まっ白いネコ
九州の北海岸の、ある淋しい村に、古い小さな神社がありました。その神社のそばのあばら屋に、おじいさんとおばあさんとが住んでいました。おじいさんは、神社の神主で、ふだんは、近くの人達のためにお祈りをしてやったり、子供達にお
この老人夫婦といっしょに、十二―三歳の男の子がいました。老人達の孫にあたる子供で、早くからふた親に死なれ、ほかに身寄りもないので、ひきとられて育てられてるのでした。
おじいさんとおばあさんと孫と三人は、貧乏ではありましたが、楽しく、暮らしておりました。
ところが、冬の寒い日、おばあさんは病気になって、亡くなりました。
悲しみのうちに、お
それから毎日、五十日のあいだ、太郎は、おばあさんの墓におまいりしました。雨が降っても雪が降っても、欠かしませんでした。
五十日目の日は、珍しい大雪でした。二、三日前から降り続いていたのが、夜になって急にひどくなり、朝起きてみると、野も山も見渡す限り、一面にまっ白でした。
「あの通りの大雪だから今日は止めたらどうだい」と、おじいさんは言いました。
「いいえ、今日でお
足には、ももひきの上に、きゃはんをつけ、たびを何枚もかさね、ぞうりをはき、手に毛糸の手袋をはめ、大きな頭には、おじいさんの大きな
雪はもう降り止んで、うすく日の光が差していました。どちらを見ても、どこを見ても、まばゆいほど、まっ白に光ってる世界です。誰も通る人もなく、犬の姿も見えず、小鳥の声も聞こえず、ただまっ白で、静かです。太郎は飛ぶようにすすんでいきました。
街道からそれて、せまい坂道をしばらくのぼり、向こうの小高い丘の上、そこにおばあさんの墓がありました。
太郎は墓の前の雪を払いのけ、
「おばあさん、もう五十日たちました。安らかに眠ってください。おばあさんがいなくて、ぼくはさびしいけれど……けれど……しっかり生きていきましょう」
何度もおじぎして、そして帰りかけました。
手足が冷たくかじかんで、
墓地を出て、丘を下りかけ、大きな杉の木が一本立ってる曲り角まで来ましたときに、ばったり前に倒れました。
太郎は自分でもびっくりして、頭をあげて見まわしました。そして、膝がしらで起き上がろうとすると……なおびっくりしたことには、杉の木の根元に、吹き寄せられて積もってる雪が、ひとかたまり、むくむくと動き出しました。おや……と思って、よく見ると、そのまん中に、金色と銀色との二つの玉が、ぴかりと光っています。……それが、猫でした。
太郎は夢中に立ち上って、猫を抱きとりました。――一本の混じり毛もない、全身まっ白な小さな猫で、片方の目が金色で、片方の目が銀色で、長い
猫は太郎の胸にしがみついて、ニャーオ……と
「おう、よしよし……寒いの……」
太郎は猫をマントの中に入れてやり、上からしっかり抱きかかえて、うれしくてしようがありませんでした。もう寒さも疲れも感じませんでした。
「おじいさんおじいさん……猫がいたよ……あの大きな杉の木のところに……とてもきれいな猫ですよ」
おじいさんは、こたつから出てきました。
「ほう、なるほど、これは珍しい、きれいな猫だ」
太郎はマントも
「おじいさんの
おじいさんの胸までたれてる
「でも……どこの猫でしょう。うちにおいといて、いいかしら」
「そうさねえ、あんなところに、この雪の中にいたとすれば……ああこれは……おばあさんが、おまえに下すったのかもしれない」
「そうだ、きっとそうですよ」
猫は少しも恐がりませんでした。御飯を食べると、こたつの上へ座わりこんでお
太郎は、チロを自分のそばから放しませんでした。夜もいっしょに寝てやりました。チロは、おとなしく太郎の腕を枕にして眠りました。
夜中に、太郎は心配になって目をさまし、猫をなでてやりますと、猫もうっとり目を開き、その金の目と銀の目が、大きな星のように光りました。……その猫が、だんだん大きくなり、空いっぱいに大きくなり、長い尻尾が白雲のようにたなびき、二つの目が、金と銀の、まん丸なお月さまとなって、輝やきだします……。
太郎がびっくりして夢からさめると、白い小さな猫は、太郎の腕を枕にして、すやすや眠ってるのでした。
珍しい大雪がとけると、暖い天気が続いて、にわかに春めいてきました。木の芽が出かかり、草の葉が萌えだし、海は平に
太郎はチロをつれだして、野原や海岸で遊びました。通りがかりの人達は、まっ白な美しいチロを、立ち止まって眺めました。
りんごやなしを
「まあ、きれいな猫ですね。どんなものを食べてるんですか」
「なんでも食べるよ」
と、太郎は答えました。
「りんごでもなしでも、食べるよ」
「では、これも、食べさしてください」
そしてりんごとなしを、いくつも太郎にくれました。
みかんをかついでる人が、通りかかりました。
「まあ、きれいな猫ですね。どんなものを食べてるんですか」
「なんでも食べるよ」と、太郎は答えました。
「みかんでも、食べるよ」
するとその人は、みかんをいくつも置いて行きました。
大根や
「まあ、きれいな猫ですね。どんなものを食べてるんですか」
「何でも食べるよ」と、太郎は答えました。
「大根でも
するとその人は、大根と芋と人参を、たくさん置いて行きました。
海で
「まてまて……」
と、漁師のひとりが言いました。
「太郎さんの白猫に、御馳走してやろう」
そして大きな
魚や果物や、野菜が、たくさんたまりますので、太郎もおじいさんも困りました。しまいには、それを近所の貧乏な人達に分けてやりました。
けれどもまた、その美しい白猫を、うらやみねたむ者もありました。
太郎がチロといっしょに野原で遊んでいると、そっと、大きな犬をつれてきて、けしかけておどかす子供がありました。チロはびっくりして、太郎の肩に飛び乗って、せなをまるくして怒っています。太郎はそのチロを胸に抱いて、相手をにらみつけてやりました。
「きみんとこのチロ、弱虫だね」
「何言ってるんだい。りこうだから、やたらに
と、太郎は言い返してやりました。
「いざとなったら負けやしないよ。どんな高い木にだって登れるんだ」
「だけど、この犬みたいに
「できるとも。水も泳げるし、地にももぐれるし、空も飛べるし、何でもできるよ」
言ってしまってから、太郎は、とんだことを言ったと、
「うそばかり言ってらあ。それじゃ、泳がしてごらん。海を泳がしてごらん」
太郎はしばらく考えてから、答えました。
「泳がしてもいいが、濡れて風邪でもひくといけないから……そうだ、水にはいっても、毛のぬれないような薬を、持っておいでよ、そしたら、すぐに泳がしてみせましょう」
相手の子供は困った顔をしました。そして、言いました。
「そんなら、地にもぐらしてごらん」
「いいとも。だけど、地面の中じゃあ、道に迷うといけないから……そうだ、地の中に、いっぱいローソクをつけてくれよ」
相手の子供は困った顔を[#「困った顔を」は底本では「困って顔を」]しました。そして言いました。
「そんなら、空を飛ばしてごらん」
「いいとも。だけど、鳥じゃないから、やたらに飛ぶわけにはいかんよ。ここまでってはっきり、空中に印をつけてくれよ。すぐに飛ばしてみせよう」
相手の子供は困って、黙りこんでしまいました。
「ほんとに、チロはなんでもできるんだよ」と、太郎は言いました。
「だけど、めったにしないだけなんだ」
そして、かれはチロを抱いて、帰って行きました。
そういうことがあってから、太郎はなんだか心配になってきました。おじいさんは笑いました。
「心配することはないよ。猫というものは、なかなかえらいやつで、犬なんかに負けはしない」
それでも太郎は、安心しませんでした。家にいるときでも、始終、眠ってまで、チロのことを気にしました。いっしょに外に出かけるときには、そのそばを
神社の前の
ある日、太郎とチロは遊びつかれて、海岸の草原の上に寝ころんで、うっとりしていました。日の光がやわらかくさして、海がさーっ、さーっと、優しい音をたてていました。
白い波が巻きかえしてる砂浜が、ずーっと続いてる、その向こうの、松林から、何か黒いものが二つ、ぽつりと出てきました。それが、だんだん、非常な早さで、こちらへやって来ます。
それを、太郎はぼんやりながめていました。二つの黒いものは、しだいに大きくなって、海岸の草原をつたって、なおやって来ました……。二頭の馬でした。馬に乗った人達でした。太郎は、夢を見てるような気持ちがしました。もう近くへ来ました。二頭とも立派な、栗毛の馬で、先のには、女が乗り、後のには男が乗っていました。ふたりとも、黒っぽい洋服を着、長い靴をはき、細い
馬は足をゆるめて、たったったっ……と、ゆっくり、太郎のそばを通りかかりました。すると、先の女は、そんなところに太郎が寝そべってるのに、初めて気がついて、びっくりしたようすで、ぴたりと馬を止どめました。そして、じろじろ見ていましたが、ふいに、馬から飛び下りて、太郎のそばにやって来ました。
「まあ……」
チロの方を、じっとのぞき込みました。
「まあ、かわいい猫……」
女は後を向いて、何か合図をしました。男も馬から下りて来ました。
太郎はそれまで、ぼんやりそのふたりをながめていました。これまで見たこともないような、立派な馬、よその人らしい男と女、その美しいみなり、ことに、洋服を着てる女……。そのふたりが今、じっとチロのほうをのぞきこみましたので、太郎はびっくりして、そこに座ってチロを抱きかかえました。
「ほんとにかわいいこと。まっ白で、そして、
太郎は、なおしっかり、チロを抱きしめました。ふたりの男と女は、何かささやきあって、そして太郎とチロとを見くらべました。しばらくそのままで、誰も黙っていました。馬はのんきに草を食べています……。
やがて、見知らぬ女は、なおのぞきこんできました。
「それ、あなたの猫ですか」
太郎は黙ってうなずきました。
「それでは、ねえ、坊ちゃん、お願いがありますの……。それを、私にくださいませんか。お礼は、どんなにでもしますから……」
太郎はびっくりして、強く頭をふりました。
「私にくださいね。どんな[#「どんな」は底本では「どんで」]お礼でもしますから」
女はポケットから、手にいっぱい銀貨を取り出して、差し出しました。太郎は頭をふりました。女は次に、きらきら光るナイフを差し出しました。次には、金の鎖のついてる万年筆……次には美しい金時計……。
「いやだ、いやだ、いやだ」
そう叫んで、太郎はいきなり立ち上がって、チロをかかえて、逃げ出しました。
一生懸命に走りました。しばらくして、振り返って見ると、あの男と女が、遠く、海岸の上に、馬の
うちに帰って、ほっと息をつくと、太郎はチロの頭をなでてやりました。
「だいじょうぶよ、ねえ、チロ……誰が来たって、どんなことがあったって、ぼくはおまえを、よそにやったりなんかしないよ。おまえも、人に
チロは頭をすりつけて、ニャーオ……と鳴きました。
けれど、誰も、チロを盗みに来る者もなく、たずねてくる者もありませんでした。
それから、三日目の朝不思議なことが起こりました。家のそばの神社の前に、美しい
それを見つけて、太郎は、おじいさんを呼んできました。
「ぼく、びっくりしちゃった。誰がしたんでしょう」
「なるほど、
神主をしているおじいさんは、手をたたいて、
いつの間にか、チロも出てきて、米俵を駆けのぼったり、駆けおりたりして、遊び始めました。それを見てると、太郎も、おもしろくなりました。俵と俵とのすきまからのぞくと、望遠鏡でのぞくようです。俵の山の上にのぼると、いい気持ちで、遠くまで見渡せます。朝日の光が差してきて、新しい俵の
太郎はチロといっしょに、俵の山を乗り越えたり、周りをぐるぐる廻ったり、隠れんぼうをしたりして、遊びました。
近くの木には、
遊び疲れると、太郎とチロは、俵の上に寝そべって、うとうととしました。それから、また雀の声に目を覚しては、いろんなことをして遊びました。
「太郎や、太郎や……」
呼ばれて、気がついてみると、おじいさんが、向こうから手招きをしていました。
太郎はチロを抱いて、家に戻って行きました。すると……せんだって、チロをねだったあの女の人が、今日は、しとやかな
おじいさんは話してきかせました。
「この方が、しばらくチロを借りたいとおっしゃるんだよ。お宮に米を
太郎は、おじいさんの顔と女の人の顔とを見くらべて、しばらく考えこみました。
「チロと一緒なら、行ってもいいけれど……なんでも、好きなことをしていいの?」
女の人の目が、ぱっと大きく光りました。
「ええ、よろしいですとも、なんでも、好きなようにしてください。では、来てくださいますね、チロちゃんと一緒に……ね、来てくださいね」
太郎とチロが行った家は、さほど遠くではありませんでした。
海岸に沿った広い道を、自動車は飛ぶように走ります。
大きな家で日本室や洋室が、いくつもありました。主人の松本さん夫婦のほかに、
ほんとに、変な人達でした。太郎はそこに連れて行かれた時、びっくりしました。
かたすみに、立派な長
反対のかたすみには、
その男が、チロを抱いてる太郎を見ると、つかつかと立ってきて、低くおじぎを[#「おじぎを」は底本では「おじきを」]しました。
「おう、よく来ました」
そしてチロの方へ、大きく開いた両手を差し出しました。
「おう、白いきれいな猫……金の目……銀の目……おう、よく来ました」
それからチロを抱きとって、部屋の中を歩きだしました。
「これ、名前、何といいますか」
「チロです」と、太郎は答えました。
「チロ……チロ……よい名前だ……チロチロ……」
そして彼はもう、チロだけしか相手にしませんでした。
部屋の中には人形や
男はひどくうれしがって、ほかのガラス玉やゴム毬などを、いくつも転がしました。
チロはあっちこっち駆けまわっています。
女の子は、やはりじっと座ったまま、チロを見ていました。その長椅子の前に、毛皮のついた小さなスリッパがぬぎ捨ててありました。それに、チロがとびついてじゃれかかりました。
「こら、お嬢さんのスリッパを、なんだ」
男はそう叫んで、追っかけました。チロは逃げました。男はなお、追っかけました。四つばいになって、テーブルの下をくぐったり、
とび起きた男は、ものすごい顔をしていました。チロはもうスリッパも打ち捨てて、部屋のすみっこにちぢこまっていましたが、男はその方をにらみつけて、
はっとして、太郎はチロの前に立ちふさがりました。じっとしていた女の子も、とんで来ました。
男の顔はしだいにゆるんできました。それから、彼は、がっくりと
「ああ、私悪い、私悪い。チロ悪くない。私悪い」
そして彼は、しょんぼりした目つきをして、何度も頭を下げました。
女の子がにっこり笑って、太郎の方を見ました。太郎も笑って見せました。二人はチロをかばうつもりで、一緒にくっついて立っていたのです。そしてなんだか、急に親しい友達になったような気がしました。
「おじさんの、悪い
男は何度もうなずきました。そしてチロの方を優しい目で見やって、きまり悪そうに
太郎は、
ただ、その二人がどういう身分の人か、さっぱりわかりませんでした。松本さんの奥さんにきいても、よく教えてもらえませんでした。ふたりとも中国人だが、日本名前で、男の方はキシさん、少女のほうはチヨ子と、言われていました。
そのうちにお話してあげます、と、奥さんはそう言うきりで、意味ありげに、
二人とも、あまり外に出ませんでした。それを、太郎はよく誘い出しました。
広い
それにまた、太郎はキシさんから、馬に乗ることを教わりました。
ところが、ある日の夕方、松の
「太郎さん、これ、よくできた、ね」
どこから取ってきたのか、ねばねばした赤土で、大きな猫をこしらえてるのでした。手を泥だらけにして、にこにこ笑っていました。金貨と銀貨とが一枚ずつ、両方の目に入れてあります。
「金の目……銀の目……ね、よくできた」
そして彼は、さも大事らしく、声をひそめて言いました。
「あなたとチロのおかげで、お嬢さん元気になった。私うれしい。これから、だんだん、願いごとかなう」
「願いごとって、なあに?」
と、太郎はたずねました。
「それ、大事なこと……まあ、見ていてください。この猫、生かしてみせます」
そして彼は、赤土の大きな猫の前に屈んで、両手を胸に握り合わして、何か口の中で唱えました。しばらくすると、急に立ち上がって、両手を頭の上にさし上げ、それからまた屈んで、頭を垂れ、両手を組み、そんなことを何度もくり返し、そしてじっと猫の方を見つめました。
「それ、生きた、動いた。ね、動いた」
太郎は、ばかばかしくなりました。赤土の猫が生きて動く……そんなばかなことがあるものですか。
「動きなんかしないよ」と、太郎は言いました。
「よろしい。今度は動く」
キシさんはまた、前のようなことをくり返しました。
太郎は目をみはりました。すると、それはやはり、赤土の猫でした。彼は頭を振りました。無理に言いました。
「明日、明るい時でなくっちゃ、わからないや」
「よろしい、明日、します」
二人は約束しました。太郎はびくびくした気持ちであくる日を待ちました。
――あんな人だから、何か魔法でも知ってるのかもしれない。いや、赤土の猫が動く、そんなばかなことがあるものか。でもさっき、少し動いたような気もした……。
太郎はいろいろ考えあぐみました。キシさんの
あくる朝、太郎はキシさんと一緒に、庭の奥にやって行きました。松林の中は、すがすがしく、朝日の光が差していました。
ところが、まあ……赤土の猫は、むざんにも、何度かに踏みにじられて、ぺしゃんこなひとかたまりの泥となり、金貨と銀貨とが、その中で光ってるだけでした。
キシさんは、
太郎もぼんやりたたずんでいました。
そこへ、チヨ子がチロをあやしながら、やって来ました。キシさんは両手を差し出しました。
「おう、お嬢さん、いけないことある。私悲しい」
「どうしたの」
「これ、これ、この猫……」
キシさんは、踏みつぶされてる赤土の猫を指し示しました。
「それが、どうしたの」
「これ、わたくし作って、
「まあ、これがそうなの?」
チヨ子は、じっとキシさんの顔を見ておりましたが、ふいに、わっと泣きだして、キシさんの胸にすがりつきました。
「おじさん、ごめんなさい。ああ、あたしどうしよう……おじさん……。あたしね。さっき、チロをあやして遊んでいるとき、それにつまずいて、それから、踏みつけてみると、赤土でしょう、しゃくにさわったから、踏みつぶしてやったの……。なんにも知らなかったのよ。ごめんなさい。ねえ、ごめんなさい」
「それでは、あなた、踏みつぶしたですか。この猫、ほんとに、あなた、踏みつぶしたですか……。おう、いけない。そんなこといけない。金銀廟の猫……」
「だって、あたし、なんにも知らなかったの。ああ、どうしよう」
キシさんはそこにしゃがみこみ、チヨ子はその膝にとりすがり、そして二人とも泣いています。
太郎には、さっぱりわけがわかりませんでした。赤土の猫じゃないか……それを。
「金銀廟の猫って、なんですか」
キシさんは、初めて太郎に気がついたかのように、びっくりしたようすで太郎を眺め、それから深くため息をついて、そして話してきかせました。
それから二年たって、玄王のところへ、非常に強い
その玄王のむすめというのが、チヨ子で、李伯将軍というのが、キシさんで、大連の貿易商は、この家の主人の松本さんです。
「そして、
と、太郎はたずねました。
「おう、金銀廟の猫!」
と、キシさんは叫びました。
玄王の城の中に、金銀廟という
「私、その猫に、
キシさんがうなだれると、チヨ子はまた泣きだしました。
太郎は、どう言ってなぐさめてよいかわかりませんでした。そんなことは、
「ばかだなあ、きみたちは、泣いてばかりいて……」
と、太郎は言いました。
「チロは雪の中から出てきたんだよ。
キシさんと、チヨ子とは、チロを抱いてつっ立っている太郎を、びっくりして見あげました。
「赤土の猫なんか、だめだよ。チロは生きてる猫で、金目銀目だ。これを連れて行こう。ぼくも行ってやるよ。みんなで蒙古に行こう」
キシさんとチヨ子とは、目を輝やかして、太郎の手を握りしめました。
太郎は、チロといっしょに、
そのことを聞くと、松本さん夫婦は、心配しました。けれど、太郎のおじいさんはかえって太郎の勇気をほめ、立派なことをしてくるようにと元気づけ、なお薬を
松本さん夫婦、チヨ子とキシさん、太郎とチロ、それだけの人数でした。太郎は立派な服を作ってもらいました。
船は
そのあくる日の夕方、太郎はもうたいくつして、デッキに上がって暮れかけた海原をながめていました。冷たい風が吹いて、デッキには誰もいませんでした。ただ……。
太郎は気がついて、目を見張りました。向こうに、みすぼらしいみなりの十五―六歳の少年が、ぴかぴか光る輪をいくつも持って、それを投げたり受けとめたりして、ひとりで遊んでいました。いや、遊んでるのではありません。一生懸命になって、なにか練習してるのです。輪を一つ受けそこなって、とり落とすと、自分で
太郎はその方にやって行きました。
「何をしているの?」と、太郎はたずねました。
少年は悲しそうな目付きで答えました。
「練習してるんだよ」
「なんの練習だい」
「輪投げだよ」
「そして、何になるの」
「ぼくの商売だよ。
「ほう、きみは手品使いかい」
「うん。だけど、まだうまくいかないんだ」
少年はいくつもの輪をがちゃがちゃいわせながら、そこの手すりによりかかって、海をながめました。それから、ふいにたずねました。
「きみは
「うん」
「なにしに行くんだい」
太郎は黙っていました。
「行ったっておもしろいことはないよ。ぼくは小さい時、おじさんに連れられてきて、ほうぼうをまわったが、つまらなかった。いやになって、またちょっと、日本に戻ったけれど、日本でも、あまりおもしろいことはなかった。それに、おじさんが病気をして、手足がよくきかなくなって、
「そして、これから、何をするつもりだい」
「やっぱり、手品使いさ。ああ、ぼくが早くじょうずになるといいんだがなあ」
「毎日、練習をするのかい」
「そうだよ」
そして彼は、なにか急に思い出したらしく、駆け出して行こうとしました。
「ねえきみ」と、太郎は後から呼びかけました。
「
「ああ行くよ、行くよ」
そそっかしい少年で、それきり向こうに駆けて行きました。太郎はしばらく待ってみましたが、彼はもう出てきませんでした。太郎は船室に戻っていきました。名前もわからず、ところもわかりませんでしたが、その少年のことを、なつかしく考えました。
あくる日、船は大連につきました。太郎は手品使いの少年を探しましたが、見つかりませんでした。
松本さんの店は、
ところが、大連でも、
チヨ子は、家の中でチロと遊んでばかりいて、少しも外に出ませんでした。それで、太郎はひとりでよく出かけました。
大連には、いろいろな国の人が多く、いろいろ立派な家が並んでるので、太郎には珍しくおもしろく思われました。
ある日も太郎は、ひとりでぶらぶら歩いていました。すると、港近くの広場におおぜい人だかりがしているので、行ってみました。
広場のまん中にござをしいて、三角の帽子をかぶり、汚い服をつけた少年が
「おや、あれは……」
太郎はつぶやいて、なおよく見ますと、確かに船の中で知りあった少年です。
「だいぶ練習したらしいな。うまくなってるよ」
太郎はひとりごとを言って、人の後から見ていました。
少年は、いつかの輪投げの芸を見せていました。今日は、五色にぬった輪を五つ持ち出して、高く宙に投げあげては受けとめ、両手でくるくる使い分けをして見せました。それがすむと、長い竹の先で、皿まわしをして見せました。次には一枚の銀貨を、からだのあちこちに隠したり、あちこちから出したりして見せました。その合間には、しゃちほこ立ちをしたり、とんぼ返りをしたりしました。
だけど、群衆はただぼんやり見てるきりで、
次に少年は、ひと抱えほどある大きな
毬の上に乗って、足でそれを転がしていくのです。それを少しやっているうちに、彼の顔は赤くなり、
「ばか!」
と、叫ぶ者がありました。
少年はいらだって、やり続けました。
「やめろ、へたくそ! やめちまえ」
と、叫ぶ者がありました。
少年はなおさらいらだって、夢中にやり続けようとしました。
「やめろ。ばか、へたくそ!」
人々はどなり出しました。少年はなおいきりたちました。
「やめちまえ。もらった金を返せ」
「こんな
群衆は騒ぎだしました。少年は
「待ってください、待ってください」
と、するどい声がひびきました。
太郎が、そこに飛び出して、子供ながらも、少年を後にかばって両手を広げて、つっ立ったのです。
太郎はなお大きな声で言いました。
「待ってください、この人はぼくがよく知っています。
群衆は少し静かになりました。太郎はなお言いました。
「あすはすばらしい芸を見せてあげます。ここで、この場所で、すばらしい芸を見せてあげます。うそだと思ったら、この手品の道具をあずかっておいてください。あすやって来て芸を見せます。逃げも隠れもしません。うそだと思う人は、この手品の道具をあずかってください」
こんな手品の道具なんか、誰もあずかろうという者はありませんでした。太郎は得意気に
「私、その道具あずかる」
太郎はびっくりして、ふりかえって見ますと、それは、労働者のような汚いみなりをしてはいますがまさしく、キシさんです。毎日一緒に暮らしてる、あの
キシさんは、つかつかと歩み寄ってきました。
「あすまで、その道具あずかる」
そして小さな声で、太郎にささやきました。
「
それから、また大きな声で言いました。
「明日、ここで、すばらしい
そしてもうキシさんは、片手に銀貨をいっぱい握って、それを差し出していました。
太郎は困りました。まさか手品の道具をあずかろうという人があろうとは思いませんでしたし、しかもキシさんが出てこようとは思いもかけなかったのです。けれども、キシさんなら、自分が持ってるのと同じことだし、「秘密、秘密」と言われたのは、何かわけがあるに違いありません。それで太郎は、わざと知らん顔をしていました。
「それでは、道具のかわりに、そのお金をあずかっておきます 明日[#「おきます 明日」はママ]、ここに来てください。そしたら、すばらしい手品をして見せましょう」
キシさんはお金を渡すと、
おおぜいの見物人も、しだいに立ち去ってしまいました。
広場のまん中で、太郎と手品使いの少年とは、ぼんやり顔を見あわせました。少年は、ただあっけにとられてるようでした。
太郎は言いました。
「きみの道具を持っていったあの人は、ぼくが一緒にいる人だよ。今はあんな汚いないなりを[#「汚いないなりを」はママ]していたが、偉い人なんだ。心配しないでもいいよ」
「でも、あすはどうしよう」
「ああ、
そしてふたりは歩きだしました。
少年はふいに立ちどまりました。
「きみとは、こちらにくる船の中で、知り合ったばかりだが、名前は何というんだい」
「
「ぼくは
ふたりは笑いました。上野太郎……下野一郎……口に中でくりかえすと、おかしくなって、また笑ってそれから仲良く
ふしぎな地図
太郎と一郎は、料理屋によって、いろんなおいしいものを買い、それを折り箱に詰めてもらいました。そして、一郎のおじさんの、手品使いの老人のところへ行きました。だんだんからだがきかなくなって、もう寝てばかりいるのだそうです。だから一郎はひとりで、下手な
町はずれの、汚い小さな宿屋でした。
「そっとはいるんだよ。おじさんはよく眠ってることが多いから……」
と、一郎は言いました。
部屋にはいると、片隅に、薄い
小さな
窓から外を見ると広い
「さびしい所だね」
と、太郎は言いました。
「でも、
と、一郎は言いました。
「あの池ね、どうしてあんなに赤くにごってるんだい」
「まわりが赤土だからだよ」
「魚も何もいないだろうね」
「いないよ」
「つまらないね」
「それでも、
一郎は、そっと立っていって、
「これね、おじさんが大事にしてる鳥なんだよ。そして何度も、おかしな話を聞かしてくれるんだよ」
一郎はその話をしてくれました。
あるところに、くちばしを二つ持ってる鳥がいたんだって。長いくちばしと、短いくちばしと、二つあるんだよ。その鳥が、池のふちに立っていた。おおかたあすこに見えるような、にごった池なんだろう。食べるものがない。鳥はお腹を空かして、池の
「おまえ、そのへんのごみの中をつついてみないか。何かいるかもしれないよ」
「いやだ」
と、短いくちばしは答えた。
「こんな汚いごみの中をつっつくのはいやだ。おまえがつっついたらいいじゃないか」
そして二つのくちばしは、
――「だって、いいじゃないか」
と、長いくちばしは言った。
――「お前とおれとは、一つの腹きり持っていないんだから、おれが食べたって、お前が食べたって、同じことじゃないか」
――「違うさ」
と、短いくちばしは言い返した。
「お前はいつもうまいものを味わってるし、おれはまずいものばかり、味わってる。
――そして、いくら言い争ってもきりがないし、しまいにはどちらも黙りこんでしまった。けれど、やはり食べるものはないし、お腹は空いてくるので、長いくちばしはまた、短いくちばしに向かって、そのへんをつっついてみろと言いだしたんだ。短いくちばしはほんとに怒っちゃって、どうなろうとかまうもんかという気で、ごみの中や泥の中をやたちにつっつきまわしたよ。
――すると、食べるものはなんにもなかったが、泥の中から、大きなものがにゅっと出てきた。よく見ると、
――「危ない、危ない」
と、長いくちばしは叫んだ。
「もうやめろよ。
――「なに、かまうもんか」
と、短いくちばしは言った。
「おまえが無理にさせたんじゃないか。死んだっておれの知ったことじやない」
――そして短いくちばしは、半分やけくそになって、わざと亀の頭をつっつくと、亀は怒って、その短いくちばしをくわえたんだ。大きな亀で、短いくちばしをくわえたまま、鳥全体を、泥水の中に引きずりこんでしまった。そして、両方のくちばしとも、鳥と一緒に、その汚い泥水の中で
――その鳥がこれだと、おじさんは言うんだ。短いくちばしは、亀にくわえられて折れたから、長いくちばしだけが残ってるんだって。だからこのとおり、横っちょについてるんだよ。
そんな話を聞いていると、太郎にはその
「きみのおじさんは、そんな話をたくさん知ってるのかい」
「ああ、いくつも知ってるよ。もっと話してあげようか……。あ、おじさんが起きた……」
薄い
老人は、薄いどてらをひっかけて、起きあがりました。やせ細っていて、顔や手は日に焼けて赤黒く、髪には
一郎は太郎を
老人はいちいちうなずいて、おもしろそうに一郎や太郎の話を聞きとりました。
「私も
老人は、押し入れの中に頭をつっこんでしばらく何かさがしましたが、やがて何枚もの白い紙と、
「さあ、その紙を、その眼鏡でのぞいてごらんなさい」
太郎は不思議に思いながら、その白い紙をひろげて、眼鏡でのぞいてみますと……びっくりしました。ただの白い紙のようですが、その上に、ありありと、いろいろなものが浮かび出てきました。山があります、川があります、道があります、家があります、大きな塔があります、馬車があります、
「わかったでしょう。それは、地図ですよ。さて、その
老人は他の紙一枚よりだして、その始めの方を指しました。そこを眼鏡でのぞいてみると……白い塔が立っていて、その上に、小さな白猫が寝ています。よく見ると、太郎のチロとそっくりで、いまにも起きあがって駆け出しそうです。
太郎は驚いてしまいました[#「驚いてしまいました」は底本では「驚いてしましいました」]。ちょうど、窓から夕日が差して、部屋の中がまっ赤になり、まるでおとぎばなしの国にいるような気もちでした。
「一郎がお世話になったお礼に、その地図をあげましょう」
と、老人は言いました。
「金銀廟まで行くには大変だから、
太郎はうれしくてたまりませんでした。もう、すぐにも金銀廟まで行けるような気がしました。白い塔……白い猫……それまでも地図に書いてあるんです。
太郎は何度もお礼を言いました。そして、おじいさんからもらった薬――肌につけて大事にしてる薬を、少し老人にわけてやりました。そして帰って行きました。
一郎がおくってきてくれました。ふたりはまた、腕を組みあわせて歩いていきました。
「きみのおじさんは変な人だね」
「なぜだい」
「変なものばかり持ってるじゃないか」
「そりゃあ、
そして一郎は立ち止まりました。
「あ、明日の手品はどうしよう」
「そうだ、これからキシさんに相談してみよう」
ふたりは、あくる日のことを約束して別れました。
太郎はすぐに、キシさんの部屋へ行ってみました。不思議な地図のこと、不思議な
部屋の中はごったがえしていました。一郎からあずかった手品の道具のほか、はしごだの、
「よいところへ帰りました」
と、キシさんは太郎に言いました。
「みんな、手品使いになるんです あなたも[#「なるんです あなたも」はママ]、すきな服、あつらえなさい」
「みんなで手品使いになるの?」
「そうです、そうです」
そしてキシさんは[#「キシさんは」は底本では「キシさは」]、太郎を部屋のすみにひっぱっていって、
「手品使いに化けて、
「すてきだ、おもしろいなあ」と、太郎は叫びました。
「すぐに行こうよ」
「しっ、
そこで、太郎は、五色の
「あすから、始めましょう」と、キシさんは言いました。
「私とあなた、芸の競争をしよう。どちらが勝つか……」
「よし、やろう。負けるものか」
「私も負けない」
そしてふたりは、笑いながら
太郎はその夜、眠られませんでした。キシさんと芸の競争をすることになってみると、さあ、負けたくはありません。けれど、
「困ったなあ……」
太郎はため息つきました。一郎のおじさんから教わろうかしら……とも考えましたが、それでは間に合わないでしょう。
「はて、どうしたものかしら……」
太郎は、
「あ、そうだ」
太郎は思わず叫びました。よい考えが浮かんだのです。
太郎は起きあがりました。そして、こっそりと練習をしました。どういうことをしたか、それは後で申しましょう。
雲もなく風もない、よいお天気でした。あつらえた服や帽子も届きました。それを身につけると、キシさんもチヨ子も太郎も、見たところだけは、立派な手品使いでした。
三人は、町の広場に出かけました。前の日のことがあるので、もう、おおぜいの
まず、キシさんとチヨ子とがすすみ出ました。キシさんは長いはしごを持ちだして、それを両手で頭の上に立てました。すると、チヨ子がキシさんの肩に昇り、それからはしごを一段ずつ、ゆっくり、ゆっくり、昇り始めました。キシさんは足をふんばり、両腕に力をこめて、うん……と力んでいます。チヨ子は、だんだんはしごを昇っていきます……。
「えらい、力だ」
「力じゃない、芸だ」
「いや、力だ」
「危ないことをするなあ」
チヨ子は、はしごの一番上まで昇りました。紫の服が、日の光に照り映え、帽子の白い羽がちらちらふるえました。そしてチヨ子は、美しい声で歌いました。
魔法のはしごは、
のびるよ、のびるよ、
天までとどくよ。
天にのぼれば、
五色の花が、
咲いた、咲いたよ、
五色の花が。
のびるよ、のびるよ、
天までとどくよ。
天にのぼれば、
五色の花が、
咲いた、咲いたよ、
五色の花が。
歌ってしまうと、ポケットから何かとりだして、ぱっと放りました。それは五色のテープで、五色の
今度は太郎の番です。太郎は玉乗りの大きな
チョチョチョン、チョチョチョン、チョチョチョン、チョン……太郎の手が鳴ります。ころころ、ころころ……と毬が転がります。チロはちゃんとその上に乗っていて、チリリン、チリリン、チリリン、チン……と首の鈴が鳴ります。太郎が手を叩くのをやめると、チロは四本の足で毬を止めてしまいます。
実に、見事な猫の玉乗りです。わーっと喝采がおこりました。太郎は目に涙をためて、チロを抱きとりました。
ほんとうに成功でした。思いがけないほどうまくいきました。太郎とチヨ子とキシさんとは、うれしさに涙ぐんで、手をとりあいました。一郎は、見物人が放り出してくれたお金を、拾い集めました。
「お金もうかる、お金もうかる」
キシさんがそう言ったので、三人とも笑いました。
そこへ、一郎のおじさんが出てきました。太郎からもらった薬が、不思議によくきいて、元気になってるのでした。そのお礼に、おじさんは
「これならだいじょうぶだ」
キシさんも、太郎も、そう考えました。そしていよいよ、
三人は、手品使い……というよりも、
奇術師になった三人は、多くの荷物を持って、
鉄の
山海関で、大事な用がありました。奇術をやりながら、
馬は、すぐに見つかりました。たくましい、栗毛の馬を二頭買いました。ところが、じょうぶな
そしてある晩、むだにあちらこちらたずね歩いたのち、宿屋に帰りますと、並木の下のうす暗いところに、ひとりの少年が、しくしく泣きながら、立っていました。
「どうしたんだい」と、キシさんは親切にたずねました。
少年はなおしゃくりあげました。
「なんで泣いてるんだい」
「家から追い出されたの」
と、少年はやっと答えました。
「追い出された……何か悪いことをしたんだろう」
少年は頭をふりました。
「ぼくは、メーソフさんのところに、
馬車と……というのを聞いて、キシさんと太郎とは、顔を見合わせました。太郎はもうだいぶ中国の言葉もわかるようになっていたのです。キシさんは少年を、ベンチのあるところにつれて行って、そしてわけを聞きました。
メーソフさんというのは、年とったロシア人で、
その馬車に、不思議な言い伝えがあります。何か変ったことがあるときには、その屋根がきいきい鳴るというんです。
ところが、この二、三日、少年が倉の中にはいっていくと、なんだか、馬車の屋根がきいきい鳴るようです。始めは気にもしませんでしたが、何度もそれらしい音がきこえるので、少年は気味悪くなりました。馬車の屋根がきいきい鳴りますよ、と少年はメーソフさんに注意しました。メーソフさんは黙っていました。少年はまた注意してやりました。すると、メーソフさんはひどく怒りました。
「そんなばかなことがあるものか。とんでもないことをいう奴だ。けちをつけやがって……今晩はめしを食わしてやらないぞ。出ていけ!」
そして少年は、御飯も食べさしてもらえず、外に追い出されたのでした。
「その馬車を買いましょうよ。ちょうどいいや」
と、太郎はキシさんにささやきました。
「うむ、よかろう」
と、キシさんは答えました。
そこで、ふたりは少年に案内さして、メーソフの
大きな店でした。
少年は、ふたりをメーソフの所に連れていって、
「案内して、お見せしろ」
と、メーソフはぶあいそうに言いました。
裏の倉の中には、石だの像だのが転がっていて、うす暗くて、冷え冷えとしていて、すみの方に、大きな馬車がありました。少年が言った通り、古いけれどじょうぶな鉄の馬車でした。
キシさんと太郎は、メーソフのところに戻ってきました。
「あの馬車は、いくらですか」
と、キシさんがききました。
メーソフは、じろじろふたりのようすを
「あの馬車は、売られません」
「え、売られない……でも、見せてくれたでしょう」
「見せてはあげます……けれど、売りはしません」
キシさんは、しばらく考えてから、また言いました。
「売ってくれませんか。値段のことなら、少しは高くてもいいんですが……」
「いいえ、売りません」
そして、メーソフの
「なぜ売らないんですか」
「なぜでも、売りません」
ぶあいそうな、ぶっきらぼうな返事なので、どうにもしかたがありませんでした。
キシさんと太郎は、すごすご出ていきました。
「早くめしを食ってこい」
と、少年にどなってるメーソフの声が、うしろに聞こえました。
けれどあの馬車なら、
そのあくる朝、太郎はにこにこして起きあがりました。うまい考えが浮かんだのでした。
「まあ、待っていてください」
太郎はキシさんにそう言って、お金を持って出かけました。
太郎はふんがいしたように言いました。
「メーソフさん、あなたは、
「ほう、どうしてですか」
と、メーソフはたずねました。
「昨日見せてもらった鉄の
メーソフは目玉をぐるっと動かしました。
「あの馬車はすっかりさびついていて、動きはしないと、みんな言ってますよ」
メーソフはまた目玉をぐるっと動かしました。
「あの馬車はただの飾りもので、引き出せば、ばらばらにこわれてしまうと、みんな言ってますよ」
メーソフはまた目玉をぐるっと動かしました。
「あんな馬車を、さも大事そうに飾りたてとくなんて、メーソフはとんだインチキやろうだと、みんな言っていますよ」
メーソフは、また目玉をぐるっと動かしました。
「ぼくがいくら弁解しても、誰もしょうちするものがありません。ぼくはくやしくてたまらないんです。だから、今日
太郎の話を聞いて、メーソフはふんがいしていました。
「よろしい、みんながそんなことを言ってるなら、うんと見せつけてやってください。メーソフの馬車は飾りものじゃない」
そこで、倉から馬車を引っぱり出して、ふくやら、磨くやら、油をさすやら大変働きました。
馬車はすっかりきれいになりました。
太郎はホテルに戻って、キシさんにわけを話し、馬車を
馬に
馬車は、夕方になっても、夜になっても、戻ってきませんでした。メーソフは、心配し始めました。
あくる朝早く、メーソフは起きあがりました。そしておもてをあけてみると、馬車がそこにありましたので、駆けよって行くとおどろきました。
馬車の中には、変な人が三人乗っていました。白と黒との
そればかりではありません。
メーソフはあきれかえって、目をみはりました。
メーソフの姿を見て、太郎は笑いながら飛び出してきました。それから、両腕を組み、首をかしげて、いばりくさったようすで言いました。
「メーソフさん、この馬車はなかなかいいですね。すっかり気に入りました。どうか売ってください。ぼくたちは、このとおり、じつは
メーソフが怒りだすかと思って、太郎は内心びくびくしていましたが、メーソフはしばらく太郎のようすをながめて、それから、
「ほう、あんたがたは、
「え、本当、本当ですか」
メーソフは何度もうなずきました。太郎はその胸にすがりつきました。キシさんも馬車から出てきて、メーソフとしっかり
いよいよ
始めのうちは、のんきでした。
村がだんだんなくなってきます。見渡す限りひろびろとした
それから、カラマツの森の中に、また迷いこんで、四―五日も出られなかった時は、さすがのキシさんも弱ったようでした。一番困るのは、水がなかなか見つからないことでした。そしてある夕方、思いがけなくその森から出ると、すぐそこに、ひとかたまりの家がありまして、その先には、青々とした野原が広がっていました。
「村だ、村だ」と、キシさんは叫びました。
馬を駆けさせて、村にはいりました。
村といっても、十二―三軒の家だけで、その家はみんな、低い
キシさんは馬車から下りて、家の戸を一つ一つ叩いてまわりましたが、誰も開けてくれる者はなく、返事もなく、家の中には人のけはいもありませんでした。
「おかしい。誰もいない」
太郎も馬車から下りて、家の戸を叩いてまわりました。
「どこにも、誰もいませんね。どうしたんでしょう」
キシさんと太郎とは、なお村の中を見てまわりましたが、やっぱり人の
「はっはっは……」
キシさんは笑いました。
「人間のかわりに亀がいる」
亀はその声に驚いたように、どぶん、どぶんと、池の中に滑りこんでいきました。その時、太郎はふと思いだしました。一郎のおじさんが持っていた
太郎はキシさんを引っぱっていって、
「あ、これだ、これだ」
キシさんも眼鏡でのぞきました。
「おう、金銀廟は近いぞ」
チヨ子も、眼鏡でのぞきました。そしてにっこり笑いました。
確かに、二つのくちばしの鳥と亀との話の池です。金銀廟もそう遠くはありません。みんな急に元気になりました。
人のいない、変な村……そんなことはもうどうでもよくなりました。
夕方でしたから、食事をして、その夜はそこで、
その夜遅く、太郎は目をさましました。馬車の屋根がきいきい鳴るような気がしたのでした。何か変ったことがある時には、馬車の屋根がきいきい鳴ると、そう聞いていたからかもしれませんし、また実際に鳴ったのかもしれません。そして太郎が目をさましてみると、チロが起きあがって、肩をいからし、馬車のそとにじっと気をくばっていました。
太郎は耳をすましました。あちこちの家の戸口にかすかな音……それから人の足音……そんなのが聞こえるようです。馬車の屋根がきいきい鳴ってるような気もします。
太郎は、そっとキシさんを起こしました。
「人の足音がしますよ」
キシさんも耳をすましました。
「うむ何か音がしてる」
昼間は、誰もいなかった村です。それがこの夜中に……確かに音がしています。キシさんはピストルを手にとりました。そして馬車の窓を引きあけると同時に、叫びました。
「誰だ?」
外は、しーんとして、もう何の音もしませんでした。
しばらくすると、キシさんはあわててあかりをつけて、出ていきました。そしてすぐ、木の下につないでおいた二頭の馬を引っぱってきて、
「馬を盗まれたら大変だった。こうしておけばだいじょうぶだ」
そしてキシさんはまた眠ってしまいました。
それから長くたって、馬車が激しくゆれて、みんな目をさましました。馬が足で地面をしきりに蹴っていました。
キシさんはむっくり起きあがって、窓を開きました。外はほの白く、夜が明けかかっていました。そしてすぐそこに、まるい帽子をかぶった大きな男がふたりじっと立っています……。
向こうも黙っていました。こちらも黙っていました。黙ってにらみあっていました。
やがて、ふたりの男の内のひとりが、まっすぐに手を上げて、森の方を指しながら言いました。
「すぐに立ちのけ」
「なぜですか」
と、キシさんはとぼけたように言いました。
「すぐたちのくんだ」
と、男はくり返しました。
「何かあるんですか」
「なんでもよろしい。すぐ立ちのけ」
と、男はくり返しました。
そのようすにも、声のちょうしにも、なにか力強いものがこもっていて、命令するのと同じでした。
しかたがありません。キシさんは
けれども、キシさんが馬を進めたのは、男から指し示めされた森の方へではなく野原の方へでした。そちらが
そして野原の中を、三十分ばかり進んで、それから
その時、向こうの地平線のあたりから、何かぽつりと黒いものが出てきました。見ているうちに、それがだんだん大きくなります。近寄ってきます……。馬にのった一隊の人々です。銃や剣が朝日にきらきら光っています。全速力でやってきます……。
キシさんをまっ先に、太郎もチヨ子も立ち上がりました。そして馬車に乗りましたけれど、もう逃げるひまはありませんでした。
百人あまりの
人のいないひっそりした村のようでしたが、村人達は家の中にひそんでいたのでしょう。そこへ、襲いかかったのです。そしてもう、激しい
その遠い銃声を聞きながら、十人ばかりの
匪賊共は、馬車をとり巻いたまま、中のようすをうかがっていました。
やがて、匪賊のひとりが声をかけました。
「お前達は、何者だ」
「ごらんのとおりのものです」と、キシさんが落ちつきはらって答えました。
二、三人の匪賊が、そっと馬車の中をのぞきこんで、みんなのようすをじろじろ眺めました。
「ほほう、
「そうです、手品もやれば奇術もやります」
と、キシさんは言いました。
「あちこち旅してまわっているうちに、道に迷って、困っているとこです。どこか金もうけができるところへ案内してくださいませんか。手品や奇術にかけては、世界一の名人ですよ」
匪賊たちはしばらく、互いに何か相談しあいました。
「よろしい。それでは、おれたちのところへ来い。おれたちはな、
キシさんはもとより、太郎もチヨ子も、内心はっとしました。金銀廟の玄王……チヨ子の父、
キシさんは、太郎とチヨ子にめくばせしました。そして
「
匪賊が案内してくれるので、道に迷う心配はありませんでした。そのかわり、山坂になってる野原を駆け続けるので、つらい旅でした。そして二日目の夕方、金銀廟の城につきました。
キシさんとチヨ子にとっては、なつかしい故郷でした。白い塔はもとより、山にも木にも草にも、あらゆるものに見覚えがありました。
馬車のまま城の中にはいって、長く待たされて、それから広間に通されました。
荒くれた人たちがおおぜい、酒盛をしていました。
正面にあぐらをかいてる、
「
キシさんは、ていねいではあるが、きっぱりしたちょうしでたずねました。
「あなたが
「なに、玄王だと……玄王はいま病気だ」
「それじゃあ、奇術はまあやめましょう。金銀廟の玄王のところへといって、連れてこられたのですから、玄王の前でまずやらなければ、奇術の神様が怒ります」
「
「奇術の神様です。私共の奇術は、その神様からさずかった、とうとい術ばかりです。神さまにうそをつくようなことをしてはいけません」
「ふらちなことをいう奴だ。よし、奇術をしないというなら、ちょうど、五十人ばかりの
キシさんは考えこみました。
ところが、キシさんのかわりに、ニャーオと……猫が鳴きました。太郎が上着の中にかくして抱いていたチロが、外に出たくて鳴きだしたのです。そしてあばれだしたのです。しかたがないので、太郎はチロを出してやりました。チロは喜んで、広間の中を駆けまわりました。
匪賊たちはびっくりしたようでした。それから、不思議そうにチロをながめて、ささやきあいました。
「まっ白な猫だ」
「
「
太郎はチロを追っかけました。
「チロ、チロ……おいで、チロ……」
匪賊の首領はチロにひどく心を引かれたらしく、立ち上がってきてチロを捕まえようとしました。太郎はすばやくチロを胸に抱きあげました。
「いやだよ、これ、ぼくたちの大事な猫だよ」と、太郎は言いました。
「
「どうも、不思議なやつらだ。とにかく、明日の朝、首きりの役を言いつけるぞ」
キシさんは
「ひきうけましょう。奇術でやってみましょう。五十人の首ぐらい、またたくまに打ち落としてみせますし、お望みなら、その首をまたつなぎあわしてもみましょう」
チロの国
その夜、奇術師に
三人は、ひそひそ相談しあいました。いろいろ
夜遅く、城の中の
奥の方の部屋に行って、大きな声でチヨ子はいいました。
「もしもし、
「チロ、チロ、チロや……」
と、太郎は呼びました。
そして二人で、部屋の中を探しました。
「うるさいな。猫なんかいないよ。ほかを探してこい」
二人は、ほかの部屋に行きました。
「もしもし、
「チロ、チロ、チロや……」
寝ていた
「うるさいな。ネコなんかいないよ」
そして二人は、あちらこちら探しまわりました。
けれどじつは、
あちらこちらはいりこんで、それから、
「もしもし、金目銀目の猫が来ませんでしたか」
小さなランプのついてるきりの、うす暗い中から、二―三人の男が[#「二―三人の男が」は底本では「二|三人の男が」]起きあがりました。
「うるさいな。猫なんかいないよ。病人がいるきりだ」
「いいえ、確かにチロが、こっちへ逃げて来たんです」
ふたりはどしどし、中にはいっていきました。
奥の方に祭壇があって、金銀の
その病人の側に、チヨ子は立ち止まって、じっとその顔を見ていましたが、石のようにかたくなって、それから、ぶるぶる震えだし、そこにかがみこんでしまいました。
そのとき、病人はふいに、はね起きました。
「猫のことは、私が知っている。みんなしばらく外に出ていてくれ」
それを聞いて、ほかの男たちは、外に出ていきました。太郎は入口の見張りをしました。
そして、太郎がふり向くと、病人とチヨ子とはもうしっかりと抱きあって、泣いていました。病人はそのやせた手で、チヨ子の頭や背中をなでさすり、チヨ子は病人の胸に顔をおしあてて、どちらも黙ったまま、涙を流しています……。
その病人こそ、
太郎は両腕をくんで、脇の方を向いて、じっと立っておりました。
何もかもすっかり、はっきりしました。
しじゅう戦いがおこりました。けれど
そのことを知っていますので、
そこへ、チヨ子が来たのです。玄王は力がつきました。そのうえ、どんな病気にもきくという薬を、太郎がすぐに飲ませておきました。まもなくじょうぶになるに違いありません。
キシさんは、おどりあがって喜びました。
朝早く、キシさんは大きな刀を打ち振り、太郎はピストルをポケットにしのばして、
城の中の広場です。匪賊の
「見事にやってみせるか」と、首領はキシさんに言いました。
「
「目にも止まらぬ
キシさんは静かに進んでいきました。そして捕虜達の側に立ち止まって、大きな刀を二―三度打ち振りました。その時にはもう、
「えー、やーあ……」
腹の底から、恐ろしい声を立てて、キシさんは刀を振りかぶりました。その刀がひらりと動いたかと思うと、一人の
匪賊達はどよめきました。混乱がおこりました。
キシさんは、つっ立って叫びました。
「匪賊ども、静かにしろ。今こそ名乗ってやる。
太郎もピストルをとりだしました。
捕虜達は李伯将軍の名を聞いて、一度に、わーっと
匪賊の
「すみませんでした。ぞんぶんにしていただきましょう」
さすがに首領です。立派な覚悟でした。そこへ玄王が現われました。太郎の
キシさんは走りよりました。
「おう、
「
あとは言葉もなく、玄王は頭を垂れ、李伯将軍は膝まずき、互いに手をとりあって涙にくれました。
チヨ子は、父玄王の国を見せるために、太郎を
遠くまで、目のとどくかぎり、見渡すことができました。山があり、森があり、野原があり、川があります。野放しにした羊や馬なども、遊んでいます。
「そんなに悪いところではないでしょう」と、チヨ子は言いました。
太郎は黙って、淋しそうな顔をしていました。九州のおじいさんのことや、
「ねえ、帰っていっちゃ、いけませんよ」
太郎はふり向いて、
「そうだ、不思議な地図があったろう、あれを便りに、この国を立派なものにしていこうよ」
「ええ、立派な国にしましょう。そして、チロの国と名をつけましょうよ」
ふたりは一緒に