操守

豊島与志雄




     一

 吉乃よしのは、いつものんきで明るかった。だから或る男たちは、彼女をつまらないと云った。のんきで明るいだけなら、人形と同じだ。人形を相手に遊ぶのは、子供か老人――ロマンチックな初心者か、すれっからしの不能者か……。だが普通の者にとっては、酒の後では、煙草の味が一層うまいように、何かしら、賑かさが、淋しさが、色っぽさが、あくどさが、媚が、邪慳が、或は……兎に角刺戟が、嬉しいものだ。そこを吉乃は、明るくにこついているばかりで、技巧を弄することもなく、あけっぱなしでのんきで、別に面白そうでもなく、また不愉快そうでもない。だから相手も、面白くもなく、不愉快でもない。それでいて、彼女は相当に流行妓うれっこだった。
 宿酔ふつかよいの頭の中は、霧の夜の風景だ。奇怪な形象が、宙に浮んで、変幻出没して、朧ろな光が、その間に交錯する。ひどく瞬間的で、その瞬間の各々が、永遠の相を帯びている。然し永遠の相は、霧の中に没し去って、その重みのため、瞬間が引歪められ、引歪められ……遂には、空々漠々となる。佗びしい倦怠。平凡なもの、なごやかなもの、眠たげなものが、ぼんやり覘き出す……。記憶の底に、思いがけなく、一種のはがいさで、吉乃の姿が……。
 すらりと背の高い、その肌の綺麗なのが特長で、ほそ面の十人並の顔立……。気持よく伸びてる首、無意味に高い鼻、しまりのない唇から洩れる金歯の光、わりに不活溌な、でも物怖じせぬ眼付、それに綺麗な肌を以てして、彼女は、余りにのんきすぎるか、智恵がまわりかねるか、そういったおおまかさを具えていた。湯にはいるのが楽しみらしく、それも肌をみがくではなく、勝手に湯加減をぬるくしておいて、ぼんやりと、長々と、いつまでもつかっていた。「吉乃さんの長湯」といって、大抵の者は知っている。然しその不精らしさにも似ず、彼女は決して顔には湯を使わなかった。入浴の時も、厳寒の朝も、必ず冷水で顔を洗った。誰かに聞いたのか、或は婦人雑誌ででも読んだのか、湯は顔の皮膚を害する、殊に白粉の顔の皮膚を害する、というのを信じていた。そして、「顔は表看板だから……。」
 それが、おかみさんを微笑ました。
「……気質きだても素直だし、顔もよい方だし、肌も綺麗だし、旦那の一人や二人、出来ない筈はないんだが……。まったく、看板みたいなだ、どこか、足りないんじゃないかしら……。」
 相当な流行妓なのに、失礼な言葉だ。がそれよりも、三四人も妓を抱えているおかみさんとしては、余りに目先の利かない言葉だ。ありようは、彼女の勤めぶりを見ればすぐに分ることだった。彼女は、好意の感情を超越してるらしかった。親疎の感情を超越してるらしかった。云わば、最も公平に商売をした。ひらのお座敷でも、または……。
 意地とか張りとか侠気とか、長く培われた伝統は、公平であってはいけないと教えている。表面は公平が立前でも、裏面には不公平がのさばっている。それが人情だ。そこに面白味がある。言葉尻の表情、見交す眼付……刹那に燃え、刹那に消ゆるものであろうと、その光に輝らされて、或は過去の、或は将来の、別種の深い世界が描き出される。それが、陥穽おとしあなだ。罠だ、或は逃避所だ。人はけだものを真似て、四匍よつばいで競争する……公然と。なぜなら、それが人情だから。そしてそれが商売となっている。人情を無視することを原則とする商法の、埓外に出た特殊の商売だ。
 それが、ひらのお座敷でも。況んや……。
 そんなことを吉乃は考えてはいなかった。然し、無意識的に、商法の原則を守っていた。彼女の眼付は、二重の意志表示をしなかった。しまりのわるい唇は、どの客にも同じように金歯の光を見せた。そしていつも、舌ったるい口の利き方をした。云わば、万人の手の届くところに、陳列棚に、正札をつけて商品をのせていた。公平な商人は、自分の商品の価値を知っており、自分の商品を大事にする。不精なのんきな彼女も、自分の商品を大事にすることは人に劣らなかった。嘗て病気を知らない、というのが彼女の誇りだった。明るく、手際よく、公平に、取引を済した。晴々とした商売だ。
 そういう彼女だったから、いつも、客の前に出る時、金入の中には相当の金を用意していた。懇意の客から、欲しいものはと聞かれても、ただ笑っていて、何にもねだらなかった。その代り、出先を馴染の客から呼ばれても、たとい自由のきく時でも、時間まではお座敷をつとめて、貰って行くことをしなかった。そして彼女の唯一の我儘は、どうしても嫌な客の時、お座敷以外は「身体が悪い」ことだった。そんな時は、金銭には依らなかった。商人にも、自分の商品を売るか否かについて、自由意志を持つ権利がある。そして公平な商人は、意志をまげてまで、不当の暴利を貪りはしない。彼女にあって、不当と云えば云える利得は、懇意であろうとなかろうと、金のありそうな客から、お座敷の約束をつけて貰うことだった。時には事後承諾を求めた。そのお約束は、彼女はいろんなことに利用した。あまりひまな晩に、または用事に、または仲間への御礼返しに……。だからおかみさんにとっても、彼女はごく忠実な抱えっ妓だった。
 そのお約束の客の名に、オーさんというのが次第にふえていって、朋輩の目についた。
「それごらんなさい、何だかだと云ったって、やっぱりねえ……。」
 吉乃は笑った。
「そうじゃないわよ。あの人、どうせ、仲間なんだから、丁度いいのよ。」
 謎のようなことを云って、それから変に考えこんで、その後で、自分でも不思議そうに、きょとんとした眼を挙げて、また笑った。
 その頃、実際にも、オーさんの足は繁くなっていた。

     二

 岡野信二は、吉乃よしのに対して、初めは、快活などこか捨鉢なほど陽気な態度だったが、度重るにつれて、妙に無口に、真面目に、淋しそうになっていった。心の中に、何か悲痛なものが動いてるようで、それも、愛とか恋とか云ったものではなく、ただ期待外れの、心が宙に迷ってるらしく……。そしてじっと、彼女の顔を眺めてることが多かった。
 吉乃もそれに気付いたが、それは、彼女の商売とは関係のないことだった。彼女は平然と、自分の職分を守ることが出来た。
 そこへ、彼の告白が落ちてきた。
 秋の夜の差向いは、淋しい。しいんとしたなかに、どこからか、爪弾つまびきの音が伝わってきて、夜更けを告げる。中庭で、笹の葉がさらさらと鳴る……。でも吉乃は、明るかった。甘ったるいのんきな調子で、商売が不景気でも、お稽古が充分出来るのが楽しみだと、そして、お稽古仲間だと、遠くで聴いてても、誰が弾いてるのか、それが分るようになるから面白いと、そんなことを云い云い、爪弾の音色に耳を傾けたりしている。岡野もその方へ、吉乃の言葉へよりも多く耳をかしていた。積り重った伝統的な情緒が、彼を溺らそうとする。彼も溺れようとする。が彼の胸の中には、どす黒い塊りがあった。眼は熱く涙ぐんでいる。自分自身をわきから見守り鞭打ってる気持……。だが、吉乃へは取り縋れなかった。
「君は逢えば逢うほど……。」
「馬鹿に見える?」と吉乃は引取って云ったが……。
 彼は、つまった言葉を涙になして、ぼろぼろとこぼしている。
「そう云った人があるわ。」
 びっくりして、云い足して、それから彼女は微笑んだ。
 然し彼は顔を挙げなかった。
「僕は、汚れてるんだ、汚れてるんだ、聞いてくれ……。」
 それが、何のことだかと云えば、前から部分的には話していた、或る未亡人との関係だった。ふとしたことから――意志の弱いため――関係して、ずるずるに引続いて、時々は金も貰う。自分を唾棄する余り、貰った金で遊蕩もする……。それだけだった。
「そして、そのたびに、お金を貰うの?」
 岡野は、返辞も出来ないで、罪人のように、悔い改めるように、卓子テーブルの上に顔を伏せていた。
 吉乃の、あきれたような眼の色が、やがて、澄んで、落付いて、笑みを湛えた。
「それじゃ、つまり、あたしたちと同じじゃないの。ちっとも、恥しいことなんかないわ。」
 全く、別世界から来た言葉だった。岡野は顔を挙げた。眼を挙げた。堪え難い調子で口籠った。
「でも……でも……そうじゃないんだ……ちがう……。第一、僕はその金を、何に使ってるか!……。」
「自分でもうけたんだもの。何に使おうと、勝手よ。」
「…………」
 風の吹き過ぎた後の空虚と同じで……。
 白々とした額、ほんのり酔の出てる頬、空を見てるようなあらわな眼付、唇の間から見えてる金歯、そして鼻が無意味に高い……。その首を、伸び伸びと、綺麗な肌を見せながら、卓子に片肱をつき、片方の肩を落して、横坐りに、裾をさばいて……。それへ、岡野は縋りついていった。
「僕は、君を、好きだ、ほんとに、好きなんだ。初め、自分を、やけくそから、自分で自分を、溝の中に蹴落すような気で、うろつき廻った。自分を、泥まみれにすることが、汚くすることが、せめて腹癒せだった。罪亡しだった。いろんなところへ行った。ただ、自分が汚くなれば、惨めになれば、それが本望で……。然し、君に逢ってから、変に、気持が荒まない……。癪にさわった。だから、これでもか、これでもかと……猶やって来たんだが……駄目だ。君は駄目だ。僕の中のものが、こわれていっちまう。そして、忘れられない。だんだん君を好きになってくる。……どうすればいいんだ。どうにでもしてくれ。どうすれば……。」
 云いながら、彼の眼には、冷かな裸像が映っていた。水色の紗に漉された和らかな電燈の光の中、屏風を背景に、立膝で、長襦袢からぬけ出した上半身……。――「背が高いから、なんだけれど、あたし、そんなに痩せてないでしょう。」肌目のこまやかな、なだらかな肉附で……。それが、愛慾の気などみじんもなく、清浄と云えるほど冷かな、大理石の彫像のようだった……。
 吉乃は少し身を引いて、固くなっていた。そして、不似合な長い溜息をもらした。
「酒をのんで、騒ぐといいわ。……何か弾きましょうか……あやしいんだけれど……。」
 岡野は夢からさめたように、彼女の顔を眺めた。彼女の眼がちらと、極り悪そうに光った。それが彼の顔を輝かした。
「そう、飲もう。酔っ払ってもいいね。……そして、誰か、……君の好きな人でも呼んだら……。」
「いいの、ほんとに……。」
 気懸りそうに彼女は笑った。
「じゃあちょっと、聞いてくるわ。」
 そして彼女が立っていくと、岡野はじっと眼を据えていたが、急に、卓子の上につっ伏してしまった。

 その頃のことを「青柳あおやぎ」の女中は、一寸不審そうに眼にとめた。
 元気な精力的だった岡野の顔が、肉薄く痩せて、色艶がなくなり、陰欝な影をたたえて、それでいて妙に蒼白く冴えて見えた。その顔をなお引緊めて、ひどく真面目くさい様子でやって来た。以前は人の気につかなかった鼈甲緑の眼鏡が、不調和に目立った。度は低そうだが、その眼鏡の奥に、彼は視線を隠すようにしていた。何だか、「教会堂にはいって行く信者さん、」そういった風なものを思わせた。
 座敷は大抵、彼の好きな、奥の階下の六畳……。殆んど口を利かなかった。吉乃が来るまで、一人で黙って酒を飲んでいた。女中の一寸した冗談口にも、蒼白い顔を赤らめることがあった。誰でも、だんだん図々しく場所馴れてくるものだが、彼だけは「丁度その逆様」をいってるようだった。或は、「吉乃さんに真剣に」なってきたかも知れなかった。然し不思議なことには、吉乃が例によって、ほかに出ていてなかなかやって来ないような時、彼は次第に気持がほぐれて、「ふだんの」彼になって、「賑かに」なることがあった。
 吉乃の方も、少し変ってきた。やはりあけすけではあったが、その呑気者の彼女が、奥さん然と「勿体ぶって澄しこんで」いた。嬉しいのか困ってるのか、さっぱり要領を得なかったが、なんとなく「しっかりしたところ」が出てきた。
 そして二人は、いやに「しんみり」してるというだけで、他の者には訳が分らなかった。繁々逢っていたが、仲はさはど「濃く」もなさそうだった。さほど嬉しそうもない逢い方で、さほど名残惜しそうもない別れ方だった。
 岡野は泊っていくことはめったになかった。酒にも余り酔わなかった。けれど吉乃の方が、それこそ「ほんとに不思議に、思いがけなく、」酔っ払うことがあった。そしてそんな時、なぜともなく、「可哀そう」な気がするのだった……。
 其他のことは、女中にも分らなかった。
 岡野の好きな奥の階下の六畳というのは、昼間は薄暗くて、あなぐらのような感じだったが、小さな池に寒山竹と南天をあしらった、狭い二坪か三坪の中庭に臨んで、一寸した濡縁がついていた。
 笹の葉のそよぎに、二人は黙って聴き入ることがよくあった。
 聴きようで、哀切にも響く、無常にも響く、楽しくも響く……。岡野は涙ぐんだ眼付で、吉乃のなごやかな姿を眺めている。許してくれ! そんな声が胸の底から起ってくる。……許してくれ! 僕は汚れてるんだ。汚れた身体を、君のところへ運んできた。やはり、淋しかったんだ。たまらなく惨めだったんだ。君の側で、心から憎んでやる、呪ってやる、あの女を、澄代を……。この気持、君には分らないんだ。つまりは同じだと! 嘘だ、嘘だ。××××と××××と……理窟はそうでも、それが、ちがうんだ。僕のこの惨めな気持は、どこから来るんだ。完全な取引になっていないからだ。商売になっていないからだ。生活の形式になっていないからだ。そんなら、止めろと云うだろう。ああ、どんなにか、さっぱりと……。あの、爛れた愛慾、腐った愛撫……。それが、僕をふみにじりながら、惹きつけるというのか。そんなことはない、断じてない。僕は誓う。ただ、君に逢えさえすれば……。そして君に逢うためには、僕の身分では、彼女から金を引出すより外仕方がない。ああ、呪われてあれ! 僕自身も呪われてあれ! ただ、信じてくれ、僕の心だけは……。僕は誓う、何を指してでも誓う。どうしたらいいんだ、どうしたら……。
 その気持、吉乃にもぼんやり通じていた。そして彼女には、彼が心の中でどんなに悩んでるか、よく分っていた、けれど、彼のその誓が、背教者の涙と同じように、一時的なものだということも、また分っていた。そしておかしなことには彼自身も、自分のその誓が、若いロマンチックなものだということを、知っていた。それでいて、どうにもならなかった。感情の潮が引いて、おのずから出来る空虚な瞬間、彼は彼女を、敬虔な信頼の眼で眺めた。彼女は彼を、愛に似た憐憫の眼で眺めた。
 さらさらと、笹の葉の音がすると、寒い……。
 岡野はしきりに杯を重ねたが、酒の落着き工合が悪くて、酔わなかった。
「君は……、」口籠って、おずおずとした眼付で、「君は、いつまでこんなことをしていて……。」
「でも、呑気のんきでいいのよ。」
 上の空の調子で受けて、急に、彼女は真面目になった。
「そのうちに、看板を借りようと思ってるのよ。」
 そして、丸抱えで出てるのと自前で出るのとの違いを、商売の自由さの点や、収入の関係など、こまかな数字まで交えて、話しだした。
「それまでには、あなたこそ、あっちの方、早くきりをおつけなさいな。」
「きりをつけたら、どうする……。」
「どうもしないけれど……苦しまないだけでも、いいじゃないの。」
「…………」
 彼の身内が震えるのが、彼女の眼にもついた。だが、彼女は踏みこたえた。そして踏みこたえる努力に、自分でもびっくりした。
「きりをつけるよ。立派につけてみせる。」と岡野は云っていた。「僕はそれを誓う。それだけが、僕自身を救う道だ。そして、本当に君に近寄ることになるんだから……。たとい……。」
「いいのよ、もう、そんなこと……。その話、よすの。」
 彼の言葉を押っ被せると、彼女は我知らず涙ぐんでいた。その下から、彼は云い張っていた。
「いやだ、何もかも云ってしまわないうちは、いやだ。……。あんな女……のこと、僕は何とも思ってやしない。あんな女……いや、それよりか、君だって、君をだって、僕は愛してるかどうか、自分にも分らない。……ただ、泥の中から、救われたかったんだ。そして君に逢うと、僕の気持は、晴ればれとしてきた、明るくなった。それを、どう云って感謝していいか、分らない。ただ、有難い。僕を救ってくれ。僕は君を愛してやしないかも知れない。君も、僕を愛してやしないだろう。それでもいい。ただ、すがすがしい気持になれば。その外のことは、許してくれ……。」
 胸の中に熱いものがたまってくるのを、吉乃は押えつけた。商売が立前なんだ。何かが壊るれば、凡てが崩れ落ちそうだった。そんな脆いんじゃないと思っても、不安だった。無意識的に踏みしめてきた商売の道、それが、岡野との関係で、はっきりしかけてきた今となって……。
 彼女の眼付は、いつになく厳粛になった。そして彼女は酒を飲んだ。敵意的に飲んだ。岡野が泣き出しそうな顔をしているのが、おかしかった。
 岡野は、両手で頭をかかえた。
「僕、僕はほんとに誓うよ。……その証拠には、こんど、彼女を、澄代を引張ってきてみせる。」
「どこに。」
「ここに。」
「ばか、ばかな、あなたは、ばかねお坊ちゃん……。」
 もう彼女は、酔っていた。泣いてるのか笑ってるのか、自分でも分らなかった。

     三

 元来の呑気なおおまかな性質が、却って心棒となって、それに達者な八重次の助けもあり、時間も短かかったので、吉乃はわりに楽だった。何よりも「青柳あおやぎ」の家でないのがよかった。
 それでも、調子は初めから狂っていた。
 眼窩のくぼみが感ぜらるる、大きな、ひどく敏活な眼付。それから喉を使わないなめらかな声音で、「こんばんは、」と低く、次に調子よく、「前から、あなたのことはきいていて、逢いたいと思っていました。」――その二つが、ずっしりと胸にきて、吉乃よしのは黙ってお辞儀をした。そしてさすがにぎごちなく、それを、そのまま押し通して落付いてしまった。
 色古浜の着物、綴錦つづれにしきの帯、目立たない派手好みに、帯留の孔雀石の青緑色が、しっくり付いていた。三十五六の、きゃしゃな美貌で、見ようによって、ひどく色っぽくも皮肉にもなる眼付――それに一抹の疲れが見えるのは、眼窩のくぼみのせいらしい。そして何のこだわりもなさそうに、ひそかに吉乃の様子を窺うでもなく、程よく席につかして、八重次に三味線を持たして、自分も低くそれにつけた。
「やっぱり、岸の柳とか、菖蒲浴衣あやめゆかたとか。ああいった軽いものの方がいいわね。わたしもともと、吉住の方だけれど……。というと、大層出来そうだけれど……ほほほ。」
 そして澄代と八重次とだけで、座をもち続けてくれた。
「こちらも、何か聴かして頂戴よ。」
 そう云われても吉乃は、好意のある八重次の視線に縋って、明るく笑っただけで済した。
 三味線を置いて、世間話になると、岡野もそれに加わったので、吉乃はなお気持がひまになった。
 澄代は酒も少しは飲めた。
「吉乃さん、こんど、隙な時、わたしの家へも遊びに来て下さいよ。わたし、各方面からのいろいろなお客が、一番楽しみなんだから……。家では、すっかり、門戸開放主義なの。その代り、御馳走はありませんよ。栄太楼のうめぼしくらいなら……。」
 吉乃ははっとした。彼女はその「うめぼし」が好きで、家でよくしゃぶっていた……。岡野に話したことがあったらしい。疑念の眼付で、岡野の方を見ると、彼は煙草をそっぽに吹かしていた。
「主義はおかしい……。あんなに泥坊を怖がっていて……。」
「いやあね、泥坊は別よ。それと雷……。」
 ちじみ上った様子をして、彼女は吉乃の肩に手をかけていた。
「ねえ八重次さん、わたしこんな妹があったらいいと思うわ。似合うでしょう。わたしも背が高い方だし、このひと、おとなしいし、好きよ。」
「あら、そんならあたしは……。こちらの、妹御さん……。おかしいわ……。」
 岡野の方を覗きこむ風をして、八重次は吉乃にやさしい視線を送った。
 吉乃は澄代の手の下に、首を縮めていた。地位が逆に、こちらが初めからお客のような、座敷の空気ばかりでなく、いやそんなものをすっかり蹴散らして、絡みつくようなしなやかな澄代の手の感触が、彼女の自意識を呼びさます。先程からただ本能的に見て取っていたものが、表面に浮出してくる。……澄代の、袖口を持ちそえてを胸に押しあてる嬌姿、自由にしないそうな綺麗な指、頸筋の荒れた皮膚、瞬間に燃え立ったり消えたりする、而も押しの強いその眼差まなざし、そしてその底の、疲れのこもった色っぽさ、それから、岡野の、そしらぬ顔をしてやたらに煙草を吹かしながら、澄代の挙動の一つ一つに、魅せられたように惹きつけられてる視線……。
 違っていた! 殆んど咄嗟に、本能的なのを意識的にまで、吉乃はそれを感じた。岡野の云うのが本当だ。商売なんかとは、まるで違う。別な、自分の知らない、愛慾の世界だ。清い取引ではない。汚らわしい。一寸した飛沫でも、身体がけがれる……。
 彼女はぞっとして、澄代の手の下から身を引いた。
「わたしが男だったら、こんなひと、どうしようかしら……。」
 鋭い火花が、瞬間、岡野の方へ投げられて、あとはさりげなく、酔をかぶった眼付で、彼女は吉乃の方へ寄ってきた。
「逃げてはいやよ。きょうだいだから、ねえ。」そして杯を二つ並べて、「あちらは喧嘩だから、こちらは仲よく……。」
 けんで杯のやりとりをしている八重次と岡野の方へ、笑いを送って、自分で銚子を取上げた。
「あら……。」
 八重次が急いで手を出そうとするのを、澄代は遮った。
「だめ、だめよ。他人禁制……二人きりで、内緒の話があるの、ねえ。」
 吉乃は、妙に横柄な眼付と微笑の口許とで、うなずいて、杯を干した。そして此度は自分で、二つの杯に酒をつぎながら、じっと、明らさまに岡野の方を眺めやった。寝ころんで、何かに打ちのめされたような彼の姿が、ほんとに惨めに見えた。ばか、ばかな人! そう叫んでやりたかった。
 が彼女の耳には、澄代の暖い息がかかっていた。
「こんど、一人でゆっくり来るわ、ねえ。」
 彼女は夢のようにそれを聞いていた。
「そして……。」
 彼女は動かなかった。白々とした額が、石のように冷くなった。その頬辺ほほべを、澄代は指先でつっついた。それから、煙草の吸いさしを、だがさすが用心して火は消して……。
 吉乃は飛び上った。頬辺を押えて、いきなり室から出て行った。水で頬辺を冷しに行った。だが、何のこともなかった。念入りに化粧を直して、戻ってきた。
 皆の視線が彼女を迎えた。その交錯こうさくした十字火の中に、彼女は微笑んではいっていった。矜持! そういった気持が動いた。自分の商品の価値を知ってる商人の誇だ。誰が何と云おうと、誰と取引しようと、清らかな美しい肉体が。つまずかないでよかった。よく持ちこたえた。けだもの、畜生! そういう叫びを胸の底にひそめて、彼女は、のびのびと首をそらして、善良そうに微笑んでいた。
「いやーね。」八重次が彼女の背を叩いた。「あたしの方がびっくりしちゃったわよ。」
 澄代の眼が情熱的に光っていた。岡野は眼をらした。
「御免なさい。」
 誰にともなくそう云って、吉乃は晴れやかに笑った。





底本:「豊島与志雄著作集 第三巻(小説3[#「3」はローマ数字、1-13-23])」未来社
   1966(昭和41)年8月10日第1刷発行
初出:「改造」
   1929(昭和4)年12月
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2008年1月16日作成
青空文庫作成ファイル:
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●表記について