女心の強ければ

豊島与志雄




     一

 松月別館での第一日は、あらゆる点で静かだった。二日目も静かだったが、夕刻、激しい雷雨雷鳴が襲ってきた。
 天候の異変は、却って人の心を鎮める。
 いいなあ、と長谷川梧郎は思った。
 本館では、客がたて込んでいて、騒々しく、仕事など出来そうになかった。もっとも、或る文化団体の嘱託事務のかたわら、際物の翻訳などをやっている、その翻訳の仕事だから、大したものではなく、懶けたとてさほど差支えはなかった。だが、石山耕平から長谷川を紹介された松月館主人は、数日後、長谷川に言ったのである。
「こちらは、あいにく、たて込んでおりまして、お仕事が出来にくいかも知れません。お宜しかったら、別館の方はいかがでしょうか。少し不便ですが、妹が一人いるきりで、静かなことはこの上ありません。」
 それで、長谷川は別館に移ってきた。
 本館から、温泉町を少し通り、裏へそれて、狭い田舎道をだらだら上り、だいぶ行ったところ、丘の裾に、ぽつりと建ってる二階家なのである。あたりには、農家が二つ三つあるきり。浴室はあるが、温泉はまだ通じていない。不便なこと、少しばかりではない。湯にはいるには本館まで行かねばならないし、飯はこちらでたくが、料理は本館から番頭か女中かが運んでくる。
 別館といっても、実は、便宜上の名目にすぎず、特別な客を時折泊らせるだけで、二階が二室、階下が三室、普通の住宅らしい造りである。松月館主人の妹という、三十歳前の女、表札によると三浦千代乃が、一人で住んでいる。
「わたくし一人で、御不自由でしょうけれど、御用はなんでも仰言って下さい。隣りの百姓家のお上さんも、使い走りをしてくれますから。」
 眼を外らさずにじっと見て、てきぱきした語調である。
 小鳥が少し囀ずり、蝉が少し鳴き、淋しいくらいの静けさだ。
 二階の縁側から、天城山が正面に見える。
 西空から差し出てきた積乱雲が、むくむくと脹れ上り、渦巻き黒ずみ、周辺の白銀の一線も消え、引きちぎられたように乱れ流れて、やがて天城山までも蔽いつくすと、一陣の凉風と共に、大粒の雨がさーっと来た。あとはもう天地晦冥、驟雨の中に、雷鳴が四方にこだまし、電光が縦横に走った。それが、いつ止むとも見えなかった。
 長谷川は室に寝ころんで、硝子戸越しに外を眺めた。壮快で、頭の中の塵埃まで洗い流される心地であり、しかもうっとりとしてくるのである。
 雨よ降り続け。雷よ鳴り続け。
 長い時間がたった。
 音もなく、千代乃が立ち現われて、室の入口に片膝をついていた。
「ひどい雷ですこと。二階はあぶないから、下へいらっしゃいません?」
 落雷の危険があるとすれば、二階も階下も同じことだろうし、彼女自身、少しも危ながってはいない様子だ。長谷川がむっくり身を起すと、彼女はもう先に立って降りていった。
 茶の間の長火鉢のそばには、本館から届いたらしい料理が食卓に並んでおり、銚子まで添えてあった。
「今晩も召し上りますでしょう。」
 電気が来ないから、電熱器は使えないというので、長火鉢に炭火をとって、その銅壺で酒の燗をするのである。それでも、山の中の雷雨の夕は暑くはなかった。
「昨晩は、いい御機嫌でしたわ。」
 騒々しい本館からこちらへ移ってきて、気分の調和がとれず、町に出て酒を飲んできたのだった。毎日晩酌をするわけではなかったが、酒は好きだった。
「お酒まで用意して頂いて、恐縮ですね。あなたも、あがるんでしょう。」
「そうね、少し頂こうかしら。」
 独りごとのように呟いて、彼女は茶箪笥から自分の猪口を取り出し、台所から料理の皿を持ち出してきた。
 茶の間といっても、床の間つきの六畳。その床の間には、南画風の山水の軸物に、青磁の香炉、片わきに琴が立てかけてある。長火鉢はきれいに拭きこんであり、彼女は、少し古風なと思われる髪形に、生え際凉しく高めに結いあげ、柳と燕を大きく散らした藍色の着物に、博多の一重帯をしめている。細おもての頬の肉附きが薄く、眼には強い視力がこもっていて、理智的な光りがある。細い指先で、器用にお酌をしてくれる。
「どうも……自分でやりますよ。」
 長谷川はなんだか、気持ちがしっくりしなかった。
 雷はまだやまず、蒼白い閃光が、薄暗い室にぱっぱっと差し込んできた。それが却って酒の肴になり、長谷川は手酌であおり、こんどは、千代乃の方にもお酌をしてやった。
「こちらに、女中さんはいないんですか。」
「一人いますけれど、あちらの方が忙しい時は、手伝いに、やりっきりにしておりますの。」
「しかし、こちらだって、別館でしょう。」
「そうなんですが……表札を御覧になりまして?」
 表札には、松月別館とはしてなく、ただ三浦千代乃とだけあるのだった。
「あ、あなたの家ですか。」
「そういうことになっておりますが、実は、柿沼のものなんです。」
「柿沼……。」
「わたくしの主人ですの。」
 柿沼治郎、東京の郊外で、小さな製菓会社を経営している人だとか。然し、千代乃はその主人のことを、あまり語りたくないらしかった。
「柿沼、いやな名前でしょう。わたくし、きらいですわ。」
 皮肉めいた微笑を浮べている。名前が嫌いなのか、人柄が嫌いなのか、そのへんのことは曖昧だった。
 ふと気がつくと、いつのまにか電燈がともっていた。電力が足りないらしく、ぼんやりともってるので、意識されなかったのであろう。雷鳴はもう遠退いたが、雨がしとしと降り続いている。雷雨のあととも思えないような、しめっぽい降り方だ。
「こんなところに、一人でいらして、よく淋しくありませんね。」
「もう、馴れていますもの。」
 そう言いながらも、途切れがちな話の合間には、自然と、外の気配に耳をかすらしい様子だった。
 雨音だけがしていた。
 千代乃はつと立ち上って、手洗いに行き、それから、裏口、表口、二階と、すっかり戸締りをしてしまった。
「こんな雨の晩、沢蟹がいやですわ。」
 家のそばに、小さな谷川があって、雨で水がふえると、沢蟹が岸へ這い上ってくる、それがいやだと言う。
「沢蟹なら、むしろ、可愛いじゃありませんか。」
 ところが、実際、いやなことがあったのである。
 二キロばかり下手の、渓流に沿って、杉の密林がある。そこに、先月、死体が発見された。行き倒れか、服毒自殺者か、それは分らないが、もう半ば腐爛しかけていて、前夜雨が降り、ずぶ濡れになっていた。その死体に、沢蟹がいっぱいたかっていた。
「ほんとですか。蝿とか烏なら、死体にたかることもありましょうが、まさか、沢蟹が……。」
「おおぜいの人が見たんです。誰にでも聞いてごらんなさい、みんな知っていますよ。」
 或るいはそんなこともあるかも知れない。あるとしたら、想像するだにいやな情景だ。半ば腐りかけてる濡れた死体に、沢蟹がうじゃうじゃたかっている……。
「思い出すと、いやーな気持ちですの。」
「いやな気持ちって……あなたも、見たんですか。」
「いいえ、聞いただけですけれど……。」
 少し現実すぎる話だ。そんなことより、むしろ怪談の方が他愛なくてよかった。
 酒を飲みながら、長谷川は怪談をもち出した。ひとから聞いたり、書物で読んだりした、さまざまな幽霊や妖怪変化の話。
 長谷川はもとより、千代乃も、幽霊やお化を信じなかった。然し二人とも、笑いはしなかった。怪談の特質として、たとえそのようなことは信じなくとも、なにか他界の気配に耳を傾けるような、異様な気分になっていった。
 すると千代乃は、長谷川の怪談に対抗して、超自然的な異変を持ち出してきた。幽霊やお化は全くの作りごとだが、他にいろいろ不思議なことが実際にあると言う。
 親しい友とか身内の者とかが、遠く離れていて死ぬ場合、その人の姿がぼんやりと、枕元に立ち現われる、などという話は嘘だけれど、家の棟に大きな音がしたり、柱が軋り鳴ったりすることは、実際にある。――一家の主人の運命が大きく変転する場合には、その庭の木が、時ならぬ花を咲かせたり、俄に立ち枯れたりすることが、往々ある。――人間の運命と自然現象とは、たいてい気息を通じ合っている。――キリストは、その信仰によって奇蹟を行ったのではなく、逆に、奇蹟に出逢ったことによって、キリストの信仰が大きく展開したのである。
 そういう話になると、彼女の肉附きの薄い頬は、酒の酔いもすーっと引くかのように、蒼ざめかげんに緊張し、眼はじっと見据ってくる。
 議論の余地はなく、ただ、信ずるか信じないかだけだ。
 長谷川は魅入られたような心地になって、酒を飲んだ。
 雨はまだしとしと降っていた。
「こんなこと、誰にも話したことありませんの。内緒にしといて下さいね。」
 長谷川は彼女の眼を見返した。人間の運命と自然現象との関係のことなら、単なる意見にすぎず、内緒もなにもあったものではない。
「内緒って、そんなこと、まだ何もお話しになりませんよ。」
「そうね、お話ししてもいいけれど……。」
 なにか考えこんで、それからふいに、くたりと姿勢をくずした。
「お酒、まだたくさん残っておりますわ。飲みましょう。」
 打ち明け話などなにもなく、もう彼女の眼は、睫毛をちらちらさして微笑していた。それだけが室内に宙に浮いて、屋外の闇の深さが感ぜられる夜だった。
 風もないらしいのに[#「 風もないらしいのに」は底本では「風もないらしいのに」]、硝子戸がごとりと揺れた。彼女ははっとしたように、長谷川を眺めた。
 長谷川は頬杖をつき、水をがぶがぶ飲んだ。
「お床を伸べましょうか。下でもよろしいでしょう。」
 立ち上ると、足がふらふらとしていた。
 奥の室に布団が敷かれた。長谷川のと、すぐくっつけても一つ敷かれた。
 着物をぬぎ捨てたまま、布団にもぐりこんで、ぐったりとなった。眠るともなく、とろとろとしているうちに、どちらからともなく、互の足先が触れ、次で、互の手先が触れ、それから、どちらが抱き寄せたのか寄り添ったのか、深夜のなかで分らなかった。
 夜明け近い頃、長谷川は遠く鶏の声を聞いた。それと共に、千代乃の言葉をも聞いた。
「御免なさい。わたしが誘惑したのよ。だから、あまり深く想っちゃいけないわよ。」
 それも、果して彼女が言ったのだろうか。言ったとしても、どういう意味だろう。謎の深まってゆくような気持ちのなかで、長谷川はぐっすり眠った。

     二

 ひどい濃霧だった。
 遠くの山はもとより、近くの丘も木立も、一切見えなかった。外を歩いていると、牛乳の中に浮いているような心地で、霧は眼にしみ、鼻をふさいだ。
 千代乃が出かけてるので、長谷川は遠くへは行けず、家の近くをぶらついた。それから、小さな橋の欄干にもたれて、霧の下を流れる水に見入った。
 ふと顔を挙げると、霧の帷のかなたに、千代乃の姿が、透し絵のように浮き出していた。顔の表情ははっきりせず、洗い髪を左肩に乱しかけ、右手に風呂敷包みらしいものをさげ、腰から下はぼやけている。それが、立ち止って、霧の中からこちらを見ているのだ。
 長谷川はとたんに、虚をつかれた感じだった。
 あれから数日、二人はまったく愛人同士のように暮したのである。同じ卓で食事をし、同じ室に寝、代り番こに留守居をして本館の湯に出かけ、そのくせ、戸に錠をかって一緒にあちこち歩き廻った。
「わたしたちのこと、兄さんもうすうす感づいてるようよ。」
 千代乃はそう言って、屈託もなさそうに笑い、長谷川も頬笑んだ。
 けれども、不思議なことには、二人は情熱をもって抱擁しながらも、心からの愛を誓うことがなかった。彼女は時に黙りこんで、遠い彼方に目をやり、何か考え耽った。彼はうつむいて、あの時の夜明けの、彼女の謎のような言葉をかみしめた。互に踏み越え難い一線、或るいは踏み越えてはならない一線が、暗黙のうちに劃されてるかのようだった。
 その一線は何であろうか。
 今に明るみに曝してやる、と長谷川は考えた。それは愛の親和ではなく、男性と女性との闘争に似ていた。
 霧の中の千代乃の姿は、透し絵のように捉え難い点で、彼の頭の中にある千代乃の象徴とも見えた。
 長谷川はじっと眺めやった。
 千代乃の姿は、やがて、ゆらりと動いて、こちらへ歩いて来た。すぐそばへ、橋の欄干にもたれて、並んだ。
「ひどい霧、こんなよ。」
 肩の黒髪をぱらりと背後へさばき、右腕のあたりの浴衣に左の掌をあてて見せた。霧にしめってるのであろう。それから、右手の風呂敷包みを、帯のところまで上げて見せた。
「いい物を持って来たわ。何だかあててごらんなさい。」
 長谷川は黙っていた。
「こんなとこで、なにしていらしたの。帰りましょうよ。」
「お酒、ありますか。」
「あら、昼間からあがるの。」
「こんな霧だから。」
「じゃあ、霧のはれるまで。」
「そう、霧のはれるまで。」
 歩くのにも、足元があぶなかった。
 家の中にはいると、着物がしめっぽくしっとりしてるのが、はっきり分った。
 千代乃が持って来たのは、大した物ではなく、鮑五つに栄螺七つ。ただ、取りたてのように生きがよく、形も大きく揃っていた。
 それよりも、長谷川の心を打ったのは、彼女が懐から取り出してくれた手紙だった。石山耕平から松月館へ来たのである。
 いい加減に書き流した普通の手紙で、居心地はどうか、仕事は出来るか、と尋ねていた。――宿泊料が安いかわりに、建物は粗雑だから、客が込んでると、騒々しいかも知れない。あまりうるさいようだったら、別館というのがあるから、そちらへ移ったらどうか。これは静かで、松月館主人の妹がいるはず。少し変り者らしいが、仕事の邪魔にはなるまい。隙があったら、近々、自分もちょっと行くかも知れない……。
 そのなんでもない手紙が、改めて、長谷川の現状をまざまざと見せつけてくれた。もう別館というのへ移ってしまっているのだ。仕事のことはまあよいとして、千代乃にはまりこんでしまっているのだ。
 あの夜以来の習慣となったのだが、酒は火鉢の銅壺で燗をする、その酒を長谷川は飲みながら、水貝をすくい、壺焼をつっついた。
「鮑も栄螺も、とびきり生きがいいって、自慢していましたよ。暗いところに伏せておけば、幾日ももつんですって。」
 長火鉢の前にぴたりと坐り、水色の地に波の白線を大きくうねらした浴衣の襟元をきつく合せ、散らし髪で猪口を手にしてる、彼女の姿は、なんだか情の薄い冷たさに見えた。
 その長い黒髪を、深夜、長谷川は自分の首にまきつけ、心で泣いたことがあった。けれども、眼に涙は湧かなかったのである。
 霧は濛々として、屋内にまではいってくるようだった。
「これ、見てごらんなさい。」
 石山からの手紙を差し出した。
「見ても、よろしいの。」
 彼女はざっと読んだ。反応は示さない。
「ひとを紹介しておいて、悪口ばかり言っている。」
 彼女は微笑した。
「あなたのことも、変り者だと言っている。どこが変ってるのかしら。」
「それは、石山さんの方が、変っていらっしゃるからでしょう。」
「変り者には、普通のひとが変り者に見える、ということですか。然し僕は、石山と親しくしてるが、変り者とは思いませんね。」
「でも、あのかた、女を軽蔑していらっしゃいます。」
「さあ、それはどうだか……。」
「男のひとって、たいてい、女を軽蔑していますが、それを、隠したがるでしょう。石山さんときたら、おおっぴらに、軽蔑なさるのよ。」
「それで、変り者ですか。」
 ちらと、長谷川の頭に閃めいたものがあった。猪口を置いて、真面目になった。
「あなたは、石山をよく御存じですか。」
「よくは存じませんが、あちらに滞在なすってた時、兄と一緒に、なんどか、遊びにいらしたことがありますの。お酒に酔ってくると、わたしに、琴をひいて聞かせろだの、なんだのって、うるさいかたよ。」
「そして、あなたの方では、石山を誘惑しそこなったんでしょう。」
「誘惑……。」
 小首をかしげて、千代乃は怪訝そうだった。
「僕ははっきり覚えています。御免なさい、わたしが誘惑したのよ、とあなたは、あの朝がた、僕に言いました。」
「あ、あのこと、実は、本当なの。」
 平然と、そして頬笑みさえ浮べて、彼女は話すのである。
 彼女は先ず兄に説いた。本館は騒々しくて、長谷川さんのようなお仕事には無理だろうから、こちらへ移られてはどうだろうか。それを兄が承知すると、彼女は辰さんを解放してやった。辰さんというのは、裏の野菜畑の手入れや本館の雑用などをしてる、臨時雇いの爺さんで、彼女が一人きりの時には、こちらに泊りに来ることになっていた。その辰さんには、長谷川さんが滞在なさるからと言って、近くにある自分の家へ、夜は帰すことにした。それからあの大雷大雨の夜。酒や怪談……。
 余りに淡々と話されると、却って嘘のようだった。
「こちらへも、時々お客さんがあるのでしょう。そんな風に、いつも誘惑なさるんですか。」
「まあ、そんなこと、誰に向って仰言るの。」
「それでは、どうして、僕に目をつけたんですか。」
 彼女は眉根をちらと寄せて、それから急に、真剣な面持ちになった。
「ためしてみたんです。」
「え、僕を。」
「いいえ、わたしのこと。」
「御自分をためしたんですか。」
「もうためしてしまったから、打ち明けましょうか。」
 それがまた、超自然的なことだった。
 或る夜、それも深夜、床の間に立てかけてある琴の、十三本の絃が、じゃじゃんと、一度にかき鳴らされた。そしても一度、じゃじゃんと。彼女は眠っていたのだが、事前にふっと眼を覚して、確かにそれを聞いた。あとはしいんとして、ことりとの物音もない。怪しんで起き上り、そこらを見調べたが、琴にも、どこにも、異状はなく、鼠一匹いなかった。
 翌日の夜、また同じことが起った。
 一種の奇蹟なのだ。奇蹟は、運命の転廻を意味する。それをためしてみたのである。
「あなたを、相手に選んだこと、御免なさい。」
 口では御免なさいと言いながら、少しもあやまってる風はなかった。
「そして、ためした結果は、どうなんです。」
「まだ、ためしただけで、あとのことは、待ってるだけですの。」
 そうなると、これはもうはたから窺※(「穴かんむり/兪」、第4水準2-83-17)すべからざる事柄だ。
 長谷川は最後の反撥を試みた。
「それにしても、あなたはいいましたよ、あまり深く想ってはいけないと。そのことも、僕ははっきり覚えています。」
 千代乃は黙っていた。
「僕も、もう三十五にもなるし、多少の分別はあります。あなたの迷惑になるようなことはしません。然し、深く想おうと、浅く想おうと、それは僕の自由にさしといて下すっても、いいでしょう。」
「いいえ、違いますの。そんなことじゃありません。」
「では、どういうことですか。」
「わたし自分のことなの。」
「僕は、僕の方のことを言ってるんですが……。」
「違います。わたしのことよ……分らないの?」
 ふいに、片手を差しのべ、彼を打つまねをしかけたが、とたんにその手を引っこめ、ぽつりと瞼にたまった涙を、指の甲で拭いた。それを押し隠すように立ち上って、縁側に出てゆき、硝子戸を開いて、外を眺めた。
 長谷川にとっては、全く思いもかけない所作だった。彼はただ酒を飲むより外はなかった。
 千代乃は座に戻ってきて、まだ硝子戸の方へ眼をやりながら言った。
「お酒は、もうよしましょうよ。霧がはれかかってきたようなの。裏山にでも登ってみましょうか。霧の上から富士山が見えてくるところは、きれいですよ。」
 何を言ってることやら、気まぐれにも程がある、と長谷川は思った。裏山の頂からは富士山がよく見えたが、それももう彼には面白くなかった。
「こんど、天城山に登ってみましょうか。」
 それも気まぐれらしいが、天城山なら彼も気が惹かれた。
「行ってもいいですね。」
 もう話を元に戻すすべはなさそうだった。
 彼は残りの酒を飲み、本館へ湯にはいりに出かけた。
 彼女の言ったことすべてが、本当のようでもあり、嘘のようでもあった。何の手掛りもなく、掴みどころがなかった。
 霧のはれるまで……彼はそれを思い出して、口の中で呟いた。
 霧はじっさいはれかかっていた。ぼーっと日の光りがさしていた。
 長谷川はもうなんにも考えないことにきめ、無心の気持ちを求めて、ぶらぶら歩いた。松月館にいっても、むっつりと黙りこみ、そして長々と湯に浸った。帰りは田舎道を遠廻りして、農家の鶏小屋などを覗いて廻った。
 そして事もなく日が暮れ、早めに戸締りをしてしまった千代乃と、またちょっと酒を飲んだ。御飯は食べる気になれなかった。
 天城登山のことなどを、何気なく話しあった。
「天城山の渓流には、沢蟹がいますか。」
「いますでしょう。」
「この辺には、ちっともいませんね。」
 本館からの帰りに、長谷川は沢蟹を探したが、一匹も見つからなかったのである。
「雨が降れば、出て来ますよ。」
「こないだのような晩にでしょう。」
「あら。」
 千代乃は睥むまねをして、そして笑った。
 死体と沢蟹の話も、もう遠くなっていた。
 突然、裏口の戸が激しく叩かれた。遠慮のない叩き方だった。
 千代乃が立ってゆき、戸を開くと、辰さんが提灯をさげて佇んでいた。
「旦那が見えましたよ。いま、湯にはいっておいでだが、食事は、あちらか、こちらか、さて、どっちかな。なにか、御用はありませんか。」
 家の中まで筒ぬけの大きな声だ。
 千代乃はまた戸締りをして戻ってきた。
「柿沼さんですか。」
「そうなの。」
 彼女は落着きはらって、猪口を取り上げ、飲んだ。
「いつも、ふいにやって来るのよ。だから、少しぐらい酔っていたって構やしないわ。」
 だが、長谷川はさすがに落着けなかった。千代乃の様子が、太々しいとさえ思われた。黙りこんで、急いで酒を飲み、二階に上っていった。千代乃があとからついて来て、布団を敷いてくれた。
「あ、忘れていた。髪を結わなくちゃならないわ。」
 長谷川の眼をじっと見て、指先の方を痛いほど握りしめた。
「おやすみなさい。」
 彼女の長い散らし髪が、長谷川の眼の底に残った。
 久しぶりに寝る二階の寝床は、なにか新鮮な感じだった。彼は腹這いになって煙草をふかした。
 千代乃がまた上ってきた。お盆の上に、銚子と猪口、薬缶とコップが並べられていた。
「どちらでも、およろしい方を。」
 そして眼でちらりと笑った。
「さっきね、辰さん、あれで、気を利かしたつもりなのよ。分って?」
 味方があるから大丈夫だというつもりなのであろうか。けれども、長谷川はそのために却って苛ら立ちを感じた。
「おやすみなさい。」
 長谷川は返事をせずに、銚子を取り上げ、コップで飲んだ。

     三

 柿沼治郎は三泊だけで東京へ帰って行ったが、その中二日間、彼は用件を持っていたらしく、外に出歩いたり、来客があったりした。殊に松月館主人の松木恵一とは、たいてい一緒だった。
 長谷川は二階の室に引籠りがちで、仕事に専念しようとした。然し寝ころんでることが多く、とりとめもない妄想に耽っては、あとで、自ら気付いて苦笑した。
 心に、隙間があったのだ。その隙間から、なまぬるい風が流れこんできて、ざわざわと、妄想をかき立てる。下品な浅間しい妄想ばかりだった。
 濃霧の中を千代乃が持って来てくれたもの、鮑五つに栄螺七つ、それをみな、彼女は自分に食べさせてくれるだろうか、或るいは柿沼の食膳にも出すだろうかと、長谷川はしきりに推測してみた。あの晩たしか幾個食べたから、まだ幾個残ってるはずだ……。
 自分で気がついてみると、これは滑稽を通りこして浅間しかった。このようなことをよくも考えめぐらしたものだと、驚かれるのだった。たとえ正確に計算出来たとしても、鮑や栄螺のたぐい、売ってる店はあるだろうし、いつでも、買えるだろう。ばかばかしいことだ。また、あの残りを彼女が柿沼に食べさせようと食べさせまいと、そんなことにいったい何の意味があるか。
 一種の嫉妬であったろうか。嫉妬には灰汁の苦さと蜜の甘さがあるものだが、それがなかった。
 長谷川は朝食がおそく、昼食をぬきにして、夕食をとる。その給仕は、本館から来る女中がすることもあり、千代乃がすることもあった。だが彼はむしろ、独りでゆっくり食べることを好み、千代乃を階下へ追いやった。
「分ってるわ。気になさらないでね。」
 千代乃の態度には、何のこだわりも見えなかった。それが却って、長谷川には物足りなかった。
 千代乃ばかりではなく、松木にせよ、柿沼にせよ、ほとんど長谷川を眼中に置いてないかのようだった。他の来客と一緒に、酒宴をし、高笑いをした。それが実は、当然だったとも言えよう。二階の一旅客に気兼ねする理由など、全くなかったはずだ。
 然し長谷川にしてみれば、それが、自分の地位の急な転落とも感ぜられたのである。謂わば、主賓から一挙に居候に成り下ったのである。あてがいぶちの食事をぼそぼそ食べ、そこにごろりと寝ころんで、暮れかかった空を眺めていると、へんに佗びしい気持ちになった。食後の皿小鉢をさげにさえ、誰もなかなかやって来ないのである。
「もうお済みになりまして?」
 千代乃が上って来て声をかけても、彼は起き上らず、返事もしなかった。
 千代乃は縁側に佇んで、彼方の天城山の暮色を眺めた。
「ひまになったら、天城山に登りましょうね。」
 彼はただ機械的に頷いて、心の中では、ひまになったら、とその言葉を苦々しく繰り返した。
 すべてなにもかもひまになったら、だった。彼女はいま、ひまではないのだ。主人の柿沼の相手をし、兄の松木の相手をし、其他の人々の相手もしなければならないのだ。そんなことのために彼女は存在しているのであろうか。
 惜しい……その思いに長谷川はぶつかった。惜しい、そして残念だ……。
 彼女の面影が、宙に浮き出してありありと見えてくる。強い視力のこもってる眼が、じっとこちらを見ているし、肉附きの薄い細面の頬が、きっと引き緊って蒼ざめている。何かを待っているのだ。
 あのまま、あんな連中のなかに、打ち捨ててはおけない。惜しい、そして残念だ。
 この感情を愛そのものだとは、長谷川は自認しかねた。然し、憐愍には甚だ遠く、恋愛に甚だ近いものだった。しかもいま、彼は彼女の相手になり得る地位にいないのだ。
 長谷川は突然立ち上って、外に出で、町や野道を歩き、ビールを飲み、煙草をふかし、それでも自分自身をもて余して、帰って来、また室の中に寝そべった。
 階下からは、琴の音が響いてきた。千代乃が弾いているのだ。不思議なことに、彼女はこれまで琴に手を触れようとしなかったが、柿沼が来てからは、ひまさえあれば琴を弾くようになった。コロリンシャン、コロリンシャン……やたらにひっかき廻している。それも柿沼へのサーヴィスなのであろうか。いや、なにか違う。
 長谷川が寝ころんで聞いていると、琴の音はいつまでも絶えそうになかった。彼は琴曲のことには不案内だったが、歌物ではないらしく、ただ手の技を主とする緩急高低の音色の連続だ。変化はあっても似たり寄ったりで、人の精神へではなく情緒へだけ絡みついてくる。何を訴えようとしているのであろうか。
 長谷川は、また、謎を投げつけられたような気持ちになるのだった。琴の前に坐ってる千代乃の姿は、想像しただけでも、あの洗い髪の彼女と、あの理知的な彼女と、両方に引っ張りだこになって、しっくりした落着きがなかった。
 このことで、長谷川は更に苛ら立ちを覚えて、琴の音から気を外らそうとした。室の中を飛び廻ってる蝿に、注意を集めてみた。その羽音がどこかに消えると、琴の音も遠くかすかになり、やがて、足音もなく千代乃が立ち現れて、にっこりと眼付きで笑みかけ、指先を痛いほどきゅっと握りしめる……自惚れきった妄想だ。
 彼はいつも、ひとり放り出されていたに過ぎない。
 だが、この間に長谷川は、爺やの辰さんから、いろいろなことを聞き出した。辰さんはこちらに用がふえて来てることが多く、合間には畑の野菜物、遅蒔きの茄子や大根の手入れをしていた。その仕事を長谷川が通りがかりに佇んで眺めていると、辰さんの方からしばしば話しかけてきた。つまらない世間話ばかりだったが、その中には千代乃のことも出て来た。
 千代乃と兄の松木恵一との姓が異ってるのは、千代乃は母方の三浦姓をついでるからだとのこと。また、柿沼治郎には本妻があって、もう長年、肺の病気のため、どこかの療養所にはいってる由。その本妻の没後には、柿沼は千代乃と正式に結婚する約束になってる由。
 辰さんはずけずけと口を利いた。
「松月館も、先代までは盛んなもんでしたよ。それが、今はあの通り、まあ三流どころになったもんだから、旦那がやきもきなさるのも無理はありませんや。」
 やきもきの内容というのは、つまり、若月という、家は小さいが一流の旅館が、内々で売り物に出てるのを、柿沼外数名に出資させて、買収しようとかかってることらしい。
 そういう商売上の事柄は、長谷川にとっては興味もなく、秋茄子の話や大根の間引きの話の方が、よほど面白かった。
 辰さんは不平を言った。
「奥さんも訳がわからん。お客さん一人の時は、泊りに来ないでいいと言っといて、御亭主が見えるというと、またわたしを泊らせるんですからなあ。もっとも、用もふえたがね……。」
 そんな何気ない言葉に、却って、長谷川は虚をつかれるような思いがした。一方、やけくその気持ちも動いた。ともすると、千代乃を愛してるのか憎んでるのか、分らなくなることもあった。
 そして最後に、思いがけないものにぶつかった。
 朝の陽差しが煙るように陰り、さーっと細い雨がきて、それが暫く降り続き、また急に陽が照ってきた。その雨脚や陽脚を、長谷川は二階から眺めていたが、ふと、庭の片隅に眼がとまった。自然石が配置されてる石南花の茂みの中に、鳥らしいものがひそんでいる。鶏か鳶か鷹か、とにかく大きなやつで、地面に頭を突っ込むようにしている。それが、いつまでもじっと動かない。何かを食おうとしているのであろうか。何かに捕えられているのであろうか。身動きをしない。
 長谷川は急いで降りてゆき、玄関の下駄をつっかけて、見に行ってみた。側で見ると、思ったほど大きくはなく、普通の山鳩で、頭をぐったり地面に押しつけ、横倒しになっている。死んでるのだ。褐色の羽子に雨滴がたまっている。
 その山鳩の足先に、長谷川は手を差し伸べた。濡れた死体は硬ばっていて、ぶらさげても、びくともしなかった。ぶらさげて、さてどうしようかと、長谷川は迷った。
「山鳩のようですね。」
 縁側から声がした。頭髪を五分刈りにした男がそこに立っていた。長谷川は前に見かけたことがあるので、柿沼治郎だと分った。
「死んでいますね。その辺に置いといて下さい。あとで片付けさせましょう。」
 全く無関心な、冷やかな調子だった。
 長谷川は山鳩の死体を庭石の上に置き、手を打ち払い、本能的に煙草を浴衣の袂にさぐったが、無かった。
 柿沼は縁側に煙草盆を持ち出した。
「さあ、どうぞ。」
 招ぜられるまま、長谷川はやって行き、煙草を一本取り上げた。
「毎日、御勉強のようですね。」
「いや、つまらん仕事です。」
「御挨拶もしませんでしたが、少し、お邪魔だったでしょう。今日、午後、たちます。あとはまた静かですから、ゆっくり御逗留なすって下さい。」
 事務的に響く淡々とした調子だった。
 その時、長谷川は、後々まで残る深い印象を受けた。――山鳩の死体をぶらさげてた自分の滑稽な恰好。遠くから視線を交わしたことはあるが、初めて近々と出会ったのにしてはおかしな対話。それらのことをも忘れるほどの印象なのだった。
 柿沼は背がやや低い方で、頸は短く、肉付きは逞しく緊っており、五分刈りの頭は大きく見え、顔は浅黒く、鼻の太い丸顔……まあ普通に見かける事業家のタイプだった。ただ、その眼差しに、なにか陰にこもった影があった。直接に相手を見ないで、紙一重ごしに覗ってるというところがあった。松月館主人の眼差し、相手の意向に迎合しながら別なことを考えてるような眼差しとは、全く別種なもので、初めから相手の意向などは無視し、しかも自分自身をも影の中に潜み隠してるのである。言葉の冷淡な無関心な調子も、それに由るのであろうか。更に、その眼差しに宿ってる一種の影は、憂暗な色合を帯びていて、額の上まで拡がっている、というよりは寧ろ、額全体に憂暗なものが漂っていて、それが眼差しにまで影を落しているのだ。
 そういう印象に、長谷川はなにか心暗くなり、柿沼の顔から眼を外らした。
「お邪魔しました。」
 言い捨てて、歩きだし、それから、手の煙草も投げ捨てた。
 烙印、額に烙印、というものがあるとすれば、柿沼の憂暗の影はそれではなかろうか。
 長谷川は掌で、自分の額をしきりにこすった。
 今まで忘れていたというのではないが、なんとなく避けていたことに、彼は思い当った。
 もう、千代乃に対する本心を、はっきりさせなければならないのだ。たかが柿沼の第二号と……そんなふざけたことではない。一個の三浦千代乃とのことだ。
 一人になって考えてみよう、と彼は思った。柿沼がたってしまえば、もう、どこへ行こうと、誰かに、或るいは自分の気持ちに、ここから逃げ出したと後ろ指をさされることもないのだ。
 朗かとまではゆかず、悲壮めいた気持ちで、長谷川は林の中を歩き、渓流のほとりをさまよい、水車のそばに佇んだ。そして、本館へ湯にはいりに行った時、お上さんに、明日たつ旨を伝え、勘定書を求めておいた。
「まあ、左様ですか。何にもおかまいもしませんで……。」
 善良なお上さんは、一晩泊りの客にも長逗留の客にも、同じような態度なのだ。
 柿沼がたってしまうと、別館は以前通りの静けさに返ったが、千代乃はなにか苛ら立ち、そしてなにか思いつめてるようだった。
 彼女は二階に長谷川の夕食を運んでき、酒も出してくれた。
「これはわたしから、お名残りのお酒です。大丈夫、柿沼の飲み残しではありませんから。」
 ぶっつけに彼女は言った。
「では、あなたも少しお飲みなさい。」
「ええ、ほんの少し……。」
 彼女は猪口を受けた。
 だが、二人とも黙りがちだった。
「長谷川さん。」彼女はじっと彼の眼を見つめた。「あなたは、どうしても明日、お帰りなさるの。」
「ええ。」
 長谷川は軽く頷いた。
「東京へ?」
「一応、帰ります。」
「明日でなくては、いけませんの。」
「明日と限ったことはありませんが、とにかく、ここをたちます。」
「東京へは、明後日でも宜しいんですね。」
 長谷川は彼女の顔を見たが、表情では何も読み取れなかった。
「どういう意味ですか。」
「いえ、それだけ承っておけばいいんですの。」
 長谷川は言質を取られたのを感じた。そのあとは、とりとめもない言葉だけで、そして沈黙がちな食事。
 千代乃はなにか忙しそうだった。
 夜は、辰さんが早くにやって来て、早く寝てしまった。
 長谷川も早めに寝た。自分でも案外なほど、千代乃の肉体に未練を感じなかった。余りに考えすぎたからだったろうか。

     四

 風があって、空には白い雲が飛んでいた。その朝になって長谷川に千代乃は言った。
「わたしも、ちょっと東京へ行くことにしましたの。御一緒にね。途中、湯ヶ原で降りましょう。天城山の代りよ。」
 彼女は楽しそうに笑った。昨夜とちがって、何の屈託もなく朗かそうだった。
 長谷川は呆れた。だが、もう成り行きに任せようと覚悟をきめた。
 松木夫婦や女中たちの見送りの手前も、彼女は平然と、長谷川に続いて自動車に乗りこんだ。
 時間はゆっくりあった。国鉄本線へ乗り換える前、三島神社で遊んだ。
「あなた、別館へと言って、別にお茶代をお置きなすったわね。今朝兄さんからあれを貰って、わたしへんな気がしたわ。」
 神社の境内で、彼女は突然そんなことを言いだして、くくくと笑った。
 襟元凉しく髪を取り上げ、はでな明石縮に絽の帯、白足袋にフェルトの草履、そしてハンドバッグに日傘、ちょっと物見遊山という身なりだった。その側で長谷川は、色あせた麻服の自分を、供の男めいて顧みられ、上衣をぬいでやけにシャツの襟をひろげた。
 湯ヶ原の旅館は、その嫁さんが千代乃のお琴友だちとかで、前夜の千代乃の電話で、室の用意がしてあった。渓流に上高く臨んだ室で、水音はうるさいが凉しかった。
 湯を一浴びしてから、千代乃は嫁さんのところへ行き、なかなか戻って来なかった。長谷川は水音に耳をかしながら、うっとりと仮睡の心地にあった。神経がへんに疲れてるようだった。
 夕食の料理が運ばれて来たのは遅く、それとほとんど同時ぐらいに千代乃は戻って来た。
「御免なさい。久しぶりだったものだから、すっかり話しこんでしまって……。」
 そんなことはどうでもよく、長谷川はただ投げやりな気持ちで、酒の猪口を取り上げた。
「あなた、前からそんなに、お酒あがっていらしたの。それとも……。」
「それとも……なんですか。」
 千代乃の眼に光りが湛えた。
「わたしとのこと、後悔なすってるんじゃないの。」
「どうしまして。光栄としてるんです。」
「冗談ぬきにしてよ。なんだか不機嫌そうね。」
「不機嫌どころか、これで、たいへん嬉しいんです。」
 そんな言葉がすらすら出るのが、長谷川自身でも意外だった。たしかに、松月館とは気分が違っていた。
「今日は、真面目にお話したいことがあるのよ。だから……。水の音がちょっとうるさいわね。」
「なあに、聞きようですよ。僕はさっき、あれを聞きながら、うとうとしちゃった。あ、ここのお嫁さん、あなたの琴のお友だちですって。水音も、お琴の音みたいなもので……。」
「あら、こないだのことを言っていらっしゃるの。」
 彼女は声を立てて笑った。
「あれ、わたしの策略よ。大成功だったわ。」
 彼女はそれを独りで楽しむかのように、なかなか話さなかったが、いちど口を切ると、例の通り、明けすけにぶちまけてしまった。
 つまり、辰さんの話の若月旅館の一件なのである。松木はそれを買い取ろうと、盛んに柿沼を口説いた。柿沼の方でも、大規模の製菓会社がいろいろ出来てきた現在では、彼の小さな会社は、戦後の一頃のような利益がないばかりか、次第に経営さえ困難になって来たので、もともとその土地出身者ではあり、松木の旅館業経験をたよりに、後図をはかる気にもなって、二、三の共同出資者を物色し始めた。その方はまあそれとして、若月旅館をいったい誰が実際に切り廻してゆくか。人任せには出来ない。大体のことは松木がやるとしても、松木には松月旅館があるし、松木の妻も善良すぎて手が廻りかねるし、結局千代乃を実務の監督に据えようと、そこに話が向いてきたものらしい。前々からの懸案なのである。
「このわたしを、宿屋のお上さんに、そして女中頭に、すえようとたくらんでるのよ。ねえ、この年齢で、可哀そうでしょう。」
 だから、千代乃は反対をとなえた。然し、いくら嫌だと言い張っても、むつかしい条件をいろいろ持ち出しても、結局は無視されそうになったので、最も単純素朴な策略を思いついたのである。お琴の勉強をほんとにやりたくなったので、たとえ若月旅館にはいるとしても、毎日、朝から晩まで、お琴ばかり弾くが、それでもよいか。例えばこんな風にと、彼女は示威運動に、あの二日間、一生懸命に琴をかき鳴らした。
 長谷川は腹をかかえて笑った。
「呆れたひとだ。」
「呆れたでしょう。柿沼も兄さんも呆れかえって、話はうやむやになっちゃったの。でもわたしの方は、おかげで、忘れかけてた千鳥の曲のおさらいがすっかり出来てしまった。」
 得意そうに微笑してる彼女は、まるで無邪気な少女のように見えた。だが、薄暮の空遠くに眼をやって、呟いた。
「窮すれば、通ずる……。」
「しかし、温泉旅館のお上さんというのも、わるかありませんよ。」
「女中頭にしたって、そりゃあそうよ。」
「普通のひとの羨むぐらいな、りっぱな地位身分じゃありませんか。」
「地位身分……そうだわ。それがわたしの気に入らないの。」
「それじゃあ、ただの女中なら?」
「同じことです。」
 きっぱり言いきって、彼女は眼を見据えて考えこんだ。
「わたし、便利すぎたんだわ。」
 なんのことか、長谷川には分らなかった。
「何にでも役立つという、便利なものがあったら、面白いでしょうね。室の中の、ここがすいてるからと、そこに据える。ここが淋しいからと、そこに据える。こんな役に立つといっては、それに使う。そのような便利な道具があったら、面白いでしょうね。」
 皮肉な影が眼に浮んでいた。
「宿屋のお上さんに、丁度いい。女中頭に、丁度いい。病気の女房代りに、丁度いい。お妾さんに、丁度いい。第二夫人に、丁度いい。別荘番に、丁度いい。何にでも役に立って、便利なんだわ。」
 顔をきっと挙げて、まともに長谷川を見た。
「長谷川さん、あなたまでが、情婦に丁度いい、なんて言ったら、承知しないわよ。」
 言葉はヒステリーみたいだが、調子は少しふざけていて、眼にはまだ皮肉な影があった。
 長谷川もそれに応じた。
「それじゃあ、千代乃さん、色男に丁度いい、なんて言ったら、僕も承知しませんよ。」
「承知しないで、どうなさるの。」
「殺してしまう。」
「そんなら、わたしも、あなたを殺そうかしら……。」
「ええ、どうぞ。」
「死んで下さる?」
「殺されたら、死ぬより外はないでしょう。」
「そうね、殺されたら死ぬより外はない……。」
 突然、一陣の風のように、真剣な気合が流れた。
「誓いましょう。」
 彼女に応じて、長谷川が手を差し出すと、その五本の指を、彼女は力一杯に握りしめた。
「痛い。」
 長谷川は手先をうち振った。彼女はまた手を差し出して挑んだ。その五本の指を、長谷川は力こめて握ってやった。細そりした指先だが、彼女は別に痛がらず、長谷川は力ぬけがした。
 黙っていると、川の水音だけが耳につく。たいへん深い下の方を流れるような水音だった。戸外はもう暗い夜だった。
 千代乃は女中を呼んで、酒を求めた。
「今晩、酔ってもいいでしょう。その代り、すっかりお話しするわ。」
「そう、泥でも砂でも、吐いてしまいなさい。」
「まるで、罪人のようね。罪人かも知れないわ。わたし、復讐したんだから。」
「復讐……僕に?」
「まあ、せっかちね。」
 千代乃の言葉は、断片的で、独断的で、まるで飛石伝いに歩くようなものだった。
 それを総合してみれば、つまり、彼女は柿沼や松木に復讐したのである。彼女を現在の境遇に陥れたのは、柿沼と松木との共謀によるもので、柿沼の病妻の死後には正式に結婚するという約束はあるにせよ、共謀の裏に相互の利害関係がひそんでることは確かだった。彼女は物品の如く売買されたのだ。そして彼女はなにも知らないうちに、ほとんど暴力的に肉体を奪われた。そして今度は、甘言を以って、旅館経営に徴用されかかっていた。そこに一度はいり込んだら、もう恐らくは一生、脱け出すことは出来ず、五十歳近い柿沼の最後の看病にまで、利用されることであろう。愛情もなく、生き甲斐もないのである。彼女は反撥し、反抗した。嘗て彼女も、恋愛を経験したことがあり、相手の男は戦争中に陣没したが、忘れかけていたその青春が、また芽を出した。長谷川が、どこやらその男に似ていたのだ。身を以てする復讐、そして身を以てする復活。彼女は長谷川を虜にした……。
 そこまでは、甚だ平凡であり、通俗小説の筋書きに等しかった。
 然し、彼女の心理には、特殊なものがひそんでいた。超自然的な奇蹟、人間の運命、その両者の関連など、普通の理知からはみ出した信念があった。深夜に琴がひとりでに鳴り響いたのも、彼女にとっては一種の啓示であり、あの日の大雷雨も、彼女にとっては一種の啓示であった。そして長谷川との肉体の交渉は、到達点ではなく、出発点に過ぎなかった。出発して、そして何処に到るかは、ただ神のみぞ知る。
 千代乃は、頬の皮膚を薄紙のように張りきり、眼に深い光りを漲らして、長谷川を見つめた。
「覚悟していらっしゃい。わたし、もう一生あなたを離さないし、あなたから離れないから。」
 長谷川もいつしか、覚悟をきめていた。
 遁れられない運命だと、なんとなく彼女の説にかぶれかかっているのである。
「僕だって、もう覚悟はしている。その代り、あなたも、あの言葉は取り消しますね。あまり深く想っちゃいけないということ……。」
「あの時はそうだったの。でも、今は違います。」
「では、条件なしですね。」
「ええ、無条件。」
 無条件の……降伏か、勝利か……そんなことが、ちらと長谷川の頭に浮んだが、彼はすぐ眉をしかめた。まるで違ったものだ。そして無条件ということは、ひどく自由であると共に、ぬきさしならぬ感じだった。
「無条件に……。」彼女は言葉を探す風だった。「生きていきましょう。」
 長谷川は頷いた。
「わたし、東京には、三田に伯母さんがあるから、柿沼のところには行かないで、そちらに泊ることにしているの。あなたのこと、その伯母さんに打ち明けて構いませんか。」
「構いません。」
「分ったわ。大丈夫、打ち明けなんかしません。でも、遊びにいらしてね。いい伯母さんよ。」
「それでも、なんだか……。」
「いやよ。毎日来て下さらなくちゃ、いや……。」
 駄々をこねるように、彼女は長谷川の肩に頭をもたせかけて、身体ごと揺った。酔ってるのか、甘えてるのか、恐らくは彼女自身にも分らなかったろう。長谷川も陶然として、彼女に甘えたくなった。
 渓流の音は、不思議にもう耳につかなかった。その代り、空に月が出ていた。長谷川は立ち上り、月を仰いで、それから電燈を消した。室半分、青白い月光だった。

     五

 ――長谷川梧郎に宛てた三浦千代乃の手紙――
 こちらへ帰って参りましてから、十日あまりになります。そしてようやく、なにもかも申し上げられる気持ちになりました。この山の中では、朝夕はもう凉しく、野には秋草の花が咲き、薄の穂が出ておりますけれど、ただいまは夜更け、月や星がきれいでしょうけれど、それも私には無縁、ただ虫の声だけが胸にひびきます。涙ぐんでいるのではございません。夜の深い静けさのなかに、むしろ、頬笑んでいるとでも申しましょうか。けれども、私としては、こんな時に頬笑むのは、泣くよりも、もっと淋しいことですの。
 三田の伯母さんは私に、「あんたは気がかちすぎているから、だめ、」と申しました。ちょっと私の弱点をついたような、それでいて実は理解のない、いやな言葉です。「だめ、」というのは、私の生活の問題についてのこと。御存じの通り、娘の敏子さんはデパートの店員をつとめ、伯母さんはその方の関係で、針仕事をしたりミシンをふんだり、そして二階は二人の学生に間貸しをして、それでじみに暮しております。私もそのように、自分で働いて生活したく、いろいろ尋ねたり相談したりしましたが、結局、私は気が勝ちすぎているからだめだそうです。自分の腕で働いてじみに暮すには、私には我慢が足りない、辛棒がしきれない、というのでしょうか。
 けれども私は、どのような苦しいことでも、どのような辛いことでも、やってみようと決心しておりました。覚悟をきめておりました。敏子さんのように、デパート勤めも致しましょう。伯母さんのように、針仕事やミシン仕事も致しましょう。出来ることなら、ダンスを習ってダンサーにもなりましょう。こちらで旅館の仕事を少し手伝ったことがある経験を生かして、小さな酒場を開いてもよろしく、場合によっては芸者になっても構いません。芸者は少くとも愛情によって行動出来ます。今の私の生活は、檻の中に入れられてる売女に等しいではありませんか。そこから脱出しなければならないと、一生懸命にもがいておりました。気紛れではございません。
 それを、伯母さんは少しも真に受けてくれませんでした。あなたに御相談したこともありますが、あなたはいつもにやにや笑ってばかりいて、本気で聞いて下さいませんでしたわね。もっとも、私の話しかたも少しふざけておりましたし、そのようなことよりも、私たちにはもっと重大なことがありました。ほんとの愛情がありました。この愛情のためになら、死んでもかまわないと、今では私は思っております。
 東京での日々は、ほんとに楽しゅうございました。伯母さんの家へいらして下すったことも、嬉しく思っております。もっとも、初めは私からお願いしたのでしたが、毎日のように訪ねて来て下すったのを、あなたの愛情の深さの故だと感じております。御一緒に出歩いて、コーヒーを飲んだり、映画や芝居を見たり、ホテルへ参ったり……そしてなにをお話したか、言葉の上のことはすっかり忘れてしまいました。
 でも、ふと言葉がとぎれた時、しぜんに黙りこんだ時、あなたはなにか考え込んでおしまいなさることがありました。あのホテルの室で、窓際に両肱をついて、暗い夜空にぼんやり眼をやっていらっしゃるので、私はそっと時計を見てみましたら、あなたは十分間、きっかり十分間、振り向きもなさらず、身動きもなさいませんでした。その放心というか、瞑想というか、沈思というか、そのような折のあなたの胸の中に忍びこんで、その奥底を私は打診したかったのですが、やめました。なにも、後悔していらっしゃることなどないと、信じますもの。けれど、こんどは、今後はあなたのその胸の中に、私は遠慮なく忍びこんで、そこに手を触れてみますから、覚悟していらっしゃいませ。
 けれども、実は、そんなことはどうでも宜しいのです。あなたの胸に、なにか後悔の影みたいなものがちらと差そうと、もう私は気に致しません。私自身、どんな手傷を受けようとも、もう気に致しません。
 柿沼に復讐してやる下心も、私にあるにはありましたが、その復讐も、向うには少しも手傷を与えず、却って私自身が手傷を受けたようです。私自身というのがわるければ、私の過去が、手傷を受けたのです。私はただ、自分の過去に復讐したに過ぎないのかも知れません。
 しかし、過去のことなんかどうでもよい、自分は新らしく復活したのだと、私は信じもし、感じてもおりました。過去をして過去を葬らしめよ、将来をして将来を生かしめよと、私は心の中で叫んでおりました。生活の立て直しをはかったのも、そのためでした。
 ところが、思いがけないことが起ってきました。
 その前に、申しておかなければならないことがあります。三田の伯母さんの家に滞在して、あなたから来て頂いたり、御一緒に出歩いたり致しましたが、その陰に、実は度胸をすえていたことがあります。伯母さんを、そしてあの家を、柿沼はよく存じているのです。以前、私は、柿沼の阿佐ヶ谷の家に行ったり、伯母さんの家に行ったりしていましたが、近頃では、伯母さんの家にしか泊らないことにしておりますし、柿沼は用事があれば、伯母さんの家へやって来ることになっていました。それで、こんども、柿沼が来るかも知れないが、来るなら来てもよいと、度胸をすえていたのです。
 柿沼は一度も来ませんでした。もっとも、私が東京に出たことを、柿沼には知らせていませんでしたが、兄からたぶん知らせたことでしょう。また、伯母さんに私から柿沼の来否を尋ねたことは、一度もありませんでしたが、伯母さんも私に柿沼のことは一言も申しませんでした。お互に、知らん顔をしていたのです。あなたのことについても同様です。
 はっきり申しましょう。私は度胸をすえてはいたものの、柿沼が一度も来なかったこと、或るいは来なかったらしいことが、却って私には気重いものとなって感ぜられました。私は柿沼に反感をこそ懐け、一片の愛情も持ってはいませんし、また、あなたにそっと打ち明けましたように、もうだいぶ前から口実を設けて、柿沼とは性的交渉を絶っていました。それなのに、伯母さんの家へ一度も柿沼が私を訪ねて来なかったことを、どうして気にかけたのでしょうか。
 外でもありません。私は柿沼をなんだか怖がっていたのです。あなたは柿沼をよく御存じありませんけれど、あの人のうちには、なにか重苦しいもの、陰鬱なもの、凶悪らしいものがあります。悪人だとさえ思われることがあります。表面きって私と喧嘩することもなく、私を怒鳴りつけることもなく、癇癪を起すこともなく、いつも黙ってじっとしておりますが、心の中ではどんなことを考えているか、どんなことをたくらんでいるか、それが私には恐ろしいのです。しごく冷静に計画的に、ひとを殺すことさえしかねないと、私はぞっとすることがあります。
 そういう危惧の念、不吉な感じは、あの人の実体……と申してはへんですが、あの人の身体が、遠くにかすんでゆくに随って、ますます濃くなって私につきまとってくるように思われました。いつも私は、あの人の眼からではなく、あの人の持ってる不吉なものから、狙われているような気持ちでした。あの人が伯母さんの家に一度も姿を見せなかったことが、却って、私には薄気味わるく思われるのでした。
 そういうところへ、全く思いもかけない通知が参りました。柿沼から私へ宛てたものです。
 信州の高原地の療養所にいた常子さんが亡くなったのです。常子さんというのは、柿沼の奥さんです。二人の娘さんは数日前から先方へ行っているが、柿沼もすぐに行き、あちらで火葬にして、帰ってきてから葬儀を行うから、私にも参列してくれとの案内でした。文面には、ただ事務的なものしか私には感じられませんでした。
 その手紙のあとを追うようにして、伊豆の兄から電報が参りました。常子さんの死亡と葬儀、私の喪服は兄が持ってゆくと、これも事務的な電文です。
 私は手紙や電報をくり返し読み、一生懸命に考え、やたらに腹立たしくなり、それから、無断で、逆にこちらへ帰って来てしまいました。無断で、と申すのは、あの人たちに対してです。
 伯母さんにだけは、内緒に、私の気持ちを打ち明けました。伯母さんは私に賛成もせず、反対もせず、黙って聞いてくれて、悲しそうに眼をしばたたいていました。
 あなたには、ただ急用が出来たからとだけ申しました。柿沼や兄や常子さんなど、私にとってはもう過去のものを、あなたとの間に介在させたくなかったのです。過去をして過去を葬らしめよ。けれども、いずれ詳しくお知らせするという約束を、少し後れましたけれど、今ようやく果すことが出来るようになりました。東京駅でお別れする時、あなたはとても美しい眼つきをしていらっしゃいました。男のかたは、悲しい時や淋しい時の方が、美しい眼つきにおなりになるものなのでしょうか。あ、よけいなことを……御免あそばせ、と申さなければならないほどふざけているのではございません。あの時のあなたの眼つきは深く私の心に残っておりますし、それにお応えして、この手紙を書いております。
 さて、簡単に申せば、柿沼の手紙と兄の電報とを前にして、私は葬式の光景を頭に描いてみたのです。
 祭壇には、常子さんの遺骨が花や供物に埋もれ、常子さんの写真が一際高くかかげられております。たぶん、お丈夫な時の写真でしょうが、私は初対面なのです。嫉妬などはいささかも感じませんが、私はどういう顔つきでその写真を見上げたら宜しいでしょうか。
 祭壇の前に、親戚の人たちや知人たちが立ち並んでおります。順々にお焼香を致します。私はたぶん親戚の末席となるでしょう。私のことを知ってるひとも知らないひとも、みな、好奇の眼つきで私を眺めるにちがいありません。私は喪服はきらいではありませんが、たくさんの好奇の眼に射すくめられて、しとやかに首垂れたものか、皮肉に微笑したものか、挙措に迷うことでしょう。
 しかも、いちどそこに立ち並べば、私には次の席が予約されております。こんどは、柿沼と二人のお嬢さんとの間の席です。柿沼の後妻、お嬢さんたちの継母です。この二人の娘さんを私はきらいではありません。一人はもう女学校を卒業しており、一人はまだ女学生で、どちらも無口な淋しそうな人柄です。けれども、私の方、ママハハというのは少しひどすぎます。ノチゾイというのは少しひどすぎます。オメカケの方がまだましなくらいです。
 そういう葬式の席へ、それから予約の席へ、私はただ事務的に招待されたのです。いえ、招待もされず、ただ、そこが私の席だときめられたのです。柿沼と兄と、それから誰かが、そうきめたのです。その席がぽかんと空いています。私はのこのこ出て行って、そこに腰をすえるべきでしょうか。長谷川さん、あなたならどうなさいますか。
 私は、自分にあてられたその空席に、背を向けました。そしてこちらへ帰って参りました。若月旅館のお上さんの席は、やたらにお琴をかき鳴らしてごまかしましたが、こんどの席については、逃げだすより外に、ごまかしの仕方がありませんでした。
 けれども、私としては、逃げるというような卑怯な気持ちでは、少しもありませんでした。むしろ、積極的な反抗でした。精一杯の抵抗でした。おわかりになりますかしら。そしてこれだけの力が私にあったことを、ほめて下さいますかしら。
 もうこうなったからには、なおさら、私はあなたに寄り縋ります。覚悟していて下さい。宜しいでしょうね。と言っても、あなたのお側に、なにかの席を欲しがってるのではありません。心と心との宿命的な誓い、それだけが欲しいのです。
 三田の伯母さんは、なにかのついでに、「わたしが話をまとめてあげてもよいけれどね……。」とうっかり洩らしたことがありました。あなたと私との結婚のことを考えたのでしょう。私はふふんと鼻の先で笑ってやりました。あなたの反婚主義とかいうものに、私も同感しております。
 兄は私に、「お前は長谷川さんに誘惑されたんじゃあるまいね、」と言いました。私は昂然と、「誘惑したとすれば、わたしの方でしたのです、」と答えてやりました。私はひとから誘惑されるほど、主体性とかを喪失してるつもりではありません。
 けれども、長谷川さん、あなたを失ったら、私はもう生きてゆけない気持ちがします。
 このへんで、なんだか、筆が乱れかけてきそうです。ちょっと煙草でも吸って、気を落着けることにしましょう。お酒は一人では飲みませんのよ。爺やの辰さんこそ、一人でお酒を飲んで、もうさっきから、あちらで眠っております。あなたは今頃、どうしていらっしゃるかしら……。
 さて、兄のことですが、私がこちらへ来てから、一週間ばかりして、兄も帰って来ました。常子さんの葬式は済み、無駄になった私の喪服を持ち帰ってきました。
 この喪服の荷物について、兄は先ず私に不平を言いました。それから、なぜ柿沼さんの葬式に行かなかったのかと尋ねました。言葉の調子は静かでしたが、言葉よりも眼つきで、じろりじろりと私の様子を窺っています。その態度が、私を苛ら苛らさせました。しかし、私はじっと虫を殺して、平気を装い、お葬式には行かないでもよいと思ったと答え、もう東京にも倦きたから帰って来たと答えました。内心はともかく、うわべでは、無邪気なお芝居が出来るので、私は思わず頬笑みました。
 すると、突然、兄はやはり静かな調子で、「長谷川さんに誘惑されたんじゃあるまいね、」といきなり言ったのです。もうお芝居は出来ません。私は逆に反抗してやりたくなりました。ただ、驚いたことには、あなたと一緒に湯ヶ原に行ったことを、兄は知っておりました。一晩泊るつもりだったのが、二晩にもなってしまったのがいけなかったのでしょうか。それにしても、どうして兄にわかったのでしょう。私としては別に隠すつもりもありませんけれど、いけないのは、兄の態度です。なんでもないことのように、静かな調子で口を利きながら、眼つきで私の様子を窺っているのです。私はきっとなり、そして言葉少なになりました。
「お前ももう子供じゃないから、くどくは言わないが、ただ慎重に振舞ってくれよ。そうでないと、おれもたいへん迷惑するし、柿沼さんにも申訳ない。なにごとも、慎重にたのむよ。」
 それが兄の最後の言葉でした。叱るのでもなく、怒鳴りつけるのでもなく、とっちめるのでもありません。こんなところ、柿沼とよく似ていて、同じ穴の貉とでも言うべきでしょうが、ただ、兄の方がへんに利己的な匂いがし、そして卑屈な感じがします。柿沼の方には、もっと深い怖いものがあります。
 兄との話はそれきりに終りました。兄からも、私からも、日常の些細な用事以外は、なにも言い出しませんでした。そして何事もなく時がたつのが、私にはかえって気懸りになりました。柿沼からもなんの便りもありませんでした。そして柿沼のあの陰鬱な不吉な影が、また私の眼先にちらつきだしました。
 昨日の晩、いえ、昨日の晩といえば昨夜ですから、一昨日の晩のことです。まだ明るいうちに、本館から辰さんがやって来て、旦那が見えませんでしたかと聞きました。いいえと答えると、はて、おかしいな、と首をかしげています。柿沼によく似た人を見かけたのだそうです。
 そのあと、暗くなってからのことです。私は茶の間で書物を読んでおりました。あちらの室で、少しばかりの寝酒をちびりちびりやっていた辰さんが、ふいに、はいと大きな声をして、玄関へ立ってゆき、戸をあけて、しきりに外をすかして見ています。私が声をかけると、辰さんは戸をしめて、そして言いました。
「いま、足音がして、だれか、戸を叩きませんでしたか。どうも、旦那のようだったがなあ……。」
 夕方のことから引続いた錯覚なのでしょう。私にはなにも聞えなかったのです。
 それから一時間ばかりたって、また同じことを辰さんは繰り返しました。私にはやはりなにも聞えませんでした。気のせいかな、と辰さんは呟いて、寝てしまいました。
 もうじっとしておるべきでないと、私ははっきり悟りました。
 翌日、つまり昨日のことですが、私は兄に向って、柿沼からなにか言ってきてはいないかと尋ねました。なにも便りはないそうです。よかったと思いました。もし柿沼がやって来るか、面倒な手紙が来るかすると、まずいことになりそうです。私の方から出かけていって、柿沼に逢ってみようと思います。きっぱりと処置をつけたいのです。けれども、やめた方がよいとあなたが仰言れば、柿沼に逢うのはやめます。
 準備が出来次第、私は三田の伯母さんの家へまた参ります。少しまとまったお金を用意しなければなりません。四五日はかかりましょうか。いろいろな計画があります。こぎれいな店を持ちたいとも考えております。独立出来る生活の方針を立てなければなりません。お目にかかった上で、詳しく御相談します。こんどは真面目に力になって下さいね。
 御返事は下さいますな。いつ出発するかわかりませんから。まっすぐにあなたの懐へ飛びこんでゆきますのよ。待っていて下すって……それとも……いいえ、私を待っていて下さることを信じます。
 ずいぶん長ったらしく書きましたが、後の方はぞんざいに簡単になりました。少し書き疲れましたし、それに、近日中にお目にかかってお話しすることばかりですもの。たくさんお饒舌り致しましょう。たくさん……愛し合いましょう。愛に祝福あれ。
 おやすみあそばせ。

     六

 銀座裏の大きなバーの片隅に、長谷川は石山耕平と向き合って坐っていた。
 いろいろな形の酒瓶を立て並べ、さまざまな器物を飾り立てた、巨大な食器戸棚が、天井近くまで聳え立ち、その前に幅広いスタンドが弓なりに設けられて、天鵞絨を張った足高の腰掛が散在し、その外方をボックスが取り巻いている。高級な店か下級な店か、ちょっと見には分らないが、客の註文次第でどちらにもなるし、女給たちの態度もあっさりしており、つまり、至って近代的な地下室バーである。
「こんなとこへ呼び出して、済まなかったね。」
 最初に石山はそう言って、にやにやしていた。彼が銀座で飲む時はたいてい一度はここに顔を出すことを、長谷川は知っていたが、いま彼一人なのが実は少し意外だった。その上、長谷川が来ると、彼はスタンドでバーテンと饒舌っていたが、長谷川を片隅のボックスへ引張りこみ、女給も遠ざけてしまった。
 なにか用件があるに違いないし、あるとすれば、恐らく三浦千代乃のことかも知れない。その長谷川の勘は、正しかった。
「君の腕には、さすがに僕も驚いたよ。」
 石山は楽しそうに、やはりにやにや笑っていた。
 松月館主人から、石山の許へ、不得要領な手紙が来たのである。
「あまり不得要領なものだから、持って来るのも忘れちゃったがね……。」
 先般御紹介を忝うした長谷川梧郎様という仁は、どういう御身分の方なのでしょうか、御差支なくば概略御知らせ頂きたく、妹千代乃となにか訳あるらしく察せられるふしもあり、甚だ失礼の至りながら……云々。
 石山はそんな風に暗誦した。
「御紹介を忝うした……はよかったね。なにか訳あるらしく……も名文だ。僕は面倒くさいから、ただ葉書一枚、どうせ僕のような小説家の友人だから、それを以て勝手に想像してくれ、よく知らんと、それだけ返事をしておいたが……どうだろう。わるかったら訂正の労を惜しまないがね。」
 長谷川はチーズをかじり、ビールを飲んでいたが、石山の前にあるウイスキーの瓶に手を伸し、それをビールにまぜて飲んだ。石山の茶化しきった話よりも、千代乃から来た手紙の方が頭に一杯になっていた。細字でぎっしりつまってる幾枚もの紙片が、眼にちらついた。彼女の手紙は、彼女のいつもの話しっぷりと同様、率直であけすけだが、その底に、容易ならぬ決意の籠ってるのが観取されるのである。
「実は、あの千代乃というひとのこと、君に少し聞きたいと思ってたんだ。」
「どういうことだい。」
「いや、どういうひとかと……。」
「どういうひとって、そりゃあ僕にはよく分らんね。まあ、多少ロマンチックで、多少片意地なところもあるらしいし、それだって、三十前後の女はたいていそんなもので、その程度だろうよ。」
「しかし、君はいつかの手紙に、僕があちらに行ってた時のことだが、別館にこれこれのひとが留守居をしていて、少し変り者だが……と書いていたじゃないか。」
「そうだったかね、よく覚えていないが、単に文章の調子だろう。責任を持たんよ。実際、よく知らないんだ。しかし、おかしなことになったものだ。僕はちょっと君に注意しとくだけのつもりだったが、君の方から、僕に聞きたいことが多そうじゃないか。まるであべこべだ。」
 石山は長谷川の方を探るように眺めた。
「実は、君にこの頃、恋人でも出来たらしいと、ちらと耳にしたことがあったが、僕は気にもとめなかった。すると、相手はあのひとだね。東京に出て来たのかい。君を追っかけて来たんだね。ねえ、打ち明けろよ。そんならそれと、松月館への返事の書きようもあったんだが……。」
「いや、さっきの通りの返事でいいんだ。」
 長谷川はもう度胸をきめた気持ちになっていった。
「僕たち二人の間だけのことだ。ほかの者はどうだっていい。愛し合ってるんだ。いけないかい。」
「驚いたね。そんなこと、いけないかって、聞くやつがあるもんか。まあ落着いて、差支えない程度、僕に打ち明けてみないかね。」
「別に打ち明けることなんか、なんにもない。愛し合ってるだけで……ただそれだけさ。」
 長谷川はなにか腹が立ってきた。勿論、石山に対してではなかった。何に対してだか訳が分らず、苛ら立たしいのである。
 それがきっかけだったのであろうか。無謀なことをしてしまったのだ。
 初めは、まだ時間が早かったせいか、客は僅かだったが、次第にこんできた。石山は知人もあるらしく、頭でうなづき合ったりした。
「そりゃあ、愛し合うのは君たちの自由だが……僕で役に立つことなら、いつでも相談にのるよ。」
 それだけで、石山はもう問題に触れようとせず、ほかの雑談を始めた。長谷川はいい加減にただ機械的な返事をするきりで、また千代乃の手紙のことを考えていた。その時、手洗に立った帰りに、あちらのボックスの奥に、一人ぽつねんとしてる柿沼治郎の姿を見かけたのである。駭然とも言える衝激を受けた。柿沼がこんなところに来てることが意外であったし、彼を見つけたことが、理屈ぬきに、更に意外だった。長谷川はちょっと後戻りして、まさしく柿沼であることを確かめた。それから席に帰ったが、もう石山に応答するのも全く上の空だった。
「どうしたんだい。彼女のことでも思い出したのかい。」
 石山は微笑したが、その微笑もすぐ、怪訝な面持ちに変った。
 長谷川は黙りこんで、柿沼と対決してやろうかどうかと考えていた。彼に千代乃を逢わせるくらいなら、自分が逢ってやろう……そういう熱っぽいしかし漠然とした感情が動いた。
 地下室、と彼は意味もなく呟いた。
 彼は顔を挙げて、石山に言った。
「もう出よう。」
「うん、久しぶりだから、ほかで飲み直そうか。」
「いや、もうたくさん。」
 石山は勘定をして立ち上ったが、長谷川は動かなかった。
「僕はちょっと、ここに残ってるよ。先に行ってくれ。」
 石山はなんとも言わずに、長谷川の様子を眺め、一つ大きく吐息をして、そして立ち去った。
 長谷川はうつろな眼で石山を見送り、それから頬杖をついて煙草を吹かしたが、それを半分きりで灰皿に突っこんだ。
 地下室、と彼はまた意味もなく呟いた。そして立ち上った。突然、冷静に返った心地がした。
 煙草の煙がだいぶ立ちこめ、スタンドの片端で、がらがらダイスを振ってる客があった。
 長谷川は静かな足取りで、真直に柿沼のボックスの方へ行った。

     七

 長谷川は柿沼の横手につっ立ち、どういう風に言葉をかけようかと迷った。
 柿沼は静かに顔を挙げて、長谷川を見た。その眼差しが初めはぼやけて、やがて焦点が定まってくる、そういう見方だった。
「長谷川さんですか。しばらくでした。」
 頷くような軽い会釈をした。
「お一人ですか。」と長谷川は尋ねた。
「ええ、さあどうぞ。」
 指された席へ、長谷川は彼と向き合って坐った。そして女給に、彼と同じ酒肴、ビールにハムにチーズを註文した。
 そのことが、長谷川自身、なにか滑稽な感じを持たせた。どうして柿沼と同じ品をあつらえたのか。柿沼の前に腰をおろして、いったい何事を話すつもりなのか。苛ら立たしいような滑稽さだ。
「奥さんが、亡くなられましたそうで……。」
 ばかなことを、長谷川は言った。
「ええ、長い間の病気で、もう見こみはなかったのです。諦めていました。」
 何の感情もこもらない調子で答えながら、柿沼は煙草の煙ごしに、長谷川の顔をちらと眺めた。
「家内の死亡を御存じの上は、その葬式に、千代乃さんが出て来なかったことも、御存じでしょうね。」
 千代乃さんという呼び方がちと異様にひびくだけで、少しも詰問の調子ではなく、淡々とした言い方だった。
「知っています。」と長谷川も率直に答えた。
「それでは、その理由も御存じでしょうね。わたしには、どうも分らないことがあるので、聞かしていただけませんか。」
 長谷川は黙ってビールを飲んだ。
「突然、このようなことを言い出して、へんに思われるかも知れませんが、これがわたしの流儀なので、決して、あなたの意表をつくというような、そんなつもりではないのです。男同志の話は、率直に限ります。そこへゆくと、女相手は、どうもわたしには苦手です。言葉通りに素直に受け取ってはくれず、いろいろと尾鰭がつきますからね。家内の病中もそうでした。こちらからいろいろ容態を尋ねると、もう自分は危篤ではないかと気を廻しますし、こちらで黙っておれば、ひどく冷淡だとひがみます。いずれにしても、やりきれませんよ。だから、君子でなくとも、危きに近寄らずということになります。するとまた、薄情だとされます。結局、わたしは、薄情だと自認せざるを得ません。あなたには、そういう経験はありませんか。もっとも、あなたはまだお若いから、そういうことはありますまいけれど……。」
「別に、そんなことを考えた覚えはありませんね。」
「そうでしょう。その方が結構です。けれども、あのひとから、千代乃さんから、そのようにわたしのことを訴える……いや、批評しはしませんでしたか。」
「はっきり記憶していませんが……。」
「それなら、なお結構です。どうもわたしには、いったいに、女がふだんどのようなことを考えているか、さっぱり見当がつきませんのですよ。」
 柿沼の言うところは、はっきりしているようでいて、実は、なんだかすべて上の空のような感じがあった。顧みて他を言ってるようだった。長谷川はいやな気持ちになった。
「あなたが言っていられるのは、一般の女のことでなく、千代乃さんのことでしょう。」
「そうです。初めにお聞きした通りです。」
 それでもやはり、柿沼は眼を宙にやって、何気ない顔付きをしてるのだった。普通の世間話でもしてるようだった。その調子に、長谷川は乗ってゆけなかった。沈黙が続いた。
「おいやなら、千代乃さんの話はやめてもよろしいです。」柿沼は天井の方へ煙草の煙を吹きあげた。「実のところ、わたしにとっては、あのひとの意向なんかは、もうどうでもよろしいのです。松木君はしきりに気をもんでるようですが、わたしは何とも思ってはいません。ただわたしの悪い癖で、物はすべてその在るべき場所に在ってほしいと、そう思うだけのことで……。」
「在るべき場所と言いますと……。」
「まあ、秩序ですね。何物にもそれぞれの場所がありましょう。椅子には椅子の在るべき場所がある。卓子には卓子の在るべき場所がある。箪笥には箪笥の在るべき場所がある。椅子のあるべき場所に箪笥があったら、これはおかしなことですからね。」
 長谷川はなにかぎくりとして、柿沼の顔を見つめた。
「すると、千代乃さんや……僕の場所が、どうこうと仰言るんですか。はっきり言って下さい。」
「いやいや、そんなことではありません。打ち明けて申せば、あなたたちが……つまり、愛し合っていることを、わたしは知っていますし、そのことに異議をとなえるのではありません。それはあなたたちの自由です。そのことについて、わたしが冷淡であり、或るいは無関心であるとしても、それはわたしの自由です。けれども、御存じの通り、千代乃さんの地位というか、場所というか、それについてわたしは、過去に、責任を帯びていました。家内の葬式にあのひとが出て来なかったため、わたしの責任は一応解消されたようなものの、それだけでは、明瞭な解決とは言えません。つまり、あのひとはわたしの室の中にいるのか、わたしの室の外にいるのか、その場所がはっきりしないのです。」
「あのひと自身は、はっきりしているはずです。勿論、あなたの室の外にいます。」
「それなら、そのように、わたしから逃げ廻らないで、きっぱり解決をつけたらどうでしょうか。そうするように、あなたからも勧めおいてくれませんか。」
 先刻から、なにか仄暗い靄のようなものが柿沼の表情を包んでいた。五分刈りの大きな頭と浅黒い丸顔は、まだ逞ましい精力を思わせるが、その精力を屈伏さしてしまうような憂暗な影が、額から眼差しにかけて漂っていた。そしてその影が、彼の静かな言葉の冷酷な感じを一層深めた。機械的な或るいは事務的なものの持つ冷酷さである。感情の片鱗も認められなかった。
 長谷川はやけに、皿のハムをフォークで突っついた。それがまた自分でも忌々しく思えた。ビールを一気にあおって、柿沼を見つめた。
「あなたの言葉通りを、あのひとに伝えておきましょう。だが、解決をつけるには、どういうことをお望みですか。例えば、あの家から出て行ってしまうことですか。」
「いや、あの家は、わたしの名義にはなっていますが、千代乃さんのものです。いつでも名義変更は致しましょう。」
「それでは、ほかに、どうすればよろしいんですか。」
「わたしと、わたしの娘たちに、はっきり挨拶をして貰いたいものです。」
「千代乃さんから……。」
「そうです。ほかに誰もいないではありませんか。」
 長谷川は身内が震えるのを覚えた。
「あなたは、あのひとを侮辱したいんですね。」
「いや、どうして侮辱などと考えなさるんですか。単に形式にすぎないことですよ。」
「形式による侮辱でしょう。分りました。あなたは人間を道具扱いしていらっしゃる。あなたにとっては、人間の感情なんか問題じゃないのでしょう。家庭においても、女房は単に長火鉢にすぎない。きまった場所に据えてありさえすれば、それで充分だ。奥さんが亡くなられたので、長火鉢がなくなった。だから、別な長火鉢が新たに必要になって……。」
「まあお待ちなさい。」
 柿沼は長谷川を制して、かすかに皮肉の皺を頬に刻んだ。
「それは、あなたの言われる通りです。女房は家庭においては、一種の長火鉢にすぎないし、茶の間にじっと尻を据えておればよろしい。実際、わたしのような生活をしている者にとっては、茶の間に長火鉢が一つあることが大切で、それがつまり、家庭のしめくくりであり、家庭の慰安でさえもあります。いろり、という言葉の意味は、日本語にしても外国語にしても、あなたにはよくお分りのことと思います。それはまあそれとして、わたしは、亡くなった妻の常子にも、千代乃さんにも、またほかの二三の女にも、すっかり魅力を感じなくなりました。セックスの衰えから来たことかとも思いますが、そればかりではありません。女性というものは結局、男の活動の邪魔になり束縛になることを、多年の経験で知らされたのです。だから、家庭の中にあっては単なる長火鉢で結構、家庭の外にあっては単なる湯たんぽで結構……だが、長火鉢にせよ、湯たんぽにせよ、終始わたしの身辺について廻らないで、在るべき場所をはっきりきめておいて貰いたいものですよ。」
 議論ではなくて、告白めいた調子だった。暫く黙ってた後で、彼は突然言った。
「これは、形式主義ではないつもりです。わたしとて、形式をふみ破ることぐらいは知っています。」
 ふいに眼を見開いた、とも言える工合に、彼の陰った眼差しは光りを帯びた。
「わたしも、これで、ずいぶん危い橋を渡ってきたし、綱渡りの思いをしたこともあります。その綱の上に、もしも蚯蚓が一匹逼っていたとすれば、踏みつぶして通るよりほかはありません。」
 それが、過去のことではなく、現在のことのように、長谷川には受け取られた。とっさに、反抗の気持ちに駆られた。
「どうして蚯蚓なんです。」
 柿沼の光った眼差しが、じっと長谷川の上に据えられた。
「なぜ、蚯蚓であって、蛇ではいけないんです。」
 柿沼はちょっと小首を傾げた。
「蚯蚓なら踏みつぶして通る、蛇ならよけて通る、ということもありますからね。」
「ほう、そういう意味ですか。なに、蛇だって構いません、踏みつぶして通るだけのことですよ。」
 柿沼のうちには、少しも敵意は見えなかった。その眼差しはまた陰ってきた。然し、なにか決定的な距てが二人の間に置かれた。
「これだけお話すれば充分です。」柿沼は独語するように、そして憂鬱そうに言った。「よいところでお逢いしました。ここへは、しばしば来られますか。」
「いえ、めったに……。」
「そうですか。」
 柿沼は女給を呼んで、勘定を聞いた。長谷川も、自分のぶんだけの勘定を払った。そして一緒に立ち上った。
 スタンドの前を通って、薄暗い階段口のところで、柿沼はちょっと足をとめた。
「あのひとは、長火鉢にも、湯たんぽにも、なれませんよ。そういう人柄じゃない。」
 呟くように言って、柿沼は階段を上っていった。長谷川はあとに続いた。地下室のバーから外に出ると、もう肌寒い初秋の夜気だった。まだ柿沼が何か言うかと思って、長谷川は一緒に歩いたが、しばらくして、そのばかばかしさに気付き、立ち止った。すると、柿沼も立ち止った。
 並木の影の中で、二人は顔を見合った。帽子をかぶってる柿沼の顔には、何の表情も見て取られず、長谷川は眼鏡の奥で瞳をこらしたがふと、片手をあげて、無帽の長髪をかきあげる身振りをした。それを眼に納めて、柿沼は歩き去った。
 長谷川はぴくりと肩を震わし、反対の方へ歩きだした。街路に小石を一つ見つけて、力一杯に蹴飛ばした。
 その時、彼はなにか眼覚める思いがした。酔ってもいたが、そればかりでなく、柿沼に魅せられていたような気持ちだ。こちらに弱みがありはしたが、それにしても、彼は自分から何一つ意志表示もせず、柿沼の話だけを聞いて、鼻づらを取って引き廻されたではないか。しかも、柿沼の言葉にしても、どこまでが真実でどこまでが嘘かけじめがつかず、今になってみれば、彼はただ仮面と相対していたようなものだ。しかもその仮面の奥には、人の心情を突き刺すような、傲慢な蔑視の眼がひそんでいた。
 長谷川は激しい憎悪の念を覚えた。と同時に、千代乃の面影を胸に抱きしめた。

     八

 千代乃からはその後、何の便りもなかった。長谷川は仕事をなまけ、酒に親しむようになった。仕事の方は、或る文化団体の事務、詳しく言えば社団法人の研究所の事務整理なので、少々なまけたとて支障はなかったが、酒の方は、時間的に彼の生活を乱脈にした。
 彼は兄の家に寄食しており、兄は政党関係の仕事が多忙で、弟のことなど見向きもしなかったが、嫂はしばしば、眉をひそめたり揶揄したりした。
「梧郎さん、どうなすったの。この頃、なんだか荒れてますね。」とも言った。
「梧郎さん、恋愛でもなすってるようね。そんなら、早く結婚なさいよ。」とも言った。
「梧郎さん、身体でもおわるいの。医者に診てお貰いなさいよ。」とも言った。
 梧郎はただ笑っていた。夜更しをし、朝寝をし、食欲は乏しかった。あまり朝寝坊をしていると、五つになる男の児がやって来て、彼の布団の上に乗っかって飛び跳ね、むりやりに起した。嫂の指図なのだ。
 自分自身をもてあますのが、情愛に憑かれた者の常態なのであろうか。心はいつも、遠いところ、山のあなた、空のかなた、海のはてに、愛する者の面影を偲び、身体だけが現実の世界に残って、やるせない彷徨をする。長谷川は、一週間ばかりの間に、普通の場合の一年間分ぐらいも、東京の街路を歩き廻った。
 そのことが、長谷川自身にも、顧みて意外だった。千代乃との関係は、ふとしたチャンスから萠した愛欲で、それが次第に深みに陥っていったのだと、安易に考えていたのだが、その安易な無抵抗な気持ちが、却って彼をぬきさしならぬところへ引きずりこみ、身も心をも捲きこんでしまった。ただ一つ、これは普通の恋愛とは違う、という感情があった。愛欲的要素が多すぎ、精神的要素が少ない、というのではない。真の交感が乏しい、というのでもない。ただなにかしら盲目的な棄鉢なところがあるのだ。千代乃にもそれがある。長谷川にもそれがある。将来への計画とか見通しとかは立たない。千代乃がいくら自立的生活というようなことを手紙に書いたところで、それがどれだけの力を持つものか。
 成り行きに任せるということに、長谷川は甘えた。甘えて、そして子供のようになり、千代乃を慕った。
 千代乃を待ちこがれて、長谷川は、三田の伯母さん、菊池久恵さんのところをも訪れた。千代乃からは何の消息も来ていなかった。
「あのひとも気まぐれでしてねえ。」と久恵は言い、それから言い添えた。「なにか思いこむと夢中になってしまいますよ。」
 そばで、娘の敏子がくすりと笑った。
「あら、おかしいわ。気まぐれと、夢中になるのと、同じことかしら。」
 邪気はないのだ。久恵も眼をくるりとさして、ほほほと笑った。
 長谷川が招じられたその室は、謂わば久恵の仕事部屋で、いろんなものがごたごたと取り散らされ、そして整理されてるのである。縁側にはミシンがあり、袋戸棚の上には硝子の人形棚があり、鴨居の上に漢書の横額、壁に複製の洋画静物、針仕事の机、針箱、訳のわからぬいろんな小道具、柳甲李など。その甲李の中に、さまざまな裁ち布が一杯、各種の色彩を氾濫[#「氾濫」は底本では「※(「さんずい+巳」、第3水準1-86-50)濫」]さしている。その小布から手頃なのを選り取って、久恵と敏子は人形の着物を拵えていた。久恵の賃仕事と敏子のデパート勤めとが済んだ宵の、手遊びなのである。
 一閑張の円卓に、茶菓が出されてるが、久恵は長谷川にすすめようともせず、ただにこやかに坐っていた。
「あ、こちらの、紫の方がいいかも知れないよ。」
 人形の布を、久恵は指図し、それを敏子は素直にきいて、裁ち布をかき廻すのだった。髪にパーマをかけてはいるが、和服に着換えて、膝をきちんと坐っていた。
 彼女がデパートでどんな様子をしてるか、長谷川は見に行きたく思ったこともあるが、未だに差し控えている。明朗でそしておとなしそうな彼女を、長谷川は好きだった。
「敏子さん、いっそデパートなんかやめちゃって、人形の方を専門にしないかね。お母さんも、針仕事やミシンをやめて、人形の衣裳だけにかかるんですな。そしたら、僕が大いに宣伝して、売り出してみせますよ。」
「だって、人形だけじゃあ、退屈でしょう。」と敏子が応じた。
「退屈……どうして。」
「朝から晩まで、坐りどおしで、人形ばかり拵えるんでしょう。」
「いや、そんなにきちんと坐っていなくったって、腰掛けても出来るよ。」
「拵えるだけなの。」
「そりゃあね、専門家だもの。」
「拵えるだけじゃあ、退屈よ、きっと。」
「それでは、どうすればいいんだい。」
「あたし、こぎれいな店も、一つほしいわ。」
「もちろん、店も出すのさ。」
「そんなら、賛成よ。そうしましょうか。」
 敏子は母の方を、いたずらそうな眼付きで見た。母も振り向いた。
「お店の方は、千代乃さんに出して貰うんだね。あのひともきっと賛成するよ。」
「そうだ。千代乃姉さんをおだててみよう。でも、どうかしら。」
 すべて、冗談ではあった。然し、そのあとで、へんに皆黙りこんだ。
 それを機会に、長谷川は辞し去ることにした。
 自分たちに好意を持ってる菊池親子と、この際、千代乃のことをなにかと話しあうのは、長谷川にとって心嬉しいことではあった。何の懸念もなくそのような話が出来る相手は、外に誰もなかった。けれども、また一方では、そういう相手だから却って、うち明けた話が憚られる点もあった。無用の心配はかけたくないのだ。
 無用の心配、そのようなことが頭に浮ぶほど、長谷川はえたいの知れない危惧を感じ、なにか思い沈んでいた。
 門燈のまばらな薄暗い裏通りを、長谷川は首垂れがちに歩いてゆき、横へ折れ曲ろうとした。その時、後ろから久恵に呼び止められた。
 久恵は彼の顔をすかし見て、低い声で言った。
「敏子がいましたので、黙っておりましたけれど……。」
 しばらく後がとぎれた。
「一昨日、柿沼さんが見えまして、ほんの玄関先だけのことでしたが、千代乃さんが来たら、至急逢いたいことがあると伝えてくれと、それだけのお話でした。時間はとらせない、場所はどこでもよいと、たったそれだけでしたが……。」
 久恵はまた長谷川の顔をすかし見た。
「千代乃さんは、ほんとにまたこちらへ出て来るんでしょうか。」
 長谷川は腕を組んだ。
「柿沼さんの話は、それだけのことですか。」
「それきりですよ。なんだか、お急ぎのようで、立ったまま、すぐに帰っていかれました。」
「そうですか。なにか用が出来たんでしょう。千代乃さんが来たら、伝えておあげなさいよ。」
 久恵はまだあとあとを待つように、じっとしていた。長谷川は突然言った。
「たったそれだけのこと、敏子さんの前で、どうしていけないんです。」
「いけないことはありませんが、あの子、なんでも饒舌ってしまいますんでねえ、千代乃さんにでも誰にでも……。」
「それでいいですよ。御心配いりません。大丈夫です。」
 久恵と別れて、長谷川は独り、大丈夫、大丈夫、と胸の中で繰り返した。それに気付いて、自ら苦笑した。
 明るい気持ちになった。先刻の、人形のことで敏子と交わした対話が、ぽつりと火をともしたように胸に浮んだ。敏子の姿がその明るみの真中にいた。別にどうということはない。ただ無邪気な明朗さだ。
 長谷川はまた酒を飲みたくなった。流しの自動車をひろうため、明るい大通りの方へ向って行った。だが、敏子を中心にする明るみは、逆に薄らいでゆき、仄暗い影が胸に立ちこめてきた。その薄暗い中で、先日、柿沼と別れ際にじっと顔を見合った時のことが、ありありと蘇ってきた。格闘、そんなばかなことにはなり得ないが、何等かの意味での対決が、まだ前途に残されてるようだった。大丈夫、と彼はまた胸の中で独り呟いた。自動車をひろって、彼は新橋近くまでゆき、その晩ひどく酔っぱらった。
 酔いの中に、幻想がわいた。千代乃のこと、柿沼のこと、松木のこと、嫂のこと、敏子のこと、石山のこと、その他、そしてそれを中心にした情景が、現われては消えた。嘗て彼は、小説を書こうと思い、種々の構想を建てたり崩したり再建したりして、それを一々石山に相談したところ、石山からひどくけなされた。どれもこれもいい加減なでたらめで、到底ものにならんと言われた。然し、そのうちの一つ二つは、石山の小説に利用されたのである。ひどい奴だと抗議を申し込むと、石山はすましたもので、生かすも殺すも作者の腕次第さとうそぶいた。今の彼の幻想が、その折の小説構想に似ていた。ただ、意識的に努力しないで、自然に出来上ったり崩れ去ったりした。然し、そのうちのどれかは生き上ることがあるかも知れない。生かすも殺すも作者の腕次第だ、と彼はうそぶいた。――ほんとに酔ってたのである。

     九

 街路から、扉口のカウンターをくるりと廻って、喫茶のホールにはいると、空気がいささか重く淀んでるだけで、まだ正午前のこととて客は少なかった。右手のボックスの奥で、千代乃は煙草を吹かしていた。その煙草の煙だけを相図のようにして、眼を伏せ、考え込んでいたのである。
 彼女の姿を見て、長谷川はほっと安堵し、同時に、なにかぎくりとした。側まで行くと、彼女は眼がさめたように立ち上って会釈し、またすぐ腰を下し、正面に坐った長谷川の顔に、視力の強い眼を据えた。
「いつ出て来たんですか。」
「一昨日。」
 そして初めて、彼女の眼はちらと笑った。
「そんなら、前に知らしてくれたっていいのに。」
「昨日は一日、用事があったものですから。忙しかったわ。」
「いきなり電話でしょう。大至急用があるなんて……。あわてちゃった。なにかあったんですか。」
「逢いたかったの。」
 はぐらかすように言って、彼女は眼をちらと動かした。
 それで、言葉が途切れ、コーヒーが来て、長谷川はそれをすすった。
 しばらく見ない間に、千代乃はすこし痩せたようだった。なんだか疲れてるようで、顔色も冴えていなかった。その代り、なにか思いつめてるといった風な、一筋の心棒が通ってる感じだった。
「なにかあったんでしょう。」と長谷川は尋ねた。
「いいえ。」
 彼女はかるく頭を振り、それから上目を据えてちょっと考えた。
「あなた、今日、お忙しいの。」
「いつもの通りです。」
「それでは、これから、どこかへ連れていって下さいません。電話では、ちょっと言いにくかったものですから……。どこでもよろしいわ。お金は、わたし用意していますの。ただ、東京都内はいや。東京の外でさえあれば、どこでもいいわ。どんなところでもいいわ。いろいろ、お話がありますの。ね、行きましょうよ。あなたがだめなら、わたし一人で行くわ。」
 駄々をこねるというよりは、無理強いなのである。然し長谷川には、それが心に甘く泌みた。
「行ってもいいけれど、どこといって、僕は知った場所がないし……湯ヶ原にしましょうか。」
「いや、あすこはもういやよ。ほかのところ、どこでもいいわ。」
 考えてるうちに、長谷川はふと思い出した。江戸川べりに、石山がなんどか原稿書きに行った家があり、鄙びて静かで小綺麗だと聞かされていた。果してどんな所か、行ってみなければ分らないが、とにかくそこを持ち出してみると、彼女はすぐ賛成した。
「そこへ、これから行きましょう。」
「これからって、僕はいきなり飛んで来たんだから、研究所にもちょっと顔を出しておかなければならないし、仕度をしに家へもちょっと寄らなければならないし……。」
「あら、わたしだって、このままではどうにもならないわ。」
 三時にお茶の水駅の東口で待ち合せることにきめた。喫茶店を出るとすぐ横の化粧品店で買物をする千代乃と別れて、長谷川はタクシーを拾った。忙しかった。研究所から自宅へ、それからお茶の水駅へと、駆け巡った。
 方向が違った感じである。千代乃が出京したら、手近なところに落着いて、ゆっくり話し合いたいと思っていたのに、慌しく引っ張り出されてしまった。都内はいやだという彼女の気持ちも分らなかった。何事か起ったに違いないが、彼女は少しも匂わせなかった。まあどうにでもなれという棄鉢な思いに、長谷川は身を託した。
 藤色お召のすらりとした和服姿で、彼女は橋のたもとに立って、深い川面を眺めていた。小型の鞄をさげていた。長谷川の姿を見て、いたずらそうな眼付きで笑った。
「それ、僕が持ちましょう。」
 小さな鞄だが、何かぎっしりつまっていて重かった。代りに、彼女は長谷川の折鞄を持った。
 電車はすいていたが、車内では、話すこともなかった。
 電車から降りて、淋しい田舎町を少し行き、ほかの電車の踏切を過ぎ、その先を左へ折れると、河岸の堤防に出た。目指す割烹旅館はまだだいぶ遠そうだった。夕陽が赤く、ゆったりと流れる河水に映えていた。
「わたし、これから、洋服にしようかと思うの。おかしいでしょうか。」
 河の方を眺めながら、千代乃はそんなことを言った。
「夏服はいやだけれど、これからは、洋装もいいわね。」
「趣味としては、そうだけれど、実際は、あべこべでしょう。夏は洋服が凉しくていいけれど、寒くなると、日本服の方が温くていいと、みんな言いますよ。」
「だって、日本服は、働くのに不便ですもの。」
「仕事によりけりでしょう。」
「そう、仕事によってはね。わたし、立って働く仕事がいいか、坐って働く仕事がいいか、ずいぶん考えたけど……。」
「結局、どうなんです。」
「結局、わからなくなったわ。」
 ふふふと彼女は笑ったが、急に真面目な調子になった。
「けれど、働く覚悟だけはきめています。何をしても、構いませんわね。」
「そりゃあ、構いませんとも。構わないけれど……。」
 実行がなかなか困難なことは、彼にもだいたい推察された。そしてぼんやり、敏子のことを思い起した。
「人形の店はどうですか。」
 微笑しながら、彼は、久恵と敏子の人形の話をした。
「敏子さんから、まだ何の相談もありませんか。」
「そんなこと、敏子さんばかりでなく、誰も本気にしやしないでしょう。だけど、人形の店というのは、ちょっといいわね。廊下みたいな狭いちっちゃな店で、人形をいっぱい飾り立てて……。」
「つまり、高級な履物店ですね。下駄や草履がずらりと並んでいる、あれをみな人形だとすれば……。靴店に見立てたっていい。」
「まあ、失礼ね。それより、袋物の店か、画廊……。」
「鞄の店は、どうです。しかし、この鞄、小さいくせにずいぶん重いなあ。なにがはってる[#「はってる」はママ]んです。」
「貴重品ばかり。」と千代乃は笑った。
 散歩のようなぶらぶら歩きだった。西空は靄深くて、夕陽が赤い盆のように見えた。堤防の斜面には、雑草の小さな花が点々と咲いていた。人けの見えない大きな船が、河の真中を滑るように下っていった。
 堤防が低くなり、樹木の茂った丘の麓道となり、河沿いに大きく迂回すると、すぐそこに、目指す家が、ひっそりと静まり返っていた。
 田舎娘らしい女中が出て来、次にお上さんらしいひとが出て来て、二人は二階の奥に通された。簡素に出来てる室で、床の間の山水の軸物の前に、菊の花が活けてあった。
 腰高の壁の硝子戸を開くと、道を距てて、びっくりするほど近く眼の下に、河が流れていた。河幅は広く、その先も河床の広い草地で、向うに高い堤防があった。夕陽はもう靄に隠れたらしかったが、河の面にはまだちらちら光りが浮いていた。
 大雨で水が出たら、この家、どうするのだろう。そのような思いがする場所である。
 女中は火鉢に炭をつぎ、炬燵にも火を入れた。夜分は河風が冷えるのであろうか。
 風呂のことを聞かれると、千代乃は長谷川に相談もせず、いらないと答えた。
「お料理と、それから、お酒をね。」
 途中とちがって、彼女はもうあまり口を利かなかった。
 この家が気に入らないのか。それとも、疲れたのか。どちらでもない、と彼女は言った。
「なんだか、たいへん遠くへ来たような気がするの。」
「僕は、今朝から、たいへん長い時間がたったような気がする。」
 沈黙にふさわしい夕暮だった。長谷川は洋服をぬいで丹前をはおったが、千代乃は着換えなかった。
「このまま帰らなかったら、どうでしょう。」
「帰らないって、東京へ。」
「いいえ。なんと言ったらいいかしら……。これまでのあらゆるものを、すっかり捨て切って、新たに生れ変る、というような……。」
「そんなことなら、あなたはもう決心してるんでしょう。」
「しています。けれど、なんだか頼りなくなってきたの。」
 彼女は手を伸べて、長谷川の手を強く握りしめた。
「どんなことがあっても、わたしを見捨てなさいませんわね。」
「よろしい。誓いましょう。」
「わたし、ほんとに惨めですの。そして口惜しいんです。」
 長谷川は黙って、その続きを待った。彼女は彼の顔をじっと見た。
「実は、昨日、柿沼に逢いました。」
「え、あなたが。」
「わたしの方から逢いに行きました。」
 それきり彼女は黙ってしまった。だが、まだ長谷川の顔を見ていた。ほんとに見てるのかどうか、まばたき一つしなかった。
「そして、どうだったんです。」
 その言葉で、彼女は眼をそらした。それから皮肉な笑みを浮べた。
 自然に彼女が打ち明けるのを、待つより外はなかった。
 酒肴が来ると、長谷川はすぐ猪口を取り上げた。
「僕も、偶然、柿沼さんに逢いましたよ。」
「聞きましたわ。そしてなにか、わたしに言づけがあったのでしょう。伯母さんにも言づけがありましたの。」
 酒を飲んでるうちに、彼女は自然に饒舌りだした。そうなると、もうなんの隠し距てもなかった。
 千代乃はかなりまとまった金を工面し、将来に対する覚悟と夢想とを懐いて、三田の伯母さんのところへ出て来たのだった。その晩、いろいろな話の末、柿沼からの伝言を聞いた。何処ででもいいから、ちょっと、そして至急に、逢いたいというのである。
 千代乃が間もなく東京に出て来るということを、柿沼はどうして知ったのであろうか。彼女は薄気味わるくなった。翌日はまず、長谷川に逢うつもりだったが、いろいろ考えてみると、どうせ柿沼にも一度は逢わねばなるまいと思い、その方を先に片付けることにした。
 柿沼は神田に小さな事務所を持っていた。午後は、都心から遠い製菓会社の方よりも、その事務所にいることが多かった。以前はそこでいろいろな闇取引などもやっていたようだが、それも出来にくくなると、何か新たな計画を立てているらしかった。男二人に女一人の、いずれも若い事務員が三人いるきりだった。そこへ、千代乃は電話してみた。柿沼はいた。他の場所よりも、事務所でお逢いしたい、と言うと、よろしいとの返事だった。
 板で中仕切りがしてある、狭い二室。その一室で、千代乃は柿沼に逢った。椅子だけは立派なものが備えてあった。
「僕の言づけを、誰から聞きましたか。伯母さんからですか、それとも、長谷川さんからですか。」柿沼はそう尋ねた。
「長谷川さんには、まだ逢っておりません。」と千代乃は答えた。
「そう。それじゃあ仕方がないな。僕はこないだ、長谷川さんに逢ったんだが……。」
 柿沼はしばらく考え込んでいた。
「どういう御用でしょうか。」と千代乃は促した。
 用件だけをすまして、彼女は早く切り上げたかった。柿沼はまだ考えていた。
「では、こうしましょう。ここから自動車で送り迎えをするから、僕の家までちょっと来てくれませんか。常子の位牌に線香を一本立てて貰う、それだけのことです。」
 いやだとは、千代乃は言いかねた。柿沼との別離がもはや決定的なことは、暗黙のうちに了解ずみだった。お線香一本ぐらいのことなら、と彼女は思った。承知すると、すぐに自動車が呼ばれた。柿沼と二人で乗り込んだ。車内で柿沼は一言も口を利かなかった。まるきり他人ではないが、べつに喧嘩してるのでもない、そんな妙な気持に千代乃はなった。道は遠く、中野の奥だった。
 柿沼の家で、千代乃は応接室の方に通された。それから、白木の位牌の前に線香を一本立てて、ちょっと掌を合せた。仏壇には花が供えてあった。応接室に戻ると、紅茶が出された。そこで柿沼は言った。
「万事はっきりしておきたいから、聞くんですが、あんたには、だいぶ銀行預金があったはずですね。」
「みんな引き出しました。」と千代乃は答えた。
「それでいいでしょう。ところで、あの家屋だが、僕の名義になっているから、あんたの名義に書き替えることにします。その代り、松月館の方へ、あんたの名前でかなり出資してあるが、それは僕の名前に変えます。手続きはみな、松木君と僕とでするから、承知しておいて下さい。」
「分りました。」と千代乃は答えた。
 柿沼は娘の弘子を呼んで、何か言いつけた。やがて、弘子は風呂敷に包んだ物を持って来た。
「これは、あんたのものですね。お返ししましょう。」
 風呂敷をあけてみると、着古した紫繻子の冬コートだった。たしかに千代乃のもので、どうして置き忘れたか、新調の品と着換えて脱ぎ捨てたのか、よく覚えていなかった。千代乃はそれを風呂敷に包んで、お時儀をすると、弘子も極りわるげにお時儀をした。
「僕はちょっと用があるから、お送り出来ないが、よろしいところまで自動車で行って下さい。代金はいつも事務所の方ですますことになっているから、心配いりません。」
 体よく追い払われた形で、千代乃はコートをかかえて自動車に乗った。
 自動車のなかで、やがて、彼女は腹が立ってきた。どうにもならないほど、口惜しさが胸元にこみあげてきた。自分の意志はなに一つ働かず、まるで木偶のように扱われてしまったのだ。仏壇を拝ませられた上に、古いコートをお時儀して受け取り、それをかかえて、まるで女中のように出て来てしまった。――彼女は、芝公園の近くで自動車を降り、運転手に心附けも与えず、公園の中にはいって行き、人通りのないのを見計らって、コートの風呂敷包みを路傍に叩きつけた。自分自身が穢らわしかった。
 その夜、彼女は柿沼への復讐を考えた。柿沼を殺してやろうかとも思った。ほんとに殺してやろうかと思った。なかなか眠られず、夜明け近くなってうとうとした……。
 千代乃の飛び飛びの話を綴り合して、だいたい右のように、長谷川は理解した。
「それだけで、ほかになんにもなかったんですね。」
「ほかにって、どういうことですの。」
「いや、それだけのことなら、却ってさっぱりしていいじゃありませんか。柿沼さんらしいやり方だけれど、後腐れがなくていい。」
 千代乃は刺すような眼付きを、長谷川に据えた。
「長谷川さん、あなたも、わたしをさげすんでいらっしゃるのね。そうでなければ、そんなこと仰言るわけはありません。」
「どうしてでしょう。僕にはよく分らないけれど……。」
「なぜ、ひとを騙して、お線香なんかあげさしたんですか。」
「別に騙したわけじゃなく、初めからそう言ったんでしょう。」
「銀行預金だの、家屋だの、出資だの、そんなことを、どうして言う必要がありますか。」
「それも、万事はっきりさしておきたいためでしょうよ。」
「古いコートのことなんか、どうでもいいではありませんか。」
「きれいさっぱりという、そのつもりなんでしょうよ。」
「いいえ、そんなことでなく、そのぜんたいのこと、ぜんたいの仕打ちです。」
「ちょっと待って下さい。僕を攻撃なすったって……。僕がしたんじゃありませんよ。」
「あなたには分らないんだわ。そんなら、今日のこと、なぜわたしが東京をいやがったか、すこしも察して下さらないのね。」
 長谷川には全くそれは分らなかった。彼は黙っていた。
「わたし、ただ、柿沼から逃げ出してしまいたかったんです。」
「しかし、きっぱりと極りがついたんでしょう。逃げ出すなんて……。」
「いいえ、わたしはすっかり穢れているんです。柿沼の女中だったんです。拭ってもなかなか綺麗になりません。古コートを道に叩きつけて、自分も石に頭をぶっつけて死のうかと思いました。」
 酒を飲みながらも、彼女の頬からは血の気が引いてゆくようだった。そして眼が底光りしていた。
 長谷川にもようやく、彼女の気持ちが分りかけてきた。分りかけることは、同時に、柿沼という人物に対する反感が高まることだった。
「よろしい。僕にもすこし分りかけたようです。」長谷川は静かに言った。「柿沼さんは、しかし、別なことを言いましたよ。女というものは、家庭にあっては単に長火鉢でよいし、家庭の外にあっては単に湯たんぽでいいが、あなたは、千代乃さんは、長火鉢にも湯たんぽにもなれない人柄だと、そう言いました。」
「まあ、穢らわしい。」
「あのひととしては悪口のつもりかも知れないが、実は却って、あなたを褒めたことになるじゃありませんか。」
「いいえ、長火鉢だの、湯たんぽだの、なんてことでしょう。電燈とか、ランプとか、なぜ言わないんでしょう。」
「だから、あなたは、長火鉢にも湯たんぽにもなれないと……。」
「いいえ、わたしは柿沼の湯たんぽだったでしょうよ。そして昨日も、湯たんぽ扱いされました。」
 それは、理屈ではなく、実感なのだろうと、長谷川は覚った。どうにもならないことだった。
「長谷川さん。」彼女は長谷川の眼の中を見入った。「これで、あなたはわたしがいやにおなりなすったでしょう。」
 長谷川は頭を振った。
「ほんとうですか。」
「あなたは清らかです。」
 彼女は眼にふっと涙をためて、長谷川の肩に縋りついた。
「いつまでも、愛してね。」
 長谷川は彼女の額に唇をあてた。彼女の頬には涙が流れていた。
「さあ、もっと飲みましょう。」
 彼女は涙を拭いて、頬笑んだ。それから鞄を開いた。ウイスキー、チーズやハム、菓子や果物、サイダーまであって、それらを彼女は卓上に並べた。
「お夜食よ。」
 もう遅かったし、女中たちは先刻、隣室に布団をのべて、引きさがってしまっていた。
 そしてその夜、千代乃はいつになく積極的だった。それも単に愛欲ばかりではなかった。全身を以て彼にまといつき、彼に密着し吸いつき、少しの隙間をも残すまいとし、彼の中に溶け込もうとした。凍えた者が温い毛布にくるまるように、彼の肉体で身を包もうとした。
「ね、もっともっと、あなたの愛情でわたしを清めて。」
 わたしというのは、彼女の心や精神ではなく、肉体だった。肉体と肉体との接触が、肉体を清めるのであろうか。長谷川は自分の肉体の清らかさを感じた。彼女の肉体の清らかさを感じた。もう彼女の肉体は穢れてはいなかった。彼の肉体に密着して、彼女はうっとりとしていた。
 穢れは、いやらしい影は、遠くに去っていた。それはもう、柿沼の許に脱ぎ捨てられていた。脱ぎ捨てられてはいたが、然し、やはりそこに在った。柿沼に対する反感憎悪を、長谷川は千代乃から引き継いだ。千代乃の清い肉体をかき抱きながら、それを防衛するような気持ちで、彼は柿沼を憎悪した。
 憎悪は、柿沼の面影をそこに喚び起した。暗鬱な影をまとった仮面、それは、人間らしい感情、すべて人間らしいものに対する、蔑視だった。極度の蔑視こそ、自らに深い影を帯びる。その影に、千代乃は慴えたのではなかったか。もう大丈夫、心配なことはない、そういう気持ちで、長谷川は千代乃の清い肉体を抱き庇った。

     十

 自活の途を見出す、というよりも、開拓するのに、千代乃は苦心していた。長谷川や伯母にはいつも相談し、知人にも相談した。いざとなると、さすがに、何でもやるというわけにはゆかず、何処にでも飛びこむというわけにはゆかず、いろいろと思いがけない故障も起った。
 柿沼のことは、もう忘れたかのように口に出さなかった。
 長谷川も、柿沼のことは口に出さなかった。然し、新たな懸念が生じてきた。
 千代乃とあの一夜を過して以来、柿沼に対する憎悪の念が、根深く彼の胸に植えつけられていた。憑かれたようなものだった。自分においては勿論、千代乃においても、もう柿沼とは何の係り合いもなく、新たな交渉が起るわけはないと、いくら考えても、その憎悪の念だけは抜き去ることが出来なかった。そのことが怖かった。
 もし柿沼と出逢ったら……先日のようにバーかなんかで出逢ったら……素知らぬ顔が出来るかどうか。人間が違う、人種が違うと、それだけで済ませるかどうか。猫と鼠とは、犬と猿とは、出逢ったまま顔をそむけて通り過ぎるだろうか。同じ東京都内にいて、柿沼と出逢わないとは限らないのだ。
 いきなり殴りつけるようなことは、まさかあるまい。然し、刄物があったら、ぐざと刺すかも知れない。階段の途中だったら、どんと突き落すかも知れない。彼の冷酷な蔑視に対して、こちらは凶行。
 なにか神経衰弱などではないかと、長谷川は反省してみた。それでも、危惧の感じは追い払えなかった。千代乃に対する愛情の故だとも、解釈してみた。
 千代乃の将来の計画が立ち難いのを見て、長谷川は言った。
「いっそ、田舎へ行ってみませんか。」
 彼女はびっくりした眼を大きくした。
「え、田舎へ帰れと仰言るの。」
「いや、あなたの郷里じゃない。僕の郷里です。勿論、僕も行きます。淡路島……いい所ですよ。古い和歌にあるような、夢のような所ではないが、もっと現実的にのんびりしています。海に魚類の多いのは言うまでもないが、川には鮎がたくさんいるし、池には鯉がいくらでも育つし、鳴戸蜜柑は枝が折れるほど実るし……。」
 中途で、彼自身、話の空疎なばかばかしさに気づいて、口を噤んだ。
 千代乃は訝かしげに彼の顔色を窺った。
「淡路島もいいけれど、こんどのこと、うまくいきそうですよ。」
 彼女の計画はだいぶ見込みが立っていた。
 ある女学校の近くにある小さな文房具店が、店を閉めることになっているが、その店なら、彼女の資金で譲り受けられそうだった。経営がうまくゆくかどうか分らないが、とにかくやってみてからのことである。
 これに、彼女はいちばん気乗りがしていた。二つの根拠があった。自分で商売をしてもいいし、働きに出てもいいと、あちこち物色してるうちに、敏子が勤めてるデパートで、文房具売場のひとが一人やめたので、そのあとなら、はいれるかも知れなかった。次に、先達ての人形の店の夢のような話で、伯母さん親子が作る人形を売るのも、楽しいことに思われた。その二つを、一緒にまとめて考えたのである。小さな文房具店だが、きれいに飾り立て、普通の文房具の外、千代紙だの小箱だの、女の子が好きそうなものを取り揃え、ことに人形、大小さまざま、和洋さまざま、伯母さん親子が作ったものは勿論、硝子棚に並べ立てるのである。文房具にせよ、その他のものにせよ、仕入れが大切だというけれど、幸に、長谷川の兄が政治上の関係から、その方面の卸商たちに知り合いがあり、便宜をはかって貰えるはずだった。そのことは長谷川が引き受けていたのである。
「お兄さんの方、どうなんでしょう。」
 長谷川は眼をしばたたいた。
「早くして下さらなければ、困るわ。」
 長谷川は苦笑したが、心のうちでは驚嘆の思いだった。人形の店、デパートの文房具売場、それから、人形を看板の文房具店……女の知恵というものは、なんと着々と進んでゆくことか。
「大丈夫、引き受けましたよ。早速、兄に頼んでみます。」
 彼も本気にならざるを得なかった。文房具店など、他愛ない夢か気紛れの冒険かに過ぎないと思われたのに、彼女はもう真剣になっていた。
 どういう風に兄へ頼んだらよかろうかと、彼は考えた。と同時に、千代乃との関係も多少は打ち明けなければなるまいと、覚悟をきめた。
 その覚悟が一挙に鍛え上げられるような、事件が起った。
 夕刊新聞を見ているうち、長谷川は飛び上るほど駭然とした。
 片隅の小さな記事に、怪死事件としての報道がのっていた。――昨日の夕刻、水道橋の国鉄電車のホームから軌道に落ちて轢死した紳士があった。名刺によって柿沼製菓会社の社長柿沼治郎氏と分った。過失死か自殺か他殺か判明しない。それについては何等の手掛りもなく、謎の死と見られている。
 そういう意味の小記事で、どの夕刊も大同小異だし、全然掲載していないのもあった。
 長谷川は異様な衝撃を受け、次で、異様な冷静さに落着いた。
 彼はある新聞社の社会部記者に知人があった。その男に逢って、該記事を示し、真相が分ったら知らせてくれと頼んだ。
「あなたの知人ですか。」
「ええ、ちょっと知ってる人なんで……。」
 新聞記者の好奇心というものは、ある面では極度に強く、ある面では極度に淡い。長谷川は何の疑念も持たれなかった。
 然し、彼自身、疑念を懐いた。柿沼の死が他殺で、自分がその共犯人だとの、想像上の奇怪な疑念だった。彼は夜遅くまで酒を飲み歩いた。
 翌日午頃、彼は記者を訪れた。真相は分っていなかったが、当時の情況だけはかなり明らかだった。柿沼が轢かれたのは下り線だが、その時丁度、上り線に電車がはいって来、ほとんど同時に下り線にも電車が来た。高架線の階段を上りきったところのホームに、柿沼は立っていたが、そこからは下り電車の来るのは見えない。客は混雑しているし、電車の轟音は響いていた。柿沼は電車の来る直前に軌道へ落ちて轢かれたのだが、自分で飛び込んだのか、過って墜落したのか、人に押されて落ちたのか、それが不明で、人に押されたとしても、故意か偶然か不明なのである。尚、柿沼の身辺の事情によれば、自殺とは思えないし、製菓会社の内部に複雑な事態が伏在するらしく、意外な不正事実の端緒が掴めるかも分らないと、当局はその方へ目を注いでるらしい。製菓会社といっても、小規模のもので、目下半ば休業状態だが、それが却って怪しく、また柿沼は冷酷無慈悲な男だとの評判である。
 それだけの報告だったが、長谷川はそれで満足した。他殺だ、と彼は直感した。
 彼はすぐ千代乃を訪れた。久恵が家にいるので、外へ誘いだし、タクシーを拾って、新橋近くの小料理屋へ行き、狭い一室に通った。
「どうなすったの。」と千代乃は尋ねた。
「昼食をたべましょう。」
 彼は酒を誂えた。
「昼御飯じゃなくて、お酒でしょう。どうかなすったの。なんだか心配だわ。」
 彼は黙って、前日の夕刊を差し出し、記事を指し示した。彼女はそれを見落してるらしく、怪訝そうに覗きこんだ。
 彼女は顔色を変えた。身を反らすようにして、長谷川を見つめた。視力の強い、突き刺すような眼付きだった。
 沈黙のうちに、長谷川は一瞬、彼女が遠くにいるのを感じた。彼から遠く離れ去った、ばかりでなく、彼女はもう完全に柿沼から遁れ去っていた。そして遠くから、彼をじっと見守っている。
「僕は犯人じゃありません。」と長谷川は言った。
 彼女はちょっと眼をつぶり、その眼を彼に近々と見開いた。
「それを信じますわ。」
 彼女は手を差し伸べて、彼の手を執った。彼は手先に力をこめて握り返し、安らかな息をついた。
「もう文房具店など、やめましょう。そして……僕と結婚して下さい。」
 彼女は眼を伏せて、黙っていた。
 彼は虚脱してゆくような自分を感じ、その感じに身を任せて、眼をふさいだ。





底本:「豊島与志雄著作集 第五巻(小説5[#「5」はローマ数字、1-13-25]・戯曲)」未来社
   1966(昭和41)年11月15日第1刷発行
初出:「女性改造」
   1950(昭和25)年8月〜12月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:門田裕志、小林繁雄
2006年12月30日作成
青空文庫作成ファイル:
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●表記について