私は一年間、ある山奥の別荘でくらしたことがあります。なかば洋館づくりの立派な別荘でした。番人をしている五十歳ばかりの夫婦者と、その
一 さくら
別荘の裏手の山つづきのところに、たくさんの桜の木がありました。春になるといっぱい花がさいて、家ぜんたいが、花にだかれたようになりました。
山奥の桜の花は、じつにきれいで、都会の公園の花のように
朝日がさすと、白い綿のようですし、夕日がさすと、うす赤い綿のようです。月の光がさすと、夢のなかの雲のように見えます。
ある晩、私は窓をあけて、月の光がいっぱいさしてるなかで、桜の花をながめました。それから外に出ていって、花の下を歩きました。
幹の影と自分の影とが地面にくっきりうつっていましたが、花は月の光をとおして、ぼーとうす明るく、まったく
その白雲の下に、向こうに、正夫がぼんやり立っていました。
私はほほえんで近づきました。
「桜の花は、月の光で見るのがいちばんきれいだねえ」
正夫は私の顔を見たきり、いつまでもだまっていました。
「どうしたの」と私はたずねました。
「だって、僕心配だもの」
「何が?」
「この木ですよ」
正夫が指さしたのを見ると、それはひときわ大きな桜の木で、まるく枝をひろげて、しなうほどいっぱい花がさいていました。
その木を見てるうちに、私にも、正夫の心配がはっきりわかってきました。
昼間のことでしたが、遠いところから、ここの桜の花のことをきいて、えらい人が
「これほどきれいに咲いてるのだから、これに、梅の花のようなよい匂いがあったら、さぞよいだろう」
その言葉を、正夫の
「一本でもけっこうです」と小父さんは叫びました。「それこそ、日本一の……世界一の……桜になります」
その注射が、今晩なされることになっていました。すると、明日、朝日がさす頃になると、桜の花は梅の花のようなよい匂いをたてるそうでした。
正夫は私の顔を心配そうにながめました。
「大丈夫でしょうか。注射って、いたいでしょうね」
「そうだねえ……」
考えてみると、私も心配になってきました。
けれど、もう仕方ありませんでした。向こうから、小父さんに案内されてあの人がやってきました。シルクハットをかぶり、ぴかぴか光る靴をはき、小さな
「ああ、この木でしたな」
学者はそこに立って、いっぱい咲いてる花を見あげました。それから、その根本にかがんで、
私はぞっとしました。私の手をにぎっていた正夫も、ぎくりとしました。桜の木は、私たちよりもいっそうびくりとふるえて、花がひらひらとちりました。
学者は反対の方にまわって、も一度、注射の針をぶすりとさしました。花がまたひらひらとちりました。学者は鞄から小さな白っぽいものをとりだして、注射のあとにはりつけました。よく見ると、それはブリキの板でした。
「これでよろしい」
学者はそういって、小父さんといっしょに戻っていきました。
私と正夫は、手をとりあったまま、そこに残っていました。なんだか心配でたまりませんでした。
いつのまにか、月の光がうすれて、東の空が白んできました。どこかで、小鳥の声がします。そして、空に赤い光がながれて、つめたい風がそよそよと吹いてきました。その時、桜の花がはらはらとちりはじめ、それと共に、たいへんよい
注射がきいたのでしょうか。たしかにそうでした。花がちるといっしょに、なんともいえないよい匂いが、あたりいちめんにただよって、息をつくのも苦しいほどでした。けれど、どうしたことか、花はしきりにちってやみませんでした。よい
そして、朝日の光がさしてくる頃になると、その桜の木の花はすっかりちってしまい、緑の小さな葉もちってしまい、よい匂いもどこかに消えうせてしまって、あとにはただ、はだかの
私は、その枯木をぼんやり見あげました。
正夫は、ふいに泣きだしました。
「小父さんに知らしておいでよ」と私はいいました。
正夫はかけだしていきました。
私は枯木にさわってみましたが、もうどうしようもありませんでした。ほかの木はいっぱい花をさかせ、小さな葉をだしているのに、その一本だけが、はだかのままで、さびしく立ってるのです。私はその近くを、いつまでも歩きまわりました。
がやがや、人声がしますので、ふり向いて見ると、小父さんが先にたって、四五人の村人がやって来るのでした。
私はびっくりして、口がきけませんでした。村人たちはもう、枯れた木に縄をつけ、その
はっと、眼をあいてみると、私は部屋の中にねているのでした。窓から、斧の音がひびいてきます……。
私はとび起きました。窓をあけてみると、ぱっと朝日の光がさしていて、向こうの桜の木立のなかの大きな一本の
私はいそいで着物をきて、そこに行ってみました。桜の枯木はもう
正夫が涙ぐんでそれを見ていました。
枯木のたおれたあとには、びっくりするほど、青い深い空が見えました。私はその明るい空を指さして、正夫にみせてやりました。
二 なまず
山奥といっても、
家から二三百メートルのところに、きれいな川がながれていました。
私と正夫とは、よくその川へあそびに行きました。
泳げるほどの大きな川ではないかわりに、水が清くつめたくて、飲んでもよさそうに思えるほどでした。浅い瀬にはいって、美しい小石をひろったり、水草の間の小魚をつかまえたり、岸にねころんで釣りをしたりしてると、いつまでもあきませんでした。
かみての
ある朝、そこで顔をあらっておりますと、正夫が、あれッと叫んで、水にぬれた顔のまま、目をまんまるくうちひらいて、淵のなかを見つめました。
「なんだい」と私はたずねました。
「なまず……とても大きななまずが……金色の
のぞいてみましたが、私には見えませんでした。もう岩にかくれたと正夫はいいました。けれど、たしかにいたというのです。一メートルもあろうか、びっくりするほどの大きななまずで、それが、ぴかぴか光る金色の髭をはやして、ゆったりと泳いでいたそうです。
何かの影だったんだろう、と私はかんたんにかたずけて、気にしないつもりでしたが、それでもやはり、忘れかねていたようです……。ある日、私もそのなまずをはっきり見ました。
なまずというものは、おかしな魚ですね。頭がばかに大きくて、その大きな頭いっぱいに、大きな口がついていて、こまかいきれいな歯をくいしばって
それを、私も正夫も二人とも見たのです。
「いたでしょう」
「うむ、ほんとにいたよ」
けれども、金色の髭をはやしたなまず……そんなものは、まだきいたこともありません。
その
ここではよく
深いんだからきっといる、という者がありました。
大きななまずをみたことがある、という者がありました。
そこで私は、金色の髭をはやしたなまずのことを、話してきかせました。子供たちはびっくりしました。
「まだはっきりはわからないが、ほんとにその珍しいなまずがいたら、みんなで
子供たちはすぐにさんせいしました。そしていろいろ用意をし、手はずをきめて、金色の
そして毎日、朝から夕方まで、誰かしら番をして、
四日めの夕方、私たちは淵のそばにあつまって、がっかりしました。なまずはもう逃げたのかも知れません……。
「あ、いたいた……いたよ」
誰かの声がして、みんなで見ると、たしかにいました。大きななまずが、金色の髭をはやして、淵の底のほうを
すぐに、淵のしもての
私たちはよろこびいさんで、翌日の朝はやくから、淵にあつまりました。網や大ざるをもちよりました。そして裸になって、淵のなかにとびこみました。
淵のなかは、あちらこちらに岩があり、岩の下には
けれど、金色の
それでも私たちは、一日あさりつづけました。
その時です、いちどに両方から声がしました。
「いたよ、いたよ」
淵のなかと、西の空と、両方をむいてです。西にかたむいた太陽が雲にかくれようとしていて、そのきれぎれの雲の一つが、なまずの形になって、金色の髭をはやしていますし、それがそのまま、淵の水のなかにもうつっています。それを、私たちが両方見くらべてるまに、もうすーっと、雲の形はくずれ、淵のなかのも消えてしまいました。
私たちはあっけにとられて、言葉もでませんでした。
けれど、それからというものは、朝や夕方の雲の形に、なんとなまずが多くなったことでしょう。そして淵のなかにも、なんとなまずがたくさんになったことでしょう。みんな、金色の髭をはやした大きな珍しいなまずでした。
三 かき
家のまえに大きな
私と正夫はそれをたくさんたべました。あそびにくる村の子供たちにもわけてやりました。
そして柿は、まもなくなくなってしまい、ただ一つだけ、たかい
その一つの柿は、まるで柿の木の旗みたいでした。まんまるな大きなもので、朝日や夕日に赤くかがやきました。
山奥の秋は、早く寒くなります。やがて、柿の葉は黄色くなり、
私はそれが気がかりになってきました。もうあんなに熟してしまってるのに、いつまでああしてるつもりなんだろう。下におちるかしら。それとも小鳥にくわれるかしら。くわれるとしたら、何の鳥にだろうかしら。
正夫も同じようにそのことを考えていました。
そして私たちは、できるだけその
家の庭から、その柿がま正面に見えました。風のあたらない、日のよくさす、暖かい
その柿と同じような赤い着物を、
「今晩、どこでもよろしゅうございますから、お宿を、お願い申したいんでございますけれど……」
赤ん坊なんかだいているへんな巡礼でしたけれど、その赤ん坊の着物が柿の色と同じようなので、私はなんだか泊めてやりたい気がしました。
正夫も同じ気持ちだったのでしょう。
「泊ってもいいんだって……」
巡礼の女は、うれしそうにおじぎをしました。
「それでは、夕方まいりますから……」
そして出ていきました。
私と正夫は目を見合わせました。どうもへんな巡礼なんです。
「僕が見てきましょう。へんだなあ……」
正夫が
ながい時間がたったようでした……正夫が戻ってきました。巡礼の赤ん坊をだいてるんです。にこにこ笑っていました。
「おかしな女ですよ。赤ん坊をわらのうえにねかしといて、自分はたんぼのなかにはいりこんで、
「どれ、かしてごらん」
私はその赤ん坊をだきとりました。赤ん坊はまだすやすや眠っていました。ふうわりと軽くて、まるで綿のようで、
けれど、あんまり軽くて手ごたえがないので、やがて心配になりました。正夫といっしょに、巡礼の女をさがしに行きました。
秋の日がいちめんにてっていました。見わたすかぎり、
ピーヒョロヒョロ、ピーヒョロヒョロ……。
とんびの声がします。一羽のとんびが、空たかくゆったりと舞っているのです。
向こうのたんぼのなかに、五六人の村人たちが、巡礼の女をとりまいて、何やら大声をたてていました。そしてみんな、空をあおいで、とんびを見てさわいでいました。私も見あげました。よく見ると、たくましいとんびで、足に何か赤いものをつかんで大きく円をえがいてとんでいます。ピーヒョロヒョロと、さもうれしそうにゆったりと舞っているのです。私は村人たちの方へやっていきました。
近くまで行くと、私の方を見て、
「まあ、よかった。ここにいたのね……無事でいたのね……よかったわねえ……お母さんは、あなたがとんびにさらわれたと思って……さらわれたんだったら、どうしよう……まあ、よかったわね……」
むちゅうになって、赤ん坊をだきしめて、さめざめと泣いてるんです。
私はこまって、ぼんやり立っていました。
村人たちがあつまってきました。
「赤ん坊がさらわれたのではなくて、よかったよ。だが、あれは何だろう」
とんびはなにか赤いものを両足にひきつかんで、その両足をちぢめて腹にくっつけ、大きく羽をひろげて、羽ばたきひとつせず、ふうわりと宙にうかび、さもうれしそうになきながら、舞いとんでいます。日の光をいっぱいふくんだ青い空のまんなかに、その姿がつややかに光っています。
村人たちは赤ん坊のいる家の名をあげたりして、心配そうにながめていました。
「あ、そうだ」
正夫が私をゆすぶってるのでした。
「本をよんで下さらないから、僕うとうとしちゃったんです。すると、
私もはっきり目をひらいて、見ると、
私たちは、柿の木の下にかけていきました。けれど、いくら探しても、あのまっかな柿はその辺におちてはいませんでした。わずかな間に、小鳥がたべてしまったはずもありません。
とんびは……やはり一羽、空高く舞っていましたが、足には何にもつかんではいませんでした。ただいかにもうれしそうに、ピーヒョロヒョロと、ゆったり舞っていました。
四 山の
山のなかは、冬になると、天気がわるいことが多く、そして雪がふりだすと、なかなかやまず、十四五センチもすぐにつもってしまいます。
そういう時、私は西洋室の方にうつって、だんろに
正夫は星の話をきくのがすきでした。私は知ってるだけのことを話してやりました。太陽系のこと、ことに金星のこと、それから水星や火星や木星や土星のこと、
「さびしい時には星をみるがよいと、何かで読んだことがありました。それで僕はよく星をみてるんです」
正夫はそういって、でもさびしそうにほほえみました。父も母も小さい時になくなって、正夫は一人者なので、
「星をみてると、ほんとにいいんです。だれか親しいやさしい人が、こちらをじっと見ていてくれるような気がしますよ」
それから正夫は、またさびしくほほえみました。
「冬になると、星の見えることが少ないからつまらないんです。それに、こんなに雪のふる晩は、急にさびしくなることがあります。だれか今にも来そうなんです。僕がよく知ってる人だが、どんな人だかはわからない、そういうへんな人が、やって来るような気がしますよ」
私はだんろに
「でも、そんなへんな人でなく、おもしろいものが、ほんとにやって来ることもありますよ」
「どんなものが……」と私はたずねました。
「いろんなものです。鳥や
私はらんまの小窓を見あげました。正夫は話しつづけました。
「それよりも、面白いのは鳥ですよ。いつだったか、部屋いっぱい鳥だらけになったことがあります。
私はまた、らんまの小窓を見あげました。
「それから、いちばんずるいのは、山の
私は小窓を見あげました。
「あんなずうずうしい
私は小窓を見あげました。外は雪がふりしきっていました。
「とびこんできて、
私はなんだか寒くなって、部屋のなかを見まわしました。
「こっちでじっと見ていてやると、そのままのこのこと部屋の
私は耳をすましました。雪のふる音がきこえていました。
「ゆだんしていると、はいりこんできた
私はぞっとして、いきなり立ち上がりました。そしてらんまの小窓をしめました。
もうだんろの火はほそくなっていました。私はあらたに
しいんとした静けさで、雪のふる音だけがかすかにきこえています……。はて、今まで私に話しかけていたのは、いったい誰だったのでしょう。眠っているところを見ると、正夫ではないし、私自身のはずはないし、ほかにだれもいませんでした。
しんしんと雪のふってる夜ふけです。
私は立ち上がって、そっと正夫をだきよせました。正夫はうっとり目をひらいて、私を見てとると、きつくだきついてきました。それを私はやさしくだきしめてやりました。
だんろの火がぱっともえたっていました。