不思議な帽子

豊島与志雄




      一

 ある大都会の大通りの下の下水道に、悪魔あくまが一匹住んでいました。まっ暗な中でねずみやこうもりなんかと一緒に、下水の中の汚物おぶつ等をあさって暮らしていました。ところがある時、下水道の中に上の方から明るい光がさしていましたので、何だろうと思って寄ってゆくと、下水道の掃除口が半分ばかり開いているのです。悪魔は何の気もなくその掃除口につかまって、そっと外をのぞいてみて、びっくりしました。街中に明るく燈火あかりがともっていて、大勢おおぜいの人がぞろぞろ通っていて、おもしろい蓄音機ちくおんきの音までも聞こえています。
「ほほう、まっ暗な汚いこの下水道の上に、こんな立派なにぎやかな通りがあろうとは、今まで夢にも知らなかった。何ときらきら光ってる燈火だことか。何と大勢の美しい人間共が通ってることか。何という賑やかさ華やかさだ。下水の掃除人がこの掃除口を閉め忘れてるのを幸いに、おれも少しこの賑やかな通りを散歩してみるかな」
 そしてこののん気な悪魔あくまは、下水道からひょいと飛び出して、小さな犬にけて、街路樹がいろじゅの影をうそうそと歩き出しました。昼のように明るい街路まち、美しいにぎやかな人通り、宮殿のようにきらびやかな店先、うまそうな食物のにおい、楽しい音楽のひびき、そんなものに悪魔は気がぼーっとして、いつまでもうろついていました。
 そのうちに夜はだんだんふけてきて、人通りも少なくなり、商店の窓もしめられ、賑やかだった街路が淋しくなり始めました。悪魔はふと気がついて、自分が飛び出したあの下水の掃除口のところへ、大急ぎに戻ってゆきました。ところが、いつのまにか掃除人が戻ってきたとみえて、大きな鉄のふたがかっちり閉め切られています。
「ほい、これはとんだことをした」
 そして悪魔は、方々の掃除口を探して歩きましたが、どこもここもみな、頑丈がんじょうな鉄の蓋が閉め切ってあって、下水道へはいり込む隙間すきまもありません。
「弱ったな。どうしたら下水道へ戻ってゆけるかしら」
 思い迷ってふらふら歩いていると、酔っぱらいの男や商店の子僧こぞうなどから、野良犬だといっておどかされたり追っぱらわれたりしますし、巡査じゅんさががちゃがちゃ剣を鳴らしてやって来たりするものですから、悪魔はすっかりしょげかえりました。そしてどこかもぐり込むすみでもないかと、きょろきょろ探し廻ってるうちに、ある立派な帽子屋ぼうしやの店が閉め残されてるのを見つけました。店の中には誰もいないで、奥の方に番頭ばんとうが一人居眠いねむりをしています。
「しめたぞ。今夜はこの店の中に隠れるとしよう」
 そーっとはいり込んで、陳列棚ちんれつだなの上に飛び上がって、ひょいと帽子ぼうしけて素知そしらぬ顔をしていました。間もなく、奥の部屋から二三人の子僧こぞうが出て来て、表の戸締りをして、電気を消して、また引っ込んでいきました。
 悪魔あくまはほっと息をついて、やれやれ助かったと思うと、急に疲れが出て、帽子に化けたまま、ぐっすり眠ってしまいました。

      二

 さてその翌朝、悪魔が眼を覚ますと、もう明るく日がさしていて、店の中には大勢おおぜい番頭ばんとうや子僧達が、掃除をしたり帽子を並べ直したりしていました。
「おや、寝過ごしたのかな。汚い下水道の中とちがって、あまり寝具合ねぐあいがよかったものだから、早く眼を覚ますのを忘れていた。今逃げ出せば見つかるし、まあいいや、も少しここにじっとしていたら、そのうちに逃げ出す隙があるだろう」
 ところが、その隙がなかなかありませんでした。店の中には幾人いくにんもの店員がひかえていますし、表には大勢の人が通っています。とうとう昼頃になりました。
 その時、すてきにハイカラな洋服を着て、胸に金鎖をからましている紳士が、帽子を買いにはいって来ました。そして番頭に案内されて、陳列棚の帽子を見て廻りました。
「しめたぞ」と悪魔は考えました。「一番上等な帽子に化けて、あの男に買われて、ともかくも外に出てみるとしよう。ここにこうしていたんでは、窮屈きゅうくつ仕方しかたがない」
 その考えがうまくあたって、金鎖の紳士は、悪魔あくまけてる帽子ぼうしに眼をとめました。
「この帽子はすてきだな、格好といい色つやといい、どうも……珍らしいよい帽子だ。これにしよう。いくらだね」
 番頭ばんとうはその帽子を手に取って、小首こくびを傾げて眺めました。自分の店にあるのだが、どうも見馴みなれないすてきな帽子なんです。でも、高く買ってさえもらえばそんはないわけですから、とび離れた高い値で売りつけました。紳士はその帽子がよほど気に入ったとみえて、たくさんのお金を払い、古い帽子は打ち捨ててしまって、新しい帽子を頭にかぶって外に出ました。
 悪魔はおかしさをこらえてましてきって[#「ましてきって」はママ]いましたが、今こうして、ハイカラな洋服の紳士の頭にのっかって、にざやかな大通りを通ってるうちに、非常に愉快な得意な気持ちになって、ぐっとり返りながら、逃げ出すのも忘れてしまいました。
 やがて紳士は、ある立派な洋食屋ようしょくやへはいって昼の食事を始めました。悪魔の帽子がよほど気に入ったとみえて 入口の[#「とみえて 入口の」はママ]くぎにもかけずに、ちゃんと食卓の上にのせておきました。
 次に見事な料理の皿が運ばれました。食卓の上に帽子となってひかえてる悪魔の鼻にも、うまそうなにおいがぷーんと伝わってきました。すると悪魔は急に空腹を覚えました。考えてみると、昨日の晩から何にも食べていなかったのです。
「うまそうな料理だな。下水の中に流れてくるものなんかとは、比べものにならない。ああいい匂いがしてる。それに俺の腹はぺこぺこだ……かまうもんか、少し盗み食いをやれ」
 そして悪魔あくまは、紳士がビールのコップを手にとって、ぐーっと飲んでるすきに、皿の中の料理をぺろりと頬張ほおばってしまいました。それに味をしめて、次の皿のもその次の皿のも、大きい口でぺろりと頬張ってしまいました。
 紳士はビールを一口飲んで、さて料理を食べようとすると、皿の中にはもう何にもありません。
「おかしいな。どうも……」
 次の皿もそうなものですから、しまいに紳士は両腕をくんで考えこみました。
「今日は変な日だな。夢でもみてるのかしら」
 こつんとひたいを一つ叩いて、それから急いで勘定かんじょうをして外に飛び出しました。大事な帽子ぼうしを頭にのせることは忘れませんでした。
 空はやはりからりと晴れて、日が照っていました。けれど、いつしか風が出て、大通りをさっさっと吹き過ぎていました。それでも悪魔は、うまい料理に腹がいっぱいになって、紳士の頭にのっかったまま、ついうつらうつらと眠り始めました。

      三

 しばらくたって眼を開くと、そこもやはりにぎやかな大通りで、ハイカラ洋服の紳士はステッキを打ち振りながら変なしかめ顔をして歩いていました。きっと腹が空いてるんだな、と思うと悪魔は、急におかしくなって、ははははと笑い出しました。がその声に自分でもびっくりして、首を縮こめるとたんに、何だか寒くなって、うつらうつらしてる間に風邪かぜをひいたとみえ、大きなくしゃみが出てきました。
 紳士は驚いて立ち止まりました。頭の上で笑い声がして、次にくしゃみの音がしたのです。まさか、悪魔あくまけてる帽子ぼうしをかぶってるとは思わないものですから、あたりを見廻したり空を仰いだりして、きょとんとした顔つきで考えました。
「変だな」
 その時またさっと風が吹いてきました。悪魔はそれにま正面から吹きつけられて、くしゃんと、も一つくしゃみをしました。
「おや」
 こんどは紳士も頭の帽子に気がついたとみえて、手をあげて帽子を取ろうとしました。もう悪魔は絶対絶命です。手に取って見現みあらわされたら大変です。どうしようと思ったとたんに、ふといいことを考えついて、紳士の頭が横に傾いた拍子に、風に吹き飛ばされたふうをして、ふーっと往来おうらいに飛び降りて、ころころと転がって逃げ始めました。

      四

 紳士は大事な帽子が風に吹き飛ばされたのを見て、後を追っかけてきました。悪魔にとっては、つかまえられたら一大事です。一生懸命に転がって逃げました。紳士はどんど[#「どんど」はママ]追っかけてきます。そのうちに、立派な紳士と帽子とが駆けっこをしてるのを見て、大勢おおぜいの人がおもしろがってついて来ました。
「よく転がる帽子ぼうしだな」
「まるで生きてるようだな」
「おかしな帽子だな」
「つかまえてやれ、つかまえてやれ」
 大勢おおぜいの人が紳士と一緒になって追っかけてきます。つかまったら最後だ、と悪魔あくまは思って、くるくるくるくるまわりながら、一生懸命に逃げ出しました。あまり転がったので眼がまわって、めくら滅法めっぽうに逃げてるうち、ある橋のところへやってきて、道をあやまったものですから、あっというまに川の中へ落ち込みました。
「川に落っこった、川に落っこった」
「ぽかんとして浮いてやがる」
竿さおを持って来い、竿を」
 大勢の人ががやがや騒ぎ立てました。
 悪魔は川に落っこって、眼を白黒さしていましたが、やがて気が静まると、きらきら光ってる太陽が見えます。岸に立って騒いでる大勢の人が見えます。うらめしそうな顔をしてるハイカラ紳士も見えます。
「はてどこへ逃げたらいいかしら」
 そう思って見廻すと、川の岸の石垣に、大きな円い穴が口を開いて、汚い水が中から流れ出ています。ぎなれたくさいにおいがしています。
「これだ」と悪魔あくまは心の中で叫びました。「俺の住居すまいだ。下水道の出口だ」
 そして、帽子ぼうしが水に流されるようなふうをして、つーっと泳ぎだして、下水道の口の中に飛びこみました。
 それを見て、岸の上では大変な騒ぎになりました。
「帽子が泳いだ」
「下水道の中に飛び込んだ」
「おけの帽子だ、お化けだ」
「不思議な帽子だ」
 わいわい騒ぎ立てて下水道の口をのぞいています。しかしいつまでたっても、もう帽子は二度と出て来ませんでした。
 帽子はもうちゃんともとの悪魔の姿になって、下水道の口からちょっとのぞいて大勢おおぜいの人を見ると、こそこそと中の方へはいってゆきました。
「あぶないところだった。だがここまでくればもう大丈夫だいじょうぶだ。どうも変に寒い。珍しいごちそうを食べて、あの男の頭の上で居眠いねむりをしたので、風邪かぜでも引いたのかな」
 そしてそこの下水道の奥のまっ暗な中で、悪魔は、また大きなくしゃみをしました。





底本:「豊島与志雄童話集」海鳥社
   1990(平成2)年11月27日第1刷発行
入力:kompass
校正:門田裕志、小林繁雄
2006年4月28日作成
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