千代次の驚き

豊島与志雄




 お父さん、御免なさい。あたし、死ぬつもりなんかちっともありませんでした。ただ、びっくりしたんです。ほんとに、心の底まで、びっくりしました。
 村尾さんが、まさか……。今になっても、まだ、腑におちません。随分前からのお馴染で、気質きだてもよく分ってるつもりでしたのに……。少し変だと思ったのは、つい近頃のことで、それも、実は、あたしの方が変だったのかも知れません。お前さんこの頃どうかしてるね、とねえさんに云われたことがありました。あたしただ笑ってたけれど、自分でも、どうかしてるような気がしていました。でも、お父さんの教えは、ちっとも忘れたことはありません。芸者をしてる以上は、男に惚れてはいけない、たとえ旦那にも、岡惚と名のつく人にも、惚れてはいけない、とそうお父さんは、くれぐれも仰言ったでしょう。おかしなお父さんだと、はじめは思いましたが、だんだんたつうちに、真実のことを云って下さったんだと、分ってきました。こう云っちゃなんだけれど、お父さん、むかしは随分道楽なすったんでしょう。だから、お父さんの仰言ることは、通り一遍の理屈じゃなく、もとでのかかった、すっかり入れあげた、底まで見とおした、真実のことだと、あたしほんとうに感心しました。男という男は、みんな、うわべはいろいろだけれど、心底は同じものだと、あたしにも分ってきました。だからあたし、どんな人も、ほんとに好きにはならないと、そう決心していました。村尾さんだって、そうです。決して好きになったわけじゃありません。ただ少し、気懸りにはなっていましたが……。
 それも、近い頃のことです。あの方のお母さんが亡くなられて、百ヶ日もたってからだったでしょう、急に、しげしげいらっしゃるようになり、しまいには、いつづけなさることさえありました。
「僕はどうせ、病気で死にかかって、危く拾いものをした命だし、母親も見送って、気にかかる者もないし、これからの生涯をどんなにぞんざいに使おうとかまわない。実にさっぱりした気持だ。」
 そうかと思うと、また――
「ねえ、千代ちゃん、もしもの時には一緒に死んでくれないか。君と一緒なら、僕はいつでも死ぬ用意をしてるよ。」
 そんなのが、酒の上での他愛のない調子で、にこにこ笑っていらっしゃるんだから、ちっとも張合がありませんでした。けれど、その裏に、何だか気になるものがありました。何だろうかと、あたしさんざん考えたあげく、お金のことらしいと思いました。以前は、お金がほしいとか、僕はとても貧乏だとか、そんなことをしきりに云っていらしたのが、ぷっつりと、お金のことは口になさらないんです。それとなくさぐりをいれてみると、中江さんから少し用だてて貰ったとか、母の貯金が残っていたとか、ぼんやりした話でしたが、あたしには、まだそのほかに何かあるような気がしました。それに、何かにつけて、あたしと依田さんとの仲をしきりに気にしていられるようでした。依田さんとはあたし、初めから何でもなかったし、その頃はもうあまりお目にもかかっていなかったから、笑ってすましましたが、その依田さんと云うのが、実は、村尾さんの勤めていらるる会社の社長なんです。そうしたわけで、これは何か、会社の金に関係がありはすまいかと、そんな想像をして、心配になってきました。いくらこちらは商売でも、もしもあたしのためにそんなことでもあったら、ほんとにお気の毒です。けれど、その頃村尾さんは至って鷹揚で、お出先の勘定もちゃんとなすってるし、何かといってはあたしにお小遣も下さるし、お盆の時なんか、まとまって助けてもらいました。
「こんなことを、僕からしていいかどうか分らないが、もしお差支えがあったら止めるし、そうでなかったら、してあげよう。」
 言葉は冗談の調子ですが、お客としての云い草じゃないし、眼色がへんに真剣なんです。それをふと真にうけて、あたしは考えこんでしまいました。
「では、お願いしますわ。」
 云うといっしょに、眼の中が熱くなって、涙がいっぱい出てきました。場合がいけなかったんでしょう。前の晩に二人とも酔いつぶれて、朝遅く眼をさまして、夢のような気持でぼんやり顔を見合ってた時でした。村尾さんはあたしの涙を見ると、いきなりあたしの手をとって、お嬢さんか奥さんにでもするように、しおらしくうなだれて仰言るんです。僕は君といっしょになろうとか、君をすっかり自分のものにしようとか、そんなつもりでいるんじゃない。ただ、君にしっかり生きていてもらいたい。君はほんとの労働者だ。けれど、労働者としての矜りを持っていない。今の世に労働者はいちばん尊いのだから、それだけの衿りを持たなけりゃいけない。その矜りを持つには、売らないことだ。働くのはいくら働いてもいい。けれど、売ってはいけない。働くことと売ることはちがう。とそのようなことを、まじめに真剣に仰言るんでしょう。ふだんは無口なかただけれど、そんな時にはひどくお饒舌になるのでした。思いきって働くがいい、けれど売っちゃいけない。それだけが、君に対する僕の望みだ。とそうくり返し仰言るんです。それがへんに、あたしの胸を刺しました[#「刺しました」は底本では「剌しました」]。あたしいつのまにか泣きだして、村尾さんの腕にきつく抱かれていました。息苦しくなって、自分に返ると、何だか極りわるい気がしました。そんな気持になったことは、近頃にないことです。
 そのようなことがあったり、また何よりも、いちばん度々逢ってたものですから、あたしいつか しらず[#「いつか しらず」はママ]、村尾さんを頼りにするようになっていきました。といっても、心から好きになったのとはちがいます。お父さんの教えは、りっぱに守ってるつもりでした。芸者をしている間は、どんな人でも、ほんとに好になってはいけない、とそう決心していました。そして、やはり、いくらか我儘の出来る地位にはなっていましたけれど、前からの義理あいで、時には身体で稼ぐことも続けていました。それも、あたしにとっては、働くことの一つでした。村尾さんとのそうしたことも、働くことの一つでした。ただ、働くのはよいが売ってはいけない、というその区別が、何だか胸を刺す[#「刺す」は底本では「剌す」]ようでいて、それもはっきり分りませんでした。それに、村尾さんばかり頼りにしていたのでは、お金の上のことで、村尾さんが今にきっとお困りになる、只今でもどんな無理をなすってるか分らないと、そうした心配もあって、村尾さんばかりを大事にするわけにもいきませんでした。
 それでもやはり、あたしの心ではなく、あたし全体が、村尾さんの方へよりかかっていってるようでした。殊に、誰からかつけねらわれてることに気がついてからは、なおそうでした。つけねらわれるといっても、ぼんやりしたことで、何にもはっきりしたものはつきとめられませんでした。初めは、夜遅くお座敷からの帰りなどに、その辺の電信柱の影や、看板の向うや、町の曲り角に、誰かがつっ立って、あたしの方をじっと見てるようなけはいだけでした。いつそんなことが気になりだしたか、自分でもよくは覚えてはいませんし、またあたしは、近眼に乱視なので、遠くがよくみえませんけれど、たしかに、物影からあたしの方をじっと見てる人があるんです。おやと思って立止ると、もうその人の姿はありません。それにあたしは、そんな時はたいてい酔ってたものですから、何かの気のせいだろうぐらいに思っていました。
 それが、だんだんはっきりしてきましたし、しつっこくなってきました。家の近くを、夜遅く、変な人がうろついていた……家の横手で、変な人が立聞きしていた……そういう噂を、ちょいちょい聞くようになりました。また、夜中の一時二時頃、誰からともなく、あたしに電話がかかってきました。千代次さんはいますかと、きまってそうなんです。いない時には、そうですかとだけで、切れてしまいますし、いる時にも、そうですかとだけで、切れてしまいます。どうも、お出先からの電話じゃありません。それが、女の声だったり、男の声だったりします。電話に出るのは、たいてい仕込さんですが、あとでは、あたしが待ちうけていて出てみましたが、そうですかとだけで切れてしまうので、ばからしくなりました。
 そうしたことから、だんだん、あたしをつけねらってる者があるということが、分ってきました。うちのねえさんは心配して、心当りがあるかどうか、あたしにたずねましたが、全く覚えのないことでした。あたしこれまでに随分、いろんな男の人を知ってはいましたが、どれもただ、稼ぎのためだけで、お父さんの教えの通り、心を移したことはありませんし、したがって、だましたとか、不実なまねをしたとか、とにかく、怨まれるような筋合のものは、一つもありませんでした。それがあたしの自慢だといってもよいくらいでした。つけねらわれる人があろうなどとは、てんで心当りがありません。それなら何か不良のせいですよ、と箱やさんは云いました。こんどわたしがとっつかまえて、袋叩きにしてやります……。そして箱やさんはあたしの出入りに気をくばってくれました。
 そうして、ねえさんから心配されたり、箱やさんから気をくばられたりすると、かえってあたしは心細くなってきました。そうしたことから、しぜんと、村尾さんを頼りにするようになって、五六日お顔を見ないと、手紙をだしたり、また、逢えば逢えたで、引留めたくなったりするのでした。村尾さんはいつも受身の方で、酔っぱらった時のほかは、自分から泊ってゆこうと云い出すようなことは、ほとんどありませんでしたから、いつもあたしの方がだだをこねることになって、時には無理なこともあったでしょうが、迷惑そうな顔をしながらも、実は嬉しがっていらっしゃるのが、あたしにはよく分っていました。そしてあたしたちの間は、急に深くなっていきました。ところが、ふしぎなことに、あたしは誰かにつけねらわれてることを、村尾さんに話しにくかったんです。つけねらわれてるといっても、前のように云えば、毎晩のように聞えますが、実は五日に一度とか、七日に一度とかで、そう始終のことじゃありませんし、村尾さんと逢ってると、そんなことを気にするのが、ばからしくも思えるのでした。がそればかりでなく、もっと何か、話しにくいものがありました。お話してどう思われようと、あたしの方はかまいませんが、それが村尾さんの気持にどうひびくか、気遣われてなりませんでした。
 それというのも、その頃、村尾さんの様子が少し変だったせいもあります。何だかこう冷たいよそよそしい態度をなすって、早く依田さんの世話になったらどうだとか、よい旦那を見つけたらどうだとか、僕がこれほど力を入れてやってるのにまだ売る気なのかなどと、それもただのやきもちとちがって、へんに冷く突き刺す[#「刺す」は底本では「剌す」]ように仰言るんです。あたしいい加減にあしらって、旦那なんか面倒くさくていやだの――それもあたしとしては本当のことだし、また、インチキな稼ぎ方なんかちっともしないと――それもあたしの気持からすれば本当のことだし、そんな風に答えますと、こんどは村尾さん、あたしの顔を見て、にこにこ笑っていらっしゃるんでしょう。それも、ひとをばかにしたような、そのくせ可愛いいといったような、そういう笑いかたなんです。そんなのが実はあたしの性に合うので、いい気になってると、ふいに、考えこんでおしまいなさる。かと思うと、これからどこかへ飲みにいこう、大いに愉快にやろうと、そうなんです。そして酔っぱらうと、いやにつっかかってきたり、また、何でもないのに、何も云わないのに、じっと眼を据えて、涙をこぼしていらっしゃる。わけをたずねると、いやに不機嫌で、怒っていらっしゃるようなんです。
 落付かない、いらいらした、今にも破裂しそうなものが、あたしにも伝わってきて、じりじりと、あぶない瀬戸際におしつめられてるような気持でした。そんなこと、あたしには初めてなんです。ほかの人はどうかしらと思って、見廻してみると、一流のちゃんとしたねえさんで、旦那のほかに二三人の岡惚をもってるのがあったり、お酌あがりの娘さんで、ちょいちょい浮気をしてるのがあったり、自由な身でもないのに、一人のひとを守ってるのがあったり、さまざまでいて、そしてみんな、朗かに落付いてるようでした。こんなに困って苦しんでるのは、あたし一人なのかしら。そう思って、ふとしたきっかけから、静葉さんにたずねてみました。以前はそうとう莫連をした人で、今では、島村さんという旦那とも岡惚ともつかない一人のひとを守って、すっかり堅くなって、そのために苦労をしながらも、それがとても大っぴらで朗かで、ちょっと変ってるのでした。実はあたし、困っちゃったの……とそういう風にきりだしましたが、自分でもはっきりしないので、先がつかえて、みんな平気で浮気をしたりなんかしていて、あれでいいのかしらと、そんなことを云うと、静葉さん、それが当り前じゃないのと、一言で片附けてしまいました。そんなら、静葉ねえさんと島村さんとは……と云いだすと、静葉さんは急に、とてもこわい眼付をしました。
「何を云うのさ。あんたなんかに分ってたまるもんですか。」
 ほんとに怒ってるんです。ひやかされたとでも思ったんでしょう。あたし云い訳をしようとしたけれど、とっつきがありませんでした。その何でもないこと、静葉さんから怒られたということが、どうしたわけか、ひどくあたしの気持をうち挫いてしまいました。あとであたしは一人で、涙がでてきて仕方がありませんでした。もと芳町のりっぱな芸者で、箱やさんといっしょになって、長年苦労したあげく、爺さん婆さんになって、二人で仲よく乞食をしてあるいてるのだという、その人たちに出逢って、あたし、五十銭銀貨をあげました。
 そしてるところへ、或る朝、夜廻りの作さんが、あたしをそっと呼びだしました。昨晩おそく、この辺をうろついてた男がいた。前の通りや横町を、ゆっくりと往ったり来たりしていて、それが、あたしの家の前にさしかかると、立止るともなくちょっと足をゆるめて、家のなかの様子に注意をむけてる風だった。作さんは、その男とすれちがってから、あとで何だか気になり、暫くして戻ってきてみると、やっぱりそうなので、ふと耳にはさんだあたしの話を思いだし、こいつかなと思ったのでした。黒いマントをすっぽりときて、黒い帽子をふかくかぶって、それほど寒くもないのに、襟巻で頬をつつんでるんだそうです。この野郎と、つかまえるつもりで、作さんが向っていくと、先方では早くも気がついて、つと横町へ切れこんだかと思うまに、歩いてるのか駆けだしてるのか、足音もさせないで、それが風のような早さで、消えてなくなってしまったのでした。だけど、あわてたとみえて、ハンカチを落していった。もし心当りの人でもあるといけないから、ないしょで知らせるんだといって、作さんは、使いふるした皺くちゃなハンカチを差出しました。ふつうの安物のハンカチで、そんなものに見覚えのあろう筈はなく、またこの剽軽ひょうきんな年よりの作さんが、何を云うことやら、あたしはよくも尋ねないで、ただお礼をいって、当分ないしょにしといて頂戴とたのんで、少しばかり心附をやりました。
 それが、朝のうちは何でもなかったが、おひるからさむざむと空が曇って、夕方になると、へんに気になりだし、泣きたいような心持になって、ついふらふらと、村尾さんに速達の葉書をだしてしまいました。そして安心してると、九時頃、喜久本からかかってきました。村尾さんです。
 あたし、とても淋しいような、また浮々とした気持で、急いでいきますと、村尾さんはどこで飲んできたのか、もうだいぶ酔ってるじゃありませんか。それでいて、きちんと坐って、片手で火鉢のふちをさすりながら、何の話かって、いきなりそうなんでしょう。ただ、お逢いしたかったの、と笑ってみせましたが、あたしもぐいぐい飲んでやりました。何のために速達なんかで呼びだしたのか、自分でも分らなかった上に、村尾さんの痩せた蒼白い頬が、きつく引緊って、冷い眼があたしを見据えてるんです。すり寄って、甘ったれてやりましたけれど、村尾さんは姿勢をくずしません。あたしの指先をいじりながら、君とももう別れなければならないかも知れないけれど、しっかりしていっておくれ、それが僕の頼みだと、いやにまじめなんでしょう。それがどうも調子っぱずれなので、あたしは微笑んで、やたらにいやいやをしてると、ふいに、村尾さんの眼から、涙が流れだしました。ふだんのまんまの顔付で、涙がはらはらと出てくるんです。それをあたし、またかと思って、ハンカチで拭いてやりましたが、村尾さんは初めて自分の涙に気がついたように、身を引いて、袂をさぐっています。ハンカチがありません。あたしのハンカチをとって、眼をふいて、もう笑っていました。あたしは、その時はっとしました。作さんが拾ったというハンカチのことを思いだしたんです。そのつまらないきっかけから、いやにまじめなものが頭のおくに眼をさましてきて、何やかやくわしく知りたくなりました。家のこと、女中さんのこと、会社のこと、お友達のこと、そして何よりもお金のこと……。だけどもう村尾さんは、何にも興味がなさそうに、あたしの云うことなんか耳にもとめずに、小唄をくちずさんだりして、投げやりな浮いた眼付をしているんです。僕もこれで、無理なこともしてきたし、さんざん苦労もしたし、一人前の男になったものだと、ひとごとのように云うんです。あたし何だかなさけなくなって、やたらに酒をのんでやりました。
 そうしたところへ、電話でした。もう十一時半頃でしたでしょうか。日頃ひいきになってるかたのお座敷だったので、何の気もなく受けて、戻ってくると、村尾さんはしらけた顔で、笑いながら神経質に、お座敷だろうから帰るよと、すぐに立上ろうとなさるんです。あたしはなおなさけなくなって、ほんとに涙ぐんで、さんざんだだをこねてやりました。今晩はどうしたって帰さない、ちょっとで貰えるお座敷だから、待っていて下さらなけりゃ承知しない、たって帰ると仰言るなら、断ってしまって側についてる、とそんなことを云ってるうちに、村尾さんの、ぞっとするほど冷い眼にぶっつかりました。あたしにはよく分っています。断るなら初めから断ったらいいと、そういう意味でしょうが、あたしにしてみれば、夜遅く、中貰いに一寸でもというお座敷へは、顔を出しておかないと、肩身がせまいというわけもあって……そんなことを考えていると、もう芸者も嫌だし、世の中も嫌だと、投げやりな気持になって、村尾さんをむりに引止める力もなくなりました。そして酔ったふりをして、半分はほんとに酔って、つっぷしながら、村尾さんのあぶなっかしい足音をぼんやり聞きながしました。
 それでも、きっとまた戻っていらっしゃるにちがいない、と心待ちにして、立上りもしないでいると、おのぶさんがやって来て、けんかでもしたの、と心配そうにきくんです。あたしうるさくなったから、村尾さんはまた戻っていらっしゃる筈だから、きっと引止めて、すぐに電話を下さい、とそう頼んで、ほかへ廻りました。賑かな、ばか騒ぎがすきなかたです。お酌さんを交えて三四人で、騒いでいましたが、やっぱり心が沈みがちで、村尾さんのことが気になって仕方がありませんでした。いくら飲んでも、頭のしんからさめていきます。一時すぎになって、喜久本に電話してみると、村尾さんはいらっしゃらないとのこと。なお気になって、そのままもらって、外に出ましたが、足もとがふらついてるのに、頭のしんがさえて、震えあがるような寒けがしました。そしてどこへ行っていいか分らないような気持になって、いつのまにか泣きだして、家の近くをぼんやり歩いていました。そうしたことにふと気がついて、ばかばかと自分に云いながら、よその家の戸口によりかかって、溜息をついて、なんて自分はばかなんだろう、こんなでどうなるんだろうと、心の中でくり返していますと……向うから、せのひょろりとした男が、黒いマントを引きずるように着て、黒い帽子をかぶって、黒い襟巻で頬をつつんで、薄暗い通りに眼をじっと据えて……どうも、村尾さんらしいんです。あたし、いちどに息をつめ、近眼の眼をみはり、じっと待ち受けて、側まで来ると、つかつかと出ていってやりましたが、村尾さんと眼を見合ったとたんに、気が遠くなりました。何か声がして、それからしいんとなって、どれくらい時間がたったか……やがて、がやがやした人声が耳についたので、眼をあいてみると、あたしはそこに一人しゃがみこんでいて、向うから、芸者衆が四五人、お客さんをとりまいて、だらしなく酔っぱらってやってきます。あたしはむちゅうで馳けだして、家の戸を引きあけて、とびこんでいきました。
 まだ起きて待ってた松若さんが、すっとんきょうな声を立てました。あたしの様子がよっぽどへんだったにちがいありません。だけどあたしはもう、そんなことにとんちゃくなく、二階の室にかけあがって、ふとんの上にきちんと坐って、物に憑かれたような気持で、じっとしていました。お座敷着のままふとんのまんなかに坐ってるあたしが、こわかったのでしょう、松若さんがそっとのぞきに来て、またおりていったのを、ぼんやり覚えています。
 それから暫くして、あたしはとびあがって、窓を引開けました。たしかに、村尾さんが外に来ています……。村尾さん、みんなあの人だったんです。お座敷では、しっかりした冷淡なほどの素振をしながら、一人で、あたしの家の前をうろついていたんです。全く別々なその二人が、じつは一人だったんです。まだ、誰に遠慮もなく逢えるのに、どうしてそう二人になるんでしょう。嫉妬……真心……恋……ばかりでもない。あたしが何もかもうっちゃって進んでいかなかったのが悪かったのかしら。そんなわけはない。そんなら、なぜ向うからもそうして下さらなかったのかしら。あたしが芸者なんかしてるのがいけないのかしら。それでも、あたしだって……。窓からすかしてみると、表の通りは、しいんと薄暗くて、向うになんだか、村尾さんが……。やっぱりそうなんだ。あたし心の底から、びっくりしてしまって、のりだしてよく見ようとすると、とたんに、窓枠の木が外れて、身体が宙にとんでしまいました。強い声で叫んだと思います。頭がめちゃな大きなものにゆすぶられて、まっくらになりました……。

 二階から落ちて、玄関の植込の影の捨石に頭をぶっつけた千代次は、昏倒したまま病院にかつぎこまれたが、脳の内出血で、手当の仕様もなく死んでいった。
 その三十五日忌の品物が、村尾庄司の家に贈り届けられた時、村尾は包みを開こうともせず、庭にとびだして、冬の冷い朝日のなかで、大きく深呼吸をした。骨だった彼の眉間には、深い決心の色が現われていたが、それがどんな種類のものだか、今は知る由もない。それに第一、人の決心などというものは、実践に移されない限り無意味なものだから、ここで吟味することをやめよう。





底本:「豊島与志雄著作集 第三巻(小説3[#「3」はローマ数字、1-13-23])」未来社
   1966(昭和41)年8月10日第1刷発行
初出:「文学界」
   1934(昭和9)年1月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2008年3月21日作成
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●表記について