬鹿みたいになしてしまってる松木、娘をおどかしつけて、始終恐れおののかしてる松木、碌に誰とも口を利かないで、而も何でもよく分るという松木、その松木全体の存在が、彼には堪え難いもののように思えてきた。
 日に焼けた浅黒い、いつも陰欝な没表情な額、さほどの年令でもないのに、ぽつぽつ白いのの見える五分刈の荒い頭髪、時によって妙に濁ったり鋭く光ったりする眼、頑丈そうな歯並と固い唇、太い頸筋、長い胴体、短い足、どこと云って異常な点はないが、見れば見るほど憎々しいその身体全体が、彼には堪え難かった。
 それが、そこに、電燈の光の下に、蟇蛙ひきがえるのようにのっそりと構えこんでいた。存在することだけで既に罪悪のようだった。
 馬鹿馬鹿しいと思いながらも、彼はやはりその方へばかり意識が向いていった。手を動かし足を動かし、一寸身動きをすることまで、一々相手に反射するような気持だった。じっと我慢をしていると、額から脂汗がにじみ出てきそうだった。
 何か機会があったら、一寸したきっかけがあったら、ぶつかっていってやろうと思う、その思いだけで、自分はどんなことを仕出来すか分らないという恐怖が湧いた。
 房子も光子も隅の方にすくんでいた。
 その房子を松木は※(「臣+頁」、第4水準2-92-25)でさし招いて、昼間から井戸に冷しておいた西瓜を切らした。そしてそれを彼へも勧めた。
「一寸腹工合を悪くしてますから。」
 やっとのことで彼はそれだけ云って、黙って西瓜をかじってる松木の前から逃げるように、二階の室へ上ってしまった。そして初めて安らかに息がつけた。
 俺は一体何をしてるんだ、と自分で自分に云ってみても、松木の前に出ると、彼はどうにも出来なかった。
 松木が家にいると、なぜか光子までが、二階にやってくるのに足音を忍ばしていた。そして彼のところへ来て、ほっと息をつくらしかった。
「やっぱり夢をみるんですか。」
「ええ時々よ。」
「じゃあ、私がいいものを借してあげましょう。これを枕頭に置いて寝ると、悪い夢なんかちっとも見ないんです。いいですか、そう思いこんで、ぐっすり眠るんですよ。」
 今迄躊躇していたが、彼は思いきって、一尺足らずの小さな短刀を取出して渡した。
「あら、これ刀ね。」
「ええ。」
 気味悪そうに膝の前に置いて眺めてるのを、彼はしいて手に持たしてやった。
「枕頭に置いて寝ると、決して悪い夢なんかみないんですよ。」
「だって、見付るわ。」
「構やしません。私がむりに持たしたんだと、そう云ってごらんなさい。」
「叱られやしないかしら。」
「叱られたら、逃げていらっしゃい。私が云い訳をしてあげるから。」
「そう、屹度ね。」
「ええ。大丈夫。」
 どんなことになったって構うものか、彼は変にびくびくしてる自分の胸に、自分で云いきかしてやった。

      八

 光子は悪夢をみることがないようになった。俄に元気に活溌になっていった。
「もう夢をみないでしょう。」
「ええ。」
「よく眠れますか。」
「ええ。よく眠られるわ。」
 にこにこして彼の顔を見ていた。
「じゃ、もうあの刀はいいでしょう。」
 光子は頭を振った。
「え、どうして……。あんなものをいつまでも持ってるものじゃありません。」
「だって、また夢をみると困るから。」
「その時はまた借してあげます。」
「いやよ、あれ、あたしに頂戴ね。」
「あんなものをどうするんです。」
「大事にしまっとくの。」
「そんなことをすると、本当に叱られますよ。」
「大丈夫。誰も知らないから。」
「でも、枕頭に置いて寝たんでしょう。」
「いいえ。」
「ではどうしたんです。」
「誰にも分らないように、あたし、抱いて寝たの。」
「え、刀を抱いて寝たんですか。」
「ええ、毎晩抱いて寝て、朝になるとそっとしまっといたの。」[#「しまっといたの。」」は底本では「しまっといたの」]
「どこに。」
「そこの、三畳の、あなたの押入の中に。」
 嬉しそうな笑顔をして、眼をぱちぱちやってみせた。
「そんなことをしたので、私が刀のことをきいても黙ってたんですね。」
 うそうそ笑いながら、ふいに彼の首へ飛びついて来た。
「ねえ、あれあたしに頂戴ね。」
「上げてもいいけれど……。」
「下さるの。嬉しい。」
 彼の首をきゅーっと抱きしめて、それからひょいと飛びのいて、縁側の手摺を力一杯に揺っていた。
 母親に似た顔立で、円いくるくるとした輪廓だったが、母親よりも口元が引緊って、まつげの長い[#「まつげの長い」は底本では「睫の長まつげい」]眼が澄んで光っていた。耳の根本に小さな黒子があった。
「あら、ここから見ると、あの井戸は綺麗ね。」
 いつもよく見てるくせに、初めて見るもののように、眼を見張った。
「あれからお化が出るんですよ。」
 彼は初め冗談を云ってみた。
「いやーだ。」
「だって出たでしょう。」
「嘘、嘘。」
 彼のところへ飛んで来て口を押えた。
「あたし、これから勉強するの。分らないところ教えて頂戴、ね。」
「ええ。」
 そんなことから、光子は始終二階にやって来るようになった。そして呼ばれるまでは降りていかなかった。どうかすると、呼ばれてもなかなか立上ろうとしなかった。
「叱られやしませんか。」
「いいのよ。構やしないわ」
 快活になると共に、母親を馬鹿にするような素振を見せ出した。ばかりでなく、父親をも軽んじ初めたようだった。
 彼は不思議な気持で、その様子を見守っていた。
 松木は帰って来て光子が見えないと、階下から大きな声で呼び立てた。
「そら。」
 皮肉な笑顔をして光子は降りていったが、夜になるとまた、松木が茶の間に控えている前も平気で、二階の方にやって来ることがあった。
「あたし、お父さんと喧嘩してやったの。」
「お父さんと……。」
 彼は驚いて、彼女の得意げな顔を見つめた。
「ええ。だってひどいんですもの。二階に上っちゃいけないと云ったり、二階に上りっきりで降りてきちゃいけないと云ったり……。あたし口惜しいから、井戸に飛びこんでやるって、庭に駆け出してみせたの。」
「なんでまたそんな喧嘩をしたんです。」
「分らないわ。お前のような親不孝者はないって、拳骨を振上げなすったから、あたし井戸のところまで駆けていってやったの。」
 彼は別に気にもかけずに聞き流したが、光子が時々井戸に飛び込むと云って駆け出すことがあるのを、房子から聞いて喫驚した。
「何か気に入らないことがあると、じきにそうなんです。本当に飛び込みもしますまいけれど、それでも心配になりましてね。」
 房子は大事な秘密をでも洩すもののように、声をひそめていた。
 ところが、或る晩、本当に騒ぎがもち上った。
 十時過ぎのことだった。突然、階下で大きな人声と物音とが起った。それから一寸ひっそりしたかと思うと、庭の方に慌しい足音がした。
 彼はぎくりとして、駆け降りていった。
 奥の座敷の真中に、松木がつっ立っていた。眼をぎろぎろさして、顔色を変えていた。
「どうしたんです。」
 咄嗟に彼はそう尋ねかけたが、松木は返辞をしなかった。そして、雨戸を一杯繰り開いて、庭へ下りていった。彼も後から続いた。
 房子が、庭の中をあちらこちら物色していた。
「どうなすったんです。」
「只今、光子が、井戸に飛びこむって、裏口から駆けだしましてね……。」
 後は云わないで、そこらをうろうろし初めた。
 月の光りもなく、庭の中は真暗だった。座敷からさしてる電燈の光が、雨戸一枚だけの広さにぱっと、植込みの茂みに流れかかっていた。
 井戸の中を覗いて見ても、茂みの中を透し見ても、光子の影らしいものは見当らなかった。
 初めの慌てた気持が静まってくると、三人はぼんやり庭の中につっ立った。
「馬鹿な、すぐ井戸の中に飛び込むものか。」
 突然響いた松木の腹立たしい声が、彼の頭にぶつかった。彼はかっとなった。
「そんな……そんなことを云ってる場合じゃありません。」
 暗闇の中で、二人は顔をつき合してつっ立った。一秒……二秒……すぎた。彼はぶるぶると震えた。
「ふん、余り逆上のぼせきって、図々しいにも程がある。」
 云いすてて松木は、くるりと背を向けて、座敷の方へ歩き出した。
 彼は石のように固くなった。声が出なかった。拳を握りしめてつっ立っていた。
 その袖を、房子が捉えた。
「あなた、どうか……。宅は今気が立ってるところですから……。」
 彼女のおどおどした様子に、彼は夢からさめたように我に返った。
「もう何にも仰言らないで……。それより光子の方が……。」
 然し彼の頭は、俄にはっきりしてきて、松木から投げつけられた言葉が、胸一杯になっていた。
 黙って足を返して、松木と反対に裏口の方からはいろうとすると、その板敷の上に小さな足跡が、黒い泥跡を残していた。彼は立止ってぼんやりそれを眺めた。
 後からついて来た房子も、殆んど同時に足跡に気付いた。
「あ、これです、屹度。家にはいったのでしょう。」
 彼は咄嗟に直覚した。いきなり駆け出して、二階に上ってみると、そこの三畳の方の隅に、光子は小さくなっていた。
 彼は惘然とつっ立った。その膝頭へ、光子はふいに泣き出して取縋ってきた。
 そこへ房子もやって来た。
「まあ! お前は。」
 後は言葉がなかった。
 彼はがくりとそこに屈んで光子の頭を撫でてやった。
 房子が光子をなだめすかして、無理に階下へ連れてゆくまで、彼は一言も口を利かなかった。一人になると、押入を開いてみた。奥の方に、短刀は隠されたままになっていた。
 彼はほっと息をして、六畳の方へ戻って、机の上に両肱をつき、頭をかかえた。
 松木から真正面に投げつけられた言葉が、次第にはっきりした意味をとってきた。彼は自分と光子との間柄を考え廻して、自ら驚いて顔を挙げた。
 真暗な夜の空に、星が粗らに光っていた。
 下宿を変ろう。そう思いついて、まだ決心したともしないとも分らないうちに、眼の中が熱く涙ぐんできた。そしてまた机の上に頭をかかえた。

      九

 からりと晴れた初秋の麗かな朝日が、縁側一杯に当っていた。彼はそこに全身を投げ出して、今後の処置を思い煩っていた。
 昨夜のことはけろりと忘れはてたような、晴れやかな顔をして、光子がとんとんと階段を上って来た。が、彼女はすぐに彼の顔色を見てとって、一寸立止った。その立姿が、すっと伸びて、まだ更に伸び上ろうとしてるかのようだった。
「光子さん。」
 そう彼は呼びかけながら、半身を起した。
「なあに。」
 じっと見つめると、その敏感な眼付と耳の根本の黒子とが、今迄気付かなかった大人びた魅惑を持っていた。
「私は一寸都合があって、よそへ越すかも知れませんが……。」
「え、なぜ。」
「なぜでも……。」
 眼の光だけが機敏に働いて、其他は全く子供らしく、ひょいと彼の肩につかまってきた。
「いや、越しちゃいや。あたしいやよ。」
「そんな、むちゃを云ったって……。」
「いいえ、いやよ。あたし一人になってしまうんですもの。……お越しなさるなら、あたしもついていくわ。」
「ついて来てどうするんです。」
「だって、あたし困るわ。一人っきりで……。」
「お父さんやお母さんがいるじゃありませんか。」
「いたって、やっぱり一人っきりよ。」
「そんなむちゃな……。」
「いいえ、いやよ、どうしたっていやよ。」
 光子は彼の肩を揺ぶり初めた。
「いいわ、そんならあたし、本当に井戸に飛びこんじまうから。」
「そして二階の三畳に隠れるんでしょう。」
「ええ、そうよ。」
 急に真剣な語気になって、彼女は眼をぎらぎら光らしてきた。
「どうしたんです。」
 彼女は黙っていた。
「怒ったんですか。」
「もういいわ、あたし、本当に飛び込んじまうから。」
 眉根をぴりぴり動かしてるその様子を、彼は胸にぎくりと受けた。危いというよりも、何だかえたいの知れないものが彼女のうちに渦巻いてるようだった。彼女は一心に思いつめたように黙っていた。
「あのね、いろいろ考えたけれど、どうしてもここの家にいては悪いような気がするんです。そんなこと、今に分るようになります。ねえ、越したって時々遊びに来るから、いいでしょう。」
「いやよ。」
 きっぱり云ってのけて、彼女はまた黙りこんでしまった。
「じゃあ、どうすればいいんです。」
「家にいるの、いつまでもいるのよ。」
 彼は吐息をついた。どうにも仕方がなかった。と暫くして、光子はふいに泣声になった。
「いやよ、どうしたっていや。ねえ、あたし、悪いことがあったら謝るわ。御免なさい。もう井戸に飛び込むなんて云わないわ。」
「だって、お父さんが何か云ったでしょう。」
「ええ、ひどいことを云ったのよ。だからあたし、机を放り出して駆け出してやったの。」
「どんなことを云われたんです。」
「あたし達があんまり仲がよすぎるって、そして……夫婦気取りでいるって……。」
「え、そんなことを云われたんですか。」
「ええ。あたし、腹が立ってむちゃくちゃになったけれど……もう平気だわ。お父さんなんか何と云おうと、構やしないわ。」
 何の恥らいの色もなく、じいっと見入ってきたその素純な眼付の前に、彼は次第に顔を伏せてしまった。と、頭の中がぱっと明るくなった。
「そうだ……越すのは止しましょう。」
 彼女はにっこりして、首肯いてみせた。
「私は馬鹿なことを考えていたんです。」
「何のこと。」
 見入ってくる彼女を引寄せて、その額にそっと唇を押しあてた。彼女はじっとしていた。
「どんなことがあっても平気でいましょう。」
「ええ、あたし平気だわ。」
 彼は晴れ晴れとした朝日の光を見やりながら、両手の拳を握りしめた。
 けれど、光子が階下に降りてゆくと、彼はまた不安な焦燥に駆られ初めた。光子が一緒にいる間は、平然とした晴れやかな気持だったが、一人きりになると、凡てが陰欝に曇ってきた。
 彼は室の中をぐるぐる歩き廻りながら、我を忘れかけることが多かった。

      十

 彼は騒ぎの夜以来、松木とは一言も言葉を交えなかった。顔を合せることさえ出来るだけ避けた。房子とも余り口を利かなかった。房子の方も変に黙っていた。
 松木は昼間時々帰ってきては、やはり庭の井戸端で背中の汗を拭うことがあった。汗深いため残暑になやんでるらしかった。
 そういう松木の姿を見ることが、彼には一番堪え難かった。見まいとしても、二階からすぐに見下せた。彼はわざと障子を閉め切って、反対の隅の方に寝そべった。それでも、車井戸の音ははっきり聞えてきた。
 俺は何でこんなに焦燥してるんだ、と自ら尋ねかけても、はっきりした答は得られなかった。
 松木が光子の父であることがいけないのか……大悪人でも善人でもなく、ただ小策ばかりの没感情的や凡人であることがいけないのか……いや、彼の存在そのものが彼には堪え難かった。
 そういう憎しみはどこから来るか分らないものだった。口論をしたり殴合いをしたりした後の憎しみならば、まだどうとでもなるが、面と向っては口が利けない根本的の憎悪は、どうにも出来なかった。
 先夜、庭の暗がりで向き合った時、心のどこかに殺意が動きかけたことを、彼は後になってはっきり思い出した。気持が欝積してくると、今にも何かが破裂するかも知れないような気がした。夜分、松木が階下の室に控えていたり、同じ屋根の下に眠っていたりするのへ、意識が働きかけてゆくと、彼はじっとしておれない衝動を感じた。
 そういう危い気持から遁れるために、彼はしきりと光子を求めた。何だかヒステリックなそして晴れやかなものを持ってる光子に、彼は次第に深く囚えられていった。恋愛でもなく、憐憫でもなく、訳の分らない感情だった。
「お父さんを好きですか。」
「嫌いよ。」
「お母さんは。」
「好きでも嫌いでもないわ。」
 そして眼をきらきらとさせる光子を、彼は膝の上に抱いてやった。
「私がどこかへ行こうと云えば、どこへでもついて来ますか。」
「ええ、いくわ。」
「どんなところへでも。」
「ええ。」
 二人で遠くへ逃げ出すのが唯一の途かも知れない、などと彼は考えた。然しまた、松木に対する訳の分らない憎悪の念が、却って彼を家の中に引止めた。
 松木が生きてる以上は……と彼は歯をくいしばった。
 そして彼が自分一人の気持に悶えているうちに、光子は急に病気になって、寝ついてしまった。
 快活に晴れやかにしてたところに、俄の病気なので、皆喫驚した。何の病気とも分らなかった。内部にはどこも故障はないと医者は云った。神経のせいかも知れないそうだった。
 食慾がなく、元気がなく、頭を重く枕につけて、大きな眼をぱっちり見開いていた。どこが苦しいかと聞いても、どこも何ともないと答えた。精力がつきたようになりながら、少しも眠らないで眼を見開いていた。眼瞼を閉すことがあっても、ふいに大きく見開くのだった。
「元気を出さなきゃいけません。しっかりするんです。私がついててあげるから。」
 彼がそう云うと、彼女は弱々しい笑みを浮べて、枕の上で大きく首肯いてみせた。
 そして彼が一寸でも坐を立つと、すぐにまた呼び寄せた。
「ついてて、ねえ。」
 然し別に話はしたがらなかった。何を云っても簡単な返辞をするきりで、黙って時々微笑むのだった。彼は書物を持ってきて、彼女の近くに寝そべりながら読んだ。
 房子は呑気に構えこんで、光子のことは彼に任せきりだった。彼は腹立たしく思ったが、口に出しては云わなかった。
 二三日目から、松木がひどく不安げに沈み込んで、外へも余り出なくなった。初めは、彼が座敷にいる間は茶の間の方に避けていたが、やがては黙ってはいり込んできて、彼と遠い隅の方に坐って、煙草を吹かしたり書類を見たりしだした。然し絶えず光子の方に気をとられてることは、その様子で明かだった。
 それが彼には最もひどい苦痛だった。光子は父親が来ると眼をじろりとさしたが、それからすぐに、全く無関心な様子に返っていった。然し彼が出て行って暫くやって来ないと、すぐ呼びたてた。彼は息をつめながら、松木が控えている室にはいって来なければならなかった。そしていくら我慢をしても、松木の存在の方へ次第に意識がねじ向けられていった。じりじりと汗がにじみ出すような気持だった。どうしてそう松木の存在が気になるか、どうしてそう憎まずにはいられないか、自分でも分らなかった。余り苦しくなると、彼はわざと光子の方へ寄っていって、話をしようとしたが光子は口を利くのを喜ばない風だった。時々見せる微笑も次第に消えて、天井ばかり見つめていて、それから眼瞼を閉じた。暫くたつと、大きな露わな眼で、彼の方をじっと眺めていた。彼が見返すと、微笑らしい影を頬に浮べた。
 光子のために松木の存在なんか無視してやれ、とそう彼は心の中で誓った。然しやがてまた、じりじりと気持が欝積してきて、どんなことになるか分らなくなった。光子と親子だということが、堪えがたい圧迫となってきた。
 彼は光子の手を握ってやって、表面に光の浮いた大きな奥深い眼を覗きこんで、その中に自分の心を溺らそうとした。
 光子の容態は、良いとも悪いともつかず、何等の変化も見せなかった。同じような昼と夜とが続いた。
 五日目頃から、光子の顔は急に輝いたり曇ったりし初めた。長く笑顔を続けてるかと思うと、また涙ぐんでいたりした。
 彼は心配しだした。夜遅くまでついていた。他に名医を迎えたらどうかと、房子に云ってもみた。
「いや、気力が出て来たのだ。心配のことはない。」
 眉根を曇らしている房子へ、松木は平然と云った。それを聞くと彼はかっとなった。
「然し何だか……。手後れになっても構わないんですか。」
「大丈夫です。」
 彼は坐り直して、松木の方へ向き返った。松木もじっと彼の方を見ていた。そして二人は長い間対坐していた。彼は息苦しくなって、我を忘れかけようとしてはまたはっとした。しまいには何もかもぼんやりしてしまった。眼に一杯涙が出ていた。
「片山さん。」
 呼びかけられて彼は顔を挙げた。松木が震える手に厚紙を持って、彼につきつけていた。
「光子は大丈夫です。よくなったら、あなたがどこかへ転地にでもお連れなすって下さい。私とはどうも、あなたも光子も性分が合わないようです。これをあなたへお預けしておきますから……。」
 松木の顔は、醜くどす黒く艶が失せて、眼ばかりぎょろりと光っていた。差出されたのは郵便貯金通帳で、光子の名前で千円近くになっていた。
 彼は喉がつまって言葉が出なかった。振向くと、光子はきょとんとした眼付で、不思議そうに二人の様子を見ていた。
 彼は坐に堪らなくなって、貯金通帳を松木に投げつけながら、庭に出ていった。泣きたいのか笑いたいのか分らない、もやもやっとした茫とした気持で、気が遠くなりそうだった。井戸のところへ行って、水を汲み上げて、頭にぶっかけてやった。





底本:「豊島与志雄著作集 第二巻(小説2[#「2」はローマ数字、1-13-22])」未来社
   1965(昭和40)年12月15日第1刷発行
初出:「中央公論」
   1925(大正14)年10月
入力:tatsuki
校正:門田裕志、小林繁雄
2008年10月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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●表記について