北京・青島・村落

豊島与志雄




 大平野の中で、吾々は或る錯覚を持つことが多い。丘陵とか、森とか、工場の煤煙とかが、視線を遮ることなく、遙かに地平線まで見渡せる場合、つまり、視線に対する抵抗物が平野の上に何もない場合には、その地平線の彼方に海があるような錯覚を起すのである。これは、四方海にかこまれた陸地に、そして常に視線に対する抵抗物の多い陸地に住む者の、常態であろう。
 河北大平野には、処々に村落があり、木立がある。然しその間を縫って、地平線の彼方へまで展望が開けている。四方八方にそうである。謂わば、地平線の彼方へまで通じる風窓が、大地の上に八方に開けていて、そこには視線に対する抵抗物が何一つない。
 この大地の一点に立つと、吾々には、地平線の彼方に四方に海があるような錯覚が起る。そしてこの錯覚はひいて、海上に在るような感覚を持たせる。地球が円いものだとの実感を得るのは、海の沖合に在る時ばかりではなく、このような大平野に在る時もそうである。
 そしてこの平野には、至って河が少い。河流は始終泥土を運んできて、いつしか水が涸れれば、河床は高く、橋の必要はなく、道路はじかに河床を通っている。雨期に大雨があれば、水は地面を掘って自由な通路を作り、やがて平野の上に氾濫する。些少の低地や温地帯[#「温地帯」はママ]には、長く停滞して湖水の面影をなす。
 こうした河北平野に散在してる村落は、人の住宅というよりも、人の窖とか巣とかいう観がある。少しまとまった村落には、土塀をめぐらしてあるが、それは流賊を防ぐためもあろうし、洪水を防ぐためは更に多かろう。泥と煉瓦とで出来てる家は、入口が狭く、窓は漸く外光を取入れるだけのものである。幾重にも壁があり戸口があって、先ず、日本の普通の住宅の板塀や垣根や袖垣や壁などを、全部土塀にしたものと思えばよろしい。そして藁屋根の上には草が生え、瓦屋根の上には埃がたまり、村落が擁する僅かな木立も、一杯埃をあびている。風のある紅塵の日には、凡てのものが息をひそめる。それらの村落を、例えば汽車の窓などから眺むれば、塵埃をかぶって地面の中にもぐってるかのようである。
 そうした窖の中に、広漠たる平野を蔽いつくす耕作力がひそんでおり、一輪車で物を逓送する汽車以上の運輸力がひそんでおり、豚が仔を産み、鶏が孵化し、穀物の袋や酒の甕が蓄えられ、時とすると壁に貨幣が塗りこめられ、人の子が次々に生れてゆく。
 村落のこのイメージは、大地から生れ出る無尽の大衆というものにまで発展する。それは塵埃をかぶって地面の中にもぐってるようだが、強靭旺盛な生活力を内に包蔵している。
 然しながら、生活力自体はそのままでは精神力とはならない。生活力の当面の要求は安居楽業であり、精神的には他から指導されるままに導かれる。北支の治安工作は先ずこの水準に於てなされてる現状であろう。各地の匪賊討伐は、軍事上の問題よりも寧ろ、大衆の安居楽業の地域拡大が考えられていることであろうし、華北交通会社による鉄路愛護村の組織は、鉄道運輸路の確保よりも、沿線地域大衆の安居楽業をはかるのが主眼となっていることであろう。
 とは云え、各地で行われてる耕作法改良の指導は、単に農業収穫の倍加を来すこと以外に、精神的の意味をやがて持つだろうと思われる。農耕に於ても、技術の獲得はやがて或る精神力の覚醒となる。この覚醒の方向が問題である。更に各地に放置されてる小学校が将来あらためて開校される場合の、その教育方針は一層重大問題である。ここに、新たな東洋文化の課題があり、この課題の解決の仕方によって、北支農民大衆の生活力は精神的に向上もしようし低下もしよう。
 ただ、現在、河北平野にある村落が、塵埃をかぶって地面にもぐってるに比べて、中支平野の村落は、ずっと地上に背を伸しているし、その屋背の曲線の美で人の目を楽しませるものも多い。この違いは、単に気候風土や貧富の差に依るのみではあるまい。人の住居の形態は、それをイメージとして抽出すれば、住む人自体にじかにつながる。
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 ここで目を転じて、北京の都市を眺めてみよう。
 北京についてはいろいろの讃美がなされた。将来もなされることであろう。観賞の対象としては、北京ほど多くのものを持ってる都市は支那全土にない。
 地図を見ればすぐに分ることであるが、北京は内城地域と外城地域とからなり、内城の中央に、その六分の一に当る広さの旧皇城がある。そして旧皇城の中に、旧紫金城の殿堂が聳えている。その黄瓦朱壁の宏壮な堂宇は、北京全市を翼下に納むるの概があり、周囲に広い公園地帯をめぐらしている。外城もまた広大な植林地のなかに、天壇の紫瓦朱壁の堂宇が聳えている。市内を歩いて、少しく視野のきく処に出れば、この二つのいずれかがすぐ目につく。
 この堂宇、黄金色の甍の屋翼と、紫色の甍の屋翼と、それを支える朱柱朱壁とは、五百年以前から今に至るまで、その勢威を保ち続けている。西太后の栄華を誇る郊外万寿山の建造も、この勢威のなかでなされているし、欧米資本による燕京大学や輔仁大学の建物も、この勢威を無視することは出来なかった。
 ところで、天壇は市の殷賑地区から遠い一隅にあるが、紫金城は市の中央にあって、その周囲にはまた至るところ、楽しい散歩場所が開かれている。中央公園の柏樹の木影には、無数の卓子と椅子とが並んでいるし、太廟の柏樹の林には、野生の鷺が群れているし、中南海園の楊柳の小枝は、広い蓮池の周辺にそよいでいるし、北海公園の喇嘛の白塔の付近には、さまざまの小記念物が散在しているし、景山の頂からは、全市の大観が指呼のうちに望み得られる。
 こうした地域を中心にして、市の街路は東西か南北かの方向に整然と開かれ、大通りには槐の並木がある。そしてこの整然たる街衢のなかにあっては、あらゆるものが落着いた平穏な相貌を示している。目貫の大通りたる王府井大街に東安市場があるのも、少しも不思議に思われず、その雑沓は百貨店内のそれに似寄って、而も上海の百貨店内のような喧騒さは持たない。前門外の老舗には、それぞれ専門の豪華な商品が豊富に並んでいるが、店員のみいて客の姿はめったに見えない。琉璃廠の骨董店は、狭い店先から次々に小室が続いてその奥が知れないほどであり、一室毎に店員が戸を開いて電灯をつけてくれる。天橋の貧民街や安物市場にあっても、目につくのは人間の群というよりも人影の群である。固有の料理法や各地の料理法を伝え紹興老酒の古甕を備えてる料理屋も、上海や南京のそれどころか、済南のそれよりも一層人声が少く、然し客は多い。京劇の芝居は大抵満員で、よい座席はなかなか取れない。各国使館地域はひっそりしていて、番兵の表情は、上海や天津に於けるような鋭さがないばかりか、至って退屈げである。夜間は門扉を閉してしまう城壁も、南京のそれのような厳しさは持たない。この北京の秋は、世界一のものと云われている。然しそれは、もの静かな秋で、支那第一と解すべきであろうか、或は好晴な日が続く故と解すべきであろうか。少しく風の日には、やはり埃が舞い立ち、人の靴は白くなり、喉はからからになる。それが、春頃の紅塵万丈の日には、濃霧以上に視界を遮り、自動車は停止するという。
 ところで、斯かる都市を、如何に評すべきであろうか。さまざまなものを豊富にしっくりと抱擁してる都市、そして中央に輪奐の美を誇る幾多の殿堂が聳え、楽しい遊歩場が広く展べられてる都市、それは観賞の対象としては実に高価であるが、近代都市の観念から見れば、その機能に何か欠けたもの或は鈍ったものが感ぜらるる。全体の雰囲気には、恐らく今次事変の影響が多いであろうが、都市の生理そのものについては、別個の批評も成り立とう。
 北京のイメージを延長してゆく時、或る人間像が眼に浮ぶ。教養もあり富有でもあり、その上、古い文化的伝統と社会的伝統とを身につけてる人々、そして今は静かな余生を楽しんでる人々、そうした人間像なのである。私はこれを支那の上層階級にも見る。
 茲にいう上層階級とは、支那流に解釈すべきである。成り上りの軍閥の属を指すのではない。古来支那では官吏は一流の文化人であった。地方の土豪劣紳にも、都市の老舗にも、学府の長老にも、この文化人の後裔は多く、その伝統は濃い。彼等は好人兵に劣らずという感懐を持ち、成り上りの軍閥に対する反感も強い。然し政治的には既に無力であり、或は逃避して、僅かな民心の信望を楽しみに、静かな生活を送っている。そして彼等の思想の根底には、支那人は結局支那の伝統に立還るという信念が横たわっている。支那の伝統とは、見方によっていろいろあろうが、ここではただ漠然と支那的性格というほどのものとなる。
 支那的性格というものは、固定的なものであろうか、或は新たな発展をなし得るものであろうか。ここにまた、新東洋文化についての一問題がある。
 支那人と個人的に交際する時、大抵の日本人は、こちらがまいってしまうという。殊には、前述の意味の上層階級の人々と交際する時、大抵の日本文化人はまいってしまう。何かしら文化的な社会的な修練の乏しさが、自分のうちに意識される。この意識は重要な反省の種とはなるが、然しそれに負けてはならないのである。それに打勝つだけの別個のものを所有しなければならない。支那の若いインテリ層は、自分の問題として、己が民族の問題として、このことを考えている。そして彼等は、私が前に描き出した人間像に対して、或は厳しい眼を向け、或は優しい眼を向ける。
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 ここでまた、青島の都市に飛ぼう。
 青島は、都市のなかでのハイカラなインテリ青年である。煉瓦とコンクリートと赤瓦との建物、鋪装しつくされた街路、アカシアやプラタナスの並木、支那には珍らしい青澄な海と美しい砂浜、苦心の植林によるこんもりと茂った小山、凡てが若々しく、知的な眼を輝かしている。
 港へ船がはいる前、海上から眺める※[#「山+労」、350-上-7]山の姿は絶勝である。秦の始皇帝がこの頂から、海の彼方の蓬莱島の不老不死の霊薬を偲んだという伝説に、如何にもふさわしい山容である。この右手の※[#「山+労」、350-上-9]山に対して、左手にも相似形の大珠山が聳えている。また、汽車で青島から出発する時、車窓から見える膠州湾内の帆形は微笑ましい。そして飛行機上から眺むれば、青島はただ赤一色の町である。
 青島全体が半島の先にのっかっている。半島の中央の小山は公園であり、半島の幾つもの岬も公園であり、それらの公園をつないで、海岸から小山へかけて、自動車を走らせるのもよく、馬車を駆るのもよい。そして片脇に大小の港をかかえ、背後にまとまった工場地帯を控えている。ドイツによるこの都市経営以来、更に広大な都市計画が立てられ、洋風赤瓦の建築法が一律に守られている。上海の新たな新市街計画も、また済南のそれも、恐らくこれほど整然とはゆくまい。
 青島には美しい海があるから、湖水も沼もいらない。だが、汽車と船とがあるから、電車がいらないとは云えまい。然し今のところ、電車がないのは却って騒音がなくてよいと思われるほどではあるが、馬車や洋車はこの都市では変に古風に見える。競馬場やゴルフ場は甚だ立派であり、映画館も小意気であるが、よい馬はなく、ゴルフの球は飛ぶこと少く、フィルムは古く、演劇の見るべきものは全くない。支那料理屋は甚だ少く、その数少い料理屋も、他の都会のものに比べて料理がまずく、老酒はおもに即墨の地酒である。北京のように公許の阿片喫煙所はないが、平庚五里の遊里はなかなか明朗である。山東産業館は規模は小さいが、この種の科学的な大衆的施設は他の都市にはあまりないだろう。
 この都市はまだ若く、支那的特殊なものに乏しい。そしてそれが却って、支那ではこの都市の特殊性となる。ドイツがこれを建設した当時、土民の乞いによって残されたという旧衙門と天后宮とだけが、旧支那式建設であって、他は悉く近代建築である。風光の美もそれに加わって、何となく知性的な眼を見開いてる感じがする。
 この感じは、近代思想に眼覚めた支那青年を思わせる。ところで、青島市が建設されてる素材は支那のものであるが、その様式は外国から来たものであるとして、支那の若いインテリ青年に於ても、果してそうであるだろうか。青島には、民族資本のねているものが今のところ二億あると云われる。それは上海や天津に比べてはごく小額ではあるが、然し青島としては大したものである。支那の若いインテリ青年のうちには果してどれほどの民族資本がねているであろうか。
 支那の民族遊資を引出すことが、経済工作の一問題であるとするならば、支那の精神的遊資を引出すことが、文化工作の一問題としてよかろう。そしてこの場合、遊資引出しは共同経営を意図するものであるし、文化工作は文化的共働を意図するものでなければなるまい。共働の目標は新東洋文化の確立にある。
 ただ、支那のインテリ青年は、その大多数が奥地へ遁入し、残った少数も多くは野にひそんでいる。北京にひそんでいる者が、如何ほどあるだろうかとの問いに、学生を除いて、まず三四十人はいるだろうと或人は答えた。上海には少し多くいるだろう。青島には幾人もいないだろう。そのイメージがじかにつながる青島に、幾人もいないことは、青島のために淋しい。然し、景色もよく気候もよい青島のこととて、此処に文化施設を盛んにすることによって、私のイメージは案外実際的なものとなり、新たな文化の発祥地の一つとなるかも知れない。
 北支の村落と北京と青島とについて、私は以上のような三つのイメージを持つ。支那を考えることは、またこの三つを同時に考えることであらねばならぬ。





底本:「豊島与志雄著作集 第六巻(随筆・評論・他)」未来社
   1967(昭和42)年11月10日第1刷発行
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2006年4月26日作成
青空文庫作成ファイル:
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