霊気

豊島与志雄




 中房温泉は、既に海抜四千八百尺余の高地にあって、日本アルプスの支脈に懐かれている。早朝に温泉を発して、山の尾根伝いに、見上ぐるばかりの急坂を、よじ登りよじ登り、三時間余にして、燕岳の肩にある小屋に出る。流るる汗を拭いながら、ほっと息をついて見渡せば、正に天下の壮観である。目指す槍ヶ岳の尖峰は、屹然と中空に聳え、鋸歯状に輪廓を刻んで、左手穂高岳へ連り、右手はゆるやかに延びて、双六、鷲羽、野口五郎、烏帽子、蓮華、などの諸岳となり、大気澄む日には、遙かに白馬岳をも遠望される。そして高瀬川の峡谷を距てて、深い山襞に雪を含んでる、それら一連の山岳は、一種の霊気を帯びて、人の心に迫ってくる。
 山に馴れた案内者達は、また、山の小屋の人達は、のみならず、土地の人々は、それらの雄大な山岳を呼ぶ時、槍ヶ岳、穂高岳、燕岳、野口五郎岳……などとは云わない。岳の一字を略して、槍、穂高、燕、野口五郎……などと云う。そして山に馴れぬ他国の旅客も、一度燕岳の肩から、眼前にアルプス連山を眺むるや否や、「あれが槍ヶ岳……白馬山はどれ……。」などと云うことを止めて、おのずから、自ら知らずに、「あれが槍……白馬はどれ……。」などと云う。その時彼は既に、山の霊気に包み込まれて、その中に生きているのである。
 海抜一万尺に近い連峰を前にして、それらの連峰の一つ一つを呼ぶに、例えば、槍ヶ岳、穂高岳、などと云うことと、槍、穂高、などと云うこととの間には、云う気持に大なる違いがある。前者は、平地から遠く望む人々の無関心な呼称である。後者は、身自らその境地にはいった人々の心からの呼称である。その中には、親愛の感じと神聖の感じとが含まれている。
「槍ヶ岳が……穂高岳が……大天井岳か……。」
「槍が……穂高が……大天井が……。」
 この二つの表現を並べて、試みにそれを口の中でくり返す時、如何に両者の間に遠い距離があることか。まして、それらの高峰の肩に身を置く場合、両者が全く異った感じのものであることは……ただ知る人ぞ知る、説明しようとしても出来ない。
 神に対して呼びかくる時、西欧の言葉に従えば……その原語を試みに邦語に直せば……「なんじ」である。他の二人称ではない。「神よ、あなたは……君は……お前は……閣下は……殿下は……貴殿は……あなた様は……。」其他如何なる呼称も、「神は」につかない。ただ一つ、「神よ、なんじは……。」それで初めて、「神よ」という呼気が生き上る。
 人々に神を「なんじ」と呼ばしむるものは、神の有する霊気である。その霊気は、一方に人を親しませなずかしめると共に、他方にまた、人に厳粛なる畏敬の念を起させる。そして人はその霊気に打たれて、親愛な而も神聖な心持を以て、「神よ、なんじは……。」と呼びかけてゆく。
 槍ヶ岳に対して「槍は……」と云うことは、神に対して「なんじは……」と云うことと、相通ずる語気である。信仰者の心を以てすれば、神に対して「なんじは……」となり、真の登山者の心を以てすれば、槍ヶ岳に対して「槍は……」となる。神の霊気が……山岳の霊気が、人の心を打って惹きつけるのである。
 不思議なのは、語気の持つ感じである。奥深い感情をも直接に現わす語気、それが如何に不思議なものであることか。
 それにしても、燕岳の肩に辿りついて、日本アルプス連山を一眸の下に集め、「槍が……穂高が……」とおのずから出る語気、その語気の底に籠ってる心境こそは、一度経験した者は生涯忘れ得ないであろう。





底本:「豊島与志雄著作集 第六巻(随筆・評論・他)」未来社
   1967(昭和42)年11月10日第1刷発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2006年4月22日作成
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