不肖の兄

豊島与志雄




 敏子
 なぜ泣くんだ。何も泣くことはありゃしない。嬉しいのか、悲しいのか……いや兎に角、こんな時に泣く奴があるものか。
 僕も悪かった。がそりゃあ、皆が云う通りの不肖の兄、そういう僕なんだから、おかしな理屈だが、まあ名前に免じて許してくれよ。
 僕は知らなかったんだ、お前と浜地との間を……あの翌朝まで。薄々は分ってたようにも後では思えるが、全く、翌朝初めて母から聞いてはっきり分ったのだった。
 可笑しな朝だったよ。
 さすがに僕だって、前夜のことがぼんやり気にかかって、ぼんやりしてるだけにちょっと弱らされた。それで、十一時頃まで寝床の中に愚図ついていて、起き上るとすぐに、酒を飲むと云い出してみた。
「え、お酒。」
 言葉と一緒に息をつめて、さも呆れ返ったように母が見つめてきたので、僕は一寸首をすくめたが、すぐに眉根をしかめてごまかしてやった。
「ええ。何だか頭痛がするようだから、少しでいいんです。一本……つねや、」と僕は女中を呼んだ、「つねや、大急ぎ、一本お燗をするんだよ。」
「まあ、お前はほんとに……。昨晩ゆうべあれほど飲んでおいて、その上まだ飲むつもりなんですか。」
「だから、一寸、すこうし……変に頭が痛くって……本当ですよ。」
 そんなことが信じられるものですか、というような母の顔付だったが、それでも機嫌はさほど悪そうでもなかった。うまくいった、と僕は思った。
 ところが、朝食の膳に向って、一人でちびちび、苦い味を我慢して飲み初めると、母は飯櫃おひつの横に控えて、じっと僕の方を見守ってきた。
「お前は一体、どういう気なんです。浜地さんと敏子との話に、賛成だなんて云っておきながら、昨晩はあんなに浜地さんのことを……それも、お前のお友達じゃありませんか。まるで酔払いの悪体みたいに……。そして今日はまた、お午近くまでも寝ていて、やっと起き上ったかと思えば、またお酒……。家は茶屋小屋じゃありませんよ。それとも、酒の上でなければ云えないような、何か不満なことがあるなら、はっきり云ってごらんなさい。浜地さんのことについて、何か腑に落ちないことがあったら……。今のうちなら、どうにでもなるんですから……。そりゃあ浜地さんのことはお前が一番よく知ってるのだから、はっきり理由の立つことなら、わたし達も無理に話を進めようとするのではありませんよ。だけど、昨晩のような、嘘だか本当だか分らない、まるで酔払いの寝言みたいんじゃあ、取り上げるわけにはいきませんからね。」
 そんな風に云われると、僕はもう参ってしまった。母の気持は変に真剣に動いていた。初め僕は、兄との喧嘩の方ばかりを気にしていたが、母はそんなことはけろりと忘れたかのように、浜地のことばかりを、真面目に考えてるらしかった。
 僕は頭をこつこつ叩きながら云った。
「酔払ってたんですよ、昨晩は……。何だかでたらめに饒舌ってるうちになお酔払ってきて……。」そこで僕はちゃんと坐り直した。「いえ、賛成です。浜地と敏子との話には大賛成ですよ。」
「だって、お前は昨晩、何と云いました。」
「さあ、何といったか……だがもういいんです。僕は良縁だと思っています。」
 そうした僕の云い方が、母をなお不安にならしたらしい。母は何かを見窮めようとするような眼付で、僕の顔をなおまじまじと見入ってきた。
 そのため、僕は碌に酒も喉に通らなかった。

 敏子
 僕はお前と浜地との結婚に反対じゃなかった。どちらかと云えば賛成の方だった。ひどく冷淡な云い方だけれど、それ以上は僕には云えない。
 それをどうして僕があの晩、浜地の悪口を云い出したかと云えば、実は兄に対する憤懣からだった。
 お前も知ってる通り、僕は兄を余り好かない。兄も僕を好かないらしい。僕達二人は性情や嗜好まで随分違っている。
 その二人が、遇然一緒に家で飯を食うことになった。兄が結婚して別居してからは、そういうことが稀だったので、僕は母に御馳走さしてやった。というのは口実で、久しぶりに家で酔ってもみたかったからさ。
 そして初のうちはうまくいった。ところが、次第に、お前が静子さんと出かけた後のことだが、僕の気持は妙に苛らついてきた。
 兄はだいぶ辛棒して僕の相手をしてたらしかったが、三四本目の銚子から、先に飯を食い初めた。その時話は自然に、お前と浜地との結婚問題に落ちていった。
「だがお母さん、」と兄は笑いながら云ったものだ、「浜地君もこんな酒飲の親友を持ってるようじゃあ、余り信用もおけませんね。」
「でもね、」と母も笑いながら云った、「こんなお友達があってもしっかりしてるところは、尚更豪いじゃありませんか。」
 そういう会話を僕は聞き流して、一人で杯を重ねていた。母が吟味してるだけに家の酒はうまかった。酔心地がよかった。そしてつい不調法にも、小唄を口ずさみかけた。だって、いい気持になったんだから仕方がないじゃないか。
 それを兄が聞き咎めたのが初まりで、また例の廻りくどい意見になってきた。が僕は知らん顔をしてやった。それがまた兄の気持を害したらしい。
「つまらないものを二つ三つ書きだして、それで芸術家だと納まり返って、ぐうたらな日を送って、羨ましい身分だね。」
「羨ましけりゃあ、あんなちっぽけな会社なんか止しちゃって、兄さんも芸術家になったら……。」
 兄も少し酔っていた。が僕もだいぶ酔っていた。
「こないだ、お前が書いたものを読まされて、実に恥しい思いをしたよ。そら、何とかいう題の、淫売婦かなんか出てくる小説さ。僕の会社に、あの雑誌を持ってる男がいて、あなたの弟さんだそうですが実に上手だ、とそう云って僕に読ませるんだ。読んでみて僕は恥しくて、真赤になった。下らないじゃないか。あんなものはもう書くなよ。もっと高尚な、思想的に深みのある、立派なものは出来ないのかね。だから云わないことじゃない、薄汚い女を相手に酒ばかり飲んでるようじゃあ、結局駄目にきまってる。芸術家になるつもりならそのように、先ず品行から……その、生活から立て直さなくちゃいけない。」
 兄は食意地が張っていた。いい加減酔ってるくせに、皿のものをみな平らげ、鍋のものを盛につっつき、そして四五杯も飯を食った。その下歯の、犬歯の前に一本、黒い齲歯むしばがあった。歯医者にでもかかったらよさそうなものを、どういうのか、小さくいじけた黒いままに、いつまでも放ってあった。それが、物を食う拍子に、小言を云う拍子に、ちょいちょい覗き出して、僕の気持にさわってきた。
「実際お前のような者には、浜地君は友人として過ぎ者だ。」
「そうかなあ、僕はまた、浜地には僕が過ぎ者だと思っていたんだが……。」
「なにを自惚れてるんだ。」
「じゃあ浜地は僕よりどこが優れてるんだろう。」
「優れてるさ、人格が……。お前みたいに汚れてやしない。」
「汚れてないって……笑わせるなあ。兄さんには見えないんだ。これでも、精神的には僕の方が汚れてやしないぞ。」
 僕の云い方が悪かったか知れないが、それを兄は取り上げて、二三度云い合ってるうちに、友人を誣いるのは怪しからん、誣いるのでなければ証明してみろ、と嵩にかかってつっ込んできた。その時の兄の高慢な顔が、黒い齲歯や図太い食慾と一緒に、おかしな云い方だけれど、それが自分の兄であるから猶更、僕は癪に障ってきた。
「そりゃあ、証明しろというなら、してもみせるが、どうせ兄さんには分りゃしないよ。お母さんになら分るかな。ねえ、お母さん、分る……分るんでしょう。」
 杯を手にして、お臀でくるりと向き直ると、母は苦々しげに笑っていた。僕は愉快だった。
「ねえお母さん、素裸になってみりゃあ、誰だって清浄な者あいやあしない。例えば浜地だって、あんなに君子然と澄し込んでるが、一皮剥いでみりゃあ、ねえお母さん……。」
 母がもじもじしてるのを見て、僕は饒舌り散らすのが面白くなった。僕は母が好きなんだ。
 そこで僕はこういう話をした。
 或る時彼が、夕食後散歩に出た。薄暗い裏通りを歩いてると、夏のことで、向うの二階の、窓に簾をかけた室の中が、電燈の光に透して見える。その窓際の、机かなんかに、二人の若い女が坐って、せっせと書き物をしていた。往来から見えるのは、肩から上の横顔ばかりだった。それが却って風情だった。彼は何気ない風をして、そこの通りを幾度も往き来した。散歩の帰りにもまた通って見た。
 それから、翌日も、そのまた翌日も、彼はその辺を歩き廻った。簾をかけた二階の窓の中には、いつも二人の女が、せっせと書き物をしていた。何を書いてるのか、往来からは分らなかった。家も相当に立派で、素人下宿とも見えなかった。
 そして彼には、夜の散歩が一つの楽しみとなった。窓の女の髪形から横顔の恰好を、すっかり覚え込んだ。さほど綺麗じゃないが、現代式の理知的な、女学生とも職業婦人ともつかない様子だった。いろんな空想が彼の頭に描かれた。
 それが可なりの間続いた。そして、十月の初めに暴風雨が襲った。その暴風雨の後、彼女達の窓には、簾が取払われて障子が閉切られた。障子にはやはり明々と電燈の光がさしていたが、彼女達の横顔はもう見られなくなった。それで彼も、その薄暗い通りの散歩を止してしまった。
「どうです、」と僕は云った、「それでも彼は精神的に汚れていませんかね。」
 母は腑に落ちないような顔付をした。
「下らない。」と兄が横合から口を出した。「お前の小説と同じだ。馬鹿げた作り話だ。」
「それじゃあ、ねえお母さん、こんなのはどうです。」
 或る時彼は寄席に行った。落語の間に娘手踊があった。まずい顔に白粉をぬりたくった娘達が、ぱっとした派手な着物を着て、真赤な長襦袢の裾をちらつかせながら、舞台一杯にもつれ合った。彼は喫驚したようにそれを見ていたが、後でこう云った、「あんなのはつまらない。第一下劣でいかんよ。」「どうです、」と僕は母に云った、「それでも彼は……その精神的に……ねえお母さん。」
「そりゃあね、お前さんと違って、浜地さんには、娘手踊なんか面白くないでしょうよ。」
 意味がよく母に通じないのが、僕には却って愉快だった。
「なるほどな……お母さんは善良だ。それじゃあ、もっと面白い話がありますぜ。……だが、こう冷えてしまっちゃあ……。」
 僕は銚子を熱くして貰いながら、また話し出したものだ。或る時彼は浅草に活動写真を見に行った。金曜日の替り目で、館内はぎっしり込んでいた。その時、彼の隣に、美しく着飾った令嬢風の娘がいた。それが、変に彼の方へ身を寄せてくる。そして写真の代り目になると、プログラムを失くしたから借してくれと云って、それをきっかけに、何かと小声で耳元にちょいちょい話しかけてくる。彼は例の内気さから、初めは用心していたが、次第に引込まれて、一寸手を触れ合うようになった。それに自分で気がついた時は、もう終演際はねぎわだった。さすがに彼も気味悪くなって、先に出てしまおうとした。すると、相手の令嬢も後からついて来た。そして何とはなしに、二人で連れ立って、あの池の縁から観音堂の方へぬけようとすると、そこの暗がりから、三人の不良少年が飛び出して来て、いきなり短刀をつきつけた。俺達が預かってる大事な令嬢を、何で誘惑しようとするんだと、声は低いが図太く脅かしつける。女は平気で笑っていた。彼はもう一縮みになってしまった。
「そうして、」と僕は云った、「まあ何ですね、有り金そっくり巻き上げられるか、叩きのめされるか、傷をつけられるか、何れただではすまない。」
「まあー、浜地さんが、そんな目にお逢いなすったんですか。」
 だが、それは実は、浜地の話じゃなかった。僕が或る不良少年から聞いた話なんだ。
「いや、浜地も、今にそんな目に逢いそうな男ですぜ。それと云うのも、何だっけな、精神的に汚れてるから……ねえお母さん……。」
「止せよ。いい加減にしないか。」
 食後の茶を飲みながら、煙草を吹かしていた兄は、本当に腹を立てたらしかった。
「止せと云うなあ、降参したしるしだな。へん、どーだい。」
「何だ、そのざまは。」
 戦勝のしるしとして、なみなみとついだ杯を高く差上げ拍子に、手元が狂って膝にだらだらとこぼれた。その残りを一息に吸って、坐り直した。
「これで、証明がついたろう。」
「何の証明だ。」
「何の……ははあ、逃げ仕度か。卑怯だなあ。ほら、キリストが何とか云ったよ、女を見て心を動かす者は……ってな。ねえ、お母さん、お母さんは知ってるだろう。これを知らない者は……主ばかり……。」
 いい気になったところを、兄からぱっと杯を叩き落された。
「何を。」
 拳を固めて気張ってみたが、立てかけた膝がよろよろっとした。そこへ一つ、手首をぴしゃりとやられて、へたばりかけたとたんに、箸を取って投げつけてやった。
「馬鹿、馬鹿……やーいだ。」
 ねじ伏せられたのが、変に手柔かなので、ひょいとはね起きてみると、母から押えられてるのだった。
「何をするんです。お前さんは……兄さんに向って……。さあお謝りなさい。謝らないと、わたしが承知しませんよ。酔払って、ここをどこだと思うんです。」
 母の言葉はやさしく僕の耳に響いた。僕は本当に酔払った気がした。母の前で酔払ったのは全く久しぶりなんだ。
「ええ、謝るよ、いくらだって。僕は本当にお母さんが好きだ。お母さんくらいいい人は……好きな人は、天下広しと雖もか……ねえお母さん。」
 ふらりふらりと舟をでもこぐような調子に、僕はお辞儀をしてみせた。そのためか、頭の酔がかき廻されて、意識がぼんやりしていった。
 それから僕は、餉台のふちにしがみつきながら、兄のしつっこい悪罵と叱責とを、下手な音楽をでも聞くような風に聞いていた。その太い言葉を、母の細い嘆声が伴奏していた。と、伴奏の方が突然はっきり浮き出してきた。
「ほんとに、この子は誰に似たんでしょう。」
 僕はふっと頭を挙げた。
「そりゃあ、分ってるさ。父親に似たんだ。僕の知らない、誰も知らない、天の父親にか……ねえお母さん。」
 その酔った時の口癖の、ねえお母さんがいけなかったらしい。突然、母の顔が馬鹿に大きくなってつめ寄ってきた。僕はぞっとして、そこにつっ伏して泣き出した……いや、本当に泣いたかどうか覚えていないが、泣き出した気持だった。何だかもうすっかりぼやけてしまっていた。そして結局、むちゃくちゃに失言を釈明して、それから、床の中に逐いやられたものらしい。

 敏子
 こんな話をすると、お前は妙な疑を起すかも知れない。然し僕は何も、自分だけがお前達と違った父親の子であるなどと、そんな馬鹿げた空想を逞うしたことはないのだ。亡くなった父に対しても、それから殊には母に対しても、そんな冒涜な考えは毛頭懐いてやしない。亡父や兄に似寄りの点を自分の顔貌かおかたちの中に見出して、どうかすると悲観することはあってもね……。
 ただ僕は、心の上で、魂の上で、父や兄とは違った種族のような気がするのだ。何だかこう、天涯の孤客といったような気持なんだ。非常に自由で晴々としているが、また淋しい。そんな時僕は、自分の魂の父親、そういったものを想像する。空なものかも知れないけれど、またすぐどこかその辺に、自然の中に、空低くに、はっきり存在してるようにも思われる。そして僕はその父に対して、強い愛を感じている。
 お前が知ってる通り、僕は母を大変愛している。ところが、どうかした心の持ちようで、もっと漠然とした然しもっと深い、第二の母の存在を想う時さえある。だから、父が亡くなって長年になる今、第二の父の存在を想うのも不思議ではないのだ。何という不幸な子だ。これで母もなくなって、幾年かたったならば、僕はもう生みの父母のことは忘れてしまって、別な広い父性や母性をばかり、自分の魂の父や母をばかり、想像したり思慕したりすることだろう。
 然しまた、そのために、僕はどれだけ自由に伸び伸びと生きてゆけることか。
 然しこんなことは、お前にはよく分るまいから、これ以上云うのは止そう。だが、そんな気持だから生活が放埓になるのだと云わるれば、僕は一言もない。但し自分では放埓だとも思ってやしないがね。
 それからもう一つ、僕はお前に詫びなければならないことがある。お前は、僕が故意に浜地を誹謗したと思って、嫌な気がするだろう。それはもっともだ。僕の云い方が悪かったのだ。僕はあんな云い方をして、浜地を傷つけるつもりでは少しもなかった。男の心って、それほど潔白なものではないということを、兄に向って云いたかったのだ。僕が時々遊里に足を向けるからと云って、僕をさも汚れた者のように取扱い、風呂にも先に入れないで、而も冗談にもせよ口に出してまでそれを云う、そうした兄に対する反感から、たとえ身体は汚れていようとも、心は潔白だということを、間接に主張して見るつもりだった。それが、反感や酒の酔が手伝って、妙な風にこじれてしまった。浜地のことなんか実はどうでもよかったのだ。
 だから、翌朝になって、母から浜地のことだけを切り離して尋ねられると、僕は実際弱ってしまった。あれは兄をやっけるために浜地をだしに使ったんだとは、まさか云えないものだからね。
「わたしは、お前の昨夜の様子では、この話に反対だとしか思えませんよ。だからさ、反対なら反対でいいんですから、どういうところが不服なのか、はっきり云ってごらんなさいよ。」
 母はいやに落付払っていた。僕は少々面倒くさくなった。
「じゃあ、きっぱり云いましょう。僕は反対じゃありません、賛成です。」
 母は僕の顔をやはりじっと見ていた。
「それに違いなければ安心ですがね……。」そして母は一寸頬をゆるめた。「だけどよく考えてごらんなさい。この話にはお前が一番肝心な人なんですよ。浜地さんは親しいお友達、敏子は妹、その二人の一生のことですからね……。」
 母は僕の立場を重く見ていてくれることは、その場合僕には却って有難迷惑だった。だから僕は、話を早く切り上げるために、少し余計な口を利く必要を感じた。
「一体その話はどの辺まで進んでるんです。」
「どの辺までって、ただ、加藤さんからそういう話があっただけなんですよ。そして、わたしも兄さんも、浜地さんならよかろうと思ってるんですがね……。」
「そして、敏子はどうなんです。」
「承知のようですよ。」
「浜地は。」
「勿論承知でしょうよ。浜地さんの家から加藤さんへお話があったらしいんですから。」
「それじゃ文句はないじゃありませんか。本人同士がよければ、何にも云うことはない。僕も賛成です。何でしょう、もう浜地と敏とは愛し合ってるんでしょうね。」
「ええ……。」
 おや、と僕は思った。母は何か知ってるんだな、というより、何かあったんだな、そう僕は母の様子から感じた。変に言葉尻を濁して、僕の顔色を窺ってるのだ。僕は少しうっかりしてたかも知れない。然し、浜地は僕の親友であり、お前は僕の妹であるが、そのお前達二人の間を監視するほど、僕の頭は暇じゃなかった。僕はただお前達二人が仲のよいことだけを知って喜んでいた。或は愛し合うようなことになるかも知れないと、ふと思ってみたこともあるにはあるが、結婚なんてことは僕の考えの範囲外だった。
 母の様子から一寸変な暗示を受けて、僕は俄に追求し初めた。敏子は本当に浜地を愛してるのか、浜地は本当に敏子を愛してるのか、そして二人の愛は深いものなのか、その証拠が何かあるか……。
 母は自分が過でも犯したもののように、視線を落して低い声で云った。
「キスしたことがあるそうですよ。」

 敏子
 お前も馬鹿だね。それならそうと、なぜ早く僕に云わないんだ。勿論僕は何にも尋ねやしなかったし、お前から進んで話せもしなかったろうが、然し、母に打明けたくらいなら、僕にだってすぐ打明けていいじゃないか。お前は僕の平常を知りつくしてるから、僕に笑われるかも知れないと思ったろうが、いくら僕だって、処女の恋愛を否定しやしないさ。母がどんな風にお前を問いつめていったか、それを思うと嫌な気がする。――恥しい想像を許してくれよ。――だが、僕だって母を問いつめていった。汚らわしい好奇心の仕業なんだ。
 然し、好奇心ばかりじゃなかった。
 僕は、前夜のことは酒の上の冗談だと云い、縁談に賛成の旨を説いて、母を漸く安心さしたが、その後で非常に淋しくなった。長年一緒に育ってきて、幼時の親しみをまでそのまま持ち続けてる兄が、妹の婚約する折に感ずる一種の愛惜と寂寥、そういった気持はお前も認めてくれるだろうね。
 だが、そればかりでもなかった。
 僕が「幼き愛」という変な詩を書いて見せた時のことを、お前は覚えているだろう。あの時お前は僕の様子を不思議がったね。だがこれで分ったろう。僕は一体、詩を書くといつもお前に見せていた。
 それは女の感受性に敬意を表するからだ、と云えば立派だが、実は自分の詩についての自信がなかったからさ。それだもの、「幼き愛」などというあんな成心あって拵えた詩なんか、何の価値もありゃしない。それをお前はほめてくれた。いつも僕の詩を無遠慮にやっつけるお前が、いい詩だと云ってほめてくれた。僕はお前の顔色や眼付を窺いながら、ははん……と思った。それから、なおも一度読み返して、考えてる風をしてると、お前はこう云ったね。
「兄さん、それは誰との思い出なの。」
「馬鹿な。」
 僕は思わず口走って、それから詩の原稿を引裂いてしまった。
「あら。」
 その時のお前の、喫驚した顔ったらなかったよ。だが瞬間に、お前の黒い睫毛は、眼の色に現われた感情を隠してしまった。
 西洋の誰かが、こんな意味のことを云っている。――昔の野蛮人は、占領した都市に、処女性のない潔白な女を残していったが、吾が文明は、潔白さのない処女を拵え出した。
 なぜこんな文句をここに引出してきたか、お前にはこじつけとしか思えないだろうが、まあ黙って先を聞いてくれよ。
 その晩……全く静かな安らかな晩だったね。夕食後、母とお前と僕と三人で茶の間に集って、電燈の光のまわりに黙って坐ってたじゃないか。
「いやに静かな晩だなあ。」
 余りしんみりしてきたので、僕は少し気がさして何気なく云ってみた。
 すると、意外にも、母はほっと溜息をついた。が言葉はやさしかった。
「ええ、お前が真面目でさえいてくれれば、いつもこうなんですがねえ……。これからは少し落付いてくれなければ困りますよ。」
「落付きますとも、今夜からこの通りに……。」
 その時お前は傍で微笑していたね。その幸福そうな微笑を見て、僕は……全く気まぐれなんだが……ユーゴーの詩を読んで聞かしてやった。ランプの光のまわりに一家団楽しているところや、妻や子が主人の帰りを待ちわびてるところや、楽しい夕食の光景や、そういうつつましやかな家庭の幸福をね。それから最後に、あのコペーの詩さ。主人は朝から晩まで板をけずってる、日曜日に金使いもしない、二人の子供は鉋屑の中で遊んでる、お上さんは家の入口で、貯金の胸算用をしながら編物をしてる、一家安隠で商売繁昌だ。そういう風に僕はごまかして読んでいったが、実は、あれは柩造りの詩なんだ。次の疫病流行を夢想して、収入を空想するところまであるんだ。皮肉じゃないか。
 僕も皮肉だった。心とうらはらな芝居をうっていた。心では、兄の家庭……と云うより寧ろ、兄の家庭で代表されるそうした家庭のことを考えていた。主人は朝から夕方まで勤めに出て、こつこつ機械的に働いてくる。細君は赤ん坊を守りしながら、家の中に閉じ籠ってる。そして粗末な夕食の膳、疲れきった無言の宵、それから薄ら寒い睡眠。それが文字通りに十年一日の如く連続する。一生の間。そして最後に、僅かな貯金と死。
 勿論そんなことは、一口には云えない。そのつつましやかな生活のうちに、掘り下げてみれば、どんな幸福が隠れてるか分ったものではない。
 だが、俺は……。いいかい、この「俺は」がここでは大切なんだ。前に云ったろう、第二の父や母を空想したり感じたりする僕は……俺は……なんだよ。
 その俺は、兄のような家庭がまた一つ生れようとしてるのを、お前の微笑のうちに見て取った。浜地は兄と相通ずる性格なんだ。彼は毎日勤勉に学校へ出かけるだろう。お前は忠実に家庭を守るだろう。そして、同じような日々のうちから、僅かな月給の余蓄と赤ん坊……。
 もう云うのを止そう。お前の心に暗い影を投げてはいけないから。
 で兎に角、本当のところを云えば、浜地とお前との結婚に、僕は賛成でも不賛成でもなかったまでだ。もっとどうにかした生き方はないものかと、そうお前のために希望しながらも、また一方から云えば、浜地との結婚は最も安全な途かも知れないとも思った。
 が俺は……。いいかね、また俺は……なんだ。俺はお前を自分と同じ世界のものに、いつまでもしておきたかった。せめてお前だけは、拘束のない広々とした境地に置きたかった。それなのに、なぜ浜地と愛し合うようなことをしたんだ。つまらない。結婚は一種の束縛だ。……とそんな風に僕は感じて、それでもやはり憚られて、卑怯な真似をして自らごまかしていた。
 その時、ほら、裏口をことこと誰か叩くような音がしたろう。僕はなぜだかぞーっとして竦んでしまった。
「え。」
 声には出さないがそういった呼気で、母は半ば耳を傾け半ば僕の顔色を窺った。
「なあに……どうしたの。」
 平気な声で、お前は不思議そうに僕と母との顔を見比べている。――幸福を夢みてる者は恐れは感じないそうだ。
「何でもないんだろう、犬か猫かなんだろう。」
 そう云ったのが自分でも何だか変で、僕は火鉢の縁にかじりついた。
「おう寒い。」
「そう。褞袍どてらをあげましょうか。」
「いえ……なに……。」
「じゃあ、何ですね、お前はまた、お酒でもほしいんでしょう。」
「いいえ、今日は……。僕が酒を飲むと、一家の平和を害する、そう悟っちゃったから……。」
「そんな、皮肉を云うものがありますかね。珍らしく今日はいらないと云うかと思うと、すぐお前はそれだからね。」
 母の眼は、駄々っ子でも見るような眼付だった。そういう母を僕は好きなんだ。それを、よく知ってる筈のお前は、僕に向って意見めいたことを云ったね。
「兄さんも、お酒が好きなら好きでいいけれど、外で飲むのはお止しなさいよ。家でならいくら飲んだって……誰も何とも云やしないわ。だから早く……。」
「何が……。」
「早くどうにか……。」
「早く……何が早くなんだい。」
「どうにかして……。ねえ、お母さん。」
 母がにっこり首肯いたのはよかった。僕はふふんといった気持で煙草を吹かした。そしてお前を追求するのは止めた。あの場合お前の口から、早く結婚でもせよとはっきり云わせることは、余り思いやりのない仕打なんだからね。お前と母とが、影で僕のことをどんな風に話し合ったか、それは僕の知ったことじゃない。
 だが、実際、いやに寒い静かな晩だったね。僕は胸がむずむずしてくるのを、しいて蝸牛かたつむりのように自分の殼の中だけに引込んでいたかった。そしてふと思いついて、炬燵を拵えようと云い出した。母とお前が取合わないのを、むりに押し切って炬燵を拵えさした。それから、果物を買って来て貰って、お初は父の仏壇へなどと云って笑われた。だが、馬鹿な、誰が仏様なんかを信ずるものか。そして炬燵の中がぽかぽかしてくると、とうとうやはり、ビールに※[#「魚+昜」、488-下-12]さ。お影でつねやが一番忙しい目をみた。
 そうして、炬燵の中でビールを飲みながら、取留めもない話をしながら、僕はむりに涙を押え止めていた。何故ともなく、すぐにも泣き出しそうな気持だった。だが、心の中では、別なことを考えていたんだ。こんなちっぽけな家庭なんか吹き飛んじまえ、こんな惨めな幸福なんか、こんな古ぼけた天井なんか、みんな吹き飛んじまえ、青々とした大空が現われてこい……とね。それからまた、お前に向って、俺は今夜お前の通夜をしてやるんだ……とね。
 お前は呆れ返るだろう。僕だって自分に呆れてる。だからこう大急ぎに話を進めているんだ。
 ただ、一つ、僕はビールのコップを差上げながら云った。
「ビールの泡と接吻とは同じようなものさ。唇に残ったかと思えばすぐに消えてしまう。」
 するとお前は、恥ずかしがる代りに怒り出したね。母も険しい眼付をした。
「なあに、僕は子供のことを云ってるんだよ。子供は誰にだって接吻させる。大人にそれが出来ないのは、心が汚れてるからさ。」
「じゃあ兄さんは子供なのね。芸者にだって誰にだって接吻させるんだから。」
「そうさ、心はいつまでも子供、それを置いてきぼりにして、身体だけが大人になったものだから、弱ってるんだ。ああつまらない。実につまらない。」
 わざと大きく溜息をしてみせた合間に、母は真顔で云った。
「もうお止しなさい、そんな話は。」
 僕ははっとして、真顔になった。がお前はまだ怒っていたね……仲直りのしるしに僕と握手をして、※[#「魚+昜」、489-上-14]をしゃぶって、それからあの、禿頭の子供の話かなんかで笑い出すまでは。

 敏子
 その一晩を、僕は台なしにしてしまったような気がするのだ。ああいう事情の下にあったああいう静かな晩は、そう滅多にあるものじゃない。それを僕は何という気持で過してしまったのだろう。またお前だって……。
 僕と一緒に海で飛びはねたお前じゃないか。音楽を聴きながら一緒に涙ぐんだお前じゃないか。僕の詩をいつもさんざんやっつけたお前じゃないか。母には話せないような芸者の話を僕がするのを、口を尖らして聞いた後で、だから兄さんは汚らわしいと云いながら晴々と笑ってたお前じゃないか。もっと卒直にあの晩を過せなかったのかね……。そりゃあ僕も、卒直じゃなかった。だけど本当は、お前と一緒に、朗かに笑いたかったし、しみじみと泣きたかったのだ。
 考えてみると、僕はあの晩を毒したばかりではなく、家の中の空気全体をも毒してたかも知れないし、お前の心をも毒してたかも知れない。僕は何という毒虫なんだ。
 然し、それもこれも、何の罪であるかは、ただ知る者ぞ知るさ。加藤さんへ向って、母が愈々承諾の返事をすることになった時、僕はやっと重荷を下したような気がした。変梃な心理だ。そして、ほっと息がつけるその気持から、一寸旅をした。
 少し急な書き物があるから旅をする、とそう僕は母にもお前にも云った。体裁にだけ原稿用紙を持って出た。が仕事なんかありゃあしなかったんだ。……そして、三日目に僕は帰って来た。
 その間に、僕が何をしてきたかと思うかね。これからそれを聞かしてあげよう。
 家を出ると、あの通り、晴れやかな小春日和だったろう。僕はその大空を仰いで、いいなあ……と心に叫んだものだ。そして、停車場へ行くのを止めて、照代の家へ行ってみようと思った。
 お前は恋するなら恋するがいい、ちっぽけな家庭を構えたけりゃあ構えるがいい。だがこの俺は、そんななかに巻きこまれてたまるものか。自由なそして心は潔白な彷徨を続けてみせるぞ。日の光が美しく輝いてるじゃないか。
 まあ云わばそんな風な気持から、籠を出た小鳥のように勝手な真似がしてみたくなった。で友人のところに原稿用紙を捨てて、少しぶらついて時間をつぶして、それから照代の家へ行ってみた。

 敏子
 僕が照代の家にまで遊びに行くからといって、旦那気取りで澄しこんでるとか、或は二人の間が――心のつながりが――おかしいとか、そんなことを考えちゃいけない。僕はただ、お座敷で彼女に逢うよりも、彼女の家に五分間も黙って坐りこんでる方がよっぽど面白いんだ。お互に素面なんだからね。何でもない一寸したことから、そんな風になってしまったんだ。
 ところが、その日は大変な目に逢っちゃった。
 もう電気がきてたから、五時頃かと思うが照代はまだ髪を結いかけてるところだった。肩に白布をあててその上に梳きかけの髪を乱したまま、入口まで立ってきた。
「まあー、」それから一寸睥む真似をして、「今日を幾日だと思ってるの。」
「幾日……何のことだい、そいつあ。」
「あら、もう忘れたの。そら……稲毛……。」
「ああ、そんなこともあったっけ。なるほど、君は頭がいいよ、物を忘れない。」
「あれだ。」
 というのは、実は何かの話のついでに、こんどの日曜に――日曜が笑わせるよ――日曜あたりに、稲毛へ遊びに行こうと、そんなでたらめな約束をしていた。その日曜をもう十日余りも通りこしていた。
 室へ通って、彼女が改めて挨拶するのに応じた時、隣りの室に寝てる女の顔が、開いた襖の間から、黒ずんだ畳と赤い布団とその白い襟との中に、仄白く浮出して見えた。
「どうしたんだい。」
「美代ちゃんよ。病気なの。」
 見ると、美代子はすやすや眠ってるらしかった。裾の方で、ばあやさんが火鉢で何か煮立てていた。
「悪いのかい。」
「お午頃から急になんですけれど、大丈夫よ。……待ってて頂戴。今髪をあげてしまうから。」
 長火鉢の前で、僕は煙草を吸い初めた。その煙草が一本終らないうちに、美代子は突然うーむと苦しみ初めた。照代は飛んでいった。
「仰向いちゃ駄目……つっ伏すのよ……そう……いいかい……。」
 呻り声の間に痛い痛いと訴える美代子を、照代とばあやさんとは上からのしかかって、腰のあたりを力一杯押えつけた。
「ねえさん、注射を頼んでよ、後生だから……。おう痛い……痛いよう……。」
「我慢だよ、一寸の間なんだから……。注射はもういけないって、先生が仰言ったでしょう。」
 痛みが少し鎮まると、美代子は金盥にしがみついていた。
「無理に吐こうとしちゃいけないよ。注射のせいだよ。何も出やしないんだから。」
 そしてるうちに美代子は、もうぐったりして眼を閉じていた。
「蒟蒻を取り代えてみましょうか、煮立ってるから。」とばあやさんが云った。
「そう。いいでしょう、こんど起きた時で。」
 そして照代はまた鏡台の前に戻ってきた。
 梳手が髪を梳いてる間、お師匠さんは手焙で煙管をはたはたやっていた。
「苦しそうですねえ。」
「ええ、そりゃあ苦しいんですって。喇叭管がひきつけるから、腰と下腹がちぎれて取れそうだって云いますよ。お産の時と同じだそうですもの。」
「へえー、そうですかねえ。」
 僕は一人で茶をいれて飲んでいた。
「それじゃあ、痙攣かい。」
「ええ。」
「では、唐辛子をはるといいんだよ。」
「あら、いやーね、そりゃあ胃痙攣のことよ。」
 照代はそれでも学者だった。先生は蒟蒻で温めるように云ったけれど、氷で冷しきった方がいい、それも人によるんだけれど、などと云っていた。
 僕はいい加減のところで立上りかけた。
「じゃあお大事に……。僕は帰るから。」
「いやよ。駄目……。待ってるのよ。」
 ねえーと云った調子で、鏡の横から、出来るだけ大きく見開いた露わな眼で、彼女は僕の眼に見入ってきた。それに自然とうなずいて、僕はまた腰を据えた。
 美代子の痙攣は度々起った。照代はその度に立っていった。僕はそこの長火鉢と箪笥との間に、メリンスの座布団を二枚並べて小さく寝そべった。ばあさんが掻巻かいまきを着せてくれた。そして、木目の飛出した天井板や、ごてごて飾り立てられた真赤に見える神棚や、お師匠さんの手に渡ってる照代の長い髪や、どこからかの電話や、美代子の痙攣や、赤っぽい電燈の光や、そんなものを断片的に意識しながら、出来るだけ縮こまってると、いつのまにかうとうとと眠ったのだった。
 眼を覚すと、長火鉢の向うから、照代がにこにこ笑っていた。丸髷に結っていた。
「どう、似合って。」
 僕はただ不思議な気持で見守った。
「いいのよ。今晩はどうせお座敷に出られやしないんだから。それで、気が変っちゃって、こんな風にしてみたの。」
 艶やかな鬢をかしげて見せた時、僕は急に左手を打振ってどたんどたんとやった。
「痛い……おう痛い……。」
「しびれ。まあ大袈裟に、美代ちゃんより辛棒がないのね。」
 彼女が笑ったので、いやその拍子に気付いたのだが、隣の室から、皆が僕の方を見ていた。見馴れない丸髷の年増と、お座敷着をきた照次と、それから美代子までが、ぽーっと上気した細面の顔を枕につけて、無心の眼付でこちらを見ていた。そして皆一度に、いらっしゃいと挨拶したような風だった。
 僕はすっかりてれてしまって、坐り直して眼をこすった。それから火鉢越しに乗り出して声をひそめた。
「誰、あの人。」
「知らないの。おっかさんよ。そら、あたしが元一緒にいた……。」
「ああ……。」
「ね、どっかへいきましょうか。……連れてって頂戴。」
「だって……。」
「いきましょうよ、ね。」
 そして彼女はまた、こんどは近々と、一杯見開いた露わな眼で見入ってきた。
「だってさ……病人があるのに……。そんな薄情な人は知らないよ。」
「いいわよ……ね、いきましょう。おっかさんと美代ちゃんが、いいと云ったら、いいでしょう。」
 だが、その時また、美代子は痙攣を起した。照代は飛んでいった。
「お味噌の灸を[#「灸を」は底本では「炙を」]すえると、じきになおってしまうんだがね。」
 おっかさんはそんなことを云って、痛みの去った美代子に向って、熱くも何ともないからと説き勤めた。ばあやさんが小皿に漉味噌を持って来た。おっかさんはそれで、昔の二銭銅貨くらいの平ったい団子を拵え、それからもぐさをまるめて小指の先くらいのものを幾つも拵えた。
「これをお臍の上にすえるんだよ。お味噌が熱くなるまで辛棒するんだよ。」
 僕は襖を閉め切った。
 味噌灸が[#「味噌灸が」は底本では「味噌炙が」]初まった。が途中で、美代子は泣き出した。
「いやよ、もうそんなものはいや。痛い……うーむ……痛いわ……冷くって。」
 皆でそれを押えつけて、それからひっそりとなった。
 暫くたった。ぱっと襖が開いた。照代がつっ立っていた。
「何をぼんやりしてるの。」
 ちらと見ると、おっかさんは味噌の団子と艾の団子とを両手に持っていた。僕は不意に可笑しくなった。
「そりゃあ冷いでしょうな。お臍の上に味噌をのっけては。」
「ですからね、」とおっかさんは真顔だった、「熱くなるまで辛棒すれば、じきになおるんですがね。」
「だって、お臍の上に味噌じゃあ……。」
 照次がくくと笑い出したのが初りで、照代も僕も一緒に笑い出した。おっかさんだけは真顔を崩さなかった。その光景を、いつのまにかうっとり眼を開いて、美代子がぼんやり眺めていた。
 照代はもう箪笥から、着物だの帯だのをやたらに取出していた。
「一寸……届けといたの。」とおっかさんが尋ねた。
「ええ。」
「あたし、留守してるわ。」と美代子が云った。
「ええ。おみやげを持ってきてあげるわ。」
 そして、僕は照代とそこを出た。
 タクシーの中で、照代はこんなことを云った。
「昨夜夜通しお酒の相手をして、それで冷えたのよ。寝てりゃじきになおるわ。あの通り元気ですもの。先刻だって髪をあげるって起き上ったくらいだから。そして、これで寝ついたら、ねえさん、あたしまた借金がふえるわって、そう云うのよ。可哀そうね。」
「うむ。」
 僕は気乗りのしない返事をした。ちらちらと見える街路の灯が美しかった。
 僕達は浅草に行って、何か食べて、活動か芝居を見るつもりだった。
「どこにしましょう。」
「どこでもいいや。君の行くところに黙ってついていくよ。」
「そうね、今日はあたしの云う通りよ。」
 そんな風で、タクシーは千束町の四辻で止まった。そして僕達は、きゃしゃな二階家の並んでる狭い石畳の路次をはいっていった。遠くのそんな家を照代が識ってるのが、僕には意外だった。

 敏子
 これから先は、僕も少し話しかねる。またよく覚えてもいない。で、簡単に云えば、僕達はそこの二階で、料理を取寄せて酒を飲んだ。僕も彼女も酔っていった。そしてはしゃぎ出して、それがいつのまにか、彼女の悪口になった。美代子が病気で苦しんでるのに、外に出て酒を飲むなんて怪しからん、と僕は彼女をなじり初めた。全く不人情な奴だ、と彼女も彼女自身を罵った……半分本気に。そして二人で何やかやと、彼女の悪口を云った。そうしたことが、僕にも彼女にも快かったらしい。悪口の対象はもう彼女ではなかった。誰でもよかったのだ。そして、その後でふっと淋しくなって、黙りこんで、他の室に移った。許してくれ……とこう云うのは、お前に向ってじゃない。いや、誰に向ってでもないんだ。
 その家から出たのは十一時頃だった。途中で小間物店に寄って、おみやげを買った。おっかさんや照次や彼女自身のものは、みなしるしばかりの一寸した品だったが、美代子にだけはちゃんとした物を揃えた。彼女は美代子の半襟や鹿子の柄の見立に熱心だった。
 彼女が送ってきてくれというのを、僕は頑として断った。
「あなたは、ほんとにやんちゃね。」
「ああ、やんちゃだよ。」
 そして僕達は距てのない微笑を交わした。
 彼女はおみやげと幾許かの金を持って、タクシーで帰っていった。
 吾妻橋のほとりは寒かった。風はなかったが、それでも寒い空気が川の方から流れよってきた。
 何という清楚な感じだ。これじゃ駄目だ。もっともっともぐってやれ。
 僕は北の方の一廓に向った。殆んど不案内な土地だったけれど、電車でいって後は歩いた。そして、奥の方の小路を、小店を小店をと物色して廻った。
「へえ、旦那、如何で……もう十二時近くですから、半夜のところで、御都合でどうにも……へえ、二両半、他には一切頂きません。」
「そいつあ有難い、今夜は観音堂の縁の下で寝るのかと思った。」
「へへへ、御冗談……。」
 僕はふらふらと梯子段を上っていった。そしてその晩は、北に窓が一つあるきりの何にもない長方形の室で、一人で眠った。
「君はいいからどっかへ行ってこい。ただ、風邪をひかないように布団だけは沢山頼むぜ。」
 山出しの女中と云った恰好の女は、布団を余計に一枚持ってきて着せてくれた。
 財産がなくなって、自分の腕で稼がなければならなくなっても、俺は力強く働いて見せる、とそんなことを、僕は懐中無一文の気で考えていた。
 そして翌朝九時頃までぐっすり寝込んで、それからそこを飛出して、稲毛へ行った。
 照代のことで、僕の懐中は実際淋しくなっていた。翌日のことが心細かった。で、午飯をぬきにして、晩に酒を一本だけつけて貰った。
 そこの旅館の、丘の松林の中にある離屋を、お前はよく知ってるね。季節外れのこと故、静かすぎるほどだった。その一室で、僕は時々遠く海に眼をやるきりで、死んだ者のようになって半日を過した。風呂にはいって頭まですっかり洗い清めて、善良な女中を相手に淋しい夕食をして、あたりに客もないひっそりした離屋の、朱塗りの餉台の[#「餉台の」は底本では「飴台の」]上に両肱をついて、僕はぼんやり昨日からのことを、前々からのことを、思い起していた。そして、うっかりすると照代と一緒に来る筈だったことを考えて、淋しい微笑が頬に上った。
 羽の長い蚊が一匹、十一月の末というのにまだ生き残って、餉台のふちを力無く這いまわっていた。そいつがひょいと飛び上っておいて、僕の鼻の先にとまった。
 僕は一寸苦笑したが、それから変に可笑しくなった。

 敏子
 こう話してくると、お前にも大体は分るだろう。僕はいくら自分の心にちゃんと聞いてみても、惨めだとか汚らわしいとか自責の念とか、そういったものを少しも感じなかったのだ。それも普通の道徳的な外面的の意味でじゃない。心の直接の裁きに於てなんだ。そのくせ、お前も知ってる通り、僕は本質的な道楽者でもない。
 こいつあおかしい、俺の本体は何だ、とそう僕は独語したもんだ。そしてぼんやり考えた、何もかもみな相対的なんだ、事実そのものも、人の心も、感情も思想も、人事はみな相対的なんだ。絶対的なものなんか何もありゃあしない……とね。だから、拘泥しちゃいけない、きすぎちゃあいけない……。
 幼稚だね。だが分るかい。いやよく分るまい。僕自身にだってよくは分らないんだからね。
 珍らしく早めに起き上って、縁側の日向にぼんやりしていると、松の影が薄すらと匐ってる庭に、大きな濃い影がぱっぱっと飛んだ。おや、と思って眼を挙げると、鳩が二三羽松の梢に戯れていた。
 冷やかではあるがしみじみとした朝日の光だった。丘の裾から遠く霞んでる沖合まで、海は湖水のように凪いで鈍く光っていた。処々に繋ぎとめられてる小舟が、如何にも静かだった。
 その景色を胸深く吸いこんで、僕は東京に帰って来た。
 お前は驚いたようだったね、僕が余り早く旅から帰って来たので、そして帰るとすぐに、母に金をねだり初めたので……。
 母は僕の顔ばかり見ていた。
「旅費が足りなかったんです。」と僕は云った。「だけど、お母さんのところに無けりゃいいですよ。僕が稼ぐから……。なあに働きさいすりゃあ……。それより、お腹が空いちゃった。御飯を食べさして下さい。」
 そして、飯を食いながら、母が用で立っていった間に、僕は云った。
「稲毛に連れてってやろうか。」
「だって、」とお前はちっとも乗ってこなかった、「兄さんは行って来たばかりじゃないの。」
「それがね、実は、照代って女と一緒に行くつもりだったんだ。が、どうも……。だからその代りに、お前を連れてってやろう。」
「いやよ、そんな……。」
「だけどお前は、どうせそのうちには、ちっちゃな家庭のちっちゃな花嫁として、浜地と一緒に行くようなことになるんだろう。だからその前に一度、僕が連れてってやろうか。」
 お前はみな聞かないうちに、真赤になって俯向いてしまったね。僕は微笑したよ、ずるい微笑だったかも知れないが……。
 実際、稲毛に行くことなんかは、全くでたらめの話さ。こんどの日曜日にっていうやつさ。
 だけど、これで根性は確かなつもりなんだ。食後、座敷の縁側の日向で新聞を読んでると、お前は用もないのにやって来て、庭の方を見るふりしてじっと坐っていたね。後のために何か意見でもするつもりかしら、とそう思ったものだから、僕はわざと知らん顔をしてやった。が余り長くお前が黙っているので、ふと顔を挙げると、お前は眼に一杯涙ぐんでいる。そのお前の顔の、黒い睫毛と細い鼻筋とが、如何にも淋しかった。
「何を涙ぐんでるんだい。」と僕は云った。「心配しないでもいいよ。僕はひどくコスモポリタンだけれど、心の据えどころは知ってるからね。」
 するとお前は、神経質に頭を振りながら、本当に泣き出してしまった。僕はぐっとつまった。
「いいよ、分ってるから。……そんなことじゃない。だけど……真昼間泣く奴があるものか。笑った方がいいよ。」
 それは僕の本音なんだ。泣くことなんかありゃしない。馬鹿だねえ。





底本:「豊島与志雄著作集 第二巻(小説2[#「2」はローマ数字、1-13-22])」未来社
   1965(昭和40)年12月15日第1刷発行
初出:「改造」
   1925(大正14)年12月
入力:tatsuki
校正:門田裕志、小林繁雄
2008年10月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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●表記について